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小田原の端々



明治時代の小田原を記録した小田原町誌によると、明治29年3月20日に日清戦争の戦利品として、銃や地雷、軍袴が大久保神社や松原神社に奉納された記述がある。それらの戦利品が現在も残っているのか分からないが、小田原高校の中庭には日清戦争の戦利品の鐘が現存していることを知り、先日写真を撮りに出かけた。5月20日の日曜日の午前中に小田原高校に出かけた。普段は校内に入ることは出来ないが、この日は小田校ホームカミングデーとして開放されている。日清戦争の戦利品の鐘は、数年前に完成した校舎の中庭にあるとのこと。エントランスを通り中庭へ。芝の庭に井戸跡と銅板葺の小さな櫓がある。中庭の真ん中に高さ2mほどの銅板葺屋根の櫓の中にさほど大きくは無いが、青銅の鐘が吊ってある。鐘は日清戦争時に清国の軍艦鎮遠で使われていた物で、かつては小田原高校のチャイム代わりとして使用されていたとのこと。清国の軍艦だった鎮遠は明治27年9月1日の黄海海戦の折、日本海軍との交戦で大破。翌明治28年1月に日本側に引き渡され日本に曳航された後に解体された。解体時、海軍少佐で小田原出身の関重忠が鎮遠で使われていた鐘を譲り受けた。その鐘は、関少佐の長男が小田原高校の前身である小田原中学校卒であったこともあり、大正3年に現在の地に校舎が落成した記念に寄贈された。昭和20年代まではチャイム代わりとして使われていた鎮遠の鐘は、その後使われることなく校庭で雨ざらしになっていたが、参議院議長の河野謙三氏のはたらきかけや屋根の寄贈により現在の姿で保存され、小田原高校の新校舎完成とともに移設された。残念ながら芝生内は立ち入り禁止だったので近くでは見ることが出来なかったが、前から見たかった鎮遠の鐘が見れて良かった。この鎮遠の鐘は博物館からの譲渡要請や盗難の危機があったとのことだが、小田原高校で末永く保存されることを願っている。

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