ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の謎 第5回 <石峰寺五百羅漢 その2>

2016-12-13 | Weblog
<『都名所圖會』再板版>
 
 さてここからは、石峰寺の五百羅漢が造られてからの記述を、時系列で追ってみよう。初出は天明六年(1786)に刊行された『都名所圖會』再刻版である。その六年前に発行された『都名所圖會』初版が、まず大ベストセラーになり、若干の変更を加えて後に再板再刻発行された。
 初版刊行時には、羅漢建造は進行中であった。そのため図にも本文にも羅漢の記載はない。ところが天明版再版では、「近年当百丈山には石像の五百羅漢を造立し霊鷲山のここにうつれ」と山上の図の余白に記され、羅漢が並んでいる。
 この記述は、意味のわかりにくい文だが、「近年、百丈山・石峰寺に石像五百羅漢が建立された。お釈迦様がかつて仏法を説いたところの霊鷲山(りょうじゅせん)よ。インド・天竺よりここに移り来たれ」という意味であろうか。
 本文の一部を現代語で紹介すると、「開山は黄檗の六世千呆(せんがい)和尚なり(退院の後この地に住す)。…また左右に聯あり、ともに千呆の筆なり。表門の額は即非の筆にして、高着眼と書す。」
 
 
   『都名所圖會』天明六年再刻版
 
 
 このページに、石峰寺の朱印がふたつ押されている『都名所圖會』再刻版を発見した。筆者が偶然、京都府立総合資料館でみつけた押印本『都名所圖會』再板全六卷だが、持ち主はかつてこの本を御朱印帳として利用し、京の各寺を巡っておられた。面白い発想だと思う。全冊に押された印を調べてみたが、寺社等の数は六十八、印判は百六十六個にのぼる。印章から推定するに、押印の時期は残念ながら江戸時代ではない。後世それも昭和十年ころの、巡礼行脚だったようだ。寺社以外にも、宇治橋の通圓茶屋、一条戻り橋の御餅屋山口五兵衛、方広寺大佛前の餅屋隅田屋の印まで押してある。相当の甘党だったのでしょう。ところでこの本は、傷みの少ない美本。持ち出すときには大切に扱い、自宅では仏壇に納めておられたのではないかと想像してしまった。
 
 
<『拾遺都名所圖會』>
 
 『都名所圖會』再刻版発行の翌年、天明七年(1787)には『拾遺都名所圖會』が刊行された。都名所図会がたいへんなベストセラーになったため、柳の下のドジョウを狙って、続編が出たわけである。このあたりの思惑は、現代の出版事情とかわらないようだ。以下本文を意訳する。なお本冊に図はない。
 「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」
 安永年間は十年間であったので多分、安永五年(1776)であろうか。若冲六十一歳、還暦のころに制作を開始した。昔の年齢は数えなので、還暦は六十一歳である。
 そして天明のはじめ、六十六歳か六十七歳の時、おおよそ五年か六年ほどの歳月をかけて、第一期の造作を完了したと思われる。
 石峰寺の石像群は五百羅漢と呼ぶにふさわしくない。このことは何人もの先学が指摘しておられる。明治期以前には千体以上の石像が後山にあったのだが、それを五百羅漢と称した原因は、最初に若冲が完成させた初期石像群が、上記のごとく、五百体余であったからであろう。
 
 
<天明七年石峰寺図>
 
 石峰寺の五百羅漢についてのもうひとつの古い記述は、天明七年(一七八七)の小川多左衛門の書付である。石峰寺が所蔵する掛軸画「天明七年石峰寺図(仮称)」の裏面に貼られていた。「洛南深草石峰禅寺/有石佛五百羅漢/予命画師令寫祈置也/山科梅本寺主俊類和尚依需/為亡息悦堂祖閣居士/菩提喜捨正与者也」。子息の菩提を弔うために、画師に依頼して石峰寺の五百羅漢を描かせ、山科の梅本寺に寄進したものであるという。
 天明のはじめに釈迦牟尼を五百羅漢たちが取り囲む景観が完成した後、わずか五年か六年ほどにして、壮大な数え切れないほど多数の石像群が、後山を覆っている。この図はたぶん、将来計画を含んだ設計図を参考に、若冲工房の弟子のだれかが描いたのではないかと思う。もっと検討が必要だが、おそらくこの画に近い無数の石像群の景観が、石峰寺裏山に出来上がっていたであろう。
 ところで小川多左衛門という人物だが、代々多左衛門を名のる本屋である。屋号は小河屋、軒号は柳枝軒。黄檗僧の語録を数多く出版した。
 
 
<皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見>
 
 天明八年正月二十八日(1788)、当時の京を代表する儒学者・文人の皆川淇園が石峰寺を訪れた。伏見に住む門人の寅こと米谷金城と、誘い合わせた画家の仲選、すなわち円山応挙や呉月渓らと連れ立って伏見に梅見に出かけたのである。途次、応挙の案内で、深草の石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物した。ところで呉月渓とは画家の呉春である。後に応挙の円山派をしのぐほどの評価を得、四条派と称される。
 なおこの日、若冲は不在であったが、淇園が釈若冲と記しているのが興味深い。淇園も応挙も、若冲を出家者・僧とみなしているのである。釈は釈迦の弟子であり出家僧をいう。皆川淇園著「梅渓紀行」の五百羅漢感想記の大略は、
 
 境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に「遊戯神通」と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなしと、淇園はいう。
 この原文は、これまであまり紹介されていない。参考までに紹介しよう。
 
 路左見一寺ヲ望石表有云、百丈山石峰禅寺、仲選云、此釈若冲造構ヲ成ス、山上ノ石羅漢、皆其レ手刻ヲ成ス、同行之ヲ聞ク、皆往観ヲ欲ス、乃寺ニ入リ、、大路ヲ距テ里許、石磴山門旗杆鐘楼略備ル、境静神清、堂後ノ小山、阪高一二丈、上ニ小竹門ヲ設、扁ノ云、遊戯神通、阪上ニ門ヲ過、門内小径、壑ヲ右ニシ山径ヲ左ニシ、山ニ沿テ屈曲升降八九轉、其間或ハ渓ニ架橋ヲ設、或嶺ヲ繞シ磴ヲ築ク而旁乃置ク石羅漢ヲ羅、或ハ三五、或七八、岩掩林ニ映、高下乱置、率皆高二三尺過不、皆其石質ノ天然ニ因テ、略ク彫工ヲ施、以テ之ヲ為、是以其殊形異ノ状怪ノ貌奇態、往往人意表ニ出、殆ト観者ヲシ為ニ倒絶ヲ令、最後一大臥石ヲ彫、涅槃像ヲ作、左右諸天菩薩、眉目態度、其略刻麁鑿之間、亦皆彷佛哭泣之姿ヲ見、其下獅虎牛馬羊犬兎鶏、大小或ハ倫不者有、然レモ造意之工、無人奇歓者令不、観尽キ則道己ニ於前阪門下ニ到、乃寺門ヲ出、途ヲ南頭ニ取、而復大路ニ就、(筆者による読み下し)
 
 この時には、釈尊が霊鷲山においてたくさんの衆生や羅漢を前に法を説く姿だけでなく、釈迦涅槃の像や複数の橋も完成していたことが知れる。獅子、虎、牛、馬、羊、犬、兎、鶏などの石像もたくさん並んでいた。
 
 
   円山応挙「雪松図屏風」天明六年(三井記念美術館蔵 国宝)
 
 
 ところで、小さな竹の門に「遊戯神通」の扁額があったという記述は興味深い。石峰寺に木版画「城南深草百丈山石像之図」複写がある。米斗翁七十五歳画の行年、藤汝鈞印、若冲居士の印まで揃っている。描かれた諸仏羅漢天女鳥獣たちは、表情豊かで実に楽しい。後山の入口に描かれた黄檗風の門には、「遊戯神通」の扁額が明瞭である。若冲下絵による木版画であろう。なお同寺には、図はほとんど同じだが、扁額「遊戯」の版画もある。
 明治十七年刊『石亭画談』では、この版画を紹介している。かなり後世まで、これらの扁額はあった可能性が高い。
 
「若冲ワンダーランド展」(MIHO MUSEUM 2009年)ではじめて公開された若冲筆の石峰寺「五百羅漢図」には、入口の門扁額に「遊戯」と記されている。画は京都国立博物館所蔵の若冲画「石峰寺図」(扁額は無地で白)によく似ており、制作年はともに同じ寛政元年(1789)とみられる。
「遊戯」の図には賛が記されている。大徳寺僧の大徹宗斗(1765~1828)が「般若大徹叟/額字応需/書之(花押)」と画の右下隅に小さくある。額字の「遊戯」は大徳寺四三〇世・大徹宗斗の書である。賛が書き込まれたのはだいぶ後、おそらく十九世紀はじめであろう。
 
 萬福寺の田中智誠和尚からご教示いただいたが、黄檗山第六代・石峰寺開山の千呆(せんがい1636~1705)和尚の書があった。大坂の明楽寺蔵の図巻題字「遊戯神通」である。千呆の書「遊戯神通」を、石峰寺後山入口門の扁額に使用したのであろう。なお深草・石峰寺の創立は十八世紀早々である。
 
<2016年12月13日 南浦邦仁>
 
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若冲の謎 第4回 <石峰寺五百羅漢 その1>

2016-12-10 | Weblog
<吉井勇が愛した五百羅漢>
 
 深草伏見稲荷のすぐ南に黄檗の禅寺、百丈山石峰寺(せきほうじ)がある。江戸時代の画家、伊藤若冲が寛政十二年九月十日(1800)に没し土葬された墓と、三十三回忌に建てられた筆塚が、境内の見晴らしのいい一角にたたずんでいる。彼は晩年、亡くなる八十五歳の年まで三十年近い歳月、心血熱情をこの寺に注ぎ尽くした。
石峰寺は、若冲の遺作である石像五百羅漢で有名だ。かつて歌人の吉井勇は、若冲の五百羅漢をこよなく愛した。吉井の随筆「羅漢の夢」を引用する。
 
 うとうとしているとわたしは、ひとつの不思議な夢を見た。それはいかにも伏見の石峰寺の裏山らしい。どっちを向いても石の羅漢だらけで、目を閉じているもの、腕を組んでいるもの、口を開けているもの、寝ころんでいるもの、立っているもの、あぐらをかいているもの、首をかしげているもの、空を仰いでいるもの、うつむいているもの、このほかありとあらゆる形と顔つきとをした羅漢が、そこら一面に群がっていました。それが何かの拍子にいっせいにこっちを向いて、大きな声を立てて笑った、と思ったら夢が覚めました。
  羅漢図をうつらうつらに描くなり病めば心も寒きなるべし
 
 昭和十七年六月二十六日の夢だが同月五日、吉井は盲腸周囲炎のために京都大学病院に入院した。そして月なかばまで危篤におちいり、生死の境をさまよった。彼はこの夢を回復直後、洛東の病床でみた。小さな自分というものが、何か大きなもののなかに、楽しく融け込んでいく思いを体験したと語っている。
 
  『若冲 五百羅漢 石峰寺』 芸艸堂 2013年刊
 
 東京人の吉井がはじめて石峰寺を訪ねたのは、昭和十三年十一月、京の北白川に越してきた翌月、歌の友数人に案内されてのことであった。
「わたしの目を驚かしたのは、その落葉におおわれた丘のうえばかりでなく、すぐ近くの深い谷間にまで、累々として横たわっている、無数の石の羅漢像であった。わたしは遠く愛宕につづく西山に落ちかかっている秋の日を眺めながら、立ったり、倒れたり、坐つたりしている羅漢像を、この世を離れた仙境にでも来たような心持で、ひとつびとつ見て歩いた。」
 
 質の粗い石にごく稚拙な手法で彫ってあるので、長い年月の間に櫛風沐雨(しっぷうもくう)、磨ったり、欠け損じたり、あるいは苔が生えたり、土に埋もれてしまって、いまではもう原形をとどめないものも多い。吉井は、かえってその方が飄逸洒脱(ひょういつしゃだつ)な味があるという。
 そして、なかでも彼が最も親しみを感じたのは、悠然と坐って大きい腹を撫でるような格好で空をあおいでいる羅漢であった。
  みずからの命楽しむごとくにも 太腹羅漢空を仰げる
 
 なおこの石、白川石は京都東山・白川の山中でとれる石材だが、岩質のあらい、風化しやすい花崗岩である。若冲は、歳月とともに丸みを帯びる石を、あえて選んだのかもしれない。石や岩ですら、永遠不滅ではない。いつかは丸くなりそして砂にかえっていく。
 阪田良介住職に聞いたが、コケが大敵だそうだ。苔が石をすこしずつ砕いていくとのこと。防止するには、ピンセットで一本ずつコケを引き抜く。石像は五百体をこえるので、この作業には気が遠くなる。訓練をうけた多人数のボランティアが集まらなくてはできない業であろう。「あと二百年もしないうちに、石像はほぼすべてが、単なる石ころになってしまう」。和尚は話しておられた。
 
 ところで吉井勇が京都に住みついて、静かな晩年を送ることが出来るようになったのは、この太腹羅漢をみてから、人生というものに対する考えが変わったためではないだろうかという。ゆきずりの住居と思っていた京都に、ずっと長く住みつき、ここを終のすみかとするようになったのも、あるいは羅漢たちが、離してくれないからではないか。石峰寺の羅漢と何か因縁があるのではないかと、彼は記している。
 京都北白川に越して来、その翌月に羅漢たちにはじめて出会ってから二十二年の後、昭和三十五年十一月十九日寂。かつて羅漢の夢をみた、同じ京都大学病院の病床で息をひきとった。最後の言葉は「歌を……歌を……」。来迎の羅漢たちに、彼は話しかけたのではないだろうか。享年七十三。
 
 
<椿山荘の羅漢>
 
 東京の椿山荘にも若冲の石造羅漢像が、いまも十九体ある。江戸時代に京都深草でつくられた石像羅漢が、なぜ東京にあるのか。最初知ったとき、不思議だった。若冲の石像は江戸時代には、京都から流出していないはずである。外部に出たのは明治のはじめに違いない。
 椿山荘の羅漢は石峰寺と同じく、若冲の下絵にもとづき、あるいは素石に彼が線を墨で描き、石工によって彫られた石像である。大きさや姿形石質、伝承ともすべて一致する。
 
  椿山荘の羅漢たち
 
 ところで、これと関わりが推測される文書が、黄檗山萬福寺に残っている。若冲没後、ちょうど百年にあたる明治三十三年(1900)、京都府知事宛書状の控写しである。なお文書には関係者全員が自署捺印している。
 
羅漢献上之儀ニ付御願 
京都府下紀伊郡深草村石峰寺   
一當寺境内山上ニ有之石像五百羅漢之内数拾壱体
小松宮殿下御所望ニ付取調候処尤モ全体無之且大意ニ破摧シ當時維持困難ノ折柄幸ヒ
殿下御所望速ニ献上仕度依テ檀信徒及組寺法類等逐協議候処双方異儀無之仍而連署ヲ以テ上願仕候間何分ノ御指令相成度此段願上候也
明治三十三年六月廿八日
右石峰寺住職 阪田拙門 
右寺檀信徒総代
 石岡幸次郎 
 玉田安之助
 石田喜助
 雨森菊太郎
仝 京都府下上京區鞍馬口 閑臥菴住職 法類 辻無染
仝 京都府下紀伊郡堀内村海宝寺住職 組寺 荒木太觀
仝 郡仝村 聖恩寺住職 第十五區 黄檗宗務取締 林田翆巌
京都府知事高崎親章殿
 
 同日付けの似た文書がもう一通ある。要訳すると、石峰寺境内山上にある石造五百羅漢のうち、数十一体を小松宮彰仁親王がご所望につき献上したく、組寺、法類、檀信徒は協議し合意したので、連署をもってお願い申し上げる。ただこの文書には、破砕のため当寺は維持が困難である旨の文言はない。
 署名捺印は前記と同じで、阪田拙門、石岡幸次郎、玉田安之助、石田喜助、雨森菊太郎、辻無染、荒木太觀。記載事項に相違なしとして林田翠巌。宛名は黄檗宗管長堂頭大教正吉井虎林だ。
 当然、府知事は承諾したはずだ。宮様が所望し、関係するすべての寺が、檀信徒総代全員も同意している。ただ京都府に問い合わせたところ、受理された文書は現在見当たらないとのことだった。しかし間違いなく、羅漢石像数十体は宮家にもらわれていったはずである。
 
 さて椿山荘だが、明治期は維新の元勲・山縣有朋邸だった。その後、大正期に新興財閥の藤田組に譲られた敷地面積一万八千坪、広大豪壮な庭園邸宅である。藤田組の創業者は男爵藤田伝三郎、長州出身の政商。彼は明治十年(1877)の西南戦争で巨利を得、本拠が同じ大阪の住友家にも比肩する財閥を、一代で築いた英傑である。椿山荘は現在、藤田観光のホテルで、深い森に囲まれた都心の別天地として有名だ。
 小松宮は羅漢像を石峰寺から譲渡された後、三年ほどへた明治三十六年に亡くなった。その後、羅漢たちは山縣有朋の手に渡ったのでないか。そして藤田が引き継いだのだろう、と筆者は勝手に推測したのだが、実はそうではなさそうである。
 
 若冲の石像羅漢像を所望した小松宮彰仁親王について、略歴をみておこう。彼は親王家筆頭の伏見宮家邦家親王の第八子として、弘化三年(1846)に生まれた。安政五年(1858)に親王宣下、仁和寺門跡となる。幕末動乱のなか、慶応三年十二月(1867)に天皇より復飾を命ぜられ、環俗して嘉彰と称し議定に任じられた。翌慶応四年・明治元年には軍事総裁、ついで外国事務総裁、海陸軍務総督、兵部卿、会津征討総督。そして陸軍大将などをつとめる。
 明治十五年(1882)に小松宮に改称し、名を彰仁に改めた。日清戦争では参謀総長有栖川宮熾仁の薨去により、後任を命ぜられる。このふたりは、ともに維新と明治前半期の軍を象徴する宮であった。
 
 錦の御旗をひるがえした両宮の江戸進軍を歌にしたのが日本初の進軍歌「風流トコトンヤレ節」。宮サンとは、有栖川宮熾仁親王と小松宮彰仁親王、ふたりの宮である。歌は、長州藩士の品川弥次郎がつくったという。♪宮サン宮サン…オ馬ノ前デ、ヒラヒラスルノハナンジャイナ…アレハ朝敵征伐セヨトノ錦ノ御旗ジャ知ラナイカ…トコトンヤレナ。
 小松宮家本邸は、はじめ神田駿河台にあったが後に赤坂葵町に移る。そして宮は晩年に浅草区橋場に別邸を構える。京都別邸は丸太町通川端東入ル、現在は天理教河原町大教会になっている広大な土地にあった。最初この屋敷は桜木御殿と呼ばれ近衛家抱邸だったが、小松宮に譲られ、明治二十年代には山階宮家に移り、明治三十三年に天理教が購入している。
 宮がこの邸宅を手放したのはおそらく別邸「楽寿園」の建設のためであろうと思う。明治二十四年から翌年にかけて築造された静岡県三島市の楽寿園は、じつに広大な庭園、豪邸である。現在は三島市立公園になっている。
 しかし不思議だが、宮の本邸跡にも別邸跡にも一切、羅漢たちの痕跡がない。なお晩年、京都では旅館川田別邸などを常宿にしていたが、この旅館はいまはない。
 小松宮は明治三十六年二月十八日に没す。死因は過労が原因の脳充血発作であった。前年には体調不良をおして、英国皇帝戴冠式参列のために明治天皇の名代として渡航している。行年五十八歳、国葬で送られた。なお小松宮には子がなく、宮家は一代で絶えた。
 
ところで椿山荘だが、もとは上総国久留里藩黒田家の下屋敷だった。明治十一年(1878)に公爵山縣有朋が入手し、もとの地名「椿山」にちなんで椿山荘と名づける。なお彼の別邸は京都に無隣庵が新旧二庵あるが、いずれにも羅漢の痕跡は見当たらない。
 椿山荘は大正七年(1918)に、山縣から藤田組二代目の男爵藤田平太郎に譲られた。理由は、晩年を過ごすには広すぎるから。また丹精をこめて造りあげた名園を永久に保存してくれる人物として、同じ長州出身の故藤田伝三郎の長子、平太郎は適任であった。
 藤田平太郎の妻、富子は『椿山荘記』に記している。椿山荘にはかつて一休禅師の建立という開山堂があった。山城国相楽郡の薪寺から移築したものだが、「堂のまわりは熊笹の丘で、石の羅漢仏十数体を点々と配置してあります。この石仏は若冲の下画と称し、古くより大阪網島の藤田家の庭園にあつたものを移した。」
 富子は伯爵芳川顯正の三女として明治十五年に生まれた。父顯正は幕末、伊藤俊輔、のちの伊藤博文に英語を教えたひとである。明治期には東京府知事、文部大臣、司法大臣、逓信大臣、内務大臣などを歴任。彼も長州閥に属したひとである。
 平太郎が富子と結婚したのは明治三十四年二月である。網島のふたりの新居は、日本郵船の大阪支店長だった吉川泰次郎の屋敷を、藤田伝三郎が明治十九年に購入し、まわりの地を買い足した広大な敷地であった。富子は結婚当初から網島の豪邸で暮らす。大阪網島は近松門左衛門『心中天の網島』で知られる。
 小松宮が羅漢を所望したのは明治三十三年だった。その翌年に結婚した富子は「羅漢は古くより大阪網島の庭園にありました」と記している。椿山荘の羅漢たちはかなり以前に、宮とは別の経路を通じて、深草石峰寺から大阪網島をへて、大正年間に東京椿山荘へ移されたのであろう。
 それと、もと高麗橋通にあった藤田旧邸から網島に移った可能性も考えられる。また吉川泰次郎の庭に、明治十九年以前からあったのかもしれない。移動経路は不明だが、石峰寺から明治のはじめ、廃仏毀釈の時期に出たに違いない。江戸時代には、若冲石像が石峰寺から流出したという記録は一切ない。
 ちなみに網島の旧藤田本邸は現在、藤田観光太閤園、藤田美術館、大阪市長公館、藤田邸跡桜之宮公園などが並ぶ地である。なかでも藤田伝三郎が親子二代にわたって集めた美術品は、大阪空襲にも幸い耐え残ったが、質量ともに実に見事な逸品揃いである。昭和初年の金融恐慌時にいくらか売却され散失したが、それでも同家所蔵品は数千点、うち国宝重要文化財は五十点をこえる。それらを収蔵する財団法人藤田美術館の設立に尽力したのは富子と義妹の治子であった。昭和二十九年に開館した同館初代館長は、藤田富子がつとめた。
 
<2016年12月10日 南浦邦仁>
 
 
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若冲の謎 第3回 <若冲という名前 後編>

2016-12-05 | Weblog
<さまざまの名前>
 
 さて若冲は、いろいろな名をもっていた。まず春教である。伊藤若冲は二十代後半から町狩野の大岡春卜(1680~1763)について習ったと一般にいわれている。しかし師からもらった春教の落款のある作品は、まだ発見されていない。春教という名は本当にあったのかどうか、疑問が残る。
 若冲はもっと幼い子どものころ、十歳になる前から師匠について描画を習ったはずである。三十歳に近づいてからでは遅すぎる。このことは後述するが、青木左衛門言明が師であるという説もある。古来よりの風習で、京の子どもたちは習い事を、六歳の六月六日から始めるを常のこととした。
なお、両親からもらった幼名は不明である。
 
 若冲五十一歳のとき、大典はこう書いている。「若冲居士の名は汝鈞、字(あざな)は景和、平安(京都)の人なり。本姓は伊藤、あらためて藤氏となす。享保元年二月八日(1716)、錦街(錦市場)に生まれた。」
 なお享保元年は六月の改元なので、正しくは二月は正徳六年であろう。
 
 つぎに俗名をみると、若冲は二十三歳で父を亡くし、長男の若冲は稼業の大店・青物問屋「枡源」の四代目伊藤源左衛門を名のる。決して商売など好きではなかったはずの若冲だが、若い父を失いやむをえず名と家業を継いだ。
 そして四十歳にして、待望の隠居になることができた。商売は次弟に譲り、名を茂右衛門とあらため、画業に専心する。当然、弟の白歳が五代目源左衛門を名のった。ところで弟の号の白歳だが、家業の八百屋から野菜の白菜に引っ掛けたのだろうといわれている。また百歳から横棒の一を引いて、九十九歳は白歳になる。九十九はツクモともいうが、若冲の作とされる「付喪神図」(つくもがみず)もある。
 
 もうひとつ、彼には注目すべき名がある。出家名と断定してよい道名「革叟」(かくそう)だ。嵐山の故加藤正俊和尚が命名の軸をおもちで、ご自坊にて見せていただいたことがある。黄檗山萬福寺住持だった伯珣が若冲に与えた書である。一部を意訳してみる。
 「京の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々、錦街に居す。幼くして丹青(絵画)を学び、稼業をつがず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精妙を称される。平素、世のことに欲もなく足ることを知る。…絵事の業はすでになる。…よってすなわち命ずるに革叟をもってし、わたしの僧衣を脱いでこれを与える。かえりみるにそれ身を世俗より脱して、こころを禅道に留めよ。そして古きを去り、新しきを取るがごとし、ここにわたしが革をもってする所以である。汝よ、それ、これにつとめよ……」
 若冲五十八歳。「絵事に刻苦することほとんど五十年」。やはり幼時から絵事に励んだのであろう。
 相国寺と大典に距離をおき、黄檗の萬福寺そして深草の石峰寺に接近していったころの、彼の感動の一日であった。しかし不思議なことに、若冲は革叟の名を、一度も使った痕跡がない。この件も錦市場事件と合わせて後述する。
 
<売茶翁>
 
 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁(ばいさおう)をみてみよう。
 ちょうど還暦を迎えるころ、大秀才の学僧で文学僧、また儒教にも道教にも通じた翁は京で、突然に茶舗をはじめた。そして天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は桜の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしたが、もっぱら日々移動する。荷茶屋というそうだ。しかし僧侶が物品を売って生活費を得ることは、許されない行為であった。
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判であった。売茶翁は時代を代表する知識人であった。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だったのである。
 売茶翁はこういっている。わずかの学業学識をひけらかして、師匠だの宗匠などとみずから称すことなど、まことに恥ずかしい。
 また僧侶にたいしては、立派な僧衣をまとい、おのれは佛につかえる身、佛弟子などと上段にかまえ、理も知らぬ庶民に高額な布施を要求して生きる。わたしには、とてもできない。
 「春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、みずから茶具を担ひ至り、席を設けて客を待つ」
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場や梅雨の季節、何度も喰う米にもこと欠き生活は困窮した。しかし翁はそのような生活を良しとした。
 
 
   若冲居士印「売茶翁像」
 
 
 売茶翁は京洛のあちらこちらをうろつき、たくさんのひとたちと交わった高潔の非僧非俗、俗塵のなかの茶人である。「大盈若冲」云々と大典が書いた道具には、都人が何度も接していた。画業見習い中の錦の若旦那もしかりであろう。
 「貴きもいやしきも、身分はありません。茶代のあるなしも問いません。世のなかの物語など、楽しくのどやかに、みなでいたしましょう」と売茶翁はおだやかに語りかけた。そのようになごやかに庶民と話す、売茶翁は都名物のオジイサン、こころが透明で温かい、にこやかな人物だった。
 「茶銭は黄金百鎰より半文銭まで、くれ次第。ただで飲むも勝手。ただよりは負け申さず」。百鎰(いつ)とは、二千両のことという。一文は寛永通宝一枚、いまの一円つまり金銭の最小単位である。割りようがない。
 
 十八世紀の京都文化は、売茶翁を軸の中心に回転した。当時、江戸期最高の京文化が百華繚乱したのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからである。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であった。
 ところで、存命中の人物をほとんど画に描かなかった若冲だが、売茶翁の絵だけはたくさん残している。翁は若冲がこころより敬愛する人物であった。
 
 
<若中の出現>
 
 ところで驚いたことに、とんでもない若冲画が一般公開された。相国寺承天閣美術館で2007年に開催された「若冲展」に展示された「松樹群鶴図」一幅である。
 この展覧会のいちばんの目玉は、「動植綵絵」三十幅。美術館の入口は長蛇の列で、一時間や二時間の待機は当たり前の大混雑だった。わたしの友人など、あまりの人だかりにあきれ返り、観ずに帰ってしまった。
 「動植綵絵」や「鹿苑寺大書院障壁画」などは圧巻だったが、わたしにとっていちばん興味深く、また驚かされたのが「松樹群鶴図」であった。印章は「若中」。サンズイでもニスイでもない、ナカ「中」なのだ。この画は真筆で、印もだれかが勝手に押したのではなく、画家若冲が捺印したに違いない。「若冲展」図録の解説を抄録しよう。
 
 この作品はいまだに生硬な画風で款記「平安藤汝鈞製」とあります。字は細く頼りなげで、若冲初期作品にまま見られるこのアンバランスな款記から、若冲の作品のなかでもかなり早い時期に制作されたものと考えられます。
 どこの画を手本にしたかは不明ですが、おそらく朝鮮絵画を写したものでしょう。若冲はいつも対象物に接近して描くタイプの画家です。しかしこの画は遠くから俯瞰(ふかん)するという、彼にはない構図です。いまだ固有の画風を確立するに至っていない、若冲の発展途上の作品として貴重な例。また使用例がない白文方印<汝鈞字景和>と、朱文方印<若中>の二印を捺す。
 
 「若中」とは……。わたしは、たいへんなショックを受けた。『老子』からは、若冲や若沖、あるいは古字の若盅が生まれても、若中はありえない。
 ということは、彼は初期作品に「景和」「汝鈞」あるいは「女鈞」などの名を用い、おそらく同時期に「若中」の名をほんの一時使用した。そして後に「若冲」「若冲居士」へと変化していったのであろう。あまりにも唐突な「中」字の出現に、唖然としながら、そのように考えざるを得なくなってしまった。
 いずれにしろ、「若中」名をほんの短期間にしろ使ったのは、やはり彼が三十二歳から数年の間のいつかであったろう。
 
 そして宝暦七年(1757)、若冲は大作「動植綵絵」にこの年から着手したとみられる。第一作は「芍薬群蝶図」。<平安城若冲居士藤汝鈞画於錦街陋室>と記されている。若冲四十二歳。
 また同年には若冲画「売茶翁像」に売茶翁高遊外が賛をした。印章は「若冲」ではなく驚いたことに、またデタラメな同印「若中」であり「中」字使用の二例目である。この画は2009年にMIHO MUSEUMで開催された「若冲展」ではじめて公開された。
 当時の売茶翁は高齢と腰痛のため書に自信がなかった。誤字脱字を起こしては申し訳ないと、依頼主にはいつも賛を辞退していた。この時に売茶翁が賛を依頼する主に送った断りたいという手紙に「拙筆之儀ニ候ヘ者、書損或落字抔、有之候故、書キ直シ之不成物ハ、一向書不申候」
 しかし若冲はあえて誤印「若中」を捺すことによって、自分の印章もそうだが、間違いや失敗を恐れないようにと売茶翁を温かく励ましたのではないか。同じ姿のよく似た売茶翁像が多数現存しているが、賛に失敗しても代替の画があると、彼は何枚も翁に見せたのでなかろうか。
 『老子』を誤解して作ってしまった「若中」印をあえて再度、ほぼ十年ぶりに使用した若冲の翁へのこころ配りを感じるのは筆者だけか。
 
 かつて若冲が三十二歳か三十三歳かその翌年のころ、朝鮮画を模写した習作「松樹群鶴図」に誤印「若中」を押して、売茶翁に見せたことがあるはずだ。翁は笑ってこういったであろう。「大盈若冲を<中がからっぽのごとし>と、わたしはあなたに説明しましたが、雅号にするならば、若中より若冲がよろしかろう」。筆者はふたりの会話をまるで横で聞いていたかのように、いま光景として描ける。若中の名をそのように確信している。
 大典を知るのはその少しあと、売茶翁が和尚に「若中」の笑話を語ってからであろう。「若中」名は、三人の絆を築いた。そのようにわたしは考えている。
 
 大典は宝暦九年(1758)四十三歳のときまで相国寺慈雲庵に住まいした。売茶翁は寛保四年(1744)からほぼ十年間、相国寺林光院に寄寓した。若冲の名が確定した三十二歳から三十六歳の期間、売茶翁も大典も糺の森のすぐ西に位置する相国寺に居住していた。
 
 ところで若冲画「売茶翁像」だが、高遊外が賛を無事に書き終えて依頼主に送った手紙に、翁はつぎのように記している。「痛い腰をかがめて書きましたので、格好のよい字とはなりませんでした。字を抜かすことはありませんでしたが、もともとうまくない字です。今回はいっそううまくありませんでした…」。宝暦五年以降、売茶翁は腰痛に悩んでいた。
 なお翁賛の若冲画を受け取った人物は、ノーマン・ワデル氏によると泉州貝塚の文人武士である松波治部之進、別名を津田治部之進という。売茶翁をはじめ、京坂の文人たちと深い交流を持つ人物であった。
 
<2016年12月6日 南浦邦仁>

 

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若冲の謎  第2回  <若冲という名前 前編>

2016-12-03 | Weblog
十八世紀後半の江戸時代、円山応挙らとともに京を代表する画家だった伊藤若冲の「若冲」とは、変わった名である。そしてこの名には、謎が多い。
 彼の墓はふたつある。伏見深草の石峰寺には土葬された墓、もうひとつは御所のすぐ北の相国寺墓地内。後者は寿蔵・生前墓であるが、墓表の字はともにまったく同じ。相国寺の大典和尚が記したもので、「斗米菴若沖居士墓」と彫られている。若「冲」はニスイのはずなのに、墓はサンズイだ。冲が沖とは、これいかに?
 石峰寺住職のご母堂の阪田育子氏から聞いたのだが、若冲の墓前に立ち止まった若い女性観光客たちが「ワカオキさんて、だれ?」。確かに、サンズイの墓表「若沖」では、そう読まれても仕方がない。近年でこそ、若冲も超有名人だが、ブーム以前には若冲を「じゃくちゅう」と読めるひとは決して多くはなかった。
 
 
<大盈若冲>
 
 「若冲」の字は、中国古典『老子』による。『老子』第四十五章には、
「大成若缺。其用不弊。大盈若冲。其用不窮。大直若屈。大巧若拙……。」
以下、福永光司編著『老子』に依る。
 大成は欠けたるが若(ごと)く、其の用弊(やぶ)れず。大盈(たいえい)は冲(むな)しきが若く、其の用窮(きわ)まらず。大直(たいちょく)は屈するが若く、大巧(たいこう)は拙(せつ)なるが若し。
 本当に完成しているものは、どこか欠けているように見えるが、いくら使ってもくたびれがこない。本当に満ち充実しているものは、一見、無内容(からっぽ)に見えるが、いくら使っても無限の効用をもつ。真の意味で真っ直(す)ぐなものは、かえって曲がりくねって見え、本当の上手はかえって下手くそに見える。
 
 冲字は、沖(チュウ)の俗字とされるが、沖は「盅」字の借字である。読みは同じくチュウである。
 サンズイの沖はチュウだが、「おき」と読み、海の沖とするのは日本の勝手である。本来の中国には、海の意味もオキの読みもない。
 冲も沖も盅とも同音で同意字であるが、意味は、むなしい、からっぽ、なにもない、ふかい、ふかくひろいなど。水のサンズイが付く中を、深く広い沖「おき」と読ませた最初の日本人がだれかはわからないが、彼の着想は当を得ている。字意を心得ての当て字である。
海のおきは、この国の古語であろう。沖(おき)は奥(おく)と同根で、万葉以前の時代、「奥」は「おき」とも発音されたという。空間的には遠い場所をいうそうだ。松浦佐用比売の意吉(おき)は海の奥(おく)のようだ。
 海原のおき(意吉)ゆく舟を帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 
 松浦佐用比売(まつらさよひめ) 『万葉集』八七四
 
 話がまた横道にそれてしまったが、老子の「大巧若拙」についてひとこと。鈴木大拙先生は名を、ここから採っておられる。若拙ではなく大拙とされたのだが、「大盈若冲」による若冲も、大冲でなかったのが面白い。ところで、大拙先生は名前の親である老子の子、義兄弟に当たる若冲のことをご存知であったかどうか、少し気になる。
 
 『老子』第四十五章が、若冲の名の出所であるが、『老子』そのものが混乱している。福永光司本は冲ニスイ。木村英一・武内義雄・金谷治・小川環樹各氏の本では、サンズイの沖と記されている。ニスイ冲は、福永・山室三良氏など、少数派である。
 『老子』の古いテキストには二系統がある。どちらも中国の古い本だが、「王弼(おうひつ)注本」と「河上公(かじょうこう)注本」の『老子道徳経』である。漢字ばかりの両書を一読したが、王弼はサンズイの沖、河上公はニスイの冲を載せる。どちらのテキストを底本に用いるかで、沖と冲がわかれるようだ。
 江戸時代の明和七年(1770)に、宇佐美本「王注老子道徳経」が江戸で刊行された。この本は日本における決定版になるのだが、若冲五十五歳、相国寺に「動植綵絵」三十幅を寄進した年である。なおサンズイ沖の寿蔵は明和三年に建てられている。宇佐見本は「王注」なのでサンズイのはずである。
 だが『老子』は、テキストに異同が多い。宇佐見本を使う訳者も、ニスイにしたりしておられる。わたしには正直なところ、よくわからない。若冲は作品にサンズイ「若沖」と署名したり、押印してもよかったのではなかろうか。大典はその通り、墓表にはサンズイ沖を記している。
 
 ところで、面白い本を見つけた。明徳出版社刊『馬王堆老子』である。湖南省長沙で、四十年ほど前に発掘された古墓で発見された、驚くべき『老子』絹本である。四十五章は欠字が多いが、「…盈如沖、其…」と書かれている。約二千二百年も昔にさかのぼる一級の本である。これだと若冲は「如沖」になってしまうが、意味は同じく「チュウなるがごとし」
 さらには、郭店楚墓は馬王堆より百年ほども古いそうだが、竹簡には「大盈若盅、其用不窮」。1997年の出土である。ごく最近に知ったので、あわてて追記挿入しておく。
 それらはジャクチュウかジョチュウか、ニョチュウになるのであろうか。盅も沖も冲も、読みはチュウで同じ意味である。
 
 
<若冲名の誕生>
 
 若冲の「冲」字のことは、いくらかわかってきた。もうひとつの謎はだれが命名したかという点である。
 定説のようになっているのが、若冲三十五歳の前後に、相国寺の大典和尚が名づけたという説だ。当然だが、『老子』からとった名であることはいうまでもない。ただ若冲には老荘に親しむような、教養はなかった。本人が老子本から選択したのではない。
 
 延享四年(1747)夏のこと、大典和尚が親交のあった尊敬する売茶翁高遊外の茶器「注子」(ちゅうす)に銘を記した。「去濁抱清。縦其灑落。大盈若冲。君子所酌」。糺の森でのこと。下鴨神社の糺の森は、京の納涼地として有名である。この年、数え年で大典二十九歳、売茶翁七十三歳。若冲は三十二歳だった。
若冲三十歳代のなかばころ、若冲と大典の交流がはじまり、そして名をもらい「若冲」が誕生したと、一般には認識されている。
 
 錦街の自宅画室で彼は一枚の画「松樹番鶏図」を仕上げた。宝暦二年の年記から若冲三十七歳。これが若冲名の確認されたはじめての作品である。
 完成した画を前に彼は、署名押印をまだ暗い早朝になした。昔の京、冬の底冷えはきびしい。彼はこう記した。「宝暦二年正月の明け方、寒いアトリエの京都錦街<独楽窩>において、凍った筆を息で吹き温めながら記す 若冲居士」と書いている。「独楽窩」(どくらくか)とは、ひとりで楽しむ穴蔵の意味。彼の画室は、錦市場の伊藤家土蔵のなかだったのかもしれない。
 若いころの若冲の字は、決して上手とはいえない。そのような自分の字を、言い訳ぽく表現したのであろうか。寒さで手が震えるなか、正月早々の款記、書初めだった。
 ということは、「若冲」という名は、前年までに決定していたと考えられる。款記は正月のおそらく元旦であるから、同年一月に確定したのではなく、前年三十六歳のときまでには、用いていたはずである。
<2016年12月3日 南浦邦仁>
 
 
 
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若冲の謎 連載第1回

2016-12-01 | Weblog
 生誕300年の今年、伊藤若冲のブームは想像を絶するものがありました。確かに若冲の絵は見れば見るほど、わたしたちのこころを惹きつけます。不思議な画家です。
 電子雑誌「Lapiz」(ラピス)発行人の片山通夫さんたちと、夜の錦市場を歩いているときに「若冲特集をやりたい」と提案がありました。そして若冲画のシャッター前で、表紙写真の通りですが、即決定してしまいました。若冲の伊藤家は錦のすぐ近くで青物問屋を営んでいたのは有名です。また天才画師は、同市場の危機を救った恩人であることも、近年あきらかになりました。知れば知るほど謎の多い若冲です。
 E雑誌「ラピス」はアマゾンで購読できます。たくさんの記事を満載し、おおよそ240ページでわずか340円!(若冲特集は内約70ページ)
 このブログでは同じ文を十数回に分割して連載します。「Lapiz」(ラピス)には画像も豊富です。わずか340円、コーヒー1杯分を同誌に喜捨してくだされば、幸甚に存じます。


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はじめに (以下本文より)

 若冲ブームは止まる気配がない。本年が生誕三百年に当たる。
西暦二千年に京都国立博物館で開催された、若冲没後二百年記念の特別展がまず火をつけた。同展のキャッチフレーズは「こんな絵描きが日本にいた」。宣伝文句からは、そのころ若冲を知るひとが少なかったことが知られる。しかし展覧会は出だしこそ客足もまばらで主催者を落胆させたが、いつの間にか観客数は急上昇した。ついには超満員になってしまう。この異常な現象はさまざまに解釈されたがその後も十数年、衰えることを知らない。日本国民で「じゃくちゅう」と読めない成人は、いまでは少数派かもしれない。

 そして京都ではいま、市立美術館で「若冲の京都 KYOTOの若冲」展が開催中である。先週も行ってきたが、会場では当然だが携帯電話が使えない。いっしょに行った友人たちとは「出口の売店コーナーに何時何分ころに集合しましょう」。このように言いあって、混雑する会場をあわただしく観覧した。
 かつての若冲没後二百年展の仕掛け人であり、開催中のKYOTO展監修者でもある狩野博幸氏は「若冲を神様のようにあがめる昨今の風潮には、ちょっと違和感がある」(京都新聞16年10月26日)

 今年最大の若冲展覧会は、上野の東京都美術館「生誕三〇〇年記念若冲」展であった。久しぶりに「動植綵絵」全幅が並んだ。わたしも待ち焦がれ、はるばる上野まで出向いた。そして覚悟はしていたが三時間近くも長い行列に付き合った。
 同展図録に辻惟雄氏は記しておられる。「もはやブームを超えたこの不思議な現象の、焦点ともいえる今回の展覧会が、加熱しすぎないよう祈るばかりである。」

 上野の若冲展について、金子則男氏がネット「R25」(16年5月20日)で過熱ぶりをレポートされた。以下、引用させていただく。

東京都美術館で開催されている「若冲展」の人気が過熱。ネットには、目を疑うような行列報告が寄せられており、何らかの改善策を求める声があがっている。
今回の展覧会は、若冲の初期から晩年までの代表作89点が集結。若冲が京都・相国寺に寄進した「釈迦三尊像」3幅と「動植綵絵」30幅が初めて東京で一度にお披露目されるとあって、その混雑ぶりはもはや異常事態だ。ツイッターの現場報告を見ると、
「若冲展の待機列。公園入口の交番近くに、210分待ちの看板が出てました…」(5月16日)
「平日、雨の天気で260分待ちの若冲展、すごすぎる」(5月17日)
など、「雨」「平日」といった条件も無関係に待ち時間は伸び続け、65歳以上が無料となる「シルバーデー」(毎月第3水曜日)の5月18日には、
「10:45現在でついに320分待ち!!」「若冲展、本日、シルバー無料デイだけど、一時、入場320分待ちって、一体、何なの? 5時間20分待ちは凄い!」と、ついに5時間超えを記録。
あまりの待ち時間の長さに、ツイッターには、「待ってる間に映画2本観られるのか」、「えーと若冲展は『待ち時間の長さで世界記録を作ろう!』的なキャンペーンでもおこなわれているのでしょーか…?」
「ネットをしていない老人層に若冲展の混雑を知らせるには、もう、朝のNHKニュースの画面隅に『若冲展昨日の最大待ち時間240分』って出すしかない」と、驚きの声が寄せられている。
そして一方では、「ただ並ばせず、時間制整理券など配って近隣に客を放つ方が経済貢献するだろうに」…
「何時間もただ突っ立って待ってるとか苦行かよ。整理券でももらってその間他の展示見ててもらうなり周囲のお店で時間潰してもらうなりしたほうがみんな幸せなのでは」
など、運営側に何らかの対策を求める声もあがっている。
確かに東京都美術館の周囲は、世界遺産に登録される見通しになった国立西洋美術館や、東京国立博物館、国立科学博物館、上野の森美術館、東京藝術大学大学美術館のほか、上野動物園、アメ横、不忍池、谷根千一帯など、見どころが尽きないエリア。あまりの行列で若冲自体のイメージを下げないためにも、整理券の配布は検討に値しそうだ。


 さてあまり注目されていない若冲を紹介しよう。わたしが書いた「若冲の謎」である。時間など気にせず、ゆっくり読んでくだされば、それほどうれしいことはない。
 ただ各章間に文の重複が多い。原因は筆者の構成力の不足と、怠惰のために原稿締め切りが迫ってしまったため。推敲の不足と記載の誤りなど、ご容赦とご指摘を望む次第である。


「若冲の謎」 目次 

1 はじめに
 
2 若冲という名前

 大盈若冲
 若冲名の誕生
 さまざまの名前
 売茶翁
 若中の出現

3 石峰寺五百羅漢

 吉井勇が愛した五百羅漢
 椿山荘の羅漢
 『都名所圖會』再板版
 『拾遺都名所圖會』
 「天明七年石峰寺図」
 皆川淇園、円山応挙、呉春の梅見
 遊戯神通
 天明の大火
 蕉斎筆記
 画乗要略
 筆形石碑
 石亭画断
 京都府寺誌稿
 『京都府紀伊郡誌』と『新撰京都名所圖會』

4 天井画

 義仲寺と蝶夢
 翁堂天井画
 湖南蕉門
 もうひとりの蝶夢

5 売茶翁・大典・聞中・伯珣

 宝蔵寺・相国寺・萬福寺・石峰寺
 売茶翁再び
 大典和尚
 聞中浄復
 伯珣照浩
 
6 年齢加算

富岡鐵斎と常煕興燄
 司馬江漢
 鈴木春信
 歌川広重
 木喰行道上人
 狩野永岳

7 年譜からみる伊藤若冲の生涯

<2016年12月1日 南浦邦仁>

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世界の潮流 見聞雑記 (5)

2016-09-22 | Weblog
<パナマ文書>

 何者かによって送られ、本年4月に突然暴露されたパナマ文書は、世界中の権力者、超資産家にとてつもない衝撃を与えた。
 英国のキャメロン首相は、亡父がパナマに約20億円の投資ファンドを設立。キャメロン自身も投資し利益を得ていた。彼は13年の主要8か国G8首脳会議・サミットで租税回避防止の強化をする方針を打ち出していた。英国内の法整備も進めてきた張本人である。本人がいう通り、違法性はないのかもしれないが、説明責任を果たす姿勢と誠実さに欠けるとの批判が高まった。キャメロンに対して「偽善だ!」との非難もあり、6月の国民投票行動にも事件はいくらか影響したであろう。
 アイスランドのグンロイグソン首相は清廉な政治家として国民に人気だったが潔く辞任した。妻と保有するバージン諸島の企業が、自国銀行の債券へ投資していたことが判明したためである。
 スペインのソリア産業エネルギー観光相は、課税逃れのためにバハマと英領ジャージー諸島に法人を設立していた。政治的混乱を招いたとして辞任。
 中国の習近平国家主席は姉の夫、義兄が英領バージン諸島に複数のペーパーカンパニーを設立していた。
 ロシアのプーチン大統領の古くからの友人、チェロ奏者ロルドゥギンはバージン諸島などの企業での約2000億円の取引が判明。内1000億円ほどが不透明という。
 アルゼンチンのマクリ大統領は、父親が設立したバハマの会社の役員をつとめたが、税務申告をしていなかった。検察が操作を開始した模様である。
 シリアのアサド大統領のいとこ、米国の制裁対象になっている人物だが、彼もバージン諸島に法人を設立していた。
 マレーシアのナジブ首相の息子が、バージン諸島のペーパーカンパニー2社の役員についている。
 パキスタンのシャリフ首相一族に、バージン諸島での租税回避の不正疑惑。
 アゼルバイジャンのアリエフ大統領一族による蓄財、金鉱山の権利取得などの不正疑惑。
 南アフリカのズマ大統領は、コンゴでの石油契約に不正の疑い。
 オーストリア州立銀行のトップが辞任した。顧客の資産隠しに関与したとされる。

 名前のあがっている政治家とその家族はほかにも数多い。きりがないないのだが、ウクライナのポロシェンコ大統領、サウジアラビアのサルマン国王、アラブ首長国連邦のナヒヤーン大統領。元元首級の国名だけを表示すると、ジョージア(グルジア)、イラク、ヨルダン、スーダン、カタール、エジプト、スペイン、ギニア……。

 日本では400名ほどの名前があがっているそうだが、警備会社セコムの創業者2名がタックスヘイブンに設立した複数の会社で700億円の超えるセコム株を管理していた。パナマ文書の記載では「創業者の死後に備え、セコム株を親族らに取り分けておくことなどが目的」とされている。
 AIJ投資顧問の年金消失事件の首謀者であった浅川和彦元社長の名も、パナマ文書にある。彼はタックスヘイブンの英領ケイマン諸島を利用していた。同投資顧問は主に中小企業の厚生年金基金を運用し、2011年には大小124の企業年金から2000億円の資金運用を受託していた。そのほとんどの年金が消え去ってしまった事件だが、13年には元社長に懲役15年、関係者ふたりにも懲役7年の実刑判決が確定した。
 佐川印刷の不正流用事件では、英領バージン諸島で約90億円が操作されている。


<おわりに>

 ふつうの国民である99%には、タックスヘイブンなどまったく無縁である。ごく一握り、1%のエリートは1万mの上空をプライベートジェットやファーストクラスの機中から、99%の貧民を見下ろしあざ笑っている。(「高野孟のTHE JOURNAL」16年4月16日)
 タックスヘイブンから見えて来た不平等に対する庶民に鬱積した不満は、やがて国家に矛先が向かう。「近年、世界各国で勃発する反グローバリズムやポピュリズムの動きは、拡大している格差問題と重なっている」(「日経ビジネス」16年6月27日「共生」)
 世界中で格差と貧困への怒りが広がっているのは、グローバル資本主義に対する失望と反感であろう。グローバリゼーションは99%の人々にではなく、1%のひとの役に立っていただけだという事実が白日のもとにさらけだされた。

 さらに世界はこれから、ロボットやAIやITなど、最新の技術で急速に発展していく。この流れは変えようがない。産業にはヒト・モノ・カネが必須条件というが、必要とされる「ヒト」の数はどんどん減っていく。反対にほぼ完全な無人工場は、それ以上にどんどん増えている。格差と貧困の問題はますます拡大し、世界中で混乱は激化していくのではなかろうか。

 近ごろインダストリー4.0すなわち第4次産業革命が声高に叫ばれている。第1次産業革命は蒸気機関によって18世紀に起きた。そして第2次産業革命は20世紀初頭から、電気による大量生産である。次に1980年代になるとコンピュータによる自動化が進んだ。第3次産業革命である。
 そして今度の第4次産業革命(インダストリー4.0)。AIやセンサーや通信技術ITをフルに活用し、生活のあらゆる分野で革命が起きつつある。これからの高度化社会では、多くの産業が省力化を徹底する。必要とされる労働者は、ごく少数になってしまう。
 人類は、生き方や価値観を根本から改める意識革命を迫られるであろう。(完)
<2016年9月22日 8月15日記>

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世界の潮流 見聞雑記 (4)

2016-09-19 | Weblog
<イタリアの五つ星運動>

 英国のEU離脱は、欧州の分裂の兆候であろうと思う。これまでの世界はグローバリエーションが拡張し続ける大潮流であった。しかし地球上の大きなトレンドは反転しつつある。統合から分裂に向かっているのではないだろうか。
 ヨーロッパでは英国以外にもEUを離脱する国が続く可能性がある。また各国内ではスコットランドやスペインのバスクやカタルーニャなど、独立を求める機運も強くなっている。

 イタリアでは新興「五つ星運動」(略:五つ星)が、レンツィ首相率いる民主党を抜き、世論調査では支持率首位に躍り出た。本年10月には同国では国民投票が実施される。憲法改正を問う投票だが、現首相の信認も決定する。イタリアでは「五つ星」の躍進から、「10月危機」が来襲する危惧がある。英国に続いて伊国でも脱EUの激流が渦巻こうとしている。

 日本ではなじみの薄い「五つ星運動」(MoVumento 5 stelle、略M5s)。一体どのような政党なのか。6月の統一地方選で選ばれた新首長たちをまずみてみよう。有権者は腐敗した政治プロではなく、常識を持った「素人」の女性候補たちを選んだ。「未経験の素人」と対立候補から攻撃され続けた新人の彼女たちは圧勝した。(月刊「選択」8月号)
 まず工業都市トリノのキアラ・アッペンディーノ市長。32歳の彼女は、環境運動を経て五つ星に加わり、過去20年間ベジタリアンを通している。新市長選の宣言は「ベジタリアン都市作り」。
 トリノがあるピエモンテ州は肉料理と赤ワインが名物なだけに、新方針には抗議が殺到しているが、市長は「まず小中学校に菜食教育の講座を作る。健康と環境にいい」と動じていない。
 ローマのヴィルジニア・ラッジ新市長は37歳。夫とは別居中の彼女は、郊外で7歳の息子とふたりで暮らしている。五つ星のラッジは選挙前、ニューヨークタイムズのインタヴューに対し「子どもたちのために世界を変えたいと願う、母親たちのために頑張りたい」と語った。選挙戦では、汚職撲滅や行政サービス向上を訴えた。
 ラッジ市長は「市民の声に耳を傾ける」ことを第一に掲げた。この後は「機能する信号機の整備」「資格がないのに、身体障碍者用スペースに駐車したひとへの罰金」など、市内交通改善に関する細かな施策が並ぶ。ローマ在住の邦人記者は「外から見ると『なに、これ?』と笑うでしょうが、ここローマでは最低限のモラルから始めないと」

 ローマでは中道左派のイニャツィオ・マリーノ前市長(61歳)が昨年10月、市のクレジットカードで私的な夕食やワインの代金を支払っていた公費使い込み疑惑で辞任した。特別担当官が任命され、ラッジの就任まで公選市長不在の異常事態が約半年間も続いていた。(毎日新聞6月21日)

 新党「五つ星運動」の創設者、ベッペ・グリッロは人気コメディアン。M5sは、グリッロとITエキスパート、故ジャンロベルト・カサレッジオ(16年4月病死)の協力で生まれた。ネット市民政治活動から発展した政党である。2013年のイタリア総選挙では、予想に反して下院630議席の109議席、上院315議席の54議席という驚異的な数の議席を獲得し、現在のイタリアの国政において、PD(与党民主党)に次ぐ第2勢力となっている。同党議員団の指導者で下院副議長のルイジ・ディ=マイオ(30歳)は、大学中退後にインターネットの仕事をしていた青年である。
 かつて欧州各紙だけではなく、ワシントン・ポスト、フィナンシャル・タイムスをはじめとするインターナショナルな主要新聞がM5sに注目し、ポピュリズムの危険性をも含め書きたてたので、いまや世界でも有名なイタリアの市民、つまり政治の素人たちが形成する政党となった。
 M5sの出発点はそもそも2005年にベッペ・グリッロがはじめたブログに遡る。過激な暴露記事や、世界のリアリティを歯に衣を着せることなく書いた。そのグリッロのブログそのものが、よりよい世界の構築のために意見を述べ合い、テーマを議論、提案する『Social network Meet up(ソーシャル・ネットワーク・ミートアップ)』という発想で発展。短期間に直接民主主義を旨とするヴァーチャル市民政治活動にまで育ち、政党を立ち上げるに至った。右も左もなく、政治思想とはまったく無縁、伝統的な政党色を排除し、現在でもイタリア国内の既存の大政党と連合することを完全に拒否している。政治戦略、各選挙の候補者を含め、あらゆる事項をネット上でM5sの支持者の投票により決定する、という特殊な形態を持つ。いわばヴァーチャル民主主義とも呼べるポピュリズムを核としている。基本的に物理的な本部を持たず、M5sの支持者それぞれがネット上で交流するヴァーチャル・コミュニティにより政党が維持されている。名称の五つ星は、水、環境、交通、発展、エネルギーをシンボライズしている。
 「Meet up」から発展したヴァーチャル政党が2011年のイタリア地方選で、それまでまったく政治経験がなかった普通の市民たちを候補に擁立し、多くの議席を獲得。ネットから飛び出して現実の政治活動を始動することになった。ここで一気にイタリア国内の注目を集め、2012年にはグリッロ、カサレッジオがM5sを『政党』として登録。翌年のイタリア総選挙の結果は前述したように大勝。イタリアの大きな政治勢力のひとつとして確固とした地位を獲得した。
 ポピュリズム、民主主義、合法性、アンビエンタリズム(交通網の整備と環境保全)、非競争主義、アンチマテリアリズム(反物質主義)、非ユーロ主義(ユーロ離脱を主張)、非政党主義(腐敗した伝統的政党の否定)と、『アンチシステム』、『アンチキャピタリズム』を掲げるこのM5sは、ベッペ・グリッロのユーロ離脱や移民排斥などの度重なる過激な発言で、さんざんメディアに叩かれ、時にはファシストだのフォークロアとまで呼ばれている。しかし一方、国政に市政に、普通の市民から躍り出た議員たちのなかには、例えばアレッサンドロ・ディ・バッティスタやロベルト・フィーコなど、短期間にめきめきと政治力を発揮しはじめたスターも生まれている。
 カサレッジオがベッペ・グリッロの知名度とともに仕掛けたM5sのネット世代の若者たちへのメッセージの浸透力、いわゆるデジタル・ストラテジーの見事さには目を見張る。「ベッペ・グリッロのブログは、めちゃくちゃ面白い」という話を大学生たちが話しているのを聞き始めたのは2008年ごろから。イタリアのネット世代の若者たちは、不正と嘘と不公平がはびこる社会、そして世界にすっかりうんざりしていた。しかしそれから数年の間に、そのブログが市政、国政の場に現実に議員を送り込む大政党に発展するとは考えもしなかった。ベッペ・グリッロ自身も急激なこの膨張を『ミッション・インポッシブル』と表現している。
 2013年のイタリア総選挙でM5sが大躍進を遂げ、大量に議席を獲得した際、当時イタリアの大統領だったジョルジョ・ナポリターノが「これが民主主義というものだ。市民がM5sを選んだのだ」と発言した。市民の多数決で政治を作るのが民主主義というものなのだ、と国民の多くは改めて実感した。(ネット「Passione」16年6月22日)
<2016年9月19日>
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世界の潮流 見聞雑記 (3)

2016-09-13 | Weblog
<英国のEU離脱>

 英国の6月23日の国民投票の結果には驚いた。まさか欧州連合EUからの離脱を国民の多数が選択するとは、損得勘定からありえない結論であろう。大きな原因のひとつは、EU加盟の全国民をルールで縛る欧州委員会の横暴だといわれている。各国民が直接選挙で選んだわけではない特権階級の欧州委員会の委員たちが、自分たちの頭だけで判断して各国民に強制する。欧州委員会の委員たちは秀才のエリート官僚であるが、彼らは欧州連合所属の国民たちに無理難題を押し付けている。英国民が国民投票で「ノー!」と叫んだのは、官僚主義のエスタブリッシュメントに対する反撃でもあった。

 フランクフルトのフォルカー・ビーラント(ゲーテ大教授)は「英国の多くの有権者は、自国政府や議会の権限をこれ以上EUに渡したくないと判断した。BREXITに対し、欧州統合の強化を求めることは適切ではない」

 また独日刊紙「ターゲスシュピーゲル」6月27日付は、「EUでは官僚主義が蔓延し、市民生活から隔絶していると、多くの欧州人は考えていた。BREXITは、EUがこれまでたどって来た道が誤りであったことを証明したのかもしれない」

 少し長い文ですが、竹下誠二郎(静岡県立大学経営情報学部教授)「Brexitの真犯人 官僚主義がはびこる欧州委員会の大罪」(週刊ダイヤモンド 16年7月23日号)を転載します。
 「英国の欧州連合(EU)離脱は欧州委員会に対する不信任案だ。Brexitの論議は英国の経済とその波及にとどまっている感が強いが、欧州委員会らの行政姿勢が劇的に改善されなければ、英国に追随する国が続出する可能性は高い。 
 欧州委員会は深刻化する移民問題を憂える声に対し、「ゼノフォビア」(外国人嫌い)や「イスラマフォビア」(イスラム嫌い)のレッテルを貼り、多元文化主義を念仏のように唱え続けた。その結果、移民問題は西欧や北欧の国民の不安と怒りを増大させ、右翼化を爆発的に加速させた。
 多くの警告を無視して突き進んだ緊縮財政策がもたらしたものは、南欧の極めて高い失業率と欧州のさらなる南北格差だ。ギリシヤのGDPは30%も落ち込み、失業率は25%を超え、人口の3分の1は貧困層となっている。失政のかじ取りを大きく変える動きも反省もなく、南欧のEUに対する不信感は怨嗟に変わりつつある。
 国民の声を聞く耳を持たない例は枚挙にいとまがない。EUでは電力を無駄にしている消費者を「再教育」するために、2014年に1600ワットの大型掃除機の販売を禁止した(しかし新規制下の機種では吸引力が弱い分、長く掃除機を使わなければいけないため、電力消費量は増加)。バナナやきゅうりの曲がり具合を規制しようとし、レストランでオリーブオイルを浸す皿を禁止しようとした。「欧州のトイレ水分使用量の統一化」に2年半の歳月と費用をかけた60ページにもわたる「技術レポート」はまだ(幸いなことに)日の目を見ていない。このような政策が矢継ぎ早に出るのも、EUの官僚主義が末期症状にあるからだろう。常に「上から目線」で、各国の事情を考慮しない姿勢にはフランシスコ・ローマ教皇までもが苦言を呈したほどだ。
 EUの行政機関における官僚主義はトップから下層にまで深く浸透している。ルクセンブルクで多国籍企業の脱税を促すタックスヘイブン(租税回避地区)の基盤を作り上げていたことが暴露された欧州委員会トップのユンケル委員長は、批判が高まっても引責はおろか、謝罪の言葉もない。6月23日のBrexitでも「逆ギレ」をして英国に脱EUの手続きを催促し、メルケル独首相に戒められる有様だ。
 英国の離脱により、EU基本条約の改正が必要となる。その際には表面上の条約改定だけではなく、執行部の官僚制の廃棄が求められている。移民問題、右翼化・国家主義の高まり、保護貿易主義への回帰の可能性、シェンゲン協定(国境検査をなくす協定)の崩壊、ロシアの脅威、地域独立運動など、EUの問題は山積みだ。これらに前向きに取り組める組織力が果たして欧州委員会にはあるのだろうか? 答えは否、だ。EUの行政は各国民の直接選挙で選ばれる欧州議会へ権力を早急に移し、欧州委員会の提案を否決する力を与えるべきだ。
 EUの行政を擁護する人たちは必ずと言っていいほど「これだけ多様な格差や価値観を取りまとめなければならないため、困難が伴う」という主張を展開する。しかし、困難を伴うのは承知の上だ。その困難な統治が無理ならば、それはまさにEUが拡張し過ぎたことの証しなのではないだろうか。」
<2016年9月13日>
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世界の潮流 見聞雑記 (2)

2016-09-09 | Weblog
<アメリカ大統領選挙>

 ドナルド・トランプとヒラリー・クリントンがデッドヒートを争っている米国大統領選挙。このふたりが最終候補なのだが、つい先日までクリントンに肉薄したバーニー・サンダースにも注目すべきであろう。

 サンダースをいまも支持する青年は、バーニーとともに戦ってきた運動は「政治がわずか1%の特権階級にカネで買われ、この国が僕ら一般国民じゃなく一握りの富裕層のためだけの国になっていることに対する国民の怒りの声なのです。ヒラリーはその1%にバックアップされている人物です」(堤未果著『政府はもう嘘をつけない』角川新書)

 英国の保守党と労働党の明確な差異が消滅してしまったのと同じように、いまの米国は民主党も共和党も同じ穴のムジナのように見える。保守を選ぼうが、リベラルに投票しようが、結局は1%が支配し、圧倒的多数の国民は貧困と格差に追いやられる。

 誰もがアメリカンドリームを手にする機会があったはずの米国が、国家としての力を失い、超富裕層だけが潤う「株式会社国家」になってしまった。トランプは過激発言や失言がマスコミに追及されてばかりいるが、彼は国民多数の厚い支持を得ている。トランプのスローガンは「強欲な1%から、アメリカを取り戻す」であり、サンダースの主張とピタリ重なる。堤未果氏は「トランプ&サンダース旋風」は同じコインの表と裏という。

 バーニー・サンダース議員はこう語っている。「アメリカの大統領と議会が国民のニーズに応えていない大きな原因は選挙資金です。お金持ちや大企業がお金で政治家を売り買いできるような制度になっていて、金持ちはより金持ちになり、貧しい人々はますます貧しくなります。普通のアメリカ人が政治から閉め出されているのです」

 米国内の反資本主義の流れは、現在本命視されているクリントンが当選しても、やはり変わらないであろう。あるいはより過激な運動になっていく可能性すら感じる。圧倒的に多数の米国民が、主流派・エスタブリッシュメントに対して「ノー!」と言いはじめたのである。
 米国民が体制に向けた怒りが、今回の大統領選で噴き出したのである。貧困層の拡大、広がる格差、それらに向けた怒りが異端トランプへの支持であり、民主社会主義者サンダースへの敬愛であったのであろう。だれが大統領になろうが、99%対1%の闘いはますます激化するしかないはずだ。それはおそらく、反グローバル者の時代のはじまりであろう。
<2016年9月9日掲載 8月15日記>



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世界の潮流 見聞雑記 (1)

2016-09-05 | Weblog
 ほんの十数年ほどのあいだ、21世紀になったころから、世のなかの変化は以前に増していちだんと激しくなったように思う。ある方と話していて「わたしたちのまわりで、何がいちばん変わったのか?」。とりあえずの答えは、莫大に増え続ける情報量ではないかという実感になった。インターネットを通して、だれでもがほぼ公平にあふれるほどの情報の洪水に接することができる。
 ところが困ったことに、集めれば集めるほど、知れば知るほど、何が正しくてどれが自分に必要な情報なのか? 大切なのはどれで、自分の限られた時間を消費しては限りなく消耗しそうな情報はどれか? 
 いくらたくさんの有益な情報なり知識を得ても、それらをどのように理解構築し、整理して自分の内に取り入れていくのか? あまりにも多すぎることはおおいなる悩みでもある。
 またそれ以前に、わたしは自分自身そのものを理解できない。あきらかに異常であり、身近な生活の周辺を判断対処することにも難儀しているのが現状である。
 しかし悩んで立ちすくんでいてばかりでも悔しい。そこでエイヤッ!とばかりに、世界のいまを「世界の潮流 見聞雑記」と名づけて書いてみた。複雑な世界を探求することから、ごく狭い自分の小さな世界が見えてくるかもしれない。そんな思いである。
 雑文「世界の潮流 見聞雑記」は例によって、Eマガジン「Lapiz」(ラピス)秋号に掲載していただいた。アマゾンなどで購入できますが200ページほどの雑誌で、わずか300円。京都山麓では数回に分割しての掲載ですが、「Lapiz」では全文一括掲載。すてきな記事満載のおすすめマガジンです。
 なお以下の文は、8月のお盆のころに書いたものです。


<リオ五輪>

 ブラジルのリオデジャネイロ五輪で熱い日々が続いています。時差がちょうど12時間のようでLIVE放送でも寝不足にならず、また夏休み中で自由な日本人も多い。開会式の中継は、日本国内で半分近い国民がTVで観たという。ところが現地ブラジルでは、オリンピック開催国なのに、ほとんど盛り上がりがみられない。過半の国民は静かであるという。

 その原因をみるとまずは政治の混乱だ。五輪開会式でテメル大統領代行が開幕を宣言すると、マラカナン競技場のなかはブーイングに包まれた。そして競技場の外では、五輪の開催に反対する市民のデモ隊が治安部隊と衝突していた。いまのブラジルは、世界大恐慌のとき以来、といわれるほど景気は低迷している。国営企業を軸とした汚職スキャンダルは底知れぬほどに広がり、ルセフ大統領は職務停止に追い込まれ、代行が五輪の開幕を宣言することになった。ルセフ大統領に対しては国家会計の不正操作問題でオリンピック終了直後、8月末にも弾劾裁判が開始されそうである。
 かつてBRICsと賞され、新興国の代表格として将来の大発展が約束されていたはずのブラジル。しかし期待は裏切られ「最近のブラジル情勢には、政治家へのブーイングや五輪に反対するデモが当然とも思える面が、確かにある」(「日本経済新聞」春秋 16年8月7日)

 ブラジル国民がオリンピックに沸かないもうひとつの理由は、一般国民の貧困である。サンパウロ在住のジャーナリスト、美代賢志氏はつぎのように報告しておられる。ブラジルではサッカー以外のスポーツは庶民のものではない。同国ではプールを備えた公立小中学校は数少ない。水泳をやれるのは経済的に裕福な国民だけで、スポーツクラブに加入する必要がある。どのスポーツをとっても同様で、所得格差の大きいブラジルでは同じ上位の社会階層に属する者同士が、一種の結社を構えている。一般庶民は、どのクラブにも入ることは困難だ。
 例外はサッカー。ボールがひとつあれば、誰でも参加できる。運動具をそろえる余裕のない庶民には、国民スポーツのサッカーだけが唯一の競技である。いまのブラジルでは、競技場席どころか、テレビの前で観戦し、熱狂する多数派の一般国民は存在しない。
<2016年9月5日>
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尖閣の中国漁船軍団

2016-08-10 | Weblog
日本経済新聞8月10日電子版です。編集委員の中沢克二氏の記事「中国公船が操る漁船230隻と習近平氏の狙い」。ダイジェストで紹介します。  


 中国海警局の公船と中国漁船が軌を一にして尖閣諸島の領海に侵入した。同時進入は歴史的にも初めての事態だ。接続水域には230隻もの中国漁船が集結。一時は15隻の公船が領海と接続水域にいた。その一部は機関砲に似た武器を搭載している。意図的に緊張をつくり出す異常な行為だ。
 特に230隻の中国漁船というのは驚くべき数である。中国当局の明確な指示がなければできない“集団行動”と言ってよい。(以下略)


 ずいぶん前ですが、雑誌「正論」(2011年2月号)に用田和仁氏寄稿「国民よ、中国の脅威を直視せよ」が掲載されました。用田氏は2010年まで、陸上自衛隊・西部方面総監だった方です。以下、ダイジェストで引用します。


 軍事的に見るならば、海上における南シナ海や尖閣の動きの中で海上民兵といわれ、平時は漁民だがいざとなったら軍人として正規軍の渡海・上陸作戦を支援する「多数の漁船群」に着目しなければならない。これらと旧軍艦等の監視船、そして現役の軍艦が役割を分担して行動している。ちなみに海上民兵は、小型漁船の二百から二百五十隻で一個歩兵師団を運ぶ(中国軍事雑誌「艦船知識」2002年)といわれているので、それらが島嶼へ侵攻する場合の先導とし、まず港湾に殺到して来る。尖閣のまわりでは、すでに2010年8月から二百七十隻の漁船が操業し、その内の約七十隻が日本領海にいた。見方を変えると尖閣諸島は、約一個師団の海上民兵に長く包囲されていたことになる。漁民の保護、すなわち国民の保護という大義名分で戦争に及ぶのは、古典的な常套手段である。このやり方でいくと、南西諸島まで戦火を拡大することは、いとも簡単なことである。中国は「人海戦術」を得意とする。


 日中間の尖閣紛争が起きた当時、合計1000隻の漁船での襲来計画が準備されていたという。イナゴの大群のごとき船団、実に千隻は4個師団体制にあたる。海上保安庁でも警察でもまた自衛隊でも、雲霞のごとく押し寄せる自称漁民の大軍を防ぐことは困難なはずです。
<2016年8月10日 南浦邦仁>
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ポケモンGO

2016-07-29 | Weblog
 暑中お見舞い申し上げます。久しぶりの更新です。京都の山麓のことは、ほとんど忘れておりました(w
 ポケモンGOがすごい人気ですね。先日のこと、近所の郵便局と銀行前の広場を歩いていると、中年の女性連れがスマートフォンにかじり付いておられる。画像を見せていただきましたが、建物が鮮明に表示されているのには驚きました。


 さて本日の日本経済新聞「春秋」(7月29日)記事を紹介します。

 富士山の麓にディズニーランドをつくろう――。そんな計画がかつてあった。熱心に誘致を進めたのは三菱地所を中心とする企業グループだ。実際に米国のディズニーが選んだのは、三井不動産などが提案していた千葉県浦安市。三菱対三井の競り合いは後者が制した。
▼三菱案はなぜ落ちたのか。「夢の国」の園内から富士山が見えるのを嫌ったとも、資金負担で意見が合わなかったともいわれる。いずれにせよ両案で共通するのは、広大な土地を用意した点だ。架空のキャラクターが命を持ち歌って踊る。嘘を本当に見せるには、広くて閉じた舞台が必要というのが娯楽産業の常識だった。
▼そうした固定観念を壊しつつあるのがスマートフォンとインターネット。その代表格が「ポケモンGO」だ。小さな画面の中で、現実の景色を背景に怪獣が出たり消えたり。宣伝の動画には「想像してごらん、現実の世界にいるポケモンを」という意味の英語が大きく映される。街のすべてをテーマパークに変えたわけだ。
▼逆転の発想ではあるが、自社の施設や自分たちの街を娯楽の舞台として知らぬ間に使われた側には、いささか面白くない向きもあろう。物騒、不用心という面もある。今そこにある風景や誰でも歩ける空間をゲームの舞台に流用するアイデアは、シェア(共有型)経済の進化か、無礼な無断借用か。面白い問題を提起した。


 ところで、施設画像を勝手に利用され、またユーザーが写しまくっている問題の根源について、ブログ「闇株新聞」が興味深い記事を掲載しておられます。タイトル「『ポケモンGO』開発者のジョン・ハンケとは何者か?」
 ダイジェストで転載しますが、全文は同ブログ(有料)をご覧ください。まず前略です。

 「ポケモンGO」といっても米国ベンチャーのナイアンティック・ラボ(Niantic Labs)が開発・配信・運営を行い、グーグルが配信インフレと地図情報サービスを提供する完全に米国発のゲームです。
 もちろんポケモンは日本発のゲーム・キャラクターで、任天堂が32%を出資する「ポケモン」がライセンス供与しています。……(中略
 「ポケモンGO」は、室内に1人で籠ってのめり込むスタイルではなく、どんどん野外に出て歩きながら交流もできるスタイルで、少なくとも健康的です。そして「ポケモンGO」でもアイテムを販売していますが、必ずしもお金をかけなければ勝てないというモデルではなさそうです。
 ところでナイアンティック・ラボとは、グーグルの社内ベンチャーが2015年10月に独立したものですが、もとはといえばCEOのジョン・ハンケ(John Hanke)が2001年に設立したKeyhole社を、グーグルが2004年に買収していたものです。
 ジョン・ハンケは「グーグルアース」と「グーグルマップ」の生みの親の1人としても知られています。現在49歳で、こういう業界では大変な「高齢者」です。
 ところがジョン・ハンケが設立したKeyhole社の設立資金のほとんどは、米国家地球空間情報局(NGA)とCIAが出資したものだったようです。
 米国の国家機関がベンチャー企業に資金を提供することは珍しくありませんが、どうしても国家機関に「協力」していたというイメージがついて回ります。
 そのKeyhole社がグーグルを経てナイアンティックとなり「ポケモンGO」を世界展開するわけですが、世界中の(すでに5000万人いる)ユーザーが、世界中の街並み・建物・公園・各種施設などの映像をナイアンティックに(正確にはグーグルに)提供していることになります。
 グーグルでもフェイスブックでもツイッターでも、顧客が意識せずに提供している映像情報などを国家機関に提供していることは、ロシアに期限付きで滞在しているエドワード・スノーデンが明らかにしています。
 簡単に言えば米国の国家機関が詳細な構造を知りたい施設などに希少キャラクターを置けば、ユーザーが意識せずに(キャラクターを捕獲するときに映像をとるから)貴重な映像情報を提供してくれることになります。
 これは本誌が「勝手に」危惧しているわけではなく、プーチン大統領が同じ理由でロシア国内の「ポケモンGO」の使用を禁止してしまいました。ただモスクワではすでに密かに広まっているようです。
 またもともと中国では使用できるはずがありませんが、習近平・国家主席も軍事施設などの重要情報が漏えいすると懸念を示しています。
 本当のところがどうなのかはわかりませんが、「ポケモンGO」がもっと利用されるようになればなるほど、こういった議論が出てくると感じます。
<2016年7月29日>

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ミャンマー維新(4)

2016-03-20 | Weblog

 3月末 現大統領のテインセインの任期が終わり、新政権が新しい大統領のもとで正式に発足する。
 当面の最大課題が正副大統領の選出である(注記:その後3月15日、ティンチョーに決定しました)。上院と下院の各民選議員と、上下院の25%を占める軍人議員、それぞれがひとりずつの大統領候補を計3名選び、全議員の決選投票で大統領と、ふたりの副大統領を決定する。新与党のNLDは軍人議席を含む全議席の過半数を制している。NLD内から大統領が選ばれることは確定している。

 しかし現行憲法は外国人の家族をもつ者の大統領資格を認めないと規定している(59条F)。英国籍のふたりの息子をもつスーチーは大統領になれない。NLDは「スーチー氏のいうことを何でも聞く人物を暫定的な大統領にかつぎ、憲法改正を図ってスーチー大統領の誕生を目指す」考えだといわれている。
 スーチーは「自分がすべてを決定する」「私は大統領を上回る存在になる」「国際会議には私が行く。大統領は私の隣に座ることができる」と語っており、国内のみならず外交も主導する構えだ。4月以降、まずSEAN加盟諸国を訪問し、その後に中国と日本を同時に訪れる考えだそうだ。
 NLD女性新人、キンサンライン下院議員は「われわれの大統領はスーチー氏しかいない」。各国外交筋は「国民はスーチーがすべてを決めることを望んでNLDに投票している」
 憲法の改正には国会議員の4分の3を超す賛成が必要である。しかし上下両院定数の4分の1を占める軍人議員の同意が、すなわち国軍トップの賛同が不可欠である。スーチーは国軍の最長老のタンシュエ元上級大将と、ミンアウンフライン国軍総司令官との対話を進めている。

 おそらく当面はスーチー側近がつなぎの暫定大統領をつとめ、年内に憲法改正を目指して、そこでスーチーに大統領を譲るのではないかとみられている。ティンウー党最高顧問は「年内のスーチー氏の大統領就任を目指す」と語っている。彼が最有力の大統領候補だが年齢は88歳である。ティンウーは社会主義政権の1970年代に国防相をつとめた元国軍幹部であるが、民主化運動を政府が弾圧したのに反発してNLDに合流した。軍政時代には政治犯として収監されていた。
 暫定大統領候補としては、ティンミョーウィンの名もあがっている。彼は長年にわたってスーチーを支えた主治医であり、政治犯とみなされ3年間服役した民主活動の同志でもある。
 大統領候補者としてほかに、弁護士のニャンウィンやウィンテイン、そしてシュエマンの名もある。シュエマンはUSDP幹部で、かつては軍政ナンバースリーだったが、スーチーに同調したことで総選挙直前に党首を解任されていた。みな高齢である。

 憲法規定59条Fを停止する法案の提出も取りざたされたようだ。新法案は一般法のため、NLDは議席の上では可決が可能である。だが国軍がそのような例外的立法を認めるであろうか。ひとつでも例外を認めれば、軍がつくった憲法は一般法によって骨抜きになってしまうことが危惧されるであろう。軍機関紙も2月1日付の論説で「59条Fの改正は永久に認められない」としている。軍人議員の反対を押し切ってまでの強行採決は、国軍によるクーデターを招きかねず、NLDは法案提出を見送るのではないか。ある同党幹部は最近の意向として「新大統領を儀礼的役職と位置づけ、与党党首(スーチー)が政権を統制することを議論している」

 ところが解決のための盲点がひとつある。スーチーのふたりの息子がイギリス人だから憲法59条Fに抵触している。それなら子どもたちふたりがミャンマー国籍を取得すればどうなのか? 昨年の9月、NLDのニャンウィン報道官は「スーチーの息子たちがミャンマー籍に戻れば可能性はある」と述べている。ただ長男との不仲説がうわさされるスーチーは以前から「成人した息子を説得するつもりはない」と話し、報道官も「状況はきびしい」と首を振った。国民の英雄で、スーパーレディと呼ばれているアウンサンスーチーだが、家庭内は意外と複雑のようだ。

 3月下旬に選出される新政権の大統領はなかなか決まりそうにないが、スーチー周辺の幹部は内閣の構成について「新人議員の多いNLDは人材に乏しい。野党や民間人や少数民族から広く人材を集め、挙国一致内閣になる見通しだ」。ミャンマーの維新の成功を祈る。
<2016年3月20日>

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ミャンマー維新(3)

2016-03-15 | Weblog
2月1日 ミャンマー新議会下院が招集された。
 下院議長にスーチー側近でNLD党員のウィンミンを選出。彼は法律家で1988年のNLD結党直後からの古参幹部である。この日の議会演説で彼は「我々全員が民主的な連邦制国家の建設に向け、協力と相互理解を進めなければならない。民主主義が発展し国民の権利が守られるよう、持てるものすべてを出し切って努力しよう」と強調した。
 下院副議長には少数民族カチン族のティークンミャット議員(USDP連邦団結発展党)が指名された。旧与党USDPとの協調と、少数民族重視の意向表明を象徴している人選である。USDPは前回の総選挙で大敗し、議席は全体の1割にも満たないが、国民和解を重視するスーチーは同党との連携を内外にアピールしている。
 下院(人民代表院)は定員440名、内25%の110名は軍総司令官が指名する公選外の軍人指定枠。軍人議席は憲法で保障されている。

 NLD新人議員のひとり、ボーボーウーは学生時代に民主化運動に関わったとして軍事政権に逮捕され、25年間にわたって投獄されてきた。彼は「当時、民主主義はまるでありませんでした。獄中にいたときは議員になるなんて、夢にも思いませんでした。国民ひとりひとりのための民主主義を実現したいという思いから議員を目指しました。我々に苦痛をもたらした人々(軍事政権)に対して、敵意や憎しみはありません。しかし民主化運動で命を落とした仲間たちのことは常にこころにあります」
 NLD党員の宿舎はエアコンもない狭い部屋で、ベッドと机と椅子と物干しだけが置かれている。ウー議員は「我が国はまだ貧しいですから、これくらいの部屋で十分です。監獄に比べれば、ずいぶん快適ですよ」


2月3日 上院が開会。
 上院議長に少数民族カレン族のマンウィンカインタン議員NLDを選出。カインタンは「カレン族として議場に立つことが誇らしい。ミャンマーは資源が豊富だが、我々は豊かではない。経済発展のため平和と民族間の和解が重要だ」
 副議長には少数民族政党アラカン民族党(ANP)のエイターアウン議員(ラカイン族)が指名された。上下院正副議長4人のうち、実に3名が少数民族である。
 上院(民族代表院)は定員224名、内25%の56名が軍総司令官による指名枠。

 スーチーは少数民族武装勢力との和平も最優先課題としている。あらゆる民族が平和裏に共存する真の連邦国家を国造りの土台に置いている。上下両院の正副議長4人のうち、3人を少数民族から起用したのもその方針のあらわれである。少数民族政党からの入閣も十分にありうる。ラカイン族のある議員は「新議会の初日はうまくいった。与党としてのNLDに懸念は何もない」
 ミャンマーは人口の6割以上を占める多数派のビルマ族に加え、シャン族、カレン族、ラカイン族、モン族、カチン族、カヤー族、ムスリムのロヒンギャなど130あまりの少数民族がひしめく。また彼らの多くは武装勢力でもある。1948年の独立以来、民族間の内戦が続き、新政権にとって仇敵の国軍と、利害関係の複雑な少数民族の問題は大きな課題である。


2月8日 上下両院の合同議会では実にカラフルな光景が広がった。
 NLD議員のオレンジ色のたくさんの制服と、4分の1を占める軍人議員の緑色の制服。そのなかに高山植物の花のように鮮やかな原色の民族衣装が点在した。ミャンマー人口の3割以上を占める少数民族出身の議員たちである。
 黒い衣装に赤のショルダーバッグをさげたシャン族、ビーズ飾りをつけた大きな帽子が印象的なリス族、はちまき姿のラカイン族などなど、実に多彩な装いである。国会議員に占めるカラフルな少数民族議員の割合はまだ10数%であるが、NLDは彼らのために3人の正副議長を選任した。


2月17日 スーチーNLD党首は、国軍トップのミンアウンフライン国軍総司令官と3回目の会談。
憲法59条Fがおおきな議題のひとつであったとみられる。1時間の会談後、総司令官は「法の支配と恒久的平和について議論した」と発表した。

 スーチーが民主化運動にはじめて登場したのは、1988年にビルマ(ミャンマー)で吹き荒れた国民大闘争の日であった。40万人の大群衆を前に彼女はこう語った。「平和的手段で、すべての民族が仲良く力をあわせて、民主化を実現させよう」。その日、ステージ上で演説するスーチーを見守った濱島義博京大名誉教授は「その時の彼女の演説は、決して激しい口調ではなかった。興奮する大群衆をなだめるような優しい表現だった。彼女のその姿に、私は非暴力主義を提唱したガンジーの姿をダブらせていた」
<2016年3月15日>


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ミャンマー維新 (2)

2016-03-10 | Weblog
 本日3月10日のマスコミ報道で、NLDの新大統領候補が決定したとのニュースがありました。やはりアウンサンスーチーの擁立は困難で、スーチーの側近で慈善団体幹部のティンチョーが来週の選挙で選出されることが確定したそうです。明日からのマスコミ報道が楽しみです。さて以下は既述分の続報です。


1月12日 スーチーは「かつて全民族が協力して我が国の独立を成し遂げました。全土和平にはすべての勢力の参加が欠かせません」と述べた。
この日、彼女は停戦協定に署名した8武装勢力との政治対話に参加し、テインセイン政権が失敗した和平の実現に意欲を示した。停戦協定に署名しなかったほかの武装10勢力は、新政権の正式発足を待って署名するだろうとみられている。そのとき、主要な少数民族の武装勢力すべてが和解することになる。ただ彼らの武装解除は困難であろう。あくまで停戦の実現とみるべきだ。国軍は武装維持をどう判断するか、予断は許されそうにない。

 スーチーが少数民族問題の解決に心血を注ぐのは、単なる政治的な打算からだけではない。1947年2月、英国の植民地からの独立闘争のさなかに、ビルマ族主体の暫定政府とシャン族やチン族など主要少数民族の指導者は、シャン州パンロンで会談した。その結果、ビルマ(ミャンマー)が独立する際は、各民族に平等な権利を与える連邦制を創設することで合意した。この「パンロン協定」の締結を主導したのが、スーチーの実父で暫定政府の指導者のアウンサン将軍だった。いまなお将軍は「建国の父」として、ミャンマー国民の尊敬を集めている。
 少数民族は将軍の誠実な姿勢を信頼し、後の暫定政府を支持したことが、独立成功を大きく後押しした。NLDは2015年11月の選挙公約に「パンロン協定の履行」を盛りこんだ。少数民族に根強い将軍への尊敬に訴える思惑だけでなく、スーチー自身が「ロールモデル」と位置付ける亡き父の宿題を片付けようという決意表明ともいえる。アウンサン将軍は独立直前の47年に政敵により暗殺されて、パンロン協定は果たされずに残った。スーチーの取り組みは、約70年の時を経て、かつて父が独立運動の同志と交わした約束を果たすことでもある。(日経新聞2月15日/ヤンゴン・松井基一記)

1月25日 ミンアウンフライン国軍総司令官とスーチーの総選挙後2度目の会談。
国軍総司令官は絶大な権限を有している。また憲法で議席を保障されている上下両院の4分の1を占める軍人議員も総司令官が指名する。円滑な国政運営には、国軍最高顧問のタンシュエと、国軍総司令官ミンアウンフラインの理解と協力が不可欠である。
 また閣僚の選定だが、国軍は憲法の規定によって三大臣を指名する。国防、内務(警察)、国境相である。大統領はただ単に三人を追認し任命するだけである。
 国防治安評議会も大統領を縛る憲法の規定である。評議会のメンバーは11人だが、過半数の6議席は軍が握っており、憲法では「国家非常事態においては、大統領は国軍の最高司令官に国権の行使を委譲しなければならない」。有事には大統領は評議会の決定に従わなければならない。国家の非常事態とは「国民に対する危険が発生した場合や、連邦が分裂し国民の結束が崩壊した場合」などと定義されている。
<2016年3月10日>
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