ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

死刑執行 <神戸・IAM 記>

2010-06-27 | Weblog
 元大阪高検公安部長だった三井環さんが、新刊『検察との闘い』(創出版)を出版された。かつて検察の裏金の実態を内部告発。そして現職検察官のまま、実名でマスコミに大々的に暴露しようとしたら、その日の朝に突然、逮捕されてしまった。まだ住んでいない自己保有のマンションに、住民票を移したための逮捕である。またのべ20万円ほどの飲食などの接待を収賄とみなされ、1年8カ月の実刑判決をうけた。そして今年はじめに、静岡刑務所を満期出所。
 この本を読めば、いかに検察が暴走し権力を乱用しているか、そのひどさには、あきれるだけでなく、背筋が凍る思いがしてしまう。三井氏いわく、「権力というのは戦前も戦後も同じです」

 ところで現役検事時代、三井さんは死刑執行に2度、立ち会っておられる。そのときの挿話は同書に詳しい(P107~)。絞首刑実見者の報告なり一般読者向けの記述は、おそらくこれが、はじめてであろう。わたしはこの文章にも、大ショックをうけた。
 彼はかつて、公判検事として死刑を3度求刑し、「うち2件は死刑判決だった。その中の一人はすでに執行されていると伝え聞いた。法にしたがって仕事をするのが検事であるならば、個人の感情で求刑しないということはできない。/これまで死刑問題についてとことん考え抜いたことはなかった。だから、まだ賛成、反対と答えを出せないでいる。ただ、私がこうして[死刑執行を刑場で]見たことを明らかにすることの意味はあると思う。」

 わたしは、死刑制度に反対です。いちばんの理由は、冤罪をおそれるからです。またいかなる理屈であろうとも、合法であっても、すべての殺人に反対します。当然、大量殺戮の戦争も許せません。
<2010年6月27日 片瀬は本日、休載します>
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長沢芦雪ふすま絵 特別公開

2010-06-22 | Weblog
 若冲と同時代人、長沢芦雪(長澤蘆雪)のふすま絵が、京都嵐山で発見されました。一昨年のことです。寺子屋で遊ぶ子どもと、杜甫「飲中八仙歌」を混ぜたような画でしょうか。皆川淇園らと、いつも飲み歩いていた蘆雪の姿を彷彿とさせます。襖は少し傷んでいますが、いい画です。京都市文化財指定も受けました。はじめて一般公開されています。
 所蔵されている嵐山の「花のいえ」へ、見に行ってきました。子どものあどけなさを描いた、いかにも蘆雪らしいかわいい画です。公開は今週27日まで、あとわずか5日。
 芦雪ファンにはおすすめ、絶好のチャンスです。「花のいえ」は、公立学校共済組合嵐山保養所、右京区嵯峨天龍寺角倉町。電話 075-861-1545。渡月橋から桂川沿い200米ほどのところにあります。
 角倉了以は400年ほども昔のひとですが、保津川をひらき、高瀬川運河などをつくった。近世京都・丹波の恩人です。もともと嵯峨の出身で、このあたり、角倉町一帯は彼の屋敷地であったそうです。おそらく角倉了以の子孫が、おおよそ二百数十年前に、この絵を蘆雪に描いてもらったのでしょう。
 蘆雪のふすま絵は、各地にいくらか残っていますが、京都府内で見つかったのは今回がはじめて。公開はあと数日です。「花のいえ」受付で「蘆雪襖絵をみたいのですが…」といえば、2階別室まで案内してくださいます。無料です。
 蘆雪の朗報を、急ぎお知らせします。
<2010年6月22日 号外>

※追記2012年2月24日
 修復中だったふすま絵が「花のいえ」に戻って来ました。京都市文化財補助事業を受けて修復されました。公開期間は2月24日金曜~3月4日日曜、午後1時~5時。鑑賞無料。早速に公開初日の今日、行ってきましたが何度みてもほのぼのするいい絵です。
 それとおすすめがレンタサイクル。1日400円と良心的なお値段で、花のいえの玄関先に10数台ありました。嵯峨野巡りに便利です。
 
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那覇「おもろ」新都心 <東京・IT 記>

2010-06-20 | Weblog

 那覇市の北部に再開発地区・新都心ができたそうです。1987年に米軍から返還された跡地を造成した。わたしは長年、沖縄には行っておりません。先日、東京の友人ITさんが訪れ、レポート・メールを送ってくれました。彼は日本はもとより、アジアをさまようフーテンの寅さんのようなひと。時々の寄稿が楽しみです。寅さんの虎之児レポート続編でしょうか。紹介します。[ 片瀬 ]

  2年前と同じように6月某日夕刻、那覇新都心おもろまちにある新聞社の応接室にいた。8階の窓からは、この辺一帯が見下ろせる。日々変わりゆく新しい街だ。立派な日銀沖縄支店、美術館・博物館、ホテル、DFS、シネコンもある巨大なショッピング・センター、放送局、新聞社、高層マンション・・・・。

 東京の感覚でいうと「お台場」だが、ここは高台だし、海沿いではないから、そういう形容は似合わないが「開発」という匂いは共通である。勢いはあるが、どこか味わいに欠ける、要するに殺風景なんである。土地の歴史が感じられない。が、実際は琉球王国の時代から、どっしり「歴史」のある土地だった。

  戦後、1953年に米軍によって強制接収され、将校、下士官、軍属の住宅地になった。学校やゴルフ場もあったという。実際、広大な土地である。占領者、植民者というのは異国にあっても、たいてい嗅覚鋭く、その土地の人が「いいところ」だと思う場所を自分のものにするものである。 30数年前に初めて沖縄に来た私には、この辺りの事情は知る由もない、知っていたとしても、日本人オフ・リミットだったわけで、見ることもできなかったろう。70年代に条件付き返還が日米で合意され、1987年に全面返還された。そして再開発が始まった。 目の前には、2年前と同じように巨大な貯水タンクが見える。

 数時間前、訪れた田園書房のレジで見つけた「未来」というPR誌を読んでいたら、目次の中に「沖縄からの報告3 シュガーローフの戦い」という一文があり、私は移動中の車の中でたまたま読んでいた。 この辺りが軍用地であったことは、数年前、モノレールで新都心に来た時には知っていたが、この巨大タンクがそびえる丘にまつわる話は不覚にも知らなかった。情けないほど無知なナイチャーの典型である。 沖縄戦の激戦地だったのである。壮絶な肉弾戦が繰り広げられ、多くの日米軍人、そして民間人が死んだ。 かつて、この丘からは慶良間諸島が望めることから、地元では「慶良間チージ」(慶良間が見える丘)とよばれていたという。戦争中、日本軍はこの丘を「すりばち丘」、米軍は「シュガーローフヒル」と呼んだという。おびただしい戦死者たちの場所なのだ。そんなに昔の話ではない。

  風景が一変すると、その土地の「記憶」まですっかり消えてしまう。

<2010年6月20日 東京・IT発>

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宇宙の「虎の子」 <片瀬五郎 記>

2010-06-20 | Weblog
 7年もの間、宇宙をさまよった宇宙探査の小舟「はやぶさ」MUSES-C。オーストラリアのウーメラ砂漠に予定通り、無事に着陸帰還しました。6月13日のことです。この地は原住民アボジリニの聖地であり、だれも住んでいない。あえて無住の地への着陸許可を、宇宙航空研究開発機構JAXSAはアボジリニの皆さんと打ち合わせていたのではないでしょうか。万が一の杞憂人身事故をも配慮した、周到な帰還計画だったのでしょうか。

 満身創痍、ボロボロになりながら、はやぶさは何度も迎えた危機にもめげず、地球からの操作にこたえ続けた。健気な姿には、ほとほと感心してしまう。
 いつも行く百万遍のガソリンスタンドのおやじさんは、「男の鏡ですなあ。感激しました。はやぶさの一途な勇姿には、励まされます。たいした奴ですねえ」
 はやぶさの航行距離は60億キロ。地球と太陽の距離の40倍に相当するそうです。宇宙で迷子にもなりながら、寅年に無事帰還した本当にたいした奴です。
 ところで「はやぶさ」の本来の名は「虎之児」。「虎は千里行って千里還る」と、山頭火からとった。「此機宇宙翔百億里」、開発初期時点からの名だそうです。また佐賀県嬉野市の井手酒造の銘酒・虎之児にちなむ。井手酒造からは命名祝い、成功帰還祈願に日本酒「虎之児」が飲みきれぬほど、JAXSAにプレゼントされたそうです。<参考ホームページ:宇宙航空研究開発機構JAXSA>

 はやぶさ、すなわち大切な虎之児は大気圏に突入し、役目を終え燃え尽きました。TVでも使命を果たし、炎を放つ探査機の映像をみましたが、彼の勇姿には涙が溢れそうになりました。しかし血も涙もないわたしです。溢れそうでしたが、こぼれませんでした…
 核のカプセルは、ウーメラ砂漠にパラシュートを開いて落下しました。ラーメン鉢を2枚重ねたような型です。はやぶさトラの愛児、虎之児之子は直径わずか40センチほどの、胎内秘蔵だったかわいい赤子です。カプセルは、径500メートルほどの極小惑星イトカワの砂を持ち帰ったのでしょうか。結果は数か月先に発表されますが、入っていなくともいいと、思います。おみやげは、宇宙のロマンで十分です。夢を無事に持ち帰ったのですから。

 ところで、虎之児の後継機「はやぶさ2」ですが、文部科学省が申請した開発費17億円が、例の民主党の予算見直し、事業仕分けでわずか3000万円に削られてしまった。これでは虎之児の子どもは産まれない。科学技術や文化事業の仕分けは、もっと柔軟に対処すべきだと思います。今回の快挙を評価し、追加予算を潤沢に復活追加しても、国民のほとんどは決して異をとなえないのではないでしょうか。

 話しはかわりますが、京都の岡崎動物園で、トラの子が3頭産まれました。「虎之児」帰還の3日後の16日から3日間、まいにち1頭ずつの出産でした。母のアムールトラ「アオイ」は、愛児の虎の子をネコかわいがりしています。こちらも大切な虎の子です。すくすく育つことを願います。子どもの1匹には「はやぶさ」と、命名してもらいたいですね。
 それから銘酒「虎之児」。宇宙の「はやぶさ」とアオイ母子のことを想いながら、一献やりたいものです。どこの酒屋で売っているのでしょうか。
<2010年6月20日 片瀬五郎>
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口蹄疫ウィルス

2010-06-13 | Weblog
 口蹄疫に感染した牛が発見されたとのニュースを、わたしがはじめて見聞きしたのは早かったのですが、不思議と続報が出ませんでした。「コウテイエキ?」、最初に聞いたとき、何のことかわかりませんでした。そしてその後の大被害と大報道です。社会問題になってしまいました。
 この家畜病について、わたしはあまりにも知識が乏しい。口蹄疫についてわずかですが調べてみました。
 まず、感染力が非常に強い。100年ほどの昔、ドイツで400万頭近く、おなじころ台湾では300万頭以上のウシやブタが、殺処分されています。
 このウィルスは風に乗り、数10キロも空を飛ぶそうです。ヨーロッパでは1967年、ドーバー海峡を越えてフランスからイギリスに飛来し、伝染拡散したといいます。1981年には同様に、デンマークからスウェーデンへ。
 またシカやイノシシにも伝染し、それら動物が仲間に感染させる。里山近くに牧場は多い。シカやイノシシが近づくことは、多いはずです。山中でも大流行しているのでしょうか。
 また牛豚舎には昆虫、ハエやアブがたくさんいます。これらの虫も、遠くへウィルスを運ぶそうです。

 細菌兵器やウィルス兵器は、われわれでも簡単につくれそうです。口蹄疫発生地のハエやアブを数匹捕え、あるいはワラやフスマをひとつかみ、それらをどこかで放てば、遠隔地で大発生する可能性があります。
 口蹄疫ウィルスはわずかひとつの例です。ウィルス兵器は、だれでもどこでも、1円の費用もかけずに、さまざまの新型をつくることができます。簡単に、大パニックを引き起こすことが可能のようです。

 危機管理とは何なのでしょう。防御防衛にまわる側にも、担当者や責任者の保身や責任回避、重大決断を下すことへの躊躇ためらいといったものがあります。阪神淡路大震災では、行政の方々は当初、さっぱり役に立ちませんでした。組織の硬直化も原因です。非常事態に際し、何をすべきかを考える能力もありません。行動どころか、思考停止状態だった、というのは言いすぎでしょうか。
 つい先日、東北地方太平洋岸に「大津波警報」が発せられました。確か土曜か日曜でしたが、経済活動は当然、強制停止になりました。勧告や命令を決定したみなさんの勇気には、敬意を表します。
 またテロ攻撃する側にも「危機の計画運営管理」があります。それはわたしたちの良心、悪魔の誘惑と屹然と対峙する、人間精神の問題なのでしょうか。オウム・サリン事件はあまりにも悲惨残忍、かつ人間精神の荒廃でした。
<2010年6月13日>
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歴代内閣総理大臣殿

2010-06-12 | Weblog
 菅直人さんが第94代内閣総理大臣に就任された。この5年間で、あいついで5人の首相がバタバタと交代。いかに総理大臣職を勤めあげることがきびしいことか、この職は本人をズタズタにしてしまうようです。名誉こそあれ、これほど孤独でつらい仕事はないのではなかろうか。期待とともに、ご本人の心労健康を心配してしまいます。
 ところで94代ですが、初代は伊藤博文。1885年に就任し、その後、5代・7代・10代と4度も勤めた。退任時年齢は59歳。そして満州視察の途上、ハルピン駅頭で韓国人義士・安重根に射殺されました。68歳。

 さて長命総理大臣の累計在職日数ベスト5位をみてみますと、
1 桂太郎   2886日
2 佐藤栄作  2798日
3 伊藤博文  2720日
4 吉田茂   2616日
5 小泉純一郎 1980日
 佐藤内閣が長かったことは、当時の子どもたちもよく知っていましたが、在職期間1964~1972年、高度経済成長の追い風のなか、学生運動はありましたが、60年安保のような市民運動も弱かった。時代背景に恵まれていたのでしょう。
 あらためて思うのが、小泉氏2001~2006年は長命だったのですね。

 さて短命内閣をみます。在任200日未満の内閣総理大臣を、古い時代から記しますと、
 清浦奎吾  157日 護憲3派の攻撃により、半年で総辞職。1924年。
 犬養毅   156日 1932年、5・15事件で暗殺された。
 林銑十郎  123日 1937年、天皇機関説を排除。その後の混乱。
 阿部信行  140日 官吏身分撤廃案などで排撃を受け、陸軍の支持も失う。1940年。
 米内光政  189日 1940年、陸軍の離反のため。
 鈴木貫太郎 133日 1945年8月15日、総辞職。
 東久邇宮稔彦王 54日 1945年10月、GHQによる改革のため。
 石橋湛山  65日 1956年、病に倒れる。
 宇野宗佑  69日 1989年、女性問題。
 羽田孜   64日 各党乱立のなかの予算管理内閣。1994年。

 伊藤博文以降、125年ほどのあいだに、94代のべ61人が就任された。ひとり約2年強です。94で割ると、1代の平均は1年数か月。最近の安部、福田、麻生氏はみな1年ほど。鳩山氏こそ300日たらずですが、歴史からみるとこの5代は、決して短命内閣ではないのかもしれません。
 いずれにしろ、いまは菅総理大臣に期待するしかないようです。
<2010年6月12日>
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6歳の6月6日

2010-06-06 | Weblog
当然ですが、今日は6月6日。昔から習い事はじめの日とし、6歳の幼児たちがたくさん、親に連れられ、お師匠さんの玄関をくぐりました。祇園など花街の女の子は、この日からたいてい舞、踊りの稽古けいこをつけてもらいます。ただ数え6歳は幼すぎる。現在の満4歳か5歳です。

 六歳の六月六日。正式に入門するのやのうて、遊びみたいにして、御師匠(おっしょ)さんの家に伺うと「ほな、ちょっと、おさらいしてみまひょか」という具合どした。

 祇園に生まれ育ち、舞妓そして芸妓の道を長年歩んだおばあさんの、思いで語りです。気に入った話なのでノートにメモしていたのですが、どなたが何に記されていたのか、わからなくなってしまいました。すみません。いつか確認します。

 東京浅草の下町に育った沢村貞子さんは、
 「六才の六月六日に、芸事のお稽古を始めればきっと上達すると、いうのは、下町だけの言い伝えだったのだろうか。/浅草では、表通りの金持ちの呉服屋も、裏街のその日暮しの職人も、自分の娘がその年になると、それぞれ、踊りや三味線のお師匠さんのところへ連れて行った。きまりの<おひざつき>入門料を、ちゃんと包んで……。/子供たちは、小さな膝にのりきらない三味線に、身体からだごと、よりかかるようにもたれて「ヨーイーヤーマーチー」(宵は待ち…)などと、意味もわからず口ずさみ、踊り舞台の上で、お師匠さんにうしろから抱かれて、しなをつくり、首をふって、藤娘の真似ごとをしていた」<私の浅草>

 京も江戸・東京も同じでした。しかしなぜ親たちは、乏しい財布のなかから、やりくりしてでも幼児に遊芸を習わせたのか? 沢村さんは、
 この娘が嫁に行っても、亭主に死に別れるかもしれない。また相手がひどい浮気者で、捨てられるかもしれない。そんなときに、女ひとりが身をたててゆくためには…。いまからせっせと習わせておけば、踊りや三味線の師匠にもなれる。それとも芸者になるにしても、芸が達者なら分ぶがいいだろう…

 明治から戦前まで、尋常小学校入学は数え7歳でした。その前年のしきたりです。なぜ6歳なのか? 作家住井すゑは、1年生のとき、ふたりの姉のみよう見まねで編み物をはじめる。彼女の師匠は、姉だったのです。明治41年1908、7歳のころでした。
 そして編み物は、住井にとって一生の趣味になります。大作『橋のない川』の主人公、畑中孝二の祖母は「ぬい」、母の名は「ふで」。縫いと筆、住井自身を象徴しています。
 
 司馬江漢は六歳にして雀の絵を描き、画にたけた伯父に見せたといいます。最初の画の師匠は、伯父だったのでしょう。

 美人画の上村松園は京都四条で生まれ育ちましたが、小学校に上がるころ、本好きの母が貸本屋から借りた「馬琴の著書など多くて、里見八犬伝とか水滸伝だとか弓張月とかの本、なかでも北斎の挿絵がすきで、同じ絵を一日中ながめていたり、模写したりしたもので…」<青眉抄>。幼い松園さんは、北斎を師とした独習でした。

 作曲家のショパンは今年が生誕200年だそうですが、6歳にしてピアノの師匠につき、翌7歳ではじめて作曲。楽譜がまだ書けぬので、ショパンが弾く曲を、師が譜面におとしたといいます。

 どうも数え6歳か7歳のころ、人間はやっと芸事、習い事を受け入れる歳になるのかもしれません。男女を問わず。

 さて江戸時代の画家・伊藤若冲ですが、58歳のときに黄檗山万福寺に住持の伯旬を訪ねます(旬は略字で、左に王がつきます)。和尚が若冲に与えた書には「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」
 若冲が画を習い始めたのは、ふつう20歳代後半からとされています。果たしてそうでしょうか。この「五十年」から差し引くと、8歳ほどからということになります。
 やはり若冲も、六歳六月六日に、狩野派の画師に入門したのではなかろうか。そのように思えてなりません。
<2010年6月6日 南浦邦仁>
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