ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 天井画 №6 <若冲連載16>

2008-08-31 | Weblog
突然、久しぶりの若冲です。

 ずいぶん前の前回、話が若冲の天井画から横道にそれてしまいましたが、近江の大津馬場・義仲寺の若冲花卉図に戻します。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。

 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青[ぐんじょう]が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(一八六〇)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
<2008年8月31日 天井は群青の空 南浦邦仁記>
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雷神

2008-08-30 | Weblog
 この夏、局地的な集中豪雨はひどかった。昨日もまた、東海・関東地方で大きな被害が出ました。
 雨もはげしいが、カミナリも暴れた。観測史上記録的だったという報道がありました。京都でも落雷で停電したり、線路の信号機がこわれて電車が停まったり、カミナリさまの横暴はたいへんなものでした。

 24日深夜0時ころ、醍醐寺の観音堂が落雷で全焼してしまいました。本尊の准胝[じゅんてい]観音像も燃失。准胝観音堂は西国三十三所観音霊場の第十一札所です。
 避雷針はあったのですが、銅板の屋根に落雷したらしい。醍醐寺では7月にも国宝・唐門にもカミナリが落ちています。幸い大事にはいたりませんでしたが、あちらこちらで雷が天から落ちてきました。
 ところで本尊の准胝観音坐像はもう一体あります。ドイツで開催中の展覧会に出品されていました。はるかヨーロッパから、兄弟分か姉妹分かが、身代りになったことを、観音力で気づき、見守っておられたであろうか。

 ところで北野天満宮は菅原道真をまつる神社ですが、「北野の天神さん」と親しまれています。天神とは雷神のことです。
 道真公が無実の罪で大宰府に流刑となり、903年2月25日に配流の地で生涯を閉じます。そして彼の死後、本人の預かり知らぬところで、「道真の怨霊」の噂が飛び交います。京の都では、次々に異変が起こりました。旱魃[かんばつ]、天候不順、疫病の大流行、大火、月食、大彗星の出現…。
 また落雷で都の関係者が何人も死亡しました。道真の怨霊は雷神となって祟ったといわれます。
 そして霊をしずめるために造営されたのが、北野の天神さんです。天神は、雷神のことです。怨霊は御霊神「天神」に転じ、まつられたのです。
 カミナリさん恐るべし。「くわばら、くわばら」、雷避けのまじないですが、近ごろあまり聞きませんね。
<2008年8月30日 今日も大雨予想>
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上村松園の四条

2008-08-23 | Weblog
美人画で知られる上村松園は、京都四条の生まれ育ちです。「まだ四条通りが、いまのように電車が通ったり、道はばが取りひろげなかったころ、母と姉とわたしと三人で、今井八方堂という道具屋の前にあたる、いまの万養軒のところで葉茶屋をしておりました」と松園は語っています。電車とは、いまはもうない市電です。京では、茶葉を商う店を葉茶屋といい、花街の遊興の店をお茶屋といいます。
 松園の本名は上村津禰[つね]。明治八年(1875)、四条通御幸町西入ル奈良物町に生まれました。彼女がまだ母の胎内にいるうち、出生の二ヶ月前に父は急死。
 母の仲子は気丈なひとでした。再婚の話があっても断り続けた。「石にかじりついてでも、わたしひとりが働いて、親子三人どうにかやっていきます」。多感な少女、娘の時代、十九年のあいだ、津禰は母姉と四条で暮らしました。
 絵が大好きだった松園は、四歳にして六銭を無心し気に入りの絵を買い求める。開智小学校を出てから、府立画学校に通う。最初の師は鈴木松年ですが、松園の雅号は松年によります。
 「わたしのこころのなかには、いつも母がいて、母とともに画の道を歩いています」。松園を産んだ母は、彼女の芸術をも生んでくれた。姉妹にとって母の仲子は、父と母をかねた両親であったのでしょう。葉茶屋を商うつましい生活のなかで、娘ふたりを育てあげた、すばらしい母親でした。美人画にはあまり例のない母性愛を松園がよく扱ったのは、母の愛がこころに沁みていたからだといわれます。

 河原町通四条上ルには、少女の津禰が大好きだった本屋「菊安」がありました。いま油とり紙屋「象」のある場所です。幕末に坂本龍馬や中岡慎太郎らがいつも集った、書肆[しょし]「菊屋」です。この店には、江戸時代に刊行された古い読本がいっぱいありました。滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」や「椿説弓張月」や「水滸伝」など、葛飾北斎の挿絵に津禰はいつも見入っていました。
 そして夏、祇園祭にはいつも津禰は屏風を見てまわります。「一寸ごめんやっしゃ! 屏風拝見させていただきます」と玄関でひと声かけて、座敷にあがりこむ。祭のときにだけ公開される秘蔵の絵を、これはと思うものをあますところなく、花鳥人物や山水など、さまざまの作品を縮図帖に写してまわりました。
 また小さな帖面と矢立をもって、博物館でも美術品の競売、売立[うりたて]の場であろうが、かまわず筆をとって模写しました。食事を抜くのはたびたびです。絵を描いていると、いつも空腹を忘れた。
 松園が絵で一生を立てようと決意したのは、火事類焼で自宅を失い、四条をはなれて二年ほど後、二十一歳のころでした。花が咲こうと月が出ようと、絵のことばかり考えている毎日に拍車がかかる。画に専心させるため、母は松園を家事や雑務から完全に解放しました。

 松園は青眉[せいび]がすきでした。明治のころまで、結婚して子どもができると女は眉[まゆ]を剃った。それを青眉といいます。松園は青眉を思うたびに聖なる母の眉を想い出しました。「母の眉はひといちばいあおあおとし、瑞々[みずみず]しかった。毎日のように剃刀[かみそり]をあてて眉の手入れをしていました。いつまでもその青さと光沢を失うまいとして、眉を大切にしていた母の姿は、いまでも目をつぶれば瞼[まぶた]の裏に浮かんできます」
 上村松園がこれまで描いた青眉は、四条通で葉茶屋を営みながら、ふたりの娘を育てあげた母の眉です。
<2008年8月23日 青眉抄 南浦邦仁記>
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北京オリンピック

2008-08-16 | Weblog
 連日、テレビも新聞も、報道はオリンピックづくしです。どの競技、選手をみても、すごいなと感心し、感動の連続です。メダルに無縁でも、失敗があってもいい…。ベストに挑戦する彼らには、ただ頭を垂れるのみです。
 ところで開会式で革命歌曲をうたった少女は口パクだった…、56民族の衣装の子どもたちは公式発表とはことなり、実はほとんどが漢族だった…、花火はCG駆使…。いくら国威発揚のためとはいえ、オリンピック祭典をここまで細工するのはいかがなものか。
 ところで北京オリンピックは真夏の開催。夏季五輪だから当然といえばそれまでですが、室内競技はいいとして、たいていの屋外競技は夜ふけ開催になってしまう。なかでも日中のマラソンなどは、日差し熱暑にいかに耐え勝つかの戦いではと思います。
 かつて1964年(昭和39年)の東京オリンピックは、10月に開催されました。閉会式は10月24日です。ちなみに金メダル16、銀5、銅8個でした。
 オリンピックの開催地は、南北半球、緯度経度、高度などで気温や雨季乾季、雨量湿度もおおいに異なりますが、<夏季>にこだわらず、日本でいえば、春でも秋でも、選手たちにいちばんやさしい時期に開催してもいいのではないでしょうか。
 東京五輪がなぜ10月だったのか? 知りませんがいい季節です。
<2008年8月16日 京話題は?>
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夕立

2008-08-10 | Weblog
 京都でも、強烈な夕立の日が続いています。全国各地とも同様でしょうが、この二週間で四日でしょうか。あまりの雨脚の強さに、道行くひとたちは至るところで、長時間の雨宿り。近ごろでは毎日、傘を持ち歩く方も増えました。日傘ではなく、雨傘です。
 何せ突然の突風と雨。なかなか降り止みません。空が少し暗くなったかなと思うと、すぐに強烈な雨と風がはじまります。神戸や東京で雨の犠牲者が何人も出たのは、「まさか」の油断でしょう。気象は急変します。

 原因は朝からの地表温度の上昇、気流が空に昇って積乱雲をつくる。大気が乱れて一気に夕立の雨が降り出す。雷は雲が成長するときに、空中の水滴や氷晶が衝突して静電気が蓄積されて起こるそうです。カミナリさんの誕生のことは、これまで知りませんでした。

 それにしても、かつての夕立は、もっとおとなしく、優雅な雨だったと思います。熱帯のスコールがちょうどこのような強雨強風の夕立だそうです。台湾では「夕暴雨」というらしい。
 先日ある方が「異常気象で、日本も熱帯なみになったのかしら」。そうかもしれません。日中温度が35度を超えるのが当たり前で、37度や38度の日も報じられていました。つい先日のことです。
 ヒートアイランドの東京も、地表温度が著しく高く、高層ビル群が上昇気流をつくり出し、積乱雲ができやすいという説もある。東京は人工の熱帯地のようです。
 気象も人間も、わたしのような異常はいかん。正常・平常がいちばんですね。
<2008年8月10日 蝉時雨>
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京の夏バテ

2008-08-03 | Weblog
 バテました。暑さもありますが、理由はさておいて、「バテる」は、不思議な言葉だと思います。辞書をみても、バテにあたる漢字はなく、<ばてる>という仮名表記です。意味は、暑気や疲れのために、ぐったりする、元来持っている能力を失う状態になる。
 どうも<はてる>に、点々がついて<ばてる>になったのではないでしょうか。<果てる>は、終わる、失せる、死ぬの意味。「バテた」「バテそう」は、死にそうに近い意味になるようです。

 また思いますのが<ケガレ>です。漢字では、穢れ、汚れが当てられるために、本来の意味がわからなくなっていますが、ケガレは本来<気枯れ>であるという説があります。わたしも賛同します。
 <気>(き・け)は、元気、活気、気力、気丈などの気で、エネルギーです。空気、気配、気流、気分、気息、気脈、心気、生気など、エネルギーとかかわる語で、力のもとになり、眼には見えない粒子なり流れ、周りを覆い包み込むもの、そういった意味が<気>にはあるようです。
 元気のもとの気が枯れる、水には涸れるの字が当てられますが、同じく減ってなくなりそう。<離れる>も<かれる>と読みます。魂が離れる、です。

 <ケ>は<気>ですが、け<褻>でもあります。<ハレ>と<ケ>の<褻>です。晴れ<ハレ>は、祝いや特別の晴れ晴れしい日やこと。褻はふだんの日常、ごく当たり前の、平穏な状態なり日々。
 エネルギーの枯渇や乱れなどによって、秩序のとれた日常性がバランスをくずす。それは個人にも共同体にも起こります。
 当然ながら昔、ケガレを排除しようとする祈祷なり医療、儀式や祭などの行動や工夫が起こったことでしょう。ケガレに穢れや汚れという漢字を当てたのは、適切ではないと思います。カタカナがいちばんです。
 ケガレは、気や褻の枯れで、元気がバテることなのでしょう。

 「京」とは無縁の<夏バテ>話です。暑中お見舞い申し上げます。
<2008年8月3日>
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