ロッキングチェアに揺られて

再発乳がんとともに、心穏やかに潔く、精一杯生きる

2010.3.31 携帯とゲーム

2010-03-31 20:27:59 | 日記
 年明けに届いた携帯電話の請求書に驚いた。
 息子のiモードが凄いことになっていた。請求額は30,000円近く。本人も気になっていたようで、封書を先に開けてびっくりしたようだ。それでも甘いことに何とかしてもらえる、と思っていた様子だったので、無傷で済ませるのはまずいと(クリスマス・お正月・誕生日に祖父母からもらっていたお小遣いを預かっていたので、これで)補填させた。

 息子は保育園・学童育ち。当然鍵っ子だったので、小学校に入学してすぐに携帯を持たせた。塾に行き始めてからも連絡をとるのに必要だったので、携帯所持暦は既に8年になる。中学生になると、学校で携帯持参が禁止されていたので、普段は持っていかない。土日など実際連絡をとりたくて電話をしてみたところで、携帯ゲームのやりすぎかメールのやりすぎかわからないけれど、電池切れでちっともつながらない。この機会に、当分の間ということで、携帯を取り上げた。そして、今後は携帯から好きなサイトを見るのは禁止にした。
 「30,000円」というお金をわずか何分かの快楽のために使ってしまったことについて、このお金を得るためにどれだけの労力がかかっているのか、このお金でどれだけのことが出来るのか、どれだけの食事が出来るのか、ひいては好きな鉄道旅行がどれだけ出来るのか、お金の価値が何を意味するのか本当にわかっているのだろうか、と実に暗澹たる気持ちになった。

 続いて翌月、サイト請求額が発覚する前の残り半月分の請求があったので、既に2万円を超えていた。あの場で取り上げなかったらおそらく4万円を超えていたのだろう。息子の携帯名義は私なので、私が会社に電話をして相談し、今回の請求に対する救済措置をしてもらった上で息子に内緒で「学割、パケ放題」に変えた。これからはどこからでも誰からでもメールは無料だし、パケットはどれだけ使っても4,400円どまり、というものだ。

 それにしてもこうした機器の取り扱いについては、とても親世代はかなわない。自分で情報をいとも簡単にダウンロードできてしまう。息子はメールの開閉にもしっかりパスワードをかけているから、どの程度友人とメールのやりとりをしているのかわからないし、お気に入りに入れた情報サイトが何なのかも確認できなかった。当然解除することは私にはできなかったので、自分で解除するように言った。が、残念ながらのらりくらりとその言いつけに従わなかったのだ。会社に問い合わせていろいろ説明を受けたのだが、どうも電話等と違って「何分使ったから、何分見たからいくら」というシステムではなく、頁を繰るたびに何万、何十万というパケットが必要で、実際には重いものだとちょっと見ただけでも何千円単位でかかる、ということらしい。

 私はつくづく“遅れている”のだと思うけれど、なんだか狐につままれたようだ。
 入会するときは簡単に出来て、いざ辞めようと思っても、その際に解除の画面に入っていくために何段階もの閲覧が必要なため、多大なパケットがかさむように出来ている。実に大変なシステムのようだ。思わず「それって詐欺ですよね。」と言ってしまった。ようやく重い腰をあげてショップまで出向いて、その場で息子が登録していた情報サイトの退会手続きをしてもらい、先方からの提案で今後ダウンロードする時にお金がかかるものについては一切出来なくなるように設定を変更してもらった。別にあえて小さな携帯サイトを見なくても家でPCからいくらでもアクセスできるのだから、見たければPCで見なさい、と言うことにして。

 そして今月の請求書。なんと今度は私のiモード請求だけで16,000円とあった。携帯メールのやりとりはほとんど夫や息子とだけだし(家族内メールは無料である。)、患者会の友人等と時々やり取りがある程度で、私の携帯メールアドレスを知っている人はごくわずかだ。なぜ急にそんな・・・とのけぞった。
 いろいろ考えても思い当たらないので、遡れるだけ通話通信記録明細を請求した。年明け早々1件だけレストランのメール会員登録をしたところ、その後写真のメニュー入りのメールを何通か受け取った。それがどの程度のパケットなのか気になっていた。いきなり息子を疑うのも・・・と思ったので。

 その明細が一昨日届いた。確認してみると、やはり友人等とのメールのやりとりは微々たるもので、恐れていた写真入のレストランからのメールも大したことはなかった。が、今回を機に退会した。わずかドリンク1杯のサービスにつられて、実に高い授業料を払ったものだ。それとは別にサイトの閲覧に数十万、数百万単位のパケットが数多く記載されていた。しかも通信日時は私が寝ているはずの夜中の0時、1時、といった具合。息子が私の携帯からこっそり見ていたことが判明した。

 どうしてこういうことになるのか、情けないことに私から言っても聞かないので、夫からきちんと言ってもらった。携帯が出来て昔に比べて本当に便利になった。今や公衆電話を探すのも一苦労で、携帯がなければ本当に困るけれど、こうした親子間のトラブルも増えているように思えてならない。

 現に店頭の担当者も「『パケ放題』にしたことは内緒の方がいいですね。いくらやってもいいんだ、ということになればきりがないですから。」と。息子の携帯は今から3年前に新しいものに買い換えた。当然小学生だったからキッズ用フィルターで有害サイトを見ることは出来ない、ということにはしてあった。でも、実際のところ、全く甘かったのだ。

 今思えば、私の携帯の購入時にも頼んでもいない情報サイトが最初からセットでついていた。恥ずかしながら削除をしないで放ってあったので、(どうすればよいのか厚い取説をひっくり返して調べもしなかったし、うまく出来なかった。)、毎月引き落としに甘んじていたけれど、今回それもあわせて解約してもらった。おかしいと思ったら、もっとマメに店頭に出向かなければいけないのだ、と痛感した。

 そんなわけで息子との関係が険悪である。家にいればPCでだらだらとゲームをしているし、時間を決めてやる、ということが今になってもなかなか守れない。

 小学生のうちから携帯ゲーム機をとても欲しがったが、「我が家にゲームを買うお金がないわけではないけれど、我が家はゲームを買わない方針だ。」とはっきり言って、ずっと我慢させていた。もちろん私も大昔にファミコンやゲームボーイで遊んだことがある。初期の落ちモノやらRPGには結構はまったこともあり、寝食を犠牲にしたことも若干あった。が、結局何も得るものはなかったことが良く分かった。そして大人でも歯止めが利かなくなりそうなゲームを子どもに与えたらどんなことになるか、たやすく想像が出来たのだ。

 それなのに、夫が「志望中学に受かったら」ということで購入を約束していた。前にも書いたけれど息子の中学受験は第一も第二も第三志望も残念な結果だったので、当然買わないものと思っていた。私は最後まで反対していたが、夫が「結果は残念だったけれど、受験は頑張ったし、可哀想だから・・・」と買い与えてしまった。「ちゃんと時間を決めてやる、と約束させるから。」と。結果、当然やり放題である。隠れてベッドの中でもやっていた。さすがに学校に持っていくと没収らしいので持ち出すことはないようだが。

 こうなることが分かっていたから反対したのに、と思っても後の祭り。仕方なくゲーム機を隠したり、と全くいたちごっこである。
 先日の保護者会のときに、同じグループに座ったお母様方に携帯の使用状況について参考までに聞いてみた。6人中1人は携帯を持たせていない、1人はパケ放題にしている、それ以外の3人はある一定金額以上になったら自分で払わせている、とのことだった。そのため、一度痛い目にあった後は上手にクリアしてそうそう使っていない、とのこと。息子に言わせると「ボクだけ違う。みんなパケ放題なのに。」。ああ、また得意なパターンである。そう簡単には騙されないし、息子が「みんなは、みんなは・・・」と言っても、仮に本当にみんながパケ放題だ、としても、我が家は我が家の方針だ。やはり一定金額以上は自己負担にする、が一番現実的なようだ。

 保育園の頃は熱を出さずに元気に登園してくれるだけで充分幸せだった。勉強が始まったといってもお気楽な小学校低学年だった。塾に行き始めて、受験を経験し、さらに中学生になり、思春期を迎え、悩みは深く尽きなくなってきた。

 それでも息子ときちんと向き合って、今日も言いにくいことを言いまくる私である。
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2010.3.30 ハーセプチン87回目

2010-03-30 20:21:49 | 治療日記
 今朝は最寄り駅での電車の遅れで次の電車にも乗り遅れ、病院到着がいつもより10分遅くなった。
 それでも殆ど待つことなく診察室へ呼ばれた。あわてて入ると、先生から「急いで走って息が切れないですか。」と質問されてしまった。先週そんなことを訴えたからだった。「はい、大丈夫です。ここのところとても寒いのでこわばりが気になります。今までは傷跡付近の痛みがあったのですが、今は骨なのかどうか右辺りが傷みます。」と言ったところ、「病気のために痛いのか、ホルモン剤での関節痛かわからないですねえ。」というお答えだった。
 次回は4月。先生の火曜日診察がなくなるため、次回からは水曜日だ。月初めなので採血も予約して頂いた。

 すんなり処置室に移動して、いつもの指定席を確保。今日は血圧が最初は上が80台だったので、もう一度、ということで計ったけれど、やはり90台そこそこだった。そのため、点滴中に3度目の測定をし、ようやく100に届いた。念のため点滴後もと、あわせて4回測定したが最終回もやはり90そこそこで、体温も36度とやや低めだった。針刺はあいかわらず、顔をしかめてしまうが、点滴はスムースに終了した。

 今日は合計5冊読めた。
 1冊目は渡辺淳一さんの「鈍感力」(集英社文庫)。単行本でも読んだけれど、文庫になったので購入した。「まさしく今、したたかな鈍感力なくして生きていくのは難しい」ということで実に納得である。ことに「だいたい、年齢をとっても元気な人は、ほとんど人の話はききません。」というくだりには、身の周りに思い当たる高齢者が多くいて、ニヤリとした。
 2冊目は大橋歩さんの「おしゃれのレッスン」(集英社文庫)。四半世紀近く前に出たものだけれど、カラーイラスト満載で今でも充分楽しめた。「おしゃれは自分が気分良くありたいから努力すること。周りからも素敵と思われることは気分が良いに違いない。」これも実にそうだ。春だ。おしゃれの季節だ、と思い、おしゃれが好きな私もうきうきした。
 3冊目は昨年がんで亡くなった筑紫哲也さんの「スローライフ ―緩急自在のすすめ」(岩波新書)。道草をしなくなった子どもたちの話題から「こんなに、目に光がない子どもたちが多い国は世界のどこにもいない。」というくだりや「学ぶということは自発性による」という生涯学習論など興味深く読んだ。本当に学生時代までは哀しいかな、何らかの義務感から勉強していたけれど、社会人になってオープンカレッジ等に通ったことを思い出すと実に“自発性”こそなのだな、と改めて思う。
 4冊目は辰濃和男さんの「ぼんやりの時間」(岩波文庫)。「ぼんやりと過ごす時間は、貴い!頭をカラッポにして、心を解放させるひとときのすすめ」という帯に惹かれて手に取った。息子を見ていると一日ぼーっとしている。思春期は確かに眠いものだったし、いらいらせかせかしていてもろくなことはない、とわかっているのだが、貧乏性な私としては気になって仕方がない。それでもアン・モロウ・リンドバーグの「海からの贈り物」を例に出して「女性はある時期、ひとりで過ごすべきだと思う。」とのくだりには、実際入院中に彼女の本を読んだことを思い出し、力強く頷いた。また、著者がちょうど私が学生時代に「天声人語」を書いていらした記者だったことが奥付からわかり、とても懐かしかった。今では野球好きの息子と夫のために別紙を取っているので。
 5冊目は楠木ぽとすさんの「産んではいけない!」 (新潮文庫)。今年100冊目にあたる本だ。どうも「少子化」にかかわる本音論かな、と思うと手に取ってしまう。10年近く前に出て文庫化されてからも5年経っているけれど、やはり変わっていないところは変わっていないのだなあ、とつくづく思う。

 先日、齋藤孝さんの「ムカツクからだ」(新潮文庫)を読んだ。それにしてもよくここまで「ムカツク」という言葉について小学生から大学生まで自由記述で詳細なアンケートをとり、ここまで分析できたものだと感心した。

 息子が小学生の頃、何かあるとすぐ「ムカツク」とか「キモイ」とか「ウザイ」とか言う時期があった。そのたびに「どういうこと?その言葉はとても感じ悪いから使うのはやめて。私はその言葉が大嫌い。」と何度もしつこく言った。そう言い続けたのは間違っていなかったと思う。最近あまり言わなくなってきたようだ。

 もちろん思春期は誰しも通り過ぎてきた道だ。不機嫌だし不安定だし、いらいらしているのは確かに分かるのだけれど。「ムカツク」一言ではすまなかったように思う。

 最近どうも違和感のある言葉が多い。(えっ、この人までこんな言葉を使うの?)という言葉もある。もちろん私がいつもきちんとした言葉遣いをしているとはとても言えないし、80年代に女子大生をやっていたので、「えー、うっそー、ほんとー」等という3種の言葉も使っていたのだから恥ずかしいのだけれど、それでも日本語がずいぶん変わったなあ、と思う。

 「~じゃないですか」等と語尾を上げるのもそうだし、「○○の方(ほう)」といちいち「ほう」がつくのも、聞いていてどうもムズムズしてくる。仕事をしていて「さくさく」とか「ざっくり」とかいう言葉を聞くと、(えっ、そういう使い方だったの?)と思ってしまう。ビスケットを食べる時などの擬音語や食感ではなくて、はたまた何かを切る音ではなくて「すいすい」とか「おおまかに」、という意味で使っているのだろうけれど、私はなんだかあまり好きにはなれない。

 「素足(すあし)」という言葉もすっかり聞かなくなった。(「ナマアシ」って一体何・・・?)と思う。なんだかとてもしなびかかった大根を思ってしまう私はひねくれているのだろうか。

 こんなことを言い出すのはつまりは歳をとった、ということなのかもしれない。もちろん言葉は生き物だからある程度は仕方ないものなのだろうけれど、どうも好きになれない言葉が増えてきたように感じる。

 今年度も残すところ明日一日となった。ここ10年以上、年度末・年度初めは忙しいか体調が悪くて入院しているか通院しているか自宅療養しているかだったので、こんなふうにゆったりとした気持ちでいるのはとても久しぶりだ。
 
 5月半ばまで年休で通院を粘れば、また病気休暇が取得できるようになる。それまでなんとかこのままのペースでもって行きたいと思う。

 スキーに行っていた息子も無事帰宅した。残念ながらバッジテストは本番失敗して級アップは叶わなかったようだ。半分残った春休みは少し課題でも自主的にやって頂きたいものだ。
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2010.3.28 オケとの合同練習~桜さくら

2010-03-28 21:08:11 | 合唱
 昨日は5月の第九演奏会に向けて初めてのオケとの合同練習だった。
 さすがに300人以上の合唱団と100人近いオーケストラが入る練習場は酸欠になりそうなほど満員で、椅子も並べ切れないほどだった。簡単な発声練習のあと、2時間ほどオケあわせをした。こんなに身近にオーケストラを見るのは(しかも後ろから)久しぶりで本当にわくわくした。
 やはりOBで中学・高校とトロンボーンを吹き、大学では混声合唱をやっていたとおっしゃる朝日新聞の記者の方が取材に見えており、休み時間にちょっとしたインタビューもお受けした。卒業以来四半世紀ぶりにホームカミングデーのOB・OG合唱団に参加し、すっかり味を占めて今回参加したこと、5年前から闘病中ではあるけれど、こんなふうに第九が歌えて嬉しいこと、などをお話した。
 また、高校のブラスバンド部の先輩の懐かしいお姿を見つけ、思い切ってお声をかけた。奥様は高校の同級生なのだ。お二人とも高校時代とは違う楽器で現在も活動を続けておられる。
 次回の練習は4月。4月前半の合唱だけの練習、4月末のオケとの合同練習を終えると、残すところ前日のゲネプロだけになった。本当にあっという間だ。

 昨朝から息子は3泊4日で春のスキー教室に出かけている。

 ちょうど一年ほど前、息子が伯母宅へ遊びに出かけたときのこと。ようやくタキソテールの最終クールが終わって3週間ほど経過して、薬のダメージも抜け始めてきた頃だった。「タキソテール終了!乗り切ったご褒美」と称して都心のホテルまで夫とお花見に出かけた。

 ホテルの庭園にそれは大きなソメイヨシノの木があって、本当にラッキーなことにジャストタイミングで満開を迎えていた。夜はライトアップされて、テレビの中継が入るほど素晴らしかった。
 チェックインした後はホテルのラウンジとレストランと庭園散策以外一歩も部屋を出なかったけれど(副作用の浮腫がひどくて長く歩くのがとてもしんどかった。夜は部屋までマッサージにも来てもらったけれど、象のようにぱんぱんに腫れた足は、ちょっと触れられるだけでもう飛び上がるほど痛かった。)部屋でのんびり読書をしたり、ラウンジでお花見にちなんだ桜のお菓子を頂いたりして、のんびり過ごした。これまた副作用のため、残念ながら味覚が十分には戻っていなかったけれど、夕食はお野菜たっぷりのフレンチを宿泊者割引で満喫した。久しぶりに2人でゆったりと食事が出来て、とても幸せだった。

 今年のお正月、家族でその隣のホテルに宿泊した。ちょうどレストランのスタンプラリーをやっていて「まあ当たるはずはないけれど・・・」と応募してきたら、なんと「一泊朝食付きスーペリアツインルーム宿泊券」が当たったのだ。今年も息子が春スキーに行ったら、去年と同じように花見に行こうか・・・、と言っていた矢先。なんてラッキー!ということで早速予約した。

 そんなわけで宿泊はこの特典を使い、お花見はお隣のホテルで、としゃれ込んだ。
 桜はとても思い出深い花だ。夫との初めてのデートはお花見だったのだから。

 開花宣言が出たときには、今年も宿泊時にはちょうど満開かもと楽しみにしていたけれど、その後のびっくりするほどの寒さで桜はすっかり縮こまってしまったのか5分咲きといったところ、ちょっぴり残念だった。
 それでもまた今年も桜のケーキを頂き、今日のお昼は彩りも鮮やかに盛り付けられた美しい花見弁当をゆっくり味わって心豊かに帰宅した。

 「又来年も来られたらいいね。」と言い合って、息子には悪いけれど、今年も夫婦2人で静かな花見を楽しんだ。

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2010.3.25 「長男の嫁」と「お墓」のこと

2010-03-25 21:42:01 | 日記
 お彼岸の連休中に久しぶりに義母が泊まりに来た。
 昨日が息子の学校の修了式だったのだが、すさまじくダウンした成績票の受取を、なけなしの休暇をはたいて保護者会に出席した母に任せ、彼は義母を送りかたがた義妹宅に泊まりに行っている。

 義母は来年には90歳に手が届くとは思えないほどの健康自慢。お産のときも自宅だったので、もちろん入院の経験もないそうだ。毎年夏は猛暑の義妹宅を避けて、これまた80才を超える妹たち(皆、未亡人である。女性長寿の家系のようだ。義母の母は95歳の大往生だった。)が住む北海道各地を1人で3ヶ月ほど転々と泊まり歩くほどだ。
 70歳を過ぎるまで現役で化粧品の営業をやっていたので、専業主婦だった母とはまったくタイプが異なる働き者で、じっとしていられない手八丁口八丁の女性だ。
 今では私は残念ながらとても定年まで勤め上げられそうにないので、その年まで健康で働くことが出来た義母には敬意を表している。

 病弱だったという義父は、夫と結婚する前に既に亡くなっていたので、義母は長い間一人暮らしだったが、さすがに10年ほど前に庄内の家を引き払って隣の県に住む義妹の家で同居を始めた。
 本当は長男(夫)の住む我が家で、唯一の姓を継ぐ男の孫(息子)と同居することが希望だったのだろうけれど、団地住まいでそれも叶わなかったので、義妹宅で義母の部屋の増築をお願いし、仏壇だけはこちらでお預かりしている。

 息子がまだ小さかった頃は、毎年、年度末年度始めの仕事の繁忙期で毎晩残業を余儀なくされていたし、夫も当然のように毎晩遅かった。実家の母は、一人では何も出来ない父を置いて、私の家に泊り込みで助っ人に来るわけにいかなかったので、やむなく義母に泊り込み体制で随分助けて頂いた。
 今でも保育園のお迎えの話になると、母である私より祖母である義母の方が有名人だった(みんなから「○○ばあちゃん、○○ばあちゃん」と呼ばれていた。)という話になる。卒園式の写真にも真ん中でにっこり写っている。
 保育園を卒園し、学童クラブに通い始めると、息子もある程度のお留守番が出来るようになったし、習い事で忙しくなり、私も夫もそれなりに仕事時間の調整が出来るようになった。
 中学受験のために塾通いが始まってから、ことに6年生にもなれば親より毎日帰りが遅いくらいだったので、義母はお手伝いにやって来るというよりも、息子と孫に会いに来るという感じで、私が病気になるまでは春と秋に1ヶ月程度逗留するのが常になっていた。
 さすがに息子も中学生になり、ひとりで留守番も出来るし、カップラーメンも作れるし、冷凍食品をチンしてお腹を満たすことも出来る。(かえって口うるさい親はいない方がいいのだろう。)

 それでも5年前の初発時に18日間入院したときは、夫一人が家事と私の見舞いと雑事もろもろ全て引き受けるというのはとても無理だったので、その間だけ泊り込みで家事をお願いした。その2年後、卵巣のう腫で10日間入院したときもその間だけ来て頂いた。

 今回は再発以来初めての来訪だった。
 前々から「また泊まりに行きたいんだけど・・・」とリクエストはあったのだが、再発以降は治療も毎週になり、疲れやすくなっていた。特に一昨年秋以降の抗がん剤治療中、その後しばらくは副作用で体調が悪かったし、容貌上(前にも書いたように「ハゲ・デブ・ブスの三重苦」)誰にも会いたくなかったので、あまり心配をかけないようにしつつも義妹には治療の様子を夫から伝えてもらって、とてもお招きして接待できる状況ではない、と申し訳ないけれどなんとかかんとか引き伸ばしてきた。
 さすがに「ずっと仏壇を拝んでいないので夢に故人が出てくるようになった。」と言われ、「短期だったら・・・」とで2年前の再発以来どなたも招き入れずにいた我が家の初めてのお客様となった。

 今回は昨年末に完成したお墓をお披露目した。
 当然代々のお墓は菩提寺のある(映画「おくりびと」で有名になった)庄内に残してあるし、義父まではそこに“いる”ので、義母から「私もここに入れてね。」と言われたときは、驚いた。義妹からも「兄貴のところなら車で行けるからそれがいい。」と言われてきたそうだ。

 そもそも東京生まれで東京育ちの私が、全く暮らしたことのない庄内の墓に入るのはあまり現実味がないし、そんなに遠くては夫や息子もとてもお参りには来てくれないだろうし、全く知らない夫のご先祖様たちの中に一人で“いる”のはちょっと考えられなかったので、今回墓地を購入したのだ。

 いつからボタンを掛け違えたのか、(義母と一緒のお墓に入りたくない。)と思っている嫌な自分がいる。
 本当は夫宛の遺書だけにこっそり書いておこうかと思っていたのだが、先般きちんと言葉にして言ってしまった。
 もちろん夫を産んでくれた大事な人だし、とてもお世話になったことも事実だし、ずっと苦労して働いてきたことに対して敬意を表してもいる。
 頭ではよく分かっているけれど、どうしても気持ちの上で“ダメ”なのである。

 「私は健康だから病気の人の気持ちはわからないのよねえ。」と言われて「本当にそうなのだろうな・・・」と思う。私に対する素朴な疑問やいろいろな言葉に悪気が全然ないのもわかっている。だからこそ言葉一つ一つがフラッシュバックされて辛いのだ。意地悪されていることが明白なら対応の仕方もあるのに・・・。
 それでも悪気がなければ、自分が知らないことならば、相手に対して何を言ってもいいのか、と問うてみれば、私はやはり”違う”と思う。私は当然のことながら、聖人君子でもない。哀しいかな、実に了見の狭い人間なのだ。

 夫には悪いけれど、お墓の件は近いうちにきちんと説明してもらうことを約束してもらった。
 「もしどうしてもこちらがいいということであれば、同じ公園墓地の中にもうひとつ別に墓地を購入することも考えるよ。同じお墓には入らないのはちゃんとわかっている。」と夫が言ってくれた。
 本当につくづくダメな「長男の嫁」である。

 それでも再発治療8年目であけぼの会事務局の重責を担っているTさんが治療日記で書いておられるように、「「やりたいことはやる」「いやなことはしない」の精神で自分らしく生きていきたい。」という生き方に力をもらっている。もちろん人として社会生活をしていく上で、全てのしがらみから解放されるのは難しいことだろうけれど、そのくらいに思っていないとなかなか辛いことが多い。
 私は病気になるまで、“ええかっこしい”だったし、人からどう思われるか、ということがとても気になる方だった。本当はいやなことでもいやと言えずに無理してやってしまう、というある意味優等生だったけれど、それで病気を悪化させることになったのでは、たまらない。

 これからは少しわがままでも自分の気持ちに素直に生きていきたい、と思ってのことである。


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2010.3.23 ハーセプチン86回目

2010-03-23 19:39:33 | 治療日記
 今日は3連休の後で、混雑を覚悟していつものとおり病院に入った。
 皮膚科では30分ほど待って手の爪、鼻孔縁、まぶた、足の爪を診て頂く。とりあえずまだ頂いた薬はあるのでこのまま足の親指の爪が伸びてくるのを待つことにし、今回で卒業、ということになった。足の爪は剥離した所から幅が狭くなって変形しているが、切っていないので様子をみるしかないようだ。御礼を言って内科へ移動した。
 内科でも中待合で30分ほど待って診察室へ。「先週末仕事で荷物を持ったり走ったりしたのでちょっと息苦しくなることがありましたが、それ以外は特に変わりありません。」とご報告して処置室へ移動した。
 「今日は今年になってから一番患者さんが多いのよ。」と看護師さんが言っていたが、何とか滑り込みセーフで点滴椅子を確保。いつものとおり刺針、検温、血圧測定後、お昼前に点滴開始となった。

 今日は2冊読めた。1冊目は島田裕巳さんの「葬式は、要らない」(幻冬舎新書)。日本の葬儀費用が諸外国に比べて高いのだ、と再認識。子どもの頃に「(祖父母の)戒名が院居士・大姉で○○万円だ」と親たちが話していたのをぼんやり聞いていた覚えがあるが、私は出家しているわけでもないので、戒名は要らないな、と思う。もちろんお別れのけじめは必要だとは思うけれど。
 2冊目は米原万里さんの「終生ヒトのオスは飼わず」(文春文庫)。猫4匹、犬3匹の家族たちに対する、著者の母のような愛情に心動かされた。解説で宇野淑子さんが書かれておられるとおり、「ヒトのオスは割り込む隙がなかったのだ」という言葉にとても納得した。

 昨日、東京でも桜が開花したとニュースで聞いた。
 気のせいかもしれないけれど、通院日はいつも天気があまり良くない。今日も花曇で薄ら寒かった。その週がおおむねずっと天気が悪いならばあきらめもつくけれど、1回崩れるときはどうも通院日にあたるようだ。雨だったり、雪だったり、霙だったり。なかなか傘の準備がいらない身軽ないいお天気、という日がないように思う。

 ただでさえ気が重い通院がますます・・・になってしまう。5年前、初発後の放射線治療初回の時を思い出す。
 3月の大雪で、それは大変だった。病院に着くまでに雪だるまになりそうだった。(先行きを暗示しているのでは、)と思ってしまったほど。それでも検査技師さんたちは「よく来ましたね、来ただけで偉い。」と言ってくださった。救われた。

 これも発想の転換で、(こんなにいいお天気なのになんで私は通院?)というよりも“今日はお天気も悪いから遊びにも適さない。だから観念して通院!”の方がいいのかもしれない。
 ただ調子がいいときにはそう言ってしまえるけれど、やはり体調が悪いときに足元が悪いのは辛いものだ。贅沢を言えば暑すぎず寒すぎず傘もいらず、が一番いいのかも。だから今日はいい通院日だったのかもしれない。

 今朝の新聞で、あけぼの会千葉で活動していらした小倉恒子先生が亡くなったとの訃報を見つけた。
 その昔、秘書の仕事を経験して以来、新聞では真っ先に訃報欄を見る癖が抜けない。しかも5年前に発病して以来、新聞や雑誌のどんなに小さい字でも「乳がん」とか「がん」の字はあたかも合格発表時の自分の受験番号のように目に飛び込んでくる。
 恒子先生のブログは3月7日が最後の更新で、具合が悪いのかと、とても気になっていた。34歳で乳がんを発病し、再発を繰り返しながらも現役で耳鼻科医を続けておられた。著書も数冊読み、いつも元気をもらっていたのでとてもショックだ。


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