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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

津波の歴史 8 「てんでんこ」

2011-04-30 | Weblog
 岩手県大船渡市職員の村上浩人さんは、市の三陸支所で仕事中に駐車場に出て車のラジオを偶然つけて、津波が向っていることを知った。(共同配信4月28日夕刊)
 宮城県で予想波高が6mだとラジオは報じる。ここは海岸線が V字形だから、もっと大きくなると村上さんは思った。3階まで上がって海を見ると、津波が防波堤を越えて、滝のように流れ込んできた。
 「防波堤越えたーっ!」。窓から外にいた人たちに大声で叫んだ。ここまでは来ないだろうと、のんびりしていた人もいて「逃げろ、逃げろ」ってせかした。地元の津波研究家の山下文男さんが、いつも言っていた「津波てんでんこ」を思い出して…。津波の時はてんでばらばらに、とにかく逃げろという意味の方言なんです。

 「津波研究者、九死に一生。大船渡の山下さん」と題して、岩手日報 3月17日が報じた。
 「想像をはるかに超えていた。津波を甘く見ちゃいけない…」。大船渡市三陸町綾里の津波災害史研究者、山下文男さん(87)は陸前高田市の県立高田病院に入院中に津波に遭い、首まで水に漬かりながらも奇跡的に助かった。
 これまで津波の恐ろしさを伝えてきた山下さんですら、その壮絶な威力を前に言葉を失った。「全世界の英知を結集して津波防災を検証してほしい」。声を振り絞るように訴えた。
 「津波が来るぞー」。院内に叫び声が響く中、山下さんは「研究者として見届けたい」と4階の海側の病室でベッドに横になりながら海を見つめていた。これまでの歴史でも同市は比較的津波被害が少ない。「ここなら安全と思っていたのだが」
 家屋に車、そして人と全てをのみ込みながら迫る津波。…ドドーン―。轟音とともに3階に波がぶつかると、ガラスをぶち破り一気に4階に駆け上がってきた。波にのまれ2メートル近く室内の水位が上がる中、カーテンに必死でしがみつき、首だけをやっと出した。10分以上しがみついていると、またも轟音とともに波が引き、何とか助かった。
 海上自衛隊のヘリコプターに救出されたのは翌12日。衰弱はしているが、けがはなく、花巻市の県立東和病院に移送された。後で聞くと患者51人のうち15人は亡くなっていた。
 山下さんは目に涙をためる。「津波は怖い。本当に『津波てんでんこ』だ」。「てんでんこ」とは「てんでんばらばらに」の意味。人に構わず必死で逃げろ―と山下さんが何度も訴え全国的に広まった言葉だ。
 9歳だった1933(昭和8)年、昭和三陸大津波を経験したが「今回ははるかに大きい。津波防災で検討すべき課題はたくさんある」と語る。特に、もろくも崩れた大船渡市の湾口防波堤について「海を汚染するだけで、いざというときに役に立たないことが証明された」と主張する。
 同市の湾口防波堤は60年のチリ地震津波での大被害を受けて数年後に国内で初めて造られた。「津波はめったに来ないから軽視されるが、いざ来ると慌てて対応する。それではいけない。世界の研究者でじっくり津波防災の在り方を検証すべきだ」と提言する。その上で「ハード整備には限界がある。義務教育の中に盛り込むなど不断の防災教育が絶対に必要だ」とも語る。
 1896(明治29)年の明治三陸大津波で祖母を失った。今回の津波で綾里の自宅は半壊。連絡は取れていないが、妻タキさん(87)は無事だった。「復興に向けて立ち上がってほしい」。最後の言葉に将来への希望を託した。

 「釜石の子、救った教え」と題して、共同通信が4月10日に配信した記事には感動した。岩手県釜石市立の14の小中学校全校では、校内にいた児童生徒約3千人全員が無事だった。同地の防災教育のたまものである。
 7年前から釜石市で防災教育を熱心に続けてきた方がある。群馬大学教授の片田敏孝氏(災害社会工学)である。
 子どもたちに呼びかけてきたのは、3つの要点である。まず「想定を信じるな」。想定に頼れば、想定外の事態に対応できなくなる(東電にも言いたい言葉です。筆者雑感)
 次に「その状況下で最善の避難行動を取ること。学校からの避難ではなかったが、親が不在だったのに知恵を働かせ命を守ったのは、釜石小学校の6年と2年生の兄弟だ。すでに下校し、3階建てマンションの2階にいた。1階への浸水に気づいて、弟は「外に逃げよう」。兄は「大人でも50センチの津波で動けなくなる」と知っていた。兄はマンション屋上への避難を選んだ。水かさが増し、2人は膝元まで水に浸かりながら、壁につかまり耐え切った。
 三つ目は「率先避難者たれ」。人のことは放って置いても、まず自分の命を全力で守ること。「必死で逃げる姿」こそが、周囲への最大の警告になるからだ。釜石東中では、生徒らが高所の避難場所目指して全力で走って逃げた。隣接する小学校では児童はみな屋上に避難していた。中学生たちの逃げる姿を見て、児童は急いで降り、中学生たちの後を必死に追った。そして、小学の校舎は津波にのまれ見る影もなくなってしまった。
 片田先生は「こうした教えは、知識を学ぶ従来の学校教育とは大きく異なる。必要なのは、知識よりも姿勢。子どもでも、自分の命に責任を持って判断する姿勢を学んでほしい」
 岩手には山下文男氏が広めた有名な言い伝えがある。「津波てんでんこ」。津波が来たら、家族ばらばらでいいから、とにかく逃げろという意味だ。
 「家族ひとり一人がきちんと避難できる能力を持つことと、避難できることを信じあうことが大切。信頼しあう家族だけが、てんでんこを実行できる」と片田氏は指摘する。
 釜石市は「防災教育3項目」を制定している。①想定を信じるな。②その状況下で最善の避難を。③率先して避難せよ。

 山下文男氏は数冊の著書を書かれている。『津波てんでんこー近代日本の津波史』新日本出版社からの刊行だが、現在は品切れ中。まもなく再版されるそうなので、読もうと思う。松岡正剛氏が「千夜一夜連環篇」4月21日でこの本を紹介しておられるので引用する。
 「本書の著者(山下文男)の一族も明治の津波で9人が溺死した。著者が生まれ育った岩手県大船渡の綾里地区石浜という集落は、全住民187人のうち141人が海に巻き込まれて死んだ。その後、綾里全域の死者1350人にあたる人口が回復するのに20年以上がかかった。
 そういう村に育った著者は、昭和8年(1933)3月3日の昭和三陸津波のときには小学校3年生になっていた。津波が来るぞという叫び声がしたとき、父親は末っ子の著者の手も引かずに自分だけ一目散に逃げた。父が子を捨てて逃げたのだ。そのことをのちのちになっても詰(なじ)る母親に、父親は何度も声を荒げ、「なに! 津波はてんでんこだ」とムキになって抗弁していたという。昭和三陸津波は明治三陸津波から数えてわずか37年後のことである。

 週刊文春4月14日号が、救命された山下文男さんのインタビューを掲載しています。明治29年の三陸津波での犠牲者は2万人以上。山下さんのお父さんは、この大災で母親と妹を亡くしていたのです。そして37年後、昭和8年の大津波で自分だけ一目散に走って逃げた父を、息子の文男さんはいつのころからか理解し許したのでしょう。こう語っておられます。「僕が危惧するのは、日本人の情の深さ。親は子を、子は親を、また他の人を助けようとする。これは日本人の美徳であり、立派なことですが、津波災害では、絶対にやってはいけないこと。共倒れになるからです。大津波の度に起こってきた悲劇を防ぐ言い伝えが『てんでんこ』なんです」
<2011年4月30日>

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津波の歴史 7 詩「津波てんでんこ」

2011-04-29 | Weblog
 三陸の海岸には、「津波てんでんこ」という言葉があるそうです。意味は、津波が来たら「てんでんばらばらに逃げろ」。家族親子も祖父母も、近所の爺さんも婆さんも、みな放って逃げろ! 自分の命だけを、自分の責任で守れ。家族同様の犬も猫たちにも構わずに。そういう教えだそうです。大津波に呑み込まれず助かるには、高台にひとりで走って逃げるしかないという。
 しかし、冷酷残酷です。布団に寝た切りの老いた母を捨てて、自分だけ高所に逃げられますか。幼い子どもや孫を見殺しにできますか? あまりにつらい教えです。
 もしも家族で自分ひとりだけが助かったとしても、共同体は決して生き残った個人を責めない。不文律だそうです。三陸ではそう伝承しているといいます。

 京都府八幡市在住の小笠原信さんから、詩のコピーをいただきました。400字原稿用紙に手書きされたもののコピーです。タイトルは『津波から にげろ!』。副題は「率先して 逃げろーー“津波てんでんこ”」。また、「実学としての詩の再興を願って」とあります。紹介します。

(1)
にげろ
ニゲロ
逃げろ
まず にげろ
TUNAMI から逃げろ
Run to High Ground!
何をしていても 放ってにげろ
「つなみ!」と聞いたら、ただちに、即にげろ
“てんでんこ”各自てんでに
ばらばらでいいから、高い所に 逃げろ
母をおいて 父をおいて 子を置いて
いまの自分のまま 逃げろ
じっちゃん ばっちゃんに「にげてね!」と言って
友だちに「にげよう!」と一声かけて
恋人に構わず
ペットを放ち
牛馬を置いて
断腸の腸で 脱兎のごとく
 無情に 無慈悲に
 非情な人になって
まず 自分だけで 逃げろ!
逃げるが勝ちの 大競争
 津波は秒速10m 早い 早い
 だから 逃げ遅れは 命取り

(2)
年寄りの「大地震!」という大声を聞いたら
老漁夫の「津波!」という叫びを聞いたら
「緊急 地震・津波速報」を聞いたら 見たら
誰かが 津波!と逃げていたら
その人を追って
 オオカミ少年を追って
高台へ 高地へ 最上階へ 屋上へ 山の方へ
浮輪へ ゴムボートへ
逃げろ 後ろをふり向かず 一目散に
 十字路で立ち止まるな
 想定より 直感を信じて
 高所を目指して 逃げろ!
転がるように 駿馬となって 逃げろ!
 ビートルズを聞いていても 甘い物を食べていても
 小便をしていても 交りの途中でも
  パンツ一丁で逃げろ

皆から 非難ゴウゴウと思っても
“津波てんでんこ”を呪文にして
父母 兄弟 子供達を 信じて

皆を 信じて 逃げろ
「言い伝え」を 信じて にげてくれ
 点呼など とるな!
 整列など するな!
みんなが それぞれ
 それぞれの場所から 逃げのびれば
それは 皆がみんな助かること!
 自ら助かるものが みんな助かる
  自助こそ 共助!

(3)
皆で助かろうと思って
誰かを さがしに 行くな!
誰かを 連れ出しに 戻るな!
 それは誤解 美しい誤解
 間違った夢だ 感傷です
 にせヒューマニズムです
 結局 皆の生き延びる思いを 思想を
  信頼していないのだからーー

「人でなし! 冷たい奴!」と ののしられても
「卑怯者!」という ヤイバを背に受けても
 振り向くな 応戦するな
「薄情者! 臆病者! 偽善者!」と 罵声を浴びても
しかし 逆接だ 逆説だ
――人生は 逆接続詞を生きることと心得て
 花は 来年 見ればよいと
非情の者になって 逃げよ!
非常事態のただ中を 逃げ延びる
それが 皆が助かること
それこそ 皆が 落ち合えること

(4)
生き延びること
自分の命は 自分で守ること

 この場で この人と この介護中の人と死ぬという
  覚悟をつけた人以外のひとは
 「私だけ生き延びて 悪いのですがーー
 長い間 ありがとう 充分なこと出来ず
  ゴメンナサイ またアトデ」と
   暇乞いをしてーー
 「もし ぼくが 助かったら 生きてたら
  還りには みんな 助けに くるからね!」と呼んで
猛スピードで 逃げる
 その人は きっときっと 判ってくれる!
 あなたの心に 帰って来てくれる!

ハンコも 通帳も 家族写真も
位牌も遺影も 「遺言書」も パスポートも
ラブレターも 免許証も
愛読書も 愛馬も いとおしい犬猫も
文鳥も 地球儀も
皆 みーんな置き捨て そのままに

大急ぎで 韋駄天シューズはいて
高台へ 高地へ 山の方へ

 陸奥の方々 相馬藩の方々 会津藩の皆様
 蝦夷 奥羽の方々 義経・常陸坊ご一行
 奥州 東北の方々 表日本の人々も
「御免 お先に!」と 逃げてくだされ

高サ 25mの大滝が 腹黒い大瀑布が
横一線の大津波が
ガラガラ ゴウゴウ バリバリと
千匹の 原爆ゴリラのように
襲ってくる!

(5)
自分の生命だけ 脚に乗せ
 ガクガクしても バクバクしても
思いだけは 抱きかかえて
津波の速さに 勝って にげろ
Run Away !
はしれ 走り続けよ
のぼれ 登り続けよ
 この詩を置いて 避難せよ!
生き延びて 皆を想い出すため 逃げろ
生き延びて いのちをつなぐため 逃げよ!

  高台へ
 高地へ
空へ
懸命に にげろ!

 小笠原さんは、新聞記事「釜石の子を救った教え」(4月10日共同通信配信)を読み、群馬大学の片田敏孝教授(災害社会工学)の防災教育に感銘を受けた。そして「賛同し、連帯したいとの思いで(この詩稿は)出来た。深く感謝します」と彼は結んでおられます。次回ブログで新聞記事を紹介しようと思っています。
 なおこの詩の転用、書き換えなど、ご自由にとのこと。
<2011年4月29日>

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津波の歴史 6 「東電の津波想定」

2011-04-27 | Weblog
 「朝日コム」asahi.com 4月24日が報じた記事には驚きました。「想定外の大津波」が福島第1原発を襲う確率は、「50年以内に10%」と東京電力は2006年に認めていたのだと報道しました。
 わたしのある友人は、天気予報の降水確率が10%だと、いつも傘を持ち歩いています。1割という確率は、決して低くはありません。以下、同記事を転載します。

 東京電力は、福島第一原発に、設計の想定を超える津波が来る確率を「50年以内に約10%」と予測し、2006年に国際会議で発表していた。東電は「試算の段階なので、対策にどうつなげるかは今後の課題だった」と説明している。 東電原子力・立地本部の安全担当らの研究チームは福島原発を襲う津波の高さを「確率論的リスク評価」という方法で調べ、2006年7月、米国で開かれた原子力工学の国際会議で報告した。 その報告書には「津波の影響を評価する時に、『想定外』の現象を予想することは重要である」と書き始められている。
 報告書によると、東電は慶長三陸津波(1611年)や延宝房総津波(1677年)などの過去の大津波を調査。予想される最大の地震をマグニチュード 8.5 と見積もり、地震断層の位置や傾き、原発からの距離などを変えて計1075通りを計算。津波の高さがどうなるかを調べた。 東電によると、福島第一原発は5.4~5.7メートルの津波を想定している。だが報告書によると、今後50年以内にこの想定を超える確率が約10%あり、10メートルを超える確率も約1%弱あった。報告書は「想定を超える可能性が依然としてある」と指摘。「津波について知識が限られていることや、地震のような自然現象にはばらつきがある」ことを理由にあげている。確率で原発の危険度を評価する方法は、地震の揺れが原因になるものは実用化されているが、津波についてはまだ基準が決まっていない。一方で、東電は、地震の規模を最大でも東日本大震災の約5分の1として予測しており、「10%」でも過小評価だった可能性がある。
 報告書について東電は「津波の評価法を検討するための試算段階のもの。まだ広く認められた方法ではないので、公表は考えていない」と説明する。また、設計の想定を最大5.7メートルと決めた根拠について、東電は「社内で経緯などを整理しているところ」として明らかにしていない。

 東電の秘密体質については、これまで何度も指摘されてきました。「公表は考えていない」。想定波高5.7mの根拠は「社内で係累などを整理しているところ」など、納得できない。
 「設定の想定を最大5.7mと決めた根拠」について、この連載「津波の歴史3」で記しましたが、東電副社長の武藤栄氏は記者会見で、5.7mは「土木学会の評価に基づいて津波の高さを想定したが、結果として想定以上の津波が来た」と、4月9日に述べておられる。この発言は何だったのか? 土木学会から何らかのクレームがついたのか? いずれにしろ、東電には重大な説明責任があるはずだ。
 報告書にある文言「『想定外』の現象を予想することは重要である」。東電がこれまでに数多く語ったなかで、最もすぐれた言葉だと思う。

 この拙文は未定稿です。土木学会のことや東電清水社長の発言、そして2006年の国際会議など、その後いくらか調べましたが、本日はまだ書き切れておりません。わたしの力と時間の不足のためです。とりあえず、速報としてアップします。
 朝日新聞が同コムに掲出した翌日、4月25日月曜の朝刊で詳しく報じると信じて駅の売店で同紙を買って読みましたが、掲載されていません。不思議です。わたしの見落としでしょうか。他紙にも見当たりません。
 今回の駄文は、これからいくらか書きかえます。しかし朝日コムの記事はコピー引用です(改行のみいくらか変更しています)ので、修正はしません。
<2011年4月27日>
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津波の歴史 5 「石橋克彦」

2011-04-24 | Weblog
  阪神淡路大震災のあと、原子力安全委員会は「原発設計審査指針」の見直しを開始した。審査指針は10以上あるが、そのひとつが前回にみた「耐震設計審査指針」である。大震災の11年後、2006年にやっと全面改定した。耐震分科会議事抄録から、決定までの流れを追ってみる。

1995年1月17日 阪神大震災が起き、高速道路や新幹線の高架が崩れた。あまりの破壊力に唖然とした関係の学者たちはその後、「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」(以下略、耐震指針または指針)の見直しを決定した。
 しかし同年9月、「現在の指針で阪神大震災級の地震も想定できる内容になっているので、『指針を変更する必要はない』」という結論を出した。

1996年~2006年 原子力安全委が各原子力施設の耐震安全性に関する調査を行った。

2001年7月 新しい耐震指針をつくることがようやく決まり、原子力安全委員会の耐震分科会の第1回会議がはじまる。
 同年10月 分科会第3回において、事務局が「津波は2次的影響」とみなした。地質学の衣笠善博氏(東京工業大学大学院総合理工学研究科教授)は「決して2次的な問題ではなくて、非常に重要な問題だ」と反発した。
 同年12月分科会第4回 事務局が「2次的影響」を「地震随伴事象」と名称を変更した。地震学の大竹政和氏(東北大学教授)は、「地震随伴現象では比重が低すぎる。津波の問題は、必ず検討しなきゃいけない」と発言した。

2004年10月分科会第12回 電力会社は産業界でまとめた計算として「外部電力が喪失して冷却機能を失い、炉心損傷にいたる確率は10のマイナス6乗くらいである」と報告した。

2006年1月分科会第35回 衣笠善博氏は「非常用発電機がふたつとも起動しない率は、10マイナス8乗だったか10マイナス9乗」と発言。地震学の柴田碧氏(東京大学名誉教授)は「起動率は心配している」と発言した。
 分科会第36回 事務局は「地震時に送電線は、発電所に非常用電源機を設置するので、起動しない確率は低く、特段問題はない。非常用の冷却系については、十分な配慮が払われているのではないか」と説明した。

2006年3月第40回分科会 地震随伴事象、すなわち津波についての議論が続いていることに、原子力安全委員会事務局長の片山正一郎氏は「中心的な議論を優先的にしていただいた方が、事務局としてはありがたい。地震随伴事象に対する考慮は大事なことだと思うが、耐震設計の観点から議論するのは、有益ではない。全体の指針をまとめるには、コストパフォーマンスが悪い。後にするか、やめるかしていただいた方がわれわれはありがたい。これ以上、続けてほしくない」と発言した。
 これに対し、地震学の石橋克彦氏(神戸大学都市安全研究センター教授)は「暴論だ」と反発した。
 分科会第41回 東電が「既設プラントは、耐震設計で基本的には十分な裕度を有するように設計している。新指針に照らして、直ちに耐震安全性が問題となるとは考えていない」と報告した。

2006年4月第42回分科会 水間英城(原子力安全委員会事務局審査指針課長)は「長期間の電源喪失の必要がないのは、送電線の復旧が期待できるとか、非常用交流電源設備の修復が期待できるからである。これで本当にいいのかどうかは、個別の事業者に対して求める範囲の外側の災害対策という領域で対応を求めるべきだ」と発言した。
 石橋克彦氏は「大地震が襲えば、電気がとまることはかなり長時間続く場合もある。早急に修理がなされない可能性も高い。非常用発電機が立ち上がらない可能性もなきにしもあらずだ。長期間、外部電源を喪失して燃料が少なくなってきたとき、激しい揺れで備蓄燃料が漏れてしまうこともあり得る。地震でなければ、タンクローリーががんがん来ればいいわけだが、そういうものが来られない状況が大地震だ」と発言した。
 柴田碧氏は「細かいことまで書かなくていいという議論があるが、念には念を入れて、書くべきだ。書いてなぜ悪いかが、よくわからない」と発言。
 しかし地震随伴事象・津波へのそれ以上の言及はほとんどなく(筆者注:驚くべきことだ)、「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によって施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないこと。」とする原案を基本的に了承した。その後、「よって」の部分を「よっても」と変更した。

2006年8月分科会48回 指針案をまとめた後に、島根原発周辺で活断層の見落としが発覚した。石橋克彦氏らが大幅な修正を求めたがほとんど認められなかった。石橋氏は「社会に対する責任が果たせない。この分科会の本性がよくわかった。日本の原子力安全行政がどういうものかも、よくわかった」と発言し、原子力安全委員会委員を辞任した。

2006年9月 新耐震指針を原子力安全委が決定した。

 検証するには議事録全文を読むことが必要だと思います。しかしダイジェストを見ただけでも、同委員会事務局すなわち内閣府の官僚たちですが、彼らにも大きな責任があるのではないかと、思えて仕方がありません。
 石橋克彦先生ですが、この連載<3・11 日本>第1回で引用しました。3月13日の朝刊各紙に寄稿文が載っています。共同配信文をダイジェストで再録します。
 「福島第1原発は、原子力安全・保安院と原子力安全委員会が、最新の耐震設計指針に照らしても安全だと2009年に評価したばかりである。全国の原発で政府は地震を甘くみているのだが、原子力行政と、それを支える工学・地学専門家の責任は重大である。/日本国民は、地震列島の海岸線に54基もの原発を林立させている愚を今こそ悟るべきである。3基が建設中だが、いずれも地震の危険が高いところだから、直ちに中止すべきだ。運転中の全原子炉もいったん停止して、総点検する必要がある。」(石橋克彦 神戸大学名誉教授・元建設省建築研究所室長)

 ところで、静岡県御前崎市に中部電力の浜岡原発があります。「世界中で、大陸プレート間地震の想定震源域真上に原発を建てているのは、浜岡原発だけ」とされる。福島第1の事故以前から、最も危険な原発ではないかとされていた。東海地震を心配して市民団体が運転差止めを求め、2003年から訴訟を起こした。
 2007年10月26日、奇しくも「原子力の日」に、静岡地裁は原告に敗訴の判決を言い渡した。原告側の証人に立った石橋氏は、裁判所の判決に意見を述べた。「必ず起こる巨大地震の断層面の真上で原発を運転していること自体、根本的に異常で危険なのに、原発推進の国策に配慮した判決で全く不当だ。柏崎刈羽原発の被災以来、地震国日本の原発のあり方に注目している世界に対し、恥ずかしい。10年前に警告した『浜岡原発震災』を防ぐためには、4基とも止めるしかない。判決の間違いは自然が証明するだろうが、そのときは私たちが大変な目に遭っている恐れが強い。」

 原告は東京高裁に控訴。石橋氏は高裁で証人として原告側尋問を受けた。2009年9月18日のことである。
 石橋氏は阪神淡路大震災のあと、防災の立場から考えるべき現代の新たな震災として、原発による複合災害に思いいたったという。これを「原発震災」と表現する。地震がもとで惹き起こされる原発の重大事故により放出される大量の放射能が、震災の救援活動も原発事故の救助活動も不可能にすると警告した。
 浜岡であれば、震災を免れる首都圏にも放射能は到達する。日本列島はもとより、地球規模の汚染を捲き散らさないとも限らない。チェルノブイリ事故による地球汚染は、たった1基の原発が招いた。地震は同時に複数基を襲う。…
 高裁法廷で、石橋氏は最後に半藤一利著『昭和史』をひいて、「戦前のエリートたちがいかに間違った判断を繰り返してきたことか。起こって困ることは起こらないことにしてきた。今日の原発の状況と瓜ふたつである。原発震災はやっぱり起こってしまうのではないか。自然のサインを的確に受け止めて誤りを正さなければ。それができるのは、この法廷しかない」と締めくくった。法廷内にもかかわらず、感動の拍手が沸き起こった。
 
 「日本人は抽象的観念論を非常に好み、具体的な理性的な方法論を全く検討しない。自分にとって望ましい目標をまず設定し、物事は自分の希望するように動くと考える。ソ連が満州に攻め込んでくることが目に見えていても、攻め込まれたくない、今来られたら困ると思うことが、だんだん「いや攻めて来ない」という思い込みになる。情勢をきちんと見れば、ソ連が国境に兵力を集中し、シベリア鉄道で兵力を送り込んでいるのに、攻めて来られると困るから来ないのだ、と自分の望ましい方へ、考えを持って行って動くのだ。」<半藤一利著『昭和史』より抜粋>

 中部電力は、浜岡原発が高さ8mまでの津波にしか耐えられないとし、4mの防波壁(海面よりの高さは12m)をつくると発表。福島第1事故後の3月23日のことである。しかしこれで、大きな海進を防げるのであろうか。

 石橋先生の証言は、1年半前のことである。
 なお今回の参考図書ですが、議事録抄文は週刊「アエラ」4月18日号。浜岡原発訴訟は『浜岡原発震災を防ごう』内藤新吾ほか著 2010年10月刊 たんぽぽ舎発行。

<2011年4月24日>

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津波の歴史 4 「原発耐震指針」

2011-04-23 | Weblog
 内閣府に所属する原子力安全委員会が制定した「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針」という重要な指針があります。2006年9月19日に大改訂され、新指針と呼ばれています。以下、略して「原発耐震指針」「指針」と記します。
 1995年1月17日に阪神淡路大震災が起き、「どんな地震が起きても壊れない」と専門家が太鼓判を押していた、高速道路や新幹線の高架が崩れた。これが契機で、旧「原発耐震指針」の見直しがはじまったのだが、新指針の決定まで11年もかかった。
 新指針に適さない炉や施設はもう一度見直し、つくり直さねばならない。電力会社は膨大な出費を強いられる。11年もかかった原因は、電力会社の圧力ではないかといわれている。また新指針改訂が遅れれば、それだけ電力会社は儲かる。それと地震学者間の見解の相違も、新指針の決定を遅らせたとされる。

 指針の前文を長いですが引用します。なお全文はネット上に公開されています。PDF14枚で見ることができます。
 「本指針は、発電用軽水炉の設置許可申請(変更許可申請を含む。以下同じ。)に係わる安全審査のうち、耐震設計方針の妥当性について判断する際の基礎を示すことを目的として定めたものである。/従前の「発電用原子炉施設に関する耐震設計審査指針(昭和56年7月20日原子力安全委員会決定、平成13年3月29日一部改訂。以下、「旧指針」という。)は、昭和53年9月に当時の原子力委員会が定めたものに基づき、昭和56年7月に、原子力安全委員会が、当時の知見に基づいて静的地震力の算定法等について見直して改訂を行い、さらに平成13年3月に一部改訂したものであった。/このたびは、昭和56年の旧指針策定以降現在までにおける地震学及び地震工学に関する新たな知見の蓄積並びに発電用軽水型原子炉施設の耐震設計技術の著しい改良及び進歩を反映し、旧指針を全面的に見直したものである。/なお、本指針は、今後の新たな知見と経験の蓄積に応じて、それらを適切に反映するように見直される必要がある。」
 ところがこの新指針の文末に「地震随伴事象に対する考慮」という項目があります。ここで「津波」の記載がはじめて出るのですが、わずか2行のみ。
 「施設の供用期間中に極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波によっても、施設の安全機能が重大な影響を受けるおそれがないこと。」
 津波について、わずかこれだけの記述である。また<極めてまれではあるが発生する可能性があると想定することが適切な津波>とされている。このような軽すぎる判断が下された経過は、この連載の次回で取り上げたいと思っています。

 米モントレー国際問題研究所上席研究員のマイルズ・ポンパー氏は、日本の電力業界の招きで、大震災・原発事故の前に来日した。福井県敦賀市の「もんじゅ」と茨城県東海村の原子力関連施設、そして青森県六ケ所村の使用済み核燃料貯蔵施設などを視察した。
 「東京に戻ってすぐに大震災に遭った。あのような揺れを体験したことはなく、強い恐怖を感じた。福島第1原発は視察していないが、全般的に日本の原発は地震に比べて津波への備えが不十分だと感じた」
 「日本を含む多くの国々は原発増設は節電などの『苦痛』を伴わずに温暖化ガス排出量を減らす唯一の方法と考えてきた。しかし、事故という『苦痛』を日本にもたらした。使用済み核燃料貯蔵施設は満杯に近く、再処理も進んでいない。今後の原子力政策を国民全体で再考すべき時だろう」<「日本経済新聞」4月22日朝刊>

 原子力安全委員会委員だった住田健二氏(80歳)は「地震だろうが、水害だろうが、テロだろうが、放射能という危険なものを抱えているわけで、何が起きても対応できるようにしておかなければなりませんでした。(今回の原発事故は)我々の世代の責任です」
 住田氏は実験用原子炉研究が専門の大阪大学名誉教授。原子力安全委員会の委員を1993年から8年間、また委員長代理を内2年間つとめた。2000年からは2年間、日本原子力学会会長であった。
 「大勢の学者が集まって検討しても、実質的には学者の専門分野ごとに縦割りです。自分の守備範囲は責任を持ってがんばるが、守備範囲外のことだと、仮におかしいなと思うことがあっても、相手はその世界の権威。食い下がってまで口出しする学者は、ほとんどいません」
 新指針策定のため、原子力安全委員会のなかに分科会をつくり、約20人の学者らが、5年がかりでまとめあげた。
 住田氏は「非常用電源が大事だとはいえ、安全審査の中心は炉を守ること。それが、とにかく第一です。配管が折れるとか、崩れるとか、それによって深刻な事態が起きないか。議論は、そこに集中し、津波は付随事象でした。…しかし、津波をかぶる、あんな位置に非常用電源を置いていたとは、本当に申し訳ないのですが、私も知りませんでした。…事故のあとに、学術会議の会合で私が報告したら『原発というのは町工場以下ですね』と失笑されました」
 住田氏が原子力安全委員だったときに、配管のなかの温度計が折れるという事故を調査したことがある。原発工事認可の書類を調べたところ、大手メーカーが下請けに出し、さらにふたつ下請けに行く。温度計が設置されるまでに、いちばん下の町工場から含めて20人ほどのハンコが押してある。知っている人が偶然いたので聞いてみると、「押した記憶はない。上司の机の上にあるハンコを部下が押して出すのは当たり前でしょう」
 住田氏は「福島原発の電源喪失の問題がなぜ見落とされたのか、私にはわかりませんが、ひょっとしたら、それ(無責任なハンコ意識)と似た意識だったのかもしれません」。また「柏崎の事故のときの教訓が生きなかったのかと残念でなりません。あのときは炉そのものは大丈夫でしたが、電源部分が弱いことがわかりました。今回の事故は『人災』と言われてもしかたがありません」<住田健二インタビュー「週刊アエラ」4月18日号>

 チェルノブイリ原発事故から25年。いまウクライナのキエフで記念の国際会議が開かれている。4月21日、柴田義貞氏(長崎大学特任教授)は会議の分科会で次のように語った。「福島原発事故を引き起こした巨大津波について、専門家が発生の可能性を指摘していたのに、東京電力が十分な対策をとらなかった」。「専門家の警告が無視されたという点で(チェルノブイリ原発事故と)同じ原因を共有している」<「朝日コム」4月22日>

<2011年4月23日>
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津波の歴史 3 「東電の想定外」

2011-04-20 | Weblog
 東京電力は4月9日、東日本大震災で福島第1原子力発電所を14~15mの津波が襲ったことを明らかにした。海面より10mの高台に設置された1号機から4号機までの原子炉建屋やタービン建屋を含む主要建物エリアのほぼ全域で高さ4~5mまで浸水しており、その状況などから判断したという。
 同社は、土木学会の津波の評価指針に基づいて津波の高さを想定していたとする。福島第1原発に到達する波の高さを5.7mとして原発を設計していたが、震災に伴う津波は3倍近い高さに到達していたことになる。第1原発の5、6号機は1~4号機の主要建物エリアに比べ、約3m高台にあり被害は少なかった。
 同日記者会見した同社の武藤栄副社長は「土木学会の評価に基づいて津波の高さを想定したが、結果として想定以上の津波が来た」<日本経済新聞4月10日>
 東電は5.7m想定の根拠を、土木学会の評価だと逃げているようだ。東電の彼らに基準「津波想定高」の責任はないのだろうか?

 15m近い津波は防波堤を越え、取水口近くの海水ポンプなどを飲み込んだ。その後、海面から10mの敷地を越えてタービン建屋を襲い完全に水没した。さらに海水は、山側にある原子炉建屋の方に回り込む。
 福島第1の海面から10mほどの高さにある13台の非常用ディーゼル発動機。大半は海側にあるタービン建屋、それも地下に置かれていた。敷地面より高い場所にあったのはわずか3台。14~15mの大津波で冠水し、敷地面から3mの高さにあった6号機の1台を除き、すべてが使用不能に陥った。ありえないとされてきた非常用電源の完全喪失事故である。
 福島第2発電所にも想定していた5.2mを上回る6.5~14mの津波が到達。ただ14mの波に襲われたのは敷地の主要外施設で、ほとんどの主要建物は高さ12mにあるため、水につからなかった。<読売新聞4月10日>
 福島第2も、あと少し高い海進に襲われていたら、第1と同様の惨事を招いていたのではなかろうか。

 東電は福島第1原発事故の直接的原因を「想定を超える津波」としている。津波が想定の5.7mを越え、14~15mに達したことで、緊急冷却システムを稼働させるディーゼル発動機が使えなくなり、すべての非常用電源を失った。電源車を送ったが「大半が水没して電源をつなぎ込む場所を制御するのに時間がかかった。ケーブルを引くのも大変だった」と、東電の武藤栄副社長は泥縄状態を語っている。<週刊「ダイヤモンド」4月16日号>
 しかしこの時、非常時電源確保のマニュアルがあり、それに沿った応急措置が取られていたならば、今回の大変な事態は防げたのでなかろうか。残念ながら、すべての電源が奪われる非常事態は、想定されていなかった。

 福島第1原発が大津波に襲われる可能性はこれまで度々、繰り返し指摘されていた。ところが東電の清水正孝社長は、「わが国が経験したことのない大規模地震に伴う津波といった自然の脅威によるものとはいえ、このような事態に至ってしまったことは痛恨の極み」。清水社長はあくまで、「想定外の天災」による事故との立場を崩さない。<読売新聞4月10日>
 原子力損害賠償法第3条には、原子炉の運転等の際に起きた事故・損害について、「その損害が異常に巨大な天災地変又は社会的動乱によって生じたものであるときは、(原子力事業者、すなわち電力会社の損害賠償責任は)この限りではない」。東電は、巨大な天変地異、想定外の津波であって、本来は損害賠償責任は免除されるという解釈をしようとしていたことは明らかである。
 日本経団連の米倉弘昌会長は、原賠法を詳細に調べたとして東電を擁護。同法が想定した「異常に巨大な天災地変」は「関東大震災の3倍規模」とした法律制定時の国会答弁を引き合いに、「今回は30倍だ」と説いて回っている。<共同通信4月14日> 米倉氏はこのように、東電を擁護している。
 東京電力社長の清水正孝氏は、枝野幸男官房長官の認識「原子力損害賠償法(原賠法)上の免責を認めない」という発表に対して、「承知していない」と記者会見で述べた。関係者は清水氏の発言について「今後、免責の適用につながる議論が出てくることに期待しているのではないか」と指摘している。<共同通信4月14日>
 参議院議員の加納時男氏、彼は東電の元副社長(原子力担当)だが、「想定外の地震と津波であり、東電も被害者です」<「週刊文春」4月14日>
 民主党参議院議員の藤原正司氏(電力総連出身)は自身のブログで「何兆円とも言われる損害賠償を一民間企業が負担出来るはずがない(中略)災害の原因を一民間企業に押しつけ何千年に一度といわれる地震と津波が今次最大の原因(犯人)であることを忘れてはいけない」。また民主党内に「東電は被害者だ。国が補償すべきだ」と、原子力損害賠償法(原賠法)の例外規定の発動を唱える勢力がある。<週刊「アエラ」4月18日号>。「何千年に一度」となると、弥生か縄文時代以来ということになる。根拠はどこにあるのでしょうか?
 それと、東電は被害者でしょうか? いいえ、東京電力は加害者です。今回の大惨事は、天災ではなく人災です。いや、東京電力という会社が起こした、社災です。

 福島県前知事の佐藤栄佐久氏はこう語っています。
 「今回の事故は人災だ。水に浸かるだけで非常用電源が動かないとは、原子力安全委員会は何をしていたのだろうか。どんなことがあっても安全だと、県民は信じ込まされていた」<「週刊ダイヤモンド」4月16日>
 
 平安時代に起きた貞観地震津波の痕跡を調査した研究者が、2009年に指摘していた。福島第1原発を、1000年以上も昔に襲ったのと同等の津波が来襲する危険性があると。
 しかし東電の回答は「十分な情報や根拠がない」。想定の引き上げに難色を示し、設計上は耐震性・津波耐性に余裕があると主張した。そして、津波と地震の想定は変更されなかったのである。

 東電のホームページでは、4月13日に下記の部分が削除された。
 「想定される最大級の津波を評価し、重要施設の安全性を確認しています」「敷地周辺で過去に発生した津波の記録を十分調査するとともに、地質学的に想定される最大級の津波を数値シュミレーションにより評価し、重要施設の安全性を確認しています」「発電所敷地の高さに余裕を持たせるなどの様々な安全対策を講じています」。
 海面より10m高を、またその位置で地階にあった非常用発動機を「余裕」としていたのです。おそらくディーゼル機は海面からおよそ6mほどの高さに据えられ、浸水で部屋ごと完全に水没したはずです。

 東京電力原子力部門のドンと呼ばれた元副社長の豊田正敏氏(87歳)は、次のように語っています。
 「今回の福島第1原発の事故は、頼みの綱の非常用ディーゼル発動機が津波で使用不能になってしまったことが引き金になっています。10m級の津波は想定外だったとしても、あの配置設計はまずかった。非常用ディーゼルや原子炉を冷却するポンプは、原子炉の安全のために必要なものですから(堅牢なつくりの)原子炉建屋に入ってさえいれば、被害はここまで広がらなかったと思う」
 原子炉建屋とタービン建屋では、そもそも建造物の強度が違う。強度の劣るタービン建屋(さらにその地階!)に非常用設備を置けば、リスクが高まるのは当然である。
 「もちろん原子炉の基本設計を固める際には、米国に飛んで向こうの専門家と打ち合わせもしていますし、非常用設備自体は、現場で試験をして安全評価もしています。ただ、原子炉の設計をしたGE社と東電の間には、米国のコンサルタント会社『エバスコ』が入り、我々はエバスコと契約しており、設計図などを受け取りました。そこから急いで作っていったのですが、その図面を誰もチェックしていなかったのです。エバスコの設計通りに作ったとはいえ、悔やまれてなりません」
 かなり前から東電は、福島第1原発の致命的な欠陥に気づいていたのである。<「週刊文春」4月21日号>

 コンサル会社のエバスコ。はじめて知った会社ですが、東電は40数年前、福島第1原発1号機をGEゼネラルエレクトリック社につくってもらったのではなく、エバスコに丸投げしていたのです。1号機が稼働を開始した40年前、日本の原子力技術のレベルは低く、図面をチェックすることもなく、コンサル会社にすべてをゆだねていたのです。おそらく東芝はその図面に忠実に、機器を製作したのでしょう。
 あまりにもお粗末です。さらには1号機をあと10年、延べ50年の運転延長をすることに決定していました。人間でいえば勤続40年。20歳ほどで社会人になったとして、還暦です。そして後10年の勤続疲労を強いられたまさにその時、大事故を起こしてしまった。おそるべき還暦「定年」です。

 今年の2月7日、原子力安全・保安院は、3月26日に運転40年を迎える福島第1原発1号機に、10年間の延長認可を与えたばかりだった。ここはきわめて重要である。経産省がどのような基準で認可を与えたのか、その認可は適正だったのか、厳正に調査されてしかるべきだ。また高経年化と原発の安全性に因果関係があるのか否かも、詳しく検証され、今後の原子力政策の進退を左右することになろう。<「週刊ダイヤモンド」4月16日号>

<2011年4月20日>
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津波の歴史 2 「大津波記念碑」

2011-04-18 | Weblog
 大津波に呑みこまれながらも助かった、岩手県大船渡の方へのインタビューを記します。放心状態の男性にテレビ局の記者が「ご家族は?」
 「わかんねぇ。水中に飲み込まれたときは、左手と右手で女房と子どもの手を握っていたんだが……離れ離れになってしまって……」<後藤正治「週刊ポスト」4月1日号> むごい。あまりの非業に言葉を失います。

 「千年に一度の巨大地震と大津波」と今回の大災をいう方が数多くありますが、果たしてそうでしょうか。「だから想定外」でしょうか。
 津波史連載の前回でもみましたが、千百余年も昔の貞観11(869)年「三陸地震津波」を持ち出すのは、間違いのもとだと思います。その後、何度も何度も三陸太平洋岸は大津波に襲われてきました。
 観測記録が残る百余年の津波史をみても、明治29(1896)年「明治三陸地震津波」、昭和8(1933)年「昭和三陸地震津波」、いずれも波高は20mを超えていました。
 また6mの波高記録ですが、昭和35(1960)年「チリ地震津波」も起きました。6mなど低いように錯覚しがちですが、成人身長の3倍以上です。巨大な津波です。
 三陸沿岸部の古老たち、昭和初年以前に生まれた方が言い聞かす諺に「ひとは人生の内で二度、大きな津波に襲われる」。80余歳を過ぎたひとたちは、昭和8年と昭和35年、そして平成23年(2011)3月11日、実に3度も大津波の被害を受けたのです。

 東北大災で記録された各地の津波の高さをみてみます。なお<※>は、陸地をさかのぼって到達した遡上高です。数字はメートル。

 青森県 八戸市     8.6m
 岩手県 宮古市    16.0
       ※姉吉    38.9
       ※田老     37.9
      釜石市       9.0 
      釜石湾口    30   
      大船渡市      9.5 
       ※綾里     23.6
 宮城県  気仙沼大島  16 
女川町    18.3
      女川原発   14.0    (想定波高 9.1 主要建物は海面より14.8)
      仙台塩釜港  14.4
名取市     9
      石巻市     15.4
      平潟港      8.2
 福島県 相馬市      6.8
      福島第1原発  14~15   (想定波高5.7 主要建物は同10)
      福島第2原発  6.5~14   (想定波高5.2 主要施設は同12 14は非常時電源に届かず)
 千葉県 旭市       7.6 

 つぎに各地の震度をみてみます。ところで、マグニチュードという専門用語もひとり歩きしているように思えて仕方ありません。M 9.0という数字はとてつもない規模なのでしょうが、距離が遠くなれば震度は減ります。3月11日、京都の大地も少しですが揺れました。何人かから「目まいかと思いました」。わたしは同時刻に滋賀県におりましたが、目まいもしませんでした。
 まったくの素人判断ですが、東電のいう「想定外」の判断には、海進の高さと揺れ度から考えればよいのではないか、そのように思っています。なおプラスは強、マイナスは弱です。

 岩手県  釜石市  6-
       大船渡市 6-
       気仙沼市 6-
 宮城県  栗原市  7 (内陸部ですが、最高震度にもかかわらず、死者行方不明者は皆無です)
       仙台市  6+ (宮城野区)
 福島県  いわき市 6-
 茨城県  日立市  6+

 福島両原発での震度は、おそらく6±>であろうと推測します。
 かつて阪神淡路大震災のとき、わたしの住む京都市の西京区大原野大枝あたりでも震度は<6±>でした。南北に走る活断層の西山断層が原因です。揺れは大きかったのですが、被害は決して大騒ぎするほどではなかった。

 ところで、宮古市重茂半島の姉吉地区はこれまで度々、大津波に襲われています。今回も遡上高38.9㍍という観測史上最高の数字を記録しました。かつて昭和8年の海進では、生存者がわずか二人。同地には石碑が残されています。刻文を現代語に改めてみました。<上西勇・月刊「中央公論」5月号>

「大津浪記念碑」
 高き住居は
 子孫への和楽
 思え 災禍の大津浪
 ここより下に
 家を建てるな
 明治29年にも
 昭和8年にも
 津浪はここまで来て
 は全滅し
 生存者わずか二人
 後に余人のみ幾年
 経るとも要心何従

<2011年4月18日>
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津波の歴史 1 「日本列島 津波史」

2011-04-16 | Weblog
日本最古の地震記録は、允恭5年(西暦416年)河内国地震です。以降、江戸時代末期までの約1450年間、地震被害記録は262件にのぼるそうです。
「地震史」を取り上げると、膨大な記述になってしまいます。今回は古代から現代まで、甚大な被害を及ぼした日本列島の「津波」記録ダイジェストを試作してみました。本日を連載「津波史」第1回とし、第2回以降は先月「3月11日の大津波」を取り上げようと思っています。

 なお参考図書は、『日本の自然災害』(力武常次・竹田厚監修 国会資料編纂会発行 2003年改訂版)。同書記載には「歴史的にみると、日本のほとんどの海岸が津波に襲われているが、津波襲来が特に多いのは東北地方の三陸沿岸で、地形の関係もあって波高が異常に高くなり、多数の犠牲者を出す場合がある。また、相模トラフや駿河―南海トラフで発生する M 8 級の大地震も津波を伴うケースが多く、房総から紀伊半島にかけての沿岸、四国の太平洋沿岸地帯で大きな津波被害を受けることがある」

 同書監修者のおひとり、東大名誉教授の力武常次先生は、地震予知を人類の平安のために徹底して研究された方です。確度の高い予知が困難な大地震ですが、先生の本を読んでいますと、決して不可能ではないと感じます。いつかこのブログで、地震予知についても触れたいと思ったりしています。以下、日本列島を襲った津波の歴史年表です。


西暦416年 允恭5年7月14日 「河内国地震」 日本最古の地震記録。『日本書紀』に記されている。津波の記事はないが参考まで。

684 天武13年10月14日 「白鳳地震」 近畿から四国にかけて推定 M 8.3 ほどの地震があり、死傷多数。津波が襲来して土佐で船の沈没が続出。1200ヘクタール余の田園が沈下して海になった。最古の津波記録。

800 延暦19年3月14日 「富士山噴火」 富士山が大噴火を起こし、足柄路が降灰砂に埋没したため、あらたに箱根路を開いた。津波は起きていないが、富士山の初噴火記録として参考まで。

850 嘉祥3年 「出羽国地震」 海水が国府から6里のところまで迫った。

863 貞観5年6月17日 「越中・越後国地震」 直江津付近にあった数個の小島が壊滅。

869 貞観11年5月26日 「三陸地方地震・津波」 沿岸各地に津波が襲来し、多賀城下では溺死者1000人。三陸沖を震源とする推定 M 8.3 程度の巨大地震。

887 仁和3年7月30日 「五畿七道地震」 北海道と東北を除く日本全国にわたって大地震が発生。摂津では津波による被害が大きく、溺死者多数。推定 M 8.5。

1096 永長1年11月24日 「機内・東海道地震」 津波が伊勢・駿河を襲い被害甚大。遠州灘沖を震源とする巨大地震で推定 M 8.5。

1361 正平16年6月24日 「畿内・土佐・阿波国地震」 津波が土佐・阿波・摂津の沿岸を襲い、阿波由岐湊では家屋1700が流失、流死60余。難波浦で漁師数百人が溺死。推定 M 8.5か。

1408 応永14年12月14日 「紀伊・伊勢国地震」 紀伊・伊勢・鎌倉に津波が襲来したという。

1433 永亨5年9月16日 「関東南部地震」 利根川の水が逆流したと記録され、津波の発生が推定される。

1498 明応7年8月25日 「東海道各地地震」 伊勢・志摩で波高が6~10㍍に達し、1万人が溺死。伊勢大湊で家屋流失1000、溺死5000。静岡県志太郡で流死2万余。鎌倉では波が八幡宮参道に入り、200人が流死。浜名湖では湖と海との間の砂洲が切れて、湖が海に通じる。津波溺死者数は数万人と思われる。

1520 永正17年3月7日 「紀伊・京都地震」 津波によって南紀の民家が流失。被害規模不明。

1596 慶長1年閏7月12日 「大分地方地震」 大津波が襲来して別府湾沿岸に被害を与え、大分とその周辺ではほとんどの家屋が流失。湾内にあった瓜生島は80%が陥没し、住民700人が死亡。死者総数は不明。

1605 慶長9年12月16日 「東海・南海・西海道地震/慶長地震」 津波が犬吠埼から九州にいたる太平洋沿岸に襲来して大きな被害があった。浜名湖近くの橋本では100戸中80戸が流され死者多数。伊勢の沿岸各地では地震後数百㍍まで潮が引き、約2時間後に津波が襲来。高さは4~5㍍。紀伊西岸広村で1700戸中700戸が流失。阿波国鞆浦で波高10~30㍍と記録されているが、死者200余。同宍喰で波高6㍍、死者1500余。室戸岬付近で死者約400。推定死者数万。

1611 慶長16年10月28日 「三陸・北海道東岸地震」 陸中小谷鳥(現・山田町)で波高15~25㍍。南部津軽で人馬死3300余。伊達領内で死者1783。三陸沿岸で家屋の流失多数、海水が阿武隈川を遡上し陸前岩沼周辺で家屋が多数流失した。

1640 寛永17年6月13日 「北海道駒ケ岳噴火・地震」 駒ケ岳が大噴火し、火砕流とともに山頂崩壊による泥流が発生して内海湾(噴火湾)に流れ込み津波が発生した。津波は津軽海峡や十勝にも押し寄せ、溺死者700余。昆布取りの船100余が流された。原因は地震だけではなく、火山の噴火による津波もある。

1677 延宝5年10月9日 「磐城・房総地震」 津波のために磐城領で家屋倒壊流失約550、死者130余。水戸領で倒壊189、溺死36。房総で溺死約250、奥州岩沼領で死者123。波高は外房4~8m。

1703 元禄16年11月23日 「江戸・関東地震」 地震後に津波が銚子から伊豆半島にかけて襲来。特に南房総の被害が大きく死者約4000。総死者は約5200、家屋倒壊流失二万戸。波高は房総南部や伊豆大島で10m。

1707 宝永4年10月4日 「五畿七道大地震」 津波が伊豆半島から九州にいたる沿岸を襲い、四国と紀伊半島での被害が甚大。少なくとも死者2万、家屋倒壊流失6万。紀伊半島東岸波高8~10m。

1741 寛保1年7月19日 「日本海沿岸各地津波」 北海道渡島半島西岸から津軽・佐渡地方に津波が襲来。渡島半島西岸で波高8~15m、死者1467、家屋損壊729、船の破損1521。波高は津軽西岸で4~8m。津波は能登・若狭から朝鮮半島東岸にも達し、被害を与えた。

1771 明和8年3月10日 「八重山地震津波/先島諸島地震」 八重山・宮古諸島に巨大津波が襲来して、石垣島宮良では波高が85.4m、同白保では60mに達し、同島では住民の約半数の8300人が溺死。宮古諸島では2500人が溺死。総死者は1万2千人にのぼったと記録されている。

1792 寛政4年1月~4月 「雲仙岳噴火地震/島原大変」 普賢岳噴火から始まった溶岩流出、火砕流、山崩れ。海に流れ込んだ大量の土砂と岩石は、島原湾や有明海に9㍍の大津波を引き起こした。噴火・地震・津波が重なった大災害となり、死者は島原で約1万人、対岸の肥後で約5000人。別名「島原大変・肥後迷惑事件」ともいう。

1833 天保4年10月26日 「越後・出羽地震」 津波が庄内地方から佐渡、能登輪島、隠岐島さらには北海道の渡島半島南部の福山にまで及んだ。家屋の倒壊流失数千、死者総数不明。

1835 天保6年6月25日 「東北地方東部地震」 仙台湾にも津波が襲来。数百の民家が流失、溺死者多数というが、詳細は不明。

1854 安政1年11月4日 「東海・東山・南海道地震/安政東海地震」 津波が房総から土佐の海岸を襲い、伊豆下田では地震の約1時間後に襲来して多数の家屋が流失したほか、停泊中のロシア軍艦ディアナ号が大破。全体の死者は2000~3000、住家の倒壊流失焼失は約3万と推定される。推定 M 8.4。波高は熊野灘岸6~10m、駿河湾奥6~7m。

1854 安政1年11月5日 「畿内・東海・東山・北陸・南海・山陰・山陽道地震/安政南海地震」 上記大地震の翌日、再び日本列島西南部に大地震が発生。大津波は房総から九州まで襲来。波高は紀伊半島串本で15㍍、土佐久礼で16㍍、牟岐9㍍。和歌山領だけで家屋全壊破損1万8000、死者約700。全体の死者は数千と推定される。地震と津波被害の区別は困難 M 8.4 級か。
 参考までに、翌年10月2日「安政江戸地震」では、死者約1万、大火災のために倒壊焼失家屋2万近いと思われる。津波はなかったが、幕末の安政年間は実に不安不穏であった。

1896 明治29年6月15日 「三陸沖地震/明治三陸地震津波」 三陸沿岸地上の震度は3程度だったが、地震後約35分で大津波が来襲。波高は20㍍以上に達した。綾里湾奥で最高38.2m、吉浜24.4m、重茂18.9m、田老14.6mが確認されている。2万人以上にのぼる人たちがほとんど一瞬のうちに波に呑まれて命を落とした。全半壊流失家屋1万以上。津波によるMは8.5と推定される。

1923 大正12年9月1日 「関東大震災」 死者行方不明者14万2807人。津波は熱海12m、三崎6m、洲崎8.1m。鎌倉で海水浴客多数が溺死。

1933 昭和8年3月3日 「昭和三陸地震津波」 地震の被害は少なく、津波被害が甚大。三陸沿岸の死者行方不明者3064、家屋流失4034、家屋倒壊焼失浸水6051、船舶流失沈没破損8078隻。波高は綾里村白浜23m、田老10.1m。「岩手県下閉伊郡田老村(現・田老町)の場合は500余戸のうち、高所にある10戸余りを残しただけで、死者行方不明者1000人を数え、特に田老地区では戸数362のところ358軒が流失、住民1798人中763人が死亡するという、ほとんど全滅に近い状態になった」

1944 昭和19年12月7日 「東南海地震」 熊野灘を震源とする地震。津波はハワイやカリフォルニア、南米沿岸にも到達。熊野灘沿岸で波高8~10m、溺死者多数。

1960 昭和35年5月 「チリ地震津波」 はるかかなたの南米チリで起きた地震M9.5により、22時間後に日本の太平洋沿岸各地に大津波が襲来して、三陸沿岸を中心に甚大な被害を与えた。波高は三陸沿岸で5~6m。全国の被害合計は死者行方不明者142(内沖縄3)、負傷者872、家屋全壊流失3830、半壊2183、浸水3万。津波の時速は600㎞以上。ハワイでも死者61人。当然だが、同地も日本列島でも有感地震はなかった。
 チリ M 9.5とされ、20世紀最大の地震。同国での死者は約2000人。巨大なマグニチュードが、必ずしも正比例的に被害を増幅する訳でもないようだ。

1983 昭和58年5月26日 「日本海中部地震」 秋田県北部海岸で特に波高が高く(峰浜村11~14m)、男鹿半島で遠足の学童など100人が死亡。津波は韓国にまで及んだ。

1993 平成5年7月12日 「北海道南西沖地震」 波高は奥尻島西岸で特に高く(藻内12.4m、青苗11m)、同島の死者198人の大半は津波による。

<2011年4月16日 南浦邦仁>
※今回の連載タイトルは本来「< 3・11 日本 > №7 津波の歴史 1」でした。その後、「津波の歴史○」に変更。
 本日改題し< 3・11 日本 >を消し、<津波の歴史>に1本化します。5月17日。
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< 3・11 日本 > №6 想定外

2011-04-09 | Weblog
 「想定外」という言葉が、ひとり歩きをしているように感じます。想定内なら事故の責任を追及されますが、「外」と認められれば、「仕方がない」と放免される。
 福島第1原発でいえば、地震によるダメージはなかったとされ、冷却装置機能の喪失は、大津波が原因とされているようです。果たしてそうでしょうか?
 東日本大震災による大津波の高さは、東大の都司嘉宣准教授らの調査で、37.9メートルが確認されたそうです。宮古市田老地区です。これは観測史上最も高いとされる明治29年(1896)の38.2メートルとほぼ同じです。
 ところで福島第1に押し寄せた津波は、14メートル高ほどとされています。しかし東電は同原発建設に当たって、5.7メートルまでの津波を想定していたとされます。わずか6メートル弱を前提に、危険極まりない設備を構えていたわけです。
 炉の位置は海面から10メートルほど。そこに14メートルの津波が襲い、今回の大災を招いてしまった。6メートルまでの津波を想定し、念のために10メートルの高さに発電所を建て、14メートルの海進によって破壊された。
 この事実からみて、一体どこが「想定外」なのでしょうか。想定していた5.7メートルを倍以上も超えた津波だから「想定外」なのでしょうか? 
 明治29年(1896)の大津波では、高さ38.2メートルという歴然たる記録が残っています。40メートルを超えてはじめて「観測史上にない想定外の大津波」ということができるのです。

 文系のわたしですが、科学者やエンジニアと称される皆さん方の発言や行動をみていると、想定外とは「思考停止」と同意語でないかしら、と思えてしまう。
 日本の地震津波史を見ますと、東北地方を襲った貞観11年(869)の大津波。今回の被害によく似ているようです。菅原道真が記録しています。
 また明和8年(1771)沖縄・八重山津波では、海進の高さは何と85メートルだったと記されています。死者12000人。
 高さ数10メートルの津波は、たびたび日本列島を襲っています。想定は歴史から容易に学べるはずです。
<2011年4月9日>

○追記1 4月10日各紙朝刊によると、1~3号機を襲った津波の高さは、14~15メートル。敷地南側の展望台で作業員が撮影した動画からは、押し寄せた津波が高さ約30メートルの崖にぶつかり、50メートルもの高さまで波しぶきが上がった様子が分かる。<4月10日記>

○追記2 「朝日コム」3月31日付。「なぜ女川原発は無事だった 津波の高さは福島と同程度」によると、東北電力の女川原子力発電所を襲った津波は福島第1よりも高く、17メートルクラスという調査結果が出ている。福島第1よりも2メートル以上高い。女川では想定していた津波高は最大9.1メートルだった。女川の主要施設は海面から標高14.8メートルにあり、非常用電源が正常に稼働した。また外部電源も半分が助かった。福島第1では非常用電源が作動せず、外部電源も送電線が地震で倒れたために失われた。なお女川は福島第1の北約120キロに立地。原発施設の海面からの高さは、生死を左右するようだ。<4月10日記>

○追記3 新聞各紙4月16日付。東日本大震災で津波被害の大きかった岩手県宮古市姉吉地区で、陸地をさかのぼった津波の高さを表す遡上高が、38.9㍍に達していたことが分かった。東京海洋大の岡安彰夫教授(海岸工学)らの調査。明治に計測がはじまって以来、観測史上最大。<4月16日記>
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< 3・11 日本 > №5 安全神話

2011-04-03 | Weblog
 安全と安心、現代日本市民の生活を象徴するキーワードのように、よく使われてきた言葉です。今回の原発事故をみていて、あらためて「安全」とは何か? 参考までに、久米宏さんと池上彰さんの対談、そして堺屋太一さん「全治3年 日本の復興について」を引用します。


<TBSラジオ「久米宏のラジオなんですけど」3月19日放送 ゲスト:池上彰>

久米:あのー。原子力の事故についてはどうお考えですか?
池上:色んな思いがありますが、ひとつ。「言霊(ことだま)」という言葉がありますね。言葉自体が、魂というか霊を持ってる、それ自体がチカラを持っている、というのがありまして、「原子力発電所は『 安 全 』だ」と建設する時に言ってました。
久米:うん。
池上:「 安 全 だ 」というとね、「じゃあ事故が起こったときにどうしよう」ということになると、「いや、『 安 全 』だから、事故が起きた時のことは想定しなくていいですよ。」という論理が、どこかで忍び寄ってくるわけですね。
久米:うん。
池上:海外ですと、「原子力発電は『安全』 だ け れ ど も 、もし何かがあったときの為に周辺の住民の避難訓練をやりましょう」ということをやっているわけです。日本ですと、「避難訓練をやりましょう。」って言っても、「え ? 『 安 全 』 な ん で し ょ ? 避難訓練が必要なモノは作らないでくれ!」という話になるもんですから、結局、電力会社の関係会社の人たちが、住民の役をして、避難訓練をするということになったり、「 『 安 全 』 な ん だ か ら 、二重三重四重の安全対策は必要ないよね?」というある種の「言霊」にとらわれて現実を見ない。その結果、このような、「無様」な結果になっているんだな、という思いはしてますね。
久米:ボクもあれは「ぞっ」としたんですけど、あのー、水蒸気を抜いて圧力を下げる弁がありましたけど、あの弁はもともと付いてなかったんですってね?日本の原子炉には。「そういうこと」(事故)は起こらないから付ける必要はない!って付けてなかったんですけど、海外で付け始めたんで、「それじゃあ付けるか」ってんで、付けて助かったんですよ。危ないところだったって聞いてぞっとしましたけど。

http://d.hatena.ne.jp/toshi20/20110319


<堺屋太一 「週刊現代」4月9日号>

 福島第一原発の事故の背景には、昔ながらの「基準主義があります」。「役所が決めた基準を満たせば問題はない。事故は絶対に起こらない」とする考え方です。旧ソ連の原発も同様の思想で作られていました。
 対してアメリカやフランスは「確率主義」。事故が起こる確率が、たとえ1億分の1でも存在すれば、そのための訓練をするという考え方です。
 野球にたとえると、日本や旧ソ連は「内野手を鍛え上げれば外野手はバックアップしなくてもいい」としてきた。アメリカやフランスは「内野手が上手でも外野手は必ずカバーすべし」と考える。
 これが大惨事となったチェルノブイリ原発事故と、ある程度で沈静化できたスリーマイル島原発事故の差でもあります。
 要するに日本は、役人のお墨付きが出ると、後は悪い結果が出たときのことを考えない。ダメージコントロールができていません。
 昔の日本海軍は、負け戦を想定していなかったため、ミッドウェイ海戦で空母4隻を沈められてしまった。それと同じ官僚的な基準主義の脆さがあったと言わざるを得ません。

 福島第1原発で最初の爆発事故が起きたとき、別の建屋のなかで作業に当たっていた下請けの方の手記を読みました。瓦礫をかき分け、這って安全棟までたどり着かれたそうです。うかつなことに、どこで見つけたのか、わたしはさっぱり分からなくなってしましました。
 記憶をたどると、東電には非常時のマニュアルがなかったという。なぜなら「絶対に安全なんだから、そのようなマニュアルもなければ、非常時作業訓練もして来なかった」。確かそのような内容だったと思います。電力会社は、爆発などという「危険」を微塵も認めてはいけないのです。「安全神話」は、現代の大いなる虚構ではないでしょうか。そもそも「神話」は太古の記憶であって、現代と未来には通用しません。
<2011年4月3日>
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< 3・11 日本 > №4 校長からのメッセージ

2011-04-02 | Weblog
 大災を機に、膨大な情報なりメッセージなどが溢れています。すごい言葉、シーン、文章などなど、一個人が触れる分量などわずかですが、感動した一文を紹介します。卒業式を中止した高校の校長が、ネットで三年生に贈ったメッセージです。


「卒業式を中止した立教新座高校3年生諸君へ。」

 諸君らの研鑽の結果が、卒業の時を迎えた。その努力に、本校教職員を代表して心より祝意を述べる。
 また、今日までの諸君らを支えてくれた多くの人々に、生徒諸君とともに感謝を申し上げる。
 とりわけ、強く、大きく、本校の教育を支えてくれた保護者の皆さんに、祝意を申し上げるとともに、心からの御礼を申し上げたい。

 未来に向かう晴れやかなこの時に、諸君に向かって小さなメッセージを残しておきたい。
 このメッセージに、2週間前、「時に海を見よ」題し、配布予定の学校便りにも掲載した。その時私の脳裏に浮かんだ海は、真っ青な大海原であった。しかし、今、私の目に浮かぶのは、津波になって荒れ狂い、濁流と化し、数多の人命を奪い、憎んでも憎みきれない憎悪と嫌悪の海である。これから述べることは、あまりに甘く現実と離れた浪漫的まやかしに思えるかもしれない。私は躊躇した。しかし、私は今繰り広げられる悲惨な現実を前にして、どうしても以下のことを述べておきたいと思う。私はこのささやかなメッセージを続けることにした。

 諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

 大学に行くことは学ぶためであるという。そうか。学ぶことは一生のことである。いかなる状況にあっても、学ぶことに終わりはない。一生涯辞書を引き続けろ。新たなる知識を常に学べ。知ることに終わりはなく、知識に不動なるものはない。
 大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

 多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

 君らを待つ大学での時間とは、いかなる時間なのか。
 学ぶことでも、友人を得ることでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学に行くのか。
 誤解を恐れずに、あえて、象徴的に云おう。
 大学に行くとは、「海を見る自由」を得るためなのではないか。
 言葉を変えるならば、「立ち止まる自由」を得るためではないかと思う。現実を直視する自由だと言い換えてもいい。

 中学・高校時代。君らに時間を制御する自由はなかった。遅刻・欠席は学校という名の下で管理された。又、それは保護者の下で管理されていた。諸君は管理されていたのだ。

 大学を出て、就職したとしても、その構図は変わりない。無断欠席など、会社で許されるはずがない。高校時代も、又会社に勤めても時間を管理するのは、自分ではなく他者なのだ。それは、家庭を持っても変わらない。愛する人を持っても、それは変わらない。愛する人は、愛している人の時間を管理する。
 大学という青春の時間は、時間を自分が管理できる煌めきの時なのだ。

 池袋行きの電車に乗ったとしよう。諸君の脳裏に波の音が聞こえた時、君は途中下車して海に行けるのだ。高校時代、そんなことは許されていない。働いてもそんなことは出来ない。家庭を持ってもそんなことは出来ない。
 「今日ひとりで海を見てきたよ。」
 そんなことを私は妻や子供の前で言えない。大学での友人ならば、黙って頷いてくれるに違いない。

 悲惨な現実を前にしても云おう。波の音は、さざ波のような調べでないかもしれない。荒れ狂う鉛色の波の音かもしれない。
 時に、孤独を直視せよ。海原の前に一人立て。自分の夢が何であるか。海に向かって問え。青春とは、孤独を直視することなのだ。直視の自由を得ることなのだ。大学に行くということの豊潤さを、自由の時に変えるのだ。自己が管理する時間を、ダイナミックに手中におさめよ。流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。

 いかなる困難に出会おうとも、自己を直視すること以外に道はない。
 いかに悲しみの涙の淵に沈もうとも、それを直視することの他に我々にすべはない。
 海を見つめ。大海に出よ。嵐にたけり狂っていても海に出よ。

 真っ正直に生きよ。くそまじめな男になれ。一途な男になれ。貧しさを恐れるな。男たちよ。船出の時が来たのだ。思い出に沈殿するな。未来に向かえ。別れのカウントダウンが始まった。忘れようとしても忘れえぬであろう大震災の時のこの卒業の時を忘れるな。

 鎮魂の黒き喪章を胸に、今は真っ白の帆を上げる時なのだ。愛される存在から愛する存在に変われ。愛に受け身はない。

 教職員一同とともに、諸君等のために真理への船出に高らかに銅鑼を鳴らそう。
 「真理はあなたたちを自由にする」(Η ΑΛΗΘΕΙΑ ΕΛΕΥΘΕΡΩΣΕΙ ΥΜΑΣ ヘー アレーテイア エレウテローセイ ヒュマース)・ヨハネによる福音書8:32

 一言付言する。

 歴史上かってない惨状が今も日本列島の多くの地域に存在する。あまりに痛ましい状況である。祝意を避けるべきではないかという意見もあろう。だが私は、今この時だからこそ、諸君を未来に送り出したいとも思う。惨状を目の当たりにして、私は思う。自然とは何か。自然との共存とは何か。文明の進歩とは何か。原子力発電所の事故には、科学の進歩とは、何かを痛烈に思う。原子力発電所の危険が叫ばれたとき、私がいかなる行動をしたか、悔恨の思いも浮かぶ。救援隊も続々被災地に行っている。いち早く、中国・韓国の隣人がやってきた。アメリカ軍は三陸沖に空母を派遣し、ヘリポートの基地を提供し、ロシアは天然ガスの供給を提示した。窮状を抱えたニュージーランドからも支援が来た。世界の各国から多くの救援が来ている。地球人とはなにか。地球上に共に生きるということは何か。そのことを考える。

 泥の海から、救い出された赤子を抱き、立ち尽くす母の姿があった。行方不明の母を呼び、泣き叫ぶ少女の姿がテレビに映る。家族のために生きようとしたと語る父の姿もテレビにあった。今この時こそ親子の絆とは何か。命とは何かを直視して問うべきなのだ。

 今ここで高校を卒業できることの重みを深く共に考えよう。そして、被災地にあって、命そのものに対峙して、生きることに懸命の力を振り絞る友人たちのために、声を上げよう。共に共にいまここに私たちがいることを。

 被災された多くの方々に心からの哀悼の意を表するととともに、この悲しみを胸に我々は新たなる旅立ちを誓っていきたい。

 巣立ちゆく立教の若き健児よ。日本復興の先兵となれ。

 本校校舎玄関前に、震災にあった人々へのための義捐金の箱を設けた。(3月31日10時からに予定されているチャペルでの卒業礼拝でも献金をお願いする)

 被災者の人々への援助をお願いしたい。もとより、ささやかな一助足らんとするものであるが、悲しみを希望に変える今日という日を忘れぬためである。卒業生一同として、被災地に送らせていただきたい。

 梅花春雨に涙す2011年弥生15日。
立教新座中学・高等学校
校長 渡辺憲司

http://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 このメッセージのことを教えてくださったのは、福岡のYさんです。ありがとう。
<2011年4月2日>

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