伊藤若冲は晩年、四半世紀を伏見深草の石峰寺のために捧げました。いくらか小規模になっていますが、いまも残る石像五百羅漢たちは若冲下画によります。かつては百華あふれる天井画の観音堂、千体をこえる石造物群……。この地に若冲がつくり上げた世界は、佛教パノラマのテーマパークでした。
命日である9月10日には若冲墓のある石峰寺で、毎年「若冲忌」がとり行なわれています。また昨年からは「石峰寺伊藤若冲顕彰会」も発足しました。詳しくは石峰寺ホームページをご覧いただきたいのですが、会誌に連載中の伊藤若冲年譜を分割して再録いたします。若冲ファンの入会をおすすめします。
http://www.sekihoji.com/
一七一六年 正徳六年 丙申 一歳
○二月八日 若冲生まれる(一七一六~一八〇〇)。幼名は不明。京都錦小路高倉東南角の青物商「枡屋」、通称「枡源」の伊藤家長男。父は枡屋主人の三代伊藤源左衛門(一六九七~一七三八)。母の法名明誉清寿(一七〇〇~一七七九)は近江の武藤氏の娘。父十九歳、母は十六歳だった。枡屋は錦市場の中魚屋町南側。後の画名は汝鈞、字は景和。枡屋は錦高倉市場を代表する京有数の青物の大店であった。
○五月二二日 正徳は享保に改元。
一七一九年 享保四年 己亥 四歳
○五月九日 後に若冲の親友になる大典(一七一九~一八〇一)、幼名大次郎が生まれる。字は梅荘、諱(いみな)は顕常。号は大典、蕉中、北禅、東湖など。父は儒者医家の今堀東安。近江国神崎郡伊庭郷(滋賀県能登川町伊庭)
一七二六年 享保一三年 丙午 十一歳
○八歳の今堀大次郎は父とともに京都に移った。黄檗山萬福寺華蔵院に預けられる。兄たちはすでに萬福寺で黄檗僧になっていた。
一七二八年 享保一一年 戊申 十三歳
○大典十歳。相国寺塔頭の慈雲庵に移る。父東安と旧知の学僧、独峯慈秀和尚に学び、翌年に得度し名を大次郎から顕常に改めた。しかし将来を嘱望されていた大典だが三十年近い後、四十一歳のときに寺を退隠し、十三年間も自由気ままな文人生活を送る。そして度々の帰山勧告を受け、ついに本山相国寺に戻った後は京を代表する学僧として、相国寺百十三代住持すなわち住職をつとめる。
一七三一年 享保一六年 辛亥 十六歳
○売茶翁(一六七五~一七六三)は黄檗の寺、肥前龍津寺住持を法弟の大潮元昭に譲り、この年に京へ移り住む。五十七歳。姓は柴山、号は月海、諱は元昭。七十歳からは高を姓とし、号を遊外とした。当代有数の学僧で文人書家として知られた彼は僧籍を離れ、四年後の還暦の享保二十年から、ささやかな煎茶の店、清風「通仙亭」を東山に開く。売茶翁の呼称はこのときから。その二年後の元文二年ころからは天秤棒をかつぎ荷茶屋、移動式茶店を京の各地で営む。「茶を売りて飢を助く。凡そ春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、自ら茶具を荷ひて至り、席を設けて客を待つ」「随所に茶店を開く、一杯一銭」。翁は佛法について「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている」。清貧を旨とし仙人のごとき毎日を送る市井の文人宗教家は、後に若冲にも大きな影響を与える。
一七三三年 享保一八年 癸丑 十八歳
○五月一日 円山応挙(一七三三~一七九五)が丹波穴太村(京都府亀岡市)に生まれる。応挙と名乗るのは明和二年。園城寺円満院門跡の祐常法親王の庇護を受けたときである。後に有名人を一覧した『平安人物誌』の画家の部で、若冲と応挙は常に京を代表する双璧と評価されている。ふたりが在世中に人物誌は三度刊行されているが、明和と安永そして天明年間。
<2013年9月29日>
命日である9月10日には若冲墓のある石峰寺で、毎年「若冲忌」がとり行なわれています。また昨年からは「石峰寺伊藤若冲顕彰会」も発足しました。詳しくは石峰寺ホームページをご覧いただきたいのですが、会誌に連載中の伊藤若冲年譜を分割して再録いたします。若冲ファンの入会をおすすめします。
http://www.sekihoji.com/
一七一六年 正徳六年 丙申 一歳
○二月八日 若冲生まれる(一七一六~一八〇〇)。幼名は不明。京都錦小路高倉東南角の青物商「枡屋」、通称「枡源」の伊藤家長男。父は枡屋主人の三代伊藤源左衛門(一六九七~一七三八)。母の法名明誉清寿(一七〇〇~一七七九)は近江の武藤氏の娘。父十九歳、母は十六歳だった。枡屋は錦市場の中魚屋町南側。後の画名は汝鈞、字は景和。枡屋は錦高倉市場を代表する京有数の青物の大店であった。
○五月二二日 正徳は享保に改元。
一七一九年 享保四年 己亥 四歳
○五月九日 後に若冲の親友になる大典(一七一九~一八〇一)、幼名大次郎が生まれる。字は梅荘、諱(いみな)は顕常。号は大典、蕉中、北禅、東湖など。父は儒者医家の今堀東安。近江国神崎郡伊庭郷(滋賀県能登川町伊庭)
一七二六年 享保一三年 丙午 十一歳
○八歳の今堀大次郎は父とともに京都に移った。黄檗山萬福寺華蔵院に預けられる。兄たちはすでに萬福寺で黄檗僧になっていた。
一七二八年 享保一一年 戊申 十三歳
○大典十歳。相国寺塔頭の慈雲庵に移る。父東安と旧知の学僧、独峯慈秀和尚に学び、翌年に得度し名を大次郎から顕常に改めた。しかし将来を嘱望されていた大典だが三十年近い後、四十一歳のときに寺を退隠し、十三年間も自由気ままな文人生活を送る。そして度々の帰山勧告を受け、ついに本山相国寺に戻った後は京を代表する学僧として、相国寺百十三代住持すなわち住職をつとめる。
一七三一年 享保一六年 辛亥 十六歳
○売茶翁(一六七五~一七六三)は黄檗の寺、肥前龍津寺住持を法弟の大潮元昭に譲り、この年に京へ移り住む。五十七歳。姓は柴山、号は月海、諱は元昭。七十歳からは高を姓とし、号を遊外とした。当代有数の学僧で文人書家として知られた彼は僧籍を離れ、四年後の還暦の享保二十年から、ささやかな煎茶の店、清風「通仙亭」を東山に開く。売茶翁の呼称はこのときから。その二年後の元文二年ころからは天秤棒をかつぎ荷茶屋、移動式茶店を京の各地で営む。「茶を売りて飢を助く。凡そ春は花によしあり、秋は紅葉にをかしき所を求めて、自ら茶具を荷ひて至り、席を設けて客を待つ」「随所に茶店を開く、一杯一銭」。翁は佛法について「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている」。清貧を旨とし仙人のごとき毎日を送る市井の文人宗教家は、後に若冲にも大きな影響を与える。
一七三三年 享保一八年 癸丑 十八歳
○五月一日 円山応挙(一七三三~一七九五)が丹波穴太村(京都府亀岡市)に生まれる。応挙と名乗るのは明和二年。園城寺円満院門跡の祐常法親王の庇護を受けたときである。後に有名人を一覧した『平安人物誌』の画家の部で、若冲と応挙は常に京を代表する双璧と評価されている。ふたりが在世中に人物誌は三度刊行されているが、明和と安永そして天明年間。
<2013年9月29日>