ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.2.26 造影CT撮影(頸部~骨盤)

2010-02-26 20:31:27 | 治療日記
 今日は、午前中の仕事を終えて大急ぎで電車に飛び乗って、CT検査に出向いた。ここで造影CT検査を受けるのは1昨年の転院以来入院中も含めてもう6回目になるだろうか。受付後、いつものようにCT準備室で血管確保をして、生理食塩水を点滴で落としながら廊下で呼ばれるのを待つ。予定の時間より若干遅れて検査室に入り、造影剤が入って無事検査終了。病院に入ってから1時間ほどで支払いまで終わり、その後、遅いランチの際、少しでも早く造影剤を体外排出するためたっぷり水分を取って帰宅した。

 先日あけぼの会のメンバーとおしゃべりしたときに、「今は3ヶ月に1度の通院で、検査結果を聞くのが次回の外来。3ヶ月前の結果を聞いても、その後何か変化しているかも、という心配もあるし、その間ずっと結果を心配しているのは(精神衛生上)実に良くない」という話題が出た。
 確かに、私も今の病院に転院する前は2ヶ月に1度の経過観察で、「検査は次回診察時までに済ませておいてくれれば、結果はその時に」と言われて、次回診察前の2週間くらい前に各種検査が終わるように日程調整をして受けていた。ただ、血液検査の結果を聞くまでには(通院間隔と同じ)2ヶ月のタイムラグが必ずあった。
 実際、腫瘍マーカーが上がりだしたのは2007年7月から9月の間だったけれど、それを知ったのは11月。その後、間隔を短くして検査してみようということで12月、1月、ときて上昇が続く中、CTを撮り、骨シンチもして、これはやっぱり再発・転移だ・・・となったのであった。

 今では幸か不幸か毎週の通院治療となっているので、こうして金曜日に検査を受けて翌週火曜日にはすぐに結果が聞ける。それでも土日はなんとなく悶々としてしまうので(最近では大分ずうずうしくなったので土日はいつもどおり楽しむことにしているが)、3ヶ月も宙ぶらりんのまま結果待ちさせられたら、精神衛生上良くない、と思うことは当然だろう。タイムラグだけでなく結果を待つ間の精神衛生上の問題、なんとかできたら、と思う。

 今日は1冊読めた。近藤史恵さんの「サクリファイス」(新潮文庫)。前回読んだ「Story Seller 2」の中でも本編の外伝を書いていらして、(面白そう)と興味を持ったので、今回“「本屋大賞第2位」自転車ロードレース×青春×サスペンス”という帯に惹かれて手に取った。結果、大満足だった。解説の大矢博子さんも半ば興奮気味に書いておられるが、わずか250頁というボリュームなのに、全く自転車競技等見たことも聞いたこともない私が、そのリアルな臨場感あふれる筆致にすっかりのめりこまされてしまった。またミステリーにはまって寝不足になりそうで、ちょっと怖い。

 さて、昨日今日と職場である大学では2次試験が行われている。入構規制も実に厳格である。昨年はタキソテールにすっかり打ちのめされて家で寝ているしかなかったので、受験生の大群とは遭遇しなかったけれど、(ああ、あと4年したら、私もまた受験生の母になるのだなあ・・・)と不思議な気分になった。
 息子を出産してすぐに、ほぼ産休明けの状態で今の職場に異動してきた。首も据わらなかった息子を生後59日で保育園に入れたのを皮切りに、その後この職場に通い続けて、この春が来ればちょうど14年だ。
 あっという間といえばあっという間だけれど、この14年で自分がどれだけ成長できたのか、と思うとあせると同時に下を向いてしまう。
 かたや自分では何も出来ずに泣くだけだった息子は今やご多分にもれず、一人で大きくなったような顔(と態度)をしており、私を追い抜いて170センチ、50キロ、足の大きさにいたっては夫も抜いて27センチ(何とかの大足といいますが・・・)である。

 一昨年の春に今の事務室に異動するまでは、学生さんたちと直接対峙する仕事はしていなかったので、今はとても新鮮だ。
異動してきた頃は、今よりは見た目ももうちょっと若かったので、先生方から「ご父兄の方ですか?」と尋ねられることはなかったけれど、いまやすっかりその年代に達しているし、学生さん達を見る目はすっかり保護者のそれになっている。

 担当している院生の生年月日を見ると、私が働き始めた年であるから、少しばかり愕然とする。平成生まれの子どもたちが大学生、いやはや、である。

 とにかく息子の年齢と今の職場暦が一致している。少しでも長く働き、4年後も恐れながら受験生の母をやっていたいものだ。こんなことを言い出すとはノーテンキに思われるかもしれないけれど、最近、このまま当分大丈夫そうな気がしている。別になんの根拠もないのだが、4年後に再び「受験生の母」として、やいのやいの言っていそうな感じがする。そう思える私はやっぱり幸せ者だ。
 そう思わせてくれる周りの人たち、環境、全てひっくるめていろいろなことに感謝、感謝である。
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2010.2.23 ハーセプチン82回目、ゾメタ32回目

2010-02-23 20:28:53 | 治療日記
 今日は4週間ぶりの皮膚科診察の日だった。受付後ほとんど待たずに呼んで頂く。前回処方された薬のおかげで手指の荒れはとても良くなっている。先週鼻風邪をひいたため、ちょっと鼻をかみすぎたせいで鼻孔縁はまだ完全には治りきっていないけれど、ステロイド軟膏もよく効いている旨ご報告。右足の爪も大分伸びてきており、診て頂くと「次回3月末の診察で、いったん卒業でいいでしょう。」ということになった。1年ちょっとお世話になったことになる。 長いような短いような1年だった。
 1階に降りて内科へ。こちらもほどなくして呼んで頂き、「少し傷口周りの皮膚がちくちくしていますが、先週は特に変わったこともなく、大丈夫です。」とご報告。金曜日のCTと来週の採血等の予定を確認して処置室へ移動。
 こちらも空いていて、いつもの点滴椅子を確保。検温、血圧測定の後、針を刺して薬を待つこと30分ほどで無事に点滴開始。今日はゾメタも含めて4本だったが、開始が思いのほか早かったので、いつものこの薬の組み合わせの時の“点滴椅子でのサンドイッチランチ”ではなく、レストランで食事をして帰ってくることができた。

 今日は3冊の本を読めた。1冊目は新潮社ストーリーセラー編集部編の「Story Seller 2」(新潮文庫)。沢木耕太郎さん、伊坂幸太郎さん、有川浩さん、近藤史恵さんら日本作家界のドリームチームが再び競演、と裏表紙にあるとおり、前編読み切り。恥ずかしながら読んだことのない若手の方ばかりだったけれど、どれも楽しめた。なかでも有川浩さんの「ヒトモドキ」はもう次のページ、次のページ、と吸い込まれるように一気呵成に読んだ。実に怖い話であり、とても切ない話だった。
 2冊目は上野創さんの「がんと向き合って」(朝日文庫)。上野さんは現在も活躍する朝日新聞の記者。1997年、26歳で睾丸腫瘍を告知された時、すでに肺に多発転移があり、告知からほどなく職場の先輩記者である奥様からのプロポーズで結婚、退院後1年弱で肺に再発、さらに翌年再々発。これは2000年に神奈川版で連載した記事が2004年に書籍化、さらに2007年に文庫化されたもの。その後3度目の再発をみることなく7年近くを経た現在の心境とともに綴っている。解説は鎌田實先生。「人は一人で死んでいく。だけど一人で生きることはできない。」実感だ。
 3冊目は島田洋七さんの「がばいばあちゃんスペシャル かあちゃんに会いたい」(徳間文庫)。先日テレビでドラマが放映されていたが、これは「あのがばいばあちゃんの血をひくすごいかあちゃんとはいったい・・・?世界中の母ちゃんにささげる笑いと涙の感動作」と裏表紙にあるが、丸ごと一冊泣き虫明広君のお母さんへのオマージュといったところ。あとがきではビートたけしさんの「男ってみんなマザコンだよな。」に対して著者は「子どもは、みんな、かあちゃんが大好きだ。」と結ぶ。私もしっかりしなくては、と思う。

 今日は昨日までとは打って変わって本当に暖かかった。帰り道に書店で本を物色し、少し買い込みすぎてしまい、荷物を持って歩くと汗ばむほどだった。
 帰宅するとあけぼの会東京支部から3月、4月の虹のサロンのお知らせのハガキが届いていた。3月は残念ながら叔父の法事とバッティングしたので、4月の会に申し込みのメールを出した。

 10月末から開始したこのブログのトータル訪問者数が今朝10,000を超えました。トータル閲覧数は21,000を超えているので、それぞれの方が2頁は見てくださっているということでしょうか。
 ここのところおかげさまで病状が小康状態にあるので、治療日記としてはジェットコースターのようにハラハラドキドキ、というわけにはいきませんが、私としてはこのまま淡々と今の治療が一日も長く続いていくことを願っています。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
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2010.2.22 英語教育雑感

2010-02-22 19:09:50 | 日記
 息子が昨日英検の2次試験を受験した。中1で5級、4級を、中2の1回目で3級を取れたので、今度は準2級に挑戦した(させた)。結果は3月になってから、ということだが、2次の面接試験会場が今から30年以上も前、私が中学生の時に受験した会場と全く同じ私立高校だったことに感慨を覚えた。

 私の時代にはまだ準○級も5級もなかったから、中2で生まれて初めて4級を受けて、合格通知のハガキを待ちながら実家のポストに郵便屋さんが通ると行ったり来たりしてどきどきしたのを覚えている。
 翌年、中3で3級を受けて、大分間が空いて2級は大学受験終了後すぐに受験した(今思うと、当時が一番英語力があったような気がする。)記憶がある。私は中学に入るまで英語を学んだことはなかったし、学校の授業以外にNHKのラジオ基礎英語、続・基礎英語を聞く程度だったし、当然海外居住経験もなかったので、こんなところだろう。

 その後、大学時代、就職するにあたって資格として1級が欲しくて英会話学校に通ったけれど、結局2次試験に通らず、準1級が出来た後、いまさら準1級を受け直すのも・・・、と後ろ向きに、チャレンジしないままだらしなく今に至っている。

 今ではホームページにバーチャル二次試験などもあるし、試験の結果もハガキが来るより前に自宅のパソコンから確認できる。本当に隔世の感がある。

 息子が2歳のとき、家族親類から馬鹿にされつつ某英語教材のフルセットにボーナス1回分をつぎ込んではや12年。学習は遅々として進まず、卒業テープも作れない状況である。それでも細々と週1回の電話と、ごくたま~に(一番最近行ったのは中学1年だったか?他の子どもたちより頭ひとつ大きく飛び出した息子がちょっと可哀想だった。)週末イベントに参加しているので、会費はいまだに自動引き落としされている。
 年に2回、クリスマスプレゼントとこどもの日プレゼントにDVDやら絵本やらが届き、誕生日にはカードが届く。さすがに12歳まではきちんとその年齢に応じたカードだったが、昨年13歳になって以降は自分で年齢を記入する汎用カードになっている。
 入会当時は、大きくなったら夏休みに募集する1週間のアメリカ旅行に一番憧れの先生と一緒に行けるように頑張ろう、などと思っていたけれど、小5,小6と中学受験準備で夏休みは身動きが取れなかったし、中学に入ったら入ったで学校のキャンプだの何だのあるし、2期制のため、8月最終週から学校が始まることもあり、日程があわないままあっという間。もうすぐ中3になってしまう。

 小2、小3の夏、2泊3日、家族3人で伊豆のサマーキャンプに参加したことがある。さすがに2泊3日、英語でゲームをしたりハイキングをしたり、先生たちとばっちり一緒に過ごすと、名前もしっかり覚えてもらって、その後週末イベントで再会すると、照れくさくなるようなオーバーアクションでハグされて(私まで!)可愛がって頂いた。誉めて育てないと上達しないのだよなあ・・・と実感したのだが。いまだにそのときのお友達とは年賀状のやりとりをしている(進みませんねえ、と嘆く母同士だけれど・・・)。

 かくして我が家の英語早期教育はとても成功したとは思えない。週1回先生とのテレフォンイングリッシュ(歌を歌うのがメインで、先生とちょっとしたやりとりがある課題)では、”THE KING OF ABC”と呼ばれるほど”ABC SONG”しか歌わなかったし、最近ではテキストを目で読めてしまうので、ヒアリングに役立っているともあまり思えない。声変わりの真っ最中で、がらがら声で歌っているので、そばで聞いていて(うーん・・・)と思ってしまうこともしばしば。いつ退会しようか、と思ったり、ここまで引きずってきたのでなんとか中3までに卒業テープを作れないものか、と思ってみたり・・・。それでも私の方が必死にならないので時間は無常に過ぎていく。

 今、学校の英会話の授業ではネイティブの先生に習っているというが、物怖じしない(ずうずうしい)ところはこうした教材等のせいか、それとも本人の資質か。

 本人がどう思っているか分からないけれど、これから生きていくのにコミュニケーション能力は高いほうがいいに決まっている。 英語を勉強して読み書きできる、聞くこと話すことができるようになることは、当然のことながら決して目的ではなくてツールにすぎない。母国語である日本語できちんと自分の考えが伝えられないのに、外国語で伝えられるわけがない。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、カバンの中に堆積層となったくしゃくしゃのプリント類から英語の小テスト5点(!彼の名誉のために付け加えると、100点満点ではなく20点満点です。)なんてものを見つけて、力が抜けてしまった。

 それでも今日も元気で全くめげる様子もなく学校に行っている息子に感謝、感謝である。

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2010.2.16 ハーセプチン81回目

2010-02-16 20:49:17 | 治療日記
 今日は朝から霙。なんとなく鼻かぜをひいたようで葛根湯を飲み、寒さにめげないようにしっかり着込んでレインブーツで出かけた。病院の最寄駅では降っていなかった。内科受付からほどなくして中待合へ入り、殆ど待たずに診察室から先生がお顔を出された。「今週は土日とも出かけて少し疲れていますが、あの後ズキンとする痛みはなく、圧痛、鈍痛以外特に変わりはありません。」とご報告。来週は皮膚科の後、ゾメタも含め点滴、金曜日にはCT撮影があることを確認する。
 ホルモン剤のアロマシンがあと6日分になったので処方して頂くが、来週末のCTの結果により薬の変更もありうる、ということで10日分だけ出して頂いた。
 処置室も空いており、奥の点滴椅子に落ち着き30分ほど待ったところで薬も到着。今までになく早いスタートで、新しい針も3回目、でずいぶん慣れてきた。
 終了後、薬局に寄って帰宅した。結局傘を差したのは行きの最寄り駅までだけだった。

 今日は1冊だけ読んだ。米原万里さんの「打ちのめされるようなすごい本」(文春文庫)。帯には「絶筆となった壮絶な闘病記(「私の読書日記」週刊文春)を収録する著者唯一の書評集」とあるとおり、彼女は2006年に卵巣がんで亡くなっている。600頁弱の本であり、中味もかなり濃いので、以前「癌治療法をわが身を持って検証」の部分のみ抜き読みしていたが、今日はようやく通読できた。
 本当にすごい方だ。エッセイ集も読んだけれど、本当に無類の読書好きと丸谷才一さんがおっしゃるとおり、その興味の広さと知識と教養の深さにこちらが打ちのめされる。自分はこんなにも本を読んでいないのだ、ということと、自分がこんなにもいろいろなことを知らないのだ、ということに。
 帰り道、書評にあった本を一冊買ってきた。

 読めば読むほど読みたい本と出合える、なんと幸せなことだろう。そして読まなければその素晴らしさを知ることができずに終わってしまう、とはなんともったいないことだろう。
 
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2010.2.14 「講演会とランチ」

2010-02-14 20:53:23 | あけぼの会
 今日はあけぼの会の「講演会とランチ」に参加した。メールで参加を申し込んだ翌日「受け付けました」の返信とともに「つきましては、今回の講演のテーマ『乳がん患者が本当に知りたいこと』ですが、あなたが術前術後に知りたかったことを思い出して、教えてほしいのです。今、知りたいことでもいいです。どんなことでもいいですから、箇条書きにして、いくつでも書いて送ってください。当日、講師の先生にお答えしていただけるか、こちらで判断して、前もって資料を作る予定です。返信はこのメールでおねがいします。なお、あなたのお名前を発表することはありませんので、心配なく。」とのお願いがあった。2日ほど悩んで返信を送った。

 どう書こうとしても、自分にとって一番聞きたかったことは、結局聞いても仕方のないことなのだ、ということは分かっています・・・、と自己完結してしまう。「予後」も「副作用」も「治療計画」も結局のところ百人百様。似たケースはあるかもしれないけれど、自分と全く同じ、はないのだし、確率論を聞いても自分に起きてしまえば100%、起きなければ0%。前回も書いたとおり”ALL OR NOTHING”である。だから慰めにはならない。
 いろいろ書いては消し、書いては消ししながら、私が本当に知りたいことは何だったのだろう、逆にこれを知っていたら今の状況にはならなかったのだろうか、と考えこんでしまい、だんだん辛くなった。
 そんな気持ちのままで、まとまりもなくお返事してご迷惑をかけたなあ、と反省した。

 確率論については、再発してからすっかり頼りにしなくなった。合格率だって同じ。合格すれば100%、不合格なら0%。80%受かるといっても10回受けて8回合格をもらえるわけでなし、再発率20%といっても自分が再発すれば100%なのだから。だから早期発見、早期治療がベスト、検診を受けましょう、とも言い切れない。へそ曲がりの私だ。
 定期的に検診を受けつつ、早期に自分で見つけ、早期で標準治療をしていてもこうなるときはこうなるのだ、という良い例ではないかと思う。別に斜に構えるつもりもないし、投げているわけでもない。不思議なことに淡々とそう言えるようになった。
 今、言えるのはもちろん検診は大事だし、自己検診も大事。でもそれだから絶対安心、ということはない。まじめにフォロー治療をしていてもそれは予防ではない。再発するときは再発する。もちろんきちんとフォローしていればそれが少し早く見つけられるだけだと。
 そう悟ってしまえば、あまり高望みはしなくなる。幸せのハードルが低くなったのは事実だ。
 負け惜しみではないけれど、人をうらやましがったり、自分を不幸がったりもしなくなった。
 もちろん、病気を得たことは幸せではなかったけれど、身の回りに小さな幸せはいっぱいだ。病気になったのが夫や息子でなく、私でよかった、とも思う。病気を得たことでやはり少し成長したかもしれない。

 定員50名のところ90名申し込みの盛況だという濱岡先生の講演のテーマは、1.「私はなぜ乳がんになったのだろう」 2.「再発する人としない人の分岐点」 だった。最初の会長さんからのお話の通り、誰もが乳がんになったとき「なぜ私が・・・」と思うのに、実際治療が始まるとこの根本的なことを考える暇もなくなる、実にその通りだ。これまで講演会でのテーマにはなかったけれど、一度吐き出して考えたいことだった、ということに深く納得した。
 確かにもう再発してしまった事実は変えられないけれど、これからの再々発をなるべく遠くにおいておくために危険因子を知ることは大事なことだろう。原因はストレス、と考えていらっしゃる方が殆どだったが、実際のところそうでもないようだ。ストレスは生活する上で避けられないし、逆に適度なストレスならある程度は必要なのだろう。好きな食べ物も飲み物も“ほどほどに”明るく暮らしていくことが必要だ、ということがよく分かる。
 今や自費でOncotype DXやMamma Printで再発率などの予想ができるようだが、かつて早期と診断された私と同じような症例で危険率95%という結果が紹介されていたから、私ももし今検査してみればきっとそうだったのだろう、と納得してしまった。質疑応答も良かった。「乳がんと牛乳」というベストセラーは私も読んだけれど、現代の食生活で乳製品を全て避けきるのは本当に難しい。「今あるがんが消えていく食事」もしかりだ。
 その後、会場を1階のレストランに移してのランチバイキングでのおしゃべりも楽しかった。食後はまた会議室に戻り、北は北海道、南は鹿児島まで、全国支部長さんや事務局の方々の自己紹介の後、再発グループ、術後日の浅いグループ等4つのグループに分かれてお話した。11時から夕方4時までという長丁場であったのに、最後にはもう時間・・・と思ったほどあっという間で、前回同様会長さんの思いが伝わってくる集いであった。おかげさまでまた新しいお友達も出来て、「ブログを読んでいますよ」と声をかけてくださった方もいらして、やっぱり参加してよかった。また次回もお会いしましょう、と言い合って名残惜しくお別れした。
 別れ際には会長さんと握手もしていただき、元気を頂いた。事務局の皆様方にも毎回感謝、感謝である。

 来月からは毎週この会場で講演会や相談会が定期的に開催されるそうだ。来週にはピンクのはがきが届くという。病気になって、さらには再発して、それでも生きていかなければならないけれど、一人では辛いときもある。そんなときに同じ病を経験した者たちが話し合える場、『あけぼのハウス』。2010年のあけぼの会のビッグテーマはこうして少しずつ患者の声をまとめて全国のドクターたちにわかってもらうこと、だという。
 これからがますます楽しみだ。

 さて今日はバレンタインデー。出がけには、日曜日で職場の義理チョコももらえなそうな夫と男子校で下駄箱にも何も入っていそうにない息子にチョコレートを渡し、帰りにはケーキのお土産を買った。
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