桜はもう三分から五分咲き。細やかな白花のユキヤナギが、桜樹の足元を飾る。横にはレンギョウが黄花を添えている。朝の十時ころであったが、暖かい光線のなか、コブシとモクレンも並んで、花街道がどこまでも続く。白、黄、淡紅、薄桃色……。果てしなく花景色が並ぶ。つい先日まで雪深い日々のあったことなど、まるで嘘のようである。
心配していた疏水の水量も、もとに戻っていた。発電所から岡崎動物園横まで、水路には満面の湖水があふれるほどに満ちている。桜花の季節にあわせて、工事は終了していた。正確には、中断だそうである。花の季節が終わると、第一疏水は再び水を止め、修理作業が再開されるそうである。おそらくゴールデンウィークまでには、すべて終了するのであろう。あるいはまた一時中断して、入梅まで続くのであろうか。
いずれにしろ、疏水の補修工事は観桜季には中止され、花見客のために本来の姿に戻った。いかにも京都らしい、こころ憎いばかりの芸当だと感心する。
京都のひとたちは、季節の移ろいのなかで、自然とともに呼吸をしながら生活している。ところが近ごろでは地元民以上に、観光客が季節の花や行事の時期ごとに、雲霞のごとく押し寄せて来る。道路の渋滞にはいつも閉口してしまうのだが、これも観光都市京都ならではのうれしい嘆きであろう。
微妙な季節の変化を楽しむこころは本来、四季あざやかな日本列島に住む住人なら、みなが持ち合わせていた感性だと思う。なかでも京都という舞台は、装置であろうか。洗練された魅力が充満している。
しかし身の周りを見渡してみれば、自宅近くの小川なり繁みにも、職場近くの公園や街路樹でも、植物がみな春来ると、息吹をあらたに響きを発している。
ところで、ごく平凡な自然こそが、人智を超えた巨大装置である。放置された自然こそ、偉大なる花舞台であろう。そこには、人間が計算加工した似非自然より、もっと活力あるいのちが息づいているはずである。
今朝は自宅近所を散策し、春本番を楽しむことにした。
<2008年3月30日 「自然堂」を偲び>