ふぶきの部屋

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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する2

2024-02-27 07:06:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

森暢平氏が一番言いたかったことは「11宮家は元々臣籍降下するしかない家柄」だったから、それなら現役皇族の愛子内親王を天皇にしようという話でしょうね。

有識者会議の「養子縁組を含めた皇統に属する男系の男子の方々が皇族となることについても、比較的前向きな意見が多くあったのではないか」(2021年6月16日)

を結論ありきのでっち上げだとしています。

いわゆる「皇族ノ降下ニ関スル施行準則の前に増えすぎる皇族を何とかしようと、何度か「臣籍降下しろ」という要請が政府からあったのですが、臣籍降下する皇族がいなかったんですね。

なので。最終的に大正9年にこの制度を確立したわけですが、この法律にひっかかった皇族がいました。それは有栖川宮家です。

有栖川宮家は後継ぎがいなくて養子をとろうとした所で、この法律が出来てしまい、大正天皇に「お願い」をしたんです。

しかし、天皇はこれを聞き入れることが出来ず、泣く泣く祭祀と宮家を天皇の3男「宜仁親王」にゆずり、「高松宮家」を創設させたのです。

そしてこの法律は

 5世孫から臣籍降下

 長男以外は華族に臣籍降下

 伏見宮家だけは邦家親王を祖として5世孫から

 一旦臣籍降下したら皇籍復帰を認めず

という事になりました。

でお、これも「勅旨」「請願」があれば・・という事で絶対にってわけでもなかったようです。

例外を認めようと言う事ですね。

というのも、皇族がいつ減るか・・というのはわからないからです。

江戸時代、明治に危機的な皇位継承者不足を経験した皇室ですから、政権もそこまで「何が何でも」とは言えなかっただろうと言う事。

とはいえ、「宮家を継ぎたくない」からと自ら進んで臣籍降下した人もいるし、後継ぎが決まっていても亡くなる可能性もあったわけだし。

11宮家のうち、絶対に「断絶」だったのは梨本宮家と東伏見宮家。

 

でも内親王が嫁いで創設された宮家は別だったんだろうと私は考えます。

すなわち、明治天皇の3内親王が嫁いだ、竹田、北白川、朝香の3宮家は皇位継承順位の上に来たはず。

さらに昭和天皇のご長女が嫁いだ東久邇宮家はさらに上に来たのではないでしょうか。

皇統は男系男子で。母が皇族であればなおよろしい」という考えたですね。

 

この考え方に従えば紀宮の嫁ぎ先は旧宮家でよかった筈なんです。

しかし、上皇后が「旧皇族・旧華族」を退けてしまったので、繋がりが消えました。

結局、「民間のお妃」は「皇統」の為に自分を犠牲には出来なかったのでしょう。

ゆえに今上の結婚でも「皇統」は考えず、本人のお好きにさせたのですね。

危機を救った秋篠宮家には足を向けて眠れない筈なのに、産児制限までかけていたと言う事で。

本当に悠仁親王が生まれて下さってありがたかったです。

「旧宮家養子案」を潰したいのなら、悠仁親王が一日も早くお妃を娶り、男子が生まれるまで着実に出産を重ねて頂くしかないのです。

 

コメント (9)
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森暢平氏のわかりにくい論文に反論する 1

2024-02-27 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

サンデー毎日に載った「旧皇族に継承順はなかった「有識者会議」の牽強付会」

なんですけど、森暢平氏の論文。

さっぱり意味がわからなくて。

要は「有識者会議が旧宮家を養子にしようとするのは間違っている」と言いたいらしいのです。

 有識者会議の言う「日本国憲法及び現行の皇室典範の下で、皇位継承資格を有していた方々であり、その子孫の方々に養子として皇族となっていただくことも考えられるのではないでしょうか

 戦後の臣籍降下時、当時の皇太子明仁→常陸宮→秩父宮→高松宮→三笠宮→寛仁親王・・・の次に継承権を持ってたのは山階宮武彦であるということ。

 かみ砕くと

 旧典範ではなく戦後の新典範において、山階武彦王が皇位継承順位7位だったんだよ・・と解釈します。

山階宮武彦王

この方ね。昭和天皇のいとこにして、海軍航空隊に所属した「空の宮様」

森暢平の言い分

 旧典範では「嫡出」「庶出」があり、嫡出が先に継承権を持つ。

 伏見宮邦家王の子供達がそれぞれ宮家を創設

 本来の継承順位は伏見宮家が先に来る

 ゆえに伏見宮博明王が7位の筈。

 かみ砕くと

 山階宮は邦家王の側室が生んだ子の子孫なので、本家本元の伏見宮博明王が先に皇位継承順位が来るはず。

 

ここまで大丈夫ですか?

次ね。

 戦後の11宮家は博明王以外は庶出だった

 新典範により、全ての宮家を「嫡庶関係ないみなし皇族」とする

 昭和22年の公示は「伏見、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、北白川、竹田、閑院」の順になった。

 宮家にとって席次が重要なのに、皇位継承順位順ではなかった。

 ゆえに11宮家の皇位継承順位はなかった

 かみ砕くと

 最も大事な「皇位継承順」に並ばなかった11宮家には継承順位がついていなかったんだよ。

 

だからどうなんだ!って話ですけど、話はこれからです。

 大正9年「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」が制定

 伏見宮邦家から数えて5親等離れた子孫は、皇籍を離脱することが決まっていた

 戦後の臣籍降下はそれを早めたにすぎない。

 かみ砕くと

 そもそも11宮家なんて臣籍降下するしかなかった皇族なんだよ

 

って事です。

ここが一番言いたかったみたいです。

何を今更・・・・って感じですが。

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