ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

アヒルの日本史(11)前史

2024-10-30 | Weblog

 アヒルの話を、延々10回ほども続けてきました。終わりは近い、と思っていても本を読んでいると、新しい発見や疑問が湧き出てきます。困ったものですが、もう少し続けます。興味をお持ちの読者は少ないでしょうが。なお引用文は、出きる範囲で現代文に書き換えました。なおこの鳥が、日本で「アヒル」の名で呼ばれるのは、16世紀中です。

 さて今号のアヒルは、平安時代918年から関ヶ原の戦い1600年ころまでの略年表。アヒル前史です。

 

〇918年延喜18年 『本草和名』 深根輔仁編纂

<鶩肪、一名を鴨ともいう。この鳥を小馬鹿にした名に舒鳥。和名は加毛という。>

※鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名;加毛(かも)/鶩・鶩肪・鴨は、呼称がアヒルになるのは600年ほど後の事です。この一文で初めて鶩ボクが登場。訓読みの「かも」以外、読みはすべて音読み漢音です。

 この原文で文末が興味深い。「鶩ボクの和名はカモという」。アヒルの名が誕生するまでは、ボクかカモと呼ばれていたのではないでしょうか。それと後述しますが、アヒルの別名に「白鴨」「唐の鴨」「高麗鴨」「高麗白鳧」などもあったようです。いずれにしろ、室町期以前にはわずかの数しか舶来していません。繁殖数は不明ですが、少なかったろうと考えています。繁殖のために不可欠の人工孵卵は難題です。孵化については、アヒルの日本史10回「伝統的抱卵」に載せています。

 この鳥は16世紀まで、進上進物として喜ばれる貴重種でした。しかし繁殖しないのでは、家禽とはいえません。

 

 これから「アヒル」仮表示は片仮名に原則統一しますが、この鳥がアヒルと呼ばれだすのは、16世紀のなかばです。アヒル呼称の始まりの時期、その考察は追って次回か次々回にできれば、と思っています。

 

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)

<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。>

 承平年間に源順編纂。別名「和名杪」。

 鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)後に日本でいう「アヒル」

 

〇1173年承安3年5月『玉葉』

「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。

 翌日にも開催。「今日、北面鴨合、内々事也」

※「物合」(ものあわせ)は平安時代から室町にかけてずいぶん流行した遊びです。競い合って勝者や、優劣を決める。当時も大人気だった闘鶏。これならわたしにもわかるのですが。「鴨合」は、カモなのかアヒルなのか。何を競うのか。優劣? さっぱりわかりません。ほかの遊戯もほとんど理解困難です。これも課題です。

 物合には、さまざまの種類があります。例えば、絵合、歌合、扇合、琵琶合、鶯合、伝書鳩の帰巣レース、虫合、蜘蛛合、香合、草合、根合、貝合などなど。

『枕草子』「うれしき物、物あわせ何くれと挑む事に勝ちたる、いかでかうれしからざらん。」

 

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』

 「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

 

〇1233年~1234年 『古今著聞集』

 「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

 

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』

 「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。この白鴨もおそらく中国で家畜化されたペキンアヒルであろう。この時期に再開された勘合貿易によって舶載されたのであろう。

 

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』

 白鴨は高麗に生息しているとのこと。

 

〇1503年文亀3年『実隆公記』

 「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

 前年には金魚がはじめて舶来した。

 

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』

 「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」宮中に献上。

 

〇16世紀『饅頭屋本 節用集』

 数多い『節用集』の中で、すでに室町期に家鴨を「アヒル」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。「家鴨」にルビ「アヒル」と明記。問題は、いつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人学者で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自らの版、林宗二版『節用集』も刊行したのです。この『節用集』も追求したい。

 

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

 <清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す>

  「お湯とののうへの日記」は、内裏、宮中の御湯殿の上の間に奉仕する女官が筆録した宮廷日記です。文明9年から文政9年にまで約350年間の記録。464冊が残っています。一部欠損はありますが、たいへん貴重な日記です。(1477年~1826年)

 豊臣秀吉は島津討伐のため、翌月3月1日に大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願っての宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 

〇1589年天正17年 『節用集 天正17年本』

 「鴨 鳧 鶩」と記されています。ルビを併記すると「鴨カモ、鳧々、鶩々」。

 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じ鳥である。

 天正18年本が有名ですが、わたしの手元の復刊本は天正17年本です。

 

〇1600年慶長5年9月15日 「関ヶ原の戦い」

 

〇1603年慶長8年『日葡辞書』

 イエズス会は大冊の辞典を何年もかけて、完成させました。辞典は、日本人との意思の疎通、布教活動に必需品です。制作は日本人信徒と、イエズス会士との共同作業です。天正年間から制作を開始し、慶長8年1603年に本編を完成出版、翌年補遺刊行。画期的なキリシタン版日本語ポルトガル語対訳辞書です。

「あひる(家鴨)アヒル」 発音「AFIru」 「アフィル」

既述ですが、「H」音が「F」に転化しています。連載第6回「アフィロ」をごらんください。

<2024年10月30日>

 

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アヒルの世界史(10)伝統的抱卵

2024-10-19 | Weblog

アヒルの繁殖でいちばんの難題は、ヒヨコになるまでの孵化です。種卵(しゅらん/有精卵)を孵すのが、以前はたいへん面倒な作業でした。現在は孵卵器がありますから素人でも可能だそうですが、手作業で孵化作業をやっていた時代、温度や湿度の管理や孵るまでの日々の卵の回転作業。たいへんな手間がかかったそうです。

 なぜ人間の手をそこまで必要とするのか。アヒルの親は、自分が産んだ卵を抱かないからです。人間が野生の真鴨から、改良を繰り返しての家畜化の成功でした。しかし別の結論が、アヒルの母性喪失、就巣性の欠如です。

 孵卵器に収容された卵は、温度約37度、湿度約70%で、孵化までの28日ほどの間、器械のなかで暖める。現代の抱卵です。転卵も自動化が可能です。

 

 ところで、中国の伝統的なアヒル繁殖手法には、驚き感動します。長江沿岸で古くからおこなわれていた、一般的な繁殖法だったそうです。

 まず、使い古した舟に、アヒルをいっぱい入れた籠をのせる。そしてこの舟を移動しながら家族も生活している。舟も人も家もアヒルも、かつてみんな一緒の暮らしをしていたのです。

 

 古い孵卵方法は、卵を湿りのあるモミガラのなかに詰め込んで、これを布でおおい、それを日光にあてて温める。孵化したヒナはこの舟で販売したのでしょう。舟は行商舟にもなります。長江の流路一帯の運河や河川を、股にかけて営業していたのではないかと思ったりします。

 

 その後に改良された人工的孵化の新しい手法は、藁くずを温め、そのなかに卵を詰め、それらを大きい籠に入れ、その籠を柵の上に並べる。そして下から熱や火の気のある灰や、炭火を入れた壺で暖めて孵化する。なんとも高等な技術に思えます。

 

 それから、アヒルの肉も卵も中国料理には欠かせませんが、卵の輸出も東南アジア向けに盛んだそうです。中国人華僑は東南アジアで活発に活動しています。家鴨商人も多いのでしょう。タイ、カンボジア、ジャワ、フィリピンなど、たくさんの国に広がっています。

 

 「イギリスでもアヒルの繁殖は盛んに行われ、ことにバッキンガム伯爵家では、大規模なアヒル繁殖を営んでいて、ロンドンの各市場にこれを供給している。」

加茂儀一著『家畜文化誌』1973年昭和48年(法政大学出版局)改訂新版から引用していますが、バッキンガム伯爵家については、旧版1937年昭和12年初版(改造社)にも同じ記載があります。

 同著は1973年、大幅に改訂されました。しかし1000ページ余の大冊です。イギリスのアヒルの部分までは、改訂の手が回っていません。伯爵家のアヒルはもう商業繁殖を終了しています。しかし伯爵家は昔、アヒル商人だったのですね。

 今号の掲載文の過半は、加茂先生の著書の写しになってしまいました。先生の卓見に敬意を払い、心より感謝申し上げます。

<2024年10月19日>

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アヒルの歴史(9)ガチョウ

2024-10-11 | Weblog

 アヒルの義兄弟にあたる水禽の仲間は、ガチョウではないでしょうか。アヒル鶩は鴨のマガモを改良したもの。一方の鵞鳥(ガチョウ)は、雁のマガンを改良しています。

 ところで、いつごろから両鳥は家禽として、人間と同居する仲間になったのでしょう? アヒルはすでにみたように、中国で3千年ほどまえに家畜化されたようです。

 

 さて本日は、義兄弟のガチョウですが、最も古い記録とされるのは古代エジプトです。紀元前2900年~前2200年、旧王国時代にすでにガチョウが、家禽として飼われていたと判断されています。いまから5千年近くも昔の登場です。実に古い。世界最古の家禽とよばれています。

 

 ヨーロッパではホメロスの詩「オデュッセイア」に、ガチョウがたびたび登場します。紀元前8世紀です。

 また古代ギリシアの哲学者、アリストテレス(前384年~前322年)は、すでに動物学的にこの鳥のことを述べ、30日で孵化し、その間、雄鵞鳥が妻の雌鳥を助けないことを観察している。「ガチョウは雌だけで抱卵し、一度抱卵し始めたら、終わりまでずっと卵の上に坐ったままである。湖沼のあらゆる鳥の巣は沼地で草の生えた所にある。それゆえ卵の上に坐ってじっとしていても、何かしら自分の餌をとることができるので、まるっきり食べ物がないわけではない。」

 ローマ人は最初、ギリシア人から鵞鳥の繁殖を知ったのだろう。前390年、敵に包囲されたローマの神殿を、番犬ならぬ番鳥をつとめていたガチョウたちは、夜中に激しく鳴いて急襲を知らせた。ガチョウのおかげで、ジュピター神は守り抜かれた。

 

 念のため、ヨーロッパのアヒルは、2000年~1900年ほど前、ローマの文献に出現します。しかしローマ人よりも早く、まず中北部ヨーロッパのゲルマン人が、飼育を始めたと考えられます。渡り鳥のカモは、中北部で繁殖します。その育卵方法を観察して、ゲルマンの人たちは工夫したのだと考えられます。夏場は溢れるほどの数、カモは充満しています。ところが冬場、カモたちは南の国に移動してしまって、1羽もいません。冬用の食糧確保のため、家畜化のニーズは十分に考えられます。

 ヨーロッパ中北部でいつごろに、アヒルやガチョウの家禽化が開始されたのか? 文献も絵画史料もありません。確定できません。ただエジプトのガチョウは、たくさんの絵画資料などで確定しました。

 

 さて中国ですが、下記の情報には驚きました。ガチョウについての考古学資料で、国際研究グループ7者団体による発掘調査です。北大・筑波大・東大・蘭州大・浙江省考古研・金沢大・肅山博。長江下流域の遺跡から出土したガン類の骨から、同地での家禽化が7000年前に遡ると判断された。これまでのガチョウの最古記録、エジプトのおおよそ5000年前という記録を、大幅に塗り替えました。

 同地は繁殖地ではないのに、幼鳥や留鳥化した成鳥、また食性の人的関与による変化。それらは人為的飼育の痕跡と判断されます。「研究グループは約7000年前にガン類が飼育されており、家禽化の初期段階にあったと結論付けました。」

 詳しくはインターネットでご覧ください。「東京大学総合研究博物館 世界最古の家禽はガチョウ!?~約7000年前の中国遺跡からガン類の家禽化の証拠を複数確認~/2022年3月8日」

 

 さて、日本のガチョウ史はどうなのでしょう。最も古い記述は『日本書紀』です。雄略天皇10年9月4日、呉(くれ)から帰った使者は、同国から献上された二羽の鵞鳥ガチョウを連れて、筑紫に到着した。ところが、地元の役人の飼犬に襲われ噛まれ、死んでしまった。使者は雄略天皇の怒りを恐れ、白鳥10羽と鳥養人(とりかい)を献上して赦免を願い出た。そして天皇は許した。

 

 せっかく海をはるばる渡ってきたのに、ガチョウも相当無念の思いだったのではないかと同情します。

 ところで、気になるのが「鳥養人」(とりかい)、別称「鳥官」。ほかに鳥取部、鳥養部、鳥甘部などの組織があったそうです。『節用集』原刻易林本には「鳥養牧」とりかいまき/とあります。アヒルやガチョウの牧場だったのでは、などと勝手に想像しています。

 

 なかでも注目すべきが「鳥養人」とりかい/だと思います。アヒルやガチョウのことをいくらか調べてみましたが、両者とも養育はかなりむずかしい。プロの技が必要です。鳥養は重要な仕事です。また両鳥は同じ水禽の仲間ですが、性質は全く異なる。追々、改めて紹介しますが、ざっと記します。

 

(1)アヒル 

  雑食性なので食生活の心配は少ない。

  就巣性を欠いている。種卵(しゅらん/受精卵)でもかまわず、地面でもどこにでも卵を産む。

  抱卵をしない。いつも卵は散乱しています。

  孵卵器がなければ現代ではプロでも、卵を孵すことを敬遠するそうです。

  かつて「鳥養人」は28日間、孵化するまで毎日、一定の温度と湿度を保ち続ける。

  そして日に数度、計25日間、温めている卵を回転(転卵)させる。

  ヒナの時に、羽繕い訓練が欠かせない。

 

(2)ガチョウ 

  アヒルと違って就巣性があり、卵は親鳥がしっかり抱卵(30日~32日間)

  孵化しても母親と親族仲間が、危険からヒナをしっかり守る。

  ガチョウの仲間は大家族制社会。ただし守るのは自然育雛の親戚家族だけです。

  人口孵化のガチョウには、親戚も家族もおらず孤立する。

  アヒルと違って草食性。青草を好む。

  冬場に新鮮な草が少なくなるのが問題です。牧草イタリアンライグラスなどが冬場は必要。

  青草を十分にとらないと、卵を産まない。

  ヒナの時に十分な栄養・緑餌を取らせる。特にミネラル分が不足すると、歩行困難になってしまう。。

  幼い時、体温調節ができないので、飼育場にヒーターを1週間ほど入れる。

  イネを食べてしまうので、水田には放せない。

 

 また外敵も要注意です。たとえば、キツネ、タヌキ、アライグマ、テン、イタチ、カラス、タカなどなど。特にヒナが狙われます。 

 ところで、雄略天皇の白鳥10羽は、もしかしてアヒル?

 

参考:『家畜文化史』加茂儀一/1793年 法政大学出版局

   『アリストテレス全集 巻7』島崎三郎訳/1968年 岩波書店

   『草刈り動物と暮らす/ヤギ・アイガモ・ガチョウの飼い方』高山耕二/2023年 農山漁村文化協会

   <2024年9月11日>

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アヒルの日本史(8)民間療法記

2024-10-08 | Weblog

 アヒルは薬用として、中風に効くといいます。南方熊楠は「紀州の民間療法記」に、「白きあひるの生血は中風を治す。各地に昔からの民間療法として、アヒルを中風に使用するとの記事をみたことがあります」と記しています。

 熊楠全集に出てくるアヒルは、なぜかこの1か所だけです。念のため民俗学の柳田国男も全集で確認しましたが、ここには驚いたことに、1羽も登場しません。なぜ両巨頭は、この鳥を無視されるのでしょうか。

 

 さて本日は、薬用アヒルの民間療法です。中風は近ごろ、あまり使わない病名になってしまいましたが、読みは「ちゅうぶ」「ちゅうふう」。脳血管障害のために、半身あるいは体の部分の麻痺を起こす。

 

 お釈迦さんの生誕日である4月8日の「花祭り」、「誕生会」にアヒルの卵を食すと、中風にならない、あるいは治るという民間療法の伝承が、各地に多い。

 

 4月8日、四日市市羽津では花まつりのこの日に、アヒルの卵を食べると中風にならないという。

 

 4月8日のみ、素の玉子を食す。これを喰えば中風を発せずとて食ふもの多し『わすれのこり』明治17年

 

 4月8日にアヒルの卵を食べると、中風にかからない:滋賀・奈良・大阪

 

 白いアヒルは、「又白シテ鳥骨ノモノアリ、薬ニモ食ニモヨシ」『庖厨備用倭名本草』1671年

 

 全ク白クシテ鳥骨ナルハ鳳ト云、南寧府志二出、薬食倶ニ上品トス:『重修本草綱目啓蒙』1844年

 

 鶩(あひる)こそ虚を補ひて客熱を除、臓腑を和するものなれ。鶩こそ驚癇に吉、丹毒や水道を利し、熱痢とどむれ:『食物和歌本草』1630年

 

 白鴨及黄雌鴨肉性ヨシ黒ハ毒アリ食フ可カラス『大和本草』1708年

 

 国定忠治が捕縛されたのは、1850年のこと。彼に同情する目明しの佐十郎が、中風を患っていた忠治のために、アヒルの生血を飲ませた。いまでも同地の称念寺に「家鴨塚」があるそうです。群馬県佐波郡玉村町。

 

 中風にはアヒルを食べるのが良く、特にその生血を飲むと効果が大きい:新潟。

 

 アヒルの生血を飲むと中風が治る:長野・愛知・岡山・高知。

 

 卵を飲むと中風が治る:群馬・愛知。

 

 アヒルの卵を食べると、中風にならない:山梨

 

 彼岸中日にアヒルの卵を食べると、中風にならない:千葉

 

 アヒルの黒焼きは乳幼児の癇の虫の薬なる:広島

 

 アヒルの生き血は強壮剤:徳島・香川

<2024年10月8日>

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アヒルの日本史(7)あひろ

2024-10-02 | Weblog

 「あひる」はかつて、なぜか「あひろ」とも呼ばれていました。この疑問も本日、やっと解決できそうです。

 

 <今俗呼阿比呂、蓋足廣之義>『箋注和名類聚抄』

 「いま俗に、この鳥を「アヒロ」と呼ぶのは、確信をもって推定するが、足の甲面に水かきがあり、表面積がずいぶん広いためである」筆者訳

 

 <鴨鶩一類、所謂阿比呂也>『髄意録』

 

 新井白石は著『東雅』で、「アヒロとはアは足也。ヒロは潤(広)也。」

 

 『重修本草綱目啓蒙』では「アヒルハ足二<ミズカキ>アリテ広シ、故二アヒロトモ云」

 

 そして「足」「脚」のことを、古くから「あ」とも読みます。単独形「あ」もありますが、多くは下に語を複合して「あ」と読む。

 足を「あ」と読む例は、『古事記』欽明天皇「足取王/あとりのみこ」。「足占」あうら、「足掻」あがき、「足結」あゆい……

 

 万葉集3387「安(あ/足)の音もせずに行く駒もが…」

 原文<安能於登世受 由可牟古馬母我…」

 <あのおとせず ゆかむこまもが…>

「安」の読みは<あ>で、馬の<足>の意味です。「もが」は願望だそうです。

 

  また「A・O・U」の3音は、互いに融合しやすい。特に<O・U>は交替しやすいと、専門家はいっておられます。

 例えば、<足結>は<アヨヒ><アユヒ>。ヨO・ユU。<アヒルU><アヒロO>も同様です。

 なお「ハ行」については、「F」か「H」か、混乱しますので、「H」音に統一しました。

 

 

 辞典『節用集』は室町時代、15世紀半ばより大層普及した本だそうです。古本節用集は、文明本1474年、黒本本1590年、天正18年本/伊勢本。易林本/慶長のはじめ1596年ころに刊など。

 その後も改定増補、筆写刊行をしばしば重ね、明治大正期まで延々と改定版が出版され続けた。現在残っている本だけでも、同書名異文本が180種類はあるという。

 カナ文字さえ知っていれば、読みからたいていの漢字と熟語がわかる。汎用国語漢字辞典とでも呼べそうな、日本で最も長期間にわたって利用された超ベストセラーの国民的辞書です。

 

 古い『節用集』で、家鴨を「あひる」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。正確な刊年は不明ですが、「あひる」を記した最も古い本の可能性があります。アヒル誕生です。16世紀中の制作は間違いない。林宗二編纂『饅頭屋本 節用集』が、「アヒル」の初出のようです。

 この『節用集』では、「家鴨」に振り仮名「アヒル」と明記されています。問題はいつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だろうといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自ら饅頭屋本、林宗二版『節用集』も刊行した人物です。

 

 

▷ 以下、アヒル・アヒロを記載した江戸幕末ころまでの書物や情報を紹介します。

 

『御湯殿上日記』1587年天正15年2月19日/宮中より「清水へ願のため、あひるひと番いを進上す」。翌月3月1日、秀吉は島津討伐のために大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願って、宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 798年清水寺仏殿を建立したのは、坂上田村麻呂です。征夷大将軍を二度もつとめた神将、武神、軍神。清水寺が選ばれた理由は、田村麻呂への祈願にあったのかもしれません。

 

『日葡辞書』1603年/イエズス会が発行した日本語-ポルトガル語辞書<アヒル(家鴨)あひる「AFIru」>

 

『食物和歌本草』1630年「鶩(訓/あひる)こそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…(しかし)あひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

 

『多識篇』林羅山1649年/鶩(音ボク/現あひる)を「安比呂/あひろ」と訓している。

 

『バタビヤ城日誌』1661年/台湾救援のため長崎を出発したオランダ船に、家鴨百羽が積み込まれた。当時の長崎では、相当数のアヒルが飼育されていたのだろう。

 

『増刊下学集』江戸時代初期、1669年刊か。「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

 『下学集』室町時代1444年にまず成立。その後、長期間にわたって加筆、書写が繰り返されたそうです。江戸時代初1617年の板本に「鴨カモ、鳧カモ、ニ字ノ義同シ」。『下学集』には、アヒルの記載はありません。

 

『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著/1694年。「鴨アヒロ/鶩。舒鳧。家鳧。」

筆者意訳「いま按ずるに、この国で俗に鴨の字をもって、鳧(訓/けり)となす者がいるが、それは誤りである」。あひるではありませんが、あえて。

 

『農業全書』1697年「生類養書」の中で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

 

『本朝食鑑』人見必大/1697年。「本朝家々家鴨を養いて之を食る者少し、性、毎に穢物を喰ふ之故乎」

 

『唐通事日録』元禄5年1706年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。家畜3種の殺害と食用が、禁止された。生類憐みの令は、1682年から始まっているようです。

 

『大和本草』貝原益軒1708年「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

 

『和漢三才図会』1712年「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

 

『東雅』新井白石/1719年。「鴨は鶩、今俗にアヒロといふもの、鳧はカモというもの也」

<アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。>

「足」は「ア」。「ヒロ」は潤で、「広い」の意味。

 

『禽譜』堀田正敦/18世紀大阪/番犬ならぬ、番鴨として、木村兼叚堂はアヒルの図を載せている。また『千百足』『百品考』は他著ですが、やはり番鳥としての飼育を紹介している。

 

『守貞謾稿』喜田川守貞/起稿1837年、30年間書き続けた江戸末期の事典風俗誌。「4月8日には鶏と<アヒル>の玉子を売る、江俗言傳ふ、今日家鴨の卵を食する者は、中風を病まざるの呪と」

 

『わすれのこり』明治17年ですが、合鴨記事なのであえて/「あひるも追々喰ひなれて、貨食店にて、<あいがも>とあらぬ名を呼びてつかいしより、世の料理通も賞翫する様にはなりぬ」。<合鴨>の呼称は「あらぬ名」と呼ばれながらも、アヒル食をしのぐほどに定着していったようです。

 

 梶島孝雄先生(1943~2000)は、名著『資料 日本動物史』八坂書房のなかで、アヒルの初出について述べておられる。<『饅頭屋本節用集』がやはり、家鴨を「あひる」として紹介した最初であろうか?>

 古典を渉猟された梶島先生のご意見だけに、わたしもこれまでそう信じていましたが、「そうだろうか?」という疑問も、近ごろ湧いてきました。これから自分なりに探求し、先生にいつかご報告できるのを目標にいたします。

<2024年10月2日 アヒル話はまだ続きそうです>

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