ブログ小休止宣言を前回に出しましたが寂しいものです。5年以上にわたって駄文を書き連ねて来たのですが、どうも習慣になってしまったのだと思います。
休刊の理由は、急きょ「伊藤若冲年譜」制作をはじめたからです。還暦までを前編とし、あるていど仕上がって来ました、といっても道のりは遠い。それにしてもたいへんな難題を引き受けてしまったものです。
若冲は56歳のころから還暦の直前まで、ほとんどというか、まったく画を描いていません。空白の謎の期間といえます。ところが近年、やっと原因が判明しました。滋賀大学経済学部の宇佐美英機教授が、当時の錦市場を経済史の立場から解明されたのです。学問はそれぞれ孤立せず、連携することの大切さを痛感させる大事件でした。
若冲は存亡の危機にあった錦青物市場の救世主でした。それこそ命をかけて全力で疾走していたのです。これまでの若冲という人物の評価は、世事に疎く画を描くしか能のない畸人とされていました。そのような人物観はものの見事に打ち破られてしまったのです。驚くべき若冲の勇姿が出現しました。
この若冲年譜稿は石峰寺に送ります。彼が還暦から亡くなる85歳までの四半世紀、全力で創作活動を注いだ黄檗の石峰寺の会報に掲載するために作成しています。友人からは「文はブログに載せず、興味ある方には会報で読んでいただきましょう」と釘をさされていました。
しかし錦市場を救った義人「若冲」の活躍だけは読んでいただきたいと思います。全文は「石峰寺 伊藤若冲顕彰会」会報で読めます。年始刊予定ですが、興味ある方はぜひ入会ください。若冲のためにも新しい会員が、ひとりでも増えますことを祈ります。詳細は前回ブログをご覧ください。
1771年 明和8年 辛卯 56歳
○12月22日 京都東町奉行所より錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。商いがそもそも公許を得てのものなのか、その証文はあるか、また営業の内容は正当であるのか、返答書を求められた。このような意外な事態が生じた原因は、同じ青物市場で競っていた大橋西の五条問屋市場の謀略であった。錦高倉青物市場の解体、分裂弱体化させての傘下化、さらには錦高倉市場の廃止を画策したのである。
○12月24日 東町奉行所への返答書に、帯屋町年寄の若冲署名「高倉通四条上ル丁/年寄/若冲」
1772年 明和9年 壬辰 57歳
○1月 錦高倉市場は奉行所より営業停止を言い渡される。青物市場四町の代表者である帯屋町年寄の役にあった若冲は、この苦境を解決するために対外交渉に当たった。彼は五条市場と妥協することなく、正々堂々と役所と交渉する道を選ぶ。若冲は五条市場からの理不尽な提案に対し、四町は揃って拒絶する旨の書を返した。「五条問屋丁ニしたかい申候訳者一切無御座」。四町は中魚屋町、西魚屋町、帯屋町、貝屋町。
○2月30日 いったんは営業再開にこぎつけた。しかし7月にはまたもや営業を停止させられる。
○町年寄 幕府直轄の諸都市における町年寄は、他の有力町人とともに江戸城において将軍に拝謁できるという格式を与えられていた。年頭には江戸の町年寄はじめ、上京、下京、大坂、堺、奈良、伏見の町年寄などが白木書院の縁側で将軍に目見を受けた。若冲は京を代表する町年寄ではないが、いざとなれば幕府に訴え出ることが可能な立場であったと思われる。
○4月 大典が相国寺慈雲庵に復帰。本山からの度々の強い勧告を受け、13年ぶりに戻った。画ばかり描いている聞中への大典の叱責はこのときか。聞中は若冲から作画を習い、毎日一紙の芦雁を描くことを日課にしていた。聞中はその許可を大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に関する訳では、決してない……」。大典著『小雲棲手簡』二編下(1787年刊所収)。残念に思うのは、描画を否定するかの厳しい言葉と、苦境にある若冲を大典の相国寺が助けた気配が感じられないことである。相国寺なら幕府に対していくらかの影響力を示せたのではないか。
○7月 奉行所はまたもや錦高倉市場の営業停止を命じた。困りぬいた若冲は医者の四条原洲菴に悩みを話した。「市場は差しとめられ、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の農民百姓町人たちが難儀している」。原洲菴は江戸から入洛していた知人の中印中井清大夫を紹介した。若冲は中井の意見を取り入れ、困窮している農民を取り込む作戦をたてた。若冲はまず壬生村の庄屋四郎八を説得し連携行動をとる。若冲は四郎八に「どのようなことがあっても、わたしが責任を取る」と語った。
○秋 若冲は西九条村、中堂寺村の賛同も得る。彼らはこのままでは農の生活が成り行かず、年貢の上納にも支障が生じると奉行所に訴え出た。また五条問屋市場と錦青物市場とはまったく性質の異なる市場で、錦青物市場がなくなれば、京の需要がまかなえないとする書状を提出した。賛同する村はその後も増える。若冲は東九条村や御霊村に出向いて説得した。西七条村、西塩小路村、上鳥羽村、東寺廻りも加わり、若冲の努力で九カ村連合が結成された。錦市場とは取引のない聖護院村、吉田村、岡崎村までもが加勢を申し出た。
○8月25日 若冲は町年寄をあえて辞任する。彼は錦高倉四町を代表する町年寄であったが、理由は万一市場再開が不可能になれば江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。実行すれば一揆とかわらない。若冲は命がけで幕府評定所に出願する決意を固めた。役をついだ町年寄の三右衛門に若冲は「関東に下って江戸奉行に訴え出る覚悟がある」と語っている。自らを平ラ(ヒラ)にしたのは、その累がせめて錦市場に及ばないようにという配慮である。
○11月2日 十二カ村代表が寄りあった。中井は「町奉行所から市場再開の許可が下りなければ、七カ村の御蔵百姓たちと錦街商人たちが江戸に出願したらどうか。この場におられる若冲さんもその覚悟である」と話した。東九条村はおじけづき役所への願いを取り下げた。御蔵とは幕府直轄の米蔵で、七ケ村は幕府領地であった。
○聞中は隠元百回忌の書記をつとめるために、萬福寺に呼びもどされた。翌年には住持の伯結制の冬安居の知浴をつとめる。
○11月16日 安永に改元。
1773年 安永2年 癸巳 58歳
○この年も錦高倉市場四町の営業再開は許されなかった。決着は翌年に持ち越す。
○3月25日 大坂に移った中井清大夫にかわり智恵者の若林市左衛門が加わり、若冲とはじめて対面した。若林は「錦高倉四町の結束が揺らいでいる」と教えたが、その後確かに西魚屋町と貝屋町が脱落し、帯屋町と中魚屋町二町のみが、困窮を役所に訴え続ける。
○6月26日 二町は七カ村と協調して追願書を提出した。訴願には多額の費用が必要で、村方町方は合力で金二十両と銭六十一貫四百文を取り急ぎ集めた。
○夏 萬福寺20代住持の伯照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服を更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。……」。また「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されている。古くから子どもが習い事、芸事をはじめるのは、六歳の六月六日であった。若冲も同様であったのではないか。なお「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
○宇治の萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持の選任には幕府が当たっていた。萬福寺こそ幕府との強い接点をもっていた京の大寺と考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願ったことも可能性はあろう。またいたし方なく幕府に直訴するなら、黄檗山住持が下賜拝領した僧衣を身にまとい、出家僧として「革叟」の法名を名のり、七ケ村の義民と一緒に江戸に向かうつもりであっただろう。しかしこの名「革叟」はさいわいなことに一度も使われず、その後どこにも見当たらない。
1774年 安永3年 甲午 59歳
○8月29日 錦高倉青物市場四町の営業再開を、東町奉行所がやっと許した。公認の青物市場として復活がついにかなった。解決の次第を記し、村方町方関係者が連署した一札には「桝屋若冲」の署名がある。また三年近い紛争の間、若冲が画筆をとったという記録は、どこにも見られない。
○『猿猴摘桃図』に萬福寺の伯照浩が着賛。この猿図が数年ぶりにやっと筆をとった若冲の久方ぶりの画作かもしれない。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。賛を意訳すると「桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになるであろう」。命がけでみなのために目標を達しようとしている若冲の姿を描いているのであろうか。紛争の末期、解決の目途がやっと立ったときに描かれたのであろうか。ついに仙桃は得られた。
1775年 安永4年 乙未 60歳
○6月 大典『小雲棲稿』刊。若冲寿蔵の補訂字句を記す。
○この年に第二弾が刊行された『平安人物誌』に、応挙、若冲、大雅、蕪村の順で載る。はじめて蕭白(1730~1781)の名が出たが、順位は二十名中十五番目と低い。若冲の住所は高倉錦小路上ル町。応挙の住まいは四条麩屋町西へ入町で、明和5年版の『平安人物誌』と異なる。四条麩屋町のすぐ向いに引っ越したようである。このころ、画家若冲は錦高倉青物市場を救った義人としても評価されたはずである。人物誌には「藤汝鈞/字景和号若冲/高倉錦小路上ル町/藤若冲」。この住まいは帯屋町ではなく伊藤家本宅の向かい、中魚屋町の北屋敷のようだ。
<2012年11月30日 南浦邦仁>