ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

若冲 天井画 №1<若冲連載11>

2008-06-30 | Weblog
伊藤若冲[じゃくちゅう]のことは、これまで何度か書いてきました。彼は十八世紀後半に、京都で活躍した著名な画家でした。在世中、円山応挙と肩をならべる評価・人気を得ましたが、昭和前中期には忘れ去られ、やっと昭和後期になって高い再評価を得ました。そして平成になってからの若冲人気には、少し過剰で異常な、主体性のないブームを感じますが、少し冷静になった近ごろ、若冲とは何だったのか再度、考えてみたいと思います。とりあえず、あまり考究されることの少なかった、天井画をみてみましょう。これから数回にわたって連載します。興味のない方には退屈でしょうが、お許しください。

 伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名ですが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていた。しかし明治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したのである。
 石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江度時代、同寺の檀家はわずか数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であった。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、そして天井画や石造物の売却であった。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だった。

<2008年6月30日 再度、若冲 南浦邦仁記>
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現代のことば

2008-06-29 | Weblog
 京都新聞夕刊に長寿のコラムがある。タイトル「現代のことば」だが、40年以上の長きにわたって延々と続く名物の連載である。一年間を40人の学者や文化人、名の知れた文筆に達者な方ばかりが交代で執筆。同名の書籍『現代のことば』も出版されている。かつて30年間、同欄に掲載された随想を精選した文集である。
 1983年11月に会田雄次先生の「角栄人気の秘密」が掲載されている。ロッキード事件で有罪判決を受けた、田中角栄元首相の人気が衰えないのはなぜか? その秘密を分析しておられる。
 貧しい農民の出身で、学歴もない。そういうひとが、大臣や大会社の創業者など「偉くなったひと」は珍しいようにみえて、意外とそうではない。かつて日本の政財界には、貧困の内に育ち学歴のない方は、いっぱいいたのである。なぜ角栄氏だけが、無学歴、貧農出身ばかりを特筆されるのだろうか。会田先生は、

 この理由の根本は次の二点にあると思われる。そういう出世をした人は、みんな出世するにつれ、教養、趣味、行儀作法を自得、身につけて行った。例えば松下幸之助さんなど、教養から立居振舞に至るまで、かつては小さな町工場のおやじさんだったといわれても、その面影は簡単に浮かんでこない人にまで変貌している。
 豊臣秀吉でさえ、無比といってよい芸術的才能を開花させている。自らが監督した聚楽第など豪華極まりない中に充分押さえを利かした新形式の建物であり、秀吉の猶子(養子)として彼に従ってその工事を見学し深い影響を受けた智仁親王は、それを見事に桂離宮の中に生かしている。伏見桃山時代の狩野派の絵画など秀吉の影響なしには考えられない。利休とは対立したが茶人としてなら秀吉も一派を創設し得たであろう独自の茶の世界を創り出している。
 そういう人は、だから、一般の人から近寄り難く思われる。だが角栄氏にはそういう「向上」がない。辺地の村会議員そのままの、むき出しの下品さがある。日本人にとって極めて身近な存在なわけだ。

 しかし会田先生は、角栄氏を擁護しているわけでは決してない。
「かつての高度成長時代、それもヤミ屋的雰囲気の残る時代の名残である。恥も外聞も何もなくって済んだそんな時代への憧れが田中角栄人気を支えているということを考えれば、それは決して日本の未来のためによいことではないはずである。」

 松下幸之助氏は1975年6月にコラム「現代のことば」で書いておられる。タイトルは「自分を知る」。60年近い事業経営で、自分を知るということの大切さを痛感しているという。会社の持っている力を、あらゆる面から正しく知って、それに見合った仕事をしていくことが大事だと記しておられる。
 このことは日本と日本人にもいえる。われわれ日本人が、もっと日本と日本人というものについて知らなくてはならない。日本人として自分を知ることが何よりも大切なのであって、一切はそこからはじまるといっても過言ではないと、書いておられる。
 「戦後の日本においては、そのことが十分にできておらず、今日、日本人自身が自分自身を見失っているように思われる。そこに一切の混迷、混乱の原因があるのではないだろうか。まず日本人が日本自体を知ること。そこから出発しなくてはならないと思うのである。」

 ところで今日、このような文を書いた理由は、ひとつには会田先生が記した秀吉の評価と分析のことである。秀吉は自己自身を、完全に見失っていたであろう。「自己を知る」という松下幸之助氏と、秀吉を、並列できないと思ったからである。
 秀吉は黄金の茶室を愛用した。すべてが金でできた、組み立て式移動茶室である。利休はワビサビを追い求め、朝顔一輪で客をもてなす。そのような利休を、秀吉は死に追いやった。秀吉がいちばん好んだのは、成金趣味の豪華絢爛であろう。

 もうひとつの理由は、コラム「現代のことば」の執筆者が、来七月から半数が入れ替わる。何と新任メンバーのひとりに、親友の南浦さんが選ばれたこと。何の間違いか、この人選は驚くべきことだが、彼には自分を見失わないようにと念を押し、楽しい文章を期待しよう。
 それと、掲載文はご本人と京都新聞の了解を得て、このコラム「片瀬五郎の京都から」に転載しようと思っている。連載第一回の掲載は七月七日七夕か、翌八日火曜の夕刊らしい。
 彼が原稿料をもらったら、いつも行っておられる木屋町の居酒屋「きみや」で、飲み食べ放題で馳走してもらおう。これがいちばんの楽しみである。

<2008年6月29日 冗談好きの片瀬です>
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女三代

2008-06-28 | Weblog
ちかごろ女性のみなさんと飲む機会が多い。なかでもユニークなのが、島原の太夫「こったい」司さんと、彼女の母と娘である。
 先日など、司さんにある先生をご紹介しようとして、酒席から先生宅に携帯で電話をかけたことがある。「いま島原の太夫さんと食事中ですが、先生のお知恵をお借りしたく、電話しました。夜分おそれいります。ご本人とかわります」
 このようなやり取りだったが、先生は驚いてしまわれた。「君はいま島原の輪違屋ですか?!」。かつて一度だけ、輪違屋の座敷に登ったことがあるが、後にも先にも、十数年前のこの一回のみ…。電話したのは大衆酒場「桃次郎」からであった。娘さんのこったい見習い中の振袖太夫こと、中川佳永(よしえ)さんもご一緒でした。「こったいさん」とは、太夫の愛称だそうだ。

 ところで今日は、大坂へ芝居を観にいく。つかこうへい原作「幕末純情伝」。演出は高松ヒロト、劇団「桜」公演。この芝居のことは、司太夫のお母さんが教えてくださった。振袖太夫の祖母・志津子さんである。
 司さんの娘・中川佳永さんは、見習い中の太夫だが、女優でもある。最近では、テレビドラマ「京都へおこしやす」。中村玉緒主演の連続番組だったが、彼女は舞妓・君ふくの役で出演しておられた。
 「幕末純情伝」では、新撰組の土方歳三の役。太夫見習いで、先日まで舞妓役だった女性が、歳さんを演じるのは、さてどのようなものか? 興味津々である。
 芝居の跳ねたあと、観劇に来られる祖母と、母こったいと、わたしの男友人と、あわせて五人ほどで、大坂森ノ宮あたりでの食事を予定している。楽しみである。なお芝居の感想は、その内に書いてみよう。

「幕末純情伝」
  28日土曜本日  15時~  19時~
  29日日曜明日  12時~  16時~
  大坂・森ノ宮プラネットホール TEL 06-6942-2441
  前売り:2000円  当日:2300円
  問合せ 090-8481-7333

<2008年6月28日>
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醜悪なる秀吉

2008-06-23 | Weblog
イエズス会司祭のオルガンチーノが記した秀吉の情けないほどの愚行を、前回に書きましたが、同じくフロイス師も『日本史』に記載しています。

 秀吉は身分の低い出身で、また醜悪なる容貌の持ち主であるが、片手には六本の指があった。眼は飛び出ており、支那[中国・明]人のようにヒゲが少なかった。子どもに恵まれなかったが、抜け目なき策略家であった。彼はみずからの権力、領地、財産が順調に増して行くにつれ、おそろしく比例増殖するかのように、とてつもない速度で、悪癖と意地悪さを加えていった。
 家臣のみならず、外部のものに対しても、極度に傲慢で、嫌われものであり、彼に対して憎悪の念をいだかぬものはなかった。秀吉はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、万事をみずからの考えで決定した。だれひとり、あえて彼の意にさからって、ひとことでも述べようとする人物はいなかった。
 彼はこの上もなく恩知らずで、自分に対するあらゆる奉仕を当然のこととし、ささいなことで最大の功績者を追放したり不名誉に扱ったり、恥辱をもって報いるのが常のことであった。
 秀吉は尋常ならざる野心家で、その野望が諸悪の根源となって、彼をして残酷で嫉妬深い不誠実な人物、また欺瞞者かつ虚言者、横着者ならしめた。彼は日々、数々の不義と横暴をほしいままにし、すべてのひとを驚愕せしめた。
 彼は本心をあかさず、偽ることが巧みで、悪智恵にたけ、ひとを欺くことに長じているのを自慢とした。
 歳すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振る舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取っているかのように見えた。この極悪の欲情は、彼において留まるところを知らず、その全身を支配していた。
 彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを三百人も留めているのみならず、あちこちの城にも多数の娘たちを置いていた。そして彼が諸国を訪れるとき、いちばん大きな目的としたのは、あたらしい美女を見つけることであった。
 秀吉の権力は絶大であったから、その意に逆らうものはだれひとりおらず、彼は国主とその家臣や貴族、平民たちの娘までを、なんら恥じることも恐れることもなく召し上げた。この娘たちの親が流す涙を完全に無視したうえで、収奪したのである、
 太閤は自分の行いがいかに賎しく、不正で卑劣であるか、まったく気づかぬばかりか、これを自慢し誇りとし、その残忍きわまる悪癖が満悦し自己に命ずるままに振舞って、自らはそれを最上の楽しみとしたのである。

<2008年6月23日 自戒「自らを知る」 南浦邦仁記>
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秀吉狂乱

2008-06-22 | Weblog
最高権力と、あり余るほどの財を獲得した豊臣秀吉は、さらに最上の名誉も地位も、すべて手にいれた。
 彼にはもう、欲しいものは何もなかろうと思うのだが、そうではない。人間はここまで哀れであるのかと、実に情けない思いがしてしまうほど、彼の晩年は実に悲しく悲惨であった。望むものすべてを得ても、人間は達観することができぬほど、それほど浅はかであるのは、本当にみじめで、あまりにも悲しい。
 師フロイスと同時期のイエズス会司祭、パードレ・オルガンチーノ、和名・宇留岸伴天連は、1588年に書いています。

 わたしは毎日、あの暴君、関白秀吉の卑劣で下品なあれこれを数々話し聞かされて、驚き入るよりありません。秀吉の野心は、あまりにも増長しすぎたばかりに、自らの高位とか尊厳を忘れ去り、人間本来のなすべきことをすべて忘れ去るに到ってしまいました。彼はもはや、ひととは申せなくなり、獣よりも劣った動物に成り果ててしまったのです。……

 秀吉の淫乱な醜行は、あちらこちらにある彼の宮殿を、すべて一大遊郭にしてしまったほどでありました。美貌の娘や若い美しい婦人たちで、彼の毒牙から逃れ得たものは、ひとりもありません。彼はすでに主君であった信長のふたりの娘を妾にしており、別のひとりは彼が殺害した越前の国の王、柴田勝家の息子の妻で、ほかのひとりは五ヶ国の君主で彼がいま最も恐れている最大の敵である徳川家康の息子の妻である。
 秀吉は主君であった信長が有していたすべての美人の妾たち、さらに信長の後継者で、信長とともに本能寺の変で殺された嗣子城之介・織田信忠の妻たちも、おのれのものとしました。
 また主だった貴人たちの大勢の娘たちも幼女として召し上げ、彼女たちが12歳になるとおのれの情婦としました。これら諸大身の娘たちで、器量がよいという評判が秀吉の耳に達しながら、連行されなかった女性はひとりもありませんでした。
 関白秀吉は内裏の貴人である公家の娘たちも呼び寄せましたが、だれひとり逃れることもできませんでした。結局は手の施しようもなく、秀吉は放縦をきわめ、だれひとり拒否せぬばかりか、全員が喜んで娘や妻を提供し、身の安全保身を計るようになってしまったのです。

 権力も財も名誉も、最高最大のすべてを掌中におさめた英傑はその後、朝鮮に侵略して鼻をそがせ、国内ではこのようにひとの娘や妻を奪って淫乱にふける。栄達とは何か?
 秀吉の晩年、実権は石田光成と淀君が握り、たぶん彼はひとり狂っていた。信長の時代の小説を、数多く書いておられる作家の安部龍太郎さんに先日お会いしたが、そういっておられた。わたしも同感である。
 地上のすべてを得ることは、わたしには困難どころか絶対に不可能だが、それらを得たはずの秀吉晩年の老醜醜態は、あまりにもつらく悲惨である。

<2008年6月22日 かおりさんのリクエストに答えて 南浦邦仁記>

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パキラの花

2008-06-21 | Weblog
 観葉植物が、部屋の隅にあるだけで気がなごむ。我が家のテレビ横、右左にはベンジャミンとパキラの小さな鉢植えがある。
 10年ほども前のこと、自宅近所の園芸屋さんに、鉢植えのベンジャミンの大木があった。高さは4メートルほどだが、大樹の風格があり、いつもほれぼれと見とれたことを思い出す。
 先日は滋賀県の彦根市で、パキラの大木に出会った。それも植物園や園芸店ではなく、喫茶店である。「エピスカフェ」という、おしゃれなレストランカフェだが、吹き抜け天井は高さ8メートルほど。屋根はガラス張りで、温室のような構造である。もと小型のホームセンターだったのを、7年前にレストランカフェに改装したそうだ。
 店内はかなり広いが、床中央の土間には、大黒柱を取り囲むように5本のパキラがそびえ立っている。いつも自宅で見慣れているはずのパキラだが、この木にはじめて出会ったとき、樹名がわからず店の方に聞いたほどである。それほどこの木は、ふつうの木ではないのである。
 樹の高さは10メートルほどであろうか。先端部はガラス天上に突き当たり、右左に2メートルほど弓なりに折れ曲がっている。幹は高い図体の割には細く、根元の立ち上がり部でも、直径わずか10センチほど。ずいぶんスリムな大木である。
 京都府立植物園に電話で聞いてみた。「植物園内の温室にパキラはありますが、天井が低いので先端は切り詰めており、樹高は3~4メートルほど」。アピスカフェの店長、前田鉄也さんは「これだけ背の高いパキラは珍しいそうです。近畿地方でもここだけだろうと、出入りの園芸屋さんがいっていました」
 この木は、7年前にカフェに替わるずっと以前から、この場所に居座っているそうだ。木の植わっている床は、地球の土面である。この建物を建てたオーナーさんは、まずパキラを大きく成長させることを考えたのではないか。屋根はガラスの温室をイメージし、床の中央はあえて地下で根が這うことも考慮しておられる。何ともナチュラルな発想をしたものだと、感心してしまう。建築家との共同設計であろうが、この温室構造では夏の光熱費がかさむ。
 さらに驚くべきことがある。このパキラは、開花するのである。パキラが咲くとは、知らなかった。6月から8月にかけて、毎年数輪の白い花が咲く。今年は異常で、すでに十数回も開花が続いているそうだ。
 また面白いのが、この花は月下美人と同じで、夜の10時ころに花開き、早朝には散ってしまう。美人薄命、何とも可憐悲哀の花であるが、花びらはなく、一本の長いオシベと、20センチほどもある細い百本ほどのメシベの集合体である。
 前田さんに写真を見せていただいたが、まず細短いツボミが数日で20センチほどに伸びる。皮が落ちると夜、ツボミと同じほどの長さのオシベとメシベが一気に開花する。まるで線香花火のような姿である。細く長い白茎の先には、黄色い花粉がついている。白く線を引いた花火にそっくりである。神秘を感じさせる、実に美しい不思議な花である。
 そして深夜、彼は脚立に登って、人工授粉を繰り返している。メシベの花粉を、オシベの先に付けるのである。この数年でいくつかの実がなった。店内には数鉢のパキラ幼木が、元気に育っている。
 さてこの興味ある深夜花は、どなたでも観賞が可能である。店の営業時間は、平日は夜10時半まで、金曜土曜は11時半までと長い。ただ事前に開花予想を聞いておかないと、ツボミにしか出会えない。「今晩、咲きそうですよ」と連絡があれば、名神高速をひた走り、わたしも深夜に京都から彦根まで行ってみよう。開花日が近づけば、運転のため酒は控えねばならぬが。

「エピスカフェ」 epice cafe  彦根市西沼波町175-1
 TEL FAX 0749-30-0624  http://www.epicecafe.com
 ホームページのブログ欄で、前田店長のコメントと、
 彼の撮ったツボミと花の写真も見れます。

 名神高速彦根インターを出て、国道8号線を左に800メートル。
 マクドナルドの裏手、極楽湯・あおい書店の並び、ダイソー横。
 夜に団体が貸切ると入場は不可。事前に電話確認が必要。

<2008年6月21日 店内にふたつあるトイレもすごい>
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織田信長の葬儀

2008-06-18 | Weblog
 信長や秀吉の同時代人、フロイスが書いた『日本史』から信長の葬儀をみてみましょう。

 羽柴秀吉は抜け目なく狡猾であった。秀吉は己の才能を誇示し、貴人や民衆の希望を満たすために、ふたつのことを実行して彼らを掌握しようと決意した。そのいずれも、当初のうちはきわめて妥当であり、清廉潔白であると思われた。
 まず彼が実行した第一のことは、主君信長の供養をもっとも豪華に、盛大に挙行することであった。それがために彼は近隣諸国から諸侯諸武将を都に招集し、信長の遺骸がなかに安置されているかのように偽装した、立派に飾られた棺をつくらせた。
 あらゆる階位の僧侶たちがこの棺に伴い、その豪華華麗な行列は、都のはずれ一里の地にある紫の僧院(紫野大徳寺)までおもむいた。そこは日本中の禅宗寺院のなかで、もっとも格式が高いとされていた。そこで信長という、いとも王者の風格があり、すぐれた人物にふさわしい葬儀が営まれた。
 会葬者全員が日本の習慣にしたがって、一体の佛の前にひざまずき、芳香が立ちこめる間に、火中に香を投じて、故信長に奉げた。秀吉はまた、ただちに信長のために、きわめて優れた様式の僧院・總見院(そうけんいん)を、大徳寺内につくらせたが、それは見るに価する珍しいものであった。
 さらに秀吉は、信長の胸像をつくらせ、公家の衣装を着させて祭壇上に安置せしめた。そして同院に封禄ならびに常住の僧侶を付したが、その寺はきわめて清潔で、立派な構造であった。

 つぎに秀吉が実行した第二の策とは、前回に書いた信長の遺児・信雄と信忠の子の三法師を、安土に追いやることであった。

 秀吉の策略はすべて順調に進んだ。
 地歩を進め、企図したことが成就したとみるやいなや、彼は俄然これまでの仮面を捨て去り、信長のことなどには何らかまわぬのみか、成し得ることの万事において、信長をしのぎ、彼より秀でた人物になろうと、不断の努力をした。
 秀吉は安土山にいた信長の孫、少年の三法師を同地から追い出し、地位も名誉もない一私人として片田舎に留め置くように命じ、三法師が後に天下の主に取り立てられる希望を、完全に断ってしまった。
<2008年6月18日 すばらしい記録を書き残した師フロイスに感謝する>
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豊臣秀吉の天下取り

2008-06-15 | Weblog
 信長の死後、天王山・山崎の合戦で明智光秀を三日天下に終わらせた秀吉のとった、その後の戦略はすごい。
 信長の長男、信忠は父と同様、京で討ち死にしたが、まだ弟の織田信雄と信孝がいた。秀吉は織田軍団の有力な家臣ではあるが、決して信長の後継者ではありえない。出自もあやしい、下賤からにわかに出世した成りあがりの幹部でしかない。
 しかし信長の後継者と目されるふたりの子、織田信男と信孝の後継争いを彼はたくみに利用する。まず清洲会議の席である。秀吉は本能寺の変で討たれた信忠の遺子、三法師を信長の後継者とすることに成功する。自身は幼い三法師の後見人になった。見事な戦略である。
 万全の準備を周到に重ねた秀吉は、つぎに遅ればせに信長の葬儀にかかる。このとき阿弥陀寺に信長の遺骨のあることを、秀吉は知っていた。同寺住職の清玉上人に、秀吉はたびたび交渉した。「永代供養の禄・所領を寺に与える。盛大な信長公の葬儀を、わたしが執り行なう」。しかし清玉上人は、秀吉の申し出を拒絶した。「信長公の葬儀法要はすでに終えております。いまさら葬儀を行なうことはできません」
 清玉は三度まで秀吉の申し入れを断ったといいます。秀吉はこのころ、有力な武将政治家ではありましたが、まだ織田家の家臣でしかありません。信長の血をひく後継者も揃っています。また上人を応援し、秀吉に一矢を酬いようとする勢力も強かったであろうと思います。
 秀吉は怒り、阿弥陀寺での葬儀執行をあきらめ、大徳寺で彼ひとりが主催して行なうのでした。彼の深い計算は、思惑通りに大成功をおさめます。忠君秀吉・織田家を仕切る最有力の後継最高幹部、そのような名声を豪華な葬儀をおこなうことによって、秀吉は獲得したのです。

 イエズス会のフロイスはこのころ都で、それらの事情を実際に見聞した宣教師です。彼の書いた『日本史』には、
 信長にはその相続者である世子・信忠の子で孫にあたる、まだ一歳か二歳の幼児・三法師がいた。羽柴秀吉は、自分が天下の支配権を横領し、絶対君主としての名称を獲得する考えがないと表明した。
 そして三法師が成長して、政治を委ねられるだけの年齢に達するまでの間、その保護者であり付け人であることを示そうとした。秀吉はかつて信長の居城のあった近江・安土山に立派な屋敷を作らせ、そこで三法師を養育することを命じた。そして信長の次男で、幼児の叔父にあたる御本所の信雄に、彼の世話をし、後見役として都から遠く離れた安土に同居せよと命じた。そのうちに収入および役人をあてがい、ひとつの政庁を構えさせるであろうと、秀吉は信長の次男にいい渡したのである。
 秀吉の天下取り作戦は、着実に進められていった。

参考:フロイス『日本史』中央公論新社
   藤本良平「ジョアン内藤の生涯とその時代」連載第15回
    白川書院新社「月刊京都」1982年8月号・通巻373号

<2008年6月15日 次回は大徳寺での信長の葬儀>
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本能寺の変

2008-06-14 | Weblog
 前回に織田信長の命日と阿弥陀寺、豊臣秀吉のことを少し書きました。わたしはやはり、阿弥陀寺に伝わる信長最期の伝承が、ほぼ正しいであろうと思っています。
 信長死後の転変する状況を、これから秀吉を中心にみてみましょう。ただ今日は時間がありません。いま自宅TVで東北地震報道をみていますがこの後、朝風呂です。昼12時からは友人と昼食をとって、それからは京の街歩き。
 建築家の先生に引き連れられ、四条から七条まで歩き、建造物を見て回り話を聞く。夜は参加者が集まっての会食。おもしろそうな企画ですが、詳細は何も知らず、誘われるままに参加するわたし。
 信長のお葬式の話よりも、街散策のほうが興味深いかもしれませんが、近ごろ、六条方広寺・豊国神社西の「耳塚」に関わっています。かつて秀吉が朝鮮を攻めた壬申倭乱[和読:じんしんわらん・ハングル読:イムジンウェラン]。文禄・慶長の役ですが、あまりにも残忍な戦闘でした。
 敵の首を持ち帰るのにはあまりにも戦地は遠く、耳や鼻をそぎ、一樽千個の鼻を塩漬けにして、数万あるいは十万個以上も京都に送った。それらを埋めて京観となし、供養したのが鼻塚、その後にいう「耳塚」です。
 秀吉は若きとき、狡猾ではあるが、賢く楽しい、みなに好かれた好人物でした。なぜかれは、最高権力やありあまる富をえた晩年になって、このような残虐非道な道をひた走ったのか?
 その出発点を、信長の葬儀からみてみようと思っています。
<2008年6月14日 東北地震の朝>
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織田信長の命日

2008-06-09 | Weblog
 6月2日月曜日は、信長の命日でした。全国の縁ある場所で、追悼の催しが開かれたことでしょう。那古屋、清洲、桶狭間、小牧山、稲葉山岐阜城、安土城蹟、新旧本能寺などなど。なかでも興味深いのが、京都市上京区寺町通今出川上ルの阿弥陀寺(あみだじ)です。
 この寺には、信長の墓があります。天正10年(1582)6月2日、明智光秀に同じく討たれた長子の織田信忠はじめ、本能寺で死んだ森蘭と力丸坊丸の三兄弟などなど。この墓所は「織田信長本廟」と記され、討死衆墓所と称されています。阿弥陀寺「由緒略記」から、信長の墓をきょうは考えてみます。

 当時の阿弥陀寺住職・清玉上人(せいぎょくしょうにん)は織田家と深い縁があったといいいます。信長も上人と入魂のなかでした。西暦1582年、天正10年6月2日に突如、丹波亀岡におった信長の部下、最高幹部のひとりである明智光秀が反逆し、西国に向かうとみせかけて京境の老ノ坂を東進。信長の宿所である本能寺を急襲しました。その軍勢は約四万。寡衆の織田勢は対抗のしようもない。
 当時の旧阿弥陀寺は、四条西洞院にあった旧本能寺に近かった。光秀の変事を聞きつけた清玉上人は、阿弥陀寺塔頭の僧を二十人ほど引き連れ、急ぎ本能寺に駆けつけました。裏道より寺に入った上人ですが、時すでに遅し。本堂には火が放たれ、信長はすでに切腹。境内の竹藪では、十余人の武士が信長の遺骸を火葬に付しています。
 上人は面識のある武将に問いただしたところ、「信長公切腹のおりに、死骸を決して敵の明智方に渡してはなぬとの御遺言がありました。しかし四方敵兵のなか、御遺骸を抱いて逃れることはでき申さず。やむなく火葬して、われら一同、自決すべしと決しました」
 これを聞いた清玉は、「自決を選ぶより、信長公のために敵に当たりて死ぬことを望みます。信長公の火葬はもちろん、将来の法要追悼もわたしが執り行ないましょう。約束いたします」
 その場の武士たちはみなうなずき、一同そろって万の敵に向かって駆けていきました。全員が玉砕したことはいうまでもありません。
 上人は火葬なった白骨を法衣に包み、逃げる本能寺の僧徒たちにまぎれ混んで戦場を逃れ、阿弥陀寺に帰りました。その後、明智光秀の許しを得、燃え尽きた本能寺と二条城に出向き、織田方の武士たちの遺骸を、阿弥陀寺に持ち帰ったのです。
 そして天王山、山崎の合戦で光秀軍を打ち破った豊臣秀吉は、阿弥陀寺に信長はじめ織田勢面々の遺骨のあることを聞き、上人に申し出ました。「法事執行をいたす」。しかし清玉は、「すでに法要は終了いたしております。再度催すいわれはございません」
 秀吉は三度まで、法事料三百石の朱印や、永代墓所供養のための寺領下賜などを持ちかけましたが、上人は固辞して受けません。秀吉はついに怒り、大徳寺内に信長にちなむ寺「總見院」を建て、この新寺で法事を執行したのでした。
 やはり、信長とその部下一族の本当の墓は、阿弥陀寺にあるのです。
<2008年6月9日 信長の夢>
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タスポ一週間

2008-06-08 | Weblog
 愛煙家泣かせの記念日、6月1日のタスポカード開始から一週間がたった。わたしはこのカードを申し込まず、これまでさんざん世話になってきた煙草自販機が、おかげで地上の邪魔物と化してしまった。
 職場近所にタバコ屋さんが二軒ある。看板娘ならず、年配のおじさんと、おばさんがやっている店である。おふたりから聞いた話だが、タバコ自販機の売上は、ともにほぼ八割減とのこと。零細な両店には、たいへんな打撃であろう。激減してしまった売上では、機械のリース代?なり電気代もままならないはずだ。店頭での対面販売はたしかに増えた。しかしおもな売上が八割も減ってしまっては、差し引きの帳尻はあわない。
 タスポにくわしい方に教えられたが、カード所持者は全喫煙者の二割弱だそうである。全国どこでも、近ごろの自販機売上はほぼ同様の低下率であろう。
 売上確保のためには、看板娘なり親か祖父母が常に店頭におらねばならぬ。いままでなら機械まかせで、適当に接客していたのが、奥での雑用も小用もままならないと、おふたりはグチを並べておられた。
 零細な業者をいじめ、カードを持たぬ愛煙家を嘆かせる、なんとも非情な制度がはじまったものである。

 ところで今日は、コンビニでタバコを二箱買った。店を出入りする客の多くが、わたし同様、タバコをまとめ買いしている。そのコンビニのアルバイト店員に聞いてみたら、「すごく売れてます」。店内を見わたすと、店員の数がいつもより多い。タバコ売上の急増に、急きょアルバイトを増員したようである。ところでこのにわか店員は、タバコの銘柄をご存じなく戸惑うばかり。「二段目の右端、はい背の高いの。マイルドセブンの1ミリロング」といわねばならなかった。
 別のコンビニ、セブンイレブンではベテラン社員に教えられた。タバコはカウンターの壁面に、130種類も並んでいる。ただ売れ筋商品は左右に並列しているので、銘柄数はほぼ百とのこと。これだけたくさんのタバコの名を覚え、間違えずに受け渡しするのは、至難の技であろう。
 銘柄の名前などどうでもいいので、タバコを番号で呼んだらどうであろう。全国一律、すべての種類に番号をつけ、箱の表面には品名とともに大きくナンバーを印刷する。カウンターでは「○○番のタバコをください」と、いえばいい。この方が、理不尽なタスポなどより、よほど理にかなっている。
 それにしても、零細業者いじめの新制度タスポは、廃止すべきである。タバコ同様、百害あって一里塚もないであろう。また今日も、京に無縁であった。
<2008年6月8日 紫煙が目と身にしみる雑記>
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更新

2008-06-07 | Weblog
 「片瀬さんのブログ、毎日みていますが、さっぱり更新されませんね」。昨晩、酒席でいわれました。そのような奇特なファンがおられるとは驚きでした。またご指摘のとおり、日々酒漬けでは作文もままならず反省するばかり。
 実は夕べ深夜、飲みながらバッグからノートを取り出し、彼女の前で書いてみました。しかし朝、さきほど読み直してみたら支離滅裂。文章というよりも、ミミズの行列でした。
 二日酔いのいま、お詫びにひとこと書いています。もう少し、酒をひかえますね。
<2008年6月7日 これから朝風呂>
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慶応3年4年の年表

2008-06-02 | Weblog
 昨日に公言しました年表を、記してみます。慶応3年は西暦1867年、翌年4年の9月8日、元号は明治にかわります。なお1867年は、ノーベルがダイナマイトを発明し、マルクスが『資本論』第一巻を刊行した年でした。

 慶応3年6月、坂本龍馬はみずからが船中で発想した大政奉還論「船中八策」を土佐藩参政の後藤象二郎に示す。
 10月14日、15代将軍徳川慶喜は「政権を朝廷に帰し奉」ると、大政奉還上表を朝廷に提出。翌日、朝廷は勅許する。24日、慶喜は朝廷に将軍職辞任を奏請した。
 11月15日、坂本龍馬と盟友の中岡慎太郎が、宿にしていた河原町蛸薬師下ルの近江屋で、京都見廻組に襲撃され龍馬は即死、重傷の慎太郎は17日死亡。
 12月9日、朝廷は王政復古の大号令を発す。小御所会議で、徳川慶喜に辞官・納地を命じることを決定。幕府廃止。有栖川熾仁親王が総裁となり、新政府が成立する。場所は当然ですが、京都の内裏です。
 12月12日、慶喜は京都二条城を退去し、大坂城に入る。

 慶応4年1月3日夕刻、鳥羽伏見で、新政府・旧幕府軍約二万が戦闘の火ぶたを切った。その後、東国に波及する戊辰戦争がはじまる。この日の夜、京都で薩摩軍の総指揮をとっていた西郷隆盛は、親友の大久保利通に手紙を書いた。実は、西郷は大久保から釘をさされていた。総大将にもしものことがあっては今後の指揮に支障をきたす、絶対に危険な前線に出てはいけないと。だが思いがけない初戦の新政府軍大勝の報告に、たまりかねて西郷は3日夜、伏見まで戦況を見に行った。
 西郷が大久保にあてた手紙は、「今日は御叱を可蒙事と相考候得共、戦之左右を承候処、たまり兼伏見迄差越、追討将軍之義、如何ニ而御座候哉、明日ハ錦旗を押立、東寺ニ本陣を御居被下候得は、一倍官軍之勢ひを増し…」
 翌4日午後、新政府は賊徒幕府軍征討のため、東寺に前進基地を設置。征討大将軍に仁和寺宮嘉彰親王、後の小松宮が諸藩に征討の旨令・軍令を下した。

 1月6日、慶喜は形勢不利をみて、大坂城を秘密裏に脱出。幕府軍艦で12日に江戸に帰着する。彼が上方から江戸に帰ったのは、実に4年2ヶ月ぶりであった。
 17日、新政府は財政基盤が貧弱で、また行政機構もほとんど体をなしていなかったが、総裁・議定・参与の下に、外国・内国・会計・海陸軍・刑法・制度・神祇の七科を設け、やっと初歩的な政府機構、内閣と各官庁を持った。
 2月9日、新政府は有栖川熾仁親王を、東征大将軍とする。前月から2月9日にかけて、京都と大坂の豊商に10万両を供給させた。
 2月12日、慶喜は江戸城を自発的に出て、上野寛永寺大慈院に蟄居。
 2月30日、知恩院・南禅寺・相国寺を、英国・仏蘭西・和蘭三国公使の滞在所とする。同日、英国公使パークスは、内裏参内に向かう途中、京都新門通縄手で襲われる。
 3月6日、京都大総督府は、15日の江戸城総攻撃を命じる。13日、旧幕府陸軍総裁の勝海舟は、大総督府参謀の西郷隆盛と会談。翌14日、ふたりは再度会談して、江戸城の無血開城に合意する。同日、天皇は御所・紫宸殿で五箇条を誓約。「五箇条の誓文」
 3月28日、新政府は神仏の混淆を禁じる。以降、廃仏毀釈の運動が盛んになる。
 4月11日、江戸城開城。徳川慶喜は水戸に退隠。
 4月吉日、大原口道標が建立された。
 5月15日、大村益次郎率いる政府軍と、旧幕府残党の彰義隊との、江戸・上野戦争、大村軍の圧倒的勝利。
 9月8日、明治に改元。20日、天皇は京都を出発し、東京に向かう。
 明治元年10月13日、天皇は東京に到着。江戸城を皇居と定め、東京城と改称する。
 同11月4日、天皇は東幸祝として東京市民に酒三千樽などを与える。

 このように慶応3年末から、京だけではなく江戸も、大波乱のクーデター、戦乱の最中だったのです。そして新政府はこの間、道標のすぐ近くの内裏、いまの京都御苑にあったわけです。全国からたくさんのひとたちが、政治軍事などに関係して、この地区に押し寄せたことでしょう。
 大原口道標は、動乱の時代を背景に製作されたのです。そのように考えれば、この道標の不可解な表示の謎のいくつかは解けそうです。
<2008年6月2日 石と話す>
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幕末維新

2008-06-01 | Weblog
 大原口道標のことを近ごろ二度、取り上げました。「石にこだわってますね」と先日、ブログを愛読してくださっている友人が、笑っていました。堅固な石が気になるのは、「意志薄弱への嫌悪か反発でしょうかね」と答えておきました。
 そういえば今日から、タバコ自販機にはタスポカードが必要。面倒なことの苦手なわたしは、カードを申し込んでいません。時代の反逆児、ヘビースモーカーのわたしは、それこそ意志薄弱の見本のようなものです。今朝はコンビニでタバコを5箱、買いだめしましたが、レジの女性に「今日はやっぱり、買いだめする薄弱者が多いですか?」と聞いてみました。答えは意外と「まだそれほどでもありません」。すると禁煙にチャレンジする意思堅固にして反逆順応する石のようなひとが、また増えたのでしょうか?

 ところで辻に超然と立つ、この謎の道標の不思議を解明する最大のカギは、慶応4年(1868)4月建立という時代世相ではないかと思います。
 当時、京とその周辺には膨大な数の兵士たちが全国から集結しました。この年の正月、鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発します。勤皇も佐幕も、江戸や地方から来た彼らのほとんどが、京の地理に暗かったはずです。
 道標の位置から向こうに見える峰、比叡も愛宕も鞍馬山も、それら山の名すら知らない他所のひとが多かったのではないでしょうか。すぐ近くの内裏御所ですら、はてなだったのかも知れぬと思います。
 建立の前年、慶応3年から翌年までの、一年足らずの出来事を年表にしてみようと思っています。おそらく退屈な羅列になることでしょうが、読み込めば何かが見えてくるのではないか、そんな気がしています。
 年表は明日掲載します。なかなかの意気込みですが、明日書くような堅固な意思は持ち合わさず、今晩書いて明朝に発信するつもりです。

 余談ですが先ほど、作庭家の重森三玲さんの本を読んでいて、花木よりも石・意思にこだわる姿勢を学びました。彼の真似をするのは困難ですが、京都吉田の自庭縁側の東角に腰かけ、「煙草盆を前にここに正座して自作の庭を眺め、紫煙をくゆらせながら思索にふける。最高のくつろぎのときだった」
 彼もまた、ヘビースモーカーだったのです。シガレットを手にする写真が数多く本には載っていました。尊敬する重森さんも、煙草を止めなかったのです。
 ただ物真似をきらい、弟子たちにもオリジナルの創造性を要求した。いろいろ教えられる本でした。
<2008年6月1日 タスポ記念日>
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