ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

大原野神社

2007-11-25 | Weblog
 大原野は、野を略して大原と古歌で詠まれたことは前に記したが、『万葉集』の編者・大伴家持(おおとものやかもち)も、
  大原や せがいの水を手にむすび 鳥は鳴くとも 遊びてゆかん
「せがい」は、大原野神社境内の名水「瀬和井(せがい)」。いまも藤の木の根もとに清水が湧く。「鳥が鳴く云々」は、桓武天皇がたびたび大原野の地で鷹狩をして遊んだことによるのであろう。いずれにしろ、洛西の大原野と、洛北の大原の歌は、読み解かなければ、取り違いがおこるので要注意である。
 大原野を大原というのには、訳があるのだろう。周辺の地名をみると、大枝(おおえ)、老い(おい)の坂、大原野……。この辺りはかつて、「おおい」「おおひ」と呼ばれていたのが、おおえ、おい、おおはら、に転じたのであろう。いずれも「おお」「おほ」であるが、このことはいつか解明したい。宿題のひとつである。
 さて大原野神社だが、桓武天皇は奈良から、いまの向日市を中心とする長岡京(784~794)に遷都した。そのころたびたび大原野で鷹狩に興じたのだが、皇后の藤原乙牟漏(おとむろ)が嘆いた。
「そんな遠い田舎に都を移したら、私は困ってしまいます。藤原の氏神・春日大社にお参りするのが大変になってしまいます。」
 藤原氏出身の妻の苦情から、藤原の氏神を勧請したのが、大原野神社のはじまりであるとされている。いつの時代でも、妻の苦言に夫は弱い。
 この社には近年まで、春日大社から贈られた鹿が数頭飼われていた。先日、神主さんに聞いたところ、平成七年に最後の一頭も亡くなったとのこと。境内の鹿園は、いまでは畑になってしまっている。
 また面白いのが、狛犬である。大原野神社では、石像は犬ではなく、鹿である。一対の苔むした鹿が、本殿前で守護している。「狛鹿」である。
 いつのことだか、筆者は大原野神社の鹿について、興味深い逸話を聞いたか、読んだことがある。桓武天皇の長岡京遷都に先立って、春日大社の神鹿が何頭かぴょんぴょん跳ね飛び、はるばるこの地までたどり着いた。それで社を築く地を、ここに決めたという。古き時代、鹿を神の使いとし、耳は神の声を聞く神耳と考えていた。鹿を卜に使い、地を選ぶことは、おおいにありうる話である。
 この伝説をどこで知ったのか、もう記憶にないのだが、神主さんに聞いてみた。「実に面白いですね。ただはじめて聞く話です。その逸話、使わせてもらっていいですか」。わたしは「どうぞ。どうぞ」、うれしくなってお答えした。
 そのうち、新しい鹿伝説が、大原野に流布定着するかもしれない。しかし出典が不明なのが気がかりである。ご存知の方があれば、ご教示願いたい。
 それと鹿のことであるが、春日大社から再び鹿が贈られることを願う。なにせ奈良公園には、掃いて捨てるほどに鹿がいる。<2007年11月25日>




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大原と大原野

2007-11-23 | Weblog
「片瀬さんは、京都のどちらにお住まいですか?」と聞かれると、答えに窮する。住所は、京都市西京区大原野だが、「大原野です」などと答えようものなら、「大原ですか。三千院、いいところに住んでおられるのですね」、などと言われてしまう。大原は洛北、大原野は洛西、西山の麓で、まったく方角が違う。歌謡曲♪京~都~大原、三千院。恋につかれた女がひとり~の影響だろうが、よく間違えられる。
 祇園あたりから深夜にタクシーに乗った酔客が、「大原野へ」とひとこと言って寝入ってしまったことがあるそうだ。「お客さん、そろそろ着きますよ」と運転手に起こされて窓外を見ると、そこは見知らぬ光景の大原。運転手は無料で、洛西の大原野まで送り届けたという笑い話を、聞いたことがある。
 大原野の記述は古い。延暦十一年(792年)、後に平安京をひらく桓武天皇が「遊猟于大原野」とある。桓武は長岡京遷都以前から、たびたびこの地を訪れ、狩をしたようだ。彼の母・高野新笠の墓も近くにあるが、桓武と新笠、母と子のことは、またその内に書きたいと思っている。
 ところで、王朝時代においても、大原と大原野は、混乱する。歌では、野を省略して、大原野を単に大原と、うたうことが多い。
 
 紀貫之「後撰集」は、
  大原や 小塩の山の小松原 はや木高かれ 千代の蔭見ん
 在原業平「古今集」では、
  おおはらや 小塩の山も今日こそは 神代のことも 思ひ出づらめ
 
 ともに小塩山(おしおやま・大原山)を詠いこんでいるので大原野と知れるが、近世初期のひと・木下長嘯子の歌などは、歴代天皇の鷹狩「野辺の行幸」から推測するしかない。
  すみれつみに 春は来てとへ 大原や 野辺の御幸の路もみがてら
 
 大原野には古社・大原野神社がある。久しぶりに自宅から徒歩で訪れた。大原野は広い。片道四十分もかかったが、田畑の多いこの野は、車よりも散策が楽しい。社の神主さんとは、愉快な対話もできた。次回は、大原野神社のことでも取り上げてみようかと、思っている。
<2007年11月23日 片瀬こと南浦邦仁>
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京都御苑の図書祠 

2007-11-18 | Weblog
 京都御所のある御苑は、森の博物館である。これまでに観察された野鳥は百種を超え、チョウ五十、トンボ二十、セミ八種以上などなど。
 最近に発見したのだが、御苑の一角に図書館がある。館といっても「祠(ほこら)」のような、実に可愛いい小さな建築物である。
場所は、御苑の東寄りの中ほど、新しく完成した京都迎賓館のすぐ北の森にある。まわりは下草の多い、こんもり繁った「母と子の森」。
「森の文庫」というのが正式名称だが、一辺二メートルほどの小屋の四辺が本棚になっており、数えてみると約六百冊ほどの本と紙芝居が並んでいる。管理者はおらず、良心や善意に支えられたオープン文庫なのがいい。盗難もなさそうである。屋根も桧皮葺風で風情がある。
 管理運営は、環境省京都御苑管理事務所。貸し出し制度はなく、すぐ近くの木製ベンチやテーブルで読む閲覧のみ。近ごろ少し寒くなってきたが、露天図書館なので、開館時期は四月から十一月まで。あと少しで、四ヶ月間の休館期間に入ってしまう。
 蔵書は子ども向けの本が主体だが、自然をテーマにしたものばかり。シリーズ本の一部を紹介すると、「えほん生物のせかい」「小さなずかん」「シートンどうぶつ記」「ファーブルこんちゅう記」「椋鳩十 動物どうわ」などなど。紙芝居は、演じるための木箱・舞台まである。おとな向け本も「日本の野生植物」「牧野富太郎植物記」などが揃っている。
 緑と紅葉に囲まれた図書祠を写真でお見せしたいのだが、残念ながらまだパソコンとデジカメが使いこなせない……。本当に残念である。

「森の文庫」案内
管理:環境省京都御苑管理事務所 TEL 075-211-6348
開館:四月~十一月 午前九時~午後四時
   閉館時には、四面のシャッターが下りてしまいます。
   雨天閉館
<2007年11月18日>
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幕末「金玉」三話

2007-11-11 | Weblog
坂本龍馬暗殺のことを前回に書きましたが、彼の手紙は実に楽しい。文久三年三月、二十九歳のとき、故郷土佐の姉・乙女にあてた手紙はなかでも、おもしろい。
「扨もへ(長いヘー)人間の一世ハがてんの行ぬハ/元よりの事、うんのわるいものハふろ/よりいでんとして、きんたまをつめわりて死ぬるものもあり。夫とくらべ/てハ私などハ、うんがつよくなにほど/死ぬるバへ出ゝもしなれず、じぶん/でしのふと思ふても又いきねバならん/事ニなり、今にてハ日本第一の/人物勝憐太郎殿という人に/でしになり、云々」
 この原文について読者から、実に読みにくい、意味がわからんというクレームがありました。現代語意訳をつけておきます。
「さてもさても、人間の一生は合点の行かないのは、本来のこと。運の悪い者は、風呂から出ようとして、睾丸を桶の縁にぶつけて割ってしまって死ぬ人もあります。それと比べて、わたしなどは、運が強く、死ぬなと思うような場に出ても死にません。自分から死のうと思っても、また生きなければならない次第になってしまい、いまでは日本第一の人物・勝麟太郎先生という方の弟子になり、云々」

 キンタマのすぐ後に、師匠・勝海舟のことを記しています。勝は九歳のとき、野良犬に片方の睾丸を喰いちぎられ、危篤状態になりました。龍馬はこの有名な実話を勝本人から聞いたうえで、キンタマのことを手紙に書いたのであろうと思います。
 子母沢寛『父子鷹(おやこだか)』では、道に倒れ意識のない麟太郎少年をみつけた町人が、「おう、こ奴あ犬に睾丸を喰い切られた」「えーッ。そ、そ、それあ大変だ」「何れにしてもこのまゝじゃ命にかゝわる。何処の屋敷の子供衆かあわからねえが、とにかく、おいらがところへ運び込もう。」
 駆けつけた藪医者は、「この子が後々天下の民に仕合を与える人間になるようなものを背負って生れて来ていれば、わしが放っておいても助かる。生きてこの世に何んの為めにもならぬ子ならば、わしがーいや、天下の名医がこぞって手当しても助からぬ。これが神仏の配剤と云うのじゃ。」
 麟太郎の父・小吉は怒り、つぎに呼ばれた医者・篠田玄斎が疵口を縫って一命はとりとめる。しかし少年の重篤は続き、やっと床から離れることができたのは、七十日も後のことでした。その間、小吉は毎夜、褌ひとつの素っ裸で近くの妙見堂まで走り、お百度を踏み、息子の平癒を祈りました。また麟太郎が熱を出すと、冬なのに「井戸水を何十ぱいも引っかぶって、からだを凍る程に冷やして、それでお坊ちゃまを抱いて熱をとったんだから、あなた方、こうきいただけでも涙がこぼれやしょう。」
 後の勝海舟、麟太郎少年は、父小吉の一念でもって一命をとりとめました。それにしても男の急所を瞬時に一撃するとは、さすが幕末期の犬はたいしたものです。

 文が長くなりますが、キンタマ三話目。江戸の小伝馬町に入牢していた毒婦・お辰(たつ)を海舟自身が尋問しました。江戸開城の直後、龍馬暗殺の翌年のことです。「三十歳あまりの女囚だが、おれはその罪状を聞かうと思って、わざわざ人を払ってその女と差向ひになつて訊問した。ところが、その女は、これまで誰にも話さなかったけれど、安房守様(勝海舟)だけには、お話申しませうと前置をして、さていふには、私の顔の綺麗なのを慕うてか、多くの浮れ男が寄りついて参るので、そのうち、金のありさうな奴には、心を許した風を見せ、○○の時に○○を捻(ひね)つてこれを殺し、金だけ奪ひ取つて素知らぬ顔をして居る。すると、医者が見ても屍体に傷がないから何とも致し方がない。この方法でもつて、これまでにちやうど五人殺しましたと白状した。実に大胆極まるではないか。」
 ○○はいうまでもない。あえて○○と記した海舟の表現には、彼の恥じらいと同時に、玉コンプレックスを感じてしまいます。
 お辰は何ともおそろしい女ですが、勝はお辰ほか二名の囚人たちを「おれの感服した人間が三人ある」と『氷川清話』に記しています。腹上死は脳や心臓の興奮からのみ起こるのではない。医者は検死のおり、キンタマが正常であるかを確認する必要があります。
 勝は、お辰の話を聞いて、自身九歳の折の身の毛のよだつ記憶を、思い出したことでしょう。
 さて長話しの幕をそろそろ閉じますが、今回の三話はいずれも幕末の江戸のこと。しかし発信は「京都から」なので、お許し願いたい。
<2007年11月11日 南浦邦仁>

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坂本龍馬とノロウィルス

2007-11-03 | Weblog
十一月十五日は、坂本龍馬の命日です。河原町通蛸薬師下ル、いまは京阪交通社のある場所に、石碑「坂本龍馬/中岡慎太郎/遭難之地」があります。慶応三年(1867年)の師走は冷え込んだ。この日は、新暦に直すと十二月十日にあたります。いまの暖冬と違って、当時の京は、底冷えしたのです。
 龍馬は二三日前から、風邪に悩まされていた。新撰組など、体制派から狙われている彼の身を案じる友人に紹介され、越前福井から京都に戻った竜馬は、海援隊京都屯所であった材木商「酢屋」ではなく、後に受難することになる醤油商「近江屋」に仮寓していました。酢屋も近江屋も、ともに土佐藩御用達でした。そして近江屋前、河原町通の真向かいは土佐藩邸。近江屋の主人、井口新助は龍馬のため、自宅奥の土蔵を住みやすいようにと急遽改築した。龍馬のいた蔵二階の窓外には、はしごを沿え、危急時には裏の称名寺墓地に逃げ込めるようにまで工夫がなされていました。
 しかし龍馬は腹風邪のために厠の遠い土蔵から、河原町通に面する母屋二階に移ってしまう。下痢がひどかった。おそらく生牡蠣を食したための、ノロウィルス感染であろうと思います。
 十五日夜七時ころ、陸援隊隊長の中岡慎太郎が白川土佐藩邸・陸援隊屯所から龍馬を訪ねて来る。白川の藩邸は、いまの京都大学農学部のある所です。近江屋の斜め南向かいにある本屋「菊屋」に慎太郎は下宿していたことがあり、河原町に出るといつも彼は顔を出した。いまは、あぶらとり紙屋「象」という店がある所。この店前には碑「中岡慎太郎寓居跡」があります。
 菊屋の倅、十七歳だった峯吉は土佐藩士や他藩の志士連中からかわいがられた人物ですが、中岡の用をことづかり、八時ころに近江屋に帰ってくる。龍馬と慎太郎の雑談がはずむが、九時ころのこと、龍馬が峯吉にいった。「妙に冷えこむのう。一杯やって暖まろうぜよ。今日はわしの生まれた日じゃ。腹が減った。峯、軍鶏(しゃも)を買うて来よ」。慎太郎は、「それはめでたいのう。俺も腹が減った。みな一緒に喰おうぜよ」。十一月十五日は、龍馬・満三十二歳の誕生日でした。
 この晩の龍馬には、よほど寒気がこたえたようです。下に真綿の胴着を着ていましたが、これは近江屋の主人・新助の妻、スミが龍馬のために四条の真綿屋で買ってきたものでした。そして舶来絹の綿入れを重ねて着ていましたが、これは龍馬がかつて長崎で買い求めた品。その上に黒羽二重の羽織を着て、さらに火鉢を引き寄せていました。龍馬はこの厚着のおかげで、胴体に傷を追うことはなかったのですが、身動きもままならず、額を深く左右に、また右肩などを斬られてしまいます。
 峯吉が木屋町四条の鶏肉屋「鳥新」から半時間ほど後に帰ってきたとき、刺客たちは龍馬、慎太郎、そして従僕の山田藤吉の三人を斬り倒し、去った後でした。龍馬はすでにこと切れていました。峯吉と新助は手分けして志士仲間たちにこの凶行を知らせに走ります。
 刺客逃走後も、ほんの数分、息のまだあった龍馬は、「残念々々」「慎太、慎太。どうした手が利くか」。慎太郎は両手両足と後頭部など十一箇所に深手を負い、右手はほとんど切断の状態でした。しかし彼は「手は利く」と答える。瀕死の龍馬はなおも行燈を提げて隣の部屋までいたり、「新助、医者を呼べ」と階下の主人に声をかける。そして龍馬は「慎太、僕は脳をやられたから、もう駄目だ」を最後の声にして、畳の上に倒れこみ息絶えた。藤吉は翌日、慎太郎は翌々日十七日に死去した。三人の葬儀は十八日に行なわれ、東山霊山に三基の墓はならんでいる。数え年の享年は、龍馬三十三、慎太郎三十、もと力士の藤吉は二十五歳。みな若かった。
 ところで龍馬がトイレの用のために、安全な土蔵二階から、無用心な近江屋母屋に移ったのは、ノロ・ウィルスのためであろう。百科事典「ウィキペディア」によると、このウィルスのため「死に至る例はまれである」と書かれている。龍馬はこのウィルスがために死にいたった、初めての例であろうか。生牡蠣を誰かと一緒に食したのであろうが、当時の記録を読んでみても、仲間や関係者に腹風邪感染者がみあたらない。ご存知の方があれば、一報いただきたい。龍馬暗殺を、ウィルスから解明したいと望んでいます。
<2007年11月3日 南浦邦仁>


 
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