国立民族学博物館「ウメサオタダオ展」に行ってきました。昨日、雨の土曜日のことです。朝から神戸で仕事の打ち合わせがあったのですが、早々に終わりました。もともと休日にしていたのですが、京都への帰路ふと、梅棹忠夫展を思い出しました。京都の友人が長年、梅棹先生に師事していました。彼が招待券を3枚もプレゼントしてくれたのです。ずっとサイフに入れていたことを思い出しました。
モノレールを降りて駅前スロープから見た太陽の塔は、久しぶりの再会です。40年前、万博の記憶が走りました。
梅棹展図録に面白い記事があります。メラネシアの儀礼用人形を同館が所蔵しておられるのだが、太陽の塔にそっくりです。この人形を収集した石毛直道が岡本太郎にこれを見せて、「太陽の塔に実によく似ている」と言ったら、太郎はメラネシアの「彼らは昔から岡本太郎のまねをしていたのだな」(図録87ページ)
京都河原町三条下に酒場リラ亭がかつてありました。若き石毛先生もよく通ったバーですが、『酒場ミモザ』のタイトルでマンガになりました。石毛先生に「リラ亭がマンガ化されてます」とわたしが言ったら「知りません」とのこと。本を郵送したことを思い出しました。
会場のガラスケースにはコンニャクが一個、展示されていました。梅棹「コンニャク情報論」です。『梅棹忠夫著作集』全22巻のうち、第14巻「情報と文明」の情報論です。
蒟蒻という食物は、栄養というものにまったく無縁な喰い物です。食物繊維がゆたかなために、健康食品としてもてはやされるしかない。しかし食べれば十分、腹の足しになるし、胃も腸もぜん動し、いい内部運動になる。コンニャクの効能はそれだけで、滋養には無縁である。「情報」も「コンニャク」と同じであると、梅棹はいう。「文化」もコンニャクではないかと、わたしは思う。
「生物が感覚器官で受けた信号を咀嚼・解釈・編集したものが情報であり、こうした脳神経における情報処理こそが生ける証だと(梅棹は)言う。コンニャク情報や情報の価値を論じた原点はそこにある。…情報を発信するのも、アマチュアリズムに基づく自己表現の欲求からであり、相手が存在するかは関係ないと喝破した。現在のブログ時代はこれを示す。」(久保正敏「図録」138ページ)
そうだそうだ、とアマチュア実践者のブロガーとして、おおいに同意いたします。
長尾真は次のように記しています。(図録78頁~)
梅棹は「情報は教えてしまったらお終いだから、教える前に木戸銭をとるのだ」と、笑いをさそうようなことを言って、情報産業のもつ特徴、工業製品との違いを明らかにした。
彼がもっとも言いたかったことは、情報「お布施論」だったのではないだろうか。情報の値段は情報を与える側と受け取る側の、それぞれの格によって決まる。
「我々は梅棹の築いた文明論のレベルを乗りこえて、安心・安全を含めた人間の心に密着した価値を扱う文化論的立場からすべてのものを見なおすとともに、そのような立場からの産業論を試みるべき時代に来ているのではないだろうか。情報が終わりではなく、その次に出てくるものは人の心であるから、心の時代、正しい言葉の意味での、情報産業の時代になっていってもおかしくないわけである。」
「ウメサオタダオ展」は6月14日まで開催。招待券が手元にまだ2枚あります。日ごろの片瀬をご存じの方で希望者は、一声かけてください。
それともうひとつプレゼントがあります。修理して間なしのプリンターがまた故障。メーカーから連絡があり「古い機種なので、もう部品がありません。無料で新製品を進呈します」。うれしい電話でしたが、PC接続の手続きがやっかいです…。それと互換性のないインクトナーがごっそり残ってしまいました。
招待券同様、希望者にカートリッジを進呈します。CANON PIXUS BCI 320 321。
<2011年5月29日>
モノレールを降りて駅前スロープから見た太陽の塔は、久しぶりの再会です。40年前、万博の記憶が走りました。
梅棹展図録に面白い記事があります。メラネシアの儀礼用人形を同館が所蔵しておられるのだが、太陽の塔にそっくりです。この人形を収集した石毛直道が岡本太郎にこれを見せて、「太陽の塔に実によく似ている」と言ったら、太郎はメラネシアの「彼らは昔から岡本太郎のまねをしていたのだな」(図録87ページ)
京都河原町三条下に酒場リラ亭がかつてありました。若き石毛先生もよく通ったバーですが、『酒場ミモザ』のタイトルでマンガになりました。石毛先生に「リラ亭がマンガ化されてます」とわたしが言ったら「知りません」とのこと。本を郵送したことを思い出しました。
会場のガラスケースにはコンニャクが一個、展示されていました。梅棹「コンニャク情報論」です。『梅棹忠夫著作集』全22巻のうち、第14巻「情報と文明」の情報論です。
蒟蒻という食物は、栄養というものにまったく無縁な喰い物です。食物繊維がゆたかなために、健康食品としてもてはやされるしかない。しかし食べれば十分、腹の足しになるし、胃も腸もぜん動し、いい内部運動になる。コンニャクの効能はそれだけで、滋養には無縁である。「情報」も「コンニャク」と同じであると、梅棹はいう。「文化」もコンニャクではないかと、わたしは思う。
「生物が感覚器官で受けた信号を咀嚼・解釈・編集したものが情報であり、こうした脳神経における情報処理こそが生ける証だと(梅棹は)言う。コンニャク情報や情報の価値を論じた原点はそこにある。…情報を発信するのも、アマチュアリズムに基づく自己表現の欲求からであり、相手が存在するかは関係ないと喝破した。現在のブログ時代はこれを示す。」(久保正敏「図録」138ページ)
そうだそうだ、とアマチュア実践者のブロガーとして、おおいに同意いたします。
長尾真は次のように記しています。(図録78頁~)
梅棹は「情報は教えてしまったらお終いだから、教える前に木戸銭をとるのだ」と、笑いをさそうようなことを言って、情報産業のもつ特徴、工業製品との違いを明らかにした。
彼がもっとも言いたかったことは、情報「お布施論」だったのではないだろうか。情報の値段は情報を与える側と受け取る側の、それぞれの格によって決まる。
「我々は梅棹の築いた文明論のレベルを乗りこえて、安心・安全を含めた人間の心に密着した価値を扱う文化論的立場からすべてのものを見なおすとともに、そのような立場からの産業論を試みるべき時代に来ているのではないだろうか。情報が終わりではなく、その次に出てくるものは人の心であるから、心の時代、正しい言葉の意味での、情報産業の時代になっていってもおかしくないわけである。」
「ウメサオタダオ展」は6月14日まで開催。招待券が手元にまだ2枚あります。日ごろの片瀬をご存じの方で希望者は、一声かけてください。
それともうひとつプレゼントがあります。修理して間なしのプリンターがまた故障。メーカーから連絡があり「古い機種なので、もう部品がありません。無料で新製品を進呈します」。うれしい電話でしたが、PC接続の手続きがやっかいです…。それと互換性のないインクトナーがごっそり残ってしまいました。
招待券同様、希望者にカートリッジを進呈します。CANON PIXUS BCI 320 321。
<2011年5月29日>