伊藤若冲[じゃくちゅう]のことは、これまで何度か書いてきました。彼は十八世紀後半に、京都で活躍した著名な画家でした。在世中、円山応挙と肩をならべる評価・人気を得ましたが、昭和前中期には忘れ去られ、やっと昭和後期になって高い再評価を得ました。そして平成になってからの若冲人気には、少し過剰で異常な、主体性のないブームを感じますが、少し冷静になった近ごろ、若冲とは何だったのか再度、考えてみたいと思います。とりあえず、あまり考究されることの少なかった、天井画をみてみましょう。これから数回にわたって連載します。興味のない方には退屈でしょうが、お許しください。
伏見深草の石峰寺[せきほうじ]は若冲五百羅漢で有名ですが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉[かき]図と款記[かんき]一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていた。しかし明治七年から九年の間に、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したのである。
石峰寺は明治初期、経済的衰退が極みに達する。江度時代、同寺の檀家はわずか数戸であった。収入のほとんどを船からあがる香燈金に頼っていた。まず黄檗[おうばく]の故郷・清国福州から長崎に来航する支那船がもたらす香燈金が、年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両であった。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合せて三百両ちかい。収入のほとんどが途絶えたのが原因の、無謀な観音堂破却、そして天井画や石造物の売却であった。
石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だった。
<2008年6月30日 再度、若冲 南浦邦仁記>