ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

本当の帰還

2019-05-21 | アメリカ事情

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

救命する墓堀

2019-05-19 | アメリカ事情

 

 Rd.com

 

 

 

 

土曜日の夜がちょうど日曜日の朝に変わり、47歳のティム・アバナティは、ジョージア州サマーヴィル近郊のメンロー・バーン・ダンス(ホール)の(納屋の)ダンスフロアを降りた。彼は隣にいる妻ティナ・アバナティと一緒に休憩しようと、折たたみ椅子に座った。すると何かが変だと感じられた。彼の喉がどんどんきつくなるように感じられ、彼はティナの手を握るや、床に崩れ落ちた。


「彼は白目をむいていたんです。」とティナは言った。 「彼の唇は青くなり、そしてどんどん青黒くなっていったんです。」


バンドは演奏をやめた。人々は叫び始めたが、誰もなにかしようと行動を起こさなかった。すると誰かがやっと行動に出た。


ジョニー・”ディガー”・タッカーだった。ティムが窒息している可能性があると考え、ジョニーはティムの口へ指を入れて動かした。それからティムの胸を叩き始めた。それから彼は人口呼吸法を始め、再び続けた。するとやっと、ティムは息をした。救急隊員がやって来ると、ジョニーは静かに立ち去った。


「ジョニーがいなかったら、私は夫を埋葬しなければならなかったでしょう」とティナは言った。人々は、ジョニー・タッカーは、あなたに万が一のことが起こったら午前2時でも電話をかけたいタイプの人間であると言う。その握手が言葉の代わりをする(無言実行)、というタイプの人である。おそらくそれは彼が最も人生がどれだけ貴重であるかを知っているからである。毎日、彼は死に直面している。


ジョニーは墓堀である。彼は少年時からずっと、父親がしたと同じように、バックホー掘削機ではなく、手で、シャベルとピックで掘ってきた。彼は約二万人の最終の安息地を掘ってきた。各々の墓は,堅い、凍った、あるいは湿ったジョージア粘土地面に、幅3フィート、長さ8フィート、深さ4.5フィートの墓を掘る。彼には彼自身のルールがある:墓掘りの間は、汚い言葉を使わない、喫煙しない、あるいは、ラジオを聞かない。 「私は誰もが自分の家族であるかのように扱っています」と彼は言った。彼はチャタヌーガ(ジョージアよりのテネシー州)周辺でとても尊重されているので、葬儀は彼の空き時間状況に沿ってスケジュールを調整される。


そのため、ジョニーが自分が手を貸す立場にいると、気付くのが多いのは当然のことだ。納屋のダンスホールでのその夜の出来事は実際に彼の死に挑む二番目の偉業だった。 90年代は、彼の前を走っていた車が高速道路を飛出して、洪水の凍れる小川にはまった時は、ジョニーはすぐさま車から飛び出してその運転手を無事に引っ張りあげた。 「誰かがこの世界を去るのを見たくはないのです」とジョニーは言う。


それに加えて、ジョニーは過去四年間、自身の健康上の戦いと戦ってきた。 「非小細胞癌」とジョニーは言う。癌。彼は二年間の化学療法に耐えた。 「彼は癌と同じくらいタフなのです」と彼の妻、メリー・タッカーは言う。


だからこそ、この夫婦は土曜の夜を納屋での踊りで過ごし、精一杯楽しみ、頻繁にそこが閉まるまで楽しむのだ。 ティム・アバナティが倒れたその夜、ジョニーとメリーは実際には、帰りがけて戸の方にいた。しかしその時、バンドが古いヴァーン・ゴスディンの「Chiseled in Stone」(石に刻む)という歌を始めたのだ。


「私たちの歌だ!」とジョニーはメアリーに言った。


二人はもう一回ゆっくりとしたダンスをした。数分後、墓堀はある命を救ったのだった。

 

 

ーチャタヌーガタイムズフリープレス、2015年6月4日付、デイヴィッド・クック記者

:著作権©2015チャタヌーガパブリッシングカンパニー社、timesfreepress.com







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

今という薔薇

2019-05-17 | アメリカ事情

 David Austin English Roses Harlow Carr

 

 

 

「立ち止まって咲いている薔薇をお嗅ぎなさい」という英語の言い方がある。毎日生活に追われるかのように生きる中で、その慌ただしさをしばし忘れて、リラックスなさい、その瞬間を慈しみ、楽しみなさい、というような意味である。ニューヨークタイムズ誌のベストセラーの一冊、My Southern Journey(私の南部旅)というリック・ブラッグによる本にある一篇のエッセイを読むと、このフレイズの意味が一層生き生きと伝わってくる。


*******



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

世界一の幸運な男

2019-05-15 | アメリカ事情

写真:ジェフリー・サックス 

サンフォード・グリーンバーグ (左) と アート・ガーファンクル、2016年コロンビア大学構内にて。

 

 

 

 


アート・ガーファンクルは、言うまでもなく世界中に名の知れたあのサイモンとガーファンクルの一人。あの”Bridge Over Troubled Water”(邦題:明日に架ける橋)のヒットからすでに四十年以上経っているとは信じがたい。その彼もこの秋78歳になるが、今年に入っても一月から十一月までびっしりと予定されている多くのコンサートをヨーロッパとアメリカで精力的にこなしている。音楽活動だけではなく、詩作や演劇にもその才能をあますことなく披露し続け、昨年八月のCBS局の”Sunday Morning"ショウでは、その健在ぶりと才能を見せてくれた。アート・ガーファンクルは、祖父がルーマニアからのユダヤ人移民で、彼自身はニューヨーク州ニューヨーク市クイーンズで誕生した。六年生の時にポール・サイモンに出会い、意気投合した話は有名である。


もともと美しい歌声を持つアートは、1954年の自身のバーミツバבר מצוה, Bar Mitzvah)で先詠者として四時間以上歌ったそうであるが、彼の音楽の才能は小学一年生頃からすでに花を咲かせ始めている。そんなアートは、コロンビア大学では美術史を専攻して学士号を取り、その後同大学院で数学の修士号を取得した。文系にも理数系にも秀でる頭脳の持ち主であるが、彼の大学時代の話を、コロンビア大学の機関紙(私には多種多読の傾向がある)で先日読んだ。その記事をかいつまみ、ご紹介したい。少々長いが、あなたにとって今日一日よい日になるかもしれない。


*******


この男性は世界で一番幸運な者であると考えているーたとえ彼は大学時代に視力を失っても


コロンビア・マガジン:ポール・ホンド


ある男は失明するが、その友は彼の背後を守る

 

 

1962年卒業クラスのサンフォード・”サンディ”・グリーンバーグがコロンビア大学でまだ新入生だったある日、同級生のアーサー・ガーファンケルとキャンパスの芝生の青い区画の近くに立っていた。「サンフォード、あの芝生がちょこっと生えた所を見てごらんよ。君はその色が見える?形は?草葉の曲がり方は?」とガーファンクルは、尋ねた。


グリーンバーグは意外に感じた。他の男たちは女の子やスポーツについて話していたのに、ガーファンケルは何の話かと思ったら、緑の芝生についてなんて!


キャンパスにはグリーンバーグよりももっと幸運な男がいただろうか?ニューヨーク州バッファローからの貧しい出の彼は、完全給付奨学金を受けて、人類学者のマーガレット・ミード、物理学者のレオン・レダーマン、歴史家のジェームズ・シェントン、そして詩人のマーク・ヴァン・ドレンなどの(学問の)スーパースター達からクラスを取っているのだ。そして彼には、純粋なテナーの声を持ったニューヨークから来た聡明な青年の新しい友人がいる。


しかし、1960年の夏、大学三年になる直前に、グリーンバーグの幸運は変わった。彼の視力が「曇って」しまったとき、彼はバッファローに居て、野球をしていた。彼は雲りが消えるまで草の上に横たわっていなければならなかった。医者はそれがアレルギー性結膜炎だと言った。


その秋学校に戻って、グリーンバーグはそんな体験話をもっと持っていたが、誰にもそのことは言わなかった。それがそれほど深刻なことだとは思わなかった。それでも、彼のルームメートであるガーファンケルとジェリー・スぺイヤーは、彼が何か問題を抱えていることを知っていた。


期末試験の初日の朝、ガーファンケルはグリーンバーグを試験が行われる大学のジムに連れて行った。グリーンバーグは午前9時から作文を始めた。10:30までには、彼はもう物を見ることができなかった。彼はジムの前列に飛び出して試験官に自分のブルーブック(作文ノート)を渡した。


「見えないんです、先生」と彼は言った。


試験官は笑った。 「いくつかの素晴らしい言い訳を聞いたが、」と、彼は言った、「君の言い訳が一番いい。」


グリーンバーグはバッファローに戻り、そこで緑内障と診断された。 その冬、医者はグリーンバーグの目を手術したが、うまくいかなかった。 グリーンバーグは盲目になっていった。非常に失望した彼は、大学の誰にも会うことを拒んだ。


しかしガーファンケルは、とにかくバッファローへ行った。


「話したくないんだ」とグリーンバーグは言った。


「サンフォード、」とガーファンケルは言った。「話さなきゃ。」


ガーファンケルはグリーンバーグにコロンビアに戻るよう説得し、彼の読み手になることを申し出た。


1961年9月、グリーンバーグはキャンパスに戻った。ガーファンケル、スぺイヤー、そしてもう一人の友人三人が、それぞれ自分の勉強や研究から時間を取り、彼に教科書を読み、グリーンバーグはストレイトA(オールA)の成績を取った。 それでも、彼は一人で歩き回ることについてためらいがちで、彼の友人たちに頼っていた。



 
 
 Courtesy Art Garfunkel and Sanford Greenberg
60年代初期の大学生活で、友人同士の二人
 

 

 

その後のある午後、グリーンバーグとガーファンクルはミッドタウンマンハッタンに行った。グリーンバーグがキャンパスに戻る時が来たとき、ガーファンケルは彼に、これから約束があり、彼に同伴できない、と言った。グリーンバーグは慌てた。彼らは口論し、そしてガーファンケルは、グリーンバーグをただ一人グランドセントラル駅のターミナルに残して、歩き去った。当惑したグリーンバーグは、ラッシュアワーの群衆にぶつかったり、よろめきながらも、駅から西のタイムズスクエアに行く電車に乗った。その後、上り電車に乗り換えた。 4マイル後、彼はコロンビア大学の駅で降りた。大学の門で、誰かが彼にぶつかった。


「おっと、すみません。」


グリーンバーグはその声を知っていた。それはガーファンケルだった。グリーンバーグの最初の反応は激怒だったが、すぐに彼は自分がたった今達成したことに気づいたー そしてそれを可能にしたのが誰であるかにも気づいたのだった。


「これは最も素晴らしい作戦の1つでした」とグリーンバーグ氏は言う。 「アーサーは、もちろん、私と一緒にその間ずっといたんですよ。」


グリーンバーグはコロンビ大学からMBA(経営学修士)を得て、ハーバード大学からは博士号を取得した。彼はガールフレンドのスーと結婚し、ジョンソン大統領政権のホワイトハウスで政府高官のアシスタントになった。そして彼は成功した発明家であり、ビジネスマンでもある。


アーサー・ガーファンケルはアート・ガーファンケルになった。


グリーンバーグは、「生活のための手引き」と彼が言うところの脚本Our Home Town (我が町)について語る。この人生の美しく貴重なところを人々は大部分見失っているというものである。劇中のすでに死したエミリー・ウェッブ・ギブスが生きる人々を眺めて、その人々の愚痴に驚き、「みな盲目の人たちばかり!」と言うのだが、グリーンバーグは「それはすべての人間に言えます!」と語る。


グリーンバーグはそうではない。彼は、家族や友人の愛から草の葉に宿る露まで、すべてを見て、小さくても、大きくてもすべての祝福を歌うのだ。


「あなたがお話になっています相手というのは、」と今彼は言う、「世界で最も幸運な人なのですよ。」と。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小さな町

2019-05-14 | アメリカ事情

Courtesy Rick Lucas 

 

  

 


⁂リーダース・ダイジェスト編集者の記:ジョージア州エルジェイは、リーダース・ダイジェスト社の「全米一の素敵な所」コンテストの勝者である。以下はリーダース・ダイジェストの記事から。



九年前の寒い一月の朝、スティーブ・コルテスと彼の妻はジョージア州のスモーキー山脈に囲まれた人口1,600の小さな町、エリジェイを旅していた。二人がコーナーストーン・キャフェを見つけたのは、朝食にちょうど間に合うような時間だったので、立ち寄ることにした。キャフェは混みあっていた。座るのは無理と思った二人は、店を出て他の場所に行こうとすると、すぐに一人の客が二人にここへいらっしゃい、と手で示した。 「場所を空けますよ」とその男は言った。実際、何人かの客が席を詰めて、すぐに十分な空きを作ってくれた。ここで、二人に朝食と、友愛溢れる仲間意識が提供された。


「1時間後には、私たちは数えきれないほどの友人ができましたよ」とコルテスは(どの町がアメリカで一番良いところか、というリーダース・ダイジェスト誌のコンテストに応募の手紙に)書いた。


親切なもてなしがコルテスを驚かせたかもしれないが、エリジェイは人の世話をすることでこの地方では有名である。 壮大な雷雨が町を襲った七月には、何十人もの住人が倒木によって家に閉じ込められたり、家そのものにとどまることもできなかった。その時助けを求める前に、すぐに隣人は隣人に食べ物と安らぎを提供した。


「ここは私が今まで住んだ中で最も素晴らしい場所です! この場所を思う度、本当に私は感情的になってしまいます!」とある一人の女性はFacebookに書いている。 「私の家にいらして、うちの(故障していた)発電機を手に取り、修理作業をしてから、午後10時にそれをうちに戻してくださり、つなげていただき、ありがとうございます。美味しいチキンとダンプリング、そして新鮮なパイナップルもどうもありがとうございました。」


しかし、こうした隣人の優しさはここエリジェイでは標準である。新しい住人に対する町の優しさは際立っている。ジョージア州のリンゴ産地であるエリジェイは、メキシコと中央アメリカからの季節農場労働者を迎え、収穫期間にグラニー・スミス種、フジ種、そしてハニークリスプ種のリンゴ収穫を手伝ってもらう。

 

他のいくつかの町では、新参の人々をあまり歓迎しない。しかしエリジェイの人々は、その人々のために居心地よくする。ギルマー・ラーニング・センターでは、現在、英語を第二語として教え、カトリック教会はスペイン語でミサを提供している。チャリティファッションショーやオークションも行われる計画があり、その収益は農家に手伝いに来る人々のために割り当てられる。

 

 地元のコミュニティーカレッジで生物学を専攻する21歳のマリア・コンザレス・サントスは、次のように述べている:「英語を知らずにメキシコから合衆国へ来たのですが、ここの同級生や教師はいつだって大歓迎してくれるのです。」


ゴンザレス - サントスの父親が、労働許可証の有効期限が切れた後にICE(US Immigration and Customs Enforcement=合衆国入国管理・税関捜査局)によって拘留されたとき、このコミュニティの住民たちは、この家族に手を貸すためにあらゆることをした。ゴンザレス - サントス氏は、「人々は、私たちに請求書、交通費、食料などの支払いの手助けが必要かどうかを常に聞いてくれました。」と言う。 「その住民たちの政治的立場に関係なく、私たちは常にここで住民の支持を感じています。このコミュニティにはとても感謝しています。それは私を今日の私に変えました。」


それだけでなく、地元の多くの人々は新しい隣人をまったく新しいとさえ考えていない。町を作っている一部になっている。住宅建築請負業者のデヴェル・フレイディはこう述べる。「ここにいる大多数の人々が『非常に大きな人口流入』に気付いているのか私は知りませんが、みなにとって、(新参者である)彼らは単なる人々なんです。他のみんなと同じように生き、呼吸し、働く必要があるのです。」


地元の「善きサマリア人カトリック教会」のボランティア、ドン・ハイドは次のように同意する。「私は、ここで敵対心や強い憎しみを見たことがありません。ここは最も友好的な小さな町です。皆さん、おはよう、や、こんにちは、と挨拶を交わし、皆さん、笑顔なんですよ。それはノーマン・ロックウェルの(描く世界)のようなものです。あなたがパーティーを開けば、誰もが料理を持ってやってきます。」


エリジェイの受け入れ精神は、人々と一緒にいる方法を心得ている。 それはスティーブとマリー・コルテスにも起こった。 何年も前に町を通り抜けることに始まった。けれど二人は、ここでとても歓迎されてエルジェイに移住することになったのだ。 二人は子供用の洋服店ウィムZも出店した。 その店はあのコーナーストーン・キャフェのすぐ隣にある。


エルジェイでの昨年の感謝祭の食事会:Free Feastと書いてある。誰でもここで感謝祭の御馳走を食せた。

timescourier.com




 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする