岩手県大船渡市職員の村上浩人さんは、市の三陸支所で仕事中に駐車場に出て車のラジオを偶然つけて、津波が向っていることを知った。(共同配信4月28日夕刊)
宮城県で予想波高が6mだとラジオは報じる。ここは海岸線が V字形だから、もっと大きくなると村上さんは思った。3階まで上がって海を見ると、津波が防波堤を越えて、滝のように流れ込んできた。
「防波堤越えたーっ!」。窓から外にいた人たちに大声で叫んだ。ここまでは来ないだろうと、のんびりしていた人もいて「逃げろ、逃げろ」ってせかした。地元の津波研究家の山下文男さんが、いつも言っていた「津波てんでんこ」を思い出して…。津波の時はてんでばらばらに、とにかく逃げろという意味の方言なんです。
「津波研究者、九死に一生。大船渡の山下さん」と題して、岩手日報 3月17日が報じた。
「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者、山下文男さん(87)は陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。
これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。
「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」
家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。…ドドーン―。轟音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またも轟音とともに波が引き、何とか助かった。
海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」。「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。人に構わず必死で逃げろ―と山下さんが何度も訴え全国的に広まった言葉だ。
9歳だった1933(昭和8)年、昭和三陸大津波を経験したが「今回ははるかに大きい。津波防災で検討すべき課題はたくさんある」と語る。特に、もろくも崩れた大船渡市の湾口防波堤について「海を汚染するだけで、いざというときに役に立たないことが証明された」と主張する。
同市の湾口防波堤は60年のチリ地震津波での大被害を受けて数年後に国内で初めて造られた。「津波はめったに来ないから軽視されるが、いざ来ると慌てて対応する。それではいけない。世界の研究者でじっくり津波防災の在り方を検証すべきだ」と提言する。その上で「ハード整備には限界がある。義務教育の中に盛り込むなど不断の防災教育が絶対に必要だ」とも語る。
1896(明治29)年の明治三陸大津波で祖母を失った。今回の津波で綾里の自宅は半壊。連絡は取れていないが、妻タキさん(87)は無事だった。「復興に向けて立ち上がってほしい」。最後の言葉に将来への希望を託した。
「釜石の子、救った教え」と題して、共同通信が4月10日に配信した記事には感動した。岩手県釜石市立の14の小中学校全校では、校内にいた児童生徒約3千人全員が無事だった。同地の防災教育のたまものである。
7年前から釜石市で防災教育を熱心に続けてきた方がある。群馬大学教授の片田敏孝氏(災害社会工学)である。
子どもたちに呼びかけてきたのは、3つの要点である。まず「想定を信じるな」。想定に頼れば、想定外の事態に対応できなくなる(東電にも言いたい言葉です。筆者雑感)
次に「その状況下で最善の避難行動を取ること。学校からの避難ではなかったが、親が不在だったのに知恵を働かせ命を守ったのは、釜石小学校の6年と2年生の兄弟だ。すでに下校し、3階建てマンションの2階にいた。1階への浸水に気づいて、弟は「外に逃げよう」。兄は「大人でも50センチの津波で動けなくなる」と知っていた。兄はマンション屋上への避難を選んだ。水かさが増し、2人は膝元まで水に浸かりながら、壁につかまり耐え切った。
三つ目は「率先避難者たれ」。人のことは放って置いても、まず自分の命を全力で守ること。「必死で逃げる姿」こそが、周囲への最大の警告になるからだ。釜石東中では、生徒らが高所の避難場所目指して全力で走って逃げた。隣接する小学校では児童はみな屋上に避難していた。中学生たちの逃げる姿を見て、児童は急いで降り、中学生たちの後を必死に追った。そして、小学の校舎は津波にのまれ見る影もなくなってしまった。
片田先生は「こうした教えは、知識を学ぶ従来の学校教育とは大きく異なる。必要なのは、知識よりも姿勢。子どもでも、自分の命に責任を持って判断する姿勢を学んでほしい」
岩手には山下文男氏が広めた有名な言い伝えがある。「津波てんでんこ」。津波が来たら、家族ばらばらでいいから、とにかく逃げろという意味だ。
「家族ひとり一人がきちんと避難できる能力を持つことと、避難できることを信じあうことが大切。信頼しあう家族だけが、てんでんこを実行できる」と片田氏は指摘する。
釜石市は「防災教育3項目」を制定している。①想定を信じるな。②その状況下で最善の避難を。③率先して避難せよ。
山下文男氏は数冊の著書を書かれている。『津波てんでんこー近代日本の津波史』新日本出版社からの刊行だが、現在は品切れ中。まもなく再版されるそうなので、読もうと思う。松岡正剛氏が「千夜一夜連環篇」4月21日でこの本を紹介しておられるので引用する。
「本書の著者(山下文男)の一族も明治の津波で9人が溺死した。著者が生まれ育った岩手県大船渡の綾里地区石浜という集落は、全住民187人のうち141人が海に巻き込まれて死んだ。その後、綾里全域の死者1350人にあたる人口が回復するのに20年以上がかかった。
そういう村に育った著者は、昭和8年(1933)3月3日の昭和三陸津波のときには小学校3年生になっていた。津波が来るぞという叫び声がしたとき、父親は末っ子の著者の手も引かずに自分だけ一目散に逃げた。父が子を捨てて逃げたのだ。そのことをのちのちになっても詰(なじ)る母親に、父親は何度も声を荒げ、「なに! 津波はてんでんこだ」とムキになって抗弁していたという。昭和三陸津波は明治三陸津波から数えてわずか37年後のことである。
週刊文春4月14日号が、救命された山下文男さんのインタビューを掲載しています。明治29年の三陸津波での犠牲者は2万人以上。山下さんのお父さんは、この大災で母親と妹を亡くしていたのです。そして37年後、昭和8年の大津波で自分だけ一目散に走って逃げた父を、息子の文男さんはいつのころからか理解し許したのでしょう。こう語っておられます。「僕が危惧するのは、日本人の情の深さ。親は子を、子は親を、また他の人を助けようとする。これは日本人の美徳であり、立派なことですが、津波災害では、絶対にやってはいけないこと。共倒れになるからです。大津波の度に起こってきた悲劇を防ぐ言い伝えが『てんでんこ』なんです」
<2011年4月30日>
宮城県で予想波高が6mだとラジオは報じる。ここは海岸線が V字形だから、もっと大きくなると村上さんは思った。3階まで上がって海を見ると、津波が防波堤を越えて、滝のように流れ込んできた。
「防波堤越えたーっ!」。窓から外にいた人たちに大声で叫んだ。ここまでは来ないだろうと、のんびりしていた人もいて「逃げろ、逃げろ」ってせかした。地元の津波研究家の山下文男さんが、いつも言っていた「津波てんでんこ」を思い出して…。津波の時はてんでばらばらに、とにかく逃げろという意味の方言なんです。
「津波研究者、九死に一生。大船渡の山下さん」と題して、岩手日報 3月17日が報じた。
「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者、山下文男さん(87)は陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。
これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。
「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」
家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。…ドドーン―。轟音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またも轟音とともに波が引き、何とか助かった。
海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」。「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。人に構わず必死で逃げろ―と山下さんが何度も訴え全国的に広まった言葉だ。
9歳だった1933(昭和8)年、昭和三陸大津波を経験したが「今回ははるかに大きい。津波防災で検討すべき課題はたくさんある」と語る。特に、もろくも崩れた大船渡市の湾口防波堤について「海を汚染するだけで、いざというときに役に立たないことが証明された」と主張する。
同市の湾口防波堤は60年のチリ地震津波での大被害を受けて数年後に国内で初めて造られた。「津波はめったに来ないから軽視されるが、いざ来ると慌てて対応する。それではいけない。世界の研究者でじっくり津波防災の在り方を検証すべきだ」と提言する。その上で「ハード整備には限界がある。義務教育の中に盛り込むなど不断の防災教育が絶対に必要だ」とも語る。
1896(明治29)年の明治三陸大津波で祖母を失った。今回の津波で綾里の自宅は半壊。連絡は取れていないが、妻タキさん(87)は無事だった。「復興に向けて立ち上がってほしい」。最後の言葉に将来への希望を託した。
「釜石の子、救った教え」と題して、共同通信が4月10日に配信した記事には感動した。岩手県釜石市立の14の小中学校全校では、校内にいた児童生徒約3千人全員が無事だった。同地の防災教育のたまものである。
7年前から釜石市で防災教育を熱心に続けてきた方がある。群馬大学教授の片田敏孝氏(災害社会工学)である。
子どもたちに呼びかけてきたのは、3つの要点である。まず「想定を信じるな」。想定に頼れば、想定外の事態に対応できなくなる(東電にも言いたい言葉です。筆者雑感)
次に「その状況下で最善の避難行動を取ること。学校からの避難ではなかったが、親が不在だったのに知恵を働かせ命を守ったのは、釜石小学校の6年と2年生の兄弟だ。すでに下校し、3階建てマンションの2階にいた。1階への浸水に気づいて、弟は「外に逃げよう」。兄は「大人でも50センチの津波で動けなくなる」と知っていた。兄はマンション屋上への避難を選んだ。水かさが増し、2人は膝元まで水に浸かりながら、壁につかまり耐え切った。
三つ目は「率先避難者たれ」。人のことは放って置いても、まず自分の命を全力で守ること。「必死で逃げる姿」こそが、周囲への最大の警告になるからだ。釜石東中では、生徒らが高所の避難場所目指して全力で走って逃げた。隣接する小学校では児童はみな屋上に避難していた。中学生たちの逃げる姿を見て、児童は急いで降り、中学生たちの後を必死に追った。そして、小学の校舎は津波にのまれ見る影もなくなってしまった。
片田先生は「こうした教えは、知識を学ぶ従来の学校教育とは大きく異なる。必要なのは、知識よりも姿勢。子どもでも、自分の命に責任を持って判断する姿勢を学んでほしい」
岩手には山下文男氏が広めた有名な言い伝えがある。「津波てんでんこ」。津波が来たら、家族ばらばらでいいから、とにかく逃げろという意味だ。
「家族ひとり一人がきちんと避難できる能力を持つことと、避難できることを信じあうことが大切。信頼しあう家族だけが、てんでんこを実行できる」と片田氏は指摘する。
釜石市は「防災教育3項目」を制定している。①想定を信じるな。②その状況下で最善の避難を。③率先して避難せよ。
山下文男氏は数冊の著書を書かれている。『津波てんでんこー近代日本の津波史』新日本出版社からの刊行だが、現在は品切れ中。まもなく再版されるそうなので、読もうと思う。松岡正剛氏が「千夜一夜連環篇」4月21日でこの本を紹介しておられるので引用する。
「本書の著者(山下文男)の一族も明治の津波で9人が溺死した。著者が生まれ育った岩手県大船渡の綾里地区石浜という集落は、全住民187人のうち141人が海に巻き込まれて死んだ。その後、綾里全域の死者1350人にあたる人口が回復するのに20年以上がかかった。
そういう村に育った著者は、昭和8年(1933)3月3日の昭和三陸津波のときには小学校3年生になっていた。津波が来るぞという叫び声がしたとき、父親は末っ子の著者の手も引かずに自分だけ一目散に逃げた。父が子を捨てて逃げたのだ。そのことをのちのちになっても詰(なじ)る母親に、父親は何度も声を荒げ、「なに! 津波はてんでんこだ」とムキになって抗弁していたという。昭和三陸津波は明治三陸津波から数えてわずか37年後のことである。
週刊文春4月14日号が、救命された山下文男さんのインタビューを掲載しています。明治29年の三陸津波での犠牲者は2万人以上。山下さんのお父さんは、この大災で母親と妹を亡くしていたのです。そして37年後、昭和8年の大津波で自分だけ一目散に走って逃げた父を、息子の文男さんはいつのころからか理解し許したのでしょう。こう語っておられます。「僕が危惧するのは、日本人の情の深さ。親は子を、子は親を、また他の人を助けようとする。これは日本人の美徳であり、立派なことですが、津波災害では、絶対にやってはいけないこと。共倒れになるからです。大津波の度に起こってきた悲劇を防ぐ言い伝えが『てんでんこ』なんです」
<2011年4月30日>