チュエボーなチューボーのクラシック中ブログ

人生の半分を過去に生きることがクラシック音楽好きのサダメなんでしょうか?

ヴィクトリア・ムローヴァの亡命(1983年)

2017-05-20 23:16:35 | メモ

FOCUS誌1983年7月22日号にヴァイオリニスト、ヴィクトリア・ムローヴァ(Viktoria Mullova, 1959年生まれ)がソ連から亡命したときの様子が載っていました。彼女は当時まだ24歳。

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1982年のチャイコフスキー国際コンクール・ヴァイオリン部門で第1位になったムローヴァは翌年1983年の6月から7月にかけてソ連文化省下のアーティスト・マネジメント機関「ゴスコンツェルト」の主催でフィンランド演奏ツアーを続けていた。

1983年7月2日、スウェーデン国境まで約200キロのクーサモで演奏会を開き、翌3日、伴奏ピアニストのヴァフタング・ジョルダニア(Vakhtang Jordania, 1943-2005)とともに「市内観光」と称して街へ出た。監視役の文化省の役人がホテルで昼寝していている隙にである。街にはフィンランド人の協力者がいた。彼の手引でタクシーに乗り、そのまま国境を越えてスウェーデン領内に入り、警察に亡命・保護を申し出たのである。

その後、ストックホルムのホテルに着いた彼女は3日間沈黙を守っていたが、7月7日になってようやく心境を明かした。

「私たち、駆け落ちではありません。ジョルダニアさんは以前から亡命を考えており、私もチャイコフスキー・コンクール優勝後、外国に行きたいと考えていたのです。政治的な理由からではなく、音楽上の理由で...。ソ連の中では、機械のように動かされるだけで、芸術家として好きな曲が弾けない。もっと自由に演奏活動がしたかった。たまたまそういう考えの二人が同じツアーを組むことができて、亡命のチャンスを狙っていたわけです。ただ、同行の役人の監視がきびしくて...。3日に失敗したら、6日にもう一度挑戦するつもりでした。いま、米国行きのビザを申請しています。米国には友人が何人かいますので、演奏活動も当然そこですることになると思います。」

関係者の間では、彼女の亡命の背景には師レオニード・コーガン(Leonid Kogan, 1924-1982)の急死がからんでいるともいう。彼女がコーガンの死で大きな後楯を失ったのにひきかえ、チャイコフスキー・コンクールで彼女と一位を分け合ったヴァイオリニスト、セルゲイ・スタドレル(Sergei Stadler, 1962年生まれ)がソ連楽壇でチヤホヤされていることへの反発もあったようである。モスクワには母親と妹、若い婚約者もいるという。


↑ 亡命直前、ヘルシンキでリハーサル中のムローヴァとジョルダニア。
文化省から彼女に貸与されていたストラディヴァリウスはホテルに残していったそうです。

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。。。昼寝していた監視役さんはどうなってしまったんでしょうか?(そこじゃない)

情報を訂正・追加していきます。