当然ですが、今日は6月6日。昔から習い事はじめの日とし、6歳の幼児たちがたくさん、親に連れられ、お師匠さんの玄関をくぐりました。祇園など花街の女の子は、この日からたいてい舞、踊りの稽古けいこをつけてもらいます。ただ数え6歳は幼すぎる。現在の満4歳か5歳です。
六歳の六月六日。正式に入門するのやのうて、遊びみたいにして、御師匠(おっしょ)さんの家に伺うと「ほな、ちょっと、おさらいしてみまひょか」という具合どした。
祇園に生まれ育ち、舞妓そして芸妓の道を長年歩んだおばあさんの、思いで語りです。気に入った話なのでノートにメモしていたのですが、どなたが何に記されていたのか、わからなくなってしまいました。すみません。いつか確認します。
東京浅草の下町に育った沢村貞子さんは、
「六才の六月六日に、芸事のお稽古を始めればきっと上達すると、いうのは、下町だけの言い伝えだったのだろうか。/浅草では、表通りの金持ちの呉服屋も、裏街のその日暮しの職人も、自分の娘がその年になると、それぞれ、踊りや三味線のお師匠さんのところへ連れて行った。きまりの<おひざつき>入門料を、ちゃんと包んで……。/子供たちは、小さな膝にのりきらない三味線に、身体からだごと、よりかかるようにもたれて「ヨーイーヤーマーチー」(宵は待ち…)などと、意味もわからず口ずさみ、踊り舞台の上で、お師匠さんにうしろから抱かれて、しなをつくり、首をふって、藤娘の真似ごとをしていた」<私の浅草>
京も江戸・東京も同じでした。しかしなぜ親たちは、乏しい財布のなかから、やりくりしてでも幼児に遊芸を習わせたのか? 沢村さんは、
この娘が嫁に行っても、亭主に死に別れるかもしれない。また相手がひどい浮気者で、捨てられるかもしれない。そんなときに、女ひとりが身をたててゆくためには…。いまからせっせと習わせておけば、踊りや三味線の師匠にもなれる。それとも芸者になるにしても、芸が達者なら分ぶがいいだろう…
明治から戦前まで、尋常小学校入学は数え7歳でした。その前年のしきたりです。なぜ6歳なのか? 作家住井すゑは、1年生のとき、ふたりの姉のみよう見まねで編み物をはじめる。彼女の師匠は、姉だったのです。明治41年1908、7歳のころでした。
そして編み物は、住井にとって一生の趣味になります。大作『橋のない川』の主人公、畑中孝二の祖母は「ぬい」、母の名は「ふで」。縫いと筆、住井自身を象徴しています。
司馬江漢は六歳にして雀の絵を描き、画にたけた伯父に見せたといいます。最初の画の師匠は、伯父だったのでしょう。
美人画の上村松園は京都四条で生まれ育ちましたが、小学校に上がるころ、本好きの母が貸本屋から借りた「馬琴の著書など多くて、里見八犬伝とか水滸伝だとか弓張月とかの本、なかでも北斎の挿絵がすきで、同じ絵を一日中ながめていたり、模写したりしたもので…」<青眉抄>。幼い松園さんは、北斎を師とした独習でした。
作曲家のショパンは今年が生誕200年だそうですが、6歳にしてピアノの師匠につき、翌7歳ではじめて作曲。楽譜がまだ書けぬので、ショパンが弾く曲を、師が譜面におとしたといいます。
どうも数え6歳か7歳のころ、人間はやっと芸事、習い事を受け入れる歳になるのかもしれません。男女を問わず。
さて江戸時代の画家・伊藤若冲ですが、58歳のときに黄檗山万福寺に住持の伯旬を訪ねます(旬は略字で、左に王がつきます)。和尚が若冲に与えた書には「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」
若冲が画を習い始めたのは、ふつう20歳代後半からとされています。果たしてそうでしょうか。この「五十年」から差し引くと、8歳ほどからということになります。
やはり若冲も、六歳六月六日に、狩野派の画師に入門したのではなかろうか。そのように思えてなりません。
<2010年6月6日 南浦邦仁>