土手猫の手

《Plala Broach からお引っ越し》

「糸瓜の庭」

2021-12-12 11:21:36 | 短編小説(創作)

   「糸瓜の庭」

                              土手 千畳


「まじか」
「っしょ?」
「土、付いてないな」
「洗うでしょ普通」
「本物?」
「そりゃ個体番号付いてる訳じゃないし、見た目同じだし、てか覚えてないでしょ」
「こんなに、大きかったっけか?」
「もういいって。来たぞー純子ー。純子ーんこー、んこー純子ちゃ、だから、純子ちゃん白目恐いって」
「誰も居ないと思って。そこ、テーブルの上空けて」
「直兄は?」
「自動車教習所」
「取るんだ、あまり関係無さそうだけど。店継ぐとかじゃなかった?」
「継ぐって言っても何れってことだから、学生の内に取って、就活に備えるってか」
「そうそう店ってさ、月曜は盲点だったな、これで夏休みが終わっても」
「実、西瓜出して」
「え?」
「いいから」
「いや、食べちゃ駄目でしょ? 何か入ってる可能性も無くはないし、てか、お前重くないの?」
「重くなくはないけど」
「置いたら、実、また仕舞って。いいから!」
「何、なんなんだよ」
「これで鑑識に回されても大丈夫だから」
「……」
「冗談よ」
「真顔で言うな」
「こぇーよ」
「それだったら触るだけでいいだろ、わざわざ出さなくても」
「引き取るなよ、冗談だろ」
「不自然じゃない作業の過程が見えるって大事じゃないの」
「いやマジじゃん。こぇーよ」
「そうよ、大体あんたがこんなもん寄越すから」
「俺の所為じゃないでしょ、俺はぱしりしただけで」
「西瓜抱えたあんたが店の扉開けて入って来た時、声上げそうになったんだから」
「いやいや、こっちが『早く冷蔵庫開けてっ』って言ってるのに固まったままだったじゃない。ま、変なこと口走られてもアレだけど」
「このタイミングならあれだって解るじゃない。まさか」
「聞いてなかったのかよ? 話ついてるって言ってたぜ」
「ショーケース空けとけって言われただけだもの掃除だと、まさか」
「まさかのアレです」
「信じらんない」
「結局、誰の仕業か解らないままか」
「ああ。土地の管理会社に電話して聞いたけど知らないって返事で、見つけちゃった親父が仕方ないから引き取って」
「それが何でうちに回って来る訳?」
「腐っちゃうでしょ、いつ名告り出るか出ないか解んないんだから」
「返事になってないんだけど」
「ここしか無いだろ。こんなデカイの丸々入れておけるスペースなんて、俺んとこには無いの」
「通報、しなかったのか」
「一応写真撮って、連絡先、但し書き置いて。ビーチボールの大群の方はダンボールに入れて町会の倉庫に入れたらしいけど、そっちはともかく西瓜は誰も名告り出て来なかったら不法投棄で処分するしかないか、って」
「不法投棄か、そうか、そう見えるか」
「あたし達しか知らないから本当のこと」
「遺失物で届けられてたら、ちょっとヤバかったかもな」
「ビーチボールの方よね、本当に鑑識に回されたりでもしたら」
「お前ら、やめれっての!」
「面白いな、こいつ」
「でもあの後インスタレーションだったのかしら壊しちゃったのかって、ほんとはちょっとドキドキしてた」
「あんな更地一面に並べたのが俺達の中の誰かだなんて、いくら西瓜の種飛ばした後だって言ったって、普通だったら考えないけど」
「あの話の後じゃな。てっきりまた犯人は純子かと」
「あれはあんたたちが勝手に勘違いしただけでしょ。こっちだって、また男子特有の馬鹿みたいなことを、って」
「『特有』ってゆう?」
「だけど、犯人が名乗り出て来たらまた別だけど。これはもうどうこう手を出せないし、取り敢えずこのまま廃棄を待てばいいんだな」
「そう。だから西瓜はこれで終了。さっさと本題済ませて、さっさと帰って」
「そんなこと言う?」
「コーヒー加糖? 微糖? ジュース? コーヒー牛乳?」
「コーヒー微糖で」
「Me,too.」
「生意気」
「俺? 俺達? 俺?」

「あー涼しい。クーラー点けといてあげた?」
「全く、何の為の物干し台だったんだか」
 二日も続けて暑いの我慢したっていうのに。
「あれで懲りる筈だったのに、守の奴、定休日に気がつくなんて」
「ふふ、当てが外れたわね。いいじゃないの空いてるんだから」
「店でなら別に、あたしは構わないけど。一人?」
「後楽園のサウナ行くって」
「コーヒー? ジュース? コーヒー牛乳?」
「何? 麦茶有るでしょ。あ、でもどうせだからコーヒー牛乳貰っちゃおうか。純子も飲むでしょ?」
「さっきコーヒー貰ったからいい」
「いいわよ、翔ちゃん先週来たばかりだから。急がなくてもまた買って来るし」
 小さい男の子は今、翔くんくらいか。
「甘い。美味しい。皆好きだったわよねぇ」
「『好きなの一本取っていいぞ』って言われるの、それ目当てで切る必要も無いのに、うち来てたって」
「すぐお隣りだものね。『これ以上切ったら坊主頭になっちまうぞ。いいから好きなの飲め』ってねぇ。そうだったわねえ」
 隣りじゃなくても、あいつなら来ると思うけど。
「で、同窓会は? 決まったの?」
「何人かまだ返信が無いから、その人と仲良かった子に連絡して貰ってるとこ。まだ『やるけど、どう?』って段階」
「いつ頃の予定なの?」
「早くてシルバーウィークか、準備不足で間に合わなさそうだったら冬か春になるかもだけど、先生の都合も聞かないと」
「来年、再来年になると、また受験やら今度は就職する人も居るだろうし、早いわねえ」
 進路か……
「卒業したらまた、今度は中学の同窓会って、まもっちゃん」
「やめてよ」
「2020年なら夏には東京オリンピックも有るし、卒業祝いを兼ねて、どう?」
 どういう関係よ。
「無理。エンドレスで幹事とか、無視無視!」

「でさあ、田荘と仲良かった奴って誰か知ってる?」
「昔、四年生の時? 何かの行事か何かで皆で田荘君ちに行ったこと有ったじゃない」
「そんなこと有ったっけ」
「九段下の方?」
「そう。道路からは見えないけれど、中に立派なお庭の有って」
「あー、なんか灯籠とか置いて有るような家か」
「せっかくお庭見せてくれるって言われたのに男子は、さっさとゲーム始めちゃって」
「そうそう、あいつんち Wii 有ったんだよ」
「俺もマリオしか覚えてないな」
「ひどい奴ら」
「クラス替えで一回一緒になっただけなんだし、そんな、まあひどいけど」
「おとなしめな奴だったからな」
「あんた達と違ってね」
「2組の誰か連絡取れないの?」
「解らなかった他の何人かは何とかなりそうなんだけど、田荘だけちょっとな」
「直(ちょく)に家に行ってみるか。覚えてる?」
「いや、いまいち。純子は?」
「多分……」

 あまり通らないとこって、本当に通らないから。多分、確か、この辺に新聞配達所が。有った。この先、ああ、これだっけ。ん? 〝小関〟? え、田荘君、引っ越した?
 えっ、本当に? 外からじゃ解らないけど、嘘、ほんとに?
 どこに……誰か近所の人で知ってる人、でもまさか、いきなりピンポンして聞くのも変だし。どうしたら……
 新聞屋さんなら、知ってるかも。でも、もっと聞き易そうなお店屋さんとか……ここは新しそうだけど、あれ? 〝すずかけ〟って昔有った、すずかけ? 無くなってからだいぶ経つけど、また始めたの、あ。〝田荘ビル〟?
「いらっしゃいませ」
「……こんにちは」
 やっぱりカントリー雑貨。前はもっと地味な感じだったけど、ペールグリーンが綺麗。
「何かお探しのものでもございますか?」
「あ、いえ。あの、こちらって昔有った〝すずかけ〟さんですか?」
「あ、ご存知でしたか。ええ、一時期、だいぶ長いこと閉めてましたけど、昨年また始めまして」
「小学生の頃、時々友達と来てました。神保町って、可愛いお店ってあまり有りませんよね」
「今は本屋さんの隅で色々な雑貨置いてあったりしますけど、私達の頃は男物ばかりで本当に何も無くってね」
「あの、こちらのビル田荘さんって言うんですね」
「え?」
「あの、すぐそこに住んでた田荘さんって、このビルのオーナーさんとお知り合いとか、ご親戚だったりしますか?」
 あれ、何か急に険しい顔になった?
「田荘さんが居ないみたいなので、ご存知ないかと。どこか引っ越されたのかと」
「何で、そんなことを聞くんですか?」
「え、あの私、小学校の同級生で、今度同窓会が有るので誘いに来ただけなんですけど」
「ああ……」
「え? え!?」

「度々店先借りておいて悪いけど、同窓会先送りにするから」
「なんか有った?」
「清水寺がさ、この間の教え子の結婚式の後、帰りに乗ったタクシーがもらい事故に遭って今鞭打ちで加療中なんだって。だから、ならば延期にします。またご連絡します。ってことになった訳。2組の梶谷先生にはまだ連絡してないんだろ?」
「やります、だけじゃしょうがないからな」
「大丈夫なの?」
「見てないから。大したことないって言ってたけど、多分それなりに、声は元気そうだったけど。冬は辞退するって言うから来年の春辺り、なんか気がそがれるけど、仕方ないしな」
「ほぼほぼ連絡先も整理出来たし、これで一番面倒なことは終わったしな」
「で、田荘はどうだった?」
「それが、引っ越してたって言うか」
「言うか?」
「夜逃げ、」
「夜逃げっ!?」
「嘘だろ」
「マジか、どこ情報?」
「行ったら表札が変わっていて、近所見てたら『田荘ビル』ってビルが。田荘(たどころ)って珍しい名前じゃない? 持ちビルか、親戚か何かかと思って」
「うっわ、やるなぁ」
「一階のお店に見覚えが有ったから、入って何げに聞けるかと。でも……」
「あいつ勉強出来たから、一人、中学私立に行ったから解んないんだよな。どうしたんだろ、知り合いが行方不明ってきついな」
「叔母さんだって人に『同窓会の連絡したいから、また訊ねてもいいですか』って、こんな状況でそれどころじゃってのは解ってるんだけど。でもどう言ったらいいのか、そう言うしかなくって」
「返しようがな、かと言って、他人(ひと)の家のこと根掘り葉掘り聞けないし」
「なんか、びっくりした。なんか」
「状況が解らない分、余計にな」
「……」
「そうか、じゃあ、そうか。田荘のことは何か解ったら教えて。じゃあ、本当に延期ってことで、今回はここまでってことで。また近くなったら月曜使わせて、おじさんにも宜しく言っといて」
「お邪魔しました」
「はーい。二人共、気をつけてね」
「はー、満開だな。この花、てか木か、毎年ちゃんと咲くのな」
「何て木?」
「槿(ムクゲ)。竹橋駅の辺りにも同じ底紅が咲いてるし、一本手前の通りには白一色のも有ったと思ったけど、薄紫のもどこかに」
「凄い知ってんな」
「いつの間にか有ったよな、これ」
「……挿し木で育てたから。田荘君ちに咲いてたの貰って帰って」
「へぇ、あの時?」
「うちは地植えが出来ないから鉢植えだけど」
「こっちのプランター、純子の糸瓜の奴だろ。今植えてるの何?」
「月見草。黄色い花だから本当は月見草じゃなくて大待宵草だけど。去年、母さんがどこからか自生してた花の終わった後の種を取って来て植えたんだけど、日が暮れると名前のとおりちゃんと咲くのよ、見てる目の前でぽかっと」
「取って来て大丈夫?」
「オオマツヨイグサって言うくらいだから草なのよ。そこらに生えてる、ぺんぺん草とかタンポポと似たようなもん」
「こいつも結構背高いんだな。糸瓜も蔓が伸びるから、ちょうどこの、嵌め殺しじゃないな、何て言うんだ、この金格子?」
「面格子」
「よく知ってんな、そんなこと」
「リフォームの話出た時、カタログ見たから」
「こいつにいい具合に絡まって、純子の結構生ったんじゃなかったっけ。うちなんか家と塀の間のほっそい通路にフェンス立てかけてだったから、うらなりであまりいい奴取れなかったからな。お前は?」
「面倒で適当に物干しの一番奥の竿にネット通して、その下に置いといたから日当たりは良かったけど、別にそれなりに。そういえば田荘んとこ」
「いっぱい生ってた。家の前まで行って思い出したんだけど。プールの時に、夏休みの宿題の観察日記の糸瓜がいっぱい生ったって聞いて、皆で見に行ったんだって」
「ちゃんと緑のカーテンになってたな」
「あんな沢山の糸瓜、どうしたのかな。全部タワシにしたとか」
「そんな、配るほど出来たわよ」
「さっきの話だけどさ、『リフォーム』って、するの?」
「考えたらまだ、直兄が継ぐ時でいいかってことで、やめたけど」
「美容室と違ってレトロがさ、『おしゃれ』より『らしい』が、今時なんじゃない? これ、このサインポール、俺昔っから好きでさ、ずっと見てられる」
「それは解る。これ無いと理髪店として認めないってか」
「それそれ。理容室じゃなくて理髪店」
 うち、〝バーバー・カトウ〟だけど。

「外出てからの方が長かったみたい。中入れば良かったのに」
「風出て来たから、そんなに」
「中止になって名残惜しいのかと思った」
「そういう訳じゃないけど、話の流れで、槿と、月見草と、あと糸瓜の話も」
「意外。あの二人植物男子なの?」
「訳無いじゃない」
 最後はサインポールだの、認めないだの。
「花よりサインポールが大好きなんだって」
「ふふ、ならもっと来てくれてもいいのにね」
「普通に引く」
「なんで? でも、もう高校生だものね。普通に美容室に行きたいわよねぇ」
 生意気。「理容室じゃなくて理髪店」とか。
「だけど、先生も残念だけど、田荘さん心配ね」
「二人には話さなかったけど、すずかけに居た叔母さんって人が割と色々教えてくれる人で。プライバシーを、そんなこと他人(たにん)に話してもいいのってくらい、この個人情報保護の時代に危機管理が緩いってか。親戚の人も皆少しずつ援助してただの、自分も貸してて、もう都合つけてあげられなかったとか、そんなこと聞かされても。最初『田荘さんのこと知ってますか?』って聞いた時も何か急に警戒されちゃって、負債の肩代わりか借金取りの関係かで何か調べてるのかと思ったみたいで、いくら何でも高校生がそんなことしないでしょ。見れば解るでしょ」
「負い目が有るから、不義理をしたって。言い訳じゃないの、あんたみたいな子供の前で口にしてしまう程に気に病んでるからでしょ」
「それは、口に出して楽になりたいってことと違うの?」
「仮にそうであっても、それで忘れられる訳じゃないでしょ。肯定して欲しい訳じゃないのよ。だから何か言ってあげなくても『そうですか』って聞いてあげるだけでいいの、そんなことしか出来ないんだから」
「聞かされる方の心の負担は?」
「そうね。人徳だと思って。甘んじて受け取るしかないわね、この人は受け止めてくれそうだと思われたんだって」
 なんで、高校生相手にそう思うんだか。
「突然で、向こうも驚いたのよ」
「そこは否定しないけど」
 同じなのかもしれない。田荘君ちで貰った槿。真夏日の暑い日だった。花の付いた枝を何本も貰って嬉しかった。あんまり綺麗で、帰るまでに信号で止まる度に中を覗いて顔を近づけた。そしたらその中の一つの紅い色の中心に、色は覚えていない、しゃくとりの形で動く虫が。顔を近づけていたから驚いて、思わず花を落としてしまった。虫は転がり落ちてアスファルトの上に投げ出されてしまった。枝の切り口に水を含ませた綿が有ったのに、とっさに思いつかなかった。あの後、すぐにやったとしても気休めで、お湯になるだけで役に立たなかったのは解ったけど。自己弁護。
 私が花を欲しがらなければ、あの虫は田荘君の家の庭でそのまま蝶か、蛾かもしれないけど、普通に生きていける筈だった。あの時のあの虫の姿を忘れることはない。ひどいことをしてしまった。今でも思い出す。

「守、それ」
「インスタレーション、例のまた」
「ええーっ!?」
「あ、嘘嘘。今度の水曜、夏休み終わる一日前の30日、夏祭りやるから、その時振る舞う用」
 ほんと、一度締めてやろうか。
「だから、そこのインスタレーションの方、出すけどどっか置いとける?」
「どうする気」
「代わりにこれを、食べる分だからそこに入れて。そっちは不法投棄ってことで、でもただ廃棄するってのも何だから有効活用しようと。スイカ割りに使うことにしたから」
「スイカ割りに。結局、誰も出て来なかった訳ね」
「一個じゃ足りないだろうから前日にもう一つ買って来て、二つに切ればうちの冷蔵庫にも入るから。これはまた、そこ入れさせて」
「いつ決めたの?」
「二日前。親父に提案したら、もう夏休みも終わるからすぐってことで話をつけてくれて町会から予算出すってことになって。場所はきちんと片付けるの条件で裏の空き地を使っていいって取り付けたから、手書きのポスター一枚貼って、あとは口伝えで、だからヨロシク」
 へぇ。
「ああ、あと、俺も思い出した。俺達も糸瓜一本ずつ貰ったって。女子が先に帰った後、田荘んちのおばさんが、男子にも、ってくれたんだよ。女子が花貰って行ってくれたのが嬉しかったみたいで。田荘に悪いくらいのでっかいのをさ。怒ってないと思ったけど、どうだったんだろ、がっかりしたのかな。会えたら、聞いてみるか」
 そうなんだ……
「じゃ、宣伝ヨロシク」
「聞いた? 夏祭りのこと」
「さっきね。さすが、まもっちゃんね」
「そうね」
「あら?」
 別に、そういうとこは知ってるし。

「協議の結果、優勝は見事スイカを二つに割った美優ちゃんに決まりました。皆さん拍手を!」
「惜しかったね。泣かなくていいんだよ、お姉ちゃんたちは年長さんだから力が有るんだから。次はきっと割れるから、ほら、お兄ちゃんが泣くと希ちゃんも泣いちゃうよ。泣き顔の写真になっちゃうよ」
「これから集合写真撮ります、それが終わったら床屋さんの前に行ってスイカ貰ってください。急がなくてもいっぱい有るからね。あと、食べ終わった皮はビニールのゴミ袋に入れてください。花火は6時半からです。ここじゃなくて、さくら通りでやります。小さいお子さんはお兄ちゃんやお姉ちゃん、お母さんやお父さんや、誰か大人の人と一緒に来てね」
「こんばんは」
「あら、元気してた? って、ついこの間会ったばかりよね」
「町会違うけど、こいつも混ぜてやって、当事者だから」
「やめろ馬鹿っ」
「こいつ面白いっしょ」
「なんで? いいわよ臨時の夏祭りなんだもの全然。はい、西瓜。花火ももう始まるから参加してって」
 遠慮してる風に見えなくもないけど、さっさと受け取りなさいよ変だから。
「西瓜か、いよいよこれで終わるか」
「成仏しろよ。化けて出るなよ」
「やめなさいよ」
 解ってるくせに、全く。

 匂い。花火の匂い、大きくなると恥ずかしさも手伝って表に出てやらなくなったから忘れてた。庭が有ったら気にせず、いつでも、母のそばで花火を見ていた翔くんが小走りにこちらに向かって来る。
「あっちで大きいお兄ちゃんたちが、ねずみ花火やるって」
 走りながら頷く格好はまるで、大きく跳ねるまりつきの球みたいだ。すれ違う、後ろ姿を見送って家の方へ戻る。
 縁台の上に畳んだブルーシートが置かれてる。西瓜は残り二切れと三切れ。皮の入ったゴミ袋の中で、お終いだねと、夏祭りの思い出へと変身を遂げた、出所不明の西瓜が顔を覗かせている。
「小さい子の声っていいわね」
「線香花火まだ有る?」
「有るわよ、あと一つ。あっ」
 散り菊の途中で母の玉が落ちた。
 横にしゃがんで火を点けた。
「次はいつ出来るかしらね」
「花火はいつでも出来るじゃない」
 落ちた花火の終わりを見届けて、立ち上がった母が風上に廻った。
「二百十日が近いから」
 振り向くと、母は背を向けて明後日の方を見ていた。

                                                                                                       了


2021/01/27起稿。
2021/04/30脱稿。
2021/12/11・12部分修正。

 

※関連記事。
「西瓜の園」
https://blog.goo.ne.jp/doteneco-cm/e/826e0ee4f27132817f1692b83334150d

例の如し
https://blog.goo.ne.jp/doteneco-cm/e/65074b2c1b0d6dceb3c1f643b3b43ec5


「トマソン」

2014-11-14 08:55:00 | 短編小説(創作)

   「トマソン」

                                本居 千架     

    ー トマソン ー

「何、これだけ? 他の荷物は?」
「引越し屋の『一時保管』頼んだ」
「何なら、このまま居たら」
「いやいや、仏間を占拠てのもね、ここ客間兼用だし」
 客間と言っても、年に一度親戚が線香をあげに入る程度のことで空き部屋には変わりない。今でこそ仏間のこの部屋も元々は姉が戻る場合に備えてキープしておいた部屋であって、姉もそれは解っている。
「けどまさか、移転先でまた再開発に引っかかるとはね。ま、そのおかげで今度こそあの、とちのき通りのマンションに入れるわけだから、結果オーライって言うか御の字って言うか」
「取り壊しなら敷金も返ってくるだろうし、引っ越し代も立ち退き料も出たんだろ」
「退居と入居がずれるから引っ越し費用がかさむけどね。悪い、これいい?」
「ああ、今どかす」
 前の住人が出るまでの約一ヶ月、姉は「間借り」と断って、この住んだことの無い実家に帰ってきた。
「ずいぶんと扱いに差があるじゃない」
 クローゼットに入れっ放しになっていたプラケースの中から、上目遣いに、うらめしそうに覗いてるソフビを指して姉が笑っている。
「コレクションケースに入れてやんないの? この、ピグモン? ガラモン?」
「ガラモン」
「なんだ、ピグモンじゃないのか。かわいそう」
「何が」
「やっぱピグモンでしょ、ガラモンじゃないよね」
 姉は、きっとピグモンだったならもっと違っただろう手つきで、取り出したガラモンを逆さにしたりひっくり返したりしている。
「最期ね、かわいそうなんだよね、ピグモン。そうかガラモンなのか。そうかー、なら、まぁいっか、別にここでも」
 使い回しの怪獣スーツでも、ピグモンなら、かわいそうだってか? ガラモンは残念な奴じゃないぞ、別に。
「ほんと。あんたは一時期なんにでも書き込んでたよね、自分のものって」
 つっこみの様(さま)でガラモンで人を指した姉の手が、ふいと止まった。
「M、Kか。平仮名じゃないんだ。まあ足の裏には、二つの方が収まり易いんだろうけど」
「けど、何」
「これじゃもしかしたら意味無かったかもって、仮定の話。もっともあたしは、おもちゃに名前入れたりしないけど」
「何それ」
「先に『実』有りきってこと。知らない? でも産まれたのがあたしだったから、太陽の惠のめぐみにみの字を足した惠実に最初しようとしたらしいんだけど。でもそれだと二人ともM・Kになるじゃない? 紛らわしいからそれはやめようって、て、だいたいまだ産まれてもいないのに、次が男とは限らないのにね。まあ、あたしは朱実で良かったけど」
「なんで『実』なわけ?」
「さあ。なんだか、自分が晶子で自分は子の付く名前で嫌だったとか、やたらいきり立ってたのは覚えてるけど。ずいぶん昔のことだし、あたしは自分について聞けたから別にもう。やっぱり、上が日下だからじゃない? 日の下に実る実、って?」
「なんだそれ、安直な」
「何、気に入らないわけ? 日下実」
「字面がさ、簡単て言うか簡素って言うか、小学校の低学年で習う漢字だからさ。のくせ、まず一発で読んでもらえないだろ。あげく馬鹿がヒゲミだの、『ヒゲミちゃん』だの」
「あっはは。そうだそうだ、母さんも『昔、ヒミコってあだ名付けられた』って怒ってたんだ。ヒミコっ、ヒミコなら別にっ、いいじゃないね」
 笑いながら「別に」かよ。
「そっか。日が三つで、ヒミコか。なるほどね」
「何、また」
「いや、結婚したおかげで今や、女王から、ヒヨコになっちゃったのかって。あ、これ内緒ね」
 こいつ。完璧、面白がってる。
「自分はいいよな、朱実で良かったんだから」
「おかげさまで。でも変えたところで結局、今度は親子で同じなんだよね。自分となら構わないのか、なんか嘘くさいな。いや、でもあの人、天然て言うか、なんて言うか……」
 いいよ別にそんなこと、同じだろうと同じじゃなかろうと、イニシャルなんかどうでも。くそっ、不公平だな。好きなほうとか、候補からとか、後からマジ自分で選べるならいいのに。全く、自分の名前なのに自分の自由にならないって、間違いなく生まれて一番最初に背負う不条理、……だ、
「何」
 俺の部屋の前で、ドアを開けて待っている姉が訝しげな顔でこっちを見ている。
「理不尽とか、不条理だとか、そんなとこ?」
 マジっ!?
「それを言うなら、あけみって言って先ず『明るく美しい』を連想されて、てのも似たようなものよ。何考えてるか解るし、こっちはそっちと違って期間限定じゃないし。まあ、親の自己満のキラキラ? トンデモネームを一生てのに比べたらね、って比べる次元の話でもないけど。別に、さすがにガキじゃあるまいし……、それ、まさか職場での話じゃないわよね」
「あたりまえだろっ。ガキは守さ。あいつ、いつまで経ってもバカだからっ!」
「守って、本屋継いだの? 会ってるんだ」
「地元だから、嫌でも見つかるんだ」
 言い終わるのを待たずに、プラケースをぶら下げたままの俺を尻目に、姉は部屋に入りコレクションケースのガラス戸の前へ真っ直ぐ向かって行った。
「ねえ実くん、実くん。これほんとにピグモンじゃないの? ピグモンてことでここに飾らない? どうせ同じなんだし」
 俺は姉の立つその脇を選んで、これ見よがしにケースを下ろした。 
「ガラモンとして飾るならいいけど」
「頑なだなー、君。ソフビの名前に、そこまでこだわるか」
 そっちこそ。そっちだって、ピグモンとガラモンは違うって思ってるからだろ。
「ま、いいや。君、プラにお帰り」
 姉は、充分なスペースを確保した後、今度は両手で丁寧にガラモンを横たわらせた。
 だからー、おんなじだからって、こいつはピグモンじゃないんだって!
「さて、ひと休みしよっ。ケーキ買っといたから」
 俺の、無言の叫びをあっさり無視した姉は、意に介す様子も見せずそのまま部屋を出て行った。
「こうちゃー? コーヒー?」
「モンブラン?」
「無かったー。アップルパイと、サバラン」
「なら紅茶」
「私はコーヒー」
「解ってます」
 冷蔵庫を閉める音がして。パタパタとスリッパの音を立てながら、大きな箱の上に皿を載せた姉が居間に入ってきた。
「なんかレトロな人形の絵だな。どこ?」
「近江屋さん。柏水堂、今日閉まってたから」
「あんた、なかなか戻ってこないと思ったら、淡路町まで行ったの? そこらのコンビニで間に合わせればいいのに」
「『セ・アルジャン』が売り切れだったら林檎って決めてたのっ。神田ベーカリーの『ポム』は無くなっちゃったし」
「神田さん、もう無いわよ」
「えっ? 嘘っ! なんで!」
「鳴ってるぞ」
「あぁっ、ちょっと待って」
 言うが早いか慌ただしく出て行った姉は、やかんの音を止めると、どうしたらと思えるスピードでお茶を淹れ戻ってきた。
「嘘でしょ、いつ?」
「引越ししたのは昨年末だけど。おうちが取り壊されたのは、年明けてからよね?」
「え? ああ、そうかな」
「なんでー、教えてよ! 密かにポムの復活を期待してたのに。綿徳に伊勢屋さんに神田さん、なんで皆無くなるわけー」
 皆……食べ物ばっかだな。
「ああ懐かしいわね、綿徳。小豆のモナカアイス好きだったわ」
「バニラよ、練乳味のバニラ。ちょっと氷が混ざってしゃりしゃりしてた」
「やっぱ伊勢屋だろ。あの辛めの醤油だれの焼き団子は、甘ったるいみたらしとは次元が違うって言うか、どこにも無い」
「そうっ、他には無いのよ! 引越してどこか他でお店開いてるとか聞いてない?」
「聞かないわね。仕舞う前『やめる』って言ってたし、伊勢屋の若旦那さん」
「神田さんは?」
「神田さんはご主人、おじいさんがね、身体悪くしてからケーキ作らなくなって、パンのほうは変わらずやってたけど、どうも体調が思わしくないみたいで。あそこは一人息子さんがお勤めに出て結婚して別に住んでるから後継ぐ人が居ないでしょ。やれるうちはって、ご夫婦で長いこと頑張ってこられたけど、お店開けてるとなかなかお医者さんにもかかれないから息子さんが心配されてね。お家も古くて年寄り二人っきりじゃ危ないし、前々から立ち退きの話も出てるんだからこの辺で、って言われたとかで。それで入院された、されるのを機にね、ここ引き払って一緒に住むことにしたんですって」
「ケーキやめちゃってたんだ。そう言えば前リクエストした時、ポムはチョコや他のケーキの切れ端がある程度たまらないと作れないから、って言われたんだけど。今考えると、たまらないって、それってその頃からケーキ自体の数が減ってたってことよね。確かに総菜パンも種類が多かったから、大変っちゃ大変だったんだろうけど。でもやめちゃうって、えーっ、ほんとにもう二度と?」
「前居た職人さんもとうの昔にやめちゃってるし、他に作り手が居ないんだから、しょうがないでしょ」
「蕎麦屋じゃないけど、暖簾分けみたいなのも無かったわけ?」
「神田さんは元々はお菓子屋さんだからね、ゼリービーンズや薄荷糖や、菓子パンなんか売ってた」
「ああ、量り売りのね。駄菓子屋によく有る四角い、ガラスの蓋を開け閉めするケースがずらっと並んでた。実、覚えてる?」
 俺は口に含んでいると言わんばかりに素早く首を振り、含んだふりをしたままカップに手を伸ばして、お茶を飲み干した。
「そのガラスの陳列ケースを半分にして、代替わりした今のご主人が自分でパンを作るようになってケーキ置くようになって。『商店』から『ベーカリー』に屋号が変わって、そのうちに、お煎餅の入った地球瓶もガラスケースも無くなって」
 俺は覚えていない、あのガラスケースがいつ無くなったのか。ばら売りのバターボールや十円のフーセンガム、色とりどりのグミ。いつも目移りした、そのくせ同じものばかり選んでた。なんでもっと……
「ずいぶんと、昔のことね。パン屋さんも八百屋さんも昔は何軒も有ったけど、神保町もすっかり様変りしちゃったし。神田さんのあの辺りも近隣と合わせて何か、計画が有るのかもしれないわね」
「帰りに近く通ったけど別に、取り敢えずって感じのコインパーキングは、ぽつぽつ有ったけど。淡路町のほうは、近江屋さんの向かい側は通りのずっと前(さき)まで白い鉄板で覆われてて、かなり大きな再開発みたいじゃない。うちみたいに、あれ? あの一画って、まさか淡路公園にまで掛かってたりとかしないでしょうね」
「淡路公園なんて、あんた知ってるの?」
「ホームは錦華公園だけど、西神田公園だって神田公園だって皆遊びに行ったわよ」
「淡路小も確か、小川小と同じ時期に統廃合で閉校になったでしょ。錦華小は『お茶の水小学校』に名前が変わっただけで残ったからいいのよ。小川小の跡地は広場になって母校は無くなっちゃたし、西神田だってそう。どこも皆変わっちゃって、公園だって整備されて昔の面影なんて残ってないんじゃないの」
「あそこは錦華公園と同じで台地だから、坂に山が残るみたいな形は変わってないのよ。もし、引っ掛かってたら」
「淡路小の跡地利用だとすると、公園も一緒じゃないの」
「ええーっ、やめてよ、せっかく戻ってきたのに」
「最近はどこもかしこも、ちょっと見ないうちに更地になってたり、お店だって入れ替わりが激しいから覚える前に変わっちゃったりするのよ」
「覚える前に上書きされちゃうわけか」
「上書き?」
「ああ、更新、更新。更新ってもコインパーキングじゃ更地と変わりないけどね。なんでだろう、見てないわけじゃないのに、更地になっちゃうと前何が有ったのか思い出せなくなるのよね。さっき見たとこだって、なんの跡だか解らないもの」
「更地も一軒ならまだ。まとめちゃうとね、駄目よね。思い出そうにも、うちなんか『ここ』ってさえね……」
 タワーマンションが建ち、路地や横丁が消滅した今となっては、昔の家並みを辿ることすらできない。
「それで、具合のほうは。入院て引越し先じゃなくて、あれ? そう言えば仮契約で御茶ノ水に行った時会ったの、やっぱり神田さんのおばちゃんだったんじゃ。坂下りてくる人が似てたから会釈したんだけど、目が合ったのにスルーされたから人違いかと思ってたけど。やっぱそうよね、忘れちゃったのかしら、まさか惚けちゃったとか」
「なに失礼なこと言ってんの。忘れたんじゃなくて覚えてなかっただけじゃないの、あんた顔薄いから」
「どっちが失礼よ」
「おばあちゃんなら、この間も、おうち跡の近くで見かけたわよ。お見舞いの帰りだったのかもね」
「ごまかされないわよ」
 神田さんにはあの日以来、会っていない……
 あの日から。あの日は、遠足の前日だった。あの時あいつがヒゲミなんて言わなければ。
「おれ、これ買うから、ヒゲミ、チョコ買えよ」
「えー、おれはラスクとキャラメルと、うまい棒って決めてんだから、守買えよ」
「三◯◯円超えちゃうからさ、だからさ。いいじゃん、ヒゲミちゃん」
「やめろよ」
「ひでみ君て言うの、ぼく」
「違う違う。ヒゲミ、ヒゲミ!」
「ひげみ?」
 違う。
「……、ヒゲミっ」
「俺はヒゲミじゃないっ」
「実で呼んで無視して、ヒゲミで返事するってどうよ。あんた人の話聞いてなかったわね。いいわもう、カップ貸しなさいよ、おかわり淹れるから」
「あ、あ」
 そうじゃない。
 あのあと。喧嘩して何も買わずに店を出た俺は、おばさんが夕飯のしたくで店先に出てこない時間にもう一度。おじさんは奥に居て、買う時に声をかければ良かった。
 俺は、手の届かない棚の上に有ったチョコボールを取ろうとして、手前に有ったケースに膝をついて、蓋を。
 怒られると思った。でも。
「どうした、手をついたの? 大丈夫か?」
 ガラスの割れる音で飛んできたおじさんは俺の肩を両手でさすりながら、そう言った。俺はただ頷くだけで、本当のことも、ごめんなさいも言えなかった。
 あれから、俺は神田商店に行かなくなった。覚えてないんじゃない。知らないんだ。俺の中では今でも、神田ベーカリーはお菓子屋のままなんだ。
「実。あんた明日、午前中健康診断って言ってたわよね。会社は? ご飯食べに帰ってくる?」
「何時に終わるか解らないし、適当にそこらで食べてそのまま行くよ」
 俺は、でかい声を張り上げてしまったばつの悪さを隠そうと、敢えて気にしない風に普通に返した。お茶は、なかなか戻ってこなかった。間が持てないと思い始めた頃、スリッパの音が聞こえてきた。
 姉は、俺を一瞥するとお盆を突き出した。促されるままカップを受け取ると、今度は目の前にスマホを突き出された。
「これ! あんた、こういうの好きでしょ」
「……目黒のマンション? レトロモダンは、そっちの趣味だろ」
「よく見なさいよ。壁。トマソンよ」
「よく解らないな、暗くて」
「しかたないじゃない。気がついたのが一昨日の夜で、撮り直してる暇なんか無かったんだもの。ここ、切妻屋根の形、見えない?」
「原爆か」
「お隣に有った古いお蕎麦屋さんの建物のね、もう完全に更地なんだけどシルエットだけ残ってて、要るならそっち携帯よね、サイズ落として送れるけど?」
「要るって、これじゃな」
「原爆を、要るだの要らないだの、あんたたち何言ってんのっ」
「ああ。この人には『トマソン』から説明しないと駄目ね」


 検診は一時間半程で終わった。昼にはまだ早い時間だったが、朝飯抜きの俺は開けている店を見つけて早々に食事を済ませた。午後の就業時刻には、電車の時間を差し引いてもまだ余裕が有る。俺は店を出て駅に向かった。
 御茶ノ水駅前の交差点から西に伸びる、かえで通り沿いには「超芸術トマソン」を定義づけるきっかけとなった三番目の物件、三楽病院の無用門が有った。本来の機能を失いながらもそのまま保存される、必要を必要としない必要を超えた存在。セメントで糊づけされた通用口は、旧館とともに無くなった。「無用門」は既に無い。かえで通りを背に、俺は茗渓通りに向かった。
 相変わらずだな。
 四角いビル群の中に有ってひときわ目立つ、御茶ノ水のランドマークとでも呼べそうな白い城。窓にステンドグラスのはめ込まれた昔は名曲喫茶だったというロシア風の白い城と、その外観の上にバリケードのように立ち並ぶ、およそクラシックとは相容れない看板群。LEMON画翠も天下の丸善でも、到底太刀打ちできそうにないこの、城と大衆居酒屋という違和感この上ない取り合わせも、もはや見慣れた光景だ、変わりない。
 変わりない。そうだ、上書きであっても中身が居酒屋に変わっても、名曲喫茶だった頃の姿を知らない俺にはこれがデフォルトなわけだから、変わってないと思っても間違いではない筈だ。さすがに、原風景と言ってしまったら昔を知ってる人には妄言と映るかもしれないが。いや、知ってるイコール思い入れが有るとは、限らないか。に、しても、せめて昔のピザ屋くらいで止めとけば、俺は原風景を後に、丸善、LEMONを通り越して駅の反対口に出た。
 聖橋を南に折れてニコライ堂沿いの坂を下りる。車道を挟んだ向かい側に遊休地を利用した青空駐車場と、見晴らしの良くなった東の空が、遠く、緑色の冠を載せた白い万惣の看板が見える。
 駐車場の奥に見えるカステラもどきは、屋敷の塀か。新しそうな明るい色は原爆の痕を消すために塗り直されたものかもしれない。大通りに面した建物が消え、古い屋敷が高みにぽつりと浮かんでいる。黄色い塀の上に被さる瓦屋根の先に抜ける眺望を、屋敷が取り戻したのも束の間だろう。
 たぶんこの辺だ。坂下に位置する淡路公園はここからは見えない。姉は、きっと確認しに行くだろう。
 台地を南に下る本郷通りを歩き、坂の終わりで交差する靖国通りを跨いで裏へ入る。表通りからは見えないところで、知らない更地が出来ている。路地裏を抜けて細い通りに出る。
 そこには、空間が有った。まだ雑草も生えてない、漆喰のかけらのような白い塊、石が転がる、土の地肌を見せた四角い土地。
「更地になっちゃうと前何が有ったのか思い出せなくなるのよね」
 左右をビルに挟まれた何も無い空間の、ここと思い出させるものは何も残る筈の無かった更地に。けれど一つだけ、建物の、二階建ての店舗を兼ねた住まいの、三角屋根の影がそこに写っていた。密着して建ったビルの片側に残った痕跡。そこだけ色の変わった、隣のビルの外壁だけが「記憶」を、とどめている。
 今さら……
「お客さん?」
 俺の記憶は、おぼろげなあの日で止まっている。
「うちにご用でした?」
 後ろで聞こえてた話し声が、俺にかけられたものだと気づくのに、どれだけかかったろう。なんの気無しに振り向くまで俺は解らなかった。顔を見ても一瞬、誰と解らなかった。
「前に来ていただいてた方ですか」
「あ、ええ」
「寄ってもらったのに、ごめんなさいね。お店、去年たたんで」
「知ってます」
「え?」
「あ、いや、聞いて、来たんです。ちょっと、時間が空いたので」
「そうですか。遠いところ、わざわざ有難うございました」
「いえ、近いんです。地元です。来たのは小学生の時以来ですけど」
 何、言ってんだ俺は。
「姉が、いつもつかいに来てたのは姉だったんで、自分が来てなかっただけで、ポムとかいつも買いに。姉が、無くなって残念がってました」
 取り繕おうとして饒舌になるのが自分でも解った。
「そうですか。ずいぶん前から、ごひいきにしてもらって。小学生だと、まだ、お菓子屋だった時分ですか」
「……はい」
「ご近所なら、錦華小……お茶の水小学校かしら。いつも大勢で」
「遠足の前とか」
 思わず口を衝いて出た言葉に俺は自分自身驚いた。
「そう、どこかでと思ったけど。おばちゃん、名前忘れちゃったわ。ごめんなさいね、聞いたのにほんとの名前」
「え?」
「まもる君とちょっと似てた、なんだったかしら。あだ名は駄目よね。ごめんね」
 ヒゲミか。いくら変だからって、もう十、何年前だ。ある意味感動だな。
「あのあとね、まもる君バナナ買ってったのよ。もらったでしょ?」
「バナナ、ですか?」
「バナナって、ちっちゃな、これくらいのね、お菓子のバナナでね、カリカリした」
 カリカリ。そういえば何か、何、なんだったか全然覚えてないけど、何か渡されたような。バナナ?
 なんで。普通そういう場合、俺が好きなラスクだろっ。なんだよバナナって、バナナ、
「バナナはおやつじゃない、ってダメか。実! バレるとヤバイから……」
 …… 三◯◯円。
 あいつ。あの、馬鹿。
「そう、まもる君にね、似てる」
「実です」
「そうそうっ、まこと君。まこと君だった」
「ヒゲミって、あいつ、ヒゲミってまだ言うんです」
 俺は言葉に詰まって、自らそのあだ名を口にした。
「良かったわ」
「良かった、ですか?」
「仲が良くって、良かったわ」
 俺は苦笑した。どうだろ? と言う具合に首をひねってみせた。すみません、と、無言でつぶやきながら。
「……すみません。おじさんは、おじさんの具合は大丈夫ですか」
「知ってるの? 検査入院でね、大したことないの。もう齢だからね、しかたないのよ」
「すみません」
「謝らなくてもいいのよ」
 そう言うとおもむろに、おばさんは手に提げたバッグの中を探り始めた。
「さっきね、おじさんと食べたの」
 蓋を開けてスライドさせる箱の中に、オレンジ色の四角い粒が見えた。
「オブラートだから」
 差し出された、オブラートに包まれたキャラメルを口に含むと、それとは違う甘酸っぱい味がした。初めて食べる飴だった。
「美味しいです」
 おばさんは、ゆっくりと二度頷くと、自分も一粒口に入れた。柔らかい餅のような飴が無くなるまで、黙ったまま、おばさんと俺は家の有った場所を見ていた。
「お姉ちゃんと食べて」
 箱を俺に手渡すと、おばさんは深々とおじぎした。同じ言葉を繰り返してしまいそうになるのを押さえ、俺は頭を下げた。
「おばさん」
 別れ際、後ろ姿に声をかけ手を振った。
「おじさんに、よろしく。『ありがとう』って伝えてください。お大事に」
 振り返ったおばさんは、初め合点のいかない表情を浮かべていたが。手の中のものに気づくと、頷きながら目を細めた。
 日は既に高く上っていた。足下に映る影は更地になったそこに、もう届かない。背中を押す日差しに促され、俺は時間を確認した。時計は、携帯には姉からのメールが入っていた。
 この写真は、今朝か。さすがにやることが早いな。
 俺はメールから切り替えると、そのまま携帯を壁に向けて。ヒゲミを、カメラに収めた。一枚、二枚三枚。店の無い敷地を入れて、後ろ姿の消えた通りを入れて。
 俺は返事を送らなかった。
 この「ボンタンアメ」が証拠になるかどうか解らないけど。「俺のことは覚えてたぞ」、帰ったら、そう言って自慢してやろう。今ならまだ、トマソンが残っていると教えてやろう。





    ー ウヤマ ー

 今、大丈夫なの? ぁ、ちょっと待って、移動する。
 なんだか、……合わせて、こっちもひそひそしちゃう。

 え、帰ってるわよ。コーヒー落ちるの待ってた。

 お待たせ。

 そう、普通のリビングダイニング、フローリングの。で、何故か炬燵。

 炬燵ってもね、今時「フレンチシック」なんてのが有ったりするのよ、うちのは違うけど。

 だから。シックはシックでも、全然シャビーじゃない、どちらかって言うと姫系の白ってタイプ? 

 無しでしょ? 無しでしょ?

 ………… 有り得ない。

「大人女子」ねぇ。

 ……………… 聞いてる。コーヒー飲んでた。

 そうそう、シャビーシック好いよね。

 実家出る時にね。まず一つ、取り敢えず失敗したとしても、カップボードなら白物家電の脇に置けばなんとかなるかって、それで冷蔵庫も白にしたんだけど。

 そう、本物じゃなくてアンティークフィニッシュ。

 好いなと思っていたんだけどね……アンティークホワイト。

 うーん。駄目ってか、ある意味飾り物だから、中に仕舞うものでどうとでも印象は変えられるんだけど。

 そうなんだけど、日常にはハードルが高いって言うか。剥げた白で揃える部屋って、

 解る? するよね、暗がりに、ぼうっと浮かぶ感じで。

 独りだし、塗装が剥がれた白い家具に囲まれて暮らすって、他所なら「素敵」で、済むけど。

 う……ん、まだ、自分が育てた傷なら、また違うとは思うんだけどね。

 なんだか、異質な時間が常にそこに有るみたいで。ちょっと、思い出すって言うか、変に連想しちゃって。
 買った時には、以前はそんな風に思うことも無かったわけだけど。

 今?

 ああっ、今ね。ウォルナットがベースの、焦げ茶のカフェ系の部屋になってる、筈?

 とちの木通りね、マロニエから改名したのよ。最初見た時には空いてたんだけど、他あたってる間に入られちゃって。

 家賃と、あと、まだその時はアンティークホワイトかダークブラウンかで迷ってたから、

 どっちでも合う白転びの灰茶の床が決め手だったんだけど、てか先越されちゃったんだけどね。

 諦めきれなくて、連絡頼んで、ようやくね。

 ここは二〇〇九年からだから戻って、四、五年ってとこ。

 うん、実家壊すのに合わせてだから、けっこう経ってる。前は目黒に住んでたんだけど、

 違う。確かに「インテリア通り」で買ったけど、職場に近くて早起きしなくて済むってのが一番の、

 えー、そんなこと。記憶違いでしょ、ギリギリセーフでしょ?

「これだよ」っ! ふふっ。

 ふっ、ワッフルタワー? あー、そうだね、そう見えるね。代替で入って、あとは貸してる。

 いいのよ、うちは弟が居るから。そのうち、いつか、子供部屋とかも必要になるんだし。
 一人のほうが気楽だし。まだって言うか、取り立てて何も予定無いし。

 ああ、小林君ちは、別な場所用意してもらったみたい。渡辺さんも。

 うーん、詳しいことは……

 だよね。中学卒業しちゃうと皆別々になるからなかなか、就職すればなおさらだし。
 て、言うか。さっき浜田病院で遭わなかったら、今こうして話してないじゃない。同じ日に検診で一緒になるって無いよね。それも検診違いで。

 そうそう! 大声出したらいけないよね、あんなとこで。

 今回は子宮がんだけ。二年に一度、千代田区の区民検診で八〇〇円で受けられるのよ。

 一応。今後出産するにしてもしないにしても、

 え? だから予定も無いし、それに、まだ二年でしょ。

 ほんとに。里帰りかと思ったら。
 でも良かったじゃない、帰れて。

 そうは言っても……。先考えると。

 三ヵ月でしょ?

 不安にならないほうが、おかしいもの。

 構わないよ。いつ? うちは?

 大丈夫。寄るなら検診のついででも、都合が合えば。

 外で会うより何かと楽でしょ。前もって言ってくれれば掃除して、忘年会のビンゴで当たった空気清浄機も有るし。

 でしょ? それも、結構グレードの高い奴。花粉平気な人だから、ずっと使わないまま仕舞ってあったんだけどね。

 そうそう、そう言うものだよね。でも結局は、必要になっちゃったけど。

 ほんとに。地デジ化でテレビを換えざるを得なかった上に洗濯機も、あれの後、乾燥機付きのものに替えたから、空気清浄機まで買わずに済んでほんと助かったのよね。

 いや、そのものは無理だろうけど、ほこりとか花粉に付着してる奴は。そっちは、どんなの使ってるの?

 そうか。性能は上がってるだろうけど、機能としては、変わってないんだよね。 

 測るほうもセットにしてくれたらって思わない?
 目玉も、その時のニーズって有るから、でも、却って嫌がるって人も、居るかもしれないけど。

 貰っても嬉しくないって思われてもね。

 何を?

 あー、覚えてる覚えてる! カップ麺だった。うわっ懐かしい! 誰だっけ当たったの。

 ああ、皆藤だっけ。遠いいのに、一箱提げて帰るって、嬉しいけど嬉しくないよね。

 シャンパン二本? そうだっけ。嬉しいっちゃ嬉しいだろうけど、重いよね。

 ふふっ、負け惜しみみたい?

 ビール券ね。偏ってたよね。学校役員か幹事にでも、酒屋さんとか居たのかな。

 いかにも。有りがちだね。

 知らない。来てないよ。いつ?

 ああ、うち引っ越し二回、正確に言うとあたしは三回だけど、してるから解らなくなったのかも。
 幹事って誰?

 あ、じゃあ今度寄ってみる。さくら通りにまだ店有ったから。あ、「まだ」だって。

 そうなんだよね、結構変わったでしょ? 残ってないよね。

 かと言って、新しい店は新しい店で、すぐに上書きされちゃうし。何故だか同じ場所に限って、ころころ変わるんだよね。

 家賃が高いのか鬼門なのか、今度は半年くらい閉めたままなんだけど。看板が「本店」の字だけ残ってて、なんの何処の本店ですかって。居抜きはともかく、屋号まで使い回せるなんて考えているわけじゃ、

 まさか。だってずっと飲食店だったのよ、本屋のほうの本店? 神保町だから? よもやに備えて? 嘘でしょっ。

 甘味屋さん? 綿徳も味楽も、とうに無いからね。神田さんもやめちゃったし。

 古本屋の息子は居るよね、弟の友達も跡継いでるし。本屋無くなったらお終いだから。   

 さすがに、間違っても古書店街の看板を下ろす日は来ないだろうけど。
 小中も統廃合で減ったし、大学も移転してるし。あちこちで再開発も、だし。

 単純に、昔のままで変わらないで欲しいって以前は思っていたんだけど、あれでね。


 言っても百年足らずの寿命なんだから、後々の世代のことも考えないと。


 あたしたち、まだ三十過ぎたばかりなんだけどね。


 誰? 中学じゃ、ないのよね?

 ふーん。四年まで?

 学校主催じゃないんでしょ?

 構わないんじゃない。卒業生じゃなくたって、今こっちに居るなら声かけたって。
 ……って、ひだか君って誰だっけ?

 だからそう、中学なら、人数多いから解らないのもあたりまえ、ってか、有りでしょ。

 うーん。載ってる、っても、無くしちゃったんだよね。

 たぶんね。やっぱ、その都度開けないと。

 卒業アルバムならまだしも、成長記録も一緒にだから。

 え、そりゃあ、そっちはいざとなったら誰かの見せてもらえるじゃない。

 どこか紛れてるとは思うんだけど、見つからないんだよね。

 ネガね。いつか出てくるんじゃないかと思ってまだ。
 聞いて、無かった時ショックじゃない。
 
 写真より、ネガ探す方が大変な気がするけど。やっぱクラウドに、
 あっ!

 いや、ひだかって、日高か。飛ぶ鷹、想像してた。

 なこと言ったって、こっちは「く」だもの。

 席順?

 そんなのあたりまえじゃない、出席番号でなら。

 えー。覚えてないなー、日高、君が?

 薄情って言われても。

 いや、そんなことは。……有るかも。
 でも、あ! ……起きたね。

 いい、いい。
 こっちも、そろそろ布団取り込まないと、って思ってたから。

 もちろん測ってるわよ。測った上で干しているから。あたりまえじゃない。

 花粉は、だから、花粉平気な人なんだって。

 花粉の無い世界か。そ、
 あっ、泣いてる泣いてる! ごめん、行って行って。じゃ、またね。


 0.0……花粉なら、平気、だけど。
 よし。
 あーー。お日さまの匂いがする。
 うーーん。お日さまの、あたりまえの、お日さまの匂い。
 あたりまえの……
 敬いし、天の恵みに、抱かれん。





    ー ヒサシ ー

 日本の原風景を残した地に、三丁目の白日夢とも、ひさし町とも、タイムカプセル村とも呼ばれる、或る場所が有る。
 そこには、人が住んでいない。
 併合や過疎で消滅した町や、ダムに沈んだ村と違うのは、廃居となった建物が元有った姿のままに修繕保存されていることだ。但し全てが、輪郭を残すだけの白い塊に姿を変えてしまっているが。

 超芸術。
 超然と、本来の用途を失いながらも、なんらかの形でそこに姿をとどめる。意図せず生み出された「トマソン」とは存在理由を、意味を鑑賞者に強要しないことによって純粋な芸術、超芸術へと昇華する。故にそこに付随する記憶、経緯を知る必要は無い。もちろん想像するのは自由だが。

 白が全体に塗布され、窓も扉も無くなったその上に、雨や日差しをよけていた庇が残る、「ヒサシ」だけが佇む町。一秒、一分、一時間。見えないものが行き来する一日、一年。

 助っ人として呼ばれながら、役に立たない、華麗な空振りを披露し続けた元巨人軍の選手の名を拝借し命名された、超芸術トマソン。
 あたかも屋根が庇となって、その庇が取り払われた後に、雨染みや日焼けの痕が隣家の壁に現れる原爆。
 看板の一部分だけを消して或いは残して、来るとも知れない日に備えるウヤマ(卯山)。
 塞がれた窓や扉のその上で、棲息し続けるヒサシ。

 夏の日照りを跳ね返し、冬の雪に掻き消されそうになりながら。
 花の春も知らず、秋の収穫もそのままに。

 建物にまつわるものトマソンとは、自ずと人の暮らしが有った記憶を内包している。
 人が住んでいる所、とりわけ都会に於いては日常的に現れ消える、時間の瓦礫。
 いつかなくなってしまうものに記憶を宿す存在も、やがて、浄化、昇華される時が来る。
 作り手に創ったという意識の無い作品は、「芸術」の名の下で保護され残される作品のように永遠ではない。
 芸術とも遺構とも違う、バックボーン・目的を持たないトマソンは、「超芸術」の名の下に保護されない限り、時間の経過とともに往生を迎えるのが自然の流れだ。

 ひさしまち。

 ヒサシが往生するのが先か、ヒサシの名を取払い、タイムカプセルが開けられる日が来るのが先か。
 記憶が、どちらに向かって更新されるか、今はまだ誰も知らない。



                                    了



※ 2014.11.2 ~ 11.14 加筆・修正(改稿)。


「トマソン ー トマソン」
初稿(脱稿):2012.4.30 (起稿:2012.2.25)
改稿(脱稿):2013.3.31
改稿(脱稿):2014.4.30

「トマソン ー ウヤマ」
初稿(脱稿):2013.3.31
改稿(脱稿):2014.4.30

「トマソン ー ヒサシ」
脱稿:2014.4.30

「トマソン」
加筆・修正(改稿):2014.11.2~11.14



※関連記事。
「三年」 2014.3.10
http://blog.goo.ne.jp/doteneco-cm/e/6605144f81d558be1f41b13362b1b0d1


「環状線の虹」(八)了

2011-12-25 07:00:13 | 短編小説(創作)
 ……明るい。ここは、神田か。あと一駅だ、乗り過ごさなくて良かった。
 まさかあの薬の所為ではあるまい。土曜日だというのに早起きをしたものだから、調子が狂ってしまった。一度ならず、二度までも眠りこけてしまった私は、自分自身に向かってそう繕った。電車の中で寝入るなんて。車両を見回して、乗客が自分だけということを確認して私はほっとした。だが、それもつかの間だった。
 一人? 今一度、車両を見回す。自分が乗る車両には誰一人、他の乗客は居ない。両隣の車両には、遠くに一人かろうじて、うつむいた腕を組んだ人が見える。ホームに人影は無い。向かい側の車両扉は、右も左も次もまたその次も全て開いている。そういえば、やけに停車時間が長い。時間を確認しようと袖に手をかけたとたん、アナウンスが入った。
「濃霧のため、ただ今全線で運転を見合わせております」
 全く、車内とホームの明りに目が眩んでもいたのか。あらためて外を確認すると、線路の先は、もう見えない。袖をずらして時刻を確認する。七時二〇分。一体いつから、この電車は止まっていたのか。まさか周回、自分が、ぐるぐる廻ってしまったのか。しかし既に、目黒駅を出てから六時間余りも経っている。ずっと止まっていたとは考えにくい。私は、あまりのことに唖然とした。だがそれよりも、パスモだ。私はパスモで入っている。もうやってしまったことは仕方ないとして、このまますんなり自動改札を通れるとは思えない。どうしよう。私は霧の中にぽっかりと浮かんだ誰も居ないホームに降り立ち、どうしようもない進むしかない、出口へと続く階段に向かった。「不覚」、と叫びたい気持ちを押さえながら。
 山手線の内回り、三番線を下りた正面には、道を塞ぐように太い柱が立っている。この柱の前に廻ると有るのが、ちょっと風変わりなエスカレーターだ。駅に入って、象牙色のタイルが張られた四角い柱の間をくぐり、アーチ状の天井の下まで来ると、改札を超えたすぐ先に一基のエスカレーターを見つけることが出来る。それはさながら、広いコンコースの中央からホームの床穴に直接架ける梯子、タラップのようで。何か昔見た、懐かしい不思議な感覚を呼び起こさせるものだった。今は節電のために柵で囲われ動いてないが、左脇にちょこんと置かれた短い、七段ばかりのエスカレーターと、二つ並んだこの景色が私は好きだった。弟と何度も何度も乗って下りて遊んだ「子ども用」の、乗れないエスカレーターを、ひとしきり眺めて。いよいよ、私は意を決した。
 だが、その覚悟とは裏腹にエラー音は鳴らなかった。運休とは、そういうものなのだろうか? 理由は定かでないが、何にせよ出られたのだから構わないだろう。とにかく、今はここを離れるのが先決だ。駅員が見えないのをいいことに、私はそそくさと駅を後にした。
 右手に東口、左手に北口という一見おかしな構造は、線路が東西南北を斜めに横切っているためからだが。地割りに対して直角に通っていない道が、どれだけ人の感覚を狂わすものかということを、私はこの駅で知っていた。そんな訳で、私は東口から外へ出た。家に帰るつもりが反対の大手町の方へ向かってた、なんて失敗をしないように。東口なら、道なりに歩いていけば靖国通りに出る。通りを超えた先の秋葉原には、さすがにもうこれからという気力は無いが。この霧の中を歩くのなら、大通りの方が安全だ。それにまた、大手町に出てしまう危険も無い。
 東口の通路は、上を何本もの線路が走る高架下に位置していて、昼間でも明りが必要なくらい薄暗いところなのだが。減灯の上、通路に点在する店が閉まっている週末のこの日は、いつもに増して暗かった。崩れた煉瓦塀に、埃のこびりついた換気口。生暖かい空気が籠るほんの数メートルが、いやに長く感じられた。
 錆びた鉄と、濡れた葉と土くれの匂い。雨が降った後の川の、匂い。街灯の光がわずかに揺らぐだけの街は、どこまで行っても果てが無い気がした。
 それにしても、いくら土曜だと言っても、車の一台も通らないなんて。交通規制、封鎖でもしているのだろうか。そういえば、さっきから赤の点滅ばかりを見ていたような。車両一時停止。それにしても、人っ子ひとり見かけない。このまま、須田町の交差点まで誰ともすれ違わなかったら……
 私は、この滅多に経験することのない濃い霧がもう少し、あと少し、ずっと、消えないで欲しいと願っていた。
 殆どのビルが明りを落としていても、不思議と街は暗くない。白は光を反射する。厚い雲に覆われた夜の空が晴れた夜空より明るく感じられるように、霧は闇の中に沈まない。間引きした街灯と、点滅する赤信号。秋葉原の看板も明りを落としている。神田川を超えて、ひんやりとした風がやってくる。ふと見上げると、遥か高みに仄かに浮かぶ、白い月が見えた。細い赤い環が滲む、暈のかかった円い月。
 ずいぶん小さい……虹だけど。私は深く息を吸い込んだ。湿り気を帯びた大気は、記憶の中に有る夏の初めの匂いがした。「明るい色もいいでしょう」……私はまだ、あれからずっと、焦げ茶色のバッグを使い続けていた。

 霧が晴れてきた? いや、灯りだ。白く伸びる、横断歩道が見えている。道の突当りに一つ、灯りの点いた建物が見える。ここは靖国通りの筈だが、何か、変だ。明りが、信号が少ない? この交差点は五叉路の筈だ。なのに赤の点滅は、上下に一、二、三、……信号の下に伸びる道は、かろうして見える二本と、そしてそこへ繋がる、たった今自分が歩いてきた後ろの道。通行止めにしては、停止標示も見えない。まるで三叉路だ。
 灯りを見つめていた分、深くなっていた霧に気づかなかったのか。古い石造りの建物の建つ道の手前で私は立ち尽した。
 この建物には、見覚えが有る。だとすれば、やはりここは靖国通りに違いない。以前、車で通った時に、信号を待つ間に見たことが有る。昭和初期の近代建築が持つ、そのモダンな佇まいに惹きつけられて、そのうち、いつかまた、いつかと思っていながらそのままで。何年経っただろう、今の今まで、忘れていた建物。
 一、二、三、五階建て。建物の右肩から射す月の光で窓の数を数える。ブラインドの降りた窓。一階の、玄関の両脇の窓にはシャッターが降ろされている。錆色の花崗岩の石張りに、上はスクラッチタイルの外壁。一階と二階を分ける石とタイルの間には、ギリシア雷文の装飾が帯のように巡らされている。採光のためのはめ殺しを上に設けた玄関の、焦げ茶色の扉の中央には細長い板硝子がはめ込まれ、内側には日除けの白いカーテンが引かれている。ひさしの裏には、アイアンで縁取られた花の意匠の照明器具が一つ、白熱灯の光が隅切の入り口を照らしている。隅切、だっただろうか。確か、横付けした、いや、一度きりしか見てないのだから、きっと記憶違いだろう。私は三叉路の、隅切の前で立ち止まった。観音開きの片側だけが開いたままになっている。
 あの日、自宅へと歩く人々のために、多くの施設がそうだったように。今夜は、濃霧に迷う人のために、扉を開けてくれているのか。
 入り口に架かる三段の階段を上がって、扉へ歩み寄る。金属の框の中の、くもりの無い一枚硝子と、その上を横に渡る、磨かれた三本の真鍮の取っ手が、古いながらも大切に扱われてきたことを物語っている。半分だけ開かれた通路の奥で、床に敷かれた正方形のテラゾータイルの粒子が光る。グレースケールのように広がる路を中に入り、そのまま左へ折れて、辺りに目を配る。……暗い。
 中は思いの外暗かった。門灯の灯り一つで、あんなにも明るく感じられるものだとは。私は改めて目を凝らしてみた。暗がりの奥の奥に何かが見える。何か……
 私は思わず後しざった、踵が固い何かにぶつかった。乾いた音が反響する。肩が反射的に跳ね上がる。慌てて振り返った目の前に椅子が、薄暗がりでも一目でそれと解る、学校の昔の、木の、生徒の椅子が有った。
 折りたたみのパイプ椅子、革張りの肘掛け椅子、布張りの安楽椅子、木製のベンチ、スツール、ロッキング・チェア、車椅子。椅子は一つではなかった。そこには、何の関連性も見受けられない幾つもの椅子が置かれていた。
 私は椅子が用意されているのを見てほっとした。背もたれの有る椅子にくずおれると、背中を押し返すバッグを胸の前に抱えこんだ。……考えられない。なんで、観覧車!
 そこには観覧車が置かれていた。空間を占拠するかのようにそびえ立つ、天井まで届く大きな観覧車。一階の天井ではない、五階の天井にまで届く大きな観覧車が。
 一体これは、まさか……倉庫ではあるまい、これだけの建造物。だけど何故、がらんどうだなんて。床は? 天井は? 落ちた、いや、やめよう。それよりも、こんなところに入れられてる目的は。景色を見るためのものを、屋内にだなんて。何も無い壁を見たところでどうしようも、ないだろうに。なんで。どう考えても、意味が解らない。
 私は混乱した。考えたところで、納得のいく答えなど見つかりそうにないと解っているのにやめられなかった。理由を探せば探すほど、私は不安になっていった。
 二連の輪っかの間にぶら下がった十二の円いゴンドラ、太い支柱、鈍色の鉄の骨組み。どう見てもオブジェじゃない、本物だ。かといってスクラップのようにも見えない。 
 すくんだまま見上げていた私は、目が暗がりに慣れるころになって、ようやく首の痛みに気がついた。そして、そこに有るのが、観覧車だけではなかったことにも気がついた。しかしそれも、答えになりそうになかった。
 左真横に、階段が付いていた。まるでタラップだ。どこをどう見ても電源は、動力に見えるものは置かれてなかったが、乗り込むに必要な梯子は付いていた。それも天辺のゴンドラに架かった、梯子。それは……すべり台、だろ?
 傍に行けば他にも何か、有るのだろうか。私はバッグを横の丸椅子に下ろすと、遠巻きにそろそろと、梯子に近寄った。特別注意書きも、搭乗を遮る柵も、チェーンも張られていない。足元から見上げる二つの巨大な鉄の塊は、やはりと言うべき異様な様相をたたえていたが、どうにも逃げられる気がしなかった。
 梯子状の階段は、円の真横までは斜めに立っていたが、そこから先は円に沿うスロープように緩やかな弧を描いていた。階段は一番上に止まっているゴンドラの、その上まで続いていた。一番上まで来てみると、観覧車の二本の車輪の間に、ゴンドラをぶら下げるための太い軸が一本、鉄棒のように、目の前に横たわっていた。天井も窓硝子も無いフレームだけの、空に開かれたゴンドラだった。昔のものかもしれない。私は手すりに掴まったまま辺りを見渡した。隅切部分の一番上のそのまた上に、明り取りの円い天窓が有った。淡い光がゴンドラの中を照らしていた。これのおかげで真っ暗闇にならずに済んだのか。鉄棒までは人ひとり乗り込む距離が口を開けている。私は、腹を決めた。
 乗り込むのに、さほど時間はかからなかった。意外な程簡単に滑り込めるものだと感心した。しかし、これからどうしよう。よく考えてみれば、戻る方は簡単ではないかもしれない。余震のことも忘れてた。わずかに震えるゴンドラの中で、まんじりともせずに考える。そっと、座席の木目をなぞってみる。……恐くない。誰も居ないのに、何も無い部屋なのに、ここは暖かい。冷たい筈の鉄の感触さえ、気にならなかった。
 解ってる。理由なんてどうでも、見えるものが壁だけだって。乗ってみたかった、乗りたかったんだ。目の前に有る、観覧車に。
 充足が、肩から力を抜けさせる。一息つくと、私は椅子の並んだ、さっきまで自分が居た場所を見てみようと、ほんの少し身を乗り出した。すると、まるで自らの重みを動力とするかのように、静かに、ゴンドラが動き始めた。
 キイ、と金属の滑る音が鳴る。降ろされたブラインドがかすかに揺れる、そこから光が漏れ入る。壁のわずかな色の変化が見て取れる。ゆっくりと天井が遠ざかる。漆喰の梁が壁に陰影を刻んでる。一つ、また一つと目に映るものが、静かに形を変えていく。扉と同じ色だろう腰板。壁際に置かれた椅子が、こちらを見上げている。置きっぱなしのバッグが。誰か入ってきたら、いや、入ってきて……
 私は扉を見つめた。風が吹いて、灯りが揺れた。見えない時間が回り、やがて、順行のゴンドラは帰途に着いた。
 私はバッグのもとへ帰った。腕に抱えると、丸椅子が目に入った。私の椅子に、よく似てる。円い縁にへこみが見える、けれども脚のひびは見つからなかった。何かが頬を、つたった。
 丸椅子に腰を掛け、私はもう一度、観覧車を仰ぎ見た。鈍色だった空間に、少しずつ色が、甦っていく。霧が晴れてきたのか。満月が天窓の上まで、移動してきたのかもしれないと思った。ずいぶんと長い間、ここに居る気がした。私は光を探し、手首をかざしてみた。
 円いフェイスの中で、短針を上に、針は、「L」の字に停まっている。4の無い文字盤の、窓に覗く「1」の文字。つきたち。陰暦は……
 そうか。それでも、あれは確かに円い虹を抱く白い、月だった。
 見えない月の、見えない光。窓から射し込む、月の光が、天頂に架かって。観覧車の天辺が光を反射し、アーチを描く。
 観覧車は銀色だった。
 しろがねに輝く、まるで……
 扉を開ける音がして、
「白い虹」
 声が、聞こえた。


「環状線の虹」(七)

2011-12-23 06:49:00 | 短編小説(創作)
 いつの間に、日が陰ったのだろう。山手線の窓から見える空は一面薄い雲に覆われている。朝方は晴れていた。白、薄紅、紅と、歩道を囲むように植えられたつつじが今や盛りと眩しかった。神保町で乗り込む時も目黒に降り立った時も、空は普通に明るかった。目黒で乗り込んだ時には……いや、暗かったのは構内だ。
 JR目黒駅は駅ビルの中に有るため地上駅や高架の駅のようにプラットホームが外に開かれていない。線路の両端から射し込むわずかばかりの日射しと、間引きされた照明のホームは薄暗く、曇天の夕暮れ時のようだった。電車が動き出してからも、掘割の壁が光を遮り、トンネルの中を通っているかのような感覚が暫く続いて。そして、開けたと思った先には、まるで逆戻りしたかのような薄暗い、空が広がっていた。
 それでも山手線の窓からは季節が見えた。通勤で使う地下鉄の窓に空は映らない。電源を落としたブラウン管のように自分の姿が映り込むだけで、発着の駅より他の、外の景色の変わりようなど知る由もなかった。
 足場が組まれネットが被せられた低いビル、ガムテープが縫い目のように並んでいる硝子窓、傾いた看板、更地、二階建ての古い木造の家、青々とした葉を茂らせる木々、天井の遥か先に続く高層ビル。眼下の、屋上公園。
 何年ぶりだろう、ここを通るのは。外回りなら渋谷から新宿、池袋から大塚、西日暮里と、何度も利用しているが。内回りは、新橋から上野あたりまでの区間しか、殆ど利用したことが無い。どうして東京に住んでいながら、こんなにも全く通らない駅が、場所が有るものかと思う。見覚えの無い街並は一体何が変わったのか変わらないのか、見るもの全てが新しく思えた。
 それにしても。天気予報は「晴れ」と、言ってなかったか? 車内にも長傘は見当たらないが。気にならないのか? それとも心配する、要がないのか。
 私は傘を持っていなかった。秋葉原に着くまでには上がって欲しい。まだ降ってもいない雨に、そう思わせる程、外は一気に暮れていた。

「……に行きたい」
 子どもが……ぐずってる。
「動物園にはパンダがいるぞ! パンダ見たいだろ、パンダ」
 近づいてくる、遠くから、キュッキュと小さな音が、止まった。濃い紅色が、うっすらと見える。小さなスニーカーが、揺れている。一度固く瞼を絞り、傾いた首を起こす。
 眠ってしまったのか。両隣の席が、乗客の姿が減っている。向かいの座席に、若い、夫婦と思しき男女と、子どもが二人、座ってる。真新しい靴が、ぶらぶら揺れて、隣の、ひとまわり大きな、褪せた薄紅色の、スニーカーは大人しく、揺れる靴の揺れる、膝を上の子が、その手を下の、母親が、振り向い
「おっきな虹だったね」
 虹? 天気雨。硝子に、雨の走った跡が残る。空が、ずいぶんと明るんだ。眠ってしまわなければ、電車からも虹が、見えただろうか。「はじめて、見た」と、下の子が、何度も、何度も、繰り返す。赤と白の、東京タワーは、なんて大きいんだろう。


「環状線の虹」(五・六)

2011-12-21 02:28:14 | 短編小説(創作)
「あー、やっと出たっ! 良かった!」
「こっちもすぐ、かけたんだけど全然繋がらなくってさ、大丈夫だった?」
「全然! 全然!」
「何? え、何?」

 母は、お使いから帰ってきたばかりの時だった、と言っていた。立っていたのですぐには気づかなかったらしく、それも荷物を下ろして頭を上げた、その時に来たものだから、自分が、かと最初思ったらしい。すぐに立ってられない程の揺れになったから、そのまま玄関で下駄箱に掴まった、というか押さえたのだろうけど。とにかく、右に左に振られる凄まじい揺れの中で、靴の箱がバタバタと上から落ちてきたことしか覚えていない。興奮覚めやらぬ勢いで、そう話した。
 電話が繋がったのは退社前の、午後四時半頃だったろうか。四時間以上前に聞いた、同じ話をまた聞かされている。都合二度……三度、繰り返してしまうのも無理はない。「バスで帰る」と連絡が入った父は、まだ帰っておらず。弟は、仕事の関係で今日から家を空けている。今の今まで、同調してくれる、話を聞いてくれる相手が傍に居なかったのだから。
「何か倒れる音がして食器の割れる音が聞こえてたから、揺れが治まってから、恐る恐る見に行ったじゃない。そしたら、冷蔵庫横のスリム棚が向かいの吊り戸棚に突っ伏してるのよ! もう流しの中も外も割れたものだらけで、ほんと、ぞっとしたわ」
「やっぱり上の階の方が揺れるよね。会社は、ここまで酷くなかった」
 台所の端っこに置かれたポリバケツ二杯分の残骸を見てそう言った、私の声のトーンが母の気に障ったらしい。
「あんたは見てないから解らないでしょうけど、ほんっと、大変だったのよ!」
「解ってるって」
 あれからずっと、テレビは休み無くニュースを流し続けている。余りにも大きな被害を目の当たりにしてるから、大したことが無くて良かったと思ってしまうだけだ。
「酷いよね……」
「恐いわよ、恐いわよね。お気の毒に。あ、またっ!」
「やばっ! 家、大丈夫かな」
「もうそろそろ、お父さんも帰ってくるだろうし。いいわよ、あんたもう帰っても」
「じゃあまた。ご飯、サンキュ」
 住まいは御茶ノ水駅に近い駿河台というところに有って、実家とは目と鼻の先で大した距離ではないのだが。一〇キロ歩いてきた足には、この坂は堪える。遠回りでも、明大通りを、選べば良かった。なにせこれは、坂とは名ばかりの、急勾配の、階段なのだから。今頃気がついても後の祭。膝から下がガチガチになった足を引きずって、這々の体で、私は部屋に辿り着いた。上がってきたがらない場所を、わざわざ選んだのだから仕方無い。それに何よりここは、昔よく遊んだ友達の家が、と言っても子供の頃の話でとうにビルになってしまったが、ブランコが置いてあった立派な広い庭の有った、昔からのお気に入りの高台なのだ。
 エレベーターから降りて、息を整える。ゆっくりとノブを回し、ドアをそおっと引いてみる。さっきの、母のようなことも有りうる。薄く拡げた隙間から、中をうかがう。
「空き巣に入られたみたいだった」。先に帰り着いた友人からのメールには、そう書かれていた。そっとうかがっている、自分の後ろ姿が目に浮かんだ。
 廊下から射し入る光で見る限り、取り立てて変わった様子は見られない。大丈夫か。一息ついて、電気を点ける。玄関の明りが奥のリビングに突き当たる。
 さすがに、生まれてこのかた経験したことの無い、あのもの凄い揺れで何事も無くとはいかなかった。
 丸椅子が転がってる。文庫本が散らばっている。鉢が落ちてる。中身がこぼれている。クロスごと振り落とされたのか、間仕切りに置いたキャビネットの上に乗せてあった、植木鉢と、マグが床に投げ出されている。白い陶器の鉢は、土を抱えたまま二つに割れていた。
 ようやく蔓が枝垂れて形になってきたところだったのに。まるで、糸が切れて弾けた、グリンピース。
 一つ、二つ。拾った粒を中に入れようと、傍に転がるマグを拾い上げる。フランスのアンティーク雑器のような雰囲気を持つこのマグは、白い釉から引き上げる際に出来るムラを、そのまま残した塗りの不均一さが魅力で私は買い続けている。
 今度は平気、だったのか? 石膏像のような肌の下に灰茶の地が数ミリ覗く、これは、買って幾日も経たないうちにうっかり縁を欠いてしまい、落胆のあまりに捨てられなかった、如雨露がわりに使っていたものだった。
 そうだ。水が少し、残っていた筈。水は、どこに行った? 
 水は本が吸い上げていた。図録でなかったのが、せめてもの慰めか。刷を重ねている画集なら、また買い直すことも容易だ。わずかに小口が波打つ『DE CHIRICO』を見て、私は溜め息をついた。
 あの秋の、六年前の展覧会の図録の重さには、この三二二ページ、急遽行けなくなった友人の分、合わせて六四四ページの道すがらには閉口した。その厚さ故にフラップには収まらず、ディスプレイ出来なかったのだが。一体何が禍い、幸いするか解らないものだと、引っ張り出した図録を返しながらつくづく思った。
 そういう訳で下ろしていたフラップ扉のおかげで、仕舞ってあった本は無事だった。本は重い。キャビネットがずれないのも道理というものだ。窓際に転がった、丸椅子と見比べながら私は考えた。
 壁を背にして置いてあった椅子は、ずれて有らぬ方を向いていた。その椅子を元通り壁に寄せて、丸椅子を間に戻す。木製の椅子の円い輪郭にかすかな、へこみが出来ている。よくよく見ると、焦げ茶の地に肌色のすじが、脚の付け根にひびが一本入っている。テーブルとして使ってる分には支障ない、もう踏み台の役は担えないけど。定位置に並んだ椅子を見て、かぶりを振った。
 口を開けたダンボールのような座面に、スチールパイプの四本脚。このモスグリーンとダークブラウンの二脚のウレタン製のチェアは、地元の、とあるビルのラウンジに同じものが置かれている。そこに併設されているカフェを利用したのは、この椅子に一目惚れしたためだったのだが。いざ座ってみると、このエッジの効いた外見からは予想出来なかった、しっくりとした座り心地の良さに、いよいよ私は心酔してしまった。そして、何回か通ったのち、その素性を聞き出すにまで至ったのだった。
 業務用とはいえ今はネットで手に入るものも多い。椅子としては、けして安い部類ではなかったが、これだけは、とオーダーを入れてしまった。
 値段にかかわらず、自分にはこだわりの、思い入れの有るものが多過ぎる。椅子も、マグカップも、本も画も、緑も……
 代わりの無い、多くの……
「博多人形が、こなごなに割れちゃって」。そうだ、忘れてた! 人形は? 玄関には何も落ちてなかった筈。
 ガラスケースは引っ掛かっていた。シューズボックスの上段と下段の間のスペースに、いかにも無理矢理押し込まれていた格好の、母が「お土産」とよこした博多人形は、ずれてそっぽを向いていた。倒れてガラスに寄りかかってはいるものの、どこも、欠けた様子は無いようだ。
「念」だな。
 九州なら、他にも何かしら有るだろうに、自分の趣味で同じものをよこすとは。「可愛かったから」と、言い切る母に考えた跡は見られない。かといって突き返す訳にもいかないから、一番差し障りのない玄関に置いてあったのだが、狭過ぎて動きようがなかったとは。何が幸いするか解らない。良かった。
「明後日、持って行くよ」、私は早速電話をかけた。それを聞いて喜ぶ声に、少し胸が痛むのを感じながら。比べようのない、多くを、失った人達のことを思い起こした。

  ◯

「牛乳はデカイの四本も有れば充分だろ。ヨーグルトは適当だから見て」
「重かったでしょ、買い占めるような真似させて悪かったわね」
「別に向こうは普通に売ってるよ」
「おかえり」
「来てた? ほい、明太子」
 よしよし、お前は解ってる。
「サンキュー。次は伊万里、古伊万里だな」
「なの、無理だって!」
 解ってないな。今のは、お前にじゃないんだな。
「親父は?」
「風呂」
「そっか。なんかさ、あまり変わってないよな、この家。『倒れた』って言ったって、別に壊れてないしさ、中身がスッカスッカなだけで」
「何言ってんの! 床一面ガラスの海のままじゃ暮らせないでしょ!」
 床一面? 流しの中と……外。まあ、そうか。
「俺の部屋は大丈夫だったんだろ? やっぱさ、突っ張り棒だよ、突っ張り棒!」
「……。見に行ってごらんなさいな」
「平気だったんだ?」
「……棚は、ね」
「ふーん。あ、なんか、変な声上げてるぞ」

 弟のフィギュアは無事だった。盛大に倒れていたようだから傷の一つや二つは付いたのかもしれないが、それでも母の「思い出」よりはマシだろう。
 それにしても、その博多人形を渡した時の、あの表情は何だろう。電話口では泣きそうなくらいの勢いだったのに、思っていた程嬉しそうじゃなかったような。
 同じ、とは言っても、やはり手元に置いてあったものとは愛着が違うか。人形は、そういうものらしいし。
「同じものを持っていて、見て思い出して欲しかったんじゃないの? 家、出たからさ。解ってないな」
 そういうもの? と、尋ねた私に弟は答えた。その言葉は、もしかしたら、母の代弁だけではなかったのかもしれないが、私は気づかないふりをした。
「人形、で? せめて茶碗とか、実用品にして欲しいな」
「だよな」
 互いに、顔は画面に向けたままで私達は話していた。キッチンに聞こえないよう、にしては、必要以上に小さな声だったかもしれない。掻き消すように、弟が話を継いだ。
「明日行ったら、凄いことになってたりして」
「な訳、会社に人居るんだし」
「そうかな。俺、力仕事には自信有るじゃん。残しといて……ないかな」

 その時は、何を台風が来る前の子供みたいな、変なことを、外で言うなよ、と思ったのだが。それ程考え無しな奴でないのは解っていたから、うるさいことを言うのはよした。その後、七日と、奇しくもひと月後にあたる同じ十一日に起こった、大きな揺れを経験するに至って弟の変なテンションはやんだ。十一日には即座に電話をかけてきた。
「七日の夜のもデカかったけど、今のは、もっと凄かったからさ。大丈夫か?」
「前の程じゃないからね。前の揺れは、もっと凄かった」
「……有りえない」
 一人だけ東京に居なかったことが、妙な空回りの原因だろうとは想像していたが。自分だけが知らないことで、共有する言葉を得られなかったことが、傷になっていたのかもしれないと、後で思った。
 余計なことを言わなくて良かったと、本当に思った。


※脚注。(五)『DE CHIRICO』 デ・キリコ。

※2015.3.11。(六)冒頭三行書き足し。
※2015.4.20。(五)部分改稿。