<聞中浄復>
黄檗僧の聞中浄復(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(1758)、二十歳のときに相国寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は十四年もの長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(1771)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年明和九年のことではないかと思う。大典が聞中に苦言を呈した。
同九年四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。聞中は開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。聞中三十三歳、大典五十四歳、若冲五十七歳の年である。
おそらくこの年、若冲と大典の間に大きな溝ができた。
聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」
若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみて、どのように感じたであろう。号泣したのではないか。
ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。
聞中の描いた「芦雁図」だが、はじめて発見されミホミュージアムで開催された「若冲ワンダーランド」展に出品された。実は、わたしが出品の手伝いをしただけに感慨深い。
余談だが若冲画「亀図」の賛は、聞中が記している。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とある。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳であった。みな驚くほど長命だ。それともだれもかれも、年齢加算をしていたのだろうか。
<伯珣照浩>
若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会ったのは、安永二年夏(1773)のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
聞中は明和九年(1772)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中らの手引きで、若冲は伯珣に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯珣が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらう。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名「雪舟」について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動と静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。
若冲も伯珣から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られた。一部を意訳してみよう。
若冲が黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……黄檗賜紫八十翁伯珣書」
これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。
過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。
「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。偈頌は若冲の出家を意味している。
そして「幼にして丹青を学び…絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されているが、この夏、若冲は五十八歳であった。彼が画を習い始めたのは、十歳になる前であったのであろうか。古来、子どもの習い事始めは六歳の六月六日からという風習がある。
若冲が久しぶりに描いた「猿猴摘桃図」に伯珣の賛も得ている。安永三年(1774)、錦市場の事件が解決した八月二十九日の後の作画であろう。
賛「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。彼が石峰寺門前に居を構え、亡くなった弟の妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。男児は若冲の孫のようでもある。
石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆(せんがい)禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯珣から出されたのではないかとわたしは想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(1772)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。
そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶(1648~1710)の開基であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。元慶の師、鉄眼は一切経、すなわち大蔵経の刻版完成で知られる。元慶の五百羅漢はすでに江戸で黄檗を知らしめた。師と弟子、ふたりともに不撓不屈の黄檗僧であった。
伯珣が石像五百羅漢造営を、それも千呆禅師開創の石峰寺に望んだとしても不思議ではない。
若冲は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁高遊外のように、晩年の彼も勧進のため、またささやかな清貧の暮しの糧のため、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺への勧進であった。
彼は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。伯珣が与えた「革叟」という出家名は、錦市場事件が無事に解決したために、もう用いる必要がなくなったのであろう。若冲は出家し、この法名でもって幕府に直訴するつもりだったとわたしは考えている。だが無事を得て、革叟の名は大切に密封された。
錦の事件については、別記後述の年譜を参照していただきたい(1771年~1774年)。また伏見義民事件(1785~1788)も年譜に記載したが、驚かざるを得ない。
ところで黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧の月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2017年1月15日 南浦邦仁>