David Austin English Roses Harlow Carr
「立ち止まって咲いている薔薇をお嗅ぎなさい」という英語の言い方がある。毎日生活に追われるかのように生きる中で、その慌ただしさをしばし忘れて、リラックスなさい、その瞬間を慈しみ、楽しみなさい、というような意味である。ニューヨークタイムズ誌のベストセラーの一冊、My Southern Journey(私の南部旅)というリック・ブラッグによる本にある一篇のエッセイを読むと、このフレイズの意味が一層生き生きと伝わってくる。
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私たちは何年もの間そのうちそれをすると喧伝してきた。昔よく車に冷製チキンとゴム草履を詰め込み、南部へ運転して、アラバマの丘陵地帯がかすみ始めるまで、土産物屋へ、とれたばかりのエビを用意する小屋へ、そしてぼろぼろの椰子の木の最初が見え始める所へ行ったものだ。WALLACE(ウオーレスに投票を、という選挙のためのシール[注:このエッセイはジョージ・ウオーレスの政治活動が盛んだった1953~1968年頃の思い出と推察される])ステッカーが(多くの)バンパーに貼られている車が多く見かけられたそこへ、彼らは私を連れっていったものだ。(お返しに)今、私が彼女たちを連れていけばいいのではないか。
しかし、どういうわけか長い間私たちは自宅のドライブウェイから出ることはなかった。伯母エドナの心臓は弱ってきていた。叔母ワニタは自宅にこもりきりの叔父の世話をしなければならなかったし、私の母、マーガレットは、竜巻かTNT(化学物質の爆薬爆弾)によって吹き飛ばされない限り家を出なかった。私の72歳の母親が数年前に私にそういう(状況の母親自身と)彼女の姉妹たちをどこかへ連れて行くように言ったときは、びっくりした。庭で年老いた三姉妹は、それぞれスーツケースを片手に、私を待っていた。姉妹の一番下の叔母ジョーは家畜の面倒を見るため、在宅することになっていた。
アラバマ州ジャクソンビルからの二日間の旅行のためにエドナは250個ほどの鶏もも肉をバーベキューで焼き、2ガロンのポテトサラダを作った。豚肉と豆の煮たもの、生タマネギ、コーンブレッド、アイスティーの入った瓶、クロロックス漂白剤の大振りの瓶をきれいに洗浄してから、それに水を入れ、凍らせたもの、などを車に詰めこんだが、携帯電話はひとつもない時代の話である。
運転中、彼女たちは子供の頃のこと、姉妹の母親と床板の下に住むモグラのことなどの思い出を、我々が、モービル・ベイを横切る頃には、話していた。
私は彼女たちに、フェアホープの桟橋からの夕焼けを見せたいと思って、ブラフを下っていくうちに、皆は静かになっていた。しかし、夕焼けはただの光であって、見る価値があるのは、そこに咲く薔薇だった。ダービー馬や未実現の夢のような名前ーリンカーン、富を当てよう、気品、赤の栄光、不滅の愛などと付けられ、野球場ほどの大きさの円の中に2,000本を超えるほどたくさん咲いていた。薔薇をあまり好まなかった母は、「ああ、主よ。」と言った。鯨骨を持って生まれたかのようなタフでその割に小さなワニータさえ、いまにも泣きそうに見えた。
長姉(のエドナ)はまるで昏睡状態にあるかのように車から降りた。私はエドナがどれほど病気だったか知らなかった。彼女が庭に向かおうとすると、その歩みはおぼつかなかった。彼女が倒れた場合に備えて、姉妹たちは近づいた。
伯母エドナは陸軍基地で兵士の服を縫い、五人の娘を育て、夫を葬り、赤土の庭園を造り、千枚のキルトを縫い、曾孫に愛され、そして私が今まで知っているどの男よりも河川に住む小型のマンボウ(魚)を捕まえたものだ。私は彼女が永遠であると信じていた、彼女が建てた川岸の赤土の上の堅固な赤れんが造りの家のように。
「とてもきれいだわ」と彼女は何度も言った。彼女は太陽が西側の浜辺に消えるまで、ずっと長い間そのバラ園にいた。彼女はこの旅でフェアホープのバラを六回見た。最後に彼女は疲れていたので、皆車の中に座った。
一年後、私は彼女の葬儀で話した。愚かな者のようにすすり泣いた自分に私は驚いた。久しぶりに素直に、頭の中に浮かんだことが言うべき大切なことだったのに、頭蓋骨の中で言葉がぶつかり合い、言いたかったすばらしいことを失い、彼女を愛している人々の前でただただすすり泣いて突っ立ていたのだった。
彼女の娘たちは一人づつ私を抱きしめ、そして薔薇に対する礼を言った。
My Southern Journey: True Stories from the Heart of the South
By Rick Bragg