ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

雑煮と正月粥 (前編)  ぞうに・かゆ

2010-01-31 | Weblog

◎大晦日と正月のハレの食事のことを前回、書きました。そのなかで「新年は大晦日の日暮れ直後、すでにはじまっている!」としました。「ウッソー」「信じられん」、「元旦夜明けからなら納得できますが…」。そのような反論を聞きました。一日のはじまりは一体、いつからなのか? この問題は次々回あたりにゆずるとして、興味と妙味の深い文章に出会いましたので、今日はダイジェストでお届けします。平山敏治郎先生の「七草粥に白砂糖」。『民俗学の窓』(昭和56年・学生社刊)所収です。

 <お正月にいただくお雑煮は、実はいわゆる大年・大歳の夜、つまり大晦日の夕方から年神・歳神を迎えて祭った供え物を、朝になって祭りが終わったとき、お下がりを直会(なおらい)して食べたのだということは、すでに柳田国男先生が説き明かし、解釈しておられるので、もはや充分に知られていることと思う。
 ところで雑煮だが、調理の仕方は地方によってさまざまである。おおきく分けると、京都・大阪など上方風は味噌汁に丸餅を入れて煮る。東京はすまし汁に焼いた切り餅を入れる。山陰から北陸では、小豆汁の餅である。ほぼ三通りがある。しかし例外も多い。鳥取には、善哉雑煮がある。能登にもこの食べ方はある。
 江戸っ子のわたしが生まれ育った本所両国の家では、すましの雑煮であったが、京都に移り住んで(昭和12年京都帝国大学卒)、京都育ちの家内を迎えた翌年はじめての正月に、雑煮の調理法についてまず話し合うことになった。わたしは生家のなれた味を固執し、家内は京都の正月は白味噌雑煮、これを食べないと正月らしい気分になれないと主張する。ようやく妥協して、元旦は旦那さまの顔を立てて江戸前に、二日は奥さま手馴れた京風のものということに決まった。
 元旦は切り餅を早朝から火鉢であぶって無事に祝い膳についたまではよかったが、二日の朝には、味噌は味噌でも甘い白味噌は避けて、日常の赤味噌で花嫁がつくった雑煮は、一口して舌上に異和感があり、思わずマズイと叫んで、半日胸やけして閉口した。その奇襲によって、以来今日まで数十回の正月を迎えて、東京流の雑煮を祝うことになった。家内には言い分もあり、味噌雑煮への郷愁もあるらしいが、まずはのどかな新年がつづいている。>

◎筆者追記:雑煮ですが、四国の讃岐・阿波あたりでは、白味噌汁に餅が入っているだけだそうです。また何と、餅には餡(あん)が込められている。大福餅雑煮のようなものでしょうか。わたしはまだ食したことはありませんが。なぜこのように甘い雑煮が好まれるか? おそらく江戸時代後半期から盛んになった白糖「和三盆」の生産地だからではないかと思います。ご存じの方がありましたら、ぜひご教示ください。砂糖は江戸期、とてつもなく高価な貴重品でした。
 また滋賀県湖北・高島市の方に聞きました。「雑煮は、白味噌に餅が入っているだけ。餡なんてとんでもない。シンプルなモチです。せいぜいカツオの削り節をかけるくらいです」
 この稿続く。<2010年1月31日 大晦日からもう一カ月… 南浦邦仁記>  [208]

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正月と大晦日の食事

2010-01-23 | Weblog

 正月七日にはたいてい、七草粥(かゆ)を食べます。ところがこの一月七日、朝にも晩にも、食卓には恒例のはずの粥がありませんでした。妻に聞くと「あっ、忘れていた」
 翌日のこと、仕事でお会いした女性に七日粥の話しをしたところ、「七日は家族全員が朝からバタバタしていたので、一日遅れの八日の朝、七種粥をつくりました」。わたしの家では、八日にも粥はなし…。
 ところで正月十五日、小正月の朝にも粥を食す習慣が、昔からあります。この日は、「とんど」「どんど焼き」左義長祭りの日です。いつも小豆粥を食べるという方がまわりに多い。
 かつて千秋萬歳や毬杖・毬打「ぎっちょう」のことをいろいろ調べたことがありましたが平安朝以降、粥杖(かゆつえ)粥の木というのが、正月望月十五日に出てきます。望月は満月ですが、小正月のこの日にはいつも粥を食べています。また鍋の粥に木棒を差し、引き抜いてくっついた飯粒の数をかぞえ、その年の稲作が豊作か凶作かを占う。粥占、粥占いです。この風習はいまでも、各地に残っているそうです。
 また粥の木で若い女性の尻を打つ。こそっと隠れて後ろから忍び寄り、いきなり尻をピシッと叩くのです。打たれた女は、はらむという。『枕草子』や『狭衣物語』に載っています。豊穣の杖です。
 そして粥棒や打球技に使った毬杖棒はみな、十五日のとんど左義長で、高く立てられた竹とともに燃やしたようです。注連飾りや門松も、古代の羽子板も、正月の祝いの品は、みな左義長の火にくべられました。
 羽子板は小鬼板といいました。後世、中世には豪華な飾り板になり、美術品として永久保存されますが、平安時代には魔を追う神事の板であったようです。
 毬杖も同様です。小正月、初の望月満月の日には炎とともに送り去るべき、神に供える品であったようです。

 さて粥から、雑煮やお節料理などへと話しがひろがりました。わたしは毎日、いろんな方に会い仕事の話しとともに、雑談をして回っています。恵まれた仕事だと、いつも感心してしまいますが。なかでも盛り上がった話題は、大晦日に何を食べるのが習慣か? ということです。
 年越し蕎麦(そば)は当然のことですが、蕎麦はどうも江戸時代以降の習慣のようです。盆暮れ払いという言葉の痕跡がいまでもありますが、商家や金貸しにとって、大晦日は売掛金や貸金金利回収の大切な日。ゆっくり食事している暇もない。それで出前の蕎麦をかき込むことから、江戸ではじまったそうです。いまの東京も、当日の超多忙は似たようなものでしょうか。

 大晦日に何を必ず食べますか? 数十人の方に聞いてみました。蕎麦はさて置き。
 北海道札幌市出身者は、「お節料理です」。31日の晩ご飯から、一日早く食べるそうです。長野県東信出身者からも聞きました。
 福島県会津市と新潟市では「必ず鮭(さけ・しゃけ)」
 親が熊本県出身の方は「鰤(ぶり)です」
 夫が和歌山県の女性は「いつも寿司を食べます」
 彦根市の女性は「重箱に入りきらないご馳走を食べます。それでお節料理をいつも多めに作ります」
 また、お節のつまみ食いというのも、よく聞きました。確かに、31日に「蕎麦だけ」といわれるのも、寂しいものです。実は、わたしの里の播州では、大晦日にはふつう食と蕎麦しか出ません。それで恥ずかしながら、お節のつまみ食いをいたします。

 今回の取材も含めていくらか調べてみました。サンプルは少ないのですが、蕎麦以外の調査です。
 寿司:北海道・和歌山県・岐阜県
 鍋:北海道
 お節:北海道(多い!)・山梨県・神奈川県・長野県佐久市
 すき焼き:静岡県
 天ぷら:関東
 うどん:香川県・愛媛県
 鮭さけ:長野県塩尻市・福島県会津市・新潟県
 鰤ぶり:熊本県・長野県塩尻市・石川県・富山県・大阪府(父は大阪、母は熊本。いずれの習慣か不明)
 鯛たい:和歌山県
 
 ずいぶんバラエティに富んでいます。なぜこのように大晦日の晩ご飯から、ゴージャスなメニューをしつらえるのでしょう。
 ひとつの答えは、一日の終わりとはじまりを、わたしたちの遠い祖先がいつと捉えていたかということに尽きると思います。大昔、日のかわり目は日暮れだったのです。黄昏(たそがれ)がちょうど、今日と明日の境、時間の境界であったという説です。
 新年の神、歳神・年神が大晦日の夜に家々を訪れる。また全員が元旦に、数え歳で一斉に加齢する。かつては誕生日で歳をとるのではなく、元旦すなわち大晦日の夜に、歳をとったのです。
 歳神の来訪と、家族全員の無事加齢を祝い、「おめでとうございます」といった。そして揃って夜明けよりも一足早く、ゴージャスな食事を、来訪した神とともに食した。その風習であるという説です。わたしもそのように考えます。
 
 さて大晦日に何を食べるか? 蕎麦はどうも現代日本人の九割ほどに普及しているようです。蕎麦を除いて、特別な大晦日の食を、全国的に調べたいと思っています。
<あなたと両親が出身地から引きずっている大晦日の特殊な食習慣は何ですか? また既婚者は、夫と妻の別はどうですか? 蕎麦はさて置いて、大晦日に何を食べるのが当然ですか? 出身地の県名市名などもお教え下さい。>

 このようなアンケートを全国的にやれないものでしょうか? とりあえず、このブログをみて下さった方が、お返事をコメントで送ってくださったらうれしいです。よろしくお願いいたします。
<2010年1月23日> [207] ※ この項はその後、少しずつ書き足しています。
 

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難読地名「物集女」にみる歴史 <もずめ>

2010-01-16 | Weblog
洛西の地に住んで、もう20年を過ぎました。引っ越してきた当初、近所のユニークな地名にまず感心してしまいました。たとえば乙訓・大枝・神足・鶏冠井・羽束師・向日などなど。読みは文尾につけておきます。
 なかでも読めなく不思議に思ったのが、物集女(もずめ)です。物を集める女とは何か? この地名の解明が、京に来て最初の課題でした。
 
 長岡京市に、勝龍寺城という城が再興されています。小さいけれどもなかなか可愛い、味のある城です。わたしは播州の姫路城を見慣れ育ったために、ほかの城をみるとつい、おらが城と見比べてしまう。不用意な表現になることを、少年のころから反省しているのだが…。
 三浦綾子著『細川ガラシャ夫人』の文章にもある。「勝竜寺城は、坂本城とは比較にならぬ小さな城であった。城というより、大きな寺といったほうがいい。それでも周囲にめぐらした濠が一応城としての体裁を見せていた」
 近江の坂本城は明智光秀の居城である。光秀の娘の玉、のちのガラシャ夫人が勝龍寺城の細川忠興(ただおき)に嫁いだ。忠興の父の藤孝は、したたかな文武のひととして知られる細川幽斎である。
 織田信長が軍を率いて上洛したのは1568年だが、このとき藤孝は乙訓あたりの支配を、信長に認められた。玉が父光秀の親友である藤孝の嫡男、忠興の妻として勝龍寺城に入ったのは、信長上洛の10年後である。
 藤孝がこの地、桂川右岸を治めるにあたって、最大の障害となったのが、地侍との関係である。戦国時代、土地土地には土豪が力を得ていた。桂川西岸には、桂・川島あたりの有力な国人である革嶋(かわしま)氏、つい数年前までJR線の駅名だった神足氏、城の西にいまも地名のある友岡氏や、対岸八幡の志水氏などは、新領主である細川藤孝に従い、与力になった。ところが、現在の向日市の物集女忠重は、細川氏に抵抗する。しかし多勢に無勢。物集女氏はこのときに滅亡する。
 新しく配下に入った地侍たちはその後、細川家の国替に伴って丹後から九州、肥後熊本藩へと移る。ただ革嶋氏だけは細川氏との良好な関係を保ちながらも、川島村に大庄屋として留まる。革嶋一族の末裔は、いまも京都に健在である。
 なお細川幽斎を初代とする細川家の18代当主、細川護煕氏は元総理大臣。彼の先祖によって、この地の豪族であった物集女氏は滅ぼされたのである。
 
 いまの京都市西京区や向日市、そして長岡京市などにあたる古代の乙訓郡をみると、物集女あたりの地名は「物集」郷、「もず」と記されている。この近辺には、土師(はじ)氏が住んでいた。彼らは機内各地に居住し、古墳の造営や喪葬儀礼に携わり土師器で知られる土器や、埴輪の製作にかかわった氏族である。古墳建設という土木工事でたくさんの人夫を管理することから、軍事にも関与した。また外交分野でも活躍している。
 平城の都を長岡京から平安京に遷したのは桓武天皇であるが、桓武の母は高野新笠(たかののにいがさ)という。墓は大枝の沓掛(くつかけ)にある大枝稜である。彼女の父は和乙継(わ・やまとのおとつぐ)、母は土師真妹(はじのまいも)。真妹は名の通り土師氏の出身であり、母と娘は大枝あたりの生まれではないかともいわれている。
 八世紀末の記録によると、土師氏には四氏族があった。いまの奈良市内の菅原町と秋篠(あきしの)町あたりに居住した二氏族。ほかに大阪府堺市百舌鳥(もず)と、南河内の古市あたりを本拠とした2グループである。
 彼らは相次いで改姓願いを提出し、新しく三氏が誕生する。菅原氏、秋篠氏、そして大枝氏である。菅原氏からは後に学問の神様と称される菅原道真が生まれ、新笠の流れの大枝氏は大江氏に再改姓し、儒家として栄える。
 
 真妹の生家は毛受(もず)腹といわれる一族であるが、和泉の百舌鳥(もず)の一派であろう。かつて最大の古墳、伝仁徳天皇陵などを造成したと思われる彼らの仲間が、現在の物集女町あたりにも移住したのである。
 京都盆地において、いちばん早くに前方後円墳がいくつも造られたのは、乙訓地域であった。太秦(うずまさ)に秦(はた)氏が渡来し、活躍するかなり以前から、桂川右岸は山代(やましろ)国における経済や文化の最進地域であった。ちなみに山代はその後、山背そして山城へと表記がかわる。
 
 この地、いまの物集女は当初「もず」と呼ばれたであろうが、その後の読みには毛都米や毛豆女が当てられ、「もずめ」「もづめ」に変化し、「ず」と「づ」は混乱している。そして中世には物集女村と呼ばれる。物集「もず」に女「め」が付くのは不思議だが、桓武天皇の生母である新笠や、外祖母の土師真妹という、ふたりの女人の影響を思ったりもする。
 
 ところで余談だが、大枝の地は本来「おおい」と呼ばれていたという。その名残りが老ノ坂の「おい」であり、大枝や酒呑童子の大江山などの「おおえ」に変化している。
 
 さて、この文は十数年前に書いたものです。今回は横着なリライト版です。実は先日、糸井通浩先生にお会いし、物集女のことが話題になりました。先生は元龍谷大学、いまは京都光華女子大教授。京都地名研究会の主宰者のおひとりでもあります。このときの話題がきっかけで、再録することにしました。
 来週、糸井先生から物集女関係の資料コピーをいただく予定です。「もずめ」「もづめ」、「ず」と「づ」の混乱についての論文も、近々発表されるとのこと。また物集女の「女」について、古代の遊部、そして葬儀の泣き女・泣女・哭女との関連という示唆もいただきました。資料を頂戴するのが楽しみです。
※ 乙訓おとくに・大枝おおえ・神足こうたり・鶏冠井かいで・羽束師はずかし・向日むこう
<2010年1月16日> [206]
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乞食 №6  「被昇天の聖母マリア」

2010-01-10 | Weblog
京都のカトリック河原町教会のことは、<乞食№3>で書きました。この教会のカテドラル「聖フランシスコ・ザビエル大聖堂」の屋根は、まるで神社のような曲線デザインで、かたどられています。460年前のザビエルの悲願が達成された祝福象徴のごとく、そのカーブした頂の十字架は、京の町とひとを見守っているようです。
 
 マラッカから中国人の操る小型帆船・ジャンクに乗り、シナ海を命がけで日本に向かったザビエルは、2か月の後に薩摩・鹿児島に到着しました。西暦1549年8月15日のことです。この日はちょうど「聖母被昇天」の大祝日。ザビエルたちの喜びは、ひとしおであったといいます。後の敗戦記念日ですが、8月15日をもって、記念すべきキリスト教の日本布教は開始されたのです。
 都に教会を建てたいというザビエルの願いは、かないませんでした。しかし禁教下に教皇から秘密裏に送られたマリア像「都の聖母」は1890年に、やっと建築なった河原町教会大聖堂に安置されました。
 
 ところで、京都にはじめてキリスト教会が建ったのは、1575年8月15日です。ザビエルがはじめて日本の土を踏んだちょうど26年後のことでした。中京区姥柳町の通称「南蛮寺」ですが、完成直前のこの日を教会の竣工日としました。正式名称は「被昇天の聖母マリア」教会です。
 以下、フロイス『日本史』の記載ですが、ダリオは高山飛騨守。息子の彦五郎ジュストは、後の高槻城主・高山右近です。ふたりもこの日、南蛮寺に駆けつけました。
 
 教会の呼称、ならびに保護の聖人としては「被昇天の聖母マリア」が選ばれた。はじめて教会が都に建てられた聖母被昇天の日、8月15日という記念すべき日をあえて選んだのは、フランシスコ・ザビエル師が、日本の薩摩の国に着き、喜ばしい主の福音を伝えた同じ日だからであった。…
 この祝祭には、都および近隣諸国のキリシタンたちが参集した。ダリオは、このような功徳を積む機会を失うまいとして、妻子、親族、および二百名以上とともに来訪した。教会建設に大反対だった都の異教徒(仏教徒)たちは、いとも多くの群衆が、おびただしい駕籠や馬に乗ってわれらの教会に至るのを見、一同がまるで復活祭のように、礼服を着用しているのに接して驚嘆した。…
 教会が落成すると、いろいろの地方から、それを見物しようとして数えきれない人々が押し寄せ、教会を見に来たこの機会に、彼らに対する説教がたびたび行なわれた。その結果、いつも成果と収穫があった。というのは、ある人々はキリシタンとなり、他の人々はそれぞれの国に戻ってその見聞を伝えたので、我らの主なるデウスの御名と、我らの聖なるカトリックの信仰は、日本の遠くへだたった各地にまでひろまるに至った。
 
 ところでザビエルが接した16世紀なかばの佛教僧について、記してみましょう。「佛教の信者たちは地獄におちることを極度に恐れ、僧侶たちが望むものを、いわれるがままに、すべて与えている」。以下、ザビエル書簡1552年1月29日付け。
 
 貧者は坊さんに何らの施与も持参することができないのであるから、地獄から逃れることは、まったく不可能である。また女は、地獄から出る道が全然ないのだという。その理由としては、女には毎月の障りがあることをあげ、どの女も、世界中の男の罪をみな集めたよりも、もっと罪が深いのだといっている。それで女のような不潔な人間は、滅多なことでは救われないのだと断言している。それでも女を地獄から救い出すただひとつの便法がある。それはすなわち、男子以上に、おびただしく施物を出すことである。
 
 異教徒に対し、攻撃的で過激であった当時のイエズス会である。またはじめて日本で、激劇的な布教活動を開始したザビエルであった。彼の書簡は、いくらか割り引いて判断する必要はあろう。しかしそれでも、当時の佛教界はかなり堕落していたのは明らかだと思う。
 そのころの僧侶は、姦淫や飲酒などの戒律も守らず、「充分な布施を持って来なければ、地獄におちるぞ」と洗脳脅迫し、喜捨を強要していたのである。佛教の「乞食」頭陀の精神や行は、どこに行ってしまったのでしょう。
 <2010年1月10日> [205]
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乞食 №5  「十二頭陀行」 ずだぎょう

2010-01-09 | Weblog
乞食行、托鉢のことを前回、書きました。煩悩の塵をふるい落とし、生活の基本である衣食住について、欲望を払い捨てることが頭陀。少欲知足、吾唯足知、足るを知る域に達するため、修行の道として十二の行が定められました。釈尊の十二頭陀行は、初期の原始佛教において、弟子たちだれもが実践した修行です。<十二頭陀経>によると、
 
[1] 人家を離れた静かな所に住する。
[2] 常に乞食(こつじき)を行ずる。施し物のみを食し、生産活動を一切なさない。
[3] 乞食するのに家の貧富を選ばず、人家が並んでいる順に回り、食を乞う。
[4] 一日に一食。乞食は午前のみ。
[5] 食べ過ぎない。
[6] 中食(ちゅうじき昼食)以降は、飲み物もとらない。
[7] ボロで作った衣を着る。
[8] ただ三衣(さんね)のみを個人所有する。
   三衣は別名・乞食衣(こつじきえ)。
   端切れを繋ぎ、縫い合わせたボロ衣。
  「糞掃のあらき衣をもて衣服となして、三衣よりほかにまた衣服なし」<大日本国法華経験記>
   ただし「三衣一鉢」ともいいます。
   三衣のほかに、食物の布施を受けるための鉢ひとつと、坐具そして水濾し器、 
   これらをあわせた「六物」のみの私的所有が認められていました。
[9] 墓地、死体捨て場に住する。
[10] 樹下に止まる。
[11] 空地に坐す。
[12] 常に坐し、横臥しない。
 
 釈尊が比丘・比丘尼たちに示し課した修行は、暖衣飽食そして贅沢蓄財になれた現代日本では、まず僧侶は行い得ないでしょう。あまりに現在の世間常識から逸脱した行ばかりです。
 いまの日本の佛教は、「葬式佛教」と揶揄されています。しかし十二行の内の[9]、墓地に住することだけは、実践されているように思います。なぜなら、たいていの寺には、墓地が隣接しているからです。
 「所領の一所も持たずして、乞食頭陀の行をして」<保元物語>
 <2010年1月9日> [204]
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乞食 №4  佛教の「こつじき」

2010-01-04 | Weblog
京都新聞正月3日紙上に、京セラ名誉会長の稲盛和夫氏のインタビュー記事が載っていました。見出しは「歴史的な大転換期 欲望肥大化 修正必要」
 この記事の最後で、稲盛氏は「歴史的転換期にどういう生き方をしないといけないか、理屈抜きに考えないといけない。わたし個人、今年は僧としてまた托鉢(たくはつ)を再開しようかと思っている」
 
 托鉢は、僧侶が鉢をたずさえて町や村を歩き、食を乞うこと。古くは持鉢・棒鉢ともいい、乞食こつじきと称した。乞食のひとつの流れは、佛教にあります。
 何も恥ずべき行為ではなく本来、僧侶が当然なすべき行いであったのです。「行き暮れて宿もなき時は、野にも伏し、山にも伏し、打飯切れますれば鉢もいたし、鉢ござらねばひだるき事を、度々こらへまする」<盤珪仏智弘済禅師御示聞書>。ひだるき事:非常なる空腹。こらへ:堪え。
 
 お釈迦さん、わたしはいつも釈尊とよびますが、彼は衣食住のすべてにおいて、少欲知足の修業「頭陀行」ずだぎょうを定めました。
 このなかの乞食行では、必ず托鉢によって得た食をとることと定めています。また托鉢先の貧富の別なく、順次に家を訪ねて托鉢すべし。このふたつが釈尊のいう乞食の意味です。彼は僧が守るべき基本に、布施の食を受ける乞食行を据えました。修業出家者は、比丘・比丘尼(びく・びくに)ですが、原語の語義は食べ物を乞う者だそうです。
 
 佛教語「ピンダ・パータ」托鉢食、「ピンダ・パーティカ」施された食べ物を食べる人は、中国で「乞食」と漢訳されました。「乞丐」きつがい字も当てられています。
 日本では古くから「乞食」こつじき、「乞者」こつしや、「乞丐」こつがい字を用いる。頭陀ズータとは、煩悩の損滅をいうとあります。
 「乞者来たりて法華経の一品をよみて食を乞ふ」<三宝絵詞>
 
 ところで、稲盛氏の托鉢は、上記同様であろうか。四国八十八箇所の巡礼・遍路かもしれぬと思う。四国では物乞いをもっぱらとした遍路を、「へんど」というそうです。辺土あるいは辺道でしょうか。
 「われらが修業せし様は、忍辱(にんにく)袈裟をば肩に掛け、また笈(おひ)を負ひ、衣はいつとなくしほたれて、四国の辺道(へち)をぞ常に踏む」<梁塵秘抄>
 
 <2010年1月4日 参考『岩波仏教辞典> [203]
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RED CLIFF レッドクリフの蹴鞠サッカー <古代球技と大化の改新 11>

2010-01-03 | Weblog
この正月休み、映画「レッドクリフ PartⅡ・未来への最終決戦」をはじめてみました。近所でレンタルDVDを借りたのですが、孔明役の金城武、また周喩も曹操も、みな見事な演技ですね。
 ところで驚いたのが、いきなりサッカーシーンからはじまることです。古代球技に興味あるわたしとしては、画像に引きずり込まれ、何度何度も球技場面を見返してしまいました。
 2チームにわかれた選手たちは、各10数名。上着は黒と白で味方と敵を色分けしている。審判は黒と白の小旗をもって、広くもない競技場を走り回っている。ボールを手で触れることは禁止だが、球を足で確保する選手に対して、敵組の追撃は激しい。まるで格闘技をみるようです。
 ゴールは左右の板垣に、おそらく6個ずつ計12個。四角の球門を開いている。門はそれぞれ、四方各1㍍ほどであろうか。
 球は白く、おそらく革製であろう。詰め物(毛)のはいった詰め球(鞠)だろうと思います。中空球ほどには弾んでいない。
 選手のひとり、孫叔材は曹操にサッカーでの活躍を賞され、千人部隊の部隊長を任される。庶民の彼と、孫権の妹・尚香との淡い想いも記憶に残ります。悲惨な戦争の象徴のように感じました。
 
 ところで原題「RED CLIFF PartⅡ 決戦天下」ですが、製作は米中日台韓の5カ国。ついに、これらの国が共同で映画をつくる時代がきたのかと、感慨深いものがあります。いつか第2次世界大戦を、イギリス・フランス・ドイツ・ロシア・アメリカ・中国・台湾・韓国・日本、そしてイスラエル…。これらの国が一緒になって映画化するような時代が来ることを、願わずにいられません。
 
 赤壁の戦いは圧倒的に優勢な曹操軍、同盟を結んだ弱小の孫権・劉備連合軍との決戦です。後漢末期の西暦208年10月のことでした。球技は決戦を前に、赤壁の向かいに陣を敷く曹操軍内でのサッカー蹴鞠競技です。字幕スーパーをみると、「蹴鞠(けまり)」と出ます。この激しい球技は、蹴鞠を日本読みで「けまり」とすることは、適当ではありません。
 振り仮名は「しゅうきく」あるいは、「サッカー」とでも表示すべきものです。「けまり」は平安朝以降の公家たちの、優雅なボール蹴りを指します。中国では唐代から蹴鞠の字で、本来の激突するサッカーと、優美なケマリ・シュウキクのふたつを意味します。
 この映画で演じられているのは、原語「蹴鞠」ではありますが、蹴球・足球・サッカーです。
 
 曹操は足球・蹴鞠を重視しました。南征北戦中、たえず弓馬につとめること、そして蹴鞠(サッカー)を奨励したと記されています。「将は弓馬の道に務め、兵は蹴鞠を学んだ」。軍事教練でした。
 そして曹操の子・曹丕(魏朝・初代皇帝)の時代、景福殿講武錬兵場での足球(サッカー)競技が記されています。
 
 魏呉蜀の三国時代は、後漢滅亡の220年からはじまりますが、前漢の高祖・劉邦(在位 紀元前202~前195)は長安宮苑内に、大規模な「鞠城」足球競技場をつくりました。正確なサイズはわかりませんが、東西1キロメートル前後、南北は数百メートルではないかともいわれています。競技者の数はかなり多く、軍隊の進軍隊形をとった可能性もあります。
 またゴールは球門・鞠室・毬門ともよばれますが、四方をおそらく板壁の囲いで巡らせた球場の東西に設けられました。初期には穴を地面に各6個掘り、この中にボールを放り込むと得点になりました。その後、球門は東西の壁に6個の門をつくるようになったようです。後漢末期を舞台とする「レッドクリフ」は、板壁門を描いています。
 遠征地での軍隊は、移動もしばしばです。ゴールは板壁式ではなく、単に東西大地に各六穴を掘った簡易式であったそうです。その点、曹操の球戯場は南北だけは布幕ですが、東西は立派な球門をしつらえています。
 
 古代球技、なかでも蹴鞠のことは、年末に書き終えたと思っていました。しかしこの映画をみて、また書かずにはおれなくなってしまったのです。これを性さがというのでしょう。何かを機会にその内、また球技に逆戻りするかもしれませんね。
<2010年1月3日 謹賀新年 南浦邦仁> [202] 
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