ふぶきの部屋

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男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言5

2022-02-15 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

ここまで皇室の現状や問題点、皇室典範の欠点などを書いてきましたが、21世紀の皇室がここまで権威を失墜し、また陰で皇族の思うがままにやれるような世界になってしまった理由は、日本の主権である国民にきちんと「天皇とは何か」という事を歴史を追って教えてこなかったからです。

戦前は子供の頃から歴代の天皇の名前を覚え、教育勅語を覚え、「天皇陛下は日本でもっとも偉い人」と習って来ました。

かといって、実際に国を動かしていたのは政治家であり、政治の具現化、あるいは正当性を示す為に天皇が利用されたと言えるでしょう。

けれど、国民にとっての天皇は「国の父」である事に代わりはなく、また天皇もそうふるまって来たので戦後の混乱期も皇室が廃止される事無く、国民は巡幸を喜んで受け入れたのだと思います。

 

では天皇とは古代からどんな存在だったのでしょうか。

 古代~天武天皇まで

奈良県の纏向という所にヤマトの民が一つの集合体を作り、海外との交易も行っていた所に、大陸から海を渡って来たのが人達がいました。

彼らは「鉄」の流通を巡って熾烈な争いを繰り広げました。

元々そこにいた人達、後から来た人達、日本海側にいた人達。

当時は中国も朝鮮半島も似たようなものでした。

しかし、ヤマトは争いをやめます。

「天皇」という全ての民の「象徴」を作り上げ、同じ「神」をそして神の子孫として祀ることで統一を計ったのです。

天皇は「神」を祀り、国の安泰を祈る存在。

そして天皇の下には蘇我氏や物部氏という「政治」を行う者らがあり、「天皇による政治」としての形を取りながら実際は蘇我氏や物部氏に政治をゆだねていたのです。

乙巳の変により、天智天皇の「皇族に政治を取り戻す」運動があり、天武天皇により「皇族による政治」が実現しました。

 持統天皇~称徳天皇

「皇親政治」を行ったものの志半ばで亡くなったのが天武天皇。それまで「オオキミ」「スメラミコト」と呼ばれていたが天武の時に「てんのう」という呼び名になりました。

天武天皇の二人の息子、大津皇子と草壁皇子の跡目争いには母の持統天皇が深くかかわり、結果的に大津は自害。しかし草壁も亡くなり、母である持統天皇が即位。

しかし、この女帝誕生にみなが喜んだわけではありません。

持統は批判をかわす為に高市皇子を太政大臣に任命。度々、吉野を行啓したりしてアピール。

多分この頃、庶民側からすると「天皇さま」はあっちこっちに寺を建立したりする人程度の認識ではなかったかと。

持統時代には、養老律令が発令され、皇族の範囲が決められました。

初代から5世孫までは皇族、あとは臣籍降下します。

持統の後をついだ文武天皇は、父の草壁が皇位についておらず身位からして「王」とみられますが、生まれた時から「皇子」で日本で初めて立太子した人です。

そしてこの頃より強力に権力を発揮し始めたのが藤原氏。

文武天皇には蘇我系の妃が二人いましたが、どちらも藤原氏によって降格されられ、皇子達の身分も取り上げられました。

藤原氏は宮子という娘を文武の後宮に入れ、夫人としました。

そこから生まれたのが聖武天皇です。

文武天皇も早く亡くなり、聖武天皇が成人するまで、元明・元正と2代の女帝が続きました。

この2代を「女系」とみる向きもありますが、元明天皇は天智天皇の娘、元正天皇は天武天皇の孫、立派な男系女子で、元明は未亡人、元正は独身でした。

藤原氏としては何が何でも聖武天皇を天皇にしたい。

その為には宮子より身分が上の妃は全て排除し、その子達も排除し、女帝を立てることで他の皇子に皇位を継がせないようにしたのでしょう。

聖武天皇はいわば藤原氏の「傀儡」でした。

それまで「皇后」には皇族出身の女性以外はなれなかったのに、民間から初の「皇后」に藤原家の光明子がなったのです。

光明皇后に関しても反対の皇族は多かったけど、いわゆる「優秀」「慈愛」伝説を流して回りの口をふさぎ、さらに皇后専門の部署紫微中台」を作り、藤原仲麻呂を長官として権力を振るいました。

聖武天皇には安積皇子という息子がいたのですが、天皇が行啓中に突如亡くなり、跡取りは光明皇后が生んだ阿倍内親王が孝謙天皇として即位しました。

恐らくこの頃は、上皇となった聖武が大仏を作るというので予算を使いまくり、人手を使いまくり、庶民からはあまりよく思われていなかったのではないでしょうか。

光明皇后&孝謙天皇は藤原仲麻呂という「男」を間に皇位継承者をあっちからこっちに変える・・というような事をやり、結果的にクーデターが発覚、幾人もの皇族が殺されたり、庶民に落とされたりしました。

この頃、自ら臣籍降下をする皇族が後を絶たず・・・というのも、下手に皇族でいると「謀反」の疑いをかけられて殺される危険性があったんですね。

やがて、孝謙天皇は淳仁天皇天皇に位を譲り、道鏡と恋に落ちます。

それを淳仁天皇に意見されたら怒って島流しにし、自ら重祚し称徳天皇となります。

ここから暴走が始まり、道鏡を天皇にしたいと言い出し、それは和気清麻呂によってぎりぎり防いだのですが、宮中ではあっちこっちでクーデターや謀反が起こり、大変な状態でした。

「女帝はもうこりごり」というのが政府の意見だったでしょう。

 

 平安~鎌倉

平安時代は藤原氏全盛期で後宮では藤原氏の権力争いが繰り広げられました。

女性達の身分も「女御」の上が「皇后」だったのに、天皇の意思で「中宮」という別枠の立場が設けられるなど、天皇は天皇で密かに藤原氏への対抗心を燃やしていたのかもしれません。

皇族はどんどん増えたので「親王宣下」「内親王宣下」をされなければ皇族にはなれませんでした。

やがて武士が台頭し、鎌倉時代になると天皇家は一気に貧しくなります。

即位の礼も出来ない程貧乏だった天皇もいます。

もはや「天皇」は権威付けでしかない存在になりました。

 室町~江戸時代

政治が武士に移ってから「天皇」「皇族」は恐ろしく遠い存在になりました。

京都やその周辺にいる人はともかく、関東以北、九州などからしたら「天皇って誰?」状態でしょう。

それでも細々と時の権力者である足利氏などに頼って権威の裏付けとなり、面目を保っていたと思います。

後醍醐天皇が「建武の新政」を行うも夢物語と化し、戦国時代に入るともはや京都はズタボロ状態。

さらに悪いことに徳川家が権力を握ると「禁中公家諸法度」で天皇と皇族から権威すらはぎ取って京都に閉じ込めてしまいます。

徳川家康と仲が悪かった後水尾天皇は紫衣事件や、春日局の参内など皇室のしきたりと無残にも破る徳川家に怒り、娘の明正天皇に譲位。

明正天皇は母を徳川和子とする女帝。

しかし女帝は独身を貫く必要があり、また和子が生んだ皇子も亡くなり、天皇家に徳川の血は残りませんでした。

 

 幕末~戦前

幕末になると、天皇が幕府側や尊王派に利用され、利用する時代になります。

江戸時代は皇族の数が本当に減ってしまいました。

鎌倉期にも皇族が減ったので「永世宮家」を作ったのですが応仁の乱などで全て滅び、江戸時代には「世襲宮家」として3つ、伏見・桂・有栖川という3つの宮家が出来たのですが、当時は天皇の子は長子以外全て出家させられ、皇族に戻る事はなく、より皇位継承者が少なくなったため、新井白石の意向で「閑院宮」家が作られました。

伏見・桂・有栖川・閑院は世襲宮家と呼ばれ、その長子はすぐに親王宣下を受け、断絶しそうなときは天皇の子が養子に入るしきたりでした。

それでも何度も断絶しかかったのが桂宮家です。

幕末、幕府や尊王派は出家していた天皇の子供達を「還俗させるから」と言って味方にう引き入れ、明治維新後は、「久邇宮家」「山階宮家」が創設され、さらに断絶した有栖川と桂を除いた伏見、閑院から分家などして最終的に11宮家まで増えました。

 

時の権力者である伊藤博文らは、自分達が学んでこなかった皇室の歴史を振り返り、その経緯を調べ、女帝が立つときの政治状況などを踏まえ「皇位は男系男子」とすると決めたのです。

勿論、明治天皇も負けてはいません。

正式な皇室典範が出来上がるまでに宮家をどんどん増やす事を了承し、そして伊藤の意向を聞いて、皇族や華族の序列、義務などを受け入れました。

さらに、生活を洋風にする事も受け入れ、ランプやセントラルヒーティングに嫌々ながら従い、パンも食べました。

明治時代に大きく変わったのは後宮です。

江戸時代には天皇の妃はおおむね「女御」で、「皇后」になる事はまれでした。というかそういう名称を使う機会もなかったのです。

孝明天皇の妃、九条夙子は女御→准后→皇太后→太皇太后となりました。

それまで後宮の女性が表に出ることはなかったのですが、西洋では「夫婦同伴」が基本なので、様々な公務に明治天皇と昭憲皇太后は揃って出席。

さらに江戸時代までの制度を一新し、女官制度が出来ました。

また、服装も「洋装令」によって冠婚葬祭全てに洋装を用いる事が決められました。

(それを破ったのは美智子妃。美智子皇后です)

昭憲皇太后は、「大津事件」の時、自ら筆をとってロマノフ家に詫びを入れたり見舞いを送ったりと細々と気を遣い、さらに赤十字運動に啓発されて日本赤十字設立に寄与し、国際赤十字に10万円を寄付。国際赤十字委員会はこれを元に「昭憲皇太后基金」を設立。

華族女学校やお茶の水などの設立にも寄与。

さらに、国威発揚の為、当時の日本の主産業である「養蚕」を御用地内に設け自ら蚕を育てた。

勉強熱心で「進講」を受けるのも好きだったようです。

明治天皇が始めた「菊見の会」は現在の園遊会。

つまり、今の皇室の儀式のほとんどが明治時代に出来上がり、それを継承して来たのです。

皇后の主な仕事の後ろには偉大な思想と女性の地位向上目的があったのです。

それを名目だけ受け継いでやったふりをしているのが現在の皇后です。

 

つまり、国民の中で天皇は常に「神様を祀る人」「祈る人」「仏像を作る人」そして明治なってから改めて「現人神」という思想が生まれたのです。

 

戦後、天皇が人間宣言をしてから、天皇が存在する意義に迷い、何をしたらいいのかわからない時代に突入。

それが昭和30年代以降です。

昭和天皇も香淳皇后もそこにいらっしゃるだけで潜在的に頭を下げてしまう程のカリスマ性がありましたが、皇太子は最初から人間でしかも平民の娘を妃としました。

「元皇族」「元華族」の権威のない妃を持った皇太子はひたすら「マイホーム」を演じることで「人気取り」に走り、皇太子妃の美貌は大いに役に立ったわけです。

平成時代は「被災地訪問」と「深い反省のもと慰霊の旅」をする事で目に見える「祈りの天皇皇后」を装ってきたわけですが、令和になるとそれすらなくなり、もう何をどうしたらいいのかわからない状態なのです。

 

 

 

 

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