夢逢人かりそめ草紙          

定年退職後、身過ぎ世過ぎの年金生活。
過ぎし年の心の宝物、或いは日常生活のあふれる思いを
真摯に、ときには楽しく投稿

『夏になったら聴きたい曲は・・』、齢を重ねた私が聴く曲は・・。

2010-07-30 17:03:16 | 音 楽
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
先程、この【gooブログ トピックス】に於いて、
《 夏になったら聴きたい曲は何ですか? 》
と記載されていたので、齢を重ねた私が聴いたり、鼻歌で唄ったり、
心の中で唄う曲は・・と思い返したのである。

数分、思い浮かべていたら、

『長崎の鐘』サトウハチロー・作詞、古関裕而・作曲/昭和24年

『少年時代』井上陽水・作詞、作曲/平成2年

『さとうきび畑』寺島尚彦・作詞、作曲/昭和42年

『夏の思い出』江間章子・作詞、中田喜直・作曲/昭和24年

『浜辺の歌』林古渓・作詞、成田為三・作曲/大正5年

このような曲が出てきたのである。

私はこれらの歌に関しては、このサイトに綴っているが、
特に涙なくして聴けない歌は、『長崎の鐘』、『さとうきび畑』、そして『浜辺の歌』である。


今回、『長崎の鐘』に歌に関して、再掲載する。

【長崎のこの日には、私は永井隆氏の遺(のこ)された言葉を・・。】
と題して、昨年の2009年8月9日に投稿している。

【・・
私は東京郊外の調布市に住む年金生活5年生の64歳の身であり、
洗面した後、玄関庭に下り立ち、西の空の長崎に向かい黙祷したのは朝の7時過ぎであった。

過日の6日の広島に向って西の空の彼方に黙祷したが、
同じような深い思いで、手を合わせたりしていた・・。

かの大戦の終末時、アメリカは広島に8月6日午前8時15分に人類史上初めて原子爆弾が投下され、
少なくとも15万人の人が即死した。
そして、長崎は8月9日午前11時2分に投下され、8万人以上の人が即死した。

私は今年の2月中旬の折、
家内の母は、新潟の高田町(現在・上越市)で戦時中の青春期の時、
多くの同級生と共に軍事工場に働き過ごした身であるが、
生きているうちに一度は長崎の『原爆資料館』を観てみたいわ、
と要望されたので、私達夫婦と家内の母で長崎を訪れた。

私は家内たちとは別行動で、独りで長崎の各所を拝観したりした。
こうした中で、うしろめたいような心情で長崎の『原爆資料館』に初めて訪れ、
改めて過酷な実態を知り、その当時のことはもとより、
被爆された後からも、心身ともに苦痛な日々を過ごされている人たちを思うと、
私は『原爆資料館』を辞する時、涙があふれたのである・・。

この後は、未知の長崎医大の前を歩いたりしながら、
初めて訪れる『長崎市 永井隆記念館』を探し求めながら、
小春日和の中を独り歩いたのである。

このことについては、このサイトに於いて、
【『長崎』、『雲仙』よかとこ滞在記 ~歴史のかたみの中で~ 】
と題して、投稿しているが、あえて再掲載をする。

【・・
(略)
    第5章 『長崎市 永井隆記念館』を訪ねて

私は永井隆氏の名を知ったのは、遅ればながら高校二年の時で、
昭和37年であった。

幼年期の5歳頃、ラジオから『長崎の鐘』の歌が流れ、
幼児の心なりに悲しみを覚えたりし、
この後には母に手を引かれて映画の『長崎の鐘』を観たりしたのである。

このような思いは、私はこのサイトに於いて、
【 『長崎の鐘』を聴くときには・・。 】と題して、
2007年8月27日で投稿しているが、あえて今回は再掲載をする。

【・・
私は昭和19年9月に東京の郊外で生を受けた。

昭和25年の頃に、自宅のラジオから『長崎の鐘』がよく流れてきた・・。

♪こよなく晴れた 青空を
 悲しと思う せつなさよ
 うねりの波の 人の世に
 はかなく生きる 野の花よ

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

私は5歳の幼児であったが、何かしら物悲しく感じたりした。

♪なぐさめ はげまし 長崎の
 ああ 長崎の鐘が鳴る

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで聴いていると、いじけた幼児の私でも涙があふれてきた・・。

翌年の夏、近くの寺院の境内で、映画が放映された。
この頃の時代は、学校の校庭とかで、スクリーンを張って、ときたま映画が放映されていた。
娯楽の乏しかった時代、ご近所の方達が集まって、
このような催しが行われた時代でもあった。

近くの寺院の境内で上映されたのは、映画の『長崎の鐘』であった。

母に連れられて、初めて観た映画だった。

帰路、満天の星空の中で、天の川も加わり綺麗だった、ということが今でも残っている。

映画のストリーは忘れてしまったけれど、幾つになっても、藤山一郎の歌声を聴くと、
私は涙ぐんだりしている。

私は後年になると、作詞はサトウハチロー、作曲方は古関祐而と知るのであったが、
肝心な『長崎の鐘』という原作を書かれた永井隆は無知であった。

その後、このお方の人生経路を知り、涙で曇った。

♪召されて妻は 天国へ
 別れてひとり 旅立ちぬ
 かたみに残る ロザリオの
 鎖に白き わが涙

【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】

ここまで転記させて頂いているが、著者の永井隆の人生を思い馳せると、
また瞼(まぶた)が熱くなってしまう。


国家の国益という怜悧の中、アメリカは広島に続き、長崎にも原子爆弾を投下した。

思えば、7月26日に於いて、アメリカ、イギリス、ソビエトの首脳により、
『ポッタム宣言』で日本に降伏を勧告したが、
日本政府と軍の首脳部が混迷し、黙殺した結果となり、
8月6日に広島に続き、9日に長崎に投下された。

こうした事実を少しづつ知りはじめると、
なお一層、この歌は悲劇を通り過ぎて、悲惨な過去の実態にうっすらと涙を浮かべる。

私は年を重ねた62歳の身であるが、
ここ10数年、8月15日の敗戦日になると、
昼のひととき『長崎の鐘』を聴いて、平和の大切さをかみ締めている・・。
・・】

このような思いもあったりしたが、
今回の旅行の旅立つ数週間前に、ネットで『永井隆博士の生涯』などを学び、
少なからず衝撃を受けたのは、長崎医大物理療法科の部長の時を含め、
この当時は劣悪なレントゲン機器の状況となった中で、数多く撮った結果、
当人の永井隆自身がラジウムの放射線で白血病となり、
昭和20年6月に余命3年と診断された、ということであった。

そして永井隆氏は、妻に告げるのであるが、
この時の心情を思うと、私は思わず涙を流したのである・・。

館内の展示品を拝見しながら、
この後の原爆投下後の状況、そして無念ながら亡くなるまでの軌跡に、
改めて感銘を受けたのであった。

http://park10.wakwak.com/~cdc/nagasaki/nyokodou/
☆ 長崎市永井隆記念館 ☆

そして館を辞する直前、私は書籍の即売コーナーで、
恥ずかしながら未読であった『長崎の鐘』(アルバ文庫)を購入して、
ホテルで深夜の2時半過ぎまで読み、敬意を重ねたのである。
・・】

このように私は綴ったりしていたのである。


こうしてぼんやりと私は読み返したりしているが、
館を辞した後、市電の駅に向う途中で、小公園の石のベンチに座り、
永井隆氏の遺(のこ)された言葉が深く思いだしていた・・。

『この子を残して』の書物の『父性愛』と題された一節に於き、
《・・
この子を残して・・・・・
この世をやがて私は去らねばならぬのか!

母のにおいを忘れたゆえ、せめて父のにおいなりとも、と恋しがり、
私の眠りを見定めてこっそり近寄るおさない心のいじらしさ。

戦の火に母を奪われ、父の命はようやく取りとめたものの、
それさえ間もなく失わねばならぬ運命をこの子は知っているのであろうか?
(略)
・・》

『平和塔』の書物の『如己堂』と題された中に於き、
《・・
如己堂は、2畳ひと間きりの家、北側の壁に香台、本だなを取りつけ、
その下に幅2尺長さ6尺の寝台を置いて、ここに私は身を横たえている。

西側は一面の白壁、何の飾りもない。
東と南はガラス戸で、草に埋もれる原子野を隔てて浦上天主堂に向かう。

この家を狭いと思うは、なまじ敷居で庭と仕切って、この部屋をわが物ときめた人間がみずから招いた窮屈。
(略)
如己堂・・・・己の如く他人を愛す、という意味を名にとったこの家は、
家も妻も財産も職業も健康も失って、
ただ考える脳、見る目、書く手だけをもつ廃人の私を、
わが身のように愛してくださる友人が寄って建ててくださった。

そして今にいたるまで、その数々の友の如己愛は絶えずこの家に注がれ、
それによって廃人の私は生命を確かにつないできた。
寝たきりの私と幼い2人の子とが、ひっそり暮らすにふさわしい小屋である。
・・》
注)著作の原文より、あえて改行を多くした。

私は、ときおり今でも永井隆氏の遺(のこ)された言葉をかみ締めている・・。

そして、余りにも多くの市民の方が犠牲となられた人にご冥福を、
今なお被爆の後遺症に心身ともに苦しまれている方にお見舞いを、
ただ私はこれだけしか言葉にできないのである。

せめて私は平和を祈念する時、原点としてひとつの歌を幾度も聴いたりしている。

http://www.youtube.com/watch?v=Z3AOUJdbRKs
☆【『長崎の鐘』 作詞・サトウハチロー 作曲・古関祐而 唄・藤山一郎 】☆


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『クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い・・』のお便りを拝読し・・。

2010-07-30 09:41:11 | 時事【社会】
私は東京郊外の調布市に住む年金生活6年生の65歳の身であるが、
昨夕、ネットでニュースを見ようと【YAHOO! JAPAN】を開き、
たまたまロイターから配信された記事のひとつで。
【クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い】という記事を読んで、
私は微苦笑させられた・・。
無断であるが転載させて頂く。
《・・
[コディ(米ワイオミング州) 28日 ロイター]

イエローストーン国立公園にも近い米モンタナ州ギャラティンのキャンプ場で28日未明、
男女3人が野生のクマに襲われたが、
そのうちの1人は「死んだふり」をして命拾いした。

1人が死亡した今回のクマ襲撃で助かったのは、
カナダからの旅行者デブ・フリールさん(58)。

テント内で就寝中、クマにかまれて目が覚めたという。
搬送された病院のベッドで電話取材に応じ、
恐怖心と戦いながら危機を切り抜けた当時の様子を語った。

最初は「一瞬のうちにクマの歯が腕に食い込むのを感じ、骨が折れたのが聞こえた。
悲鳴を上げたが、
それがクマを怒らせたらしく、さらに歯を食い込ませてきた」という。

「それで死んだふりをしようと決めた。ぬいぐるみ人形のように、
すべての筋肉をだらりとさせた」と話した。

パニックと戦いながら落ち着きを失わなかったことが、
生死を分けるカギだったようだ。

フリールさんは、体をリラックスさせるとクマのあごからも力が抜けるのが分かり、
間もなく「自分を離して歩き去った」と説明。

その試練は35─40秒間の出来事で、
隣のテントで寝ていた夫でさえ気づかなかったという。

初めて訪れた地で遭った災難だったが、
キャンプの経験が豊富なフリールさんは
「クマを恐れてはいない。敬意を持っている」と語っている。

7月29日18時9分配信 ロイター

注)記事の原文に、あえて改行を多くした。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100729-00000024-reu-int
☆【ロイター】《クマに襲われたカナダ人女性、「死んだふり」で命拾い》


私は若き大学時代には、中退するまではワンターフォーゲル部に所属し、
冬山の登山、岩登り以外は、先輩の指導の下で、山の地や里山まで歩き回っていた。
もとより、キスリングに個人装備、共同装備を背負い、
テント生活に明け暮れていたが、幸いに熊に出遭うことはなかった。

昨今は家内との共通趣味の国内旅行をした時に、
たまたま独りで里山を歩いていた時、熊に出遭うことのないように予備対策をした。


過ぎ去りし2006(平成18)年10月中旬、
私達夫婦は家内の母の念願の北海道旅行に誘い、道央、道東めぐりをした。

この旅の中で、知床半島のウトロにある観光ホテルに連泊していた。

家内達は漁港周辺を散策するので、
私は独りで『知床自然センター』の周辺を散策することにした。

この館内の映像展示館で『知床の四季』を観た。
解説に寄れば、映像を超えたダイナビジョンが誘う、大自然の世界、と綴られていたが、
まさに遂力のある映像から知床の大半が集約されている名画、
と感動を受けたりした。

この後、私は、『乙女の涙』と称される海岸の滝までの遊歩道の路を、
係員の方に訊ねた時、
係員の方から、
『熊除けの鈴・・無料で貸し出ししていますので、持たれたら・・』
と好意の言葉を私に云った。

少しためらいながら私は、微苦笑しながら、
『ご好意・・ありがとう・・でも、大丈夫でしょう』
と私は係員に熊除けの鈴を受け取らず、歩きだした。

私は登山、ハイキング時などで、鈴の音を聴いたりすると、
何かしら拒絶反応するタイプであったのである。
樹林の中のゆるやかな坂道を下ると、あたり一面平地となり遥か彼方に知床の連山が観られる一帯であった。
前方に団体観光客の方たちが見えたので、
私はこの方たちにまぎれて談笑しながら、『乙女の涙』まで同行した。

私は、『乙女の涙』の周辺の海岸の光景に見惚れて、
ゆっくりと時間を過ごしたので、帰路は独りぼっちになってしまった。
樹林に近づくと、いつでも熊が出できても、おかしくないよなぁ、
と恐怖心がつのったりした。

しかし熊に出遭うことのないように、

♪イヨマンテ
 燃えろ かがり火

【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫 】

歌手の伊藤久男のように朗々と唄えないが、
今回の旅行前から『イヨマンテ(熊祭)の夜』の歌を秘かに練習をしていた。
そして熊避(よ)けには、音痴な私の唄声でも鈴などより余程効果があると信じていた。


この後の数日後、阿寒湖の湖畔の観光ホテルに滞在した時、
家内達は、観光船でマリモ展示観察センター観たりするが、
私は興味がないので、湖畔周辺を散策することにした。

観光船乗り場の脇道から遊歩道があると聞いていたので、歩き始めた・・。

湖畔沿いの小道は、エゾマツ、トドマツ、ダテカンバ、ナナカマドの針広混生樹林の中を少し間引いて、
遊歩道として『湖畔コース』と名づけられていた。

湖畔に目を転じると、阿寒湖の情景が観え、
快晴の中、遠方に遊覧船が見えたりした。

広葉樹林は、紅色、黄色に染められて錦繍となり、
湖面の陽射しが差し込み、葉の一枚が枝から舞いながら水面に落ち、
微かな水紋でゆらいでいる・・。

この遊歩道をゆっくり歩きながら、
ときおりデジカメで風景を切り取り、15分過ぎたと思われるが、
私のほかは人影を見かけない。

こうした時も『イヨマンテ(熊祭)の夜』を唄いながら、
無事に通り抜けたのである。

最も熊だって、東京の田舎者の音痴な人には遭いたくない、
と隠れ潜んでいたと思われる。


戯(たわむ)れにささやかな体験を綴ったが、
若き頃のワンダーフォーゲル時代、先輩より熊に出遭った時、
動くことなく静止しろ、まして死んだふりは効果はない、
と教示されてきた。

今回のカナダ人女性は、テントの中で睡眠中に突然に襲われ、
動揺しながら、咄嗟に死んだふりで、災難を回避できたのは、
稀(まれ)なケースと私は思ったりしている。

尚、お読み頂いた若い世代の方には、『イヨマンテ(熊祭)の夜』の名曲は、
ご存知ないと思われるので、掲載する。

http://www.youtube.com/watch?v=Q2odR2ccZFs&feature=related
☆【『イヨマンテ(熊祭)の夜』 作詞・菊田一夫、作曲・古関祐而、唄・伊藤久男】


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