硫黄島は戦争末期に玉砕しました。島の地下に巡らしたトンネルなどに立てこもった将兵は2万人以上。新聞記事によると最近、同島地下壕の通信所で大型の無線発信機がみつかったそうです(8月20日付け京都新聞朝刊)
米軍は2月19日に上陸を開始し、摺鉢山の頂上に有名な「硫黄島の星条旗」を立てたのが昭和20年3月23日。陸海軍守備隊総指揮官の栗林忠道中将が最後の電報を本土に向けて打電後、総攻撃を命令したのが3月26日でした。
長文の電報ですが、そのなかに「国の為 重き努を 果たし得で 矢弾尽き果て散るぞ悲しき」
打電の4日後、大本営はこの電報全文を国民に向けて発表しましたが、文章は改ざんされています。散るぞ「悲しき」も「口惜し」に変更されています。
「最高指導官ヲ陣頭ニ皇国ノ必勝ト安泰トヲ祈念シツツ全員壮烈ナル総攻撃ヲ敢行ストノ打電アリ。通爾後通信絶ユ。コノ硫黄島守備隊ノ玉砕ヲ、一億国民ハ模範トスヘシ。」
硫黄島の海軍司令官だった市丸利之助少将も同様に、本土に向けて打電しています。この無線機は数年前に発見されていますが、電文は「本土ノ皆サン サヨウナラ」だったといいます。
矢弾(やだま)尽きた後の無残な突撃ですが、「矢弾」が気になります。矢玉とも書きますが、いうまでもなく鉄砲玉です。しかし矢とは何か? 内地では当時、竹槍で本土決戦をとなえていましたが、弓矢まで準備したとは聞きません。
戦国時代の言葉ではないでしょうか。種子島に伝来した火縄銃が国内で生産され、当時の戦さは刀と槍、弓矢そして鉄砲。矢弾なり矢玉は、江戸時代初期まで使われた言葉のはずです。
ところが現在でも国語辞典に載る言葉であるのは、「矢魂」(やだま)の名残ではないかという気がします。万葉の時代から、幸魂という言葉がありました。さちたま、さきたま、さちみたま、さきみたま。幸「さち」は矢(さ)と鉤(ち)。獲物をとるための霊宿る呪的な道具です。
静岡県や愛知県の方言では、猟師は幸を「しゃち」といいました。「しゃちが向いた」は、矢弾が命中した。「しゃちがきれた」は、矢弾が外れた。おそらく古くからの弓矢による猟の時代から、その後の猟銃による狩の時代、彼らは矢玉「しゃち」に霊の働きを信じていたのでしょう。
硫黄島の激戦は、DVD映画を最近にみました。『硫黄島からの手紙』『硫黄島 父親たちの星条旗』『硫黄島 戦場の郵便配達』。「戦争に英雄などいない」という米兵のせりふが記憶に残りました。
<2012年8月27日 南浦邦仁>