ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲の謎 第11回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 後編>

2017-01-15 | Weblog
<聞中浄復>

 黄檗僧の聞中浄復(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(1758)、二十歳のときに相国寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は十四年もの長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
 ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(1771)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年明和九年のことではないかと思う。大典が聞中に苦言を呈した。
 同九年四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。聞中は開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。聞中三十三歳、大典五十四歳、若冲五十七歳の年である。
おそらくこの年、若冲と大典の間に大きな溝ができた。

 聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」

 若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみて、どのように感じたであろう。号泣したのではないか。
 ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。

 聞中の描いた「芦雁図」だが、はじめて発見されミホミュージアムで開催された「若冲ワンダーランド」展に出品された。実は、わたしが出品の手伝いをしただけに感慨深い。
 余談だが若冲画「亀図」の賛は、聞中が記している。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とある。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳であった。みな驚くほど長命だ。それともだれもかれも、年齢加算をしていたのだろうか。


<伯珣照浩>

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会ったのは、安永二年夏(1773)のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(1772)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中らの手引きで、若冲は伯珣に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯珣が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらう。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名「雪舟」について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動と静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。

 若冲も伯珣から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られた。一部を意訳してみよう。
 若冲が黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……黄檗賜紫八十翁伯珣書」
 これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。
 過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。

「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。偈頌は若冲の出家を意味している。

 そして「幼にして丹青を学び…絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されているが、この夏、若冲は五十八歳であった。彼が画を習い始めたのは、十歳になる前であったのであろうか。古来、子どもの習い事始めは六歳の六月六日からという風習がある。

 若冲が久しぶりに描いた「猿猴摘桃図」に伯珣の賛も得ている。安永三年(1774)、錦市場の事件が解決した八月二十九日の後の作画であろう。
 賛「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。彼が石峰寺門前に居を構え、亡くなった弟の妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。男児は若冲の孫のようでもある。

 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆(せんがい)禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯珣から出されたのではないかとわたしは想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(1772)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。

 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶(1648~1710)の開基であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。元慶の師、鉄眼は一切経、すなわち大蔵経の刻版完成で知られる。元慶の五百羅漢はすでに江戸で黄檗を知らしめた。師と弟子、ふたりともに不撓不屈の黄檗僧であった。
 伯珣が石像五百羅漢造営を、それも千呆禅師開創の石峰寺に望んだとしても不思議ではない。

 若冲は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁高遊外のように、晩年の彼も勧進のため、またささやかな清貧の暮しの糧のため、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺への勧進であった。
 彼は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。伯珣が与えた「革叟」という出家名は、錦市場事件が無事に解決したために、もう用いる必要がなくなったのであろう。若冲は出家し、この法名でもって幕府に直訴するつもりだったとわたしは考えている。だが無事を得て、革叟の名は大切に密封された。
 錦の事件については、別記後述の年譜を参照していただきたい(1771年~1774年)。また伏見義民事件(1785~1788)も年譜に記載したが、驚かざるを得ない。

 ところで黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧の月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2017年1月15日 南浦邦仁>
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若冲の謎 第10回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 前編>

2017-01-05 | Weblog
<宝蔵寺・相国寺・萬福寺・石峰寺>
 
 伊藤若冲は八十五年の生涯、三ヵ寺に深く関わった。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓がある。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはない。だがおそらく四十歳で隠居するまでは、彼もこの寺の信徒であったろうと思う。
 
 つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺だ。三十歳代なかば、売茶翁に出会い、翁の仲立ちで相国寺の大典和尚を知ったと、わたしは考えている。
 本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺である。
 しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相国寺と袂をわかち、絶縁してしまう。相国寺墓所には、若冲の墓もある。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいない。
 
 そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」である。
 還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、亡くなる八十五歳まで四半世紀を超える歳月を晩年の力すべてを注ぎ込んだ。
通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」であった。
 
 
<売茶翁再び>
 
 売茶翁は京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。しかし佛教の僧侶が物品を売った代金を生活の糧にすることは、戒律で禁じられていた。だが翁はかまわずに売りつづける。
 彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」
 
 十八世紀の京都、文化の百華が繚乱する。学術芸術はルネッサンスを迎えた。空に輝く綺羅星のごとく、たくさんの才能たちが輩出し、大活躍した。
文壇画壇のルネッサンスは、売茶翁の影響からはじまったとされる。だいぶ後のことだが、藤岡作太郎が著作『近世絵画史』で「画壇の旧風革新」と呼んだ時期である。多士済々、京都文化が光り輝いた活気あふれる文化豊穣の画期であった。売茶翁によって、この時代人は本当の自由を知り、文芸芸術が開花した。
 当時の京都は、非僧非俗の売茶翁を文化軸の中心に回転した。江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからであろう。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であった。早川聞多氏は「売茶翁といふ事件」と称しておられる。
 高橋博巳氏は「売茶翁の自由がなかったら、六如の詩にしろ大雅や若冲の絵にしろ、それらの創造の部分が変質していたのではないか」と記す。
 
 三十歳代のなかばころ、若冲は尊敬する売茶翁を通じて、相国寺の大典を知ったはずだ。そして若冲は菩提寺の宝蔵寺から離れ、大典を通じて相国寺と密接な関係を持つ。大典は、若冲にとって深い親交をもった無二の友であったろうと思う。相国寺との親密な関係は以降、二十年ほども続く。
 
 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁は延宝三年五月十六日(1675)、九州肥前の神崎郡蓮池に生まれた。幼名は菊泉。地元佐賀の龍津寺において禅師化霖道龍のもとで得度した。黄檗の道号は月海、法号を元昭、のちに高遊外(こうゆうがい)と名のる。売茶翁と呼ばれるのは、還暦のころに京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことである。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことだが彼は病をえ、一念発起した。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ」
 そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげむ。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都の鑑真和尚からはじまる律学まで修した。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートであった。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれている。
 ところが晩年、六十歳を前にして、久方ぶりに帰って来た肥前を去る。寺は法弟の大潮元皓にゆずり、京に向かった。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまう。彼は「三非道人」を自称する。非僧非道非儒だが、佛教でも道教でも儒教でもないとした。
 当時の宗教界は、いまと同様であろうか、堕落していた。六十一歳、数え年の当時は六十をひとつ過ぎた年が還暦である。この年ころ、彼は京で突然に茶舗をはじめた。そして天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしたが、もっぱら日々移動する。荷茶屋という。
 
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判である。いやしい職業にはげむ売茶翁は、時代を代表する知識人であった。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だった。
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場や長梅雨の時期、何度も喰う米にもこと欠き生活は困窮した。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人、亀田窮楽は長梅雨のある日、岡崎村から双が岡の翁のあばら家へ、米を携え売茶翁を訪ねた。「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように想像したりもする。
 
 そして大典が二十九歳、翁七十三歳のとき、売茶翁の茶器・注子に若き和尚は「大盈若冲」云々の文字を記した。京の避暑地として有名な糺の森での余興であった。ちなみに、この注子はいまも残っているがこの年、若冲は三十二歳であった。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思う。しかし大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできない。
 
 宝暦十三年七月十六日(1763)、売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠した。鴨川の左岸ほとりの小庵、幻幻庵で没した。享年八十九。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流された。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうだ。いかにも売茶翁らしい己の始末であった。
 
 
  若冲画 売茶翁像
 
 
 
「大典和尚」
 
 若冲は三十歳代なかばから、大典和尚との親交を通して、相国寺と密接な関係にあった。期間はほぼ二十年におよぶ。それが六十歳を前にして、若冲は萬福寺に接近し、黄檗の石峰寺にその後、晩年を捧げ尽くす。相国寺を離れた理由のひとつは、大典を取り巻く周辺環境の変化でなかろうか。
 
 大典和尚の生涯をざっと見ておこう。大典は享保四年五月九日(1919)、近江神崎郡伊庭郷に生まれた。滋賀県の湖東、いまの東近江市能登川町伊庭。若冲の三歳年下であった。
 俗姓は今堀氏。字(あざな)は梅荘。諱(いみな)は顕常。大典と号し、また蕉中、北禅などとも号す。東湖、不生主人、淡海竺常ともいう。淡海は生国近江の琵琶湖のことである。幼名は大次郎。
 八歳のとき、黄檗山萬福寺の塔頭・華厳院にあずけられたが、兄弟子との不和がおきる。
 毎夜遅くまで勉学にはげむ大典だったが、兄弟子の瑞倪が隣室から「おい、まだ本を読んでいるのか」といった。
 大典は「いいえ、読んでいるのではなく、看(み)ているのです。」
よくあることだが、できのよい若者は、不出来な先輩からいじめられる。禅寺において、師匠なり兄弟子との不和は、ふたりの将来のために不幸であり致命的なことである。
 大典の父は不仲を知り、彼が十歳のときに萬福寺から、旧知の相国寺塔頭、慈雲院の独峯慈秀和尚のもとに移した。そして享保十四年三月(1729)、十歳のときに独峯和尚によって得度し、名を大次郎から顕常にあらためた。
 黄檗の詩僧・大潮和尚について文学を学ぶが、大潮は売茶翁の弟弟子である。また儒は宇野明霞・字士新の門で研鑽を積む。ちなみに大坂の片山北海も明霞の弟子である。北海を中心に結成された大坂の詩文社「混沌社」には、大坂文化のネットワーカー・木村蒹葭堂が有力なメンバーとして加わっていた。蒹葭堂は京でも売茶翁や大典、聞中、池大雅、そして若冲たちと交流があった。
 そして独峯和尚引退の後を受けて大典は慈雲院の住持となるが、独峯の死後、大典は師の三回忌を終えたのち、病と偽って相国寺を辞し京の郊外に閑居す。宝暦九年二月十二日(1759)、大典和四十一歳のときであった。そして十三年間、鷹峰、山端、華頂山下などに住まいして市井にまじり、詩作、文筆著述業に専念した。彼は佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の文人であり学僧であった。
 この年、三歳違いの若冲は四十四歳。時代を代表する学者で文人である僧大典が、なぜか寺を出、栄達を拒む。若冲はそのような彼を尊敬していた。また大典は若冲に画の天才を見抜きそのひとと才能を愛する。
 大典の蔭からの推挙で、鹿苑寺大書院の障壁画を描いたのは宝暦九年、大典が寺を出る年である。
 
 明和四年(1767)、相国寺は連環結制を営む。全国の雲水修行僧が同寺に参集することになった。本山は大典に帰山をうながすのだが、彼はなおも承諾しなかった。すでに四十九歳である。
 そして明和九年四月、再三の復帰要請を断ることもついにかなわず、大典は相国寺慈雲院に戻る。大典五十四歳、若冲五十七歳であった。
 安永七年(1770)には幕府より朝鮮修文職に任ぜられた。翌年には相国寺第百十三世住持に、そして五山碩学にも推挙された。天明元年(1781)、以酊庵輪住の任にあたり対馬に着任。約三年間の任期をつとめる。そして天明八年の大火の後には寺復興のために全力を投入し、享和元年二月八日(1801)、若冲没の半年ほど後、友を追うように慈雲院で没した。
 大典の命日二月八日は、くしくも若冲が錦街で生まれた誕生日であった。
<2017年1月5日 南浦邦仁>
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