ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

<3・11日本> No.3 ミネラルウォーター

2011-03-26 | Weblog
 京都の友人の熊井さん、人生の大先輩ですが、彼はミネラルウォーター屋さんです。事業所は東山大文字山の中腹。毎日、何トンものミネラルウォーターが湧き出ています。
 ところが水の相場はがた落ち。大手水メーカーは2リットルボトルでも、100円ほどで売っています。零細企業の彼は廃業に追いやられました。この価格では採算に乗りません。
 今日、熊井さんに電話しましたら「毎日数トンのミネラルウォーターを谷川に捨てています。東北、関東、関西でも、必要ならいくらでも差し上げます。ただ運搬力が乏しいので、水を取りに来てください。おひとり1トンでも2トンでも進呈します」
 お問い合わせは、cdw96290@par.odn.ne.jp 南浦まで。
<2011年3月26日>


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<3・11 日本> №2 避難所

2011-03-20 | Weblog
 大災後の混乱は、まだまだ収まりません。しかし広範囲な地で、逆境にめげずに耐え、また活躍されているたくさんの方々に、こころより敬意を表し、健康とご健闘を祈ります。
 今日はわたし個人の震災体験を記そうと思います。たいした役には立たないでしょうが、わずかでもヒントにでもなれば、うれしく思います。

 1995年の阪神淡路大震災のとき、わたしは京都の支店勤務でした。被害は軽かったのですが、会社の本社は神戸です。兵庫県南部には支店もいくつかありました。地域住民も当社も、甚大な被害を受けました。
 ライフラインが途絶え、通信もままならないなか、わたしは京都の地で不便な通信網を駆使して、全体の情報収集に当たり、また社員の安否確認に全力を注ぎました。情報の一極集中、そして整理発信を計ったのです。
 そして安全確認不明者が1名になったとき、はじめて神戸市に入りました。わたしは当時、趣味が山歩き。厳寒期でしたが、装備には自信がありました。2泊でも3泊でも、自力で生きぬけるだけの水や食料、そして燃料も背に負い、神戸に向かいました。
 鉄道のレールは途絶していましたから、徒歩で中心部に入るのですが、最後まで連絡が取れなかった社員の家を訪れたとき、感動し絶句しました。ご家族全員が無事だったのです。涙がとまりませんでした。

 途中、親戚の家に立ち寄り無事を確認し、つぎに本社に向かいました。ビルは半壊状態で、正常化するにはかなりの日数が必要なことは、歴然としていました。余震が続くなか、何人もの社員が数時間も歩いて職場にたどり着き、危険な現場で手作業の復旧作業につとめています。後ろ髪をひかれる思いで現地を去り、わたしは西に向かって歩きました。
 その内、夕闇がせまって来ました。どこかに寝るスペースを確保することが必須です。マグライトとヘッドランプだけで瓦礫の残る地を歩くのは危険です。場所は神戸市長田区でした。大災で燃え尽きた一帯の隣地です。
 避難所として利用されている中学がありました。事務室を訪れ、「水食糧や寝袋などは持っています。教室や体育館のみなさんには迷惑をかけられません。1階の廊下で寝かせてください」
 宿泊の了解を得て、校舎入り口横の床に寝場所を確保しました。そして「何かお役に立たねば」。わたしはささやかなボランティアであっても、一匹狼いや一匹狸クラスです。どこの組織にも属しておりません。
 「いま何ができるかしら?」。校庭とその周り、そして学校内の廊下などを歩き回りました。決めたのが、「階段と廊下のお掃除をしよう」ということ。臨時住人のみなさんは、そこまで手が回らないのです。
 掃除用具を借り、数時間かけてゴミを集めて回りました。避難者の全員が「ありがとう」、そして頭を下げてくださいます。わたしはたいしたことをしている訳ではなく、一宿の恩にささやかに報いただけなのです。

 翌朝、校庭で焚き火にあたりながら、みなさんと話し、避難所の課題や問題点などを、いろいろ教えていただきました。そしてこれが機縁となって、わたしは仕事が連休ごと、神戸長田のこの中学へ、京都から何度も通いました。
 
 3度ほど通ったころ、これからの行動方針を決定しました。「よし。避難所に本をプレゼントしよう!」。現地には本がないのです。
 ほかの避難所にも歩いて数カ所、訪れました。「本を送りましょうか?」。どこでも「ほしいです。送料・本代とも負担がないのなら、お願いしたい」。すべての避難所が同じ返事でした。

 わたしは京都から発信しました。「避難所に本を贈ろう。ご自宅の本、京都の○○までご持参いただくか、宅配便元払いでお送りください。当方から責任を持って、阪神間各地の避難所に本を届けます」
 たくさんの方々のご厚意で、一万冊以上の本を被災地に送ることができました。今回、再度、この運動をやれないか?
 しかし関西と東北、距離があり過ぎます。また現在のわたしは、自由に行動する条件に恵まれていません。作業スペースも宅配料も必要です。しかし実行したい…。

 ご意見や提案などなど、お聞かせくださる方があれば、うれしいです。実行には広域のチーム結成が必要のようです。ホームページの開設も必要でしょう。避難所リストや現地情報も必要です。

 被災地のみなさん。みんなで気張りましょう。世界中が応援しています。「ガンバレ日本!」
<2011年3月20日>
※前回のタイトル「地震・津波・原発」を改題し、連載「3・11 日本」とします。

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地震・津波・原発

2011-03-13 | Weblog
 想像を絶する大地震そして大津波。犠牲者と遺族の無念を思うと、いたたまれない。まだ救出されていない被災者、負傷者や避難しておられる方も膨大な数である。かつて阪神大震災に直接間接にかかわったひとりとして、東日本大震災は他人事ではない。そして昨日になって、福島原発爆発の驚くべきニュースが報じられた。
 昨晩、友人から転送メールが届いた。同報でたくさんのひとたちに送られた文面である。以下、ご紹介します。

 <関西電力に勤務している友人から、メールが送られてきました。ご協力頂ける方はよろしくお願い致します。以下が内容です。/関西地区にお住まいのみなさん。東北三陸沖大地震に伴い、関西電力が東北電力への電力提供を始めました。少しの節電でも立派な支援になります。電子レンジや炊飯器など、普段さしっぱなしのコンセントを今日だけでも抜き、一人一人が出来る節電のご協力をお願い致します。このメールをできる限り広め、節電による送電の支援が出来ればと思いますのでご協力よろしくお願い致します。>

 そして直後に、追伸メールが届きました。
<私の友達が関電のお友達に聞いたら、イタズラメールらしいわ。関電ではこういうメッセージは出してないらしいです。このメールの問い合わせが多い為、サーバーも落ちているらしいです。本当に必要なら、テレビで言うらしい! 関東と関西ではヘルツも違うし、ヘルツ変更にはかなりの電力がいるらしいです。 オリーブ>

 第1発信者がどなたなのかは不明ですが、誤報ですが悪意はあまり感じられないように思います。確かに、東電・東北電・北海道電力は50ヘルツ。中部電・関電などは60ヘルツ。北海道から東北への送電は可能だそうですが、中部からは東部へほとんど送電できない。周波数変換の機器能力不足のため、期待できる電力量はわずかだそうです。
 東電と東北電は電力が大幅に不足しています。福島第1第2原発は、東京電力の総発電量の20%をまかなっていたといいます。両原発の運転中止の影響は大きい。

 ところで今朝の新聞をみると、原発爆発について、さまざまのコメントが紹介されています。かつて中越沖地震で損傷した東電柏崎刈羽原発などを担当(監督?監視?)する、新潟県原子力安全対策課長は「ニュースを見て全身から力が抜けた。止める、冷やす、閉じ込めるという基本ができていないなんて」と絶句した。

 石橋克彦氏(神戸大学名誉教授・元建設省建築研究所室長)は、
 「福島第1原発は、原子力安全・保安院と原子力安全委員会が、最新の耐震設計指針に照らしても安全だと09年に評価したばかりである。全国の原発で政府は地震を甘くみているのだが、原子力行政と、それを支える工学・地学専門家の責任は重大である。/日本国民は、地震列島の海岸線に54基もの原発を林立させている愚を今こそ悟るべきである。3基が建設中だが、いずれも地震の危険が高いところだから、直ちに中止すべきだ。運転中の全原子炉もいったん停止して、総点検する必要がある。」

 今回の大災害地から遠く離れているわたしですが、出来ることはわずかでも、行動を起こそうと決めました。とりあえず電力やさまざまのエネルギー、そして多様な資源の使用量を減らします。わたしたちの無駄な、あるいは過剰なエネルギー消費が電力などの不足につながり、あまりにも危険な原発を安易に受け入れてしまった。超大災を機会に、思考と行動を変化させたいと思っています。
<2011年3月13日> 震災関連記事を連載とし、タイトルを<3・11 日本>、今回を第1回とします。3月20日

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天狗談義 №9 天狐と皆川淇園

2011-03-06 | Weblog
『図説・日本未確認生物事典』という実にユニークな本に出会いました。1994年刊ですが、わたしが手にした98年版はなんと7刷。現在ではもっと版を重ねていることでしょう。
 同書で天狗や狐をみていましたら、幕末に書かれた相川鼎著『善庵随筆』が紹介されていました。現代語要約で孫引き転載します。

 下総の大杉神社などの真影をみると、小天狗、すなわち鳥天狗が、狐の背にまたがったり直立したりした像がいろいろとある。天狗は『日本書紀』にある通り、狐と縁が深いのであろう。僧旻(そうみん)が言った通り、天地を響かせた怪奇現象は流星ごときものだが、天狗の仕業であり、アマツキツネという。
 さすれば天狗を天狐というのは、必ずしもわたしの創説ではなく、古人に早くからこの説があり、「あまつきつね」と訓したのである。最近、皆川淇園(きえん)著『有斐斎剳記』をみると、野狐(のこ)もっとも鈍、その次は気狐(きこ)、次は空狐(くうこ)、そして天狐(てんこ)。気狐以上は皆、その形がない。天狐にいたっては、神化を計ることもできない。また天狐は人に害も及ぼさない。「空狐はすなわち天狗なり。かれこれ合わせ考えれば、天狗の狐たること疑うべからず」

 相川氏が百年以上も前に指摘しておられる通り、天狗と狐、両者は離れられない深い関係が、延々と続いたようです。修験道の本尊画像には、キツネの背に立つ鳥天狗が多い。右手に握った剣を立て、人身ですが背には双翼、口は猛禽類同様の鉤嘴(かぎくちばし)、頭には山伏の兜巾(ときん)がある。まるで鳥天狗の不動尊です。
 キツネについては、稲荷信仰が習合したという見解がありますが、天狗と狐の関係は、もっと古いのではないでしょうか。ちなみに狐が人に取り憑くと、祓い、浄霊除霊のために山伏がよく呼ばれていました。

 ところで野から天まで、狐の種類を記した皆川淇園(1734~1807)ですが、京都の儒者・文人として、18世紀後半から19世紀はじめにかけて大活躍した人物です。京都の文苑ネットワークのキーマンで、売茶翁亡き後の都の文化を牽引した偉大な人物です。
 門人3千人といわれたほど、彼の評価と交友は幅広い。例えば画家をみても友人は、円山応挙、池大雅、呉春、伊藤若冲、長澤蘆雪…。大典和尚も親友です。
 『雨月物語』などを著した上田秋成は淇園と同年の生まれですが、晩年の淇園のことを記しています。「いつ会っても『どうじゃ、おやじ』となぶられる。淇園は髪が黒く、歯も抜けていず、杖もいらず、眼のいいことも自慢する」。いつまでも若々しい淇園と比べ、秋成は自身の老いを嘆いています。しかし皮肉なことに、秋成は2年、淇園よりも長生きをしました。
 淇園の墓は、寺町通今出川上ルの阿弥陀寺にありますが、長文の墓表は淇園の弟子だった松浦静山が記しています。静山は名著『甲子夜話』を残しました。

 淇園の発案で1792年から、東山「新書画展観」と名付けた書画展覧会を毎年2回開催します。多いときには400点近い作品が集まったといいます。
 96年9月には東山の瑞寮で開催されましたが、81歳の若冲は絹本「五百羅漢図」を出品しています。署名は藤若冲。
 総出品点数は212点。出品者は、応挙・呉春・蘆雪・松村景文らの円山四条派の絵師はいうまでもなく、若冲・岸卓堂・原在明・土佐永詮・鶴沢探索ら京の絵師。そして大坂の中村芳中・墨江武禅、江戸の谷文晁、蝦夷松前の蠣崎波響(かきざきはきょう)、琉球太夫毛俊臣など「海外諸方ノ人」まで、実に97人が名を連ねる。京以外が内40名。年齢をみると、井上吉久百十翁、十歳女武市師もある。
 そして1798年4月、長澤蘆雪(1754~1799)は「方寸五百羅漢」を出品した。安喜生という人がこの小品を入手したのですが、3センチ四方ほどの小片に蘆雪は五百羅漢と動物たちを描いたのです。
 淇園が記した「安喜生の小幅五百羅漢図を得る事を書す」という一文が残っています。「方寸幅中に五百羅漢を作る。おおむね皆、全身にして、獅象竜虎の属もまたその中に兼備す。そしてその到細極微の間、物、その態を尽し、筆、その気を完うす。真に一奇観なり」。いかにも長澤蘆雪らしい茶目っ気です。彼はオランダから渡来して間なしの顕微鏡で蚤(のみ)を観察し、これを大きな画布に描いたりもしています。
 淇園と蘆雪は特に仲がよく、度々祇園あたりで飲んだくれていたことでも知られています。

 ところでこの3月12日土曜から、美術展<長沢芦雪 奇は新なり>が開催されます。近江・信楽「MIHO MUSEUM」にて6月5日まで。南紀・無量寺の襖絵「虎図」も来ますが、全110点、初公開40点以上。なんともすごい企画です。わたしにとっておそらく、今年最高の美術展になりそうです。
 なかでも驚くのが、幻の「方寸五百羅漢図」の登場です。この極小作品は百年近くも行方不明だった奇画です。昨年に発見され、久しぶりの顔見せ。本当に、楽しみです。
 <2011年3月6日 南浦邦仁>
 参考図書
 『図説・日本未確認生物事典』笹間良彦著 柏書房 1994
 『淇園詩文集』近世儒家文集集成第9巻 皆川淇園著 高橋博巳編 ぺりかん社 1986
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