ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

伊藤若冲の天井画 

2015-10-27 | Weblog
 若冲天井画のことは、ずいぶん前にこのブログで連載したことがあります。2008年6月から9月まで、8回掲載でした。
 若冲の天井画はふたつの寺に現存しています。京都東山区の信行寺と、大津の義仲寺です。ところで信行寺天井画ですが、これまで一般公開されず、観た方はほとんどいませんでした。それが初めて公開されます。10月30日からの観覧が待ち遠しいですが、先駆けて、かつての連載を書き改め読み切り1回で掲載します。

 朝日新聞が秋の「京都非公開文化財特別公開」を報じました。まずこの新聞記事のダイジェストから紹介します。後の<石峰寺>からが本文です。
 千年の都に伝わる秘宝を紹介する、秋の「京都非公開文化財特別公開」を京都古文化保存協会が発表した。10月30日~11月8日(一部を除く)に、京都市内の寺社など21カ所を公開。「奇想の画家」として注目され、来年生誕300年を迎える江戸中期の絵師、伊藤若冲(1716~1800)の天井画も初公開される。
 天井画は信行寺(しんぎょうじ)(左京区)本堂の「花卉図(かきず)」。格天井(ごうてんじょう)に計168個の正方形の格子面(縦横約38センチ)があり、円形の枠(直径約33センチ)中に一つずつ花を描いている。ボタンやキク、ユリなどのほか、サボテンやヒマワリも。最晩年の作で、19世紀後半に有力な檀家(だんか)から寄進されたという。
 若冲の天井画は極めて珍しく、信行寺と義仲寺(ぎちゅうじ)(大津市)に伝わる。「穏やかな雰囲気をたたえながらも、何としても描き上げようという若冲の強い意思を感じさせる」と信行寺の本多孝昭住職。公開は今回限りの予定で、貴重な機会となりそうだ。


<石峰寺>

 伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていたとされる。しかし明治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂外陣天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したと伝わっている。
 石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江戸時代、同寺の檀家はわずか数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であった。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、そして天井画や石造物の売却であった。また当時、廃仏毀釈の嵐も吹き荒れた。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だったと考えられる。

 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年夏(一七九八)、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた畸[き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。

 観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作がある。
 また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かきず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはないであろう。


<大津義仲寺>

 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲[よしなか]の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな

 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。寺には同時代の文人、京都文化ネットワークの中心人物とされる皆川淇園の墓もある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に俳僧蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升

 若冲の斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。

 話が若冲の天井画から横道にそれてしまったが、近江の大津馬場・義仲寺の若冲花卉図に戻す。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。

 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青[ぐんじょう]が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(一八六〇)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。

 かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年(一八五六)二月七日、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまった。
 大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。西川太治郎編著『長等の櫻』(昭和2年刊)に抄文が紹介されているが、参考までに義仲寺所蔵の全文を記載する。

  右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
  紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 
  清六作 外ニ 青磁香炉 
  天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
  春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
  再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
  翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
  同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
  義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/

 これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。

 まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
 維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
 鶯のはつかしそうな初音かな


<魚屋通六>

 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも東海道の逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。大津の魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。おそらく彼の没後であろう。
 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。

「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(一八五九)のことであった。明治初期の石峰寺観音堂破却と天井画の流出の十数年も前のことである。花卉図十五枚はずいぶん早くに大津に着いた。寄進者は大津の魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。

 いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。

 それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。若冲八十三歳のころ、観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣の天井ではないかと思う。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
 ちなみに若冲の次弟、白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。また白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひとだったのだろう。
<2015年10月27日>

※追記:信行寺に行ってきました。はじめて観る若冲画に感動です。来観者は歩道にも列をなし、人員整理の方に聞きましたら、「今日はまだ少ない方です。昨日などずっと向こうまで行列が続きました」。大好評で何よりです。
 たくさんの観覧者といっしょに顔を天に、ずらりと並ぶ画をみながら、堂内で解説を聞きました。そしてご住職のお話に驚きました。若冲天井画は明治期ではなく、幕末に信行寺におさめられたという。それらのことは、寄贈者の檀家総代、井上氏の過去帳と、いまも同寺の檀家である井上氏のご子孫が所蔵されている書状であきらかである……。
 当日のあまりの混雑のため、これ以上の質問とお答えをいただけませんでしたが、間違いないとのことでした。ショックです。
 これまで若冲天井画にかかわるひとのすべてが、信行寺には石峰寺観音堂から明治期のはじめに流出したものだと、信じ切っていたのです。それが覆ってしまいました。この謎解きがどう展開していくのか、大きな楽しみです。<20015年11月3日>







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隠れキリシタンと天皇制 第5回

2015-10-23 | Weblog
<椋鳩十と島尾敏雄>

 久保田彦穂、ペンネーム椋鳩十は明治38年(1905)、信州下伊那郡喬木村阿島に生まれた。阿島中学校そして法政大学を卒業した後、鹿児島県立病院の眼科医だった実姉の清志を頼って昭和5年(1930)に新妻とともに来鹿。種子島の中種子高等小学校の代用教員をつとめる。椋は25歳であった。
 しかし赴任してすぐの夏、あまりの暑さに越中ふんどし一丁姿で授業に臨んだ。これが有名な「ふんどし授業事件」で、大騒ぎになった挙句、椋はわずか3か月で解雇された。困り抜いた椋を助けたのはまた姉の清志であった。彼女は弟のために、加治木高等女学校の国語教師の職を斡旋した。
 そして敗戦の2年後に重成格知事の要請で、42歳から定年で退職するまで鹿児島県立図書館長をつとめる。「鹿児島方式」と全国の図書館人から絶賛された農村読書活動と、母と子の読書運動は、椋が主導した図書活動である。
子息の久保田喬彦(椋鳩十記念館館長)の講演記録から椋のエピソードを抜粋する。

 県立図書館の本はそれまで東京、大阪などの県外から割引で購入していた。それを定価で地元から買いなさいとした。本を定価で買うことにより、地元の本屋さんが大きくなり、書店が大きくなれば鹿児島県の文化が大きくなる。という考えからだった。
 そして読書運動にも取り組んだ。農業文庫の予算を議会で減額された時、「減らされるために予算を出していない、線香の火では風呂は沸きません」、「一銭もいらないので来年ください」と言ったという。
 当時は農業人口が70パーセントの時代であった。読書は「活字の林をさまよい、思考の泉のほとりにたたずむ」ような文学や教養を高める読書でなく、経済的にも儲ける、自分に役に立つ読書もあってよいではないか。と、農業文庫を始めた。県、農協などの団体や大学と一緒になり実益をねらった読書運動として話題になった。
 この読書選定委員会の最初に、子どもの本を持ち帰ってもらい、次の会で感想を述べさせたという。すると子どもの本も面白いという感想が多かった。農業文庫の読書委員の方々は後になって、親子読書運動のヒントはあれだったのではと言っている。炊事をしながら子どもの本を読む声に20分間耳を貸してくださいという運動だった。
 また、地域図書館づくりは市町村単位で本をまとめて移動すれば効率がよい、という椋の移動図書館の発案から始まった。何ごとにも付和雷同せず、前後左右を忘れ一本道をいく鹿児島の人と共通点があった。

 昭和39年から椋は「母と子の20分間読書」を開始した。椋は、経済優先の時流のなかで、子どもたちが家庭でも取り残され、愛情に飢えつつあることに気づく。そして親子だんらんの場として、毎日短時間でも時間を割き、子どもと1冊の本に向き合うことは、その絆を取り戻し、ひいては明るい家庭、社会へのバネになる、という思いに至った。椋は「教科書以外の本を子どもが20分くらい読むのを母が、かたわらにすわって、静かに聞く。たったこれだけのことである。よく人は、なんだ、ばかにしたような簡単なことではないか。と言う。ほんとに、ばかにしたような、この読書のやり方に、私どもは『母と子の20分間読書運動』と名づけて、大まじめに、しかも相当大がかりにやっているのである」
 鹿児島県下で図書館の椋が中心になって展開した運動は「県内10万人を超す人々が参加する、大きな読書推進活動の広がりと充実を促すこととなった」と、児童文学者たかし・よいちは語っている。

 椋は、昭和33年に奄美大島図書分館長に文学者の島尾敏雄を招いている。島尾も椋と連携し、活発な図書館運動を展開している。
 原井一郎は当誌「Lapiz」2013年冬号に、奇しくも椋と島尾のことを載せている。
 奄美大島龍郷町の円小学校は児童数わずか十人ほどの小さな町立校である。在校生は40年以上、読書の伝統を守っている。毎週水曜日午後6時から30分間、行政無線のスピーカーから元気な声があふれ出る。「夕読み放送」だが、数人の子どもたちが代わる代わる、いつもとは違う、かしこまった調子で30分間、本を読み上げる。「時には孫が出ますからね。テレビ消して、耳を傾けていますよ。いいですねえ。子どもたちの元気な本を読む声は。気分も明るくなります」と村のおばあちゃんたちは、放送を楽しみにしている。「親子読書会」の名で夕読み放送がはじまったのは昭和46年であった。すでに半世紀近い年輪を重ねている。島尾敏雄たちの運動からはじまった。

 このように図書を通じての活発な活動、そして九州の南端から文学者としてのネットワークも彼らは展開していたと思われるのである。
 さて、気づいてみると、わたしは見事に脱線してしまった。タイトルは「隠れキリシタンと天皇制」であった。しかし堀田善衛がクロ宗を知ったのは、鹿児島図書館の椋鳩十の協力があったからであろう。椋に関心が向くなかで、島尾敏雄が登場してしまった。
 やはり脱線であるが、紙数も筆力も尽きた。堀田善衛の天皇制については、できれば次号で考えてみたいと思ったりしている。それにしても、堀田と椋と島尾、彼らのかつての熱心な活動と文筆の成果は、いまも色褪せずに燦然と輝いている。
 またここで紹介した何冊かの文献は、いずれも昭和期に書かれた。すべて図書館で読むことができる。何冊かは流通もしている。しかし形あるものを、弾圧を避けるためにすべて、こころのみを残して捨ててしまったかつてのキリシタン……。それに対して書き残したものが残ることの重要性を、筆者は現代日本人としていまあらためて考えている。

参考図書
『島 水平線に棲む幻たち』 岡谷公二著 1984年 白水社
『鹿児島県史』卷3 昭和16年 鹿児島県
『ザビエルを連れてきた男』 梅北道夫著 1993年 新潮選書
「隠れキリシタンと隠れ念仏」 米村竜治著 『共同研究 日本人はキリスト教をどのように受容したか』所収 1998年 日文研叢書17 国際日本文化研究センター
『隠れキリシタン』 古野清人著 1959年 日本歴史新書 至文堂
『カクレキリシタンオラショー魂の通奏低音』宮崎賢太郎著 2002年 長崎新聞
「宗教とその土俗化―『海鳴りの底から』『鬼無鬼島』にみる」 鈴木昭一著 帝塚山短大日本文芸研究室 昭和50年 紀要『青須我波良』第10号所収
『「児童文学の至高」椋鳩十と「純文学の極北」島尾敏雄 作家2人が開かせた「心の花園」 斬新な戦後図書活動を展開―鹿児島・奄美 』原井一郎著 「Lapiz」2013年冬号
『堀田善衛全集』 全16巻 1974年 筑摩書房
『堀田善衛全集』第2期 全16巻 1994年 筑摩書房
<2015年10月23日完>
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隠れキリシタンと天皇制 第4回

2015-10-18 | Weblog
<堀田善衛とクロ宗>

 ところで堀田善衛の小説のクロ宗記述は、部外者が書いたとは思えぬほど詳しい。離島の山中の秘密の寒村について、なぜ彼はここまで知ることができたのであろう。実に不思議である。
 鬼行にたとえられる伝承の葬送儀式など、また登場人物の言動など、当然だが堀田の創作である。しかしそれらを差し引いても、堀田の記述はあまりにも現地の事情に通じ過ぎているほどだ。鹿児島にも甑島にも接点をもたないはずの堀田が、なぜこの作品をつくりあげることができたのであろう。
 堀田は本式にキリシタン小説を書くために九州を訪れた。しかし彼は、さまよい歩いて鹿児島まで流れて行ってしまい、とうとう薩摩半島南端の野間岬という、本土のドンジリまで行って、そこの網元である山本家に一月近くも世話になった。
「この野間岬からポンポンで四十分行くと、甑島がある。上と中と下の三っの島にわかれている。ほんとうにさびしい岩ばかりの離島である。そこの東シナ海側の断崖にかこまれた某村にクロ教というものがある、と聞いたので別に、それほどの関心をもってではなくて、山本家の若旦那といっしょにポンポンで行ってみた。…クロ教というものが、キリシタンの土俗化したものであろうという小説『鬼無鬼島』の設定は、これは要するに私の設定というものであって、その正体は、これはわからないというよりほか仕方はないであろう」

 そして堀田は、天皇制の成立基盤について、つぎのように問いかけている。日本の土俗の奥の方にあるらしい、無限に不気味な怪物がそれを成立させているのではないか。「それ」は「天皇制」である。天皇制とは何か、それが存続しうるいちばんどん底の理由はなにか、とその解答を求めて模索していた時期の作品が『鬼無鬼島』であった。
 また堀田は、自分のなかには、戦中戦後を通じて天皇制の問題が、鋭く自分をつきあげるものとして存在しつづけていた。「天皇制とは何か、それが存在しうるいちばんどん底の理由とは何か、天皇制というものは、日本の、たとえばピラミッドの頂点にあたるものなのか、それともそれはなにかの頂点などというものではまったくなくて、日本の、どん底の何物かなのか、なぜそれがアリガタイモノなのか、それは現代世界とどういう関係にあるものなのか、それはいかなる理由によって肯定されなければならぬものなのか、またいかなる理由によって否定されなければならないか、もし否定されるとすれば、いつ否定されるものなのか」
 天皇制をめぐっては、疑問は山のようにあって、疑問だけが存在するのである。しかもなお天皇制は存在するのである。堀田にととのった答えがない。「誰にあろう?」しかし「この問題に答えることが出来ないで、疑問を疑問のままで放ったらかしておいて、どうして現代の日本で文学者であることが出来るか、それが悪夢のように私について来た。…私はいろいろに考えた。結論は、ない……。そういう頃に、私は『鬼無鬼島』を書いた。」
 真継伸彦は堀田善衛全集解説でこのように記している。「天皇制というものに、何ら実体はない。鬼無き鬼とは、実体がない幽霊が民衆をおびやかしているということの象徴である。天皇という権威は、私たち日本人が生きるために、『考えれば不要』のものなのだ」。小説ではサカヤを村では「山の天皇」と呼んでいる。(1974年版第4巻『鬼無鬼島』収載)

 鈴木昭一は帝塚山短大紀要「宗教とその土俗化」において、「『鬼無鬼島』は、クロ宗の実体の考察のなかで、日本における神・信仰・思想の土俗化とそれに密着したものとしての天皇制の根源を追及しようとしたものである」と記している。

 先に紹介した旧制川内中学校の「甑島のクロ宗」に「最近に行われた鹿児島県当局の調査によれば……」と記されている。川内中が刊行したのは昭和11年である。昭和初年にクロ宗の現地調査が行われたのである。
 この詳細な報告書を堀田は読んだのであろう。それにしても、なぜこのような特殊な官制の文書を知ったのか? 戦後間もないころ、おそらく昭和31年かその前年に堀田はクロ宗報告書を読んだとしか考えられない。甑島へはたぶん三度通っている。

 当時の鹿児島県立図書館館長は、久保田彦穂という。動物物語で有名な児童文学者の椋鳩十が、久保田の筆名である。昭和30年のころ、堀田は鹿児島に椋を訪ねた。そして甑島のクロ宗の話を聞いて驚いた。当時、鹿児島図書館が所蔵していた昭和初年に県が実施したクロ宗調査報告書を読み込んだ。わたしの勝手な推理だが、おおむね正しいであろうと信じている。
<2015年10月18日 南浦邦仁>
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隠れキリシタンと天皇制 第3回

2015-10-10 | Weblog
<カクレキリシタン>

 隠れキリシタンはいまでは長崎県にしか存在しないといわれている。甑島や摂津の高槻、そして奥州など全国の何ヶ所かにも隠れキリシタンが近現代に存在したという説があるが、それは正しくない。古野清人は『隠れキリシタン』において、現代においても集落をなして、キリシタン信仰と行事とを多少とも持ち続けているのは長崎県下のほかには確認されていないとする。
 長崎県以外の現代の隠れ信者たちは、自身がキリシタンの末裔であるという認識や記憶が一切ない。単なる土俗宗教らしきものを護持しているだけであって、カクレであっても、彼らはキリシタンではない。

 宮崎賢太郎著『カクレキリシタン』によると、たくさんの人たちがカクレキリシタンに興味や関心を抱く理由をつぎのように説明している。
 キリスト教という世界最大の信徒数を擁するメジャーでグローバルな普遍宗教が徹底的な迫害を被り、仏教や神道や日本の民俗信仰と深く融合しながらも、二百数十年間厳しい弾圧に耐えて信仰を守り続けた驚異的な強さに人々が心動かされるからであろう。さらに深く私たちの好奇心をかきたてるのは、現代では信仰の自由が認められているにもかかわらず、なぜ今日にいたるまでカトリックに戻ることなくその信仰を守り続けているのだろうか、という素朴にして根源的な疑問によるものであろう。
 現存のカクレキリシタンは、いまだに隠れてキリスト教を守り続けているという、幻想的にしてロマンチックなイメージによって生み出されている。宮崎は「現在のカクレキリシタンはもはや隠れてもいなければキリシタンでもない。日本の伝統的な宗教風土のなかで年月をかけて熟成され、土着の人々の生きた信仰生活のなかに完全に溶けこんだ、典型的な日本の民俗宗教のひとつである…カクレキリシタンにとって大切なのは、本来のキリシタンの教えを守っていくというのではなく、先祖が伝えてきたものをたとえ意味は理解できなくなってしまっても、それを絶やすことなく継承していくことであって、それがキリスト教の神に対してではなく、先祖に対する子孫としての最大の務めと考えているのである。カクレはキリスト教徒ではなく、祖先崇拝教徒なのである」
<2015年10月10日 南浦邦仁>
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隠れキリシタンと天皇制 第2回

2015-10-04 | Weblog
<昭和初期のクロ宗調査報告書>

『鹿児島県史』卷3に、甑島のクロ宗の記述がある。県史はつぎのように記している。
 下甑島の片ノ浦(現・片野浦)にクロ宗と称する基督舊教に属する一種の秘密教団を存し、同部落八十余戸がこれを奉じて居り、クロは十字架(クロス)から転化したもので、この教団は島原一揆残党の一部が転住したに始まると伝へ、今日部落には十字架を彫りつけた三基の墓碑が遣っているともいう。年一回の祭礼たる基督降誕祭は深夜秘密に催すが、これは禁制時代より続いた古い習慣と思われる。教徒死亡の際にはクロ宗により祭祀し、次いで喪を発して後、真宗による葬儀を行うという。

 そして昭和11年、鹿児島県史刊行の五年ほど前に、鹿児島県立川内中学校(旧制)が編集発行した『川内地方を中心とせる郷土史と伝説』に「甑島のクロ宗」の記述がある。なお大毛家は代々庄屋だった家だが、「サカヤ」と呼ばれる世襲の司祭である。サカヤはカトリックのサクラメントの転嫁であり、秘蹟あるいは秘蹟を行う者を意味するという。
 サカヤには現代では「賢家」の字をあてているが、大毛家は世襲制度の賢家であり、万世一系によって継承されている。サカヤは村に対して、いまも強大な絶対的支配権を握っている。川内中学の報告は以下の通りである。現代語にあらためる。

 甑島下甑村の片ノ浦には「クロ宗」と称せられるカトリックに属する一種の密教が現存している。
 片ノ浦海岸を隔たる十町、谷間の山間部落にして八十余戸が密集し、平和な農村部落を形成している。部落民の結束極めて固く、すべて秘密主義をとっているため、このクロ宗、本体もまた判然となっていない。
 最近県当局の調査によれば、クロ宗のクロとはキリストのクロスから転化した語とみられている。付近の古老の言によれば、今を去る約三百年前、島原の乱に破れた信徒の一部が信仰の自由を求めて海を渡って密かにここに転住したものといわれ、従って現在ではクロ宗に関するよるべき確実な資料は発見されず、ただ部落には十字架を彫り付けた三基の墓碑が残っているのみである。
 部落民の特殊な風俗について見ると、部落民は極端にクロという言葉を嫌悪し、便所も十字を踏まぬ構造になっている。祭礼の行事は年一回深夜極秘に催される。この深夜、祭事を行うのは、イエス・クリストの誕生日にヤソ教徒が深夜に祭りを行うという古い習慣があるのを部落民が襲行しているものと考えられ、信徒死亡の祭は、まずクロ宗による祭が行われて後、喪を発して真宗による祭儀を執行するといわれている。
 同部落の素封家、大毛示氏は、クロ宗の本家と称せられ祭事を掌っているものといわれているが、氏は京都中学を経て中央大学出身の人格者である。同氏を中心とする部落民の信仰生活は又めぐまれたものであろう。
<2015年10月4日 南浦邦仁>

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