<湖南蕉門>
かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年二月七日(1856)、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまったという。
大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し、再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。『長等の櫻』に抄文が紹介されているが、参考までに全文を記載する。
右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 清六作 外ニ 青磁香炉
天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/
これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく、孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
鶯のはつかしそうな初音かな
鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。俳名通六は「魚屋」の目片善六であり、鮮魚問屋と料亭を商っていた。魚屋は琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。強風の比良おろしのもと、冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一。彼の没後ではないか。
そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。2006年の堂修理の際に発見された。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(1859)のことであった。寄進者は魚屋の通六である。
それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。
それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろうと思う。観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣ではないか。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六こと目方善六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けたのではないか。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
<もうひとりの蝶夢>
俳僧蝶夢のことは記したが、明治大正期に京都で活躍した同名の蝶夢が、もうひとりいる。小松宮が羅漢像を所望した旨の文書を紹介したが、同書で信徒総代に名を連ねた雨森菊太郎である。雨森家は代々、石峰寺の檀家である。彼は儒学者月洲岩垣六蔵の次男として、安政五年七月七日(1858)、義仲寺翁堂焼失の翌年に生まれた。後に雨森善四郎の養子となる。同家は近江国伊香郡の出であり、江戸前期の儒者・雨森芳洲の一族に繋がる。号は蝶夢。
菊太郎は幼いころから、儒学を父親から学ぶ。その俊才が槇村正直京都府知事の目にとまり、抜擢を受けて城北中学校に通い、かたわら独逸学校で語学を習得する。新島襄とともに同志社を設立した創設者のひとり、山本覚馬について政治経済の要旨を修め、漢学を菊池三渓と石津潅園に学んだ。これらの修練・和独漢政経学が、その後の活躍の土壌になったと蝶夢本人は語っている。
明治十年(1877)に京都府に出仕するが、六年後に致士退官する。そして十六年に日出新聞(京都新聞の前身)に、社長の浜岡光哲に乞われて入社した。その後、亡くなる大正九年(1920)まで、二十年近く社長を続ける。「京都第一の新聞」という市民の評価を在任中に得た功績は大きい。
十八年には京都府会議員に当選。三十一年に衆議院議員当選のために府会を辞任するまで在任した。なお師の山本覚馬は、明治二年から十年まで京都府顧問をつとめている。そして二十二年の市制実施に伴い、雨森は市会議員に当選し、さらに市会議長を十一年もの長きに亘って続ける。
彼はまた、請われて多数の会社の役員・社長の任を受け、京都政財界のリーダーと呼ばれた。さらには教育や美術工芸の振興のためにも尽力した。たくさんの学校の創設や運営にもかかわったが、なかでも京都府画学校、いまの京都市立芸術大学であるが、同校の基礎を築き発展に貢献した業績も大きい。二十二年の市制実施にともない市立になった画学校に、雨森は親友の市長・内貴甚三郎らとともに常設委員に任じられた。彼は没年まで、同校の評議員を続ける。明治二十二年、京都美術協会創立にも尽力した。また彼の書画鑑識の目が確かであったことも、同時代人には驚異であった。
また忘れてはならないのが、社寺に対する擁護の活動であった。明治になって衰退した各寺と什宝を守り復興するために、蝶夢が取った行動は目を見張るものがある。彼がつとめた信徒総代は五社寺を越え、評議委員や社寺会役員も同数ほど、宗派に拘わらず社寺のために力を尽くした。
明治初年、相国寺も疲弊した。禅宗各寺を支えたのは、将軍家や大名、武士階級、そして豪商や知識人などが主であった。それら階級の没落とともに、同寺も頽廃する。本山境内周囲にあった塔頭は廃寺になってしまった。明治二十二年(1889)、住持独園禅師の大英断で、相国寺は若冲の最大傑作「動植綵絵」三十幅を宮中に献納する。そして宮内省からは、金一万円が寺に下賜される。相国寺はこれを資金に、人手に渡らんとしていた周囲の廃寺跡を買い戻し、現在の寺域を保つことができた。
相国寺では毎年九月十五日、いまも一山総出頭のもとに斗米庵若冲居士忌を修行している。そして各塔頭でも、朝課の回向に必ず斗米庵若冲居士の戒名を読み込んでいる。同寺においては若冲の業績は、その名とともに永遠である。
「動植綵絵」斡旋には、北垣国道知事と土方久方宮内大臣の力があったといわれている。しかしふたり以外にも、陰で尽力したと思われる人物がいる。日本美術行政の第一人者の男爵九鬼隆一と、蝶夢雨森菊太郎である。蝶夢は当然、若冲と「動植綵絵」のことに精通していた。おそらく義仲寺を再建した、同じ号をもつ蝶夢和尚と翁堂の若冲天井画のことも、知っていたであろう。
明治二十三年、『若冲画譜』が刊行される。信行寺の天井絵百六十八枚のうち、百画を選んで木版で摺った版彩色全四冊である。題字序は帝国博物館総長で、前年に美術雑誌『國華』を創刊した九鬼隆一。序の「國華」の太い字が躍る。なお精巧なカラー印刷技術のない当時、色刷りは版画によった。
雨森は『若冲画譜』の後書き、跋文を書いている。「最近、京都の美術工芸が新時代に対応して改良が求められ、織工、陶工たちが古名画を争って利用適用し、新しい作品の資としているが、この若冲画譜は、画家のためばかりでなく、これら各種美術工芸家の模範となるであろう」。美術工芸の振興や教育に尽力した蝶夢の故事がしのばれる。
跋文は長い漢文であるが一部、末尾原文を引く。なお[榮土]は墓の意、應真は羅漢、居士は若冲である。「余家先[榮土]在石峯寺正與居士塚及其所造應真像地相密邇則余於居士不為全無縁因者况余亦居常屬望美術之振興者乃此譜之成安得[受辛]而不一言於是乎跋/明治二十三年四月/蝶夢散史識」
なおこの本は、明治四十二年に芸艸堂(うんそうどう)から再刊されたが、同社は初版の版木百枚すべてを所蔵し、現在も明治二十三年版「若冲木版花卉画」を摺っておられる。
蝶夢雨森菊太郎没後、七回忌に追悼集『蝶夢居士』が刊行されたが、同書の序も九鬼隆一が書いている。ふたりは社寺保存、什宝調査等、連携協力していたのである。
日本美術界の恩人、フェノロサの墓は大津市の園城寺・三井寺法明院にある。一周忌供養のために、美術振興を企図する絵画展が三井寺円満院で開かれた。明治四十二年のことであるが、発起人には九鬼隆一、岡倉覚三、高崎親章、益田孝、本山彦一などとともに、雨森菊太郎と親友の内貴甚三郎の名もある。なお高崎はそのころ大阪府知事だが、小松宮羅漢申請書を受け取った元京都府知事である。
また円満院はかつて、近江の応挙寺として知られた祐常門主の門跡寺院だが、昭和四十年まで義仲寺は円満院の末寺であった。歴史の奇遇には、驚かされることが多い。
雨森は大正九年五月四日(1920)に亡くなった。墓は石峰寺にある。羅漢たちと若冲の墓にはさまれた中間の位置、洛南と洛西を見晴るかす高台にある。まるで羅漢たちと若冲を見守るごとくである。雨森蝶夢が慕った俳人の四明翁(1849~1917)が石峰寺筆塚を読んだ句が印象深い。
若沖の筆塚古りて萩芒(すすき)
文末に際して、『荘子』の胡蝶がみたであろう百華の夢のことを思う。それは彼岸の花園のごとく、見事に美しい。
<2016年12月30日 南浦邦仁>
信行寺 天井画
※この稿を最初に書いたのは、もう10年ほども前のこと。萬福寺文華殿発行の年報『黄檗文華』(2007年126号)に「若冲逸話」と題して寄稿した。その後、若干は書き加えたが、ほぼ原文通りである。
ところが最近になって、異説が出だした。石峰寺から東大路仁王門の信行寺に移った花卉図167枚と款記1枚、全168面の天井画がいつ移動したかという、新しい疑問である。これまでは明治初年に石峰寺が手放したというのが定説だったが。
新説では「明治になってからではなく、幕末に石峰寺から信行寺に移ったようだ」。そのようにいわれだしたのは、2015年秋にはじめて信行寺天井画が公開されたのが機縁である。複数の専門家や当事者の声のみで、記されたものはまだないようだが、寄贈者の井上氏は過去帳によると、どうも維新以前に亡くなっているという。現在も檀家である井上家には、幕末に寄贈した記録があるらしい。
詳細は一切不明だが、ぜひ調査の結果を公表していただきたいと思う。
なお廃仏毀釈以前に石峰寺が手放した理由がわからないが、京を襲った大地震で観音堂が損壊したためということも考えられる。文政13年7月(天保元年 1830)、京都は大地震に揺れた。文政の地震は翌天保2年まで大きな余震が続く。
この地震のことは、天保4年(1833)に石峰寺の若冲墓横に建立された筆塚にも記されている。「三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた」。この大地震で観音堂も大きな被害をうけたのであろうか。
その後、安政年間の日本列島各地は大地震と大津波に相次いで襲われ、おびただしい数の国民が甚大な被害にあった。安政元年(嘉永7年 1854)6月にまず伊賀上野地震、同年11月4日には安政南海地震。その32時間後の5日には、安政東海地震が連動した。安政2年には江戸、3年には八戸、5年には飛越の大地震と続く。幕末安政は大地震津波の激動期でもあった。義仲寺翁堂に15枚の天井画がおさまったのは安政6年6月である。(12月30日 追記)