山里に生きる道草日記

過密な「まち」から過疎の村に不時着し、そのまま住み込んでしまった、たそがれ武兵衛と好女・皇女!?和宮様とのあたふた日記

男は凡人、女は度胸

2024-04-19 22:36:47 | アート・文化

 わが畏友のブラボー氏からお借りしたフランス映画のDVD『女だけの都』を観る。1935年制作の白黒のコメディで、監督はジャック・フェデー、主役は監督の妻であるフランソワ・ロゼー。時代は17世紀初頭、謝肉祭目前のフランドル(日本ではフランダースが馴染み)の小都市にスペイン軍が凱旋するということで、殺戮・略奪の恐れがあり国中が右往左往してしまう。それに対し、世俗的に生きてきた男たちの臆病ぶりに敢然と立ちあがった女たちの物語である(NHK[プロフェッショナル]風)。

       

 圧巻は主役の市長婦人のロゼーが敵軍の将校を手玉に取る豪胆さが見ものだ。また、フランス映画の重鎮で司祭役の「ルイ・ジューヴ」は、「あくが強くなりすぎる手前で、演劇くささを見事にとめてみせる絶妙さ」でワルを演じきった(上の画像の司祭)。

 さらに、当時の中世ヨーロッパの貴族衣装を再現しているのも豪華だ。上の画像の晩餐会からもわかるとおり、かなり凝ったコスチュームで時代考証が練られている。カラー映画だとかなり派手な様相になったに違いない。また、ヨーロッパで手づかみの食事からフォークが普及し始めたことを象徴する食事シーンも歴史的に貴重だ。

     (39ショップから)

 なお、スペイン軍凱旋に男たちがおののいたのも無理はない。時代背景となっていたのは「80年戦争」(1568-1648)があったからだ。それはネーデルランドがスペインに対して起こした長期のレジスタンスで、この戦乱の血涙をきっかけに後のオランダが独立達成。

 1939年、ナチスドイツは本映画の上映を禁止し、オランダから独立を勝ち取ったベルギーへ侵攻。すなわち、映画を製作しているころはかなり戦雲の緊張感ある時代でもあった。

 そういうとき、こうしたコメデイを描いていくフランス文化の豊かさを感じ入る。残念ながら、日本は関東軍を中心に中国侵略を始めている。もちろん、「国民精神総動員」で言論統制 、芸術・文化への軍国化が官民あげて徹底され、日本人の委縮化・傲慢さが増幅される。

   (シネマパラダイスwebから)       

ブラボー氏の本映画評は次のように述べている。「ヨーロッパの歴史では何度も経験している戦争の実態をコメディ化してうまく映像として構成できている。ただフランスのコメディにはどこかに苦い、あるいは皮肉な味付けがほどこされる。

 本作を平和憲法下の日本で<武力を持たない国家の理想あるいは宿命>として受容するなら、SDGs下の日本女性から反論が出るだろう、いやむしろ社会がこれを期待する前提での憲法なのか?  日本だって侵略するほうも、負けてされるほうも、どちらも経験しているのだが、するもされるもどちらの場合も、する側は<洗練された文化的なヒトばかり>ではなかった。日本はその過程を念頭に日本史と世界史のなかで短絡的な俯瞰を憲法にしたのか?」と。

  (ブリューゲル・婚礼の踊りから) 

  世界はいま<短絡的な俯瞰>で相手国も自国をも見てしまう陥穽にはまってしまった。日本の伝統的に「洗練された文化」は、幼稚な小児病にとって替えられた。その意味での、コメディのスパイスは本映画には見事に効いている。しかし、現今の日本のコメディは、現状を攪拌するだけでお茶を濁すお笑い芸人のバラエティー市場と化した。そんななかで、「ヴナロード!」(石川啄木の詩から)と敢然と立ちあがるのは、やはり「女たち」しかいないのではないか。

 第二次世界大戦がはじまる直前の緊張感の中でのフランスは、東西対立の中でもファシズムを選択しなかったというフランスの「洗練された文化」が地下水脈としてコメディとして流れていたのではないか。濁流にまみれてしまった日本の「洗練された文化」はどこに彷徨ってしまったのだろうか。かつて、西村雅彦・近藤芳正主演の「笑いの大学」劇場版(原作・三谷幸喜)のDVDを観たことがあるが、やっと日本のコメディの真価を見た気がしたものだが。

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