夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

中国人の観光客、ビザ条件緩和で5.6倍に激増・・。

2010-07-29 16:51:35 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
産経新聞社から配信された記事のひとつ『条件緩和で中国人観光ビザ5.6倍に』を読んで、
思わず微笑んだりした。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。

《・・
観光庁の溝畑宏長官は28日の記者会見で、
7月から発給要件が緩和された中国人の個人観光ビザの発給件数が、
23日までで5836件と、昨年7月の1033件に比べ5.6倍になったと明らかにした。

[フォト]アキバの朝は「チャイナタウン」 ビザ緩和で10倍に

一方、同庁が28日発表した今年1~6月の訪日外国人旅行者数は420万3400人で、
前年同期比35.8%増加した。
中国人観光客が牽引し、リーマン・ショック前の水準に迫るまで回復した。

7月29日7時55分配信 産経新聞    
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100729-00000048-san-bus_all
☆ 産経新聞社より配信 『条件緩和で中国人観光ビザ5.6倍に』 ☆

私はこの中にある、
《 アキバの朝は「チャイナタウン」 ビザ緩和で10倍に 》
記事も精読したりした。

無断であるが、この記事を転載させて頂く。
《・・
午前10時すぎの東京・秋葉原。家電量販店ラオックス本店前に、
観光バスやワンボックスカーが次々に乗り付けた。

降りてきた中国人観光客が店内へなだれ込む。
店員も客も中国人。中国語が飛び交う「アキバの朝」はチャイナタウンの様相を見せた。

上海から来たエンジニアの王陪さん(45)が真っ先に手にしたのは
キヤノンの一眼レフカメラ「EOS50D」。
続いてソニーのデジタルカメラ「サイバーショット」の最新機種、
パナソニックのステレオヘッドホン。
体温計にも手を伸ばし、合計25万円ほどの買い物を決めた。

中国人観光客は、あらかじめ商品を狙い定めた「指名買い」や「まとめ買い」が目立つ。
炊飯器6台を抱えた夫婦もいる。

ラオックスの菊池一営業企画部長は
「気に入れば、金に糸目をつけず迷わず買う中国人の富裕層は多い」と話す。


日本政府が新成長戦略で「観光立国」を柱の一つに掲げたのを受け、
外務省は中国人観光客の査証(ビザ)発給審査を1日に緩和。

要件を「十分な経済力」から「一定の職業上の地位および経済力」に変更した。
従来、家族は世帯主の同行が必要だったが、今後は家族だけの旅行も可能になる。

岡田克也外相は5月18日の会見で、
緩和により「従来に比べて約10倍、1600万世帯が対象になる」と述べた。

三菱総合研究所の幕亮二シニアエコノミストは、
日本は人口が5年ごとに約400万人減少し、そのたびに約6兆円の国内消費が失われると予測。
「成長持続には観光客の取り込みが必要。
人口が多く購買力上昇が予想される中国は有望」と話す。
・・》
注)記事の原文に、あえて改行を多くした。


私は世界の主要国の中で、特に日本経済の低迷で慢性のデフレ状況となり、
閉塞感のある社会に憂いたりしている。
何よりも経済の活性化こそ、今日の多々の難題を解決する第一の命題と思ったりしているが、
齢ばかり重ね、無力な私はうなだれてしまうことが多いのである。

過日、NHKのニュース、特集番組などで、
秋葉原で中国人の観光客で買物をされる状景、
或いは来日された中国人の観光客たちに、創意工夫のある食事処の情景など、
視聴し、私は好感したりしている。

そして私達夫婦は国内旅行が共通の趣味であり、
昨今、旅行先でも中国人の観光客たちを見かけることが多い。


過ぎ去りし2006(平成18)年5月頃、
この当時76歳の高齢者となった家内の母が、家内に
『元気なうちに・・北海道に行って観たいわ・・』
という要望のもとで、
私達夫婦は家内の母が初めての飛行機、北海道の道央、道東めぐりをしたのは、
この年の10月中旬であった。

家内たちは『旭山動物園』をゆっくり観たい希望したので、
旭川空港に昼に着き、旭川市のビジネスホテルに宿泊した翌日、
家内達は日中の大半を『旭山動物園』で過ごすので、
私は動物には興味がないので、次の周遊観光の層雲峡に、独りで家内たちの大半の旅行バックを持ちながら、
私は宿泊先の層雲峡に向い、早めに観光めぐりしょうと朝の9時過ぎにホテルを出た。

小雨が降る中、駅前で路線バスを待っている時、
中国人の観光客のグループと同乗となった。
60代の温厚そうな男性がリーダーらしく、15名の20代から40代の人達を先導していた。
上川市経由層雲峡に向かったが、雨は強さを増し、ときたま風が吹いた。

終点の観光ビルで私はホテルからの送迎車を待っている間、
私は『層雲峡・渓谷案内図』を温厚そうな中国人のリーダーらしき人に手渡し、
つたない英語の単語を並べ、身振り手振りで層雲峡の美景を解説した。

先方の方は、にっこりと笑い、頷(うなづ)いたりした。
たった数分のつたない説明であったが、
後で私は反省したが、メモ用紙で漢字を並べた方が好かった、思ったりした。


一昨年の2008(平成20)年2月初旬、
私達夫婦は家内の母を誘い、箱根の姥子温泉に7泊8日で滞在した。
この時に私は殆ど独りで観光めぐりをしていた時だった。

桃源台まで歩いた後、ロープウェイで姥子駅に向かって乗車していた時、
車内は中国人の20代の男女の方だけで、私は向かい合わせとなった。
まもなく冬の富士山の美麗に気付いた私は、若き男性に英語の単語をならべながら、
手で車窓から観える富士山を指したら、
若き女性が微笑みを浮かべられ、
私が下車する時、この若き男女から、英語で感謝の言葉を私は頂いた。


この数日後、私は独りで湖尻から元箱根まで遊覧船し、
下船後、元箱根の『成川美術館』からの観える冬富士の景観は一絵のように感銘を受けた後、
恩賜公園の高台にある記念館で、抹茶を頂きながら、冬富士を眺めたりした。
この時、窓辺にいる30歳前後の男女を見かけた。
裕福そうな洋装を召された2人であり、何かしら中国語を話されていた。

この後、私は公園を散策していると、
先程の中国人のおふたりが、冬富士を背景とした写真をお互いに撮っていた。
私は近づき、英語の単語をならべ、
男性からデジカメの高級なニコンを受け取り、
お2人を撮った後、男性に撮影した写真を確認して頂いた。
そして、私はお2人から感謝の言葉を英語と片言の日本語で、
感謝の言葉を頂いたのである。

私は齢ばかり重ねた年金生活の身であるが、
ささやかなインターナショナル・コミニケーションを果たせたのかしら、
と微笑んだりした。


*恥ずかしながらブログランキングに参加しています。
 下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

日記<br>
<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【下】

2010-07-29 13:36:30 | 定年後の思い
まもなくブログに準じたサイト【goo簡単ホームページ】を知り、
『風のように光のように』とタイトルを掲げて、
『kaze-hikari』のID名で、発信名は『風と光』として、入会したのは11月17日であった。

『風のように光のように』とタイトルにしたことに関しては、
【私のタイトル名【風のように光のように】の由来・・♪ 】と題して、
あるサイトに投稿しているが、再掲載をする。

【・・
私は大学中退後、映画青年、文学青年の真似事を20代の前半をしていた。

小説、随筆などで、明治以来の作家で最も影響を受けたのは、
私の長年のつたない読書歴からして、
1980(昭和55)年の夏に亡くなわれた小説家・立原正秋氏である。

小説、随筆、詩集など公表された作品は全(すべ)て読んでいるつもりであるが、
この中に1冊の詩集がある。

詩集『光と風』(角川書店)より、1978(昭和53)年5月に刊行された本である。

亡くなわれた後、追悼として、角川書店より愛蔵版として『立原正秋全集』(全24巻)はもとより、
数多くの知人、関係者から評論、随筆集が刊行された。

この中で、奥様の立原光代・著の『追想~夫・立原正秋~』、
そして長女の幹(みき)様より『風のように光のように~父・立原正秋~』が角川書店から刊行された。

特に立原幹・著の『風のように光のように』に関しては、
余りに激しく、余りに美しい《父恋の記》と解説に明示されていたが、
私は幼児に父と死別された上、敬愛した作家の愛惜の動揺からして、脳裏に長年深く残った。

幹様の綴られた随筆は、素人の文章であるが、きらめく感性があり、
何より父恋きの想いが深く、好感して読んだりしたのは事実である。

私は定年退職後、ブログの世界を知り、タイトル名には色々と考えた・・。

【のちの想いに】にするか、
或いは敬愛する小説家の長女の方の随筆のタイトルを借用するか、
迷ったのである。

結果として、私の青年期の自己形成に教示され、敬愛する小説家のなので、
長女の視線からと似た念願の意味合いから、
いけないと知りながらも、借用したのである。

尚、私は日本風土の四季折々の移ろいを限りなく愛着があるので、
それぞれの地の風光に心を寄せたりしている。
・・】
このような想いで、借用したのである。


この後、ブログに準じたサイト【すくすくブログ】を知り、
『極楽とんぼの奮闘記』とタイトルを掲げ、
『yumide』のID名で、発信名は『極楽とんぼ』として、
極楽とんぼシリーズを移管したのは、翌年の2005年1月11日であった。

このように並行として投稿していたが、
私は【すくすくブログ】の加入した短い間、
この当時、人気の漫才コンビに『極楽トンボ』の存在を初めて知り、
1部のお方から誤解されたり、
その後、この人気コンビのひとりが女性に不祥事を起こしたりしたので、
私は『極楽とんぼ』の命名の由来を明示したとおり、
何かしら60数年の心の純潔を汚されたようで、憂鬱な心が、しばらく続いたのである。


結果としては、【すくすくブログ】は投稿を中止し、
大手のブログ・サイトの【gooブログ】に移行したのは、1月19日となった。
そして『続・極楽とんぼ』とタイトルを掲げ、社会、経済、政治の諸問題を無邪気に投稿し、
『yumede-ai』のID名で、発信名は『夢逢人』としての発信名としたのである。

しかし、この分野に専門知識のない素人の私にとっては、ほころびも感じはじめ、
何よりも力量のない私にとっては、
ふたつのブログ・サイトで全く違った分野を併行に投稿し、
コメントを返信するのは、日常の時間が余りにもとられ、
読書の時間も少なくなり、ひとつだけ残すこととしたのである。

そして私の本命の【goo簡単ホームページ】で、2007(平成19)年9月末に閉鎖されるまで持続し、
この後は、『日記』の投稿文が移行できる【OCN Cafe】に加入し、
過日の7月26日まで継続した。

この間、3年前の5月に【gooブログ】を全面に改定し、
今日の『年金青年のたわむれ記~かりそめ草紙~』タイトルに改題し、
パソコンの故障、国内旅行をしていない限り毎日数通は投稿している。


私が初めてブログで、【アメーバ・ブログ】に加入し、
投稿したのは、
【 はじめまして 】と題して、2004(平成16)年11月12日している。

【・・
ブログの世界は、初めて書き出します。
まったくのヨチヨチ歩きですので、よろしくご指導をお願いいたします。
・・】
このような加入の挨拶を投稿した後、

【 Webは若葉マーク【その一】 】
と題して、30分後に投稿している。

【・・
インターネットの環境が整ってから、数ヶ月過ぎました。
この間、色々な未体験の連続で涙と笑いの連続でした。
パソコンは個人的に10数年。
職歴の一部として、コンピュータの専任者として、1971年~1990年経験していましたが、
Webの世界は未知でした。
・・】

このように幼い文体で綴っていたのであり、
今の私としては、微苦笑しながら、懐かしさを感じたりした。


*恥ずかしながらブログランキングに参加しています。
 下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

日記<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

初めてブログを投稿した頃の想いで・・。 【上】

2010-07-29 12:15:16 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む65歳の高齢者の身であり、
今朝、霧雨が降る朝を迎え、ときおり微風が吹き、朝涼(あさすず)となり、
その後、霧雨がやんだら、日中のひととき庭の手入れをしょう、と思ったりした。

しかし霧雨から小雨となり降り続け、久々の雨に見惚れ、
二週間ぶりぐらいかしら、と心の中で呟(つぶや)いたりした・・。

やむえず庭の手入れを延期しょうと思ったりしたが、
予定がはずれて、ぼんやりとしていた。

この後、玄関の軒下で煙草を喫っていた時、
私がブログの世界を知り、初めてブログの投稿した頃が想いだされた。

そして、居間に戻り、パソコンを開き、
初恋の人に出逢ったような思いで読んだりしたが、
幼い綴りで恥ずかしい気持ちがあったが、このような心で投稿していたのか、
と微苦笑したのである。


私は2004年(平成16)年の秋、民間の中小業の会社を定年退職する数ヶ月前、
自宅で初めてインターネットを開設した・・。

私は東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年に大学を中退し、
映画・文学青年の真似事をし、挫折した後、
企業に中途入社する為に、1年間コンピュータの専門学校で学び、
ある大手の企業に何とか中途入社できたのは、1970年(昭和45)年の春であった。

この時からほぼ20年間情報部門の専門畑となり、
その後は他部門の管理畑に異動し10年ぐらい奮闘した後、リストラ旋風となり、
最後の5年間は取引先の物流情報センターに出向としたのである。

1990年(平成2)年の初めの頃までは、
ある程度は専門畑のコンピュータの世界が解かっていたが、
その後は利用者の間接部門となったので、
先端技術は解からず、ただパソコンを利用し、業務に従事していたぐらいであった。


こうした体験で、いざ自宅で個人利用のパソコンにインターネットを連動させた時、
Webの世界の環境には、驚きと出遅れたと感じたりしたのである。

そして、定年退職後は、『ホームページ』を立ち上げて、
自身の日々の思い、そして過ぎ去った時代の思いを随筆風に綴り、
公開しょうと思案していたのである。

ホームページの開設までの技量に乏しく、
無名の私が開設・運営した所で果たして、と躊躇していた時に、
偶然、本屋の店頭で一冊の本にめぐり逢え、
私は初めて『ブログ』の世界を知ったのである。

『はじめよう! みんなのブログ』(インプレス)と題された、
別冊インターネット・マガジンであった。

私はブログの多くは匿名制度であるが、ある程度の良識を根底に於けば、
自在に私の生活~政治の分野まで発露でき、
何よりホームページより手軽に開設、運営できると決意したのである。

そして私は、11月12日に【アメーバ・ブログ】に加入し、
『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』とタイトルを掲げ、
『kaze-hikari』というIDで、発信名は『極楽とんぼ』と命名し投稿をはじめたのである。

私は初めてブログの世界に入り、【アメーバ・ブログ】に加入した時、
タイトル名、発信名は私なりのブログ・サイトで要(かなめ)を成すこと思え、
深く思案したのである。

タイトル名の『極楽とんぼ~団塊世代のひとりとして~』に於いて、
~団塊世代のひとりとして~、と副題をしたのは、
私が中途入社した25歳の時、職場で机を並んだのは、新卒の人が多く、
彼らは団塊世代の人たちが多く、その後30年ぐらいは、
それぞれの時代の苦楽を共にした心情があったからである。

発信名を『極楽とんぼ』と命名したのは、私の幼年期からの深い想いでがあった。
このことについては、あるサイトで、
【私の小学生時代の愛唱歌・・♪】
と題して、投稿していたが、再掲をする。

【・・
私が小学校に入学したのは、1951(昭和26)年の春だった。
東京の郊外の調布市であるが、この頃は田畑、雑木林が圧倒的に多く、
緑豊かな町村であった。

私は長兄、次兄に続いて生を受けた3男坊で、
祖父と父は女の子を期待していたらしく、私は幼児なりに何となく感じていたのか、
いじけた可愛げのない子の上、無口であった。

兄の2人は学校の成績が良く、私は通信簿を頂くたびに、
お兄さんの2人は優秀だったのに、
と担任の女の先生がため息まじりに云われたりしていた。


音楽の授業は、先生がオルガンを弾いて、
生徒の我々全員が『春の小川』、『夕やけこやけ』等を唄っていた。

学期末の頃に、ひとりの生徒が教室の1番前にある黒板の近くで、
先生のオルガンの伴奏に合わせて、唄うことが定例であった。
私は人前で他愛ないおしゃべりをすることが苦手であったので、
私の順番になると、ドキドキし、出来たら逃げ出したかった。

結果として、通信簿『2』であった。

私が下校で独りぼっちで歩いて帰る時、
或いは家の留守番をしている時は、

♪笛にうかれて 逆立ちすれば
 山が見えます ふるさとの
 わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし

【 『越後獅子の唄』 作詞・西條八十  】

私は何となくこの歌に魅了されて、唄っていた。
唄い終わると、何故かしら悲しくなり、涙を浮かべることが多かった。

そして、私が気分が良い時は、
♪私は街の子、田舎の子・・、
と勝手に『私は街の子』を変更して、唄ったりしていた。
・・】

この『越後獅子の唄』の名曲の悲しげな歌の裏返しの思考、
そして小説家・山口 瞳・著の『還暦老人極楽蜻蛉』の題名から拝借し、
定年退職後の自由自在でブログの世界で綴ってみたい、
秘かな思いであった・・。


そして【アメーバ・ブログ】に投稿を初め、
コメントを頂き、私なりに喜びであり、コメントをして頂いたお方の日記に、
私も盛んにコメントを書き込みをしたりした。

ただ、【アメーバ・ブログ】の日記投稿欄の書き込み、送信に、
たびたびエラーなどが発生し、初心者として技量もなく、
何度も書き直し投稿をしたりした。

その上、各部門による賞金制度が設置されていたので、困惑し、
私は他ブログ・サイトを探したのである。

                              《つづく》


恥ずかしながらブログランキングに参加しています。
 下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

日記<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

霧雨降る朝涼(あさすず)のひとときを迎え・・。

2010-07-29 06:55:46 | 定年後の思い
私は東京郊外の調布市に住む65歳の高齢者の身であり、
霧雨が降る朝を迎え、ときおり微風が吹き、朝涼(あさすず)のひとときとなっている。

過日の17日に梅雨明けの後、連日の暑さの35度前後の日々となり、
雨は夜のあいだに三回ばかり小雨がわずかに降った程度で、
おかしな夏となり、朝涼は死語になったのかしら、と苦笑していた・・。


昨夜、9時過ぎに玄関の軒下で煙草を喫っていたら、
風が吹き、心身に心地良く、私は夜風に身をまかせながら、
明日の29日は曇りの日中が予報されているので、
庭の手入れに最適かしら、と微笑んだのである。


今朝、6時過ぎに玄関の軒下で庭を眺めれば、
霧雨降る中、樹木の枝葉、草花はわずかに濡れている。
そして、淡紫色の高砂木槿(タカサゴ・ムクゲ)の花を眺めたり、
塀際に群生している蒼色の紫露草(ムラサキ・ツユクサ)花が、
雨から遠のいているので、元気なく咲いている。

そして、居間に戻り、テラスに下り立ち、
淡紅色と白色の大輪のアメリカ芙蓉(フヨウ)を眺めてたりしていた。

このように私はぼんやりと過ごしているのであるが、
日中の最高気温は30度前後が予測され、久々に猛暑から解放されるので、
霧雨がやんだら、庭の手入れをしょう、と思ったりしている。


*恥ずかしながらブログランキングに参加しています。
 下段のマークを押し、次画面の『投票』を押して下さいますと、
 つたない私の無上の喜びとなりますので、お願い致します♪

日記<br>
<!--
<rdf:RDF xmlns:rdf= -->
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする