中国人の考え方には、まずほとんどの日本人は、ついていけないのではないか。あまりにも考え方の土俵が、違いすぎます。
「アメリカ軍の情報収集」の関係で『石田英一郎全集』卷3を読んでいて、興味深い記述「日本人とは何か」に出会いました。
世界的にみて、自分の失敗や非を認めたり、「すみません」と謝ることは、無条件降伏を意味する。そんなことをしたら、何をされようと文句を言えない。
本多勝一も「たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかんのである。百円のサラを割って、もし過失を認めたら、相手は弁償金を千円要求するかもしれない。だからサラを割ったアラブはこう言う。このサラは今日、割れる運命にあった。おれの意思とは関係ない」
日本人なら、ただちに言う。「まことにすみません」。さらには「わたしの責任です」。それが常識で美徳だからである。しかしこのお人好しは世界に通用しない。フランスなら「イタリアのサラならもっと丈夫だ」。中国でも相手に謝罪を要求しても、自らは決して謝ったりしない。
お菊さんの皿屋敷怪談は、日本特有の伝説のようです。彼女も主張すべきだったのです。「しっかりした保管庫をくださっていれば、たった1枚ですが紛失などなかったはずです。またわたしが割ったと言う方があるそうですが、証拠はどこにありますか? 一切存じ上げません」。お菊は、日本人の典型だったのです。あまりにも彼女が哀れです。浮かばれませんよね。
ところで海外ですが、ささいなことや弁償事件になりそうもないことでは、彼らは日本人よりも軽くしばしば言う。「Excuse me」。相手の体に触れてしまったり、ゲップをしたなど、「すんません」を常用する。それは、自らに害が及ばないから多用する、智恵としての習慣語なのです。
京都人も「すんまへん」を乱発します。地方人からいじめられる歴史が長かった土地です。そのように軽く言っておけば、被害を被らずにすんできたのでしょう。こころのなかではベロを出しており、謝罪の気持ちなど毛頭もありません。面従腹背、カエルの面にションベンですよ。少し過激な表現になってしまいましたが。
遅刻した舞妓さんは席に着くと「お~きに、すんまへーん」。この京都弁・花街ことばも不可解ですね。ちなみにこの場合の「お~きに」は感謝ではなく、大変、非常に、大きに「おぅきゅーに」という意味の副詞です。「すんまへ~ん」は申し訳ないという言葉ですが、非常に軽い。謝罪ではない。「(ちょっとだけ)遅れて来た分、今晩は旦那はんたちのため、うち一生懸命(ちょっとだけ)、気張らせてもらいますよって」。そのていどの愛想ことばのようです。
世界中どこに行っても、負けそうなとき、自分が不利な状況に追い込まれそうなとき、謝らずに自己主張を貫き通すのが当然過ぎるほど、当たり前なのだそうです。
交通事故で自分に責任があるのが明らかでも「おれに責任はない。わたしは悪くない」と、彼らは主張する。日本人は悪くなくとも、つい言ってしまう。「すみません…」。この言葉は謝罪と取られ、当方に責任があると、相手にも海外の裁判所にも判断されてしまうのです。
そのようなお人好しの日本人だが、世界にはわずかだけ似た例があるそうです。ニューギニアのモニ族とエスキモー。石田は本多の話しから「異民族の侵略を受けた経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。日本人やエスキモーやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験の少ない、たいへんお人好しの、珍しい民族である」
世界中を探検して回った中尾佐助は、ニューギニアやエスキモーの話しを石田から聞きこう言った。「日本こそ、世界最後の秘境だろうね」。本当にそうですね。
中国人の尖閣諸島問題での強硬姿勢は、なるほど理解できそうです。「中国の領土だ」と強硬に言い続けなければ、彼の国は明らかに負ける。
今回の尖閣諸島事件について、雑誌で賛同できる記事をみつけました。「週刊ポスト」10月8日号です。
少しでも妥協すれば、中国はますます日本を威圧し、恫喝し、東シナ海はなしくずし的に中国に支配されてしまう。日本の船は航行の自由さえ奪われ、中東に匹敵する埋蔵量もあり得ると見られている海底資源も奪われる。いま重要なのは、1ミリたりとも譲らない覚悟で臨むことだ。~櫻井よしこ氏に、パチパチです。
追伸ですが、中国と言う呼称、国名について。正しくは、中華人民共和国ですよ。英語では通称「China」。People’s Republic of China、略して PRC だそうです。わたしたちは中国―中華の国と呼ぶのを止め、中華人民共和国あるいはPRC、または語源である始皇帝の秦シン「チャイナ」などと言うべきだと思います。わたしは、チャイナを選びたい。いかがでしょうか。なお漢字の支那は、禁止語だそうです。
<2010年9月28日>