ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

ヒトとタバコ はじめての出会い

2008-07-26 | Weblog
 現生人類がアフリカで誕生したことはよく知られています。彼らは延べ三度にわたって、集団をなしアフリカから世界各地に拡散して行ったそうです。
 日本人の最初のルーツは、28000年ほど前にアフリカを出発したグループの末裔です。DNA分析ではC3系統というそうですが、インドを素通りして一方はインドネシア、パプア・ニューギニア、オセアニア、オーストラリアへと移動している。
 もうひとつのグループは南に向かう仲間とは別れ、東南アジアから北上した。モンゴル、中央アジア、そしてシベリアに達する。一部は朝鮮半島やサハリンを通って、日本列島に到着する。縄文時代のはじまる一万年以上も前、二万数千年も昔、旧石器時代のことでした。
 彼らは原日本人です。このC3系統DNAは、頻度は低いが歴然と現代日本人にみられるという。
 そしてシベリヤに達したグループのいくらかは、当時氷河期で凍結していたベーリング海峡を渡り、アラスカに達する。アメリカ大陸に渡った最初の人類でした。約二万年前のことですが、マンモスやトナカイを追っての大移動であったという。
 しかし北部米大陸を覆っていた大氷床にさえぎられ、彼らは南方へ向かうことができなかった。8000年もの間、極寒の地に閉じ込められたのです。そして12000年ほど前、地球温暖化が徐々にはじまり、彼らは移動を開始する。それから1000年ほどの内に、南米の南端まで達したという。11000年前には、南米最南端のホーン岬にまで達したのである。

 中南米に着いた彼らの目前には、氷結の平原とはまったく異なる豊かな植生が拡がっていた。ジャガイモ、サツマイモ、トウモロコシ、ナンキンマメ、インゲンマメ、カボチャ、カカオ、パパイア、アボガド、トウガラシ、パイナップル、ヒマワリ、ゴム、バニラ、ヒョウタン、そしてタバコなど。雪と氷の国に八千年も閉じ込められていた彼らには、パラダイスそのものであったろう。出アフリカ後、16000年ほどがたってからの出会いでした。
 タバコのことは、1492年のコロンブスのことばかりが強調されますが、一万余年前に、大陸にたどり着いた彼らがまず発見し利用したのです。
 おそらく枯葉を火にくべたとき、その紫煙からタバコの意味を知ったのでしょう。ひととタバコのおつき合いは、実に古い。

 崎谷満著『DNAでたどる日本人10万年の旅』(昭和堂・本体2300円)を参考にさせていただきましたが、素晴らしいおすすめ本です。
 日本人のなりたちについて同書では、Y染色体DNA分析の結果、後期旧石器時代にまず、C3系統のヒトたちが日本列島にたどり着く。
 そして縄文時代にはD2系統のヒトたちが列島に入ってくる。意外なことに現代日本人のDNAは、D2系統が主流である。
 弥生時代には大陸半島からO2b系統がやってくる。しかしその数は予想より少ない。
 現代日本人は、縄文の血をひくものがもっとも多く、弥生人の渡来は意外と少なかったことが知られる。また上記以外にも多様なDNAが散見される。日本人のなりたちは、実に多様であることを実証された、すごい本です。
 ※「若冲 天井画」はしばらく休載します。バテました。
 <2008年7月26日 あまりにも長い旅>
 
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若冲 天井画 №5 <若冲連載15>

2008-07-21 | Weblog
 大正四年(1915)十一月十五日、鴎外森林太郎は、史伝『北条霞亭[かてい]』を書く前、霞亭の師・皆川淇園の墓に詣でた。「寺町通今出川上る阿弥陀寺なる皆川淇園の墓を訪ふ」。蝶夢の墓も同地にある。なお森鴎外は史伝『北条霞亭』の新聞連載のはじまった大正六年、陸軍軍医総監を退き、帝室博物館総長に就任する。九鬼隆一がかつてつとめた任であった。
 ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話[かっしやわ]』の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
 なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人・柏原瓦全と親友であった。霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈[おい]を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。
 あまり知られていないようだが、蝶夢も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。たとえば天明四年二月二十六日から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊[ばんこうけい]、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。
 また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。
 江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛[みくまかてん]が天明八年(1788)春、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
 なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。畸人伝ともに当時、大ベストセラーになった。名文である。
<7月21日 百華繚乱>
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タバコ余話

2008-07-20 | Weblog
 タバコ自販機に必須のタスポカードがはじまって、愛煙家も町のタバコ屋さんも、みな迷惑をこうむっていることは、前に書きました。その後、タバコをめぐる周辺は話題騒然です。
 ひとつには消費税率アップを、福田首相が話したことにはじまります。自民党にしても、支持率の低下しているいまごろ、消費税率発言はタブーです。急遽、タバコを千円に値上げしようという話にすり替えられてしまいました。
 「外国では一箱千円くらいが当たり前。税収は増えるし、禁煙者も増加する。一石二鳥である」てな論理なのでしょう。
 タバコをたしなまない方には分からないかもしれませんが、現在一箱300円が主流。三倍以上への値上げです。ガソリンやトウモロコシの値上がりどころではありません。
 いま外国に行っている方にメールで「タバコはいくら?」と聞いてみました。「値段は地域や銘柄、国産や輸入物などでさまざまですが、600円台が多い」。カナダからの便りです。
 一箱1000円になったら、どうするか? 愛煙家に聞いてみましたが、まず「禁煙する」。量を大幅に減らす。指がヤケドしそうになるまで、意地汚く吸う…。さまざまの答えが返って来ました。
 いつも寄るタバコ屋のおやじさんは「外国で偽造された、国産の本物そっくりのタバコが密輸されてくるでしょう。昔、偽セブンスターが大量に出回ったことがありました。1000円なら、彼らはまた同じことを企むに違いありません」。味がまずまずで安ければ、それらを求める愛煙家は増えるでしょう。
 それから最後の一手は、タバコの種子を手に入れ、土で育てることです。自分好みの味のタバコをつくれる。これがいちばんだと思います。ところがタバコ栽培は法律で禁じられています。いまの六法全書にも載っていない、マイナーな法律があります。「日本たばこ産業株式会社法」「たばこ事業法」「たばこ税法」、たばこ三法とでもよぶのでしょうか。
 昭和60年に専売制・専売公社制が廃止になったのに、タバコを勝手に栽培することも、吸うためのタバコをつくる行為も、日本たばこ産業株式会社にしか認められていないのです。
 たばこ産業会社法は、だいぶ前、まだ六法全書に記載されているころに読んだことがあるのですが、タバコの栽培も、自己喫煙用の製造も、ともに重罪です。大麻やアヘンケシではあるまいし、国家の独占は憲法違反なのではないでしょうか。悪法です。
 さてこのような無駄話をあれこれ考えていたところ、昨日の新聞では「タバコは300円から500円に! 一本10円の値上げか」。こんな記事が出ました。1000円でなく半値の500円! 千円でわれわれを驚かせておいて、結局はその半値で、ほっとさせて結論付ける。実にずるいやり方です。といっても値上げ率は66%です。
 これなら禁煙断行者も少なく、税収も1.5兆円ほど増えると試算しておられる。密造密輸もだいじょうぶという計算であろうか。
 話が京から無縁になってしまいましたが、京都のタバコ話をひとつ。タスポのはじまった6月1日の同日は、京都市の新条例が開始された記念日でした。町の中心部での路上喫煙が禁止になったのです。違反すれば、過料千円を支払わねばならぬ。監視員は五名、6月1ヶ月間の違反者は88人。数人が逃げ、また何人かがあわてて火を消して知らぬふりを決め込んだそうです。
 たかがタバコ、されどタバコ。いったい煙草とは何なのか? いちど調べて考えてみたいと思います。禁煙のことは別ですが…
<2008年7月20日 煙中居>
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若冲 天井画 №4<若冲連載14>

2008-07-14 | Weblog
不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺[ぎちゅうじ]に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し、庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな
 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)、六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升
 斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
<2008年7月12日 阿弥陀寺は信長の墓所 南浦邦仁記>
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十姉妹

2008-07-13 | Weblog
 ベランダでジュウシマツのペア、つがいを飼っています。この連載で一度、書きましたが、自宅近所に落ちていたヒナ鳥を拾ったことから飼鳥物語は、はじまりました。あまりにかわいそうで、またかわいいヒナだったものですから、思わず拾って持ち帰りました。
 図書館に行き、子ども向け『小鳥の飼い方ずかん』を借り、初級編を読んでみました。そして一羽だけではさみしそうなので、近所のペット屋さんに出向きました。ところが十姉妹は売っておらず、かわりに、これまたかわいい手乗り文鳥の赤ちゃんを買い求めてしまいます。
 しかしわたしの育児力の未熟故に、この子を失ってしまいました。遺骸は布にくるみ川に流し、水葬にしました。自虐の気分に、少し落ち込みました。しかしひとり孤独に、ピーピー鳴く残された一羽をみていると、かわいそうになってきます。さて、どうしたものか。
 電話帳で小鳥専門店を調べ、車で小一時間も離れた一軒をみつけました。訪ねてみると、いるわいるわ、十姉妹だけで五十羽ほど。自宅の鳥はオスなので、というのは「ピッピッ」と鳴くのはオス。「グジュグジュ」というのはメスと本に書いてあったから、わたしにもわかるのです。やはりメスは、グジュグジュいうのです。
 さて雌雄の番い[つがい]にするか、それとも男ばかりの所帯にするか、悩みました。夫婦だと子を産む。子だくさんから、十姉妹というのだろうか。十人兄弟姉妹になっても困る。
 この鳥は、江戸時代に中国から輸入されたコシジロキンパラに改良を重ねて人工的につくられた、まったくの飼い鳥。野に戻しても、エサを自分では採れない。餓死してしまいます。放生などといって、野にも放てない。
 どんどん増えてくる子どもたちを、責任をもって育てることができるか? 自信がありません。また不妊手術のことは、本にも書いてない。
 結論は同性、男だけの楽園をつくろうということでした。ホモたちといわれてもいい。本当の友人は同性に限る、とかなんとか勝手に決めつけ、小鳥屋さんには「オスを一羽ください」
 ところが何と、持ち帰ったオスのはずの小鳥は、「グジュグジュ」と鳴くのである。これはメスです。わたしは愕然としてしまいました。返品交換してもらおうかと思ったのですが、この二羽、相当相性がいいようで、すぐに恋人同士のようになってしまった。十姉妹の語源は、同室群居しても、みな姉妹兄弟のように仲がいいから、そう呼ぶのだそうですが。
 さてまた図書館に行って、こんどはおとな向け『飼鳥図鑑』を調べてみました。するとエサの種類で、発情するしないが決まるとある。人間と違って、エサ次第でエッチするかしないか、行動がかわるのです。
 もしかしたら人間も同様で、肉やウナギばかり食べていたら、エッチ願望が増加するのであろうか。しかし貧乏人の子沢山ともいう。穀類と野菜だけでも、人間にはたくさんの子どもができるのだから、やはりヒトにはエサは無関係かも知れぬ。
 ところでこのペアは、見ていても当方が恥ずかしくなるほど、仲がいい。メスはグチュグチュいいながら、キスはする。オスの頭や頸、胸などをクチバシでつつく。愛撫である。オスは小さな目を、気持ちよさそうに閉じている。さらには大胆に、オスの背にメスが乗っかかる。これは交尾のスタイルです。本来はオスが上、メスが下なのですが、このメスは逆上位を繰り返す。挑発です。
 これには参ってしまった。二羽は、特にメスは出産育児を望んでいるのです。しかしわたしは、貧乏人の子だくさんになってしまう。
 近所のペット屋に行き、相談を持ちかけてみました。「ジュウシマツに子が産まれたら、無料で引き取ってくれませんか?」。すると答えは「一般の飼い主から引き取ることは、法律で禁じられています」
 それならばと、小学校に電話してみました。「小鳥の小屋はありますか? ジュウシマツはいりませんか?」。返事は「いま二十羽ほどいますがほぼ満室で、どれもインコばかり。喧嘩やイジメは大丈夫でしょうか。一度、学校までお越しください。子どもたちにプレゼントすることを考えてもいいかもしれません」。この先生は口端だけで、本心は「ノー!」なのです。本音はすぐに見透かされてしまうものです。ハードルはあまりにも高い。
 夏場は巣引き、すなわち繁殖には適さぬ季節という。初秋にエサを発情型に切り替えれば、すぐに卵を六個や八個ほども産むらしい。どなたか産まれる予定のヒナを、もらってくれませんか? 両親ともに賢く性格もいい。もちろん子どもたちもみな揃って、立派なのがぞくぞくと誕生するに違いありません。
 それと思いついたのですが、近所のショッピングセンターの掲示板に「あげます、買います」コーナーがあります。「十姉妹のヒナが秋に産まれたら、無料でもらってくれませんか? 飼い方マニュアルもサービスで付けます」。これから書きに、行ってきます。なおマニュアルは、図書館で借りた本のコピーですが。
<2008年7月13日 産ますか産まさざるべきか…ハムレットの悩み>
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観光都市 京都

2008-07-12 | Weblog
 南浦さんの京都新聞連載第一回が、9日夕刊に掲載されました。シリーズ「現代のことば」、掲載タイトルは「観光都市 京都」。転載させていただきます。

 観光客の視線が、いつも気になる。先日も眼が合った旅の女性に、声をかけられた。「下鴨神社はどこですか?」。お会いした地点は糾の森のすぐ近くだし、手には観光マップも持っておられる。唖然としたが、出町の賀茂大橋まで案内してしまった。
 また外国人にも道を聞かれることが多い。英語で「シティホールは?」と質問され、答えに窮した。「市民会館かしら」などと考えあぐねていると、英文地図に指さされた地点は市役所である。帰宅後に辞典で確認したが、この日ばかりは恥ずかしかった。
 焼き鳥屋で会った観光客は、自家用車で東京から来られた男連中であった。彼らがいうに、カーナビが道案内をしてくれる。迷うこともないが「河原町って、どこにあるのですか」。河原町という名の町があると思っておられる。高島屋辺りのことと思い込んでいるのだろう。
 京都の街は道路が格子状、碁盤の目なのでわかりよいという。しかしそれは、通り名を知っている地元住人にのみ通用する理屈であろう。♪姉さん六角、蛸錦・・・…。わらべ唄で通り名をそらんじているから、わかりよいのである。東入ル西入ル、上ル下ルなどの京都ルールも、他所から来られた方はまずご存じない。
 かつて江戸時代、世のなかの平和と生活の安定向上とともに、寺社参拝の旅に出る庶民が急増したそうだ。伊勢や京などへ、たくさんの旅人が押し寄せて来た。当時、自動車も電車もなく、みな歩いた。旅人は辻に立つ道標、道のしるべ石を頼りに遠地を訪れた。石柱は物いわぬ道案内のガイドであった。京都の市中と郊外には、数え切れないほどの道標石が、いまも道端に残っている。
 なかでも最も古い京の道標が、三条白川の橋のたもとに立っている。現代語に直すと「これより左、知恩院、祇園、清水道」。また石柱の南面には「京都為無案内旅人立之 延宝六年三月吉日」。西暦一六七八年に、京都に無案内な旅人のため、これを立てたと彫られている。建立者の名はない。
 八坂の塔のすぐ西には、清水、祇園、東西大谷、知恩院、方広寺大仏、両本願寺の方向標示とともに、「石は声で答えてはくれぬが、刻まれた文字で道行く旅人の標、しおりとなれ」という意味の歌が彫られている。この道標にも、施主の名はない。いずれも篤志家の喜捨積善積徳であろう。
 しかし現代では、道標のほとんどが本来の役割を失っている。大きな顔をしているのは、車道の上に掲示された青と白色の全国統一デザイン板、没個性の道路標識ばかりである。
 京は観光客にとって、地理のわかりやすい街では決してない。彼らのために、標識や解説案内板、地図イラストなりを、もっともっと並べ立てることも、有益であろうと思う。当然だが、上品で実用的、かつ風雨に耐える材質を選ばねばならぬ。
 もちろん、困っていそうな方に声をかけ、お役に立つことが大切であろう。思い出に残る一期一会、こころが響く旅、いい旅にはいつも、ひとの温もりがあるようだ。

<片瀬の寸評>
 予想通り、なかなか味わい深い文章を書かれましたね。ここで寸評をふたつほど。
 まず文体ですが、「だ・である体」よりも、「です・ます体」の方がよかったのではないかと思います。
 失礼ですが、南浦さんはほとんど無名。知るひとぞ知るですが、この欄に登場する学者や文化人、またその方たちの肩書きと比べて、読者は「ナンポ?」てなもんでしょう。
 謙虚に写るのが「です・ます体」です。特に今回は連載初登場です。いつも強引な直球で、変化球を知らぬ南浦さんの文章は大好きなのですが、ポーズであってもソフトを装うことも、技術のひとつではないでしょうか。
 それから文章の「構造」をみますと、<サン、ニイ、イチ……発射!>という、ロケットの秒読みに似ていますね。
 まず旅人三人の三様。地図を持っているのに道のわからぬ女性、恥ずかしさが浮かぶ外国人との対話、焼き鳥屋で出会った男性。昔話も<三>を大切にしますが、この出だしもきっと<三>を意識されたのでしょうね。
 そして<二>。江戸時代からの道標二例で、施主「無名」を強調する。そして<一>は、現代の標識への提言。最後に一期一会とこころの響き、ひとの温もりといった「こころ」ひとつーすなわち透明な<ゼロ>宇宙の爆発で、文を了える。
 この構造は、<3・2・1・0>と、鋭角に突き進む三角錐に似たストラクチャを意識されたのでしょう。わずか1200字ほどの短文に秘められたこの工夫…。わたしの考えすぎでしょうか。
 いずれにしろ、ブログとは異なり、多数の読者が支持するコラムです。彼らはどう読むでしょうか。次回作が、いまから楽しみです。

<2008年7月12日 過去現在未来のことば>
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若冲天井画 №3 番外編<若冲連載13>

2008-07-07 | Weblog
若冲連載を、突然はじめたものですから、「片瀬五郎の京都から」を愛読してくださる友人仲間から、声があれこれ届きました。
 「なぜ突然、若冲なの?」
 「相国寺での若冲展や、国立近代博物館でのプライスコレクションで絵はみましたが、若冲のことなどほとんど知りません」
 「若冲のことを知りたいので、入門編のおすすめ本を紹介してください」…

 江戸時代の画家・伊藤若冲のことは、縁あって一昨年の夏から一年近いあいだ、本気になって調べてみました。ムキになるのがわたしの性分なので理解いただきたいのですが、まったく新しい発見も結構ありました。
 それらは宇治の萬福寺発行の年報『黄檗文華』2007年号に、「若冲逸話」と題して発表しました。片瀬ではなく、別名での掲載です。実名・ペンネーム、どれも同じです。
 このときの文章をリライトしたのが、今回の連載です。『黄檗文華』では、第一部が「若冲五百羅漢」、第二部「若冲天井画」。そして三部が「若冲と相国寺・萬福寺」。このような三部構成になっていました。
 今回の連載「若冲天井画」のあと、「若冲五百羅漢」に戻り、そして「相国寺・萬福寺」で終える。そのような構想です。

 ところで若冲についての本ですが、あまりにもたくさん出版されています。入門書としては、今年1月に新潮社から出た『異能の画家 伊藤若冲』をおすすめします。著者は狩野博幸・森村泰昌ほか。トンボの本ですが定価1470円(税込み)
 もっと詳しく知りたい方には、国立京都博物館編『伊藤若冲大全』がいいかと思います。小学館発行、定価39900円。高額本ですので図書館利用をおすすめします。
 ということで、来週よりまた「若冲天井画」を続けます。

<2008年7月7日七夕 南浦邦仁記>
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京都 宝ヶ池競輪場

2008-07-06 | Weblog
 珍しく今日は、聞き書きです。山科にお住まいの吉田志津子さんは、間もなく八十歳を迎える元気な女性。彼女の人生目標は、かつて大活躍したタレントの金さん銀さんです。百歳をこえても、元気でジョークを飛ばす、そんな楽しい女になることを目指しておられる。
 志津子さんから、京都の競輪場の話しを聞きました。いまから五十数年前、おそらく昭和26年ころのこと、わたし片瀬がやっと離乳食をはじめた時期です。彼女は独身で二十二歳ほどのころ、家業は屋台で売るお好み焼き屋さんでした。
 父親は夜にこういったそうです。「明日は競輪の開催日。朝のうちに屋台をひいて競輪場に来ること」。尊敬する父の命令には絶対服従でした。彼女は朝早く、当時住んでいた壬生から、重い屋台をひいて、向日市にいまもある府営向日町競輪場に汗だくで向かいました。昭和26年か翌27年の7月17日、真夏の暑い日でした。
 ところが、やっと到着した向日町競輪場(昭和25年開場)ですが、平日のこの日にはレースがありません。「…?」。守衛さんに聞くと、宝ヶ池競輪場は本日開催という。7月17日は祇園祭巡行の日です。平日ですが、京都市民には祭日だったのでしょう。巡行見物には行かず、競輪に向かう市民が多かったようです。
 いまは向日町だけですが、そのころ京都府内にはふたつの競輪場があったのです。父が志津子にいった競輪場とは、昭和24年12月にオープンした、いまはなき京都市営宝ヶ池競輪場だったのです。
 間違いに気づいた志津子は、取って返して洛北に向かいました。しかし遠い。また7月17日は、祇園祭巡行の日なのです。抜け道も知らない彼女は、四条通から河原町通に折れようとしました。通りでは、祇園祭の山と鉾が、朝から綱でひかれ、晴れの祭典を演じていました。
 祭りを見物するひとたち、また警備や巡行のひとたちは、唖然としました。ゆっくり進む山鉾を追い抜いて、重い屋台をひく小柄な娘が四条から河原町通を、北に一目散に歩いていくのです。眼には粒の汗が、ひりひりとしみています。
 しかしだれひとり、彼女を制止する者はいませんでした。昭和26年か翌年、そのような時代だったのです。細く背の低い、二十歳そこそこの娘が、汗だくでどこに向かうのか。山鉾の行列に眼を伏せながら、一歩一歩と力強く、屋台をひきひき歩いて行く巡行道。沿道の溢れるばかりの観客は、エールをおくったことでしょう。「おーい、がんばれ!ねえちゃん!」
 大幅に遅刻して、やっと宝ヶ池競輪場に到着した志津子をみつけた父は、激怒しました。「一体、いま何時や思てんねん! どこへ行ってたんや!」。しかし彼女は、ひとことも言い訳しませんでした。「早合点して間違ったうちが悪いんや…」
 急いで炭火をおこし開店したお好み焼き屋は、その日も大繁盛でした。「ねえちゃん、待ってたで。何や、今日は遅かったなあ」。屋台の店は、場内で営業する許可も得ていません。公道を仕切る金網越しで、お好み焼きを手渡す商いでした。この日、彼女は溢れる涙をとめることができませんでした。
 いまでは古い記憶の市営宝ヶ池競輪場ですが、昭和33年(1958)に廃止されます。営業期間の9年間、開催日数は99日、総売上高は77億1500万円余。総収益は4億8237万円。市営事業なので、収益金は市民に還元されました。失対事業、道路整備、市営住宅の建設、児童福祉費などです。
 ところで宝ヶ池競輪場が廃止になった理由は、昭和32年ころから市の財政がようやく黒字基調になったこと。それと同じ年、市職員の汚職事件が発覚した。彼は競輪場に日々通って、資金に窮したうえでの不正であった。
 昭和33年正月、高山義三市長は年頭訓示でこう語る。「市民憲章に反し、家庭生活を破壊する競輪は、六大都市中さきがけて廃止する」。それまでのバクチ収益で赤字を埋める行政のあり方を、断固として否認したのです。

 競輪場が廃止されたとき、志津子さんの父は、場内に小さいながらも常設の店舗・うどん屋を構えていました。立退き料は、額はもう覚えていないが決して小額ではなかった。そのように彼女は語っておられました。

<2008年7月6日 蒸し暑い日々、祇園祭巡行を目前に>
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天下布武

2008-07-05 | Weblog
 織田信長が、本能寺で明智軍の急襲を受けたのは、天正10年(1582)6月2日のことでした。いまの本能寺は市役所の南にありますが、かつて信長とともに燃え落ちたのは、四条西洞院の北西に位置する広大な寺でした。
 彼の墓が阿弥陀寺(寺町通今出川上ル)にあることは、すでに書きましたが、先月の命日に同寺で、小説家の安部龍太郎さんから興味深いお話しを聞きました。
 数年前に阿部さんの『信長燃ゆ』(新潮文庫・上下巻)を読んでいたのですが、未読だった角川書店刊『天下布武』上下巻を昨日に読了しました。この本はじつに興味深い。国際スパイ陰謀小説のごとき醍醐味があります。
 国家ではスペイン・ポルトガルと、新興のイギリス・オランダ。ローマ法皇とイエズス会。毛利方に亡命している足利将軍義昭。公家筆頭の近衛前久は朝廷を代表し、足利将軍とともに、明智光秀に信長を本能寺に討つことを命じる。彼らの後ろには、最強国家スペインと密着するイエズス会の陰謀があった。
 しかし陰謀に加わっていた豊臣秀吉は、毛利・足利・近衛・明智らと交わした旧幕府復興の密約を裏切り、みずからが関白となって、全国を制圧することを目指す。
 ざっとこのようなストーリーですが、ガラシャ夫人こと光秀の愛娘であるお玉と、その若き夫・長岡与一郎、のちの細川忠興を主人公に展開するアクション推理小説ともいえる、ユニークな時代小説です。
 本能寺の変のおり、秀吉と阿弥陀寺の清玉上人、それから秀吉が盛大にとりおこなった信長葬儀の場面を『天下布武』から引用します。

 「殿のご遺体はどうした。結局見つからなかったのか」
 長岡与一郎[細川忠興]は、かたわらに立つ松井康之にたずねた。
 「変の当日、明智勢はご遺体を発見することができませんでした。それゆえ筑前守[秀吉]どのは信長公が生きておられると触れて身方をつのられましたが、実はご遺体は寺から持ち出されていたのです」
 「誰が、どうやって」
 「阿弥陀寺の清玉上人が変の直後に寺をお訪ねになり、近習の方々よりご遺体を受け取り、荼毘にふして寺に持ち帰られたそうでございます」…
 「そうか。ならば明日にも阿弥陀寺を訪ね、香華をたむけたいものだ」
 「ご胸中をお察し申しますが、それはしばらく控えられたほうが良いと存じまする」
 「何か不都合でもあるのか」
 「筑前守どのは信長公のご遺骨を引き取り、盛大な葬儀を行ないたいと考えておられますが、清玉上人は引渡しを拒んでおられるそうでございます。その争いが険しいゆえ、他の大名衆も寺に参じるのを遠慮しておるそうでございます」
 「そうか。上人がそうなされるのは、余程の事情があるからであろう」
 秀吉は疑わしいと、上人も思っておられるのだ。与一郎はそう察し、同志を得たような心強さを覚えた。
 ……
 十月十五日、秀吉は信長の葬儀を京都の大徳寺で行なった。
 信長の子である養子秀勝を表に立てて大々的な葬儀をすることで、織田家の承継者としての実力を内外に示そうとしたのである。
 だが、この葬儀に信長の遺骨はなかった。
 本能寺の変の後、信長の遺骨は阿弥陀寺の清玉上人の手によって保管されていた。…
 このことを知った秀吉は、阿弥陀寺で葬儀を行ないたいと申し入れたが、清玉上人はきっぱりと断った。それなら遺骨だけでも渡してほしいという要求にも、頑として応じなかった。
 これは織田家を乗っ取ろうとする秀吉の野望を察したからだというが、あるいは本能寺の変に秀吉が関わっていたことを知っていたからかもしれない。
 秀吉は勅願僧である上人に無理強いすることもできず、信長の木像を作って遺骨のかわりとし、大徳寺で盛大な葬儀をすることにしたのだった。

<2008年7月5日 下天夢幻>
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若冲 天井画 №2<若冲連載12>

2008-07-02 | Weblog
若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年(一七九八)夏、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた<畸>[き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。

 観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作がある。
 また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かきず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはないであろう。

<2008年7月2日 「若冲 天井画」は原則毎週一度、平日に掲載予定 南浦邦仁記> 
コメント (1)
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