ふぶきの部屋

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祝!ご成婚30周年 雅子さま語録  31

2023-07-18 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2004年11月5-11日 御料牧場静養

雅子様の静養な私的な外出には必ず「治療の一環により」という枕詞がつくようになりました。

しかし、何の治療で、どのように役に立つのかは誰もわかりません。

いつ公務に完全復帰するのか、今後どうしていくかについてまるっきりわかりません。

女性週刊誌は友納尚子が毎日のように

雅子様は男子出産のプレッシャーで病気になった。精神的にひどい時でも精神科を受診させてくれなかった。育児休暇をくれなかった。香淳皇后の葬儀を欠席したのは科学的流産だった。産後の肥立ちが悪い雅子様を酷使した宮内庁。いじめたのは宮家。愛子様の育児に集中したいと雅子様は考えている。

皇室が悪い、国民が悪い」と呪文のように続けるので、当然それを鵜呑みにする人がいて「雅子様は私と同じ」と考える人が出て来ました。

世の中の「嫁」という人々がみな、姑にいびられ、夫からは冷たくされ、自分の自由を認めて貰えない。そんな自分を雅子さまに投影して同情するのです。

そんな流れになっていくので、「雅子さまは可哀想」と思う人も増えます。

そうなると、どんな時でも国民を味方につけてきた皇后さまの立場が危うくなります。

皇后様は自分が責められないように、沈黙するしかありませんでした。

 

2004年11月15日に紀宮清子内親王のご婚約が発表されました。

お会いての黒田慶樹さんは秋篠宮さまと同い年でご学友でした。

民間の企業にお勤めでしたが、東京都の試験を受けて受かり、地方公務員となられました。

実は、このご婚約は秋篠宮さまが紀宮様の為に一肌脱いだのです。

全く知らない誰かに嫁ぐより、小さい頃から「お兄様のお友達」として馴染みのある男性の方がいいだろうと思ったから。

無論、この時、紀宮様は34歳。当時としてはお子様を望むのは大変な事と思われました。

黒田さんにしても40になるまで独身を謳歌してきたのです。今更結婚を受け入れるかどうか。

でも秋篠宮さまは、皇室の内部が段々変化していくことにより、これ以上妹が両親の側にいると傷つくだけではないかとお考えになったのです。

黒田さんには「どうか承知してくれないだろうか」とお頼みになりました。

大恋愛もない、お見合いというわけでもない。

黒田家が紀宮様を受け入れるというこのご結婚。それでもお二人は感謝してお兄様殿下に「ありがとうございます」とおっしゃったのでした。

しかし、この結婚に反対だった人がいます。

それは皇后様でした。

皇后様にとって紀宮様は常に側にいるべき内親王です。

立ち居振る舞い、言葉遣い、礼儀作法なんでも完璧な娘は母の作品です。

30歳を過ぎたあたりから皇后さまにとって紀宮様はいなくてはならない存在になりましたし、もし嫁ぐとしても実業家や外務省の誰か、大使クラスなどを考えていたのです。

それがまさかサラリーマンの妻になるとは。

黒田さんとの結婚話が出た時も、小さく無視を決めておられた皇后さまでしたが、まさかそれが本当になるとは。

 

そして紀宮様の結婚に「蚊帳の外」にされた皇太子様も大層怒っていらっしゃいました。

別に妹君の結婚を決めてあげようと思ったわけではありません。

しかし、婚約にいたるまで一切が秘密とされて来たこと。その「秘密」に自分は混ぜて貰ってない事に腹が立ったのです。

婚約記者会見でも紀宮様も黒田さんも「秋篠宮両殿下には感謝申し上げます」とはっきりおっしゃっていました。

 

皇后陛下の予想外の所で動いた秋篠宮、そして妹の結婚に対して仲間外れにされた皇太子様。どちらも秋篠宮家には小さな恨みを抱えるようになってしまったのです。

 2004年11月20日 雅子様の祖母江頭寿々子死去

江頭寿々子氏はチッソの江頭豊氏の妻です。

本来なら皇太子夫妻も葬儀には参加すべきではなかったのですが、東宮家はわざわざ3人で駆け付けたのでした。

 

11月30日は秋篠宮さまの誕生日で、いわゆる「人格否定発言」等に対してこのような発言をされています。

殿下「5月の発言について,私も少なからず驚いたわけですけれども,陛下も非常に驚かれたと聞いております。私の感想としましては,先ほどお話しましたようなことがあるのでしたら,少なくとも記者会見という場所において発言する前に,せめて陛下とその内容について話をして,その上での話であるべきではなかったかと思っております。そこのところは私としては残念に思います。

もう一つありましたね。

東宮御所での生活の成り立ちに伴う苦労ですね,これは私はどういう意味なのか理解できないところがありまして,前に皇太子殿下本人に尋ねたことがありました。

東宮御所の成り立ちに伴う様々な苦労とは,皇太子妃になって,つまり皇室に嫁ぐとふだんの生活においていろいろな人がその周りで働いている,近くで生活している空間においてもいろいろな人が周りにいる,そういう人たちに対する気配りというか,配慮ということであったり,なかなか容易に外出することが難しい,そういうことだそうであります。

そういうことを前提として私たちにそのような苦労があったかというと,主に私というよりも家内に関係するのかなと思います。

確かに東宮御所という大きい組織に比べれば,私の所はかなり周りにいる人たちの数も少ないので比べるというのは非常に無理があると思いますけれど,それを踏まえた上でどうでしょうね。

妃殿下「結婚してからの生活は,新しく出会う務めや初めて経験する慣習などが多くございました。

どのように務めを果たしたらよいか,至らない点をどのように改めたらよいかなど,不安や戸惑いなどもございましたが,その都度人々に支えられ,試行錯誤をしながら経験を積み,一つ一つを務めてまいりました。

両陛下は私たちの考えていることや感じていることを静かにお聞きくださり,私たちの務めや娘たちの成長を温かく見守ってくださいましたことに大変ありがたく思っております。

また,宮様が私の考えや気持ち,おかれている状況を的確にとらえて導いてくださったことは生活する上で大きな支えとなりました

この発言は、皇太子様がもっとも触れてほしくない点だったので、もう言葉がありません。弟殿下に裏切られたような気がして大変ショックを受けました。

けれど、秋篠宮が内親王の状態について変に暴露しなかっただけいいではないかと必死にご自分を慰めました。

雅子様は紀子様の、こういう「いい子ぶる」所が大嫌いで、記者会見を見たあとはひとしきり不機嫌で部屋に閉じこもってしまいました。

紀子様のような学歴もないくせにいい子ぶって姑に好かれる次男の嫁、ほっとけばいいのに、負けたと完全に思ってしまうご自分が嫌です。

 

 2004年12月1日 愛子内親王3歳

愛子様はすくすくと3歳を迎えたかにみえました。

音楽に合わせて踊って見たり、木の上に登らされてみたり・・・でもどこか幼い印象がぬぐえません。

 2004年12月9日 雅子さまの誕生日

「体調は少しずつ快方に向かってきているように感じます。本格的に公務を再開するのにはまだしばらく時間を要するかもしれませんが、早く元気姿をお見せできますよう、関係者皆さまのお力添えを頂きながら引き続き回復に努めていきたいと思っております」

 2004年12月19日 高松宮喜久子妃殿下薨去

 2004年12月26日 「皇室典範に対する有識者会議」が始まる。

そしていよいよ、小泉内閣による「愛子天皇」擁立の動きが始まりました。

勿論、後ろには小和田の父君、外務省、そして大鳳会がいるのです。

首相は正直、女帝と女系の違いをしりませんでしたので、「愛子さんが天皇になってなんで悪いの?」っていう感じでした。

その無知な所に父君は付け入ったのです。

コメント (8)
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