つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

津幡短信vol.121. ~ 令和六年 芒種。

2024年06月09日 08時08分08秒 | 津幡短信。
                     
それなりに暑い日もあるが、おおむね過ごし易い日が続く北陸である。
津幡町で見聞した、よしなしごとを簡潔にお届けする不定期通信。
今回は、以下の1本。
                               
【アスリートたちのトピック。】
                   
わが「津幡町」は、南北に長い石川県の中央に位置している。
金沢市・かほく市・内灘町・宝達志水町・富山県高岡市・小矢部市の4市2町と隣接。
面積は110.59平方キロメートル。
人口は3万7千あまり(2024/04現在)。
住みやすく利便性も高いが、決して大規模とは言い難い。
そんな北陸の片田舎からトップクラスのアスリートが出現したのは「特筆」に値する。







まずは、大相撲五月場所で幕内初優勝を飾った、小結「大の里」関だ。
町内には、彼の偉業を祝うムードが満ちている。
散歩中に撮影した上掲スナップ--- 町役場壁面の大懸垂幕、
書店のウインドー、商店街のワンコディスプレーの手作り装飾は、ほんの一端である。

おととい(2024/06/07)24歳の誕生日を迎えた若武者は、
“新生”「二所ノ関部屋」の部屋頭になったと聞く。
部屋付きだった中村親方(元関脇・嘉風)が独立し、所属力士が8人減。
新たな環境、新たな立場で稽古に励んでいるとか。
次の名古屋場所で成績次第では大関も夢ではない。
焦る必要はないのだが、勢いに乗ることも出世への近道だ。
怪我無く、優勝争いを演じて昇進を果たして欲しい。



続いては、先の東京五輪で姉妹揃って金メダリストとなった「川井姉妹」である。
姉・梨紗子さんはリオデジャネイロ五輪に続く2大会連続。
妹・友香子さんは東京大会が初の五輪ゴールドメダルとなった。
結婚を機に現在は夫の姓に変っているお二方は、今も現役。
栄冠を勝ち取るまでは、肉親ならではの葛藤もあったと聞くが、
W優勝という目標を果たし終え肩の荷も下りたと察する。
新たな気持ちでこれからを歩んで欲しいものだ。



先頃、津幡町が偉業を顕彰する目的で、
中高年齢労働者福祉センター「サンライフ津幡」にレスリング場を整備。
そこで町内初のレスリングクラブ「サンキッズレスリング」が活動をスタート。
彼女たちの母親が代表を、両選手が特別コーチを務める。
「川井姉妹」に続くレスラー育成の最初の一歩だ。
                         
<津幡短信 vol.121>
                     
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惑い、未だ拭えず。

2024年06月02日 13時13分13秒 | 日記
                      
「令和6年能登半島地震」の発災から5ヶ月が経過した。
時が流れ、日に日に報道の露出は減少傾向。
スポットを当てる対象は徐々に「復活」の話題へとシフト。
大きなダメージから立ち上がる地域、企業、人が増えていくのは、とても喜ばしい。
心から頑張って欲しいと思う。
微力ながら助勢は惜しまない。
しかし---。
復興ではなく復旧さえ道半ばで惑うところが少なくないのも、また現実である。

きのう(2024/6/01)久しぶりに奥能登・輪島へ出向く機会があった。
訳あってほんの短時間の滞在に過ぎなかったが、
そこで目にした様子を記録しておきたい。





能登にアクセスする大動脈・自動車専用道路「のと里山海道」は、
地震で道路の一部が崩落するなど大きな被害を受け、一部区間は北行きだけの一方通行。
所々で路面が波打ち、蛇行箇所も多くスピードは出せない。
関係各位の尽力は続いているものの、
大きな半島故、物資・機材が充分に運べていないであろう事が窺える。





傾いた家屋が新たに倒壊するケースは珍しくないと聞く。
応急危険度判定で立ち入りを禁止された「赤判定」の建物は整理撤去も難しい。
仮に公費解体が決まっても、先に述べたように人手・資材が不足しているため、
順番が回ってくるまで時間を要する。
その間、思い出の品や必要なものを残そうと、
自主的に家の片付けを進め続ける方々もいらっしゃるとか。
床面が歪んでいれば作業中に気分が悪くなったり、
倒壊の怖さなどから時間が限られ、思うように進まないという。
無理もないことだ。

これまで石川県では「令和6年能登半島地震」において、
直接死が230人、災害関連死が30人、行方不明3人と発表。
亡くなった状況が分かっている方の大半が「家屋倒壊」。
死者の多かった輪島市と珠洲市では建物の3割が全壊した。





土砂崩れが起きた地点では土や樹木の根がむき出しになり、
家や車が呑み込まれたまま。
脅威の爪痕を生々しく留めている。



仮設住宅は確かに増えた。
残念ながら供給量は需要に追い付いていないという。
ピーク時に比べれば数は減ったが、未だ3千を超える方が避難所で生活しているという。
一方、長期に亘る避難所生活に見切りをつけ、
「安全ではない」と分かりながら、自宅に戻る方も少なくないという。

先月・5月末を区切りに、
全国各地の自治体から派遣されていた応援職員の多くが被災地を離れた。
広域避難所が集約されつつある。
被災地を取り巻く状況は「変化」し始めた。
また季節も巡る。
初夏を迎え田植えが終わった田んぼを何枚も見受けた。
地割れがあるだろうに。
畔や水路が崩れただろうに。
大変な暮らしが続いているだろうに。
それでも早苗が風に揺れているのだ。
和やかな風景の中に、能登の人たちの粘り強さや気概が漂っているように感じた。



帰り道、能登の「内浦」を通る。
地図上で言えば半島の右側にあたり、左側の「外浦」に比べ波静か。
鏡のように穏やかな海面を車窓から見遣る。
実に心地いい。

しかし、地震発生直後は様相一変したと聞く。
局地的な違いはあったが、
住居が海水につかり、船が陸に押し上げられ、津波が牙をむいた地点もあったとか。
ウインドーを開けた時、僕の背筋が震えたのは、
車内で渦を巻く潮風が運んできた冷たさのせいだけじゃないのは、明らかだ。
                       
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