ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

花咲く疏水べり

2008-03-30 | Weblog
 川端通から車で冷泉通に入り、疏水の夷川発電所の横を通った。先日の金曜、二十六日のこと。それから蹴上のインクラインまで疏水べりを走り、三条街道を大津に向かった。
 桜はもう三分から五分咲き。細やかな白花のユキヤナギが、桜樹の足元を飾る。横にはレンギョウが黄花を添えている。朝の十時ころであったが、暖かい光線のなか、コブシとモクレンも並んで、花街道がどこまでも続く。白、黄、淡紅、薄桃色……。果てしなく花景色が並ぶ。つい先日まで雪深い日々のあったことなど、まるで嘘のようである。
 心配していた疏水の水量も、もとに戻っていた。発電所から岡崎動物園横まで、水路には満面の湖水があふれるほどに満ちている。桜花の季節にあわせて、工事は終了していた。正確には、中断だそうである。花の季節が終わると、第一疏水は再び水を止め、修理作業が再開されるそうである。おそらくゴールデンウィークまでには、すべて終了するのであろう。あるいはまた一時中断して、入梅まで続くのであろうか。
 いずれにしろ、疏水の補修工事は観桜季には中止され、花見客のために本来の姿に戻った。いかにも京都らしい、こころ憎いばかりの芸当だと感心する。
 京都のひとたちは、季節の移ろいのなかで、自然とともに呼吸をしながら生活している。ところが近ごろでは地元民以上に、観光客が季節の花や行事の時期ごとに、雲霞のごとく押し寄せて来る。道路の渋滞にはいつも閉口してしまうのだが、これも観光都市京都ならではのうれしい嘆きであろう。
 微妙な季節の変化を楽しむこころは本来、四季あざやかな日本列島に住む住人なら、みなが持ち合わせていた感性だと思う。なかでも京都という舞台は、装置であろうか。洗練された魅力が充満している。
 しかし身の周りを見渡してみれば、自宅近くの小川なり繁みにも、職場近くの公園や街路樹でも、植物がみな春来ると、息吹をあらたに響きを発している。
 ところで、ごく平凡な自然こそが、人智を超えた巨大装置である。放置された自然こそ、偉大なる花舞台であろう。そこには、人間が計算加工した似非自然より、もっと活力あるいのちが息づいているはずである。
 今朝は自宅近所を散策し、春本番を楽しむことにした。
<2008年3月30日 「自然堂」を偲び>
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キリシタンと歌舞伎 <上下の下>

2008-03-29 | Weblog

 ところでイエズス会だが、決して過去の遺物ではない。上智大学や神戸の六甲学院など、たくさんの学校を経営していることでも知られる。教育に熱心な修道会である。世界各地にあるイエズス会学院では、かつて主要科目は、ラテン語、古典文学、音楽、そして演劇であった。十七世紀に活躍したフランスの劇作家のコルネイユやモリエール、スペイン劇のベガとカルデロン、彼らはみなイエズス会学院で演劇を学んでいる。
 イエズス会劇とよばれる演劇の活動目的は、生徒たちが自己表現力や雄弁術、対話術、そのような能力を身につけるための訓練とされた。当然だが、異教徒に対する布教のおおきな手段でもあった。
 1562年には大分で「出エジプト劇」が演じられたが、現存する記録を読んで驚いた。舞台に紅海をつくり、イスラエル人が渡るときには水を開き、ファラオの兵たちが追い来たったときにはこれを閉じる。預言者ヨナはクジラに呑まれた後、腹中から出てきたりする。まるで現代の創作歌舞伎を観るようである。
 1568年に九州で演じられたイエズス会主催の演劇会には、二千人以上の信者や一般人が詰め掛けた。十七世紀はじめの禁制までの半世紀ほどのあいだ、キリシタン劇は各地で上演されている。
 日本人を描いた劇、たとえばキリシタン大名で熱心な信者だった高山右近を主人公にした演劇などが、ヨーロッパで演じられもした。
 日本固有のものと思われている歌舞伎だが、壮大な世界的規模での演劇交流が起きていたようだ。何と江戸時代はじめまでのことである。そして鎖国が異文化接触の機会を奪ってしまうが、歌舞伎は国内で独自の成長を遂げていく。(完)

 以上の文章をかつて蛸錦四郎の筆名で書いたところ、演出家の宮本亜門さんがこれを読み、毎日新聞で引用紹介してくださった。連載「宮本亜門の五十音らくがき帳」の「を…をどり 壮大な交流があった?」。2006年9月3日掲載。あまりにうれしかったので、抜粋引用します。
 「…また、それを裏付けるように、蛸錦四郎氏は阿国が四条で踊る40年近く前の大分では、大がかりなセットの「出エジプト劇」が上演された記録もあり、イエズス会主催によるキリシタン劇は各地で上演されているらしいと記している。ザビエルの布教活動が阿国に影響し、それが今の歌舞伎の原形になったかと思うとワクワクするではないか。もしかして人種を超えた、想像もしなかった壮大な演劇交流があったのかも。…」
<2008年3月29日>

コメント (2)
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キリシタンと歌舞伎 <上下編の上>

2008-03-23 | Weblog

 京都鴨川の四条河原で出雲阿国、お国が歌舞伎おどりをはじめたのは四百余年前、慶長8年(1603)の四月のこと。彼女の演劇は、それまでの日本にはない画期的なものであった。
 織田信長と豊臣秀吉の治世をへて、1600年の関が原の合戦で、長かった戦乱の時代もやっと終わった。そしてひとびとが平和のありがたさをかみしめているころに突如、歌舞伎が都に、四条の河原に出現した。
 お国が天才芸能人であったことは確かであろう。だがそれだけではなく、プロデューサーの狂言師三十郎の才能が非凡であった。しかし、このふたりの組み合わせだけで、新時代を画する歌舞伎が突然誕生したのではないという説がある。
 丸谷才一氏が提起されたのだが、ふたりは「どこかのイエズス会の教会(カトリック)か学校にもぐりこんで、演劇を見物し、それに強烈に刺激されて、お国歌舞伎を創始したのではないか」
 おおいにあり得ることである。「歌舞伎図巻」という当時の絵が残っているが、お国とおぼしき男装の女芸人の胸には、十字架の首飾りが懸かっている。
 日本でキリスト教がはじまるのは天文18年(1549)、鹿児島にたどり着いたフランシスコ・ザビエルの布教からである。彼の属したカトリック組織であるイエズス会は、さまざまの文物や文化を日本にもたらした。ザビエルは九州から山口、そして京都へと旅し、熱心な宣教活動を展開する。その後、お国が四条河原で歌舞伎をはじめたころ、ザビエル来日の五十年ほど後には、彼の後継者たちの活躍によって、日本国内のカトリック教徒・キリシタンの数は数十万人にも達したという。当時の人口からみて、たいへんな数である。
 西洋に対するあこがれ、既存の宗教に対する疑問や絶望、やっと訪れた平和を謳歌する開放されたこころ、それらが原因であろうか。いつの時代でも、日本人は舶来に弱いともいえる。<続く>

※拙文「キリシタンと歌舞伎」は、蛸錦四郎のペンネームで、雑誌「四条」に掲載していただきました。書き手の名は異なれど同一人物ですので、盗作ではありませんが、手抜き掲載をご容赦ください。<2008年3月23日改記>

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京都印象記

2008-03-15 | Weblog
出町の焼鳥屋で飲んでいたら、隣にすわった方が、しきりに「京都っぽい料理はなにかないですか?」とリクエストしておられる。焼鳥を食べに来て京料理もないであろうと思うのだが、「昨晩遅くに東京を車で出て早朝、京都に着きました。早速、嵐山や嵯峨野、金閣寺に行って来ましたが、京都は最高ですね。明日は鞍馬・貴船などに行くつもりです。楽しみです」
 有給休暇を完全消化する方針の会社にお勤めとのことで、今回の京都旅行はなんと十連休。会社は「休め、休め」とうるさいらしい。いま時、そのような会社があるとは仰天してしまうが、彼の会社の名はあえて伏せておく。えっ、知りたい? 入社したい? 問合せはわたしまで、個人的にお願いします。
 男ばかり、友人四人が東京から交替で車を運転して、はるばる入洛されたそうだが、ほかの連中は睡眠不足でバタンキュウー。彼ひとりだけが、ふらふらと夜の京散策に出て来られ、この焼鳥屋「一番」に入ったとのこと。
 お話しを聞いていると、典型的な東京人の京都印象であった。人生のこれから、彼と再会することは、まずあるまい。しかし楽しい一期一会であった。
 
 ところでちかごろ京都新聞の歴史、特に明治大正期に興味があり、暇があればあれこれ史料を読んでいる。最近みつけた面白い記事をご紹介しましょう。明治三十年一月十七日に、当時は日出新聞といった京都新聞に掲載された論説です。東京から招かれ京に主筆として来たばかりの小林清作・紫電が、入社直後に書いた論説「行雲流水」。なお文はいつも通り、自分勝手現代語訳です。
 東京を去って京に来た。まず最初に眼を楽しましてくれたのが、東山と加茂川である。東京のような殺風景な地に住みなれた者には、山川の風色は実にもの珍しい。つぎにうれしいのが、市街の清潔。また京洛の発音、京言葉など、はじめは異様に感じたが、聞きなれるにしたがって優美に響く。なかでも女性の言葉はすこぶる美しい。しかし男子の言葉はいかがなものであろうか。
 「人あるいはいう。極東において義を徹するにあたり、豪傑として欠くる資格は、その京洛音、すなわち京都弁なりと。東男に京女。けだし動かすべからずところならんか」
 京都人士は保守的傾向を有するがごとしで、歩き方などは東京人の速歩敏捷なるのと正反対である。また京都人は、他と同化することをたいへん嫌う。事業の多くも、たいてい地元の人でなければ、起業することが困難だ。いずれの点も、東京とは正反対である。東京は紅塵万丈の地、政治の中心であるが、一方の京都は山紫水明の地、文芸美術の中心たらざるべからず。

 百年余も前に東京から来た小林紫電と、つい先日に焼鳥屋でお会いした東男と、ふたりの男の感想を聞きつつ、京と京都人の百年の間の移り変わりに想いを馳せる今日このごろ。
<2008年3月15日 ホワイトデーの翌日 南浦邦仁>
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鴨川の水

2008-03-09 | Weblog
 鴨川は、賀茂川と高野川が下鴨神社・糺森(ただすのもり)南の出町で合流してからの名である。しかし賀茂と鴨の用法は、正確な使い分けが困難で「どっちでもいいやん」と、わたしなどはいつも思っている。
 前の日曜日、友人に誘われ、出町柳に集合して鴨川縁の遊歩道を延々8キロ、十条南の勧進橋まで歩いた。
 NPOの鴨川美化グループ主催の会で、メンバーはいつも鴨川のゴミを拾っておられる。携帯電話に土曜の夜、「来ませんか?」と連絡があったとき、「長クツは持っていませんが……」と、長靴をはく猫のように答えた。
 ところが「運動靴でいいんです。鴨川がこんなにきれいになりました、という報告見学会のようなものですから。ゴミは拾おうが、無視しようが勝手です。ただタバコの吸殻などを捨てないように」。完歩後にはラーメンがいただけ、飲み会まであるという。放っておく手はない。ポケット灰皿持参で、喜んで参加することにした。
 集まったメンバーは二十人ほど。翌日の京都新聞に、わたしたちの歩く写真が出たそうだが未見。「朝刊に顔写真が出てたね」などという便りはだれからも来ない。本人と参加した友人が見てはじめてわかる程度の写真だったのでしょう。
 「鴨川紀行」のことは、いつかまた書こうと思うが、とりあえず気になったのが「自分の思うようにならないのが、いつも氾濫する鴨川の水。また勝手な目が出るサイコロ。そして暴力を振るう比叡山の僧兵たち……」
 この文はてっきり、吉田兼好『徒然草』だと思っていた。今朝、数十年ぶりに「つれづれ草」に目を通したら、どこにも記述がない。
 ならば鴨長明『方丈記』かと読むと、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかた、すなわち泡は、こちらでは消え、あちらでは結び、久しく留まりたるためしなし」とあるばかりである。彼のいうこの河は鴨川であろう。長明の姓も鴨である。なお現代語訳はいずれも、片瀬の勝手訳。
 わたしはショックを受けた。どちらかの本に書いてあるはずの有名な一文がない。近所の図書館に行って調べたら、なんと『平家物語』に載っていた。巻第一「願立」の項に「賀茂河の水、双六の賽、山法師、これぞわが心にかなわぬもの」と、上皇の白河院が仰せになったとか。
 気になる文が、やっと見つかった。けれどわたしは茫然とし、己の老い、記憶力の著しい低下に驚いた。しかしこれらの本をかつてわたしが読んだのは、高校生から大学生にかけてのころである。四十年ほども昔のことを、克明に覚えているようでは、それはまともな人間ではなく、化け物であろう。己が常人であることに安堵して、ホッとため息をついてしまった。
 ところで久しぶりに読んだ『つれづれ草』も『方丈記』も『平家物語』も、すばらしい名著である。特に前著二冊は、絶妙な随筆のたぐいである。自分の書いたこの文章をいま読み返してみて、あまりの駄文に冷や汗が出た。穴があったら這入りたい。いや鴨川に飛び込んで顔でも洗って出直すべきか。残念ながらこの季節、川の水量は乏しい。寒水の川床の石に頭を打つのがせいぜいであろう。頭打ちは避けて、やはり穴に入ることにした。
<2008年3月9日 水浴する鴨川のカモたちに贈るたわ言>
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奇声「カッカ、カカカカ」

2008-03-02 | Weblog
商用で近江大津の石山に行ったときのこと、信じられない奇跡に出くわした。わたしの口は開いたまま、よだれこそ垂れなかったが、あまりのショックに愕然としてしまった。
 目的地に着いて、車のドアを開けると同時に、どこからか声というか音が聞こえてきた。「カッカ、カカカカ!」。このけったいな音声の発信元を知るべく、周りを見渡したが、わからない。それでも気になるので、しばらく立っていた。するとまたも「カッカ、カカカカ」と、明らかに鳥の声らしきものが、耳に響いた。
 どうも向こうのメタセコイアに似た大きな樹の梢から声は届くように思うのだが、いくら待ってももう鳴かない。あきらめて商いに出向いた。事務所のみなさんに、このことをいっても、どなたも「閣下?閣下?何のことですか?」と、話しにもならない。
 もしも鳥なら、日本の在来種に、あのような鳴き声の野鳥はいないはずだ。おそらく舶来種をだれかが飼っていて、奇声に驚愕した近所の住人からの苦情のために、飼い主はついに折れて手放したのではないか? 大きな変な声なので、飼うには周囲を一向に気にしない度胸がいる。
 そして一週間の後、再訪して驚いた。わたしが来るのを待っていたかのごとく、駐車場に着くと同時に「カッカ、カカカカ」と、冷たい空気を切り裂くように、忘れがたい例の声が鳴り響いたのである。
 「よし、今日こそは正体を見定めてやる」と決意し、つぎの発声を待った。すると、また鳴いた。建物屋上の角の位置に、その鳥がいる。視力の低下した老眼で見据えると、なんとその声の主は、カラスなのだ。体を上下に揺らしながら、「カッカ、カカカカ」と何度も鳴くではないか。
 彼か彼女かは知らないが、周りには数羽の仲間が取り囲んでいる。しかしただの一羽も「カア」ともいわない。沈黙して、このけったいな仲間を見守っている。それこそ全員が、わたしもだが、口をポカーンと開いて、天才奇声カラスを凝視している。
 眼が点になるとはこの光景をいうのだろう。みな尊敬の小さな眼差しで、ダーウィンも驚くほどの奇跡カラスの奇声に聞きほれている。さらには遠方からも、仲間がどんどん飛来してくる。有名な歌手の主人公以外、どの鳥もすべて沈黙している。
 彼とよぶが、このカラスは人間でいえば「人間国宝」、彼の世界では「カラス国宝」、体は有形、芸は無形の重要文化財であろう。
 わたしなど、幼いころから、奇人変人の扱いを受けてきた。決して反省などしないのだが、彼を見ていて思うのは、わたしに似合う呼称は「天然記念物」であろうか。オオサンショウウオやイリオモテヤマネコが聞いたら、「一緒にするな」と気分を悪くするだろうが、文化財とは縁遠い。国宝か文化財並みのこのカラスは、たいした奴である。
 この文章を自宅パソコンで叩いていたら、窓ガラスの向こうをカラスが一羽飛んでいく。「アッフォー」と鳴きながら。
<2008年3月2日 南浦邦仁>
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