枇杷の葉なし

枇杷の生育や、葉・花芽・種のことを日々の生活のなかで書いていく。

蕎麦の日

2013年02月28日 | Weblog

 上手いことを云うものだと、日捲りを見ながら思う。28を蕎麦の二八にかけている。考えた人はほくそ笑んでいるだろう。それで言うなら、雛祭りは旧暦が正しい。今年は、四月十二日だ。この頃になると、自然に桃の花が咲く。春爛漫である。

 春は、水温み、花が咲くので、気分も緩む。そこで注意しなければならないのが、火災だ。居室の安全点検は元より、清掃にも気配りが必要だ。心地の佳い住居を、提供したいもの。何事も用意周到にしたいものである。遣り甲斐もある。

 二月も逃げて、三月が訪れる。入試や卒業式。転勤に退職など。悲喜交々のドラマが始まるのも、この時期の特徴。仰げば尊しを、感無量で歌ったことが、懐かしい。小学校、中学校、高校と恩師の姿が浮かぶが、鬼籍に入った師も多い。

 夕空にかかる木星が美しい。天頂付近に位置し、おうし座の辺りである。携帯で充分撮影できる。決して腕がいいのでもない。携帯で撮影し損なったのが、翡翠だ。その姿の美しさに、シャッターチャンスを狙ったが、近づけなく飛び立った。

 それから云えば、宇宙は天気さえ良ければいいし、自分の時間で済ませられる。中でも月には魅了される。日々の移り変わりと、その都度の輝きには、何か心を奪われてしまうのだ。さても美しく、清らかなる眩しさにため息が出る。

 子どもの頃に、祖母が月を観ながら、かぐや姫の話をしてくれた。それ以来、魅せられてしまい、月の話には心が騒ぐ。月への夢と憧れに、心が惹かれ無重力になる。月の裏側には、月世界人が住まう、都があると信じて疑わぬ。

 リエさんのに決めた、枇杷葉。種類にもよるが、木丈や葉の長さ、大きさが微妙に違い、様々な枇杷葉に驚く。

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再稼動!?

2013年02月27日 | Weblog

 今朝、朝刊が遅れた。勤務を終えて読む。な・な・何ということを。再稼動申請に、眼が釘付けになる。正気の沙汰とは思えない。地震も、東北を始め、あちこちで起きているというのに。危険なことを承知で、申請するとは。常識的に許可が下りるのか。

 どんなに基準が新しくなろうとも、人間の都合勝手で判断できることではない。夜は暗くて、宇宙に星が観える。昼は太陽の光を浴びて、仕事に励む。至極当たり前のことだ。便利さには、右脳も左脳もなくなる。認知症が進む。体の機能も衰えていく。

 人間に、決める権利もなければ、行いを実行する義務もなかろう。責任を何処に持っていくのだろう。全ては、人類の仕業であるのに、宇宙人のしていることのように云う。禍を持って、地球を滅ぼすのは我々であるのだ。そこんところ、可笑しいではないか。

 原発に賛成の者だけが棲む地球でもなく、反対の者等が危険を訴えているだけでは済まぬ。民主主義とは、多数決で決めてしまうことでもなく、押し切ってしまうゴリ押しでもない。皆が納得し、絶対に安心・安全の原発などありません。再稼動は許さない。

 沖縄の人々を苦しめるのは止めて。沖縄だけが、未だ植民地のようです。再選首相は、自分の手に負えなくなると、〇投げをするのか。その間であれば、何をしても、どんな約束を交わしていてもいいというのであるのか。国民を愚弄しておる。

 昨日の夕方から降り出した雨が、朝には止み、曇り空に薄日が射して、夕方には晴天になる。霞が靆くような気配を感じ、CDのチャイコフスキーに、耳を傾ける。演歌もいいが、クラッシックは尚によい。指揮は、若かりしマリス・ヤンソンス。

 西側の枇杷葉。これは白茂木かな?花芽はつくが、一向に咲かない。これで2年、苞のままである。

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大潮・望、雨になる

2013年02月26日 | Weblog

 満月を撮ろうと思っていたが、生憎の雨である。夕刻の勤務を終えた頃から、音もなく降り始めた。研修に参加することにしていたので、駐車場まで傘を取りに行く。春雨である。濡れて行ってもよかったが、明日も仕事だ。

 一雨毎に暖かくなり、風の向きも、匂いも、色さえも、春めいて来ている。生協で、蕗の薹があったので、注文しておいた。早速、辛子味噌和えに。程よい苦味がたまらない。また風味のいいことか。古里の径には見当たらなかった。

 三つ葉が好きであろうと、母はこの時期に、冷たい地面を掘って、届けてくれた。その三つ葉も、主の居なくなった場所からは消えた。便利さや、快適さからは程遠い生活を送っていた、両親の姿が、ふと視えたような気がした。

 両親の生き方を、敢えてしようとは思わないが、よく似たことをしている。何をするでもないが、包み紙を取っていたり、未だ使えると、何度も使ったタオルを、雑巾にしている。どうにも捨てられず、新しい物に換えるのもできず。

 もったいない。捨てるに忍びない気が湧いてくる。賞味期限が過ぎても、充分に食べられる物が多過ぎる。況してや、味噌や醤油は、そのための保存品だ。梅干も、塩だって同じ。命を戴くことを感謝しなければ簡単に捨てる。

 人間の暮らしが、地球という青い星で営まれ、其処には、ありとあらゆる命があり、与えられた命を戴く代わりにしなければならない使命がある。人間だけが、自分勝手をしていい筈がない。自然とは、覚の如し厳しいのだ。

 お正月なので、花木店で花を買った。テーブルの上が華やいだ。掃除をし、テーブルセンターを変えた。

 

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天神様・とおりゃんせ

2013年02月25日 | Weblog

 ♪とおりゃんせ、とおりゃんせ。ここはどこのほそみちじゃ、てんじんさまのほそみちじゃ。ちょっととおしてくだしゃんせ、ごようのないものとおしゃせぬ。このこのななつのおいわいに、おふだをおさめにまいります。子どもの頃には、唄の意味もわからずである。

 天神様は、菅公。即ち、菅原道真・右大臣でもある。新暦では、早々とお雛様が飾られている。その段の三人官女の下に、右大臣と左大臣が並んでいる。平安時代の役職は、右大臣の方が位が上であり、政界の実権を握っていた。失脚し、大宰府に流される。

 全国、つづ浦々の梅の名所には、必ず菅公をお祭りしてある。先日、上京の折には、学術祈願をしてきたが、勉学の神さまでもある。京都に始まり、大宰府や湯島天神など、その賑わいは有名である。天神様の人形もあった。市松人形と並んで照れていらした。

 勤務先に向かう、駐車場からの遊歩道の梅が、一輪綻んでいた。梅一輪、一輪ほどのあたたかさ。白梅の香りが鼻腔を擽る。足元の草花は、勢い良く伸びてきている。太陽の滴が零れたようなタンポポが咲いている。啓蟄に這い回る、虫の出番も近い。

 宇宙の方では、パンスターズ彗星が、-3.3等の輝きを見せてくれ、西天に注目しましょう。日にちを追う毎に、輝きは消えていきますから、肉眼で見つけるのは難しくなります。春の宵、梅見と称して、夕闇の迫る中を、宇宙を見上げてみませんか。

 自然現象が観られる、それも無料でです。携帯での撮影も可能です。木星さえはっきりと写るのですから、彗星はかなり条件がいい筈。ドコモ・NECの機種で、これ程の写真が撮れるとは思ってもみませんでした。腕ではなく、機能が優れているのです。

 デジカメも買いたく思いながら、携帯での撮影に今は、満足です。アングルや、シャッターチャンスの如何によって、ブログの更新写真は、素晴しい出来栄えです。まあ、写真自体が、専門ではないので、これ以上のことはありません。

 長崎・茂木赤枇杷葉。枇杷葉の硬くてごわごわの葉は、お茶はむろんのこと、エキスの摘出をして、腰痛予防に当てたり、様々な傷の手当に用いている。

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墓掃除に行く

2013年02月24日 | Weblog

 昨夜の読書が祟り、眠かったのだが起きる。洗濯機を回し、朝食を戴き、新聞を読む。布団は干しておきたかったが、空模様が怪しい。暫し考えたが断念する。休みの朝は、あまり食べないが、掃除をするのでパンと珈琲にした。

 AM10過ぎ、息子の家族が迎えに寄ってくれ、皆で出かける。実家は侘しく人気がない。獣の後が見当たる以外は、深としたままだ。山への小坂を上がって行くと、ご先祖様の眠る場所がある。父に母に声をかけながら、笹の藪を刈っていく。

 枯れた木や枝、枯葉が散っている。誰も掃除には、来ていないことがわかる。孫等も猫よりは况で、墓石を磨いたり、枯葉を取り除けてくれる。息子も嫁も、丁寧に笹を取り払う。瞬く間に見違えるようになった。華筒の水を替え、シキミを挿した。

 小一時間できれいになった。下に下りて来て、梅の枝を3本もらう。きらん草が大きな株であったのを掘る。草枯らしをかける前でよかった。家の手入れは愚か、ほったらかしの状態である。物言わぬ廃屋に、一槐の想いが宿る。無念だろう。

 息子の家族と帰えり、我が家で下ろしてもらう。昼食は、ラーメンにする。太葱をざっくり刻んで乗せる。風邪を引いてはならない。昨夜、ズボンを解れを直したので、花芽茶を作る。サンタさんやりささんには送ったが、もう一度リエさん用だ。

 庭を一周したら、白枇杷の花芽が開花している。12月までに咲かないと、と思っていたが、不思議である。長崎茂木も、今が満開状態。季節のずれかしら。終章になっていた、ああ無情を読み終える。小説には違いないのに、涙が止まらない。

 生きることの、生かされていることのありがたさ、不可思議さを見つめる。自分は、誰のために生きているのか。いや、考えなくてもわかっている。全知全能の神によって、生かされているのだ。然も、何かの使命を持って。祈り、行おう。

 美しい満月の夜だ。月は、セレネ・アルテミスとも呼ばれ、嫦娥姫とも云われている。日々変わる様には、何かしら希望も思える。

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心のスイッチの切り替え方

2013年02月23日 | Weblog

 仕事とを公とすれば、家のことは私である。そうして、その区別をするのは、心のスイッチの切り替え方だが、機械的にすることの難しさを思わぬでもない。或いは、居ない人の陰口を云ったり、わからないように疎外したり、あげれば限がない。

 個人的には、悪口は控えており、そのためには勤務中は、仕事に徹するようにしている。悪口を云わないようには、書籍に親しむことにしている。話の話題も、書籍のことを引き出す。人間は、得てして悪口が好きだし、他人の噂には事欠かない。

 持って生まれた容姿は、そう簡単には変わらない。如かして、己の心がけや、書物に親しむことで、随分と変化もする。実際、電話は基より、携帯電話も必要ない。日数はかかっても、例え不便でも、手紙がある。繰り返して読めるのがいいのだ。

 文明社会、便利な情報社会には、利点も多いが悩みも増える。新しいことへの知識も、若ければ習得するが、一定の年齢を超えると、気力や体力が思う様にはついていかぬ。書籍には、多少の改善はあるだろうが、押並べて変化のないのもいい。

 また、同じ本でありながら、読みたくなった心情と、その時の情況や状態で、様々に心にもたらす影響が違う。その都度、新しい発見がある。本の素晴しさは、生きる歓びにも繋がる。あと少しで、レ・ミゼラブルを読めるが、この深い感動は宇宙のようだ。

 時代について行けないと、PCを習得したが、便利なことと煩わしさは同等だ。一瞬で、遠くとも繋がるし、行き来もできるが、有害・無害に関わらず、情報が流れていく。何処の誰に閲覧されているのか不明だから、恐いと言えばそれまでだ。

 明日は、天気であれば、実家の墓掃除に行こう。お彼岸が近い。両親の墓参りに、きれいにしておきたい。父や母は亡くなったが、その魂は留まっている。親は、何にも変え難い。生前よりも、今身近に感じる。毎朝のお茶湯は欠かさない。

 花芽があちこちに見える。枇杷葉の白い花は、可憐で優雅でもある。心を落ち着かせ、浄化させ、満たしてくれる。

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四季の宇宙

2013年02月22日 | Weblog

 冬の威厳に満ちた宇宙から、穏やかでやさしい春の宇宙に転じている。それでも冬の大三角は煌き、南の宇宙に昇る。オリオンの三ツ星のベルト下には、オリオン座大星雲M42が観え、中心に輝く四重星トラベジウムの周りに、ガス星雲が広がる。と解説がある。

 望遠鏡がなくとも、視力のいい方ならピンク色をしているのがわかる。距離1500光年のところである。広がりが30光年以上の大散光星雲。そこでは新しい星が、続々と生まれているそうだ。トラベジウムの星たちも、10万年前に生まれた、ごく若い星たちという。

 一角獣座は、冬の天の川に巨体を横たえる。その鼻ずらに当る所に、ペテルギウスがある。バラ星雲はそこにある。でも、肉眼は愚か望遠鏡でも、その形を見つけるのは困難を極めるそうだ。また、狩人のオリオンの傍には、猟犬の追い立てた兎座や鳩座がある。

 木星は、おうし座の中にあり、その輝きは素晴しい。否が応でも眼を惹く。宇宙を観る事など、たわいのない自然現象に違いなく、興味や関心を持つ人間は、少ないのかもしれない。テレビや映画の影響だけで、一時の面白半分のことらしい。だが、それらに人々は惑う。

 子どもの頃に観た、宇宙の移り行く様には、一種神秘的な力があった。有無を言わさぬ説得力があった。不思議な輝きの、差し出した手に触れそうで、絶対に届かない存在である。遠く遙かなる宇宙に行くことは、永久に叶わない望みで、記憶への憧れでもある。

 昨日のこと。ぎっくり腰になったらしい人の、足の裏に触ってみたら、腰への痛みが皆無であった。こういう場合には、単なる筋の違いが多い。従って痛みはあっても日にちで治る。だが、安静にするに越したことはない。何回もやると、厄介になってしまう。

 枇杷葉の生葉で治るのだが、今時の若い子はしないだろう。云ってもしないことは教えない。と決めているので、冷やかになってしまう。私など、藁にも縋る想いで、援けてもらえたのだ。枇杷を買い、実を食べて、種を植え、今日の姿になった。感無涙。

 園芸店で買った、白の縁取りレースのシクラメン。寒中に、水を遣り過ぎて、軸が凍ってしまった。凍ると腐る。日当たりに移動した。

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春、浅き・・・

2013年02月21日 | Weblog

 縁側があれば、日向ぼっこをしたくなる、薄日の差す日であった。洗濯物は乾かない。風はあるが詰めすぎているのが難点。湿度が低いので、中に入れている方が、よく乾く。設定温度が高いので、乾燥注意報の発令なのです。

 民家の火災等、この時期が多いのも、ちょっとしたことで防げる。電化製品といえど、配線を絡ませると、思わぬことで発火する。或いは、掃除を小まめにしていないと、埃がプラグに溜まっている。火事が起きてからでは遅いの。

 久しぶりの清掃に、少し早めに行く。ハイター拭きを、玄関から始まって、事務所も居室も、徹底的にする。コンセントの差込口、トイレの電源等、便利になったお蔭で、そこら中を掃除である。ありとあらゆる箇所を掃除して、1時間かかった。

 床の掃除も、モップで擦る。食べ溢しや、靴の裏にくっつくのを拭いて回る。居室の戸口のレールも、トイレの溝も、箒で掃いた。建付けがよくなった。まだ気になる箇所はあるが、時間が許されず、次回に持ち越す。これだけで1時間使う。

 窓ガラスも、冷暖房のフイルターも、次回に回す。きっと一日かかっても終わらない。必死でやっても、持続していかなければ、何等意味がないのだろう。そんなことを考えながら、我が家の掃除もしなくては。リエさんたちが泊まれない。

 銀河が使っていた物も、捨てるに忍びなく、なんだかんだと理由をつけて取っている。箱の中に仕舞うかな。領収書もそろそろ処分しよう。5年の月日は早い。貧乏な性分が禍し、その内に使う、と押入れに突っ込んでいる。

 花芽茶は、我が家では保存が不可能で、サンタさんやりささんに送る。冷蔵庫を買わねば。中々決心がつかない。なければそれでも構わないが、お客さまには困ることも。問題はそこに行き着く。これに関しては、寒いのは大歓迎。

 西側の枇杷葉。花芽がついていたが、咲かないままであった。白南天は、たくさん実をつけるが、気づいたら野鳥にやられている。

 

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早春の庭・・・

2013年02月20日 | Weblog

 先日の休みには、未だ蕾だったクリスマスローズが、たくさんの花を開かせている。雨も降らねば、花は咲かないのである。晴れた空がいいには違いないが、自然にとっては必要不可欠の現象で、天からの恵みを感謝する。早春の庭に、春の光が溢れている。

 本日の予定では、白蟻の修理を頼んでいたが、勤務上の都合で断念する。まあ、気分的なことかもしれないが大事を取る。物事は最小限で防げる。何も好んで広げることもないのだ。止む無くもあるが、責任が取れないので厭である。一日、読書で済ます。

 ああ・無情、岩窟王ともあるこの物語は、中学生の時に読んだ。然し、あらゆる思想的なことが省かれ、要約された内容でしかなかったのだ。それとも記憶違いであろうか。読み進んでいくと納得することが増え、ジャン・バルジャンの深窓に、心臓を鷲掴みにされた。

 モンテ・クリスト伯、ジャン・クリストフ、レ・ミゼラブルを混同していたことにも気づいた。デュマは『三銃士』の方が面白かった。また、世界文学全集も、それほど熱心に読んだ訳ではない。況して完訳では、中学生には半分も理解できない。

 それよりもSFに傾斜していた。近未来の空想の世界には、夢と希望があった。外国物の翻訳にも新鮮さがあった。中でも、アシモフの『我はロボット』の作品冒頭、子守ロボット・ロビィには、人間のように嘘をつかず、人間を守るロボットが居た。

 衝撃度200%で、未だにその領域から脱せない。今でこそ、そういった社会的現象を、多少なりとも認めているが、当時は吝かである。女ではなく男になりたかった。ロボットに一生を継ぎ込む研究者になりたかった。何も囚われずに。

 茂木・赤枇杷。引っ越して翌年に、鉢の中へ種を埋めた。花芽がついたのを知らず、翌年見つけてびっくりした。4年目で結実した。飛び切りの甘さだった。

 

 

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枇杷葉の威力

2013年02月19日 | Weblog

 インフルエンザも、嘔吐・下痢、ノロウイルスにも、疑いはあるにしても、マイナスである。そもそもが風邪症状であるのを、すぐさま病院受診となるのだ。手洗いと嗽とで、その殆んどが防げ、毎朝の検温は欠かさない。体力の維持にはお粥だ。

 清貧の暮らしの中では、病気も居つかない。暖房と言えば、湯たんぽかストーブで、それも極力寒い日にしか点けないのだ。自分の体に着ているのが、一番の安全というもの。それでも寒ければ、蒟蒻を温めて腰に当てる。次に、梅酒を戴く。

 外出は控え、図書館か本屋で、買い物はその近辺か、生協を利用する。サンタさんのお蔭で、美味しい珈琲を飲めるのも、何と言ってもうれしい。以前には喫茶店にわざわざ出掛けていたのだが、1杯が¥450もの珈琲を飲みに行けない。

 加えて、騒々しい場所を通過することも、遠くまで行くことも苦痛。Aさん家の美味しい水と、サンタさんの送ってくれる、無農薬の珈琲があれば、家で本が読め、庭の花が愛でれる。今日のガソリン代が高昇する中では、控えねば大出費となる。

 出不精に更なる輪をかける、人嫌いもある。孫の顔は見たいが、何処其処の宗教団体や、生命保険等、一切を断っている。特にNHKは失礼極まる。何様の心算か、とも思える強引な勧誘である。テレビは、勤務先だけでうんざり、下らない。

 文明の利器に目が眩み、お金があれば手に入る世の中だ。だが、生活の中で、絶対に必要な物であろうか。エアコンは要らないよ。あれでは煮炊きができないもの。団地でさえなかったら、薪ストーブを使っている。暖かだし、経済的である。

 枇杷葉茶を、欠かさず飲み、枇杷葉温圧療法で体を浄化させ、風邪の予防に嗽を続けている。腰痛予防には、枇杷葉を焼酎に漬けたのを、手ぬぐいに包んで当て、切り傷や打ち身に利用し、医者に行くことを、極力少なく工夫している。

 昨夜からの雨が、明け方には雪に変わっていた。このところ暖かいので、ストーブは点けていなかった。寒さがぶり返したらしく、震るいこむ。明日の仕事のことを考えて用心する。それでも布団に潜ると、本のページを繰るのが恐い。

 朝、妙に深としている気配に、窓を覗いて声もなかった。雪が音もなく降っていた。アスファルトに落ちた瞬間、溶けていく。春の雪は積もらない、というが本当だ。宇宙を見ていると、後から後から下りてくる。いかん、遅刻するではないか。

 昨年のサンタさん枇杷葉と、りささん枇杷葉。枇杷葉にも、様々な種類があり、葉の大きさも、育ち方も違う。同じ年数でも、花芽がつかないことも。

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