「お住まいはどちらですか?」と聞かれると、答えに窮する。住所は京都市西京区大原野だが、「大原野です」などと答えようものなら、「大原だと三千院のあたりですか。いいところですねえ」と返事が返ってきたりする。大原は北山、大原野は西山の麓である。全然違う。
質問者が京都人だと、「洛西ニュータウンです」ということにしている。これがいちばん分かりやすいようだ。ところが相手が土地勘のない他所の方だと通じない。仕方ないので「桂です」というと、たいていの方が「桂離宮ですか。すごい所にお住まいですねえ」。自宅から離宮までは三キロほども離れている。
歴史ある街だけに京都市中の町名は、多すぎて覚えられない。字や読みもむずかしいものが多い。郵便番号簿をみれば一目瞭然であるが、東京二十三区は四頁、大阪市と神戸市はともに三頁だけの記載である。ところが京都市の町名は何と十九頁にわたる。由緒ある名ばかりだけに、軽々しく隣の町と合併して減らしたり、町名を変更したりすることはまず考えられない。
あまりに多くまた難読な町名は、京都人にも実はつらい。タクシーに乗って、行き先を「四条の立売東町まで」と告げても、まず通じない。この場合だと「四条富小路まで」というのが正解であろう。運転手さんは「たち吉さんに横付けでいいですか?」と即答してくれる。四条富小路は、四条通と富小路通の交差点を指している。
ちなみに本来の「立売」とは、店を構えないで道端などで立ったまま物を売ることだそうだ。住宅の建売ではなく、「たちうり」だが平安時代からの町名である。古い記録では、かつてこのあたりが興廃し人家もまばらなとき、市を立てて商物を売ったことに由来するともいう。屋根も庇(ひさし)もないところで、立って売る人も多かったのだろう。今風にいえば、商品を抱えて客に声をかけるキャッチセールスであろうか。
戦国から桃山の時代の京都について、林屋辰三郎先生が興味深い話をしておられる。近江からひとがたくさん京都に入ってきたのがそのころだが、京都はそれまで、上京と下京に分かれて真ん中は空き地だった。連中が蹴上(けあげ)を通って三条大橋を入ってきて、中京をぱっと占領したそうだ。新しい中京の市民は、もとからの市民から「中京衆」と呼ばれた。確かに四条あたりの老舗には、ルーツを近江とする家が多い。かつて人家が少なかったころと、その後に発展していく四条通あたりの様子が目に浮かぶ気がする。
林屋先生の話に興味ある方には朝日文芸文庫『九つの問答』所収、司馬遼太郎さんとの対談「光の都 京都に寄せる」の一読をおすすめする。
市中では東西の通りと南北の通り、ふたつの通りの交差で位置を示す。実に合理的なナビゲーションの方法である。緯度と経度の組み合わせに似ている。そして交差点を北へというのに「上ル」(あがる)、南へは「下ル」(さがる)。西入ル(にしいる)、東入ル(ひがしいる)は左右で同様。碁盤の目のように格子状に道路が交差する街だからできる便利な表現である。
京都では、子どもは通り名を歌で暗誦する。通り名を知らないと、この街では迷子になってしまう。「♪マルタケエベスニオシオイケ、アネサンロッカクタコニシキ、シアヤブッタカマツマンゴジョウ……」。これだけで東西十八の通り名を表している。丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条であるが、節をつけて歌う京のわらべ唄である。
南北の道も同様である。「♪テラゴコフヤトミ、ヤナギサカイ、タカアイノヒガシ……」。寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町、高倉、間之町、東洞院を示している。
わたしは近ごろ、連載が少ししんどくなっています。仕事の忙しさが並ではなくなり、また私事も超過密。時間が足りないのです。友人からは「酒を減らしたら?」との的確な指摘とともに、「週一回でいいから続けてください」の熱いエールも。よし七日に一回ペースでやってみよう、と思う今日このごろ。ペンネームは、片瀬五郎から「一七」に変更なるかもしれません。三郎さん、ごめんなさい。
<2008年2月23日 明日は休載 南浦邦仁記>