若冲天井画のことは、ずいぶん前にこのブログで連載したことがあります。2008年6月から9月まで、8回掲載でした。
若冲の天井画はふたつの寺に現存しています。京都東山区の信行寺と、大津の義仲寺です。ところで信行寺天井画ですが、これまで一般公開されず、観た方はほとんどいませんでした。それが初めて公開されます。10月30日からの観覧が待ち遠しいですが、先駆けて、かつての連載を書き改め読み切り1回で掲載します。
朝日新聞が秋の「京都非公開文化財特別公開」を報じました。まずこの新聞記事のダイジェストから紹介します。後の<石峰寺>からが本文です。
千年の都に伝わる秘宝を紹介する、秋の「京都非公開文化財特別公開」を京都古文化保存協会が発表した。10月30日~11月8日(一部を除く)に、京都市内の寺社など21カ所を公開。「奇想の画家」として注目され、来年生誕300年を迎える江戸中期の絵師、伊藤若冲(1716~1800)の天井画も初公開される。
天井画は信行寺(しんぎょうじ)(左京区)本堂の「花卉図(かきず)」。格天井(ごうてんじょう)に計168個の正方形の格子面(縦横約38センチ)があり、円形の枠(直径約33センチ)中に一つずつ花を描いている。ボタンやキク、ユリなどのほか、サボテンやヒマワリも。最晩年の作で、19世紀後半に有力な檀家(だんか)から寄進されたという。
若冲の天井画は極めて珍しく、信行寺と義仲寺(ぎちゅうじ)(大津市)に伝わる。「穏やかな雰囲気をたたえながらも、何としても描き上げようという若冲の強い意思を感じさせる」と信行寺の本多孝昭住職。公開は今回限りの予定で、貴重な機会となりそうだ。
<石峰寺>
伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていたとされる。しかし明治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂外陣天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したと伝わっている。
石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江戸時代、同寺の檀家はわずか数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であった。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、そして天井画や石造物の売却であった。また当時、廃仏毀釈の嵐も吹き荒れた。
石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だったと考えられる。
若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年夏(一七九八)、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた畸[き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。
観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作がある。
また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かきず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはないであろう。
<大津義仲寺>
不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚である。
義仲寺は名の通り、木曽義仲[よしなか]の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
木曾殿と背中合せの寒さかな
翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。寺には同時代の文人、京都文化ネットワークの中心人物とされる皆川淇園の墓もある。
なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に俳僧蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
春立や新年ふるき米五升
若冲の斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
話が若冲の天井画から横道にそれてしまったが、近江の大津馬場・義仲寺の若冲花卉図に戻す。
これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。
小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青[ぐんじょう]が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(一八六〇)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年(一八五六)二月七日、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまった。
大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。西川太治郎編著『長等の櫻』(昭和2年刊)に抄文が紹介されているが、参考までに義仲寺所蔵の全文を記載する。
右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六
清六作 外ニ 青磁香炉
天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/
これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
鶯のはつかしそうな初音かな
<魚屋通六>
鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも東海道の逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。大津の魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。おそらく彼の没後であろう。
そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(一八五九)のことであった。明治初期の石峰寺観音堂破却と天井画の流出の十数年も前のことである。花卉図十五枚はずいぶん早くに大津に着いた。寄進者は大津の魚屋の通六である。
それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。
それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。若冲八十三歳のころ、観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣の天井ではないかと思う。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
ちなみに若冲の次弟、白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。また白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひとだったのだろう。
<2015年10月27日>
※追記:信行寺に行ってきました。はじめて観る若冲画に感動です。来観者は歩道にも列をなし、人員整理の方に聞きましたら、「今日はまだ少ない方です。昨日などずっと向こうまで行列が続きました」。大好評で何よりです。
たくさんの観覧者といっしょに顔を天に、ずらりと並ぶ画をみながら、堂内で解説を聞きました。そしてご住職のお話に驚きました。若冲天井画は明治期ではなく、幕末に信行寺におさめられたという。それらのことは、寄贈者の檀家総代、井上氏の過去帳と、いまも同寺の檀家である井上氏のご子孫が所蔵されている書状であきらかである……。
当日のあまりの混雑のため、これ以上の質問とお答えをいただけませんでしたが、間違いないとのことでした。ショックです。
これまで若冲天井画にかかわるひとのすべてが、信行寺には石峰寺観音堂から明治期のはじめに流出したものだと、信じ切っていたのです。それが覆ってしまいました。この謎解きがどう展開していくのか、大きな楽しみです。<20015年11月3日>
若冲の天井画はふたつの寺に現存しています。京都東山区の信行寺と、大津の義仲寺です。ところで信行寺天井画ですが、これまで一般公開されず、観た方はほとんどいませんでした。それが初めて公開されます。10月30日からの観覧が待ち遠しいですが、先駆けて、かつての連載を書き改め読み切り1回で掲載します。
朝日新聞が秋の「京都非公開文化財特別公開」を報じました。まずこの新聞記事のダイジェストから紹介します。後の<石峰寺>からが本文です。
千年の都に伝わる秘宝を紹介する、秋の「京都非公開文化財特別公開」を京都古文化保存協会が発表した。10月30日~11月8日(一部を除く)に、京都市内の寺社など21カ所を公開。「奇想の画家」として注目され、来年生誕300年を迎える江戸中期の絵師、伊藤若冲(1716~1800)の天井画も初公開される。
天井画は信行寺(しんぎょうじ)(左京区)本堂の「花卉図(かきず)」。格天井(ごうてんじょう)に計168個の正方形の格子面(縦横約38センチ)があり、円形の枠(直径約33センチ)中に一つずつ花を描いている。ボタンやキク、ユリなどのほか、サボテンやヒマワリも。最晩年の作で、19世紀後半に有力な檀家(だんか)から寄進されたという。
若冲の天井画は極めて珍しく、信行寺と義仲寺(ぎちゅうじ)(大津市)に伝わる。「穏やかな雰囲気をたたえながらも、何としても描き上げようという若冲の強い意思を感じさせる」と信行寺の本多孝昭住職。公開は今回限りの予定で、貴重な機会となりそうだ。
<石峰寺>
伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていたとされる。しかし明治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂外陣天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したと伝わっている。
石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江戸時代、同寺の檀家はわずか数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であった。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、そして天井画や石造物の売却であった。また当時、廃仏毀釈の嵐も吹き荒れた。
石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だったと考えられる。
若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」[そさいずおしえはりびょうぶ]に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年夏(一七九八)、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた畸[き]を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。
観音堂天井画は若冲最晩年の代表作だが、生前の大作画業を順を追って振り返ってみよう。まず四十三歳ころから十年近い歳月を費やした畢生の最高傑作「動植綵絵」[どうしょくさいえ]と「釈迦三尊像」の計三十三幅。これらは若冲が親交を結んだ僧、大典和尚の相国寺に寄進された。また四十四歳のとき、同じ大典のつながりから制作した金閣寺で有名な鹿苑寺大書院五室の障壁画の大作がある。
また五十歳ころの制作になる、讃岐国金刀比羅宮[さぬきのくにことひらぐう]の障壁画も傑作である。つぎに六十歳を過ぎてから十数年を要した石峰寺五百羅漢、石造物の造営。天明八年の大火の直後に描いた摂津豊中・西福寺の襖絵がある。そして最晩年の八十三歳ころ、石峰寺観音堂格天井を飾った花卉図[かきず]である。残存する若冲大作の代表作を以上とみても、おおむね差し支えはないであろう。
<大津義仲寺>
不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺に現存する。同寺の翁堂[おきなどう]の格天井を飾る十五枚である。
義仲寺は名の通り、木曽義仲[よしなか]の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって彼は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄[ゆうげん]の句が有名である。
木曾殿と背中合せの寒さかな
翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚[ちょうむおしょう]によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は阿弥陀寺帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。寺には同時代の文人、京都文化ネットワークの中心人物とされる皆川淇園の墓もある。
なお五升庵には、若冲の号・斗米庵[とべいあん]と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に俳僧蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
春立や新年ふるき米五升
若冲の斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語[ばいさおうげご]』(1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮策が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
話が若冲の天井画から横道にそれてしまったが、近江の大津馬場・義仲寺の若冲花卉図に戻す。
これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。
小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青[ぐんじょう]が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(一八六〇)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年(一八五六)二月七日、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまった。
大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。西川太治郎編著『長等の櫻』(昭和2年刊)に抄文が紹介されているが、参考までに義仲寺所蔵の全文を記載する。
右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六
清六作 外ニ 青磁香炉
天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/
これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
鶯のはつかしそうな初音かな
<魚屋通六>
鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。「魚屋」は鮮魚問屋と料亭を商っていた。琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から、雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から、琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも東海道の逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。大津の魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一歳。おそらく彼の没後であろう。
そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(一八五九)のことであった。明治初期の石峰寺観音堂破却と天井画の流出の十数年も前のことである。花卉図十五枚はずいぶん早くに大津に着いた。寄進者は大津の魚屋の通六である。
それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。
それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろう。若冲八十三歳のころ、観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣の天井ではないかと思う。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けた。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。
ちなみに若冲の次弟、白歳は家業にちなみ「白菜」のもじりであろうといわれているが、描画のすきな俳人でもあった。ただ絵は兄に似ず、うまくはない。また白は百から一を引いた九十九で、ツクモでもある。ユーモアのある、楽しいひとだったのだろう。
<2015年10月27日>
※追記:信行寺に行ってきました。はじめて観る若冲画に感動です。来観者は歩道にも列をなし、人員整理の方に聞きましたら、「今日はまだ少ない方です。昨日などずっと向こうまで行列が続きました」。大好評で何よりです。
たくさんの観覧者といっしょに顔を天に、ずらりと並ぶ画をみながら、堂内で解説を聞きました。そしてご住職のお話に驚きました。若冲天井画は明治期ではなく、幕末に信行寺におさめられたという。それらのことは、寄贈者の檀家総代、井上氏の過去帳と、いまも同寺の檀家である井上氏のご子孫が所蔵されている書状であきらかである……。
当日のあまりの混雑のため、これ以上の質問とお答えをいただけませんでしたが、間違いないとのことでした。ショックです。
これまで若冲天井画にかかわるひとのすべてが、信行寺には石峰寺観音堂から明治期のはじめに流出したものだと、信じ切っていたのです。それが覆ってしまいました。この謎解きがどう展開していくのか、大きな楽しみです。<20015年11月3日>