十八世紀後半の京都、学術文化芸術はルネッサンスを迎えました。空に輝く綺羅星のごとく、たくさんの才能たちが輩出し、大活躍しました。
伊藤若冲もそのひとりです。彼は画を描くほかに能がない、不器用な生き方をした畸人といわれてきました。ところが新史料が発見され、錦青物市場存亡の危機には、若冲が先頭に立って大活躍したことが明るみになったのです。
数多い若冲ファンはこの新事実を知って、心底から驚いた。不器用な畸人のはずが「一体、若冲とは何者か? どのような人物だったのか?」。これまでにほぼ確立していた人間「若冲像」は、いま大いに揺らいでいます。
錦市場を危機から救った恩人・若冲の史料は、宇佐美秀樹氏(滋賀大学経済学部教授・日本近世経済史)によって紹介されました。「京都錦高倉青物市場の公認をめぐって」と題された論文です。学術誌「市と糶」<いちとせり 1999年8月号>に掲載されました。
この研究にまず注目されたのが、近世美術史家の奥平俊六氏(大阪大学教授)でした。そして信楽の MIHO MUSEAM で開催された2009年「若冲ワンダーランド」展の図録に掲載された宇佐美氏「私の伊藤若冲」。この一文で一般の若冲ファンもが「若冲さん、あなたはどのような人物だったのですか?」
ある人間に対して、人物評価を下すことはむずかしい。現代を生きているひとに対しても、「あなたはこれこれだ」と決定すること、人物評価を確定することは困難である。芸術家の作品についての評価も同様であろう。まして過去の人間に対して、わずかの史料や伝聞で判断することは危険である。それにしても若冲という人物は、知れば知るほど、深く魅力的である。
4月16日のこと、京都文化博物館でレセプションがありました。翌日から開催の「冷泉家 王朝の和歌守展」の開会式です。会場で、近世美術・宗教史家の大槻幹郎先生に久しぶりにお会いしました。昨年の加藤正俊先生の葬儀、そして信楽の若冲展開会式以来です。この場で、わたしは若冲のことを話しました。
特に若冲の年齢加算の問題です。彼は晩年、実年齢を一歳ずつ加算し、入寂年は実年齢85歳であったが、87歳あるいは88歳と作品に書き、また過去帳にも記されている。
このことをはじめて取り上げられたのは、同志社大学教授の狩野博幸氏。「昔は還暦後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。この解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。
民俗学や文献史学にみえる「年違」<としたがえ>の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。そのように、わたしは考え出した。大槻先生にこのことをお話ししたところ、「それをやりたまえ」といわれる。わたしは、唸ってしまいました。このテーマは、深くまた重い。資史料こそいくらか集めましたが先が、はっきりした結末がみえない。それも若冲を中心に据えての、2歳あるいは3歳の加算のことの証明の自信がわいてこないのです。
ところが大槻先生は両三度、「そのテーマをやってください」。このようなマイナーなテーマ、しかも細かく裏付けを、中世近世そして近代にわたって集め考える作業が必要です。
「ゆっくり、やってみようか」。わたしの結論です。幸いゴールデンウィークの連休が近い。集めるばかりで読み解くことの少なかった資史料を、読んでみよう。五月早々からの宿題です。
しかし、このようなテーマに興味をもたれる方はごく少数です。またわたしの能力も乏しい。ゆっくり時々、連載「若冲の年齢加算」解明をはじめてみます。
手法としては謎を一歩一歩、解きほぐしていく推理小説のような、そのような面白い文章が作れないものか。興味津々、書きながらまた読みながら、新天地を探検するような気分になる、チャレンジしてみたい新構想と文体のワクワク?連載です。まあ、ぼちぼちやってみます。
<2010年4月29日 南浦邦仁> [ 225 ]