◎大晦日と正月のハレの食事のことを前回、書きました。そのなかで「新年は大晦日の日暮れ直後、すでにはじまっている!」としました。「ウッソー」「信じられん」、「元旦夜明けからなら納得できますが…」。そのような反論を聞きました。一日のはじまりは一体、いつからなのか? この問題は次々回あたりにゆずるとして、興味と妙味の深い文章に出会いましたので、今日はダイジェストでお届けします。平山敏治郎先生の「七草粥に白砂糖」。『民俗学の窓』(昭和56年・学生社刊)所収です。
<お正月にいただくお雑煮は、実はいわゆる大年・大歳の夜、つまり大晦日の夕方から年神・歳神を迎えて祭った供え物を、朝になって祭りが終わったとき、お下がりを直会(なおらい)して食べたのだということは、すでに柳田国男先生が説き明かし、解釈しておられるので、もはや充分に知られていることと思う。
ところで雑煮だが、調理の仕方は地方によってさまざまである。おおきく分けると、京都・大阪など上方風は味噌汁に丸餅を入れて煮る。東京はすまし汁に焼いた切り餅を入れる。山陰から北陸では、小豆汁の餅である。ほぼ三通りがある。しかし例外も多い。鳥取には、善哉雑煮がある。能登にもこの食べ方はある。
江戸っ子のわたしが生まれ育った本所両国の家では、すましの雑煮であったが、京都に移り住んで(昭和12年京都帝国大学卒)、京都育ちの家内を迎えた翌年はじめての正月に、雑煮の調理法についてまず話し合うことになった。わたしは生家のなれた味を固執し、家内は京都の正月は白味噌雑煮、これを食べないと正月らしい気分になれないと主張する。ようやく妥協して、元旦は旦那さまの顔を立てて江戸前に、二日は奥さま手馴れた京風のものということに決まった。
元旦は切り餅を早朝から火鉢であぶって無事に祝い膳についたまではよかったが、二日の朝には、味噌は味噌でも甘い白味噌は避けて、日常の赤味噌で花嫁がつくった雑煮は、一口して舌上に異和感があり、思わずマズイと叫んで、半日胸やけして閉口した。その奇襲によって、以来今日まで数十回の正月を迎えて、東京流の雑煮を祝うことになった。家内には言い分もあり、味噌雑煮への郷愁もあるらしいが、まずはのどかな新年がつづいている。>
◎筆者追記:雑煮ですが、四国の讃岐・阿波あたりでは、白味噌汁に餅が入っているだけだそうです。また何と、餅には餡(あん)が込められている。大福餅雑煮のようなものでしょうか。わたしはまだ食したことはありませんが。なぜこのように甘い雑煮が好まれるか? おそらく江戸時代後半期から盛んになった白糖「和三盆」の生産地だからではないかと思います。ご存じの方がありましたら、ぜひご教示ください。砂糖は江戸期、とてつもなく高価な貴重品でした。
また滋賀県湖北・高島市の方に聞きました。「雑煮は、白味噌に餅が入っているだけ。餡なんてとんでもない。シンプルなモチです。せいぜいカツオの削り節をかけるくらいです」
この稿続く。<2010年1月31日 大晦日からもう一カ月… 南浦邦仁記> [208]
正月七日にはたいてい、七草粥(かゆ)を食べます。ところがこの一月七日、朝にも晩にも、食卓には恒例のはずの粥がありませんでした。妻に聞くと「あっ、忘れていた」
翌日のこと、仕事でお会いした女性に七日粥の話しをしたところ、「七日は家族全員が朝からバタバタしていたので、一日遅れの八日の朝、七種粥をつくりました」。わたしの家では、八日にも粥はなし…。
ところで正月十五日、小正月の朝にも粥を食す習慣が、昔からあります。この日は、「とんど」「どんど焼き」左義長祭りの日です。いつも小豆粥を食べるという方がまわりに多い。
かつて千秋萬歳や毬杖・毬打「ぎっちょう」のことをいろいろ調べたことがありましたが平安朝以降、粥杖(かゆつえ)粥の木というのが、正月望月十五日に出てきます。望月は満月ですが、小正月のこの日にはいつも粥を食べています。また鍋の粥に木棒を差し、引き抜いてくっついた飯粒の数をかぞえ、その年の稲作が豊作か凶作かを占う。粥占、粥占いです。この風習はいまでも、各地に残っているそうです。
また粥の木で若い女性の尻を打つ。こそっと隠れて後ろから忍び寄り、いきなり尻をピシッと叩くのです。打たれた女は、はらむという。『枕草子』や『狭衣物語』に載っています。豊穣の杖です。
そして粥棒や打球技に使った毬杖棒はみな、十五日のとんど左義長で、高く立てられた竹とともに燃やしたようです。注連飾りや門松も、古代の羽子板も、正月の祝いの品は、みな左義長の火にくべられました。
羽子板は小鬼板といいました。後世、中世には豪華な飾り板になり、美術品として永久保存されますが、平安時代には魔を追う神事の板であったようです。
毬杖も同様です。小正月、初の望月満月の日には炎とともに送り去るべき、神に供える品であったようです。
さて粥から、雑煮やお節料理などへと話しがひろがりました。わたしは毎日、いろんな方に会い仕事の話しとともに、雑談をして回っています。恵まれた仕事だと、いつも感心してしまいますが。なかでも盛り上がった話題は、大晦日に何を食べるのが習慣か? ということです。
年越し蕎麦(そば)は当然のことですが、蕎麦はどうも江戸時代以降の習慣のようです。盆暮れ払いという言葉の痕跡がいまでもありますが、商家や金貸しにとって、大晦日は売掛金や貸金金利回収の大切な日。ゆっくり食事している暇もない。それで出前の蕎麦をかき込むことから、江戸ではじまったそうです。いまの東京も、当日の超多忙は似たようなものでしょうか。
大晦日に何を必ず食べますか? 数十人の方に聞いてみました。蕎麦はさて置き。
北海道札幌市出身者は、「お節料理です」。31日の晩ご飯から、一日早く食べるそうです。長野県東信出身者からも聞きました。
福島県会津市と新潟市では「必ず鮭(さけ・しゃけ)」
親が熊本県出身の方は「鰤(ぶり)です」
夫が和歌山県の女性は「いつも寿司を食べます」
彦根市の女性は「重箱に入りきらないご馳走を食べます。それでお節料理をいつも多めに作ります」
また、お節のつまみ食いというのも、よく聞きました。確かに、31日に「蕎麦だけ」といわれるのも、寂しいものです。実は、わたしの里の播州では、大晦日にはふつう食と蕎麦しか出ません。それで恥ずかしながら、お節のつまみ食いをいたします。
今回の取材も含めていくらか調べてみました。サンプルは少ないのですが、蕎麦以外の調査です。
寿司:北海道・和歌山県・岐阜県
鍋:北海道
お節:北海道(多い!)・山梨県・神奈川県・長野県佐久市
すき焼き:静岡県
天ぷら:関東
うどん:香川県・愛媛県
鮭さけ:長野県塩尻市・福島県会津市・新潟県
鰤ぶり:熊本県・長野県塩尻市・石川県・富山県・大阪府(父は大阪、母は熊本。いずれの習慣か不明)
鯛たい:和歌山県
ずいぶんバラエティに富んでいます。なぜこのように大晦日の晩ご飯から、ゴージャスなメニューをしつらえるのでしょう。
ひとつの答えは、一日の終わりとはじまりを、わたしたちの遠い祖先がいつと捉えていたかということに尽きると思います。大昔、日のかわり目は日暮れだったのです。黄昏(たそがれ)がちょうど、今日と明日の境、時間の境界であったという説です。
新年の神、歳神・年神が大晦日の夜に家々を訪れる。また全員が元旦に、数え歳で一斉に加齢する。かつては誕生日で歳をとるのではなく、元旦すなわち大晦日の夜に、歳をとったのです。
歳神の来訪と、家族全員の無事加齢を祝い、「おめでとうございます」といった。そして揃って夜明けよりも一足早く、ゴージャスな食事を、来訪した神とともに食した。その風習であるという説です。わたしもそのように考えます。
さて大晦日に何を食べるか? 蕎麦はどうも現代日本人の九割ほどに普及しているようです。蕎麦を除いて、特別な大晦日の食を、全国的に調べたいと思っています。
<あなたと両親が出身地から引きずっている大晦日の特殊な食習慣は何ですか? また既婚者は、夫と妻の別はどうですか? 蕎麦はさて置いて、大晦日に何を食べるのが当然ですか? 出身地の県名市名などもお教え下さい。>
このようなアンケートを全国的にやれないものでしょうか? とりあえず、このブログをみて下さった方が、お返事をコメントで送ってくださったらうれしいです。よろしくお願いいたします。
<2010年1月23日> [207] ※ この項はその後、少しずつ書き足しています。