チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

あらえびす(野村胡堂)考案のレコード・キャビネット(1936年アポロン社)

2017-06-11 01:03:00 | メモ

【2015年12月5日の記事にあらえびすの写真を追加しました。】

『サングラフ』1957年10月号より、レコードを聴くあらえびす(野村胡堂、1882-1963)。

 

『レコード音楽』1936年(昭和11年)10月号には、あらえびす考案のレコード・キャビネットの広告が載っていました。



あらえびす氏がご自分で考案して20年来自宅で使っていたものをアポロン社が製造・発売することになったということです。



見た目はまあ、普通ですが乾燥装置完備がポイントのようですね。日本は湿気が多いからSPレコードがすぐカビてしまったようです。

 

一番大きい「No. 4」はレコード850枚収納!リッチマン御用達ですね。。

 



ところでこの号の『レコード音楽』にはレコードに関する座談会の写真が載っています。テーブルの向こう側でニコッと笑っている坊主頭・丸メガネ・チョビひげの人があらえびすさんです。場所は不明。



写真向かって右より
有坂愛彦(ありさかよしひこ、1905-1986)
村田武雄(むらたたけお、1908-1997)
西條(西条)卓夫
中村善吉(戦前は細沼貴金属工業の取締役兼帝国音楽学校教授だったかただそうです。大崎さま、ありがとうございました)
松本荘之助【お顔がよく見えない】
山根銀二(やまねぎんじ、1906- 1982)
野村光一(のむらこういち、1895-1988)
盬入亀輔
あらえびす
藤田不二
その左の三名は編集者の方々と思われます。


ヴィクトリア・ムローヴァの亡命(1983年)

2017-05-20 23:16:35 | メモ

FOCUS誌1983年7月22日号にヴァイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァ(Viktoria Mullova, 1959年生まれ)がソ連から亡命したときの様子が載っていました。彼女は当時まだ24歳。

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1982年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で第1位になったムローヴァは翌年1983年の6月から7月にかけてソ連文化省下のアーティスト・マネジメント機関「ゴスコンツェルト」の主催でフィンランド演奏ツアーを続けていた。

1983年7月2日、スウェーデン国境まで約200キロのクーサモで演奏会を開き、翌3日、伴奏ピアニストのヴァフタング・ジョルダニア(Vakhtang Jordania, 1943-2005)とともに「市内観光」と称して街へ出た。監視役の文化省の役人がホテルで昼寝していている隙にである。街にはフィンランド人の協力者がいた。彼の手引でタクシーに乗り、そのまま国境を越えてスウェーデン領内に入り、警察に亡命・保護を申し出たのである。

その後、ストックホルムのホテルに着いた彼女は3日間沈黙を守っていたが、7月7日になってようやく心境を明かした。

「私たち、駆け落ちではありません。ジョルダニアさんは以前から亡命を考えており、私もチャイコフスキー・コンクール優勝後、外国に行きたいと考えていたのです。政治的な理由からではなく、音楽上の理由で...。ソ連の中では、機械のように動かされるだけで、芸術家として好きな曲が弾けない。もっと自由に演奏活動がしたかった。たまたまそういう考えの二人が同じツアーを組むことができて、亡命のチャンスを狙っていたわけです。ただ、同行の役人の監視がきびしくて...。3日に失敗したら、6日にもう一度挑戦するつもりでした。いま、米国行きのビザを申請しています。米国には友人が何人かいますので、演奏活動も当然そこですることになると思います。」

関係者の間では、彼女の亡命の背景には師レオニード・コーガン(Leonid Kogan, 1924-1982)の急死がからんでいるともいう。彼女がコーガンの死で大きな後楯を失ったのにひきかえ、チャイコフスキー・コンクールで彼女と一位を分け合ったヴァイオリニスト、セルゲイ・スタドレル(Sergei Stadler, 1962年生まれ)がソ連楽壇でチヤホヤされていることへの反発もあったようである。モスクワには母親と妹、若い婚約者もいるという。


↑ 亡命直前、ヘルシンキでリハーサル中のムローヴァとジョルダニア。
文化省から彼女に貸与されていたストラディヴァリウスはホテルに残していったそうです。

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。。。昼寝していた監視役さんはどうなってしまったんでしょうか?(そこじゃない)

情報を訂正・追加していきます。


マルタ・アルゲリッチの来日時の生写真2枚

2016-12-22 23:31:13 | メモ

アルゲリッチの日本公演らしき謎の生写真が手許に2枚あります。

一枚目は画質こそ悪いけれど、いつ撮られたものかはわかります。

 



↑(写真の裏)1981年4月6日東京文化会館でショパンの協奏曲第2番を演奏中のものらしいです。「P」の字が玄人っぽい。



解像度の高い二枚目は詳細が不明です。

 



裏には「音新」(雑誌の音楽新潮のことか)というハンコと、「97」(94?)という手書きの数字があります。

いつ、どこで撮られたものかが判明したら追記します。


日本初の音楽大学オペラ(武蔵野音大・フィガロ、1956年)

2016-12-06 00:38:19 | メモ

『時事世界』1956年12月号に「日本最初の音楽大学オペラ」という記事が掲載されています。

武蔵野音楽大学(1949年設立)が音楽学校としては我が国初の本格的オペラ科を1955年春に特設し、ドイツのアルフレッド・ボルヒャルト(Alfred Borchardt)の尽力で1956年10月20日、東京・青山の日本青年会館ホールにて「フィガロの結婚」の初公演を実現させました。


↑ 初公演当日における楽屋。出演の学生たち。リラックスしていますね。

 


↑ そのうちの一人。お名前等が判明したら追記します。

 


↑ 左端は幕間に次の場の指導をするボルヒャルト氏。奥は指揮のクラウス・プリングスハイム(Klaus Pringsheim, 1883-1972)

 


↑ 中央のお二人はドイツ大使夫妻。神妙な表情ですけど公演は予想以上の成功だったようです。

。。。本当にこれ以前に音楽大学によるオペラ公演がなかったのか・詳しい出演者など、情報を追加していこうと思います。


チャップリンと一緒に撮影された音楽家

2016-11-24 21:25:31 | メモ

古本屋で『チャップリン自伝』中野好夫訳(新潮社、1966年)を税込100円で買ってきました。

チャールズ・チャップリン(1889-1977)がアインシュタインなどの有名人と一緒に写っている写真がたくさん掲載されており、中には音楽家とのものもありました。



1. ピアニスト、レオポルド・ゴドフスキー(Leopold Godowsky, 1870-1938)と。


↑ チャップリンの向かって左にいる長男でヴァイオリニストのレオポルド・ゴドフスキー・ジュニア(Leopold Godowsky Jr.)はのちにカラー・フィルムの発明者の一人になったそうです。

 



2. ヴァイオリニスト、ヤッシャ・ハイフェッツ(Yasha Heifetz,1901-1987)と。


↑ ふたりとも若いですね。

 



3.クララ・ハスキル(Clara Haskil, 1895-1960)、パブロ・カザルス(Pablo Casals, 1876-1973)と。


↑ どういう事情で一緒なのか調べます。