ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

太陽の塔とコンニャク

2011-05-29 | Weblog
 国立民族学博物館「ウメサオタダオ展」に行ってきました。昨日、雨の土曜日のことです。朝から神戸で仕事の打ち合わせがあったのですが、早々に終わりました。もともと休日にしていたのですが、京都への帰路ふと、梅棹忠夫展を思い出しました。京都の友人が長年、梅棹先生に師事していました。彼が招待券を3枚もプレゼントしてくれたのです。ずっとサイフに入れていたことを思い出しました。

 モノレールを降りて駅前スロープから見た太陽の塔は、久しぶりの再会です。40年前、万博の記憶が走りました。
 梅棹展図録に面白い記事があります。メラネシアの儀礼用人形を同館が所蔵しておられるのだが、太陽の塔にそっくりです。この人形を収集した石毛直道が岡本太郎にこれを見せて、「太陽の塔に実によく似ている」と言ったら、太郎はメラネシアの「彼らは昔から岡本太郎のまねをしていたのだな」(図録87ページ)
 京都河原町三条下に酒場リラ亭がかつてありました。若き石毛先生もよく通ったバーですが、『酒場ミモザ』のタイトルでマンガになりました。石毛先生に「リラ亭がマンガ化されてます」とわたしが言ったら「知りません」とのこと。本を郵送したことを思い出しました。

 会場のガラスケースにはコンニャクが一個、展示されていました。梅棹「コンニャク情報論」です。『梅棹忠夫著作集』全22巻のうち、第14巻「情報と文明」の情報論です。
 蒟蒻という食物は、栄養というものにまったく無縁な喰い物です。食物繊維がゆたかなために、健康食品としてもてはやされるしかない。しかし食べれば十分、腹の足しになるし、胃も腸もぜん動し、いい内部運動になる。コンニャクの効能はそれだけで、滋養には無縁である。「情報」も「コンニャク」と同じであると、梅棹はいう。「文化」もコンニャクではないかと、わたしは思う。

 「生物が感覚器官で受けた信号を咀嚼・解釈・編集したものが情報であり、こうした脳神経における情報処理こそが生ける証だと(梅棹は)言う。コンニャク情報や情報の価値を論じた原点はそこにある。…情報を発信するのも、アマチュアリズムに基づく自己表現の欲求からであり、相手が存在するかは関係ないと喝破した。現在のブログ時代はこれを示す。」(久保正敏「図録」138ページ)
 そうだそうだ、とアマチュア実践者のブロガーとして、おおいに同意いたします。

 長尾真は次のように記しています。(図録78頁~)
 梅棹は「情報は教えてしまったらお終いだから、教える前に木戸銭をとるのだ」と、笑いをさそうようなことを言って、情報産業のもつ特徴、工業製品との違いを明らかにした。
 彼がもっとも言いたかったことは、情報「お布施論」だったのではないだろうか。情報の値段は情報を与える側と受け取る側の、それぞれの格によって決まる。
 「我々は梅棹の築いた文明論のレベルを乗りこえて、安心・安全を含めた人間の心に密着した価値を扱う文化論的立場からすべてのものを見なおすとともに、そのような立場からの産業論を試みるべき時代に来ているのではないだろうか。情報が終わりではなく、その次に出てくるものは人の心であるから、心の時代、正しい言葉の意味での、情報産業の時代になっていってもおかしくないわけである。」

 「ウメサオタダオ展」は6月14日まで開催。招待券が手元にまだ2枚あります。日ごろの片瀬をご存じの方で希望者は、一声かけてください。
 それともうひとつプレゼントがあります。修理して間なしのプリンターがまた故障。メーカーから連絡があり「古い機種なので、もう部品がありません。無料で新製品を進呈します」。うれしい電話でしたが、PC接続の手続きがやっかいです…。それと互換性のないインクトナーがごっそり残ってしまいました。
 招待券同様、希望者にカートリッジを進呈します。CANON PIXUS BCI 320 321。
<2011年5月29日>
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津波の歴史 18 「若狭と福島」

2011-05-27 | Weblog
福井県人会が京都にもあります。わたしは播州出身で、まったく無関係なのですが、なぜかいつも呼ばれ同席する。といっても別会で、東三条の料理屋での10人足らずの飲み会です。鮮魚のおいしい店で、隔月くらいの例会にいつも参加しています。
 若狭出身の幹事に聞きました。「若狭湾には14基と原発が数多いが、大丈夫でしょうか?」。お答えは「大きな地震もこれまで起きていないし、津波の心配もない安全な地です」

 ところが5月26日夜のNHKニュースには驚きました。400年ほど前、若狭湾を大津波が襲った。
 天正13年11月29日1586年の大地震です。畿内・東海・東山・北陸諸道にわたる。飛騨・美濃・伊勢・近江など広域で被害を受けた。阿波でも地割れが生じ、余震は翌年まで続いた。震央は白川断層上か、伊勢湾とする説、またともに続発したか、不明な点が多いとされる。

 外岡慎一郎氏(敦賀短大)のこの日のTV発表では『兼見卿記』と、イエズス会のフロイスの記述に、何と若狭湾の大津波の記録があるという。両書はいつか確認しますが、驚くべき記述であると思います。
 なお関西電力は、両文献を30年前から承知していたが「若狭湾周辺で、津波による大きな被害記録はない」としている。

 また週刊「AERA」が次のように記しています。5月30日号です。
 宮城・福島を襲撃した869年の貞観大津波。この津波の高さや規模を最初に注目したのは、東北電力の3人の研究員だったという。
 1990年の日本地震学会誌に論文「仙台平野における貞観11年(869年)三陸津波の痕跡高の推定」。執筆した3人は、東北電力女川原子力発電所建設所(当時名)の研究員だった。津波は海岸線から3キロも浸水し、高い津波があったことを検証している。
 女川原発の総務部によると、いま現在、そうした部署はなく、3人ともすでに退職。話を聞くことはできなかった。
 驚くべきことに、東京電力ではないが、東北電力は20年以上も前、貞観の地震津波の痕跡を丹念に調べていたのです。
 この論文も読みたいと思っています。またいつかご紹介したいものです。
<2011年5月27日 南浦邦仁>
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<3・11 日本 7> 「原発テロ」

2011-05-25 | Weblog
 原子力損害賠償法第3条のことは、これまで何度か書いてきました。「原子炉の運転等の際、当該原子炉の運転等により原子力損害を与えたときは、当該原子炉の運転等に関わる原子力事業者がその損害を賠償する責めに任ずる」
 今回の大事故は、事業者である東京電力がその責めにあたるのです。ところが東電は、損害賠償の請求書受理に当たって「当社は免責されるので、支払い義務はない」との立場を、ずっと取っています。
 同法の但し書きには「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない。」

 3月11日の地震津波は、想定外でもなく、また異常に巨大な天災地変でもないということは、これまで度々記してきましたのでもう書きませんが、東電の論理はまちがっています。すでに立証されています。

 さて本日は「社会的動乱による損害事故」について、少し記してみます。これは騒擾なりテロを意味するのでしょうが、そのような攻撃が、原発を破壊することが可能なのでしょうか。
 村薫著『神の火』は、たったふたりの日本人が、福井県の若狭湾に立地する原発炉を破壊するという驚異的な物語です。
 主人公の島田浩二はもと東海村・原研の研究者でしたが、東に極秘情報を流すスパイでもあった。冷戦時代の世界平和のためには、技術力の高い国から低い国に、原子力の極秘情報を流すべきである。技術情報をフラット化することによって、核優位な国家を生まず、国際平和のバランスは保たれる。島田は、どうもそのように考えたようです。
 東海村を静かに去った島田はその後、大阪のちっぽけな本屋に営業マン兼雑用係として勤務する。久しぶりに会った原研時代の元部下は、原発についてこう語っている。「防護のシステムは万全やと言うても、人間のやることやから、絶対大丈夫やとも言われへんし」
 島田は言う。「人間は<絶対に>という言葉を使ってはならない。それは人間が造った原子炉も同じだ…」
 多重防護のシステムは、人間工学の部分を除いてはほぼ完成の域に達しているが、100%確実なものなどこの世にはない。事故は百万分の一の確率であっても、起こったら最後なのだから。故障もテロも、事故は事故だ。

 島田はかつて同じ夢をよく見た。熱は溜まり続け、出力が上がり続ける。1次冷却水の流量が減り、蒸気流量は増大する。制御棒の周囲では激しい沸騰が起きている。上昇し続ける1次冷却材ポンプの圧力高は止まらず、水位は低下し続け、安全注入系の全信号が<危険だ>とささやいている。逃し弁は作動しているのか。隔離弁は閉じているのか。加圧器スプレイはどうなっている。制御棒はなぜ下りない? スクラムが出ているのに、なぜ下りない? ECCS(非常用炉心冷却系)の注入系の弁が開かない、また原子炉を停止させる制御棒が全部スタックするとか、ポンプの溶接部が薄氷のようにひび割れる夢とか、島田はよく見た。
 「いずれも子供じみていたが、それらの夢はいつも同じ、プロメテウスの火の姿で終わった。無数の金属反応の発熱や、放出されるガンマ線や、アクチニドの崩壊熱が輝く業火だった。」
 プロメテウスは、ギリシア神話の神で、人類に火をもたらしたとされる。

 もしミサイルが一発、日本海の向こうから飛んで来て、格納容器に命中したら、間違いなく炉は壊れる。「容器はただのコンクリートの塊だから」
 世界の原子力プラントは、戦争や破戒活動を想定して造られてはいない。平和が永久に続くという架空の条件なしには、決して造ることはできなかった。1トンぐらいの弾頭をもつ普通のミサイル一発で、格納容器はおろか圧力容器も破壊される。そんなことは分かりきったことだ。そのように普通の人間が素朴に考えることを、為政者も技術者もメーカーも決して考えないのはなぜか。
 多重防護のシステムがここまで完璧に作られてきたのは、裏を返せば、現実には<絶対>ということなどあり得ないからだった。破断事故など、計算上ではあり得ないことになっているが、とくに蒸気発生器の一次側細管を流れる一次冷却水の挙動特性や細管自体の強度など、計算のためのデータの取り方の次元ですでに、<絶対>だとは言えない部分があるのを、島田は知っていた。いわば、原子力プラントというのは、そうした不安要素の一つ一つを、何重もの防護で覆っているのだ。
 それにしても、ミサイル一発とは。ミサイル一発が命中したら、原子炉は壊れるのである。

 島田と小中学校の同級生だった日野草介、たったのふたりは警備の手薄な年末の夜に、原発に侵入する。武器はライフルと旧ソ連製の拳銃各1丁。そして工事現場から集めたダイナマイトをわずかに身につけただけである。敷地内のだれひとりにも手傷を負わすことなく、ふたりは原子炉に決定的なダメージを与えることに成功した。

 原子力損害賠償法第3条の但し書き、「原発事故の損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、この限りではない」。電力会社は賠償責任が免責免除となる。
 島田と日野のふたりが実行したテロ行為も、「社会的動乱(たったふたりによるテロ)によって生じたものである」とみなされるのであろう。
 著者の村薫さんは新潟日報社のインタビューでつぎのように語っている。(2008年1月1日同紙掲載)
 村さんは阪神大震災を経験して「人間の一生は、震災や戦争のような不条理に耐えることだなと思った。不条理は癒されたり片付いたりすることはあり得ない。震災の不条理に原子力施設の事故が加わると、もうこれは人間の耐えられる限界を超えていくだろう。原子力の問題が難しいのは大事故を起こしたら終わりだからですよ。」

 『神の火』は、福井県若狭湾の関西電力高浜原発を想定して書かれたフィクションですがつい先日、5月23日のこと。参議院行政監視委員会は、参考人4人を招き原子力行政について討議した。参考人は、地震学の石橋克彦神戸大学名誉教授、小出裕章京都大学原子炉実験所助教、孫正義ソフトバンク社長、後藤政志元東芝の原子炉設計技術者(芝浦工大非常勤講師)。
 石橋先生は議員からの質問で、静岡県御前崎市の浜岡原発の次にリスクの高い原発を問われ、「若狭湾一帯」と答えた。「若狭湾一帯は、寛文地震(1662年)や福井地震(1948年)などが起きているが、地震の空白期がある。非常に危険であることは間違いない」と指摘した。大津波の可能性や、福島第1原発より古い美浜原発1号機(福井県美浜町)、敦賀原発(同敦賀市)などの老朽化も問題視した。
 「14基もの原発が林立する若狭湾は、地震の活動帯である。海底活断層がたくさん見つかっており、大津波の可能性もある。非常に危険なのは間違いない」
 石橋、小出、彼らは神の声を、自然科学者として聴くことができる預言者であろう。わたしたちが生存しているうち、あるいは遅くともそのいくらか後に、とてつもない悲劇の大惨事は必ず起きることは間違いない。それははっきりと断言できる。

<参考書>
『神の火』村薫著 1996年改稿版 新潮社(1991年初刊)
『原発と地震―柏崎刈羽「震度7」の警告』 新潟日報社特別取材班著 2009年刊 講談社
※連載名ですが、今回を<「3・11 日本」第7回>としました。通番の取り方は、むずかしいですね。
<2011年5月25日>
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津波の歴史 17 「八重山・宮古大津波」

2011-05-22 | Weblog
江戸時代のことです。明和8年3月10日(1771年)、「八重山地震津波/先島諸島地震」が起きました。八重山・宮古列島に巨大津波が襲来して、石垣島宮良では波高が85.4m、白保では60mに達し、同島では住民の約半数の8300人が溺死したと記録されています。宮古諸島では2500人が溺死。総死者は1万2千人にのぼったと伝えられています。85m余の波高の記録は、日本列島での最高である。

 柳田國男に「物言ふ魚」という、昭和7年に発表された一文があります。このなかで、仲宗根著『宮古島舊史』を紹介しています。寛延元年に出た本ですが、柳田は「この本をまったく知らないひとが多い」。全文を転載します。なお現代語に改めました。

 むかし伊良部(いらぶ)島に下地(しもぢ)という村があった。ある男が漁に出て、「ヨナタマ」という魚を釣った。この魚は人面魚体で、よく物を言う魚であった。漁師は思った。このように珍しい魚であるので、明日仲間を集めてみなで食しようと思い、炭をおこして炙りこに乗せて乾かした。その夜、下地の村民がみな寝静まって後、隣の家の幼い子がにわかに泣きだした。母の実家のある伊良部村に帰ると泣き叫んでいる。夜中なので母親はいろいろすかせたが、一向に泣きやまない。泣き叫ぶことはいよいよ激しくなった。母はなすすべもなく、子を抱いて外に出たが、幼児は母にひしと抱きついてわななき震えている。母はあまりにも変だと思いだしたところ、はるか沖から声が聞こえてきた。
 「ヨナタマ、ヨナタマ。なぜ帰りが遅いのか」
と言う。隣家で乾かされていたヨナタマは言った。
 「われは今、あら炭のうえに乗せられ、いぶり乾かされてもう半夜がたった。早く犀(さい)を遣って迎えさせよ」
と。これを聞いて母子は身の毛よだって、急いで伊良部村に帰った。なぜこのような夜遅くに帰って来たか、と伊良部の村人は聞いた。母はしかじかと答えて、翌朝に下地村へ帰ったところ、村中残らず洗い尽くされてしまっていた。今に至ってその村の跡かたはあるが、村民はだれも住んでいない。この母子にはいかなる陰徳があったのであろうか。このような急難を奇特に逃れるというのは、珍しいことである。

 これに類した伝説昔話は、宮古と八重山列島には数多く残っています。物を言う「霊魚」ヨナタマを害しようとした者たちが、大津波によって罰せられ、魚を放そうとした者は助命される。そのような話が多い。
 ところでヨナタマですが、「ヨナ」はイナ、ウナともいうが、「海」を意味する古語という。「タマ」は「魂」「霊」であり、ヨナタマは「海霊」を意味する。ヨナタマは、海の神の分身あるいは眷族であろうと柳田はいう。犀は動物の「サイ」だが、「災」あるいは「境」サイ・サエであろうか。

 似た伝説昔話は、先島諸島に数多く残っているが、日本列島各地にも残滓がみられる。また世界各地でも確認されており、なかでも南太平洋の島々や、東南アジアの島嶼部でいまも語られている。

 一例として柳田は、ドイツ『グリム童話』の「ハンスのばか」(55 A)を取り上げています。あえて旧字で引用します。
 「近頃讀んで見たジェデオン・ユエの『民間説話論』にグリム童話集の第五十五篇A、『ハンスの馬鹿』といふ話の各國の類型を比較して、その最も古い形といふものを復原してゐるが、この愚か者が海に行って異魚を釣り、その魚が物を言って我が命を宥してもらふ代りに、願ひごとの常に叶ふ力をこの男に授けたことになってゐる。出處は示してないがいづれかの國に、さういふ話し方をする實例があったのである。私の想像では我邦の説話に於けるヨナタマも、一方に焼いて食はうとする侵犯者を厳罰したと同時に、他方彼に對して敬虔であり従順であった者に、巨大なる福徳を附與するといつた明るい方向があつたために、かようにひろく東北(日本)の山の中まで、『物言ふ魚』の破片を散布することになつたのではなかつたか。もしさうであつたならば、今に何處からかその證跡は出て来る。さういつまでも私の假定説を、空しく遊ばせておくやうなことはあるまいと思ふ。」
 
 この文を読んで、わたしは邦訳グリム童話「ハンスのバカ」「馬鹿のハンス」など、ハンス話を漁りました。しかしどこにも魚の一尾も出てきません。こうなれば、ジェデオン・ユエ著『民間説話論』を読むしかないようです。幸い、京都府立図書館に蔵書されていました。ユエの説は次回、考えてみようかと思っています。今週の宿題は、この本を読むことになってしまったようです。

 ところで『宮古島旧史』が出版されたのは寛延元年、1748年です。「先島諸島大津波」(1771年)はその前に襲来したと、わたしは思いこんでいたのですが、実は逆だったのです。驚いたことに、津波の23年前にこの本は記されている。津波は、本が書かれた後だったのです。
 おそらく、宮古・八重山列島、さらには魚釣島などの尖閣諸島にも、過去に何度も大津波は襲来したのでしょう。また南太平洋、東南アジア沿岸部を中心に、世界に広がる類似伝説や昔話から、わたしたちの集合的無意識に刻まれた「洪水・津波神話」のことを、次回から数度、記そうかと思ったりしています。
 中近東の有名な神話「ノアの方舟」が最たる例です。神の言うとてつもない話しを信じる者だけが、生命を救われ、大いなる幸運を得るのです。神の声を聞くことができる人間は、ごくまれのようです。方舟の主ノア、そして伊良部島の幼な児とその母、まだ確証はないのですが馬鹿なハンスも、稀なそのひとりだったようです。

参考書 
『底本柳田國男集 巻5』「物言ふ魚」 筑摩書房 昭和43年 
『民間説話論』 ジェデオン・ユエ著 石川登志夫 初訳 同朋舎出版 1981年
<2011年5月22日 南浦邦仁>
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津波の歴史 16 「貞観津波 後編」

2011-05-17 | Weblog
前回に触れました経済産業省での原子力安全保安審議会(2009年6月24日開催)の議事録を紹介します。「耐震構造設計」と「地震構造設計」、ふたつの小委員会による「地震津波・地質地盤」についての合同審議でした。
 所属委員は合計25名。当日はかつかつ過半数の13名が出席。経産省の川原耐震安全審査室長は開会にあたって「当ワーキングの定足数は、委員25名に対しまして過半数でございますので13名となってございます。ただいまの出席委員は13名ですので定足数を満たしてございます」。12名が欠席されていますが、それらの方のお名前は不明です。

 議事録のタイトルはずいぶん長い。「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG(第32回)議事録」と記されている。以下、一部を抜粋します。

○岡村行信委員(産業技術総合研究所活断層研究センター)「御存じだと思いますが、ここは貞観の津波というか貞観の地震というものがあって、西暦869年でしたか、少なくとも津波に関しては、塩谷崎(いわき市)沖地震とは全く比べ物にならない非常にでかいものが来ているということはもうわかっていて、その調査結果も出ていると思うんですが、それに全く触れられていないところはどうしてなのかということをお聴きしたいんです。」
○西村(東京電力)「貞観の地震について、まず地震動の観点から申しますと、まず、被害がそれほど見当たらないということが1点あると思います。あと、規模としては、今回、同時活動を考慮した場合の塩谷埼沖地震でマグニチュード7.9相当ということになるわけですけれども、地震動評価上は、こういったことで検討するということで問題ないかと考えてございます。」
○岡村委員「被害がないというのは、どういう根拠に基づいているのでしょうか。少なくともその記述が、信頼できる記述というのは日本三代実録だけだと思うんですね。それには城が壊れたという記述があるんですよね。だから、そんなに被害が少なかったという判断をする材料はないのではないかと思うんですが。」
○西村(東京電力)「済みません、ちょっと言葉が断定的過ぎたかもしれません。御案内のように、歴史地震ということもありますので、今後こういったことがどうであるのかということについては、研究的には課題としてとらえるべきだと思っていますが、耐震設計上考慮する地震と言うことで、福島地点の地震動を考える際には、塩谷埼沖地震で代表できると考えたということでございます。」
○岡村委員「どうしてそうなるのかはよくわからないんですけれども、少なくとも津波堆積物は常磐海岸にも来ているんですよね。もう既に産総研の調査でも、それから、今日は来ておられませんけれども、東北大の調査でもわかっている。ですから、震源域としては、仙台の方だけではなくて、南までかなり来ているということを想定する必要はあるだろう、そういう情報はあると思うんですよね。そのことについて全く触れられていないのは、どうも私は納得できないんです。」
○名倉安全審査官(経済産業省)「事務局の方から答えさせていただきます。/産総研の佐竹さんの知見等が出ておりますので、当然、津波に関しては、距離があったとしても影響が大きいと。もう少し北側だと思いますけれども。地震動評価上の影響につきましては、スペクトル評価式等によりまして、距離を現状の知見で想定したところでどこら辺かということで設定しなければいけないのですけれども、今ある知見で設定してどうかということで、敷地への影響については、事務局の方で確認させていただきたいと考えております。/多分、距離的には、規模も含めた上でいくと、たしか影響はこちらの方が大きかったと私は思っていますので、そこら辺はちょっと事務局の方で確認させていただきたいと思います。/あと、津波の件については、中間報告では、今提出されておりませんので評価しておりませんけれども、当然、そういった産総研の知見とか東北大学の知見がある。津波堆積物とかそういうことがありますので、津波については、貞観の地震についても踏まえた検討を当然して、本報告に出してくると考えております。/以上です。」

 さらには下記のようなやり取りも議事録には記されている。
○衣笠善博委員(東京工業大学大学院教授 地震地質学)問題を2点指摘し「3つ目ですが、このような地形・地質調査の結果を無視してまで不確かさを考慮するようなことが行われると、まともな地形・地質の専門家は、もう保安院には協力できない、幾ら頑張って意見を言ったって、最後はえいやっと不確かさの中に含めてしまうというようなことがあるようでは、もうこれ以上の協力はいたしかねるということも言いたくなるわけです。/そのようなリスクがあることを承知の上でこのような文書をお出しになるなら、それは行政庁判断ですけれども、その3つのリスクについては行政庁に負っていただきたいということだけ申し上げておきたいと思います。」

 進行役の纐纈主査(委員)は「ほかのまともな地質・地形専門の方は御意見があると思いますが、いかがでしょうか。」
 ある委員は「いいかげんな地質屋ですけれども、きちんとやりたいとは思います」。また別の委員は「私もいいかげんな地質屋ですけれども」
 そして、この「いいかげんな話し」の出た直後に、会議は終了する。

○纐纈主査「今回いただいた御意見も含めて、今後、適切に事務局で報告書に反映していただくことにしまして、修正等につきましては、事務局及び主査(纐纈)とで進めさせていただきたいと思いますが、いかがでしょうか。/それでは、大分時間を超過しましたが、本日の審議を終了させていただきたいと思います。」

 2009年6月24日、経済産業省別館10階の共用1028号会議室で、朝10時から12時半まで2時間半開かれた審議は、終了した。
 なお当日の出席者名を列記します。出席委員以外は発言者しか名はわかりません。
 
□<委員> 纐纈一起(主査):東京大学地震研究所教授(地震学)/安達俊夫:日本大学理工学部教授(建築学)/吾妻崇:産業技術総合研究所活断層研究センター(地形学)/阿部信太郎:電力中央研究所/岩下和義:埼玉大学工学部教授(耐震工学)/宇根寛:国土地理院(地理調査)/岡村行信:産業技術総合研究所(産総研)活断層研究センター/衣笠善博:東京工業大学大学院教授(地震地質学)/駒田広也:電力中央研究所/杉山雄一:産業技術総合研究所活断層研究センター/高島賢二:原子力安全基盤機構規格基準部/吉村孝志:東京大学大学院総合防災情報研究センター教授/吉中龍之進:埼玉大学工学部教授(地盤工学)
□<経済産業省> 川原耐震安全審査室長/名倉安全審査官/原子力発電安全審査課長/小林統括安全審査官
□<東電> 高尾/西村 

 翌7月13日、第33回ワーキンググループ会合が開かれました。出席した委員は前回同様、最低定足数の13名。ほぼ半数の12名は欠席である。
 東京電力は貞観地震についてコメントしています。「869年貞観の地震については、周辺の震度に関する情報がない」。当然です。千年以上も前の地震に、科学的な震度情報があるわけがありません。震度についてわからなくとも、津波についてはトレンチ調査で明らかであったはずですが。
 また東電は、福島沖で地震が起きたとしても、震度4~5程度であろうと結論した。福島第1「敷地周辺の震度分布に関する情報は見当たらない」と結論したのです。
 確かに千年以上も昔の情報は『日本三代実録』以外には見つからない。しかし大津波の痕跡は、仙台から福島県、さらにはその南の茨城県まで、明らかに土質調査が被災を証明しているのです。
 東電の報告書の末尾には「869年の貞観の地震については、今後も引き続き知見の収集に努め、適宜必要な検討を行っていく所存」であると。

 なお、6月の議事録はネット上で公表されています。PDF 35枚。市民国民が客観的に密室の審議を知り理解するために、議事録やさまざまの公的情報をオープン化することは、本当によいことだと思います。インターネットがわたしたちの1次情報収集を激変させます。
 アメリカではいま< G 2.0 >が提唱されているそうです。「ガバメント2.0」です 。政府がどんどん情報を開示し、わたしたち国民は、ネットで収集し判断する。さらにはそれらを加工整理し、ビジネスにもジャーナリズムや生活にも活用していく。
 すばらしい流れであると、思っています。各国が同方向に目線を向ければ、ついに地球市民が誕生します。「知らしむべからず」は、時代に逆行した、亡国への道程でしかありません。
<2011年5月17日 南浦邦仁>
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津波の歴史 15 「貞観津波 中編」 じょうがん

2011-05-15 | Weblog
貞観津波は、平成東日本大震災によく似ているようです。青森、岩手および宮城県北部の三陸沿岸部は度々、大津波の被害にあっています。数十年に一度来襲すると言っても、過言ではありません。
 ところが宮城県南部、男鹿半島の西部から仙台平野そして南に続く福島県浜通りにかけては、「大津波が来襲することはない」とふつう言われ続けてきた。だが貞観津波の記録『日本三代実録』や各地の伝承は、この常識に反するものであった。
 そこではじまったのが、1990年からの発掘トレンチ調査である。まず開始したのが東北大学だが、箕浦幸治氏(東北大学大学院理学研究科教授)は「調査の結果、仙台平野が貞観津波に襲われたことは実証された」と2001年、実に10年前につぎのように記しておられる。

 「仙台平野の海岸部で、最大9mに達する到達波が7~8分間隔で、繰り返し来襲したと推定された。福島県相馬市の海岸にはさらに、規模の大きな津波が来襲した」
 災害制御研究センターの今村文彦氏らとの共同研究の地中分析による、客観的自然科学的な研究成果である。箕浦先生が成果を一般向けに発表したのは2001年、すなわち10年も前に、すでに指摘されていたのです。仙台平野のみならず、福島県浜通り沿岸部も、貞観大津波によって壊滅的な打撃を受けていたのです。
 そして土中のトレンチ調査から、過去3千年間に3度、今回の津波が4千年間で4度目ですが、ほぼ千年に一度、巨大津波が宮城や福島などを襲っていたことが、証明されました。

 箕浦先生は10年前、つぎのように記しておられます。
 伝承や文献記録の内容がすべて真実であるとは限りません。しかしながら、1100年余の時を経て語り継がれた仙台平野での津波災害の発生には、幸運にも、津波の科学的研究を通して、文献と伝承の正当性が実証されました。こうした破壊的な災害には数世代を経ても、あるいは遭遇しないかもしれません。しかし、海岸域の開発が急速に進みつつある現在、津波災害への憂いを常に自覚しなくてはなりません。歴史上の事件と同様、津波の災害も繰り返すのです。
 そして「貞観津波の襲来からすでに1100年余の時が経ており、周期性を考慮するならば、仙台湾沖で巨大な津波が発生することが懸念されます」

 残念ながら、この警鐘は聴き届けられなかった。多くの人々にも、東京電力にも。あまりにも無念である。

 次回「貞観津波 後編」は、産業技術総合研究所(産総研)の岡村行信氏が、2009年に経済産業省での委員会で述べられた津波の警告を紹介します。
 ずいぶん長いワーキンググループ名ですが「総合資源エネルギー調査会原子力安全・保安部会 耐震・構造設計小委員会 地震・構造設計小委員会 地震・津波、地質・地盤 合同WG第32回」。議事録を検証する予定です。

○参考書 箕浦幸治「津波災害は繰り返す」 東北大学発行「まなびの杜」第16号 2001年
 なお、全文がネット上に公開されています。
<2011年5月15日>

※日本経済新聞5月28日。東北大学の研究チームは、貞観津波で内陸部に運ばれた砂や貝などの分布状況から、仙台平野での浸水域を分析し、海岸線から約 3.5キロまでと算出した。今回の浸水域は最大で 5キロ。当時の海岸線の確定はむずかしいとは思いますが。貞観地震の大きさは M 8.35と推定。仙台平野海岸部の津波高は、約 7mと算出した。<5月29日追記>

※産業技術総合研究所は、5月22日から開催された日本地球惑星科学連合大会で、貞観津波についての調査結果を報告した。産総研は3カ所での土壌から、津波が運んだ堆積物分布を調べた。仙台市若林区・宮城県山元町・南相馬市。堆積物内植物成分の放射性炭素からの年代測定から、4度の津波襲来を確認した。まず紀元前 390年ころ、西暦430年ころ、869年の貞観地震津波、1500年ころの津波。周期は 450年から 800年になる。<6月11日追記 南浦邦仁>


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津波の歴史 14 「地震・津波と長沢芦雪」

2011-05-11 | Weblog
前の日曜日、5月8日ですが「長沢芦雪展」をみるために、滋賀県信楽のミホ・ミュージアムに行ってきました。本来は今日、貞観地震津波の中編を書くべきだったのですが、話題を転じて気ままに芦雪のことを記します。

 円山応挙は江戸時代を代表する京の画家として有名ですが、彼の高弟第一人者が長沢芦雪(1754~1799)です。芦雪の最大傑作だと確信していますが、南紀無量寺所蔵の襖絵「虎図」の展示が、当日で終了してしまいます。あわてて出かけました。
 ちょうど30年前のことですが、『若冲・蕭白・蘆雪』という本をを買い求め、まず芦雪にはまり、その後に若冲に熱中しました。そもそもは、芦雪の「虎図」に魅入られたのがはじまりです。30年も前のことでした。

 和歌山県東牟婁串本町の無量寺本堂に、長沢芦雪の襖絵「虎図」「龍図」各6面があります。当時の和尚の愚海は親しかった京の絵師、円山応挙に襖絵制作を依頼しました。
 実は宝永4年10月4日(1707)の大津波で無量寺は流され、堂もすべての寺宝も失っていたのです。寺の本堂や本尊などを復興し、最後の仕上げが新しい寺宝を収めることだったのです。
 あまりにも多忙な応挙は自身が赴くのも叶わず、高弟の長沢芦雪を南紀串本に、代理として遣りました。そしてたくさんの芦雪の傑作が、一年近い南紀滞在中に同地に残されたのです。1786年から翌年にかけてのことです。津波から80年も後のことでした。

 「宝永地震津波」を『理科年表』でみてみます。1707年 宝永4年10月4日。
 わが国最大級の地震のひとつ。少なくとも死2万、潰家6万、流失家2万。震害は東海道・伊勢湾・紀伊半島で最もひどく、津波が紀伊半島から九州までの太平洋沿岸や瀬戸内海を襲った。津波の被害は土佐が最大。室戸・串本・御前崎(注:浜岡原発)で地が1~2m隆起し、また高知市の東部の地、約20キロ平米が最大2m沈下した。遠州灘および紀伊半島沖で、ふたつの巨大地震が同時に起こったとも考えられる。(注:浜岡原発は急きょ全停止になりましたが、怖いのは震度や津波のみならず、地面が隆起波打つのです。いかに頑丈な建屋でも突然のデコボコには、耐えられるはずがありません。このときは2m近くもボコボコになりました)

 無量寺は大津波のあと、実に80年の歳月をかけて再建しました。最後の仕上げが、円山応挙と長沢芦雪の傑作群だったわけです。そして南紀の串本から田辺まで、芦雪が残した作品は数多い。彼は津波鎮魂として、明るい陽気な画作を残したのではないか、とわたしは考えています。

 山川武氏はつぎのように記述しておられます。
 天明6年(1786)から翌年春先にかけて、芦雪は南紀旅行に出かけることになった。南紀串本の無量寺をはじめ、富田高瀬の草堂寺、古座町西向の成就寺、そして田辺の真言宗・高山寺にいたる制作旅行であった。
 無量寺、草堂寺、成就寺はいずれも京都の東福寺海蔵院を本山とする臨済宗の禅寺で、当時の草堂寺住職の棠陰、無量寺住職の愚海はかつて本山におったころ、応挙と相識の間柄だったらしい。天明初年、それらの三寺ではそれぞれに本堂普請が完成し、無量寺の愚海を介して、京都の応挙に襖絵を描くことを依頼した。応挙は草堂寺、無量寺にはそれぞれ、書院主室一室分の襖絵を描いたが、そのほかは門人の芦雪にゆだねた。彼自身の作品は芦雪に托して、両寺に届けさせたのである。
 無量寺本堂の襖絵は、上間一之間に応挙筆「山水図」「群仙図」をみるほかは、すべて芦雪の筆で、中央室中の間に巨大な「龍虎図」が相対し、左右の諸室に「薔薇に猫・鶏図」「群鶴図」「唐子琴棋書画図」が描かれている。構想のユニークさ、筆力の雄健さによって、南紀芦雪画の名を高からしめているのが墨画「龍虎図」の大作である。それぞれ襖六面にわたって、颯然と龍虎の巨体を描破する。愉快なのは、本来畏怖をもって迫るべき龍虎が一向に恐ろしくなく、かえって悪戯っぽいとぼけた表情をみせることである。図体の大きさが、かえってパラドックスな効果をもたらす。巨大な猛虎の鼻先が子猫のそれを想わせ、巨龍の髭面もみるからにユーモラスで、墨龍図にありがちの陰性のものがなく、明朗闊達である。そんなところにも、芦雪の意図的な茶目っ気をよみとることができるだろう。

 草堂寺には応挙の「雪梅図」と、芦雪のたくさんの作品が残っている。成就寺には応挙の作品はないが、芦雪の画が数多い。
 実は昨日、わたしは草堂寺と成就寺に電話し、いろいろと教えを乞うた。「無量寺は津波で流され、再建された堂の襖絵を描くために芦雪が南紀に向かった。同じ事情で芦雪は出向いたのですか?」と質問した。
 懇切丁寧にお答えいただきましたが、両寺とも「寺の再建は三ヵ寺ともほぼ同時です。無量寺は津波被害にあったのですが、当寺は高所なので津波は来なかったはずです」
 片瀬「地震で倒壊したのではないですか?」
 両寺「記録は残っていませんので断言できませんが、不思議なことに、芦雪が南紀を訪れたころ、地域のたくさんの寺がほぼ同時期に再建されています」
 わたしは思うに、地震と津波のため、南紀の数多くの寺が流されまた倒壊したのであろう。各市町村の「史誌」をいつか調べてみますが、18世紀の南紀には地震津波と復興の記憶が刻されているはずです。

 ところで虎図襖の主人公は、実にかわいい。猫ではないかと言われているが、この動物は水面を見つめている。池の中から魚が見た猫であろうと一般にいわれるが、わたしは津波を産む険しい、しかしいまは穏やかな海面を、不思議そうに眺めている動物、それが芦雪の虎図ではないか、そのように思えて仕方ない。
 無量寺の愚海和尚は年齢からみて、寺再建の80年前の大津波を体験していないであろう。しかし串本で伝承される津波の記憶を、寺再興のなかで十二分に理解していたであろうと思う。彼の号は「愚かな海」、「愚海」である。津波を体験した師匠は彼に法号「愚海」をあえて授けたのであろうと思う。「愚かなる海嘯に負けず、寺再興のため一途に愚に徹せよ」。師の和尚は愚海に、寺再興を託しそう語ったのではないか。

 この夏の休暇、南紀の寺を巡ろう。時間に余裕があれば、東北にも行こう。そのように、いま思っています。
 なお「長沢芦雪展」(MIHO MUSEUM 滋賀県信楽)は、6月5日まで開催されています。

参考書 『水墨美術体系第14巻 若冲・蕭白・蘆雪』小林忠・辻惟雄・山川武共著 講談社 1973年
<2011年5月11日朝> 今回の文章には自身に不満が多く、書き直しました<5月11日宵 片瀬こと南浦邦仁>
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津波の歴史 13 「貞観津波 前編」

2011-05-09 | Weblog
平安時代のこと、大津波がいまの宮城県と福島県あたりを襲った。貞観地震津波である。西暦869年7月13日(清和天皇 貞観じょうがん11年5月26日)
 当時の史書『日本三代実録』が記載している。原文と現代語訳は、

 廿六日癸未、陸奥國地大震動、流光如晝隱映、頃之、人民叫呼、伏不能起、或屋仆壓死、或地裂埋殪、馬牛駭奔、或相昇踏、城郭倉庫、門櫓墻壁、頽落顛覆、不知其數、海口哮吼、聲似雷霆、驚濤涌潮、泝漲長、忽至城下、去海數十百里、浩々不辦其涯涘、原野道路、惣為滄溟、乗船不遑、登山難及、溺死者千許、資産苗稼、殆無孑遺焉(「郭」は土ヘン有り)

 五月二十六日、陸奥の国で大地震が起きた。流光が昼のように光り、人々は叫びたて、立っていることができなかった。ある者は家の下敷きとなり、ある者は地割れに呑み込まれた。驚いた牛や馬が互いに踏みつけあって走り出し、城郭、倉、門櫓や墻壁が無数に崩れた。雷鳴のような海鳴りが聞こえて潮が湧きあがり、川が逆流し津波(海嘯)が長く連なって押し寄せ、たちまち多賀城下に達した。海から数十百里の先まで涯も知れず水となり、野原も道も大海原となった。舟で逃げたり山に避難することができず、城下では千人ほどが溺れ死に、後には田畑も人々の資産も、ほとんど何もなくなった。

 『日本三代實録』全50巻は、清和天皇天安2年8月(858)より貞観年代、陽成天皇の元慶、そして光孝天皇仁和3年8月(887)にいたる「天皇三代」30年間の記録である。892年に宇多天皇より勅撰の詔があり、編纂者の任についたのは、菅原道真、藤原時平、大蔵善行、源能有、三統理平の5人。完成なったのは延喜元年8月2日(901)だが、菅原道真は同年正月、同書上奏直前に大宰府へ左遷された。そして2年後に大宰府で逝った。延喜3年2月25日のことである。
 「大宰府での生活は貧しくみじめなもので、道真は健康を害したが、天皇に対する忠誠心は失わなかった。ここで彼は念仏、読経を事とした」享年59歳。(志村有弘編『日本ミステリアス 妖怪・怪奇・妖人事典』勉誠出版2011年)

 道真にとってこの史書は、怨念の書であったであろう。完成なった「三代実録」には編纂者として、ふたりの名しかない。道真を偽りの中傷で辺地に追いやった藤原氏のひとりである時平と、大蔵善行だけである。

 ところで、この記録から仙台平野に平安時代、大津波が襲った事実は知られていた。渡邊偉夫氏は各地に残る伝承を収集し、貞観津波の襲来地域を推定された。(「伝承から地震・津波の実態をどこまで解明できるか 貞観11年869の地震・津波を例として」2001)
 渡邊氏が収集した伝承は、つぎの各地に残っている。
 宮城県 気仙沼市・多賀城市・仙台市・名取市・岩沼市
 福島県 新地町・相馬市・いわき市
 茨城県 北茨城市・高萩市・東海村・ひたちなか市・大洗町・大洋町(鉾田市)
 ※福島第1原発はいまは海面より10m高の平らな地に建っていますが、かつて原発建設工事で高さ30mほどの高地・海岸段丘を削り取ったのです。本来は崖地です。後背地が高い岡のように見えますが、40数年前までは急崖の無住地で、貞観津波も30mの高地には、飛沫しか届かなかったはずです。相馬市といわき市に貞観津波の伝承が残っていますから、両市の間に位置する南相馬市、浪江町、双葉町、大熊町、富岡町、楢葉町、広野町にも大津波が押し寄せたことでしょう。福島第1は、双葉(5・6号機)と大熊(1~4号機)、両町に隣接立地しています。福島第2は富岡町と楢葉町にまたがっています。

 仙台市宮城野区蒲生在住の飯沼勇義氏(80)は津波に被災し、避難所で暮らしておられるが、郷土史家で著書『仙台平野の歴史津波 巨大津波が仙台平野を襲う』を出版された方です。同書は仙台の宝文堂1995年刊ですが絶版で入手不可。避難所でつぎのように語っておられます。
 「仙台地方は、実は世界のなかでも巨大な津波の常襲地帯なんです。仙台には大きな津波が来ないと思っていた人が多いが、私にとってみれば、来るべきものが来たという思いです」
 飯沼氏は津波研究のために、あえて危険な海岸近くに居住したそうです。
 「仙台の歴史を研究すると、人が住めない、歴史がつながらない空白の時代がいくつもあり、調べると巨大な津波が原因だとわかりました」
 大津波は仙台平野、さらには福島県、茨城県までを過去に何度も襲っている。飯沼氏は貞観地震津波では、ほぼ1万人が犠牲になったであろうと推定されている。
 名取の神社に残る伝承記録には「貞観ノ頃ハ頻リニ疫病流行シ庶民大イニ苦シミ」
 「慶長津波」の後、田畑は10年たっても塩害で農を営めず、名取郡の三村は連名で、仙台藩奉行に年貢の申上状を提出している。
 なおこの本を読みたく調べたのですが、アマゾンも日本の古本屋も京都市内の図書館にもありません。ぜひ復刊をお願いします。

 本日は「貞観津波」<前編>とし、次回は発掘調査が示した傷跡と、津波シミュレーションの研究成果を書こうと思っています。ただ長かった連休が終わり、また日々多忙という渦のなかに放り込まれてしまいました。ぼちぼちやります。
<2011年5月9日 南浦邦仁>
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津波の歴史 12 「浜岡原発全停止」

2011-05-07 | Weblog
 日本一危険であると不安視されてきた浜岡原発が、急きょ全面停止することになった。本当にいいことだが、あまりに急な首相判断の背景には、何があったのか。
 「30年以内にM8程度の東海地震が起きる可能性は87%と極めて切迫している」、「東海地震に十分耐えられるよう、防潮堤の設置など、中長期の対策を確実に実施することが必要だ」などと菅首相は5月6日の記者会見で発表した。「唐突な発表に首をかしげた国民もいるのではないか」(日経新聞5月7日)

 地震学の石橋克彦先生(神戸大学名誉教授)は、福島原発の事故直後から、つぎのように語っておられる。
 何よりも、東海地震の想定震源域の真上の中部電力浜岡原発を止めるべきだ。これが原発震災を起こすと、最悪の場合、南西からの卓越風によって首都喪失に到る。また、在日米軍の横田・横須賀・厚木・座間などの基地も機能を失い、国際的に大きな軍事的不均衡が生じる。すでに米国からの強い要請が来ているかもしれないが、日本政府が自国民と世界のために決断を下すべきである。

 あまりにも急な浜岡「全原発停止」の理由は、この指摘の通り、おそらく米国からの外圧であろう。この国は、外圧を受けねばなかなか変わらない。しかし、好転する変化であれば、わたしは外でも内でも歓迎である
 だが日本国民よりも、首都圏の在日アメリカ人と進駐軍の心配ばかりを、総理大臣が優先しているのであれば情けない。国民の安全と国益、そして世界平和への貢献を考えるのが、国家のトップの仕事であるはずだ。占領期の進駐軍に対するような行動では、この国の国民はあまりにも惨めである。

 「もう汚染されてしまったけれども、美しい日本列島をこれ以上穢さないために、この時代の暗がりを抜け出したいと思う。日本人がそう決意することこそ、今回の災害に温かい救援の手を差し伸べてくれた国際社会にたいする感謝と責任のしるしであろう」。石橋先生は述べている。

参考書 石橋克彦氏寄稿
○「世界」5月号 「まさに『原発震災』だ 根拠なき自己過信の果てに」
○「中央公論」5月号 「首都圏直下地震、東海・東南海・南海巨大地震の促進も否定できない」
<2011年5月7日>
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津波の歴史 11 「語り部」

2011-05-05 | Weblog
人間はたいてい、苦しいことや忘れたい記憶を、忘れようとします。苦痛ばかり背負っては、生きていくことがあまりにつらい。しかし、大切なことを後世に語り継ぐことは、未来の子々孫々の平安のために、つらくとも必要だと思います。確かにいまの時点では、まだ早いとは思います。復興事業のなかで、教育者や為政者などはぜひ未来に引き継ぐ事業として、留意をお願いしたい大切な事項であると思っています。現地で活躍中のボランティア有志の方々にも、ぜひ記録者としての役割りもぜひ意識してほしいと願っています。それらは未来への貴重な贈り物です。

 河田惠氏(元京都大学防災研究所長教授・関西大学社会安全学部長教授・阪神淡路大震災記念 人と防災未来センター長)は次のように記しておられます。
 災害の体験や経験は、起こった瞬間から風化がはじまる。災害を忘れることなく、現在に生き返らせるためには、語り継ぐことが大切である。
 河田氏がセンター長をつとめる「阪神・淡路大震災記念 人と防災未来センター」は、2002年の発足以来、この震災を語り継ぐことの大切さを認識し、ボランティアの「語り部」にお願いして、来館者に被災体験を語っていただいてきた。修学旅行でセンターを訪れた中学生や高校生の感想文には、いかに感動したかという文言があふれている。本物に接することが、いまの時代にはとくに重要なのである。
 いずれの被災地においても、各国政府や人々は、地域における市民の大災害の「語り継ぎ」を事業化する努力を開始すべきである。それによって過去の悲劇を再びくり返さずに済むことになるのである。また最大の長所のひとつは、大きなコストをかけなくても、できることである。
 インドネシアに人口7万8千人のシムル島がある。1907年に起きた大津波の教訓が、驚くべきことに「歌」になって受け継がれている。『海の水が引いたら、山に逃げろ』という知恵が歌詞になっている。2004年のインド洋大津波に際し、ほとんどの住民は30m以上の高台に避難した。死者はわずか7名に留まった。
 体験の記憶を風化させてしまうようでは、災害で亡くなった犠牲者に申し訳ない。亡くなった人たちが、わたしたちの記憶の中に生き続けることが、いま生きていることに対する感謝であり、二度と災害に遭遇しないことにつながる。災害体験や教訓を風化させてしまえばいつか、報告書を読まなければ理解できないような事態に陥ってしまう。

 民俗学者の赤坂憲雄氏は、「海のかなたより訪れしもの、汝の名は」と題してこの度の津波災害について、記しておられます。
 柳田國男『遠野物語』には、ひとつだけ、しかし珠玉の掌編小説といった趣きがある津波伝承が収められている。第99話である。明治29(1896)年6月15日、旧暦の5月節句の夜に、三陸海岸の村や町は大津波に襲われ、甚大な被害を受けた。岩手だけで1万8千人を越える死者を出している。
 船越村字田ノ浜(現・山田町)は戸数138戸のうち、遠く離れた高台の9戸を除き、低地にあった129戸すべてが流失・全滅した。死者は483人であったという(『注釈遠野物語』による)。
 遠野土淵村から田ノ浜に婿に行ったひとが、この大津波から1年ほど過ぎて、体験を語った事実譚である。その男、北川福二は「現在の事実」として、また「目前の出来事」として物語りしたにちがいない。

 『遠野物語』第九九話
 土淵村の助役北川清という人の家は字火石(ひいし)にある。代々の山伏(修験者)で祖父は正福院で、学者で著作も多く、村のために尽くした人である。清の弟の福二は、海岸の田ノ浜へ婿養子に行った。先年の大海嘯(大津波)に遭い、妻と子を失った。生き残ったふたりの子とともに、元の土淵村の地に、小屋を建てて一年ばかりたったころのことである。
 夏のはじめの月夜に便所に立ったが、海から遠く離れた地であるのに、彼が行く道は波の打つ渚であった。霧がひろがってきたが、その霧の中から男女ふたりの者が近寄って来た。よく見ると、女はまさしく、津波で亡くなったわが妻である。
 思わずその後をつけて、はるばると船越村の方へ行く崎の洞のある所まで追って行った。妻の名を呼んだところ、振り返ってにこりと笑った。
 男はと見ると、これも同じ里の者で、津波の難で死んだ者である。自分が婿に入る以前に、互いに深く心を通わせていたと聞いたことがある男である。
 「いまはこの人と夫婦になりました」と彼女は言った。福二は「子どもは可愛くないのか」と聞く。すると女は少し顔の色を変えて泣きだした。(以上は片瀬による現代語表記、以下原文ママ)
 死したる人と物言ふとは思はれずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦へ行く道の山蔭を廻り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりしと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後久しく煩ひたりといへり。

 赤坂氏は第九九話について、次のように綴っている。
 字数にしてわずか六百字にも満たぬ掌編であるが、その描き出す物語世界の味わいはとびっきりに深く、豊穣であり、せつない。『遠野物語』のなかでも、傑作のひとつに数えられるはずだ。この小さな物語によって、明治29年の「三陸大津波」はくりかえし記憶を蘇らせる。物語は記憶の大切な媒体である。
 幸いにも生き延びることができた者たちこそが、語り部となって、次代へと記憶を受け継いでゆく。物語りすることが魂鎮めである。
 いまはまだ、それどころではない。しかし、やがて喪に服しながら、わたしたちは広やかな記憶と物語の場をめざして、動きはじめる。それを鎮魂の時空へと組織してゆかねばなるまい。

参考書…………
○河田惠『津波災害―減災社会を築く』2010年12月刊 岩波新書
 この本は昨年の暮れに出版されました。もっと早く刊行され、たくさんの人たちに読まれていたら、被害はもっと少なかったのではないか。悔やまれてなりません。津波被害を知るためのおすすめの一冊です。
○赤坂憲雄「海のかなたより訪れしもの、汝の名は」 月刊『群像』5月号所収 東日本大震災特別寄稿 講談社
<2011年5月5日>
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津波の歴史 10 「列島各地 津波の高さ」

2011-05-03 | Weblog
これまでに日本列島を襲った大津波は、数え切れないほどにあります。観測のはじまった明治以降はデータや記録が残っていますが、江戸時代以前は文書などに記された文献のみ。また地震津波考古学が古い痕跡を、発掘で証明しているのが自然科学的貢献です。各地のデータがどんどん蓄積されることが、沿岸部住民の安全のために重要だと思います。日本全国「津波の高さマップ」ができればいいのだが、と思っています。1枚ものの日本地図の海岸部に、過去の津波の高さを記入するのです。
 なお注意すべきは、いくら大きな津波が到来しても、無住地や過疎の地域は、文献に記載されることがまずないということです。現代では、そのようなかつての僻地や湿地帯も開発され、たくさんの住民が暮らしています。しかしどこであろうが、海岸部の低地は、被災の歴史的記録がなくとも「津波てんでんこ」を忘れないようにしなければ。
 今回は「津波の歴史 10」とし、過去に日本列島を襲った大津波の各地の高さ、原則 5m以上の記録を並べてみました。波高はおもに『日本被害津波総覧』第2版 渡部偉夫著 東京大学出版会 1998年を参考にしました。なお 3月11日の高さデータは、さまざまの情報を寄せ集めています。

追記:津波の高さにつきまして、修正版を作成しました。
「日本列島襲来津波高記録 新版」(津波の歴史 29)、2012年1月12日。こちらもご覧ください。


<宝永津波> 宝永4年10月4日 1707 「五畿七道大地震」
 津波が伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大であった。死者は2万人以上。家屋倒壊流出6万、紀伊半島などの波高は10mに達した。土佐の津波被害が最大。遠州灘沖および紀伊半島沖でふたつの巨大地震が、同時に起こった可能性が強いといわれています。
「東京都」 八丈小島6m
「静岡県」 下田6m 湊5m 八木沢8~10m 内浦5.5~6m 三保5m 相良6~8m 白須賀5m
「三重県」 大湊5m 国府7~8m 神津佐5m 五ヶ所浦5m 贄浦7~8m 村上7~8m 神前浦7m 古和浦7m 錦6m 長島5m 須賀利5m 尾鷲8~10m 矢ノ浜6~7m 九木5~6m 賀田8~9m 曽根5m 新鹿8~10m 大泊6m
「和歌山県」 勝浦6~7m 古座5m 串本5~6m 田並5m 和深5m 江住5m 周参味5.5m 新庄6~7m 南部6m 印南5.8~6.3m 比井5m 由良5~6m 広5~6m 湯浅5m 海南5m
(参考:大阪市3m 尼崎市1.5m)
「徳島県」 牟岐6m 朝川6~7m 宍喰5m
「高知県」 甲浦5m 佐喜浜5m 室戸5.5m 安芸5m 岸本6m 由岐~浦戸5.8m 浦戸6m 宇佐8m 宇佐~下川口7.7m 須崎6m 久礼6m 上ノ加江5m 佐賀6m 下ノ加江5m 
「鹿児島県」 種子島6m

<八重山津波> 明和8年3月10日 1771 「先島諸島地震」
 八重山・宮古諸島に巨大津波が襲来し、石垣島宮良で波高85.4m、同島白保では60mに達したと記録されている。石垣島では住民の約半数の8300人が溺死。宮古諸島では2500人が水死。総死者は1万2千人にのぼったという記録がある。波高については学者間で意見がわかれるようです。あまりに高い数字は、遡上高ではないかと思います。いずれにしろ日本列島で記録された最高の波高です。
宮古島20m弱 
下地島15m前後 
伊良部島 佐和田18m 仲地10m 伊良部8m
池間島10m
多良間島20m弱
水納島10m以上
石垣島 東岸北端浦崎約30m 東岸中部15m以上 東部南部30m弱 東岸南西部10m 西岸6m
 (※宮良村85.4m 白保村60m 安良村56.4m 野原崎46.7m 大浜村44.2m 嘉良岳39.8m 伊原間村32.7m 玉取崎32.1m 平得村26m 真栄里村19.4m 登野城村12.2m 仲興銘村10.7m)
西表島 東岸5m
波照間島18m以上
竹富島5m
黒島10m以上

<安政東海津波> 安政1年11月4日 1854 「東海・東山・南海道地震」
 津波が房総から土佐の海岸を襲った。沼津から伊勢湾にかけての海岸被害が特にひどかった。伊豆下田では地震の1時間後に襲来して多数の家屋が流失したほか、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が大破。全体の死者は2千~3千人。住居の倒壊流失焼失は約3万と推定される。震源域が駿河湾深くまでまで入り込んでいた可能性があり、現在すでに100年以上経過しており、次の東海地震の発生、そして浜岡原発事故が心配されている。
「静岡県」 熱海市熱海6.2m/東伊豆町稲取5.4m/下田市下田6.8m/南伊豆町手石6.4m 入間13.2~16.5m 妻良6.5m/戸田村大浦5.1m/沼津市立保5m 重須6.7m 多比7.2m/清水市入江5.7m 三保5.2m/榛原町榛原5.2m/相良町相良5m 地頭方6.2m/浜岡町(注:中部電力浜岡原発)荒井6m 塩原新田6~7m/新居町大倉戸6m/舞阪市舞阪5.6m 本浦5.6m
「三重県」 鳥羽市堅神6m 鳥羽5.2m 安楽島7.8m 今浦5.8m 国崎21.1m/阿児町甲賀5m/大王町名田6m 波切5m 船越5m/志摩町和具7.9m 越賀10.9m/浜島町南張5.4m/南勢町田曽5m 神津佐5.7m 礫浦5m 相賀5m/南島町阿曽浦5m 慥柄6.9m 贄浦10.8m 神前浦6m 方座5m 古和浦6m/紀勢町錦7.3m/尾鷲市尾鷲6~8m 九木7.8m 早田9.3m 三木里5.5m 賀田7~9.6m 新鹿10m 大泊6m 二本島8m 曾根6.4m 梶賀5.5m
「和歌山県」 勝浦町勝浦6m 古座川町古座5.5m

<安政南海津波> 安政1年11月5日 1854 「畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道地震」
 前日に続いて32時間後、日本列島西南部に大地震「安政南海地震」が発生した。大津波は房総から九州まで襲来。死者は数千と推定されている。
また翌年10月2日には「安政江戸地震」が起き、津波はなかったが死者約1万という。大地震は続いて何度も発生することがある。現在の日本も地震活発期に入ったといわれている。貞観のころも活発であった。
「和歌山県」 古座川町古座川口7.5m 田原5.5m 袋6.5~7m 有田5m 江田5m 和深5m 江住5m 周参見5m 跡之浦5.5m 新庄6m 芳養5.5m/南部町植田5m 千鹿ノ浦6~6.5m 東岩代6.2m/御坊市南塩屋6m/印南町切目6m 印南6.6m/美浜町西川流域5m 三尾8.7m/日高町小浦5.4m 津久野浦5m/由良町7.5m/広村田町5m 
(参考:大阪市3m 尼崎市2.5m) 
「徳島県」 由岐町7m/牟岐町6m/海南市浅川7m/宍喰町5m
「高知県」 東洋町甲浦5m/安芸市5m/夜須町手結5m 高知市浦戸5m/上佐市宇佐8m/須崎市須崎5m/中土佐町久礼5.2m/佐賀町伊田7.5m/大方町上川口7.5m/大方町鞭6.4m/土佐清水市広域5~5.6m(下ノ加江 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)

<明治三陸津波> 明治29年6月15日 1896 「明治三陸沖地震」
 三陸地方地上の震度は3程度だったが、大津波が来襲した。津波地震だが、弱い揺れに油断したのが、大被害を招いたといわれている。2万人以上の住民が、ほとんど一瞬のうちに波に呑み込まれ命を失った。死者は、岩手県18158、宮城県3452、青森県343人。
「青森県」 階上村小船渡6m
「岩手県」 種市町川尻12m大浜 12m 八木10.7m 小子内20m/久慈市麦生26m 湊15.7m 二子23m 大尻23m 小袖13.7m 久喜12.2m/野田村玉川18.3m 堀内12.9m/普代村普代15.2m 黒崎18.1m/田野畑村羅賀25.8~29.1m 島ノ越17~23.6m/岩泉町小本5.4~8.2m 下小成20.4m/田老町小林12.9m 乙部8.5m/宮古市白浜8.5m 磯鶏6.1m 堀内12.2m 音部9.2m 千鶏17.1m 姉吉18.3m/山田町本町5.5m 田浜9.2m 船越10.5m/大槌町浪板10.7m 吉里10.7m/釜石市両国11.6m 釜石港5.4m 唐丹本郷14m 小白浜17.1m/三陸町吉浜24.4m 越喜米湾浦浜11.2~13.4m 甫峯15.3m 小石浜17.1m 砂子浜10.9m 崎浜15.7m 白浜38.2m 湊10.7m/大船渡市下船渡5.5m 細浦6.7m 末崎鴨巻13.8m 泊里11.1m 石浜12.8m/陸前高田市小友唯出10.7m 広田泊7.6m 集26.7m
「宮城県」 唐桑町只越8.5m 石浜8.5m 小鯖7.5m 舞根5.9m 大沢6.4m/本吉町大沢8.2m 大谷5.2m/歌津町石浜14.3m 名足9.4m 中山10.8m/志津川町藤浜5.2m 寺浜6.8m/北上町大指5.2m 小泊6.2m/雄勝町荒8.8m
 ※遡上波高: 大船渡市綾里38.2m 陸前高田市28.7m

<関東大震災> 大正12年9月1日 1923
 死者行方不明者は14万2807人。津波も沿岸を襲った。
「千葉県」 洲崎8.1m 相浜9m 布良6m
「東京都」 伊豆大島岡田12m
「神奈川県」 三崎6m 葉山5.4m 鎌倉6m 稲村ヶ崎6m 片瀬6m 江ノ島5m 鵠沼6m 岩村6m 真鶴6m
「静岡県」 熱海12m 下多賀7.2m 網代8m 宇佐美端村7.5m 伊東9m 川名6m 稲取南6m

<昭和三陸津波> 昭和8年3月3日 1933
 地震の被害は小さかったが、津波被害が甚大であった。三陸沿岸の死者行方不明者3064人。家屋流失4034、家屋倒壊焼失浸水6051、船舶流失沈没破損8078.
「北海道」 広尾町タンケソ6m/襟裳町咲梅6m ドンドン岩9.1m トセップ9.1m ルーラン5m
「青森県」 階上村大蛇6m 追越6m
「岩手県」 種市町川尻7m 大浜7m 八木6m 小子内6.6m 中野7m/久慈市侍浜村10m 麦生6.6m 大尻6.5m 二子6.5m 小袖8.2m 久喜5.5m/野田村玉川5.8m/普代村堀内9.1m 大田部13m 普代11.5m/田野畑村明戸16.9m 羅賀13m 平井賀8.2m 鳥ノ越9.7m/岩泉町小本村小本13m 茂師17m 下小成15.4m/田老町田老村下摂侍7m 乙部7.6m 山老10.1m 小林9.8m 舘ヶ森8m 青砂里5.6m 樫内7m/宮古市崎山村女遊戸7.5m 重茂村音部7.6m 里10.9m 千鶏13.6m 石浜12m 姉吉12.4m/山田町大沢6m/船越村船越6m 田浜6m 吉里6m 浪板5.5m/釜石市鵜住居村室浜5.2m 片岸5.4m 両石6.4m/釜石市釜石町釜石5.2m/唐丹村花露辺8.3m 小白浜6m 本郷6m 荒川7.8m/三陸町吉浜村根白6.1m 本郷9m/三陸町越喜来村浦浜5.6m 崎浜7.8m 浦嶺8.2m 砂子浜7.9m/三陸町綾里村小石浜13.6m 白浜23m 綾里大久保28.7m(※最大の遡上波高 ) 石浜9m 田浜7.7m/大船渡市赤崎村合足7.3m/末崎村舟河原8.9m 門ノ浜6.5m 泊里5.7m/陸前高田市広田村根崎集11.2m「宮城県」 唐桑村只越7m 石浜5.6m/本吉町小泉村歳内7.5m/歌津町歌津村田ノ浦5.4m 石浜7.6m 中山6.1m 馬場6.7m/雄勝町十五浜町荒10m/牡鹿町大原村大谷川5.2m
(参考「福島県」相馬市磯部町1.5m/浪江町請戸村1.5m/富岡町富岡1.2m/広野町久之浜町1.5m/いわき市豊間村1.2m 江名村中之作1.2m)

<東日本大津波> 2011年3月11日
 これまで原則 5m以上を記載しましたが以下、未満もいくらか記しました。これからも数字は続々と発表されます。
 ところで、死者行方不明者は25731人。うち行方不明者は、いまだに10969名(5月1日現在)
「青森県」 八戸港6.2m 八戸港周辺8.4m 八戸白浜海水浴場8.8m/階上町大蛇漁港10.7m/おいらせ町深沢地区8.8m/三沢市三沢漁港7.4m
「岩手県」 久慈港8.6m 宮古16m 釜石9.3m 釜石港9.3m 大船渡11.8m 大船渡港9.5m 陸前高田市民体育館15.8m
 ※遡上波高:宮古市姉吉38.9m(下記 40.5m) 宮古市田老小堀内37.9m 田老和野35.2m 田老青野滝34.8m 宮古市松月31.4m 真崎30.8m/田野畑村羅賀地区27.8m 田野畑村島越27.6m/大船渡市綾里30.1m/野田村37.8m/陸前高田市高田町18.9m/大槌町役場付近11.8m
「宮城県」 女川漁港14.8m 女川町18.3m 女川原発14m 石巻市鮎川8.6m 石巻市15.4m 石巻港5m 仙台港7.2m 仙台新港8m 仙台塩釜港14.4m 仙台空港周辺12m(遡上高:女川町34.7m)
 
「福島県」 相馬港9.3m 福島第1原発14~15m 福島第2原発6.5~14m「茨城県」 平潟7.2m 磯原4.8m 日立4.2m 大洗4.5m 鹿島港5.7m
「千葉県」 銚子3m 外川5.3m 飯岡7.6m 旭市7.6m 太東4.2m 勝浦2.2m 根本2.6m
(参考1m以上 苫小牧2.5 根室2.8 釧路2.1 十勝2.8 東京1.3 横浜1.6 御前崎1.4 名古屋1 那智勝浦1.3 土佐清水1.3 宮崎1.6)
<2011年5月3日 南浦邦仁 記 3・11の津波高はその後も追記しています
<3月11日の津波高について、「津波の歴史23 3月11日津波の高さ」で続報しました。6月19日記。ご参考まで>

 ※日本経済新聞5月28日が、広島大学の調査結果(27日に日本地球惑星科学連合大会で発表)を報じました。
 調査方法は、震災後の衛星写真をもとに、撮影された砂や瓦礫などが漂着した地域を、国土地理院の測量データと照合し、津波の到達した高さを計算した。以下、各福島県下各地の遡上高は推定値。
 大熊町 22m
 双葉町 15m
 富岡町・楢葉町 13m
 南相馬市 18.5m
 浪江町 11m <5月29日追記>

 ※遡上高最高記録。アサヒ・コム5月30日によると、全国津波合同調査チーム(京都大学防災研究所・森信人准教授ほか)は、宮古市重茂姉吉地区で、40.5mと発表した。海岸から520m奥の斜面を、津波は駆けのぼっていた。<5月31日追記 南浦邦仁>
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津波の歴史 9 「東電 賠償免除」

2011-05-01 | Weblog
 東京電力に提出された損害賠償の請求に対して、東電は支払い義務はない。そのような姿勢をみせています。各JAしかり、地元の個人事業者に対しても。
 原子力損害賠償法第3条に、異常に巨大な天災地変によって原子力事故が起きたとき、電力会社の損害賠償責任は「この限りではない」。すなわち免除免責されるという一文です。本日は、この問題を考えてみます。
 なお今回からは連載タイトルを、ふたつに分けます。ひとつは「3・11 日本」。津波の話題以外を記すときに、このタイトルとします。次回は №16。
 もうひとつは「津波の歴史」。津波関連の記載に用います。今日は№9。

 東電の副社長、武藤栄氏は3月21日の記者会見で「津波の想定波高は5.4~5.7mだった。これは土木学会指針に基づいて適切に対策していたものだ。その指針に基づく想定を3倍近くも上回る波高14~15m。異常に巨大な天変地異によって、原発事故が引き起こされた。」
 すなわち原賠法3条にいう「異常に巨大な天変地異」が原因なので、東電は損害賠償を免除されるという見解である。

 東電の清水正孝社長は、4月13日の記者会見で、記者の質問「前回の発言では津波高が想定を超えるレベルだったと発言された。津波に対する基準を見直してしかるべきと言ったが、津波のレベルが想定外という発言を撤回する気持ちはあるか。東電の津波に対する備えが、甘かったのではないか」
 清水「津波対策はこれまでしかるべき基準に沿ってやってきた。今後、今回の事故にかかわる、これまでの対策について検証される。その上できちんと評価される問題である」
 記者「津波対策は、土木学会の指針に基づいてやったということと認識しているが、経営判断として上乗せした対策はしなかったのか」
 清水「きちんと評価した上で、見直すべきは見直すべきと考えている」
 記者「土木学会が悪いといっているように聞こえるが」
 清水「指針はひとつの尺度。尊重すべきものとして話している。それを上回る対策が十分でなかったと申し上げている」
 私見だが、土木学会の指針が安全な原発の基準ではないはずである。強制する基準でも、ペナルティを科す規定でもないはずだと思うのだが。

 土木学会とは何か。環境エネルギー政策研究所の田中信一郎氏が記しておられる。タイトルは「『未曾有の津波』は東京電力を免責するのかー土木学会指針と電力業界の関係」(3月22日)
 東電の武藤栄副社長は3月21日の記者会見で、最大5.4~5.7mの津波を想定していた。この想定は土木学会の指針に基づくもので、そこから「未曾有の津波」と表現しておられるようだ。実際の波高は14~15mと約3倍であった。
 この発言は同日夕方、枝野幸男官房長官が記者会見で、生産者への補償について「まずは東京電力に責任を持っていただく」と発言した直後のものであり、農家への補償などについては「明言を避けた」ことから、間接的に東京電力に責任がないことを示したものと思われる。
 東電の見解を支えているのは「土木学会指針」という1点のみである。「土木学会」とは何者か?
 学会ホームページ(3月22日閲覧)では、委員25名の内、電力事業者が11名(沖縄電力を除く全9社と日本原子力発電、電源開発)。幹事5名には東電関係者もいる。役員32名には、鉄道、道路、電力、ゼネコン、コンサルタントなど、受発注事業者が12名を占める。
 また会長経験者は21名(1990年以降)だが、東電原子力建設部長だった人が2名、土木学会長についている。
メンバー構成をみるだけで、土木学会の「学術性」には疑問符がつく。業者が学者や行政と共同でつくった学会が土木学会である。公共性にはおおいに問題がある。
 田中氏は「<土木学会指針=科学的視点+対象コスト>という式は、発注事業者(電力会社)の許容する範囲で、指針が評価・策定されることを意味する。当然、科学的な基準などを弱める方向で作用するものだ」
 土木学会の指針は「お手盛り」であろうという疑いはぬぐえない。「よって、土木学会指針を根拠として、東京電力が福島第1原発の事故における補償を免責されるということは、決して認められるべきではない」

 土木学会の阪田憲次会長らは3月23日、会見を開いた。同時に声明を出したのは、地盤工学会と日本都市計画学会の3学会。阪田会長は「安全に対して想定外はない。われわれが想定外という言葉を使うとき、専門家としての言い訳や弁解であってはならない」と語った。
 また自然の脅威に恐れの念を持ち、防災施設ハードのみならず、ソフトも組み合わせた対応という視点が重要であると指摘した。

 なお指針は、土木学会原子力土木委員会津波評価部会が2001年に取りまとめた報告書「原子力発電所の津波評価技術」だそうだが、筆者未見です。その内に調べようと思っています。
 それと土木学会はつい先日の4月1日から、「公益社団法人」として認定されたそうです。本来は、公益に貢献することの少なかった法人だったはずです。

 以前に朝日コムの速報でお知らせした、米国で東電が発表した津波高の想定について、ネット情報を転載します。(「momoのブログ」 4月20日付。ネットで再度探しましたが手違いか見当たりません。プリントアウトからの入力です)
 タイトルは「2006年7月 東京電力の福島原発に想定を超えた大津波が押し寄せる事態を長期的な可能性として認識」。東電が2006年にアメリカの学会で発表したレポートです。
 It is meaningful for tsunami assessment to evaluate phenomena beyond the design basis as well as seismic design. …… と始まる英文報告書。和訳ダイジェストは、

 「津波の影響を検討するうえで、施設と地震の想定を超える現象を評価することには大きな意味がある。」というショッキングな書き出しである。
 東京電力の原発専門家チームが、同社の福島原発施設をモデルにして、日本における津波発生と原発への影響を分析した。2006年7月、米フロリダ州マイアミの国際会議で発表した英文レポートである。
この調査の契機になったのは、2004年のスマトラ沖地震、インドネシアとタイを襲った地震津波は、日本の原発関係者の間に、大きな警鐘となって広がった。
 とりわけ大きな懸念があったのは、東電の福島原発だ。40年前に建設された同施設は、太平洋に面した地震地帯に立地しており、その地域は過去400年に4回(1896、1793、1677、1611)、マグニチュード8あるいはそれ以上と思われる巨大地震にさらされている。
 こうした歴史的なデータも踏まえて、東電の専門家チームが今後50年以内に起こりうる事象を分析。その報告には、次のような可能性を示すグラフが含まれている。
○福島原発は、1-2mの津波に見舞われる可能性が高い。
○9m以上の高い波がおよそ1パーセントかそれ以上の確率で押し寄せる可能性がある。
○13m以上の大津波は、0.1パーセントかそれ以下の確率で起こりうる。
 さらに15mを超す大津波が発生する可能性も示唆。2006年7月の時点で、東電の原発専門家チームが、福島原発に5.7mを大きく超える巨大津波が来襲することを、予言していたのである。
 We still have the possibilities that the tsunami height exceeds.
 東電の経営者がこの事実を知らないわけがない。ウソデタラメは、もう止しましょう。

ISBN 0-7918-4246-0
Proceedings of the Fourteenth International Conference on Nuclear Engineering and 2006 ASME Joint U.S.- European Fluids Engineering Summer Meeting: Safety and Security; Low Level Waste Management, Decontamination and Decommissioning; and Nuclear Industry Forum (keynote, Plenary, Panel, and Poster Sessions) v. 5: Miami, Florida USA - July 17-20, 2006 Asme Conference Proceedings ( 2006Jul01)
税込2万円ほどのペーパーバックですが著者は、
Toshiaki Sakai:Tomoyoshi Takeda: Hiroshi Soraoka :Ken Yanagisawa [Tokyo Electric Power Company(Japan)]:Tadashi Annaka[Tokyo Electric Power Services Co..Ltd.3-3.Higashiueno 3-Chome.Taito-ku.Tokyo 110-0015 (Japan)]

 福島第1原発が大津波に襲われる可能性は、繰り返し指摘されていた。「過去に起きた大津波について、全く触れられていない。納得できない」。原発の耐震設計を見直すため、2009年6月に開かれた経済産業省の専門家会合。産業技術総合研究所の活断層・地震研究センターの岡村信行センター長は、東電が示した福島第1の見直し案を厳しく批判した。
 産総研の調査で約1100年前にも巨大地震が起き、宮城ー福島県沿岸を中心に「貞観津波」と呼ばれる津波が起きたことが判明していた。仙台平野などでは内陸3~4キロまで浸水する大津波だったが、見直し案はこれを無視していた。翌月まとまった報告書には結局、盛り込まれなかった。大津波を想定した対策を先送りされたのだ。
 大津波への危惧は、国会でも取りあげられていた。吉井英勝衆議院議員(共産党)は5年前、津波や地震で原発の電源が失われる危険性を指摘した質問主意書を出した。だが、政府の危機感は薄かった。答弁書は「原子炉の安全性は経産省が審査し、その妥当性を原子力安全委員会が確認している」と木で鼻をくくったような内容だった。(読売新聞4月10日)

 貞観11年5月26日(869)の大津波について、古代史家の上田正昭先生(京都大学名誉教授)が、京都新聞4月30日「天眼」に寄稿しておられた。一部引用します。
 『日本三代実録』は、貞観の地震と津波を「人民叫呼、伏して起きる能(あた)わず」、「家仆(たお)れて圧死す」、「海口哮吼(かいこうこうこう)」し、「驚濤涌潮」と表現し、「船に乗るに遑(いとま)あらず、山に登ること及び難し」と記して、溺死者があいついだと述べている。菅原道真が編集した『類聚国史』災異・地震の項には、貞観年間(859~877)の地震の記事がきわめて多く、貞観地震が長く続いたことを物語っている。

 時事通信3月17日が報じたところでは、「国際原子力機関IAEAの当局者が約2年前に、日本の原発の耐震安全指針は時代遅れで、巨大地震が発生した場合は、持ちこたえることができない可能性がある」と警告していた。

 福島第1原発を襲った地震は、地上では外部電源の高圧線鉄塔を倒壊させた。土台のセメントが低質であった可能性も指摘されている。重要建屋の基部セメントも危惧されている。そして配管や接合部もダメージを受けた可能性が指摘されている。それらの決定的破損は、津波襲来直前の重大事故である。

 石橋克彦氏(神戸大学名誉教授)は原子力安全委員会のメンバーだったとき、原発耐震分科会でのことをつぎのように述べている。
 福島第1の炉心の圧力容器と格納容器の耐震設計は、想定される最大の地震動S2を基準にしているのに、いざというときの頼みの綱、緊急炉心冷却装置ECCSはそれより一段低いS1が基準になっている。これでは緊急時に役に立たないのではと、分科会席上で指摘した。対する専門家委員の答えは「原発の素人には分かることではない」。石橋先生は地震学のトップ学者である。

 地震が起き、低級セメントの上に建てられていた高圧線鉄塔が倒れ、また緊急炉心冷却装置も激しい揺れに耐えきれなかった。そこへ15m近い津波が襲ってきた。地下に設置されたすでに不調の非常用電源機がすべて水没してしまった。
 推測で書いていますが、福島第1の「想定外」は、このような流れで起こったのではないでしょうか。
 いずれにしろ、巨大事故の原因究明は、徹底的に正確に行い「想定」の外をひとつでもつくってはいけないと思います。絶対に、隠したり偽ってはいけないと、そのように強く願っています。
<2011年4月30日 南浦邦仁 記>
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