ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

アヒルの日本史(1)万葉集

2024-08-27 | Weblog

 鳥のことをあれこれ調べておりましたら、「アヒル」にたどり着いてしまいました。アヒルはいつから日本におるのか? 不明だそうです。

 鶩(訓:あひる/音:ボク木)はマガモを改良してきたもの。しかし、日本では家禽に限らず、動植物の改良はまったくの苦手のようです。自然のままを大切にし、あえて種に手をくわえないのでしょうか。

 中国では数千年も前から、真鴨の品種改良を重ねて鶩(あひる/ボク)を作り上げて来ました。それなら隣国の日本にも舶来してもいいはずでしたのに、奈良時代以前にはその痕跡がなさそうです。小さい家畜ですから、船での運搬も楽だったはずですのに。その理由も追求したい。

 

 奈良時代後半に集成なった『万葉集』(759年~780年)。登場する「鳥」を、まず紹介します。鳥名の右の数字は登場回数です。残念ですが、アヒルは見当たりません。「アヒル」の呼称は、ずいぶん後世から始まるようです。おそらく16世紀のことです。これも解明したいですね。

 次の平安時代は「七九四ウグイス平安朝」ですね。

 

ほととぎす    153

雁かり      65

鶯うぐいす    51

鶴つる・たづ   47

鴨かも      29

千鳥ちどり    26

鶏かけ・にわとり 14

鷹たか      11

うずら      9

喚子鳥よぶこどり 9

雉きぎす・きじ  9

あぢ・ともえがも 8

にほ・にほどり  7

みさご      6

鵜う       6

ぬえ・ぬえどり  6

かほどり     5

山鳥やまどり   5

おし・おしどり  4

からす      4

ひばり      3

わし       3 

小鴨たかべ    2

もず       2

 

 1回だけ登場した鳥は、

 あきさ/あとり/いかるが/かまめ(鴎かもめ)/さぎ/しぎ/つばめ/ひめ(鴲しめ)/みやこどり

 

 不思議と登場しない鳥は、

雀すずめ/鳩はと/鵯ひよどり/椋鳥むくどり/鶸ひわ/鳶とび/鶺鴒せきれい……。あまりに身近過ぎて注目されないのでしょうか。

 『日本書紀』では、神武天皇を先導した金色のトビが有名です。セキレイも同様です。イザナギ・イザナミもセキレイに習ったといいます。

 このふたつの鳥には、古代から先行する強すぎる神話伝説があるために、あえて避けたのでしょうか。

 また「鳧」ケリが気になります。『万葉集』には1ヶ所だけ、鳧と思われる「気利」が出ます。これも注目の要点です。

 

 アヒル話の連載をいま開始しましたが、横道のケリやカモなども触れながら、ゆっくり進めていきたいと思っています。

 2千年ほども昔の中国漢代の辞典に「舒鳧鶩也」という言葉がありました。「家鴨は尻を振り振り、ゆっくり歩くが、これはアヒルである」。舒は「のろい」「ゆっくり」などの意。ここでの「鳧」は「ケリ」ではなく「鴨カモ」です。また鴨には野生の野鴨と、家で飼う家鴨、すなわちアヒルがありました。

「寸翁と抱一」はしばらく、夏休みです。

 

参考:『万葉の鳥』山田修七郎/近代文藝社1985

『万葉の鳥、万葉の歌人』矢部治/東京経済1993

<2024年8月27日>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原発なき社会を求めて

2024-08-21 | Weblog

 反原発・季刊雑誌「季節 」夏・秋2024―どうすれば日本は原発を止められるのかー

 <原発なき社会>を求めて集う不屈の<脱原発>季刊紙/「季節」創刊10周年特別号/

 「紙の爆弾」2024年9月号増刊/定価880円/発行 鹿砦社(ろくさい)

 発売になりました。アマゾンでの検索は「雑誌 季節」でヒットします。表紙写真は大きな石積みですが、これはエジプトのピラミッドのようです。

 

 ところで、鹿砦社代表の松岡利康さんは、倒れても倒されても七転八起。何度でも立ち上がる不屈の闘士です。わたしも尊敬する出版人です。

 松岡さんは雑誌「季節」でこう述べています。「福島で必死に頑張っている方々を思うと、(雑誌の発行を)放り投げるわけにはいきません。なにしろ類似誌はないわけですから、この雑誌がなくなれば福島の声や全国の反<脱>原発の声を反映する場がなくなります。」発行継続のむずかしいのが、良心や正義を主張する雑誌です。また掲載広告も皆無です。

 わたしも非力ですが、雑誌「季節」を応援します。

 雑誌「季節」にはたくさんの識者が寄稿されています。だいたいがひとり数ページ。全文は同誌でご覧いただくとして、本日はほんの短いフレーズほどですが紹介します。引用文はわたしの個人的選択です。

 

「原子力からこの国が撤退できない理由」小出裕章/元京都大学原子炉実験所助教

 日本では「原子力の平和利用」という言葉が広く宣伝され、浸透してきた。…「Nuclear」という単語を「核」と訳す時は「軍事利用」で、「原子力」と訳す時は「平和割用」であるとし、あたかも両者が違うものであるかのように洗脳してきた。しかし、技術に「軍事」と「平和」の区別はない。

 

「なぜ日本は原発をやめなければならないのか」樋口英明/元福井地裁裁判長

 原発の本質は、①人の継続的なコントロールを必要とし、②コントロールできなくなると暴走し、とてつもない被害をもたらす。この二つが原発の本質であり、原発をやめなければならない世界共通の理由である。

 

「事実を知り、それを人々に伝える」井戸謙一/弁護士・元裁判官

 事実を知れば、人々は合理的な判断をする。年齢には関わらない。問題は、どのようにして必要な情報を人々に伝えるかにあると私は考える。

 

「課題は放置されたまま」後藤政志/元東芝原子力プラント設計技術者

 もしも、1970年代に計画されていた珠洲原発が計画通りに建っていれば、福島以上の大規模な事故になったことを否定できない。地元で粘り強く闘った人たちが、私たちを大規模原発事故から救ってくれたことに心から感謝する。

 

「東京圏の反原発―これまでとこれから」対談:鎌田慧・ルポライター/柳田真・たんぽぽ舎共同代表

 (六ケ所村について)使用済み核燃料を溶かして、ウランとプルトニウムに分離し、その液体をガラスと固め、固化体にする工程のセル(部屋)で、高濃度の廃液が漏れた。その漏れた廃液には原発三発分くらいの放射能が含まれているそうです。その場所には一五年以上経っても近づけないんです。

 

「核融合発電」―蜃気楼に足が生えー」/今中哲ニ・京都大学複合原子力科学研究所研究員

 蜃気楼のような核融合発電の開発に、ベンチャー企業が参入し、ビル・ゲイツのような大金持ちから投資を受けるのはかまわないが、「もうすぐ実現」というプロパガンダで巨額の税金が投入されることを危惧している。

 

「守りに入らず攻めの雑誌を」菅直人/衆議院議員・元内閣総理大臣

 脱原発と自然エネルギー促進を目指す運動には、引き続き取り組んでいく。

 

「混乱とチャンス」中村敦夫/作家・俳優

 問題なのは、一部の人々が、巨額な広告費がつぎ込まれて「安全神話」に、依然マインドコントロールされていることだ。

 

「検証・あらかぶさん裁判 原発被ばく労働の本質的問題」なすび/被ばく労働を考えるネットワーク

 人間を物のように使い捨てて産業が成長し国家が延命する、そのような理不尽を許してはならないと、改めて思う。

 

「棄民の呻きを聞け 福島第一原発事故被災地から」北村敏泰/ジャーナリスト

 時の権力に抗し、後にも一向一揆などで民衆の反抗のエネルギーとなった、その親鸞のような抵抗の姿勢が、いまこそ強く求められている。

 

「COP28・原発をめぐる二つの動き 『原発三倍化宣言』と『気候変動対策のための原発推進』合意」原田弘三/翻訳者

 温暖化防止のために原発を推進するなどということは救いようがないほど愚かな選択である。COPがそのような愚行を先導しているという現実を直視する必要がある。

 

 以下、引用文は省略します。理由はあまりに長いレポートになってしまうため。その他の寄稿もぜひご覧ください。

「核武装に執着する者たち」山崎久隆/たんぽぽ舎共同代表

「珠洲原発・建設阻止の戦いは、民主主義を勝ち取っていく闘いだった」北野進/志賀原発を廃炉に!訴訟・原告団長

 まだまだ続きがあります。ぜひ雑誌「季節」を一読ください。

 

<2024年8月21日 南浦邦仁>

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(6)鰻と御菓子

2024-08-13 | Weblog

 本をあれこれと読んでいて気に入る一文によく出会います。しかし公表しないで放っておくと、きっとそのうちに忘れ去ってしまう。そのような小話を、今日は備忘としていくつか紹介します。

 逸話は、もちろん寸翁や抱一に多少なりとも関わる端切れのようなもの、にわか雨の類のようなものでしょうか。もしも干天の慈雨にでもなれば幸いです。

 

 河合寸翁のことに、これまであまり触れていないので恐縮しています。少しばかり、駄文でお茶を濁します。

ところで寸翁も抱一同様、たくさんの号名前を持っていました。

 幼名は猪之吉(いのきち)。後に改め隼之助(はやのすけ)。藩主から与えられた道臣(みちおみ)。諱は定一(さだいち)。字は漢年(かんねん)。号は鼎(かなえ)、元鼎(もとかなえ)、白水(はくすい)……

 

 藩主酒井忠道(ただひろ)から偏諱(へんき)を与えられ、54歳からは「道臣」(みちおみ)と称した。有名な「寸翁」は、69歳で隠居してからの名です。彼のことを語るには現役時代、16歳から54歳までの「隼之介」、そして54歳から69歳までの道臣が適当なのでしょうが、わたしは習慣で寸翁で通します。本当のところ寸翁は69歳からの名ですが。

 

 猪之吉は、安永6年12月14日(1777)11歳のとき、藩主忠以に初めて謁見しました。この年、城主忠以は22歳。江戸の抱一は17歳でした。

「猪之吉は藩主の忠以にかわいがられ、この年から城にあがって、忠以の側に仕えた。生来利発な少年で、後に家老として政治をおこなう上でのさまざまな知識や心得を、藩主の側にいて学ぶことができた。」(黒部亮)

「幼にして機慧、藩主忠以公、特に之を愛し自ら之を鞠養して授くるに諸藝を以てす。」この一文をどこで読んだのか、掲載書物不明です…※追伸、出処がわかりました。『姫路紀要』松本静吾編 大正元年刊。

 藩主酒井忠以(ただざね)は抱一の兄ですが、有名な号に「宗雅」。茶人・俳人としても一流でした。彼もたくさんの名前を持っていましたが、興味深い号をいくらか紹介します。銀鵞(ギンガ/がちょう)、群鷺城主人、鷺山…。

 

 変転していく寸翁の名前を年齢順に記しておきます。当時のひとたちの名や号を見ていると、出世魚のハマチを思い出してします。しかし庶民はどうだったのでしょうか。田吾作はいつまでも田吾作だったのでしょうか。

明和4年1歳  1767 姫路城下に生まれる。幼名猪之吉。

天明2年16歳1782 猪之吉を隼之介にあらため、諱を定一とする。

天明7年21歳1787 年寄役就任。

文化5年42歳1808 諸方勝手掛拝命。財政改革総責任者。

文政3年54歳1820 藩主忠道から道臣の名を拝命。

天保6年69歳1835 やっと隠居が認められ、寸翁と改名。

天保12年75歳1841 寸翁逝去。

 

 寸翁による姫路藩財政の立て直しの偉業は、あまりにも偉大で、わたしはもっと学習しないと語れません。また寸翁は産業や金融だけでなく、次のような町の店おこしにまで力を添えておられました。姫路名物誕生の小話編です。美味しい二軒を紹介します。

 

 まず鰻の森重(もりじゅう)。創業嘉永元年の老舗ウナギ屋さんです。

 姫路城下町にあった小料理屋の主人重助に、河合寸翁は江戸への修行を持ちかけました。1830年ころ天保初期のこと、行先は寸翁が江戸で贔屓にしていた鰻料理屋「八百善」。帰ってきた重助は、大坂風に江戸風を取り入れた本筋の鰻を焼いた。また開業までの準備万端は、寸翁の命で藩士武井守正があたった。

 勤王の志士たちも、姫路を通るとよく立ち寄った。いまも保管されているお得意様名簿には、土佐の坂本龍馬、肥後の住江甚兵衛、津山の鞍掛寅治郎などの名があります。明治中期には天皇が姫路に立ち寄った際、森重は鰻を献上。「臨時大膳識」を仰せつけられました。同店は当然ですが、いまも営業されています。ちなみに冬は、蠣専門のカキ料理屋さんになります。つい先日、はじめて行ってきました。次はカキが楽しみです。

 

 もう一軒は和菓子の伊勢屋本店、創業は元禄年間といいます。森重と同じ時期、天保のころの話です。家老河合寸翁のすすめで、伊勢屋は江戸へ修行に行きます。学んだ先は、江戸屈指の菓業を誇っていた金沢丹後大掾(だいじょう)です。姫路に帰った伊勢屋新右衛門は、数種の菓子を考案しましたが、寸翁が特に気に入ったのが「玉椿」。藩の御用菓子司に用命されました。これも数日前、姫路駅の土産物店街で買い求め、久しぶりに賞味しました。ふわっと柔らかい餅と餡がすばらしい。なお「玉椿」命名も河合寸翁です。

 

 ほかの伝えに、寸翁は長崎へ油菓子の研修にも行かせた。それが播州かりんとうの元になったそうです。そして京都にも和菓子修行に行った。長崎と京都の菓子、いま注目しています。かりんとうは判明しそうですが、京都は手掛かりがまだありません。いつかは両話ともに興味ある「余話」として、掲載したいものです。

 

 ところで、江戸の味処をなぜ寸翁が精通していたのか。いくらたびたび、姫路藩の江戸屋敷に彼が出向いているとはいえ、有名な鰻屋や菓子屋まで、なぜ知っていたのでしょうか? わたしの勘ですが、通人の抱一に連れられて、これらの店を訪れたのではないか。まんざらの絵空事ではありません。

 想起すれば、抱一の兄の酒井忠似(宗雅)は、隼之介11歳からの師であり主君だったのです。若いころ、抱一は兄宗雅を師として画文を習っています。若き日の寸翁、猪之吉は忠以から学びました。抱一と寸翁は、兄弟弟子の関係にあったのです。また抱一は、当時の江戸を代表する文化人かつ粋人でした。

 

 追伸で一話。前に紹介した抱一の号「杜陵」について。後に知ったのですが、杜陵は長安城の東南に位置する中国漢代の皇帝・宣帝の陵墓でした。後の唐の時代、近くに住居した杜甫は「杜陵布衣」「杜陵野老」などを号として用いた。(玉蟲敏子)

 

『酒井家姫路藩の文化』姫路市立城郭研究室2023年

『姫路城を彩る人たち』黒部亮他 神戸新聞社2000年

『酒井抱一の絵事とその遺響』玉蟲敏子 ブリュッケ2004年

<2024年8月13日 南浦邦仁>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(5)計里

2024-08-08 | Weblog

 杜甫の詩に「白鳧行」があります。抱一の号「白鳧」(はくふ)は、ここからとったのでしょうか。ちなみに杜甫は唐代の詩人、712年~770年。また杜甫の号のひとつに杜陵野老がありますが、「杜陵」は酒井抱一の号です。このふたつの重なりは、偶然でしょうか? 抱一は意図的に杜甫から選んだ、とわたしは思っています。

 

 さて杜甫の詩「白鳧行」769年全八句を、一行紹介します。

<化為白鳧似老翁/化して白鳧と為りて老翁に似たるを…>

 後藤秋正氏は「杜甫はどこに逗留している時でも渡り鳥でもある鳧の姿に自身の姿を重ねていた。その到達点が『白鳧行』として結晶している。…羽の白くなった鳧は杜甫が新たに造形したものであったが、この白鳧は杜甫の自画像となったのである。」

 波に浮かぶ鳥の姿は、世の中の流れに従って浮沈している自身の姿。年月を経れば、いつか真っ白の鳥になり、老いた翁そのもののような姿になるのでしょうか。

 

 ところで、杜甫がいう「鳧」は、実は鴨(かも)なのです。中国語「鳧」字には、鳥「ケリ」の意味、呼称も面影も微塵の欠片もありません。なぜなのか? 関係の鳥文字を、辞典でいろいろ調べてみることにしました。    <鳧  鶩  鴨  計理>

 まず現代日本の漢和辞典では、

 「鳧/漢音:フ 字義:かも・けり」

 「鳧/①かも鴨、カモ科の鳥 ②けり、チドリ科の鳥」

 「鳧/①かも、のがも。②あひる。/国訓:けり。しぎに似た水鳥。」

 「鳧/過去の助動詞の「けり」にあてて用いる。転じて、決着。きまり。かた。鳧がつく。」

 「鴨/文字義⓵水鳥の一。②あひる、人家に飼う水鳥の一。」

 「鴨/かも ①野鴨 ②あひる家鴨」

 「鶩/音:ぼく 訓:あひる」

 

 

 中国清代に編纂された『康煕字典』。難解な本ですが完成は1716年。

「鳧(読み:フ)、鴨(オウ)なり。」「鳧ハ鶩。」

「野にある鳥は鳧(アフ/註:かも)といい、家にあるのは鴨(註:あひる)と呼ぶ。」/

 同じく清代の『杜甫詳注』には「鴨は水鳥なり。野を鳧といい、家を鶩という。」

 野生鳥と家禽とを、区別しているのがわかります。次に日本の古い字書をみてみます。

 

「鴨/和名・加毛」<本草和名>918年/

「鴨/(音:押おう)野にある鴨は鳧(音:扶ふ)、家におる鴨は鶩(音:木ぼく)。」(注:鶩は和名、阿比留アヒルです。)

「鳧、野鴨名、家鶩鴨名、」「野鴨為鳧、家鴨為鶩、」「野鴨曰鳧、家鴨曰鶩、」<倭名類聚抄>平安時代中期/

「鴨は鶩を俗にアヒロ(注:アヒル)といふもの、鳧はカモといふものなり」<東雅>新井白石1717年/当時では最高の鳥字解釈ではないでしょうか。また前年1716年に、清の『康煕字典』が完成しています。/

 計里(けり)万葉集に鳧の字を用いている。鳥の計理の大きさは鳩に似、頭背は黒い灰色、腹は白色、翼は表裏ともに白いが、端は黒い、…その肉の味は甘美でうまい、秋にこれを賞す。<和漢三才図絵>江戸時代中期/食した記録はまだ、これのみにしか出会っていませんが、きっとおいしいのでしょうね。この記述はかなり正確にケリの姿を描いています。またケリの鳴き声が「ケㇼィ、ケㇼィ」と聞こえるところから「計理」の字があてられています。ただ、わたしには「ケッ、ケッ」と聞こえます。和製語ですが、現代の辞典や鳥本にも「計理」がいくつか出てきます。/

「けりに鳧字をあてたのは、鳧の類にけりという鳥があったので、借用された。また鳴き声が『けりけり』と聞こえるので、けりと名づけられた。」<倭訓栞>江戸時代後期/「鳧の類にけり云々」には納得がいきません。/

 参考までに、杜甫詩「鳧」について。大家のおふたりは「かも」とルビをふるだけです。吉川幸次郎も鈴木虎雄もともに、鳧字についてなぜか、一言の注もないのです。

 

 付録のような扱いですが、「鶩」アヒルのこともいくつか紹介します。

「鶩(安比呂)」<多識編>林羅山17世紀

「鴨(アヒロ)」<和爾雅>1694

「鴨カモ/アヒロとはアは足也、ヒロは潤也、」<東雅>1717

「アヒロ・アヒル」<重修本草綱目啓蒙>1847

「唐家鴨。唐人食物に長崎へ持渡る也、天明年中、紅毛人長崎へ持渡、」<飼鳥必用>江戸時代後期

「鶩(ボク)/鳧(あひる)也。鴨也。以為人所畜」<康煕字典>1716

「鶩/ボク・ブ・あひる。家畜に飼いならした真鴨の変種。」<新漢和辞典>大修館1982

 アヒルがいつ日本に持ち込まれたか、ですが、天明年間(1781~1789)よりも古く、おそらく16世紀半ばまでには長崎に入ったと考えています。

 

 ところで長ながと、鳥談義を続けてしまいましたが、最後に鳧についてまとめ、ケリをつけます。

 日本に鳧字が入ってきたとき、おそらく字義不明でした。鴨(オウ・かも/加毛)と同じ意味だと判断すればよかったのに、間違ってチドリ科の鳥「ケリ」として使ってしまいました。そのため、鳧は鴨や鶩などと混乱が生じてしまった。鳴き声から誕生した和製語「計里」をもっと普及させておれば、このような無用の混乱は起きなかったのに、と思う。

 それと鳧字を上下に分解すると、鳥と「几」(キ)の組み合わせです。几が長いニ本足に見えませんか? チドリ科のケリの足も長いのです。

 今回の掲載は、ここまでにします。暑いです。夏バテ要注意ですね。

 

参考:後藤秋正「杜甫の詩に見える『鳧』について」中国文化:研究と教育75巻2017年 Web版

<2024年8月8日 南浦邦仁>

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

河合寸翁と酒井抱一(4)ケリ

2024-08-04 | Weblog

 画家文人の酒井抱一は、たくさんの名前を持っていました。

 幼名善次、通称栄八に善次から改名。実名酒井忠因(ただなお)。字喗真(きしん)。俳号は白鳧(はくふ)。濤花(とうか)、杜綾(とりょう)、杜陵、鶯邨(おうそん)。狂歌は尻焼猿人。ほかに軽挙道人、屠龍、狗禅。庭拍子、楓窓、雨華、冥々居、冥々……。そしてもっとも有名な酒井抱一。こんなに名があると、使い分けで間違うのではないかと、ひとごとですが、心配になりそうです。それらのうちに、気になる名がいくつかあります。ひとつが「白鳧」(はくふ)です。

 

 抱一の兄、姫路藩主酒井忠以(ただざね・宗雅)の『玄武日記』は詳細な記録で有名です。安永5年1772年正月から寛政2年1790 年6月にいたるまで、「15年間の長期にわたって、丹念にその日常・交友などを記録した貴重な資料である」(城郭研究室年報)。同年7月17日、忠以急逝、享年36歳。

 

 『玄武日記』には、兄の忠以と、弟抱一が手紙をやり取りした記載が、細かく記録されています。たとえば

「白鳧ヘ手紙遣ス事」、「白鳧ヘ返事遣ス事」、「白鳧より返事一通」

 

 忠以が姫路に居り、抱一が江戸在住の時、数えきれないほどの手紙がやり取りされています。その送受信が事細かく、日記に記されているのです。日記には抱一の名は、白鳧以外には栄八も散見されます。使用された名は白鳧と栄八のふたつのみです。

 差出は日々、だいたい複数者宛。忠以は相当の筆まめな殿でした。また参勤途上、宿泊の地へも、飛脚が行き来していました。そのような特殊配達や速達の芸当ができたのは、姫路藩が自前の飛脚制度を持っていたからです。この飛脚の件、どの本で読んだのか、わからなくなってしまいました。詳細はいつか、発見しましたら報告します。

 

 ところで鳧は鳥「ケリ」で、チドリ目チドリ科の野鳥。地上にいるとあまり目立たない地味な鳥ですが、飛んでいるときには翼が表裏ともに白く、その先端が三角形に黒い。腹と背も白い。飛行時に見える白色が鮮やかで目立つ。シラサギの全身真白な羽毛とは異なりますが、立ち姿は地味な色だけに、一度飛び立つと見事な白色に感動してしまいます。抱一の「白鳧」の号は、シラサギよりも白色が眩しい「ケリ」の姿から選ばれたのではないか、思ってしまいます。

 

 鳥ケリはほぼ留鳥で、生活域は水田、畑、河原、湿地など。田起こし前から水を引くまでの水田、耕す前の畑などに巣を作る。繁殖を終えると小群をつくって生活し、そのまま越冬する。

 野鳥カメラマンの叶内拓哉氏が、ケリの話を書いておられる。

 ケリは早春、田おこしをする前に卵を産み、ヒナを育てる。ときどき、遅れて繁殖したものは、田起こしの時期にぶつかってしまい、巣もろとも壊されてしまうものもいる。4月中旬のこと、双眼鏡で探すと、田の中にケリの巣を発見。写真撮影にいい場所を見つけカメラを構えた。ところがその時、農家の人が来て、これから田起こしを始めるという。叶内さんはあわてて、田の中にはケリの巣があり、そこで親鳥が卵を抱いている、と話した。その人は事情をわかってくれて、その時は了解してくれたかに見えた。ところがしばらくすると、突然田んぼに耕運機を入れて耕し始めたのである。私はがっかりすると同時に、多少腹立たしくさえなった。わかってくれたと思ったのに……。それでも農家の人にしてみればしかたがないか……、心を残しながらも帰ることにした。帰りの道すがら、先刻巣のあった田に「それでも……」と思って寄ってみた。田んぼはきれいに耕されていた。ところがその田の中ほど、ちょうど巣のあったあたりは手つかずで残っているではないか。私は歓声をあげて走った。巣はあった。中には三つの卵があった。ケリの親は巣を放棄したのだろうか。いやチドリ科の鳥はふつう四卵を産む。きっともう一卵を産むはずだ。しかしここにいつまでもおれば、親は巣を放棄してしまう可能性がある。/叶内氏は現地を去った。きっと元気に、四羽が巣立つと信じながら。『日本の野鳥100』

 

 筆者の自宅近くに、ケリの集住地があります。水田一枚ですが、地主は稲作など農業はせず、彼らが生活しやすいように、いつも浅く水を張っておられる。ケリたちを愛するやさしさを感じます。

 わたしはこの田の近くを通るとき、いつも立ち寄り、ケリの様子を確認しています。6月には12羽を見ることが多かった。1家族6羽なので、きっと2家族なのだろうと思う。そして近ごろ、群れは多い日には40羽ほどに増えました。これだけたくさんのケリが元気に育つことができるのは、田の地主さんと、近隣の住民のみなさんの温かい眼差しのおかげだろうと感謝しています。

 

 次回もケリですが、杜甫の詩「白鳧行」を紹介しようと思っています。ただ解釈に難題が生じてしまいました。解決に向けて、奮闘中です。

 

『玄武日記』姫路市立城郭研究室年報所収 1999・2003~2012

小林桂助著『エコロン自然シリーズ 鳥』保育社1996

叶内拓哉著『日本の野鳥100①水辺の鳥』新潮社1986

叶内拓哉他著『日本の野鳥 山渓ハンディ図鑑7』山と渓谷社2014

 

<2024年8月4日 南浦邦仁>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする