ふぶきの部屋

皇室問題を中心に、政治から宝塚まで。
毎日更新しています。

北京冬季五輪で見えた五輪の限界

2022-02-21 07:00:00 | ドラマ・ワイドショー

習近平にとって、北京五輪は成功と言えるんでしょうか?

ゼロコロナを目指して、入国する五輪関係者をまるで囚人のように追い回して、鞄だろうがなんだろうか消毒液をかけまくった北京。

SNSは完全に管理され、そのせいか選手村の画像一つ出てこなかった。

やっぱりハッキングとかバックドアを懸念してみな自制したんだろうと思います。

「北京の料理はおいしい」とかいう言葉も出てこなかったしね。

いざ、試合になれば「不正」の連続で、納得できない事ばかり。

その被害は日本の高梨沙羅にも波及して、意図的な何かがあったと思われます。

スピードスケートの方でも中国に利するような事が実際にあったし。

そしてロシアのドーピングは後々まで尾を引きそうな問題。

これは中国のメンツまでも潰したのではないか。習近平らはプーチンにも怒っているんじゃないか?と思われ。

無論、その中でも立派な成績を出して日本を喜ばせてくれた選手は沢山いて、すごいなあと思いました。雪も硬そうで本当の雪が降ったらあたふたしちゃう現実。

氷はざらざらに見えて、あれじゃエッジがひっかかるよなーと思ったり。

中国籍か、中国語が話せる方がいいのか、中国人の「海外育ち」に対する意識もわかりました。

無論、日本だって本音を言えば「大阪なおみ」を日本人とは思ってないでしょう。マスコミやテレビ局が一生懸命盛り上げるけど、国民は一切の日本語を話さない、思考が日本的でない部分を受け入れはしても、評価は出来ないと思います。

ただ、口に出さないだけ。その「口にださない」という事が中国人には出来なかったんだなと。拍手だけの筈が大声で応援するのも当たり前で見てみぬふり。

本当に開催国が共産圏というか独裁国だと、ここまで許されちゃうのかと思います。

スポーツに政治は関係ないといいますが、これほど政治を見せつけられた五輪はなかったな。

そもそも開会式の「台湾」の呼び方からしてすでに政治だったなと思います。

こんなにお金をかけてドーピングまでしてメダルをとらないといけない。

こういう催しに意味があるのか? 個人的にスポーツ嫌いだからかもしれないけど、なぜ世界選手権じゃいけないの? 五輪のメダルにどれ程の影響力があるのかわからないけど、それは審判が完璧に公正に行われる前提じゃないですか。

ヨーロッパの国々は少なからず中国の影響を受けているので、今後の五輪はやはり中国寄りになるかもしれない。それはもうロンドン当たりでわかっていた事ですが。

詰まらなくなりました。

フィギュアが全然面白くなくなった。

どうして羽生結弦だけが特別な存在なのか・・・と不思議に思って、真央ちゃんや高橋大輔の初期の頃からの映像をずっと見直して来たんですか。

高橋大輔がトップで出て来た当時の課題は「4回転」だったんですよね。

これを何度も転んだりしながら成功させて、「世界一のステップ」を身に着けて五輪中でも観客を楽しませるようなプログラムで楽しんで見ることが出来ました。

今は・・・とにかくジャンプ一色で、振付があまり面白くないなと思います。

ジャンプの助走にされちゃって、面白みのあるステップが少ない・・それが時代なんだと思いつつ。そんな中で2度の怪我から復活していった高橋大輔の姿はサムライだったなと。

そこに「白馬の皇子さま」の羽生結弦が登場して中国人は夢中。

今、芸能人のファンクラブを作る事や集まる事も許されない中国において羽生結弦だけには期間限定で夢中になっていい存在だったんでしょうね。

羽生結弦は言葉が上手で、やっぱり彼が愛されるのはわかります。

深々としたお辞儀も。内心はドロドロでも表面的にあれだけ清廉潔白でいられるのは並の心臓じゃないなと。すでに悟りを開いたお坊さんみたいですもんね。

 

とはいえ、五輪が終わってほっ。

と思ったら、いよいよロシアとウクライナが危ない事態に。

よその国の戦争ではなくなるかもしれない予感におののいています。

 

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皇室ウイークリー

2022-02-20 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

2月11日・・・天皇陛下 → 三殿参拝

2月15日・・・天皇陛下 → 通常業務

2月17日・・・天皇陛下 → 祈年祭

 

皇嗣家

2月14日・・・両殿下 → 外務省から進講を受ける

2月17日・・・殿下 → 祈年祭

 この短い週に天皇家では祭祀が2回。しかしどれも皇后は「お慎み」でした。

「お慎み」とはどういう意味なのでしょうか?

娯楽や享楽を「慎む」のはわかるけど、祭祀を慎まなくてもいい筈です。

上皇后が祭祀をやらない理由を「お慎み」という言葉を使って・・・意味不明な形にしました。

 女性週刊誌は、愛子内親王の記者会見を3月17日としています。

  しかし、宮内庁からは何の話もないのです。

  もし、本当に3月17日に行われたら、女性週刊誌は間違いなく「天皇一家」の御用雑誌という事で、裏付けが出来ますね。

  って事は「愛子内親王があまりに優秀で人気抜群だから、悠仁殿下の皇位継承に影響を及ぼしそうなので隠す事にしました」っていうのも本音。これからの祭祀や公務は全部「学業優先」でやらせないというのも本音って事です。

  なぜ3月17日なのか。そりゃあ悠仁殿下の卒業式にぶつけたんでしょうね。

 記者会見は文書を読んで終わりじゃないですか?成年を迎えてはや3ヶ月も経ってからの記者会見では盛り上がらないし。雑誌とネットは大騒ぎでしょうけど、卒業式での悠仁殿下の「おめでとうございます」「ありがとうございます」という笑顔の挨拶の方がよほどインパクトがあるんじゃないかと思います。

 皇嗣大夫の定例記者会見では皇嗣両殿下も悠仁殿下も「ほっとされている」そうです。卒業式まであと少し。ゆったり気分で春の田植えに備えて下さいませ。

 瑤子女王退院

2月16日 、新型コロナで東大病院に入院していた瑤子女王が退院。暫く自宅静養。

本当に、今もってどこから感染したのか不思議。もっとも遠い場所にいると思っていましたので。ウイルスは怖いですね。お大事に。

 

 久子妃「第53回現代女流書100人展」鑑賞

2月16日、久子妃は日本橋高島屋で開かれている第53回現代女流書100人展」を鑑賞。「きれいな字ですね」「音楽を聴いているみたい」

 鑑賞公務好きですよね~~それで生きてる感じ。着物やバッグも大層よろしいもので。「絆」マスクが何とも・・・・

 

 エリザベス女王 「足が動きません」

2月16日、ウインザー城で軍関係者と接見したエリザベス女王。

しかし、女王は杖をついて「ご覧の通り、足がうごかないのよ」

で、この軍の方は「私が女王陛下に近づこうとするとキャンディが邪魔するんです」と。

キャンディは女王が飼っている犬。女王は「あらそう」と笑いが起こったそうです。

女王の「足が動かない」のは「こわばり」のせいで年齢的に仕方のない事だそうです。

でもしっかり杖で立っていて、自分の状態を隠しもせず公務も休まず。素晴らしい。

どこかの上皇后は白内障のオペ後はサングラス、乳がん初期の手術の後は「手がこわばる」と悲劇のヒロインで、毎日のように雑誌に「手のこわばりに悩まれる上皇后さま

」って報道されていましたね。

紫色の濃いサングラス姿はかなり不評。80代に入ったあたりから上皇を杖代わりにしたり、国賓を杖代わりにしていたりしました。何で杖をつかないのかと不思議でしたが、見た目へのプライドが高かったのかもしれませんよね。

写真を見ると、急激に痩せたようにも見えるけど・・・・女王なきイギリス王室は大変な危機にさらされるでしょう。

女王陛下は尊敬しますが、ただ1点「カミラを王妃に」という考えには賛成しません。

チャールズ&カミラはかなり長い関係ですよね。ダイアナと出会う前からの。

でも当時はカミラの身分が~~とか言われて結婚を許されずしかもカミラはパーカーボウルズと結婚。傷心のチャールズは仕方なくダイアナを選んだわけです。

結婚式の朝ですらカミラとの関係を隠さなかったチャールズ。

国民的人気、世界的な人気があったダイアナ妃ですが王室としては「貴族の娘」「処女」(大事です)以外にとりえがなかったんですよね。大人しくしてればいいものを、夫の浮気に一々傷ついて拒食症になったり、自分も不倫したり・・・と女王の世代からは考えられない行動をとり続けた。

女王はダイアナが大嫌いだったんだと思います。自分で結婚を許しておいて。

だからダイアナが死んだ時も半旗にせずメッセージも出さなかったけど、国民が怒ったのでチャールズに説得されて、半旗をつるし、メッセージを出し、葬儀にも出た。

でもこの時の怒りやプライドの傷は延々と残っていたのかも。

ほとぼりがさめたころにチャールズとカミラは結婚。

それだって結婚式なし、カミラは「コーンウォール侯爵夫人」という称号で国民はやっと納得したと思います。

個人的に「コンソート妃」ではなく「夫人」であれば、かつてのオーストリア大公フランツ・フェルディナンドの妻ゾフィーのように(彼女ハホーエンベルク公爵夫人)王族としての序列が一番下になるのかと思ったらそうではなく、ほぼほぼ「お妃」扱いされてましたよね。

日本に来た時もそうだったし。

カミラ夫人が意外に性格のよい女性で王室に尽くしてきたという歴史は評価するけど、ダイアナ妃を苦しめた過去は永遠に消えないし、たまたまダイアナ妃が亡くなっているから無問題のようにとらえるのも嫌です。

王・女王の配偶者でも「ロイヤル・コンソート」の地位を持っていると、共同統治者の意味があるんだそうです。かつてビクトリア女王の配偶者であるアルバート公がそうでした。けど、エジンバラ公はそうではなかったんです。

そのエジンバラ公爵の称号をウェセックス伯爵が継承する約束になっていたんだそうですけど、チャールズ皇太子が反対しているとか。

ウェセックス伯爵はエリザベス女王の末っ子皇子で1964年生まれ。どっちかという文系でエジンバラ公の厳しい躾けに耐えられない泣き虫皇子というイメージがありました。

でも結婚後はもくもくと公務に励み、現在ハリーがいない王室の中で急激に脚光を浴びるようになりました。

結婚の時、なんで伯爵なのかな~~と思っていたけど将来「エジンバラ公爵」を継承するならよかったんですね。でも何で反対される?

ヨーク公は王子扱いされなくなったし、ハリーはメーガンのいいなり。チャールズも口が悪くて人好きするタイプではなく、ケンブリッジ公爵家とウェセックス伯爵家が中心になっていくのでしょう。

どこの王室も生き残りをかけて激しい戦いをしているのですね。

 

 

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日本一運のいい女 雅子皇后の肖像 112

2022-02-19 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2013年4月30日 オランダ国王即位式

式典中、落ち着かない

退場時

 女官の衣装にはシワ一つなく・・・・

 

記念写真

2013年4月30日 水上パレード観覧は皇太子一人

水上パレードに参加した方々

 

2013年5月1日 オランダ王室との朝食会も皇太子一人

ヨーロッパ等の王室の方々は30日のうちに帰国していたが、皇太子夫妻は帰らず。

 

 2013年5月1日 皇太子夫妻、小和田夫妻と面会

 

 女性セブン2013年5月23日号

テレビが報じないオランダ訪問の真実 皇太子妃雅子様を追ってご出発翌々日、小和田夫妻は実は日本から発った ・相談に乗る為実は一か月前から東京に滞在皇太子さまを交え食事会も。オランダに渡る朝を「スクープ撮」 ・現地面会は極秘の筈だった」

雅子さまを追って!ご出発翌々日小和田夫妻は実は日本から発った
相談に乗るため、1ヶ月前から東京に滞在。皇太子さま交え食事会も
11年ぶりに海外公式訪問を実現された雅子さま。オランダで見せられた笑顔は、療養に入られる前と変わらぬプリンセススマイルだった。

渡蘭までには、紆余曲折があり、雅子さまも苦悩の日々が続いていたが、そんな雅子さまを案じていたのが両親である小和田夫妻だった。新聞、テレビで報じられることのなかった雅子さまの悲願が叶うまでの全真相。

 

 2013年5月1日 午後6時頃アムステルダムに入る小和田夫妻

この時、駐車場のチケットを口に加える小和田氏に批判が起こりました。

 

 2013年5月2日 アムステルダムの海洋博物館を見学 雅子妃欠席

 2013年5月2日 帰国の途へ

 2013年5月3日 帰国

 

 

雅子妃オランダ行きに関して小和田氏が1月から暗躍していたとされる日程表です。

小和田氏としては自分の娘を絶対にオランダの即位式に参加させたかった筈。

でも、当の本人は行きたくなかったでしょう。やっぱりオランダ静養時に本人的にはリラックス出来なかったと思うし、色々な儀式が面倒だったろうと。

でも父親に説得されていくと決めたのが1カ月前を切ったあたり。

頑張ればドレス1着くらい作れそうなものでですけど、服装がどうのというよりオランダへ行くことが大事と考えられたのだと思います。

即位式以外は何の行事にも参加しない事をあちらの王室に伝え、さらに即位式には女官を同伴させるなど特別扱い、重病人扱いでしたね。

恐らく、この時、各国の王族達は生の雅子妃を見て「私があんなドレス着て出てこいと言われたら自殺しちゃうわ」と笑っていたに違いありません。

ゆえに令和の即位の礼では皆さん、かなり憐憫の情で見てたなと感じました。

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一晩明けたらお祭りで・・・悠仁殿下の合格

2022-02-18 07:00:00 | 皇室報道

 一晩明けたらテレビが結構お祭り騒ぎで悠仁殿下のお祝いをしてて、嬉しい驚きというか、ネットや雑誌ばっかりの憶測報道と誹謗中傷ばかり見てたので新鮮。

ああ・・・殿下が生まれた時の感動が蘇ります。

退院の日には沿道に人がずらりとならんで盛大にお見送りしてましたよね。

国民はやっぱり悠仁殿下が好きなのよ~~~~

職場から帰宅してテレビを付けたらたまたまミヤネ屋になってて、筑波大付属のOBの杉村太蔵他の面々が盛り上がって嬉しそうで「なんか幸せ」と思ってしまいました。

考えてみればOBやOGが沢山いるわけで、しかも偉い人々も多いわけだから悠仁殿下の入学は嬉しいし誇らしいと思います。

あの学校は自由な校風で制服がなく、校則もないんだそうです。

公立の進学校はそういうところ、多いですよ。

私の職場にいた早稲田出身の女の子が通っていた千葉県でも結構有名な学校では制服なし、授業中何をやってても叱られないから、後ろでゲームとかトランプとかやってたって言ってました。

恐らく同じ高校出身であろう、宝塚の演出家木村信司は初日にお箸で教科書めくりながらお弁当を食べる姿を見て不登校になったそうですけど・・・・・

かくいう我が家のジュニアの所も当時は私服だったので、制服とかバッグとかそういうものにあまりお金を使わないで済んだのはありがたかった。けれど卒業式がぶっとんでいて感動出来なかった・・・・・

筑波大付属は文化祭も個性的らしいので、悠仁殿下はさぞや実力を発揮されるでしょう。

今回、殿下がお茶の水で卓球部にいらっしゃる事を知り、あらまあ、すごいと思いました。対外試合にもお出になったそうで、そういうのを隠し撮りしないでどうするの?マスコミは。

愛子内親王のひどい運動会の画像や映像ばかり見せられて来たからなあ。

 

いやいや、予定日より早く産まれて、ちょっと細くてちっちゃい感じの皇子様でした。

いつも紀子妃の手をぎゅっと握りしめていましたね。

お茶の水の幼稚園に入園する時は、モロ不安そうな顔で「おはようございます」っておっしゃって、で、ちょっと泣かれたそうです。

でも、中学では総代で挨拶する程になられ、背丈も伸びて思慮深くなられましたね。

これまで散々週刊誌で書かれた事が全部嘘だったとよくわかりました。

 

 

 

 

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悠仁殿下 筑波大付属に合格

2022-02-17 07:00:00 | 皇室報道

 久しぶりにいいニュースでほっとするやら嬉しいやら・・・

悠仁殿下が筑波大付属高校に合格されました。

学習院以外の高校に入学するのは皇族として初。ついでに言うなら一般受験したのも初じゃないですか?

殿下はもともととんぼという研究テーマをお持ちですから、それに向かって頑張っていかれるのでしょう。

また男女共学らしいので、そこでお相手探しも出来るかも。

この合格に対し、またもごちゃごちゃ書き込んでいる輩がいますが、愛子天皇を熱望する方々、悔しかったら彼女を大学のキャンパスに引っ張りやがれと思います。

登校したのはガイダンスの時の1度きりですよ。

早稲田の商学部ではオンライン授業での不正が発覚したりして、厳しい目が注がれています。

授業をちゃんと受けているのか、テストはどうなのか。

皇女の様子を見ると、伊勢に参拝するのも武蔵野陵参拝も悠仁殿下の方が先になるでしょうね。

 

私が悠仁殿下を「おいたわしい」と思うのは、本来40年ぶりの男性皇族にして未来を担う天皇家の最後の希望であるのに、ちっとも大事にされていないという事なのです。

今回の一般入試参加も、あまりにもマスコミや一般人が誹謗中傷するから「それなら堂々と受ければいいんだろ」的なやり方ですよね。

そんなやり方を皇族がする、そういう誹謗中傷を皇族に向ける、そういう日本の国民性が嫌なのです。

「ゴシップ」というドラマではネットニュースの世界を「真実を書く」と言い切って、誰が何と言っても取材をして真実を暴き出していますが、今のネットニュースは紙と一緒になって憶測だけで失礼な事を書きたいだけ書き散らす。

それに一切抵抗しなかった秋篠宮家。

でも眞子様は傷つき、最後にああいう形で抗議したばかりに却って彼らを煽る結果になり、宮家としても対処せざるを得なくなってしまったのです。

今回、提携校推薦と報道されていますが果たしてそれが本当なのか?

と、誰もが疑問を持つような報道をされています。

 

中国や韓国の王様なら側近に暗殺されかかったり、騙されて陥れられたりという事はあるでしょうが、日本の皇族でまだ15歳なのにここまで自分で自分の身を守らないといけない皇族はいないでしょう。

本当に悠仁殿下がどんないじめや陥れにも負けず、先読みして防ぐぐらいの知恵を身につけてくれたらどんなにいいかと思います。

とにかく、早くも桜が咲いた・・・・おめでとうございます

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日本一運のいい女 雅子皇后の肖像111

2022-02-16 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2013年4月28日 オランダ到着

ほらほら、マスコミがいるわよ!手を振らなきゃ!

車中でお手ふり。上機嫌

ホテルに到着

 

 2013年4月29日 ベアトリクス女王の宮中晩さん会に出席する皇太子。

雅子妃は欠席

 

 2013年4月30日 即位式会場へ向かう

バスの中から手を振り続ける雅子妃。皇太子が止めるが・・・

バスを降りて

リアルタイムの時も書きましたが、このドレスは元はちゃんとしたアイボリー色で、紀宮の結婚式で着たドレスです。

その時、週刊誌ではシャンパンゴールドと紹介されていました。

ちゃんとウエスト部分にはくびれがあったんです。

この即位式の時、オランダへの返事が1ヶ月を切る羽目になり新しいドレスを用意出来なかったろう事はわかるのです。

しかし、他にもドレスはあったろうし、季節的にも春で他の国の王族はみな明るい色の軽めのドレスで登場。配偶者がいる人はきちんと腕を組んでいました。

しかし、日本の皇太子夫妻は互いを見る事もせず、ひたすらカメラや回りを見てお手ふりばかり。

さらにドレスは黄ばんでしわしわ。さらに悪い事にサイズを直さず、ただウエスト部分の糸を抜いて腰が入るようにしただけという・・・あまりにも失礼で恥ずかしい格好になってしまったのです。

みなさん、レースを使って透け感を出してます。カミラ夫人ですら自分の体型に似合ったドレスで帽子は見事なもの。

それに引き換え、雅子妃は変に上質のシルクで重々しく、しかも長い間、箪笥で眠っていたのかすっかり色が褪せて黄ばんでしまった。これはいわゆる日本でしか通用しないドレス、お長服と呼ばれるもので帽子は想定外だったんですよね。

でも宗教の違う国のお妃だってヨーロッパから見ても素敵な服装でいらっしゃるのに。

「修道女のよう」と言われた理由がわかる。っていうか本当に修道女だったらよかったのに。

雅子妃の後ろから歩いているのは女官で、雅子妃の上着を持っているようですが、誰もそんな物持ってないし・・・何よりこの写真でわかるのは雅子妃が体型の補正をしていないという事なのです。

緊張すると顔つきが怖くなる皇太子妃。回りは「この人誰?仰々しく女官連れで何様?」という視線。

背中から見るとボタンが壊れそうになっているのがわかりますし、よりシワが目立ちます。目の前で見た人はさぞや・・・ああ、地紋が可哀想。

女官が持っているのはボレロ風の上着だそうです。

でも何でそれが必要だったのか未だに謎です。寒いとか言い出すかもしれなかったの?

倒れたりヒステリーを起こしたらさっと被せて退場ですか?

タイのシリントーン王女と握手。隣のスペイン国王には無視されてます。

正直、罰ゲームのような衣装で、私なら出席を辞退するなあと。

この格好で堂々と歩ける雅子妃はある意味、心臓が強いのだろうと思います。

この出来事の裏で、実は美智子皇后もダイアナ妃の結婚式でベールをつけていて、「まるで自分の結婚式みたいな格好」と言われていました。

メンタルは似ているのかも。

 

 

 

 

 

 

 

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男系継承を確固たる基軸に安定的な皇位継承の提言5

2022-02-15 07:00:00 | 日本人なら絶対に知っておきたい皇室

ここまで皇室の現状や問題点、皇室典範の欠点などを書いてきましたが、21世紀の皇室がここまで権威を失墜し、また陰で皇族の思うがままにやれるような世界になってしまった理由は、日本の主権である国民にきちんと「天皇とは何か」という事を歴史を追って教えてこなかったからです。

戦前は子供の頃から歴代の天皇の名前を覚え、教育勅語を覚え、「天皇陛下は日本でもっとも偉い人」と習って来ました。

かといって、実際に国を動かしていたのは政治家であり、政治の具現化、あるいは正当性を示す為に天皇が利用されたと言えるでしょう。

けれど、国民にとっての天皇は「国の父」である事に代わりはなく、また天皇もそうふるまって来たので戦後の混乱期も皇室が廃止される事無く、国民は巡幸を喜んで受け入れたのだと思います。

 

では天皇とは古代からどんな存在だったのでしょうか。

 古代~天武天皇まで

奈良県の纏向という所にヤマトの民が一つの集合体を作り、海外との交易も行っていた所に、大陸から海を渡って来たのが人達がいました。

彼らは「鉄」の流通を巡って熾烈な争いを繰り広げました。

元々そこにいた人達、後から来た人達、日本海側にいた人達。

当時は中国も朝鮮半島も似たようなものでした。

しかし、ヤマトは争いをやめます。

「天皇」という全ての民の「象徴」を作り上げ、同じ「神」をそして神の子孫として祀ることで統一を計ったのです。

天皇は「神」を祀り、国の安泰を祈る存在。

そして天皇の下には蘇我氏や物部氏という「政治」を行う者らがあり、「天皇による政治」としての形を取りながら実際は蘇我氏や物部氏に政治をゆだねていたのです。

乙巳の変により、天智天皇の「皇族に政治を取り戻す」運動があり、天武天皇により「皇族による政治」が実現しました。

 持統天皇~称徳天皇

「皇親政治」を行ったものの志半ばで亡くなったのが天武天皇。それまで「オオキミ」「スメラミコト」と呼ばれていたが天武の時に「てんのう」という呼び名になりました。

天武天皇の二人の息子、大津皇子と草壁皇子の跡目争いには母の持統天皇が深くかかわり、結果的に大津は自害。しかし草壁も亡くなり、母である持統天皇が即位。

しかし、この女帝誕生にみなが喜んだわけではありません。

持統は批判をかわす為に高市皇子を太政大臣に任命。度々、吉野を行啓したりしてアピール。

多分この頃、庶民側からすると「天皇さま」はあっちこっちに寺を建立したりする人程度の認識ではなかったかと。

持統時代には、養老律令が発令され、皇族の範囲が決められました。

初代から5世孫までは皇族、あとは臣籍降下します。

持統の後をついだ文武天皇は、父の草壁が皇位についておらず身位からして「王」とみられますが、生まれた時から「皇子」で日本で初めて立太子した人です。

そしてこの頃より強力に権力を発揮し始めたのが藤原氏。

文武天皇には蘇我系の妃が二人いましたが、どちらも藤原氏によって降格されられ、皇子達の身分も取り上げられました。

藤原氏は宮子という娘を文武の後宮に入れ、夫人としました。

そこから生まれたのが聖武天皇です。

文武天皇も早く亡くなり、聖武天皇が成人するまで、元明・元正と2代の女帝が続きました。

この2代を「女系」とみる向きもありますが、元明天皇は天智天皇の娘、元正天皇は天武天皇の孫、立派な男系女子で、元明は未亡人、元正は独身でした。

藤原氏としては何が何でも聖武天皇を天皇にしたい。

その為には宮子より身分が上の妃は全て排除し、その子達も排除し、女帝を立てることで他の皇子に皇位を継がせないようにしたのでしょう。

聖武天皇はいわば藤原氏の「傀儡」でした。

それまで「皇后」には皇族出身の女性以外はなれなかったのに、民間から初の「皇后」に藤原家の光明子がなったのです。

光明皇后に関しても反対の皇族は多かったけど、いわゆる「優秀」「慈愛」伝説を流して回りの口をふさぎ、さらに皇后専門の部署紫微中台」を作り、藤原仲麻呂を長官として権力を振るいました。

聖武天皇には安積皇子という息子がいたのですが、天皇が行啓中に突如亡くなり、跡取りは光明皇后が生んだ阿倍内親王が孝謙天皇として即位しました。

恐らくこの頃は、上皇となった聖武が大仏を作るというので予算を使いまくり、人手を使いまくり、庶民からはあまりよく思われていなかったのではないでしょうか。

光明皇后&孝謙天皇は藤原仲麻呂という「男」を間に皇位継承者をあっちからこっちに変える・・というような事をやり、結果的にクーデターが発覚、幾人もの皇族が殺されたり、庶民に落とされたりしました。

この頃、自ら臣籍降下をする皇族が後を絶たず・・・というのも、下手に皇族でいると「謀反」の疑いをかけられて殺される危険性があったんですね。

やがて、孝謙天皇は淳仁天皇天皇に位を譲り、道鏡と恋に落ちます。

それを淳仁天皇に意見されたら怒って島流しにし、自ら重祚し称徳天皇となります。

ここから暴走が始まり、道鏡を天皇にしたいと言い出し、それは和気清麻呂によってぎりぎり防いだのですが、宮中ではあっちこっちでクーデターや謀反が起こり、大変な状態でした。

「女帝はもうこりごり」というのが政府の意見だったでしょう。

 

 平安~鎌倉

平安時代は藤原氏全盛期で後宮では藤原氏の権力争いが繰り広げられました。

女性達の身分も「女御」の上が「皇后」だったのに、天皇の意思で「中宮」という別枠の立場が設けられるなど、天皇は天皇で密かに藤原氏への対抗心を燃やしていたのかもしれません。

皇族はどんどん増えたので「親王宣下」「内親王宣下」をされなければ皇族にはなれませんでした。

やがて武士が台頭し、鎌倉時代になると天皇家は一気に貧しくなります。

即位の礼も出来ない程貧乏だった天皇もいます。

もはや「天皇」は権威付けでしかない存在になりました。

 室町~江戸時代

政治が武士に移ってから「天皇」「皇族」は恐ろしく遠い存在になりました。

京都やその周辺にいる人はともかく、関東以北、九州などからしたら「天皇って誰?」状態でしょう。

それでも細々と時の権力者である足利氏などに頼って権威の裏付けとなり、面目を保っていたと思います。

後醍醐天皇が「建武の新政」を行うも夢物語と化し、戦国時代に入るともはや京都はズタボロ状態。

さらに悪いことに徳川家が権力を握ると「禁中公家諸法度」で天皇と皇族から権威すらはぎ取って京都に閉じ込めてしまいます。

徳川家康と仲が悪かった後水尾天皇は紫衣事件や、春日局の参内など皇室のしきたりと無残にも破る徳川家に怒り、娘の明正天皇に譲位。

明正天皇は母を徳川和子とする女帝。

しかし女帝は独身を貫く必要があり、また和子が生んだ皇子も亡くなり、天皇家に徳川の血は残りませんでした。

 

 幕末~戦前

幕末になると、天皇が幕府側や尊王派に利用され、利用する時代になります。

江戸時代は皇族の数が本当に減ってしまいました。

鎌倉期にも皇族が減ったので「永世宮家」を作ったのですが応仁の乱などで全て滅び、江戸時代には「世襲宮家」として3つ、伏見・桂・有栖川という3つの宮家が出来たのですが、当時は天皇の子は長子以外全て出家させられ、皇族に戻る事はなく、より皇位継承者が少なくなったため、新井白石の意向で「閑院宮」家が作られました。

伏見・桂・有栖川・閑院は世襲宮家と呼ばれ、その長子はすぐに親王宣下を受け、断絶しそうなときは天皇の子が養子に入るしきたりでした。

それでも何度も断絶しかかったのが桂宮家です。

幕末、幕府や尊王派は出家していた天皇の子供達を「還俗させるから」と言って味方にう引き入れ、明治維新後は、「久邇宮家」「山階宮家」が創設され、さらに断絶した有栖川と桂を除いた伏見、閑院から分家などして最終的に11宮家まで増えました。

 

時の権力者である伊藤博文らは、自分達が学んでこなかった皇室の歴史を振り返り、その経緯を調べ、女帝が立つときの政治状況などを踏まえ「皇位は男系男子」とすると決めたのです。

勿論、明治天皇も負けてはいません。

正式な皇室典範が出来上がるまでに宮家をどんどん増やす事を了承し、そして伊藤の意向を聞いて、皇族や華族の序列、義務などを受け入れました。

さらに、生活を洋風にする事も受け入れ、ランプやセントラルヒーティングに嫌々ながら従い、パンも食べました。

明治時代に大きく変わったのは後宮です。

江戸時代には天皇の妃はおおむね「女御」で、「皇后」になる事はまれでした。というかそういう名称を使う機会もなかったのです。

孝明天皇の妃、九条夙子は女御→准后→皇太后→太皇太后となりました。

それまで後宮の女性が表に出ることはなかったのですが、西洋では「夫婦同伴」が基本なので、様々な公務に明治天皇と昭憲皇太后は揃って出席。

さらに江戸時代までの制度を一新し、女官制度が出来ました。

また、服装も「洋装令」によって冠婚葬祭全てに洋装を用いる事が決められました。

(それを破ったのは美智子妃。美智子皇后です)

昭憲皇太后は、「大津事件」の時、自ら筆をとってロマノフ家に詫びを入れたり見舞いを送ったりと細々と気を遣い、さらに赤十字運動に啓発されて日本赤十字設立に寄与し、国際赤十字に10万円を寄付。国際赤十字委員会はこれを元に「昭憲皇太后基金」を設立。

華族女学校やお茶の水などの設立にも寄与。

さらに、国威発揚の為、当時の日本の主産業である「養蚕」を御用地内に設け自ら蚕を育てた。

勉強熱心で「進講」を受けるのも好きだったようです。

明治天皇が始めた「菊見の会」は現在の園遊会。

つまり、今の皇室の儀式のほとんどが明治時代に出来上がり、それを継承して来たのです。

皇后の主な仕事の後ろには偉大な思想と女性の地位向上目的があったのです。

それを名目だけ受け継いでやったふりをしているのが現在の皇后です。

 

つまり、国民の中で天皇は常に「神様を祀る人」「祈る人」「仏像を作る人」そして明治なってから改めて「現人神」という思想が生まれたのです。

 

戦後、天皇が人間宣言をしてから、天皇が存在する意義に迷い、何をしたらいいのかわからない時代に突入。

それが昭和30年代以降です。

昭和天皇も香淳皇后もそこにいらっしゃるだけで潜在的に頭を下げてしまう程のカリスマ性がありましたが、皇太子は最初から人間でしかも平民の娘を妃としました。

「元皇族」「元華族」の権威のない妃を持った皇太子はひたすら「マイホーム」を演じることで「人気取り」に走り、皇太子妃の美貌は大いに役に立ったわけです。

平成時代は「被災地訪問」と「深い反省のもと慰霊の旅」をする事で目に見える「祈りの天皇皇后」を装ってきたわけですが、令和になるとそれすらなくなり、もう何をどうしたらいいのかわからない状態なのです。

 

 

 

 

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悠仁殿下の受験

2022-02-14 07:00:00 | 皇室報道

 朝から本当に冷たくて、体がだるくて起き上がれず。

雪が降りそうな天気。

悠仁殿下・・・本当になんというか、おいたわしい。

将来の天皇になる方が、一般の学生と混じって受験・・・回りにSPも見当たらず。

そりゃいるんでしょうよ。でも受験生達への心理的配慮から遠巻きだろうし、あとからごちゃごちゃ言われない様に神経をとがらせている筈。

本来なら、未来の天皇として蝶よ花よと育てられるべき方。

皇室にとって最後の望みの男系男子なのですから、皇室全体で守って盛り上げていかなくてはならない方。

そんな方をマスコミの誹謗中傷の渦の中に巻き込み、推薦入学では「裏口」と言われるから一般入試をさせなくてはいけないなんて

皇室は自らを滅ぼすつもりなんですかね。

回りの受験生は自分の事に精一杯であたりを見まわす余裕なんてないでしょうけど、それでもテレビ局や週刊誌の記者がしっかりとらえているんですよ。

 こうなったら頑張れとしか言いようがないのですが。

今までどんな皇族もこんな扱いを受けた事がありませんでした。

高円宮家の承子女王ですら、エジンバラ大学を強制的に辞めて帰国してもあっさり早稲田に入って6年もずるずる留年し続けた。

愛子内親王に至っては・・・もう何を言ってもしょうがないけど。

こんな低レベルの人達は擁護され、賛美されるのに、どこまでも実直な皇嗣家の跡取り、未来の天皇陛下にこのような試練を与えようとは!

今上夫妻も上皇夫妻もひたすら自分の御代さえ安泰であればいいと思っている。

皇室は確かに滅びへの道をたどっているでしょう。

けれど、それを止められるとしたら秋篠宮家しかいません。

そして悠仁殿下は最大の希望なのです。

お家存続に関わるお方をこのように野ざらしにしてしまった・・・・

天も冷たい雨を降らせるでしょう。

 

何度も書きますが、皇族に学歴の優秀さは必要ないのです。

皇族に必要なのは礼儀、社交性、当意即妙な賢さ、そして一生の研究テーマを持つことです。眞子様も佳子様も悠仁殿下もそれをお持ちです。

眞子様はあまりの皇室の変化の中で道に迷われた。

理不尽さに毎日打ちのめされ、怒りを覚える毎日を秋篠宮家の方々は耐えていらっしゃる。

日本が本当に皇室を必要としているなら、もうこんな事はやめないと。

今上一家の真実を公にする事が、日本の再生なのです。

コメント (27)
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皇室ウイークリー

2022-02-13 07:00:00 | 皇室ウイークリー

ご日程

両陛下

2月4日・・・天皇陛下 → 通常業務

2月8日・・・天皇陛下 → 通常業務

2月9日・・・天皇陛下 → 信任状奉呈式

2月10日・・・天皇陛下 → 通常業務

       両陛下 → 社会福祉法人亀の子訪問(オンライン)

 

皇嗣家

2月4日・・・・妃殿下 → 第67回青少年読書感想文全国コンクール表彰式

             (オンライン)

両陛下の施設訪問は障碍者習慣にちなんだもの

5年生の女児「体操が得意です」

天皇「体を動かすことが好きなんですね」

皇后 「お元気でいろんなことに挑戦して楽しんでくださ

就労支援施設の作業風景を見ながら

天皇「お客さまの中で小さなお子さんもいらっしゃいますか

皇后「(ドーナツを上げる女性に)揚げるときに油が多くてやけどされたりしませんか」

本来は5月の植樹祭の時に訪問の予定だったが、コロナ禍で実現出来なかったので、陛下の「お気持ち」でオンラインが実現。

オンライン訪問するのはいいけど、なぜ今の時期なのかなあ・・・と。

急きょしつらえた感じで、いつものお付きがいない。にも関わらずやっぱり二人ともマスク姿。余計な距離感を感じます。

 紀子妃のお言葉「心が動かされることや新たに気づくこともあり、そこで取り上げられた本のページをめくり豊かな時間を過ごすことができました

直接お会いできないのは残念ですが、感想文の言葉が伝わってきて、皆さまとお話しできたような気持ちがしております

生活に制約がある中、子どもが本を読み、心を落ち着かせ、視野や行動を広げられるよう、支えてきたご家族もおられたのではないでしょうか」

 三笠宮瑤子女王 コロナ感染

2月8日、三笠宮瑤子女王がのどの痛みを訴えたので‘PCR検査をしたところ、新型コロナに感染している事が判明。宮内庁病院に入院。

そこでさらに検査を進めると肺炎が発覚し、東大病院に転院された。

 正直、一番感染しないと思われていた方が感染した・・という感じです。

  瑤子女王の普段の生活は謎で公務はほとんどしないし、(歌会始めにも出てなかった)屋敷で一人暮らし。外に出ていないというイメージだったものですから。

  屋敷の使用人が一人感染したそうですけど、どっちが先だったのかしら?

  前日、京都から帰京した彬子女王に会ったけど、彬子女王は陰性。

  このところ、宮内庁職員の感染が何人かいたようですが、どれも宮家などとは直接触れ合うことはない人達だったと。

  まあ、本当に謎だらけですが、お大事になさってください。

 

女性週刊誌によると、3月17日に愛子内親王の記者会見があるそうです。悠仁殿下の卒業式あたりにぶつけている感じですね。

今は天皇陛下と猛特訓中だそうです。

何でも「ユーモア」のある答えを模索しているんだとか。

今上のユーモア「出会いがあったかもしれないしなかったかもしれない」

       「登山に例えると8合目」

        「ティファニーであれやこれや買うのは困る」

皇后のユーモア「(子どもは)オーケストラが出来る程は困る」

       「そうでない方」

どれもこれも寒くて背中がザワッとしたり、不愉快になったりするようなものですが、そういうのって訓練しないといけないものでしょうか?

正直にきちんと発言出来たらいいんじゃないのか?

眞子様の「父は導火線が短くて」なんて自然に出てきて笑えたしね。

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日本一運のいい女 雅子皇后の肖像110

2022-02-12 07:00:00 | 日本一運のいい女 雅子皇后の肖像

 2013年3月26日 奥志賀静養

東京駅にて60歳代男性から「税金泥棒! 仮病・さぼりの税金泥棒! 皇室から出て行け!」と大声で罵声を浴びせられる事件発生。

 女性セブン2013年4月18日号

スクープ皇太子妃雅子さま愛子さま東京駅改札口で凍り付いた罵声 スキー旅行出発の朝に」

・3月26日午前11時過ぎ、東京駅改札口

・その場に居合わせた60代の男性が「税金泥棒!仮病・さぼりの税金泥棒!皇室から出ていけ」

・雅子妃は動揺

・一家が止まったホテルの回りには警察車両が並び、スキー場にふさわしくない厳重な警備。貸し切りでもないのに東宮夫妻が滑る側にはスキーヤーの警備が囲む。

・一般のスキーヤーに迷惑をかけるのはおかしい。そこまでするなら時間外に滑れば?

・スキーを楽しむことが出来るのにどうして公務が出来ないの。

・雅子さまは国民の税金で贅沢されている

・・・全部、本当の事です。

 

 週刊新潮 2013年4月18日号

両陛下ハラハラ宮内庁は不快感「オランダ王宮」招待を放置一ヶ月、昼夜逆転の雅子さま」

東宮ご一家の夕食午後11時、雅子さまご就寝午前8時……。ご回復が期待された雅子さまの生活リズムは昼夜が完全に逆転した状態だという。オランダ国王即位式のご招待には、沈黙を守ったまま一月の時間が過ぎて行った。

 

 2013年4月11日 皇太子夫妻の不回答に宮内庁が苦言

 2013年4月11日 オール学習院でチェロを演奏する愛子内親王

 週刊新潮2013年4月25日号

園遊会は欠席でもオランダには外遊という皇太子妃雅子さまの大義名分

 

 週刊文春2013年4月25日号

オランダ国王の憂慮「雅子妃の精神状態は深刻だ」ご訪問はなぜ直前まで決まらないのか。7年前のオランダ静養後日蘭間にわだかまりを残したある事件とは

 4月14日 オール学習院での雅子妃はとても元気だった。

 4月30日のオランダ国王戴冠式に招待されてから1ヶ月前になっても皇太子夫妻の予定が決まらなかった。宮内庁も苦言を呈する。

 2007年3月、オランダ静養から半年後にウィレムアレキサンダー皇太子が来日し両陛下と食事をした。その時、皇太子は「雅子妃の精神状態は非常に不安定で驚きました。非常に深刻な状態だと思いました」と語った。

 雅子妃はオランダでの静養中、王室側に様々な迷惑をかけていた。

 例・・・雅子妃は女王が操縦するヨットに招かれていたがドタキャン。

      その前々日、女王の案内でマウリッツハイス美術館へ行った。しかし、雅子妃はたった15分で美術館を出てしまう。

      アーネム市の動物園訪問でレストランに行く予定だった。しかし、皇太子一家は入るなりトイレへ行き、そのまま出口から出て行ってしまった。待っていた職員達は唖然。

      帰国時、ヘッド・アウデ・ロー城の前のホテルに詰めていた女官達がホテルの従業員と一緒にジュラルミンの荷物を車に運ぶ。普段は温厚な侍従長が怒鳴って指示。よほど神経をすり減らすきつい滞在だったと誰もが思った。

 オランダ国民は雅子妃に憐憫の情を持っているが、返事の遅れをいぶかしむ声もある。

 

 2013年4月26日 オランダ訪問を前に両陛下に挨拶  

 2013年4月28日 オランダ出発

 

オランダ国王即位式への出席が当日1か月を切って返事をして、急きょ出席。

回りはさぞやあわてふためいたと思います。

結果的にドレスの新調も出来ず、かといって着物を着る事もしない。

行く前からオランダに「配慮してくれ」的な態度だったんだなあと。

このあと、歴史に残る失態を演じてくれました。

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