ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

上ル下ル西入ル東入ル

2008-02-23 | Weblog
「お住まいはどちらですか?」と聞かれると、答えに窮する。住所は京都市西京区大原野だが、「大原野です」などと答えようものなら、「大原だと三千院のあたりですか。いいところですねえ」と返事が返ってきたりする。大原は北山、大原野は西山の麓である。全然違う。
 質問者が京都人だと、「洛西ニュータウンです」ということにしている。これがいちばん分かりやすいようだ。ところが相手が土地勘のない他所の方だと通じない。仕方ないので「桂です」というと、たいていの方が「桂離宮ですか。すごい所にお住まいですねえ」。自宅から離宮までは三キロほども離れている。
 歴史ある街だけに京都市中の町名は、多すぎて覚えられない。字や読みもむずかしいものが多い。郵便番号簿をみれば一目瞭然であるが、東京二十三区は四頁、大阪市と神戸市はともに三頁だけの記載である。ところが京都市の町名は何と十九頁にわたる。由緒ある名ばかりだけに、軽々しく隣の町と合併して減らしたり、町名を変更したりすることはまず考えられない。
 あまりに多くまた難読な町名は、京都人にも実はつらい。タクシーに乗って、行き先を「四条の立売東町まで」と告げても、まず通じない。この場合だと「四条富小路まで」というのが正解であろう。運転手さんは「たち吉さんに横付けでいいですか?」と即答してくれる。四条富小路は、四条通と富小路通の交差点を指している。

 ちなみに本来の「立売」とは、店を構えないで道端などで立ったまま物を売ることだそうだ。住宅の建売ではなく、「たちうり」だが平安時代からの町名である。古い記録では、かつてこのあたりが興廃し人家もまばらなとき、市を立てて商物を売ったことに由来するともいう。屋根も庇(ひさし)もないところで、立って売る人も多かったのだろう。今風にいえば、商品を抱えて客に声をかけるキャッチセールスであろうか。
 戦国から桃山の時代の京都について、林屋辰三郎先生が興味深い話をしておられる。近江からひとがたくさん京都に入ってきたのがそのころだが、京都はそれまで、上京と下京に分かれて真ん中は空き地だった。連中が蹴上(けあげ)を通って三条大橋を入ってきて、中京をぱっと占領したそうだ。新しい中京の市民は、もとからの市民から「中京衆」と呼ばれた。確かに四条あたりの老舗には、ルーツを近江とする家が多い。かつて人家が少なかったころと、その後に発展していく四条通あたりの様子が目に浮かぶ気がする。
 林屋先生の話に興味ある方には朝日文芸文庫『九つの問答』所収、司馬遼太郎さんとの対談「光の都 京都に寄せる」の一読をおすすめする。

 市中では東西の通りと南北の通り、ふたつの通りの交差で位置を示す。実に合理的なナビゲーションの方法である。緯度と経度の組み合わせに似ている。そして交差点を北へというのに「上ル」(あがる)、南へは「下ル」(さがる)。西入ル(にしいる)、東入ル(ひがしいる)は左右で同様。碁盤の目のように格子状に道路が交差する街だからできる便利な表現である。
 京都では、子どもは通り名を歌で暗誦する。通り名を知らないと、この街では迷子になってしまう。「♪マルタケエベスニオシオイケ、アネサンロッカクタコニシキ、シアヤブッタカマツマンゴジョウ……」。これだけで東西十八の通り名を表している。丸太町、竹屋町、夷川、二条、押小路、御池、姉小路、三条、六角、蛸薬師、錦小路、四条、綾小路、仏光寺、高辻、松原、万寿寺、五条であるが、節をつけて歌う京のわらべ唄である。
 南北の道も同様である。「♪テラゴコフヤトミ、ヤナギサカイ、タカアイノヒガシ……」。寺町、御幸町、麩屋町、富小路、柳馬場、堺町、高倉、間之町、東洞院を示している。

 わたしは近ごろ、連載が少ししんどくなっています。仕事の忙しさが並ではなくなり、また私事も超過密。時間が足りないのです。友人からは「酒を減らしたら?」との的確な指摘とともに、「週一回でいいから続けてください」の熱いエールも。よし七日に一回ペースでやってみよう、と思う今日このごろ。ペンネームは、片瀬五郎から「一七」に変更なるかもしれません。三郎さん、ごめんなさい。
<2008年2月23日 明日は休載 南浦邦仁記>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

京都疏水

2008-02-17 | Weblog
 山科の洛東高校に商用で先日、出かけました。山科駅のすぐ北、毘沙門堂の手前、緑が多く気分がなごむ一帯です。しかし三条街道から旧東海道に車で入ろうとして、誤って路地に迷い込んでしまいました。新旧ふたつの三条通のちょうど中間の位置ですが、道路には民家解体工事のトラックが通行を遮断しており、困ったなあと逡巡してしまいました。ところがわたしの車のすぐ前に偶然、友人が立っていたのです。
 日本経済新聞OBの西村武彦さんです。山科四宮にお住まいですが、彼は往年のジャーナリストそのもの、反骨毒舌の新聞記者だった方です。「君はなぜこんな所をうろついているんだ」。かねがね畏敬する先達ですが、彼らしい口上でした。
 抜け道を教えてもらい、やっと到着した高校の正門前には、疏水が流れています。いや、流れているはずなのに水がない。これでは上水道を疏水に頼っている京都市民は、大渇水でたいへんなことになる。
 その夜、西村さんに電話をしました。「疏水はこの冬場、補修工事で水を停めています。桜花の季節までには工事も終わる。あれは第一疏水、もう一本、トンネルばかりが続く第二疏水には水が通っていますから、上水道の心配はいりません。」
 なるほど、これを聞いて安心しました。さすが西村さん。しかし両疏水が合流する京都岡崎あたりの水量は、極端に少ない。この辺も工事中です。ショベルカーで浚渫したり、傷んだ擁壁を修理したりと、桜の季節を前に大忙しのようです。京都疎水はいわば、片肺飛行ですから、水不足は致し方ないのでしょう。
 
 ところで有名な京都の疏水ですが、最初の水路が完成したのは、明治23年4月9日のことでした。大隧道を三本通した日本初の大トンネル工事でした。完成を祝う桜花舞う式典の日、祇園祭の山鉾が出、盆でもないのに如意ヶ嶽の大文字に灯がついたそうです。京都市民は完成を、喜びの涙で祝ったのです。
 現代では京の上水道をまかなうのが主な任務ですが、本来の疏水の目的は水力発電、舟運、上水道、そして灌漑用水でした。いまも三箇所の水力発電所が稼動しています。蹴上、夷川と墨染です。京都に日本初の市電が走ったのは、この水力発電所のおかげでした。
 かつて明治初年、都が東京に移り、東遷する天皇に従って公卿、官吏や諸侯、有力商人などが、京を去ってしまいました。幕末、京の人口は35万人。それが25万に激減してしまいます。
 明治14年、京都府三代知事に就任した北垣国道は、琵琶湖疏水建設の計画をぶち上げました。維新以降、凋落疲弊萎縮してしまった京都市民の意気をゆさぶろうと、北垣は決意したのです。
 東京大学工学部の前身、工部大学校の校長だった大鳥圭介の推薦紹介で、北垣は同校の学生だった田辺朔郎に会います。大鳥は新政府に抗して函館の五稜郭で、土方歳三らと最後まで戦い、そして降伏した幕臣の新参旗本です。出身は忠臣蔵で有名な播州赤穂でした。
 弱冠二十歳だった田辺は、京都に疏水計画のあることを知り、府とは別にまったく独自に水路のルートを踏査しました。そして英文で大学の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を書き上げていたのです。大鳥の田辺推薦は、この入念な論文が発端でした。
 北垣は英断を下します。二十一歳の若者、田辺朔郎を京都の一大土木事業の工事責任者として府で採用したのです。そして知事のこの暴挙にひとしい決断が、疏水建設事業を完成にみちびきます。
 しかし当初、北垣と田辺の前には大反対が待ち受けていました。まず工事開始のためには、市民に課す大増税が必要だったのです。北垣国道にもじって、今度知事で「来た餓鬼、極道」(きたがきごくどう)と罵倒されました。また田辺も「若僧!」と侮られました。だがついに市民は京都復興の真意を理解し、建設計画に同意します。
 そして滋賀県民も大反対運動を起こしました。増水のときはよいけれど、渇水期に京に大量の水を盗られては困る。水が足りなくなってしまう。米どころ近江の農業が破綻してしまう。
 当時の滋賀県令すなわち県知事は、籠手田安定でした。彼は県議会でぶち上げます。「京都市民は湖水は大丈夫といっていますが、この問題は軽々しくいえることではありません。京都が強引に疏水をひくなら、水門の鍵をわたしに預けなさい。いや、近江全体を管理する滋賀県庁に水門開閉の自由を握らせなさい。しかし知事に鍵を預けても問題があります。わたしが永久に滋賀県知事であったら、決して京都の不利になるようなことはしないだろうが、人間のこころというものは、あてにならないものだし、ましてわたしなり京都府知事が転任し、後任同士が仲たがいでもしようものなら、どうするというのですか。湖上満々、水害をこうむるほどのときには、五百や六百個どころか千個の水も流してやるかわりに、旱魃時には百個か二百個の水しかやらないということにもなりかねない。わたしは決して、この計画を妨害するつもりはありません。しかし簡単に同意しては、いつ我が滋賀県に迷惑がおよぶ事態が生じるかわからない。とことん利害関係を追及したうえでなければ、京都府の要求には応じられません」。籠手田も北垣同様、立場は違えど立派な知事でした。
 そしてついに、第一疏水は四年八ヶ月の歳月と巨額の重税を費やして、大津の美保ヶ崎湖岸から京都まで、八キロの水路が誕生したのです。取水口は大津市にありながら、ここは飛び地で京都市に属しています。
 田辺朔郎はふたつの碑を建立しましたが、いまも残っています。ひとつには「藉水利資人工」、藉水とは「水を借りる」の意味です。もうひとつの石碑には、工事で命を失った十七人の工夫たちのために「一身殉事 万戸潤恩」

追記:この稿を書くに当たって、田村喜子さんの一文「琵琶湖疏水建設」を参考引用しました。達意の秀文に敬意を表し、またお礼申し上げます。同文は滋賀文化振興事業団刊・雑誌「湖国と文化」1985年冬第30号所収。それから琵琶湖疏水は別名「京都疏水」です。京では「疏水」としかいいませんが。
<2008年2月17日 京水仙開花>

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

巖谷小波

2008-02-11 | Weblog
 昼夜降り続いた雪も、昨早朝にはやっと止み、今日はポカポカと春のような陽気の京都でした。実は、こんな日を待っていたのです。近江甲賀の城下町で宿場町だった水口(みなくち)に前々から、車で行きたかったからです。残雪が残り、遠方の連山の頂に雪を冠すれど、道路には雪がない。そんな日を、待っていました。
 水口は明治時代にはじめて児童文学を確立した、巖谷小波の故郷です。かつて彼の名前をはじめて見たとき、わたしは読めませんでした。いわたにこなみ?いわやしょうは?……。正しくは「いわやさざなみ」です。
 別号を漣山人(さざなみさんじん)といいます。ちかごろ、いちばん好きな人物が作家・巖谷小波です。彼についての本は今年になって百冊ほど目を通してしまったほどです。
 巖谷家は代々、水口藩の藩医でした。父の巖谷一六も医師でしたが、尊皇攘夷の志士として活躍し、維新後に出世したひとです。書が達者で、明治初期の書三大家とよばれたほどです。
 小波は明治三年に東京に生まれます。本名は季雄。弱冠二十二歳で刊行した創作冒険小説『こがね丸』が大ベストセラーになりました。そして古今東西に材をとった昔噺や、創作お伽噺などの膨大な数の作品を残します。亡くなったのは昭和八年、享年六十四歳。辞世の句は「極楽の 乗物やこれ 桐一葉」
 彼はたくさんの昔噺や児童向け物語を残しました。その後に興隆する少年少女文学や言文一致の文体は、小波からはじまったのです。
 ところで号「漣山人」を分解すると、サンズイの水が連なる淡海のサザナミ、そして連山は比叡から連なる比良の山並み、そこから名づけたのであろうと推測し、確認のために湖東甲賀まで出かけたのです。

 わたしの住まいは洛西大原野ですが、水口まで一本道なのには驚きました。国道九号線の芋峠を起点とすると一目散に、地図も不要でただまっすぐ東に進めばいい。
 桂川を越えて町に入る。堀川通から国道一号線に呼び名は変わるが直進です。そして鴨川の五条大橋を渡る。弁慶と牛若丸がはじめて出会う、なつかしい橋です。
 東山を越えると、大石蔵之助が隠棲していた山科です。まもなく西から伸びる三条通・旧東海道と合流して、逢坂越えを通って大津へ。峠下からは旧街道と別れて一路、草津に向かいます。そして二叉に分岐する地点は、左が彦根・敦賀に向かう国道八号線、右が水口・鈴鹿峠・伊勢へと向かう一号線です。
 野洲川を遡行して水口に着いたのは、出発からちょうど二時間後でした。まずは大岡寺(だいこうじ)に寄りました。小波の父、巖谷一六の石碑を見るためです。だいたいが、一六という名がふざけています。明治初期、官吏の休日は一と六のつく日だったのです。四日出仕して一日休む。「一六」とは「休み休み」の意味なのです。冗談も休み休みにと、わたしは寺でつい口走ってしまいました。
 ところでこの石碑の除幕式は明治四十四年秋、一六の七回忌でしたが、小波は遺族を代表して出席しました。彼の詠んだ句が、「菊紅葉 石に着せたる 錦かな」。 小説家の尾崎紅葉は文学結社「硯友社」を主宰しましたが、小波も社に属し、紅葉は友であり師でした。紅葉の『金色夜叉』の主人公・間貫一のモデルは、意中の女人に振られた小波なのです。もちろん彼は、高利貸しになどなりませんでしたが。
 寺には一六の師・中村栗園の石碑もあります。碑文は一六の書です。四面を漢文で刻んでいますが、美しい楷書体で、わたしですらほとんどの字が読めました。きっと、師匠のことを読んでほしい、知ってほしい、そのような一念からこの字体を選んだのでしょう。なお一六の墓は、京都東山・霊山の維新墓地にあります。坂本龍馬と中岡慎太郎の墓を過ぎた上方、木戸考允の墓のすぐ右です。
 しかし息子の小波の字は悪字で、判読が難しい。かつて「わからないものは、小波さんの字」とみなに笑われ、本人も「おれの字は、おれにも読めないことがある」と自慢したりしています。
 小波は日記を克明につけたひとです。十六歳から亡くなる六十四歳まで、延々と続けたのですが、解読が困難なため活字に翻刻されたのは、書きはじめた明治二十年から八年間分だけです。しかしいまも、小波研究者によって、翻刻に向けて地道な解読作業が続けられています。
 寺のつぎに、水口城を訪れました。維新後は廃城になり、現在では復元された櫓や石垣の一部が残るだけですが、堀の跡が城蹟をはっきりと教えてくれます。また城の堀土手には、ヒガンバナが群生していました。といってもこの季節ですから花はなく、葉ばかりが繁っていますが、秋には見事な咲きっぷりでしょう。九月には再訪します。
 そして歴史民俗史料館が、お目当てです。巖谷父子の記念室があるからです。地元の方に何度も道を教わり、やっと訪れたところ、今日は旗日ですが月曜日。休館の札が玄関を飾っていました。実に残念。秋といわずに桜花の季節に再訪することにしました。大岡寺の桜が、水口八景のひとつだからです。近江伊賀出身の芭蕉が、この寺の桜花を詠んでいます。「命二つ 中に生きたる 桜かな」

 さて腕時計をみると、もう三時。おやつの時間ですが、わたしは何かを忘れています。初老にもなると物忘れがはなはだしい。一所懸命考えてみますと、忘れていたのは昼食です。何かに夢中になると、いつもご飯を忘れてしまうのです。すでに食べたことを忘れたのではないということを、念のため付加しますが。
 帰路は旧街道を選びました。水口から旧東海道をひた走り、俵藤太の瀬田唐橋を渡って瀬田川右岸を琵琶湖に向かう。淡海の彼方には冠雪の比良連峰が見事でした。湖面にはサザナミが走る。そしてまもなく、湖に出っ張る膳所(ぜぜ)城跡。
 円山応挙や長澤蘆雪、そして大典和尚などと親交を結んだ京の儒学者、皆川淇園は膳所藩の藩儒を兼任していました。若冲とも接点があったひとです。
 そして左手に入ると、旧東海道に面する義仲寺があります。木曽義仲と松尾芭蕉の墓が並んでいますが、又玄句「木曽殿と 背中合せの 寒さかな」で知られます。この寺を十八世紀に再興したのが、蝶夢和尚です。淇園や大典と親しかった俳僧です。また寺には、若冲の天井画が十五面あります。
 そしてまっすぐ行くと、一方通行の進入禁止にさえぎられ、左折して国道一号線に入ります。逢坂の峠を越えて山科からは、大路の一本北を平行する旧三条通を走ります。この道がもと東海道の車道ですが、鴨川三条大橋で終点です。
 それからまだまだ桂川を渡り、桂離宮横から旧山陰街道に入ります。ずっと行けば、老の坂を越えて亀岡、丹波へと向かう丹波路です。
 老の坂手前の芋峠が、今朝の出発点です。ここに帰り着いて、まずレンタルビデオ屋さんに昨日借りた高倉健さんのDVD二本を返却しました。そしてまた健さんの映画「昭和残侠伝 破れ傘」を借りてしまいました。
 さてやっと小旅行を終えますが、実に充実した一日でした。ところで今日は、休日ですのに一冊の本も読んでいません。読書をしない日も、たまにはいいもんだと、しみじみ思います。
<2008年2月11日 鈴鹿の冠雪は御在所山と雨乞岳?>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

片瀬五郎という名前

2008-02-10 | Weblog
 「片瀬五郎って、変な名前ですね」。よくいわれます。これはペンネームというよりは、Webネームといった方が、しっくりします。
 ペンネームはいくつか持っていますが、どこかから寄稿依頼されるたびに、新しい名を付けるクセがわたしにはあります。源氏名・芸名・筆名・雅号を数え切れないくらい使い捨てしてきましたので、いくつかはとっくに忘れてしまっています。
 たとえば、京都の情報誌には「蛸錦四郎」の名で連載しました。前任の畏敬するコラムニスト「柳東馬」(柳馬場東入ル)さんにあやかって、通り名の蛸薬師通・錦通・四条通を短縮したのです。
 岩倉某という名も用いて、亡くなった前川さんのために仲間と追悼の本を出版したこともありました。京都在住の哲学者・鶴見俊輔先生のお住まい、洛北の岩倉をもじったのです。しかし先生に話しても、「はぁ?」といっておられたのが面白かった。だいたいが、鶴見先生は自分の子どもに「ポチ」と本気で名づけようとして奥さんと大激論大喧嘩になり、折れて「太郎」に変更された。鶴見太郎さんはいま、早稲田大の先生のはずです。
 ふざけた芸名はさて置き、仮名「片瀬五郎」ですが、よく本名は? と聞かれます。わたしはいつも思うのですが、人間ひとりひとりにはいろんな名があるものです。ただひとつの本名など、ありえません。
 まず戸籍名。わたしの祖母は故人ですが、「ゑ」と書くべきところが戸籍名は誤って「を」表記なのです。当然ですが祖母は一生涯、ゑで通しました。父母が名づけた名と、戸籍名は異なることがあります。
 わたしの自動車運転免許証の氏名にも問題があります。漢和辞典にもない字が、刻字されています。なぜこのような字が印刷されているのか不思議ですが、どうも行政漢字とでもいうべき、特殊な字体があるようです。
 先日、ささいな交通違反でパトカーに「ウー!」と止められてしまいました。署名しましたが、免許証通りの違和感のある異字で、あえてサインしました。そうしないと「この字は間違っていませんか?」と、お巡りさんに追求されるからです。長いものには、つい巻かれてしまう気弱なわたし……。
 パソコンを使って入力していても、自分が望む字がなかなか出てきません。手書きパッドで描いても、反映してくれないことがままあります。イライラ、いつもするのですが、やはりアメリカのマイクロソフトです。漢字に対する想いが足りない。そんな時、故白川静先生の声が聞こえてきます。「こころを冷静に、おしずかに。」
 話しがまた脱線してしまいました。「片瀬五郎」という名は、種を明かせば友人三人の名を一字ずつ拝借したものです。
 昨年の九月、このブログ連載をはじめるに当たって、「今度はどんな名前にしようかな」と思案しました。別にわたしが、犯罪者や逃亡者だから、ころころ変名を使うのではありません。連載開始を前に、別人に変身するごとく気分を一新したいだけなのです。いわばクセなのです。
 わたしのインターネット仲間に、片山・川瀬・三郎という三人の友人がいます。彼らの名を一文字ずつもらって付けたのが片瀬五郎。実にふざけているのです。
 それとこのブログ連載をはじめたのは、昨年の九月十六日。愛犬の葬式の日の夜でした。前日十五日、愛犬は十五歳の誕生日を目前に、急逝してしまいました。翌日のお葬式は火葬で送り、遺骨はすべて自宅に持ち帰りました。「骨を残したら、捨てられてしまう」という子どもの意見を尊重したのです。食卓で新聞紙のうえに拡げた骨はみなの手で砕かれ、ふたつの骨壷に収まりました。いまもピアノの横に、彼女の写真とともに並んでいます。この犬は拾ってきた雑種でしたが、実に賢い犬でした。
 パソコンの初期画面には、微笑する愛犬の姿がいつもあります。彼女は話しかけてくれます。「今度は何を書くの? ちょっとはまともな文を書いてね。お父さん」。片瀬五郎は愛犬の死とともに生まれ、キーボードを叩いているのです。
<2008年2月10日 京都全白、雪の日に>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖バレンタインデーの謎  後編

2008-02-03 | Weblog
シェイクスピアの『ハムレット』は1600年、ちょうど関が原の合戦のころにはじめて上演されましたが、オフェーリアがバレンタインの日を歌うシーンがあります。
 「あしたはセントバレンタインデー。早朝のすべてのものと、窓辺の少女が、あなたのバレンタイン。それから彼は起き上がり、服を身につけ、部屋の窓をあけた。少女を部屋に入れ、少女を部屋から出し、そして二度と離れない」(山岡千弘訳)
 このころのイギリスでは、聖バレンタインに象徴される愛と、2月14日の祝日が完全に定着しています。

 シェークスピア以前をみると、同じイギリスの作家・チョーサーの詩にたびたび表現されています。彼は14世紀に活躍し『カンタベリー物語』で有名ですが、詩「鳥たちの集い」は「聖バレンタインの日に鷲をはじめ、あひる、ほととぎす、いかるがなどが、各々配偶者を得る」という、快活な夢物語です。別の詩「マースの嘆きの歌」には、こうあります。
 「聖バレンタインよ。太陽が昇り始める前に、あなたの聖なる日に、鳥が次のように歌うのを聞いた。この鳥はこのように歌うーーなんじら皆目覚めよと忠告する。そして謙遜な態度から、まだ連れ合いを選んでいないものは、後悔せずに、己のために相手を選びなさい」(佐藤勉訳)
 チョーサー以前には、この日を愛の日とする記述は見当たりません。愛とは無縁のバレンタインの日、2月14日を鳥たちを介して、伴侶選びの日、求愛と婚約の日として記述した最初のひとは、チョーサーであると、ほぼ断定できます。
 当時のイギリスやフランスの宮廷では、陽気な恋の遊戯と愛を語らう饗宴の場で、よく歌がよまれた。その後、近代になってもこの日の風習が盛んだったのは、イングランドと北フランスです。北仏詩人トゥルヴェールの影響もあったことでしょう。

 ヨーロッパの冬は厳しい。2月は厳冬です。なぜこの寒い日があえて選ばれたのでしょうか。わたしは、国教になったキリスト教に征服された旧ヨーロッパの古い神々との戦いを感じます。一神と多神とのバトルです。
 2月のころ、禁欲の四旬節のまえに開かれたどんちゃん騒ぎの祭り、カーニヴァル・謝肉祭も関係していることでしょう。この祭りの起源は、古代ローマの農耕神への信仰であろうといわれています。
 かつて異教であり、古代ローマで迫害されたキリスト教は、313年に皇帝コンスタンティヌスによって公認されました。ネロ帝以降、おびただしい数のキリスト者が殉教しましたが、この時にはじめて信者たちに平和が訪れる。そして国教となったキリスト教は、古いローマの神々や、異民族の神々、ケルトやゲルマンの神たちを絶滅させる教化活動を本格化しました。
 古代ローマにはさまざまな祭儀や祝日がありました。意中のひとの名を紙片に書き、男女互いにその札を引いて相手を選ぶ「ルペルカリア」もそのひとつ。2月15日の夜に行なわれた古くからの有名な祭りです。
 シェークスピア『ジュリアスシーザー』の記載にもありますが、これはプルターク『英雄伝』からの引用です。ルペルカリアの祭りは、ローマ建国のロムルス兄弟が、狼に育てられたという伝説に由来します。さらには、牧羊神や森の神に豊穣や多産を祈る祭が、もともとの起源だといわれています。
 さらに古くは、ギリシアのアルカディアにまで辿れます。古代ギリシアの狼信仰に関係する祭りなのです。『シェイクスピア物語』を書いた19世紀のエッセイスト、ラムも『エリア随筆』の「ヴァレンタイン節」のなかで、アルカディアを示唆しています。

 キリスト教界に排撃された異端の祭り、ルペルカリア祭が5世紀以来、千年ちかいあいだ深く沈潜し、14世紀のころ「聖ヴァレンタインの愛の日」として復活した、とわたしは断言します。
 2月14日のチョコが、義理であっても楽しみです。
<2008年2月3日 京都三方雪山 前後の後 南浦邦仁記>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖バレンタインデーの謎  前編

2008-02-02 | Weblog
義理と人情が渦巻き、まことの愛の甘味がとろけるヴァレンタインデー。2月14日を愛の告白の日とし、女性が意中のひとにチョコレートを贈る風習は、なぜどのように、いつから始まったのでしょうか。実に謎が多い。
 神戸のモロゾフが、昭和11年(1936)にまず仕掛けた。創業者のひとり、葛野友太郎(くずのともたろう)が神戸の英字新聞に広告を載せました。
 「ヴァレンタインデーにチョコレートを贈ろう。」
 欧米では愛する異性に心中を告白し、カードや花、そして菓子や、ときにはチョコレートなども贈る風習があることを米人記者から聞き、彼はこの日を選びました。在日の欧米人向け企画でしたが、葛野の試みは、見事に失敗します。あまりにも時代を先取りしすぎたのです。10日ほど後には、2・26事件が起きました。
 モロゾフの試みは戦後、こんどは日本人向けに昭和28年から再開されます。また昭和33年には東京のメリーチョコレートカンパニーが、新宿の伊勢丹でヴァレンタインのキャンペーンを行ないました。ところが売上はわずか170円。客ひとりに五個売れただけでした。そしてメリーの4年後には森永が大々的に仕掛けます。景品のハンカチをチョコにつけたり、抽選で宝石をプレゼントするなど、会社あげての大作戦でしたが、これも惨敗してしまいます。
 たびたびの失敗にもめげず、これら菓子メーカーとデパート・スーパーが連携した、何度にもわたるしぶとい敗者復活戦が繰り返されました。2月は、ニッパチの言葉通り、小売業の端境期です。暇なこの時期を盛り上げたいという魂胆がありました。
 そしてついに昭和40年ころから、やっと定着します。そういえばわたしが子どものころ、チョコを2月にもらった男の子など、回りにひとりもいません。生きていくのが精一杯の昭和30年代なかばころまで、チョコやバナナなどは、雲のうえのぜいたく品でした。いまでは信じられないことですが。

 ところで肝心の「聖ヴァレンタイン様」とは何者か? 彼は謎だらけの人物です。イタリア・ローマの80キロほど北の町、テルニの司祭であった。あるいは、ローマの聖職者であったともいわれています。西暦270年ころの2月14日に、ときのローマ皇帝クラウディウス二世の迫害で殉職した聖人であるといわれています。ところが確かな記録もなく、没年もはっきりしません。
 『黄金伝説』という本があります。13世紀に書かれたキリスト教聖人伝説ですが、中世ヨーロッパにおいて、聖書とならんで広く読まれた殉教録です。この本をみても、ヴァレンタインは、愛を象徴する聖人としては描かれていません。
 彼は当時、古代ローマにおいて異教であったキリスト教からの改宗を断固拒否し、古来のローマの神々を認めなかった。頑固なキリスト者として記述されています。特筆すべきは、眼病などの医者でもあったという記述です。
 ヴァレンタイン神父が皇帝に命によって斬首された理由は、単に背教しなかったためと、医術による「奇跡」をおこしたためと、わたしは考えています。しかし一般にいわれているのは、皇帝クラウディウスが定めた法律「未婚の戦士は結婚してはならない」に反対したからだという。新妻への未練をもって戦地に赴いたのでは、まともに戦えないからという理由ですが、ヴァレンタインは皇帝の意に逆らって、テルニの教会でたびたび兵士たちの結婚式をあげたといいます。しかしこの俗説は、キリスト教会史やヨーロッパの結婚史からみても、実にあやしい。 ~続く~

※ 「京都から」には無縁の、「古代ローマから」になってしまいました。理由は、先日ある新聞に「ヴァレンタインデーのチョコレートは、メリーチョコレートカンパニーが始めた作戦から云々」というインタビュー記事が載ったからです。その記載は間違いです。始めたのは、神戸のモロゾフです。葛野友太郎の名誉のために書こうと思いました。ご容赦ください。
 参考までに「ヴァレンタイン Valentine 」は英語です。ラテン語「Valentinus 」。仏語・ドイツ語「Valentin 」。伊語「Valentino」。

<2008年2月2日 京都雪落 前後の前 南浦邦仁記>

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする