椿山荘の羅漢 (3)
若冲の石像羅漢像を所望した小松宮彰仁親王について、略歴をみておきましょう。彼は親王家筆頭の伏見宮家邦家親王の第八子として、弘化三年(一八四六)に生まれました。安政五年(一八五八)に親王宣下、仁和寺門跡となります。幕末動乱のなか、慶応三年(一八六七)十二月に天皇より復飾を命ぜられ、環俗して嘉彰と称し議定に任じられました。翌慶応四年・明治元年には軍事総裁、ついで外国事務総裁、海陸軍務総督、兵部卿、会津征討総督。そして陸軍大将などをつとめました。明治十五年(一八八二)に小松宮に改称し、名を彰仁に改めます。日清戦争では参謀総長有栖川宮熾仁の薨去により、後任を命ぜられます。このふたりは、ともに維新と明治前半期の軍を象徴する宮でした。
錦の御旗をひるがえした両宮の江戸進軍を歌にしたのが日本初の進軍歌「風流トコトンヤレ節」。宮サンとは、有栖川宮熾仁親王と小松宮彰仁親王、ふたりの宮です。歌は、長州藩士の品川弥次郎がつくったといいます。♪宮サン宮サン…オ馬ノ前デ、ヒラヒラスルノハナンジャイナ…アレハ朝敵征伐セヨトノ錦ノ御旗ジャ知ラナイカ…トコトンヤレナ。
小松宮家本邸は、はじめ神田駿河台にありましたが後に赤坂葵町に移ります。そして宮は晩年に浅草区橋場に別邸を構えます。京都別邸は丸太町通川端東入ル、現在は天理教河原町大教会になっている広大な土地にありました。最初この屋敷は桜木御殿と呼ばれ近衛家抱邸でしたが、小松宮に譲られ、明治二十年代には山階宮家に移り、明治三十三年に天理教が購入しています。
宮がこの邸宅を手放したのはおそらく別邸「楽寿園」の建設のためであろうと思います。明治二十四年から翌年にかけて築造された静岡県三島市の楽寿園は、じつに広大な庭園、豪邸です。現在は三島市立公園になっています。しかし不思議ですが、宮の本邸跡にも別邸跡にも一切、羅漢たちの痕跡がありません。なお晩年、京都では旅館川田別邸などを常宿にしていますが、この旅館はいまはありません。
小松宮は明治三十六年二月十八日に没す。死因は過労が原因の脳充血発作でした。前年には体調不良をおして、英国皇帝戴冠式参列のために明治天皇の名代として渡航しています。行年五十八歳、国葬で送られました。
<2008年11月30日 南浦邦仁>