ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

母の日の裏

2019-05-12 | アメリカ事情

 vecteezy.com

 

 

 

 

 

非常に多くの祭日が商品化され、祝っている日の本当の意味をしばしば忘れる。合衆国全国小売業連盟は、2018年に平均的に母の日に一人当たり180ドル以上を支出し、その日の支出総額は230億ドルを超えると予測した。我々の人生で、特別な意味を持つ女性を尊重する日は、最初は今とは違う別のものとして作られた。


母の日の起源は、母なる女神のリアとシベルを称えた古代ギリシャやローマの時代の祭りにさかのぼる。後に、16世紀の英国は、キリスト教暦のレント(四旬節)期間の第4日曜日(復活祭の3週間前)にMothering Sundayとしてその日曜日を祝った。アメリカでは、私達の伝統は1908年にアナ・ジャーヴィスという名前の女性から始まった。彼女自身は母親ではなかったが、彼女はその年の3年前に亡くなった母親のアン・リーヴス・ジャーヴィスに敬意を表するためにその日を選んだ。

 

ジャーヴィス家とその係累の女性たちに敬意を払い、それ以外の女性たちもを支援する、という意味があった。南北戦争の前にウェストバージニア州に住んでいたアン(アンナの母)は、助けを必要とする母親の支援をする地域奉仕を目的としたプログラム策を講じた。このコンセプトは、母の日ワーククラブという女性に子供の世話の仕方を教えるプログラムに発展した。1868年に、アンは南北戦争後の南軍と北軍の兵士の間の平和の促進を支援するために「母親の友情の日」も創設した。




1914年に、合衆国28代目大統領ウッドロー・ウィルソンは母の日を正式な祝日と宣言した。毎年のこの祝いは5月の第2日曜日に行われる。アンナの母の日の当初の構想は、母のアンを敬う日だったが、国家にそして国民に認められた日になると、状況は劇的に変わった。母の日に母親を祝うという考えはすぐに商業主義に捉えられ、カードと花をもって、大いに商品化された。



1900年代初頭にフィラデルフィアにあるジョン・ワナメイカーのティールーム(茶房)で「母の日のサラダ」をメニューで見たアンナは、母の日がマーケティングのひとつに他ならないことに気付いた。彼女は訴訟を起こし、抗議を行い、大統領との直接会見を要求し始めた。ワシントンポスト紙によると、彼女は「母の日の創設者、アンナ・ジャービス」としてその祭日をオリジナルの意図を重視するよう、商品化や商業化を避ける法的主張を試みた。


 

ひどく皮肉なことに、抱擁と花で祝われる母の日については、アンナ・ジャーヴィスの怒り、執着、訴訟という結末があった。 彼女は自身が創設した特別な日がグリーティングカード、キャンディー、そして花の産業によって乗っ取られていたことを強く感じ、母の日という彼女の当初のビジョンを壊された、と感じていた。 彼女はボイコットと抗議を組織し、母の日を使って慈善団体のための寄付を集めるためにエレノア・ルーズベルトを含む人々に話をした。彼女は1944年までに33件の訴訟に巻き込まれていた。




結局、彼女は何十年もの間、負け戦を繰り広げ、自分の小さな相続財産から毎日1ペニーずつ使っていると主張した。結婚もせず、子も成さなかったアンナ・ジャーヴィスは、1948年に84歳で盲目で孤独のうちに養生院で亡くなった。

 

 

Wikiから。

孤高の道を貫いた女性、アンナ・ジャーヴィス(1864-1948)




 

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