ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

河合寸翁と酒井抱一(3)サギ山

2024-07-27 | Weblog

 「鷺山」に続いて、今回は「サギ山」を取り上げてみます。姫山の西はサギ山だった時期がかつてあったのではないか。そんな思いです。なお、鷺山、さぎ山、サギ山を区別したく、鳥サギのコロニーは「サギ山」と表示します。

 シラサギは小さい順に、コサギ、チュウサギ、ダイサギ、大中小三種がこの国に住んでいます。

サギの仲間は、シラサギ以外のサギもいくらか含んで、多種混合のコロニー・集住生活共同体・集団繁殖地を構えます。この集団の樹林は「サギ山」と呼ばれます。この森ではシラサギが圧倒的に多いのですが、混住して一緒に生活する真っ白ではないサギは、アマサギ、アオサギ、ゴイサギ……。多種同居を許すシラサギは、偏見がなく、結構こころが広いのでは。

 たくさんのサギで真っ白になったサギ山を、遠目に見て美しいと思う。樹上は雪が積もったようです。しかしサギ山周辺に住んでいる人々はたいへんです。住まいの山に向かうサギたちは、途中、糞を落としたり、山の中からは魚類の腐った臭いが風にのって住宅地に漂ってくる。

 

 埼玉県の浦和に有名な「野田のサギ山」がありました。壮大なサギの集団営巣地、コロニーでした。江戸時代、サギ山一帯は紀州徳川家の鷹場で、地区広域は特別に保護された。またここは、歴代将軍の日光参拝の経路であり、見事に白一色に群生するサギをめでている。

 保護は明治期以降も続く。明治20年には御陵場指定。明治31年には禁漁区に。大正期には禁猟期間の延長。昭和5年、鳥獣保護区。昭和13年に天然記念物。昭和27年、国の特別天然記念物に指定。昭和32年が最盛期だが、調査では営巣数6000、親鳥1万羽、ヒナ合わせて総数3万羽。なんともすごい数です。しかし数年後からサギは減少し、昭和47年から営巣を確認できなくなってしまった。サギ山は消滅してしまう。昭和59年、特別天然記念物指定解除。消滅の原因はさまざまいわれていますが、いくつもの要素が、複層しているのでしょうね。

 

 実は、わたしはサギのコロニーに踏み入ったことがあります。野生サギの樹上生活を写真に撮るため。当時は高校生1年生で、写真に夢中だったのです。しかし無謀でした。サギたちは侵入者のわたしを警戒し、ギャーギャーと大きな声で泣き叫ぶ。それだけなら我慢もできるが、かれらの武器は糞。下痢のような糞を、中空から次々と降り落としてくる。すごい臭気です。

 彼らは巣を営んでおり、雛も含めれば、おそらく数百羽のコロニーだったのでは、と思います。平地の共同体で、丘や山ではなかったのですが、当時この一画を地元民も「サギ山」と呼んでいたと思います。ところで撮影した写真ですが、実は1枚がある展覧会に、最年少入選しました。せめてもの救いです。多少の冒険はやるべし、か。えへん。

 

 それから、「鶴山」と呼ばれた松林がかつて存在しました。生息する鳥はツルではなく、かつて全国にたくさんいたコウノトリです。ツルは脚では、木の上に立てません。彼らはいつも地上で生活しています。江戸期の絵をみると、松樹にたくさんの白い鳥が止まっています。ツルと錯覚しているようですが、鳥はサギでもなく、コウノトリです。

「松に鶴」をめでたいとする風習信仰が、似非タンチョウヅルをあえて松の樹上、図上に無理やり載せたのだろう。

 いずれにしろ、コウノトリもサギ同様に、樹上の集団営巣地に住む。遠目には「鷺山」も「鶴山」も、似たようなものかもしれません。コロニーの規模は、だいぶ異なりますが。

 害鳥と益鳥の区分けですが、ツルとツバメは保護鳥。コウノトリは田を荒らす害鳥とされ、狩猟対象になり駆除されました。またツルだと誤解され、食肉用にも捕獲されたのではないでしょうか。ちなみに害鳥のスズメも嫌われました。

 1986年には保護飼育されていた最後のコウノトリが死去。日本在来種は絶滅してしまいました。しかしその後、ロシアから譲り受けた個体を豊岡市で飼育。その子孫たちは、いまでは二百羽以上が、本州各地を自在に飛び回っています。

 

 余談ですが、スズメのために、害鳥指定の名誉回復をしておきます。1950年代、中国では毛沢東が命令した国民運動で、ほぼすべてのスズメが捕獲されてしまったのです。スズメは大切な穀物を食べる害鳥とみなされて、捕獲されてしまいました。しかし彼らは昆虫を好んで食する、実は益鳥だったのです。スズメの益は害を上回るといいます。

 スズメたちがほとんどいなくなった中国ではイナゴの害、大蝗害(こうがい)が起こりました。凶作から飢饉に襲われ、数千万の国民が餓死したと伝えられています。中国はこの政策の失敗を認め、なんとソ連から25万羽の元気なスズメを輸入したそうです。生態系を軽くみると失敗する、見本のようです。

 日本のコウノトリ復活も、ロシアからの輸入鳥。助けてもらいました。さらに、佐渡ヶ島のトキは絶滅しましたが、中国から贈られた鳥が増え、20数年がたったいまでは500羽以上が野生化しています。感謝。

 

『日本の野鳥100』叶内拓哉 新潮文庫 1986

『鳥と人間の文化誌』奥野卓司 筑摩書房 2019

<2024年7月27日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(2)白鷺城

2024-07-24 | Weblog

 姫路城は別名「白鷺城」。ともによく聞く名前です。しかしなぜ「シラサギ」城なのでしょうか。わたしなど、子どものころから見慣れているこの郷土の宝を、白いシラサギの姿のように、清楚で美しいお城と自慢でした。日本国中探しても、これほど美しく優雅なお城はないに違いない。少年の確信でした。

 姫路城の本をあれこれ読みました。その美について、白漆喰総塗りごめ造りの白壁におおわれ、その姿は白鷺の名にふさわしいとの意見にはうっとりします。

 壁はすべて、さらには垂木、ひさし、窓、窓枠、石落とし……、外から見える姿で、瓦以外すべてを真っ白に塗り上げた美しさは、徹底している。

 この城の美は、連立式天守群と低く長くのびる西の丸。この絶妙な組み合わせによって完成した。池田輝政がまず天守群を築き、つぎに本田忠政が西の丸や三の丸などを完成させた。

 三の丸本城は大手門を入って西側。現在は東側も同様に、芝生を張った広大な広場です。ここあたりには、かつては、いくつもの館が並んでいました。贅を尽くした桃山風の居館、武蔵野御殿(菱の門に行く道の南側)。また三の丸本城の東には迎賓館の向屋敷があった。広い庭園もあった。

 また城主の下屋敷としての東屋敷、いまの護国神社あたりにあった家老ら重臣たちの御用場、すなわち執務場があった。しかし明治になって、陸軍がこれら用地をすべて接収してしまい、建物の痕跡はなくなってしまいました。

 池田輝政の後、本多忠政が造った第2期工事の事績は、西の丸以外、すべては陸軍に完全征服されてしまった、といえる。本多忠政は、池田輝政のし残した造営を、自らの縄張りで完成したのだが。

 ところで白鷺城の呼び名は、鳥のシラサギの姿からか。わたしは少年時からそう思い込んでいましたが、どうもそうではないようです。研究者の見解をみると、

 城の立つ小山全体を姫山と呼ぶ。あるいは鷺山ともいうようだ。別の見解では、鷺山の呼称は姫山の西半分を指すという。そして白鷺城の呼称は、この「鷺山」から来たのであり、鳥のシラサギからではない。

 さて、このような見解をいくらか目にすると、「鷺山」のことを調べたくなりました。先達の「鷺山」記述例を、<近世>から<近代><現代>へと時系列で列挙してみます。

 

<鷺山 近世>

 

姫山の地は住古、富姫の館舎であって、この山の地を姫山という。…姫山は古記によると、刑部社、富姫の社、角岳国社の社等、なお姫山の鎮守たり。/[「姫路古図」に、姫山の隣に「鷺山ト云フ」。後世の制作ともいう]『府中めぐり』芦屋道海 天正4年1576

 

姫山の頂下、西ノ脇を鷺山と号す。/『播磨鑑』平野庸脩 宝暦13年1763/[姫山に最初に城を築いたのは、赤松貞範だという説があります。それも鷺山に、貞和2年1346年。真偽について意見は分れています]

 

富姫君播磨へ、マヨヒ下され、鷺山の本館に御入り……刑部親王を姫山にまつる説實とすべし。(姫山小刑部社)

富姫は播磨に下り、鷺山に居たまう。ここを姫山という。(姫山大明神)

姫山 鷺山城という 桜本重俊(姫路名所歌)/『播州姫路考略記』天川友親 宝暦10年1760

 

姫山 鷺山の城という、往古富姫の舎地。播磨なるここ、富姫の山の名は永き代々にも残りけるかな(梅本重俊)/『播州姫路考略記』の桜本重俊と同一人物か。『播陽万宝智恵袋』天川友親 宝暦10年1760

 

[西の丸と三の丸居城との中間の登り口の門を「鷺山口門」と称した。位置は西の丸南西部、ほぼ角地。この門は、いまはない]。/酒井家蔵『姫路侍屋敷図』文化年間1804~1818

 

鷺山へ女坂御通云々/『姫路藩集書』

 

<鷺山 近現代>

 

姫山の一名を鷺山と呼ぶ。古来この城を呼んで姫山の城、または鷺山の城という。今、白鷺城と称するのは、この鷺山に出たもの。……鷺山の呼称は、姫山の一部分にして、その西部の称ではないかとも考えられる。この件を、にわかに断定することはできぬ。/『姫路城史』上巻 橋本政次著 昭和27年 臨川書店

 

慶長6年、池田輝政による地形の造成がまず始められた。そして本丸・二の丸が築かれる「姫山」と、(後に本田忠政によって)西の丸が設けられる「鷺山」の造成工事(元和4年1618~)……/『日本城郭大系』第12巻(姫路城)昭和56年。

 

姫山と鷺山のふたつの小山の上にそびえる。/『ひめじ』市教委編発行/昭和54年

 

本多忠政から見て、鷺山が無防備なまま放置されていた。池田輝政はなぜか、この小山には防備の施設を構えなかった。/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

姫山の高さが45.6メートル。ピーナツ型に姫山と鷺山がつらなる/『姫路城を彩る人たち』「本田忠政」寺林峻 神戸新聞総合出版センター2000年

 

千姫の化粧料として10万石を加えられた本多家は、鷺山と呼ばれていた西の丸の高台整備に取り掛かった。武蔵野御殿に加え、忠刻・千姫夫妻、その取り巻きたちの櫓や居室を増築した。/中元孝廸『姫路城 永遠の天守閣』2001年 神戸新聞総合出版センター

 

天守閣の建つ姫山。それと連なっている丘が鷺山で西の丸の所だ。/『たゆらぎ山に鷺群れて』市川宏三2007年 北星社

 

「♪ 鷺山に秋の夜は更けて 城楼照らす松の月…」(鷺山に秋 栗山粛夫詩)/『旧制姫路中学校歌』

 

 鷺山についていくらか見ましたが、鷺山は姫山の西半分、現在の西の丸あたりをいう。かつて、この広い西の一帯を「鷺山」と呼んでいた。そのように判断して、間違いはないはずです。

 説得力のある記録のひとつは、酒井家蔵『姫路侍屋敷図』です。城を中心に作成された、本来極秘の精密な平面図です。「鷺山口門」は小さな門ですが、はっきり描かれています。

 この地図の制作は文化年間(1804~1818)。家老河合寸翁が、藩主酒井忠道から全権を任されたのが、文化5年でした。このような門外不出の貴重な図面は、河合寸翁の指示で作成されたのではないでしょうか。

 なお酒井家蔵複製図は、いまも見ることができます。『姫路市史』第14巻付図。現在、門はありません。

 

 姫路城を「白鷺城」と呼ぶのは、ひとつには「鷺山」という名の記憶が、延々と水面下で継続し定着していたからではないか。そして池田輝政と本田忠政の築城以降、シラサギの優美な姿が白い城郭に重なったのでは。そのように思っています。

 池田輝政と同じ場所に、天守閣をまず築いたのは、豊臣秀吉でした。天守は三重四階建て、工期は天正8年4月より翌9年3月。わずかちょうど1年で終わったという。この頃は毎日が戦戦戦の時期です。工事は急ぎます。外壁を白壁にするなどという余裕はなかったはずです。秀吉の城は、「姫山城」と呼ばれても、「白鷺城」はありえない。呼称「鷺山城」もないはずです。

<2024年7月24日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(1)連峰の麓

2024-07-15 | Weblog

 連載をひさびさに再開しようと思います。ただ例によって、書籍や資料を読みながら進めます。ほぼ知識ゼロからのスタートだけに、牛の歩みのごとくになる覚悟。

 まずこのブログのタイトル、播州の山麓から開始します。姫路城の南東4キロメートルほどの位置に、三山の小さなかたまりがあります。至ってローカルな話題ですが。

 

 この低山のひとつが、姫路酒井藩家老の河合寸翁(すんのう)と密接なつながりがあります。

 そして江戸で活躍した画家・文人の酒井抱一は、姫路藩城主・酒井忠似(ただざね)の弟でした。また抱一と寸翁は同じ姫路酒井藩に属し、ほとんど同じ時代を生きたのです。

 河合寸翁:明和4年~天保12年(1767~1841 75歳)

 酒井抱一:宝暦11年~文政11年(1761~1828 68歳)

 

 『播磨国風土記』は奈良時代、いまから1300年ほど前に編纂された。ここに「継の潮」(つぎのみなと)があったと記しています。近ごろ周辺部で、大規模な発掘調査がありました。しかし肝心の港が推定される地帯は、すでに住宅が立ち並び、想像で判断するしかない。だが倉庫の痕跡は数多く発掘され、かつて継の港では、しきりと荷の積み下ろしがあったとみなされます。

 この地域、継地区の背後には、東の峰「船橋山」122mがあります。想像ですが、麓の川や港に、船を連ねて橋とした。この推察にわたしは賛成です。船橋山には海と関係の深い住吉神社もあります。

 

 三連峰の中央は「麻生山」(あさおさん)172m。

 均整の取れた姿から、「播磨小富士山」の愛称があります。播磨灘を航行する船からは、小さな富士のかわいい姿は愛されたことでしょう。

 この山には神功皇后や大己貴命(おおなむちのみこと)、別名、葦原醜男・大国主命などの神話伝説が、たくさん残っています。麻生の語源は、葦男山からか。

 また急峻な岩場もあり、修験道の山でもありました。山伏の山岳信仰もかつては強固な山です。山頂には行者堂「華厳寺」もあります。しかし、行者の高齢化のため、無住寺であり宗教行事も休止になってしまった。ちなみに急峻な岩場は登攀禁止だが、山道はハイキングコースです。

 

 そして西の峰が「仁寿山」(じんじゅさん)175mです。旧名「幡下山」(はたしたやま)。

 酒井家の姫路藩は膨大な負債を抱えていました。文化5年時点で73万両に達した。それを家老河合寸翁は、十数年にして奇跡的に解決してしまいました。

 そして藩主酒井忠実より幡下山を拝領。寸翁は山名を「仁寿山」に改めます。仁寿は『論語』によります。「知者は楽しみ仁者は寿し」。寿し、いのちながし。

 寸翁は、私学「仁寿山校(黌)」を山麓に開学します。校舎は数十棟もあり、収容は原則2人1部屋の全寮制で、150名ほどが寄宿できたといいます。晩年の寸翁は教育に全力を注いだのです。

 なおこの仁寿山は、姫路でいちばん有名な山のようです。理由は山頂。テレビ電波塔が、10基ほどもそびえ立っています。塔は姫路平野の四方八方から目撃できます。ちなみに仁寿山校は、南麓にありました。

<2024年7月15日>

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日本列島襲来・17大津波の各地高

2024-06-29 | Weblog

 この連載欄で12年ほど前、津波の高さ記録を載せました。過去300年ほどの間に日本列島を襲った17大津波、高さ3ないし5メートル以上の各地記録の一覧表です。結構時間をかけて作成した一覧表ですが、残念ながらあまり注目されなかったようです。しかし各地域で生活されている住民の方々には、きっと何らかの形で参考になろうと思い、いくらか書き換えてまたもや再録します。

 なお2011年3月11日の大津波については、5メートル以上のみを記しています。また岩手県と宮城県の記録もすべて5メートル以上に限定しました。あまりにも膨大な表になってしまうためです。ご容赦ください。その他の地域は3メートルを掲載。

 ただ注意すべきは、ここに記したのは1703年以来、わずか300年間ほどの記録です。歴史文献に津波高の記載は残っていませんが、最近注目された869年の貞観津波は東北地方東部に甚大な被害を及ぼしています。

 津波高の記録は不明ですが、1498年の明応津波、そして1605年の慶長津波も東海沿岸にたいへんな災害をもたらしています。

 そして地質学の調査、津波考古学も新しい発見をもたらしつつあります。古くは2000年ほど前の弥生時代、とてつもない巨大津波が南海から東南海地方を襲撃しています。下記300年間の記録はいつか間違いなく更新されます。

 

<注1> (数字)は福嶋第1原発近隣の測定値。

 東京大学大学院の藤槇司教授(海岸工学)研究グループが福島県と共同で、福島第1原発に近い地域の津波痕跡調査をはじめて実施した。南相馬市から県南部の楢葉町までの警戒区域約40キロの28カ所。 調査期間は2012年2月6日7日。 (数字)はその発表波高。<2012年2月19日報道>

 

<注2> 「数字」は中央防災会議発表の推計値。

 内閣府中央防災会議は南海トラフ巨大地震による津波高推計値を発表しました。10メートル以上を追記します。「数字」はその推計値です。これまでの予想値をかなり上回ります。たとえば高知県黒潮町 34.4メートル。<2012年4月1日報道>

 

<注3> 【数字】は内閣府発表の被害想定。

 内閣府は昨日、南海トラフ巨大地震津波の被害想定を発表しました。市町村別想定津波高2m以上がホームページ「内閣府・防災情報のページ」に載っています。「南海トラフの巨大地震に関する津波高・浸水域、被害想定の公表について」2012年8月29日発表、「都府県別市町村別最大津波高一覧表<満潮位>」。 2m以上ですのでたくさんの市町村が並んでいます。あまりに多すぎますので、今回は4月と同様、10m以上のみを【数字】で表示します。   ぜひ内閣府ホームページをご覧ください。これまでほとんど注目されていない地域が載っています。たとえば瀬戸内海沿岸では、大阪府4~5mが多い。兵庫県淡路島6~9、尼崎西宮芦屋市各5。岡山県、広島県各地4。山口県各地5。被害予想は32万人以上が死亡、その7割が津波被害といいます。とんでもない数です。<2012年8月30日報道>

 

 

一覧表の記述について、

 (数字)/福嶋第1原発近隣の測定値。

 「数字」/中央防災会議発表の推計値。

 【数字】/内閣府発表の被害想定。

 

 下記アルファベットは順不同ですが、各津波に対応しています。

※印は遡上高ですが、無印でもいくらか遡上高を含んでいます。

 

 

A 宝永津波          宝永4年10月4日  1707年

B 八重山津波         明和8年3月10日  1771年

C 安政東海津波       安政1年11月4日   1854年

D 安政南海津波       安政1年11月5日   1854年

E 明治三陸津波       明治29年6月15日  1896年

F 関東大震災津波      大正12年9月1日   1923年

G 昭和三陸津波       昭和8年3月3日    1933年

H 東北地方太平洋沖津波   平成23年3月11日   2011年

J 東南海津波         昭和19年12月7日  1944年

K 南海津波          昭和21年12月21日  1946年

L 昭和27年十勝沖津波   1952年3月4日      1952年

M 新潟津波          昭和39年6月16日  1964年

N 昭和43年十勝沖津波   1968年5月16日     1968年

P 昭和58年日本海中部津波 1983年5月26日     1983年

Q 平成5年北海道南西沖津波 1993年7月12日    1993年

R チリ津波           昭和35年5月22日  1960年

Z 元禄津波          元禄16年10月23日   1703年 

 

 

北海道

<浜中町>幌戸R3 浜中R3.9 霧多布R4.2 L3.2

<厚岸町>門静R4.1 L3.9 厚岸L6.5

<釧路町>昆布森L3.1

<釧路市>音別町キシベツH5.7

<白糠町>白糠R4

<広尾町>タンケソG6 浜ハンペG3.6 音調津G4.6 モイケシG4.6 タニイソG4.6

<えりも町>咲梅G6 ドンドン岩G9.1 トセップG9.1 ルーランG5 千平G4.6 苦別G3 小越E3.6 G4.6 襟裳崎G3.6 歌露G4,6 歌別G4.6 幌泉E3 G3 猿留E3.6 庶野E3.6

<様似町>冬島L3

<積丹町>幌武意P3.1

<神惠内村>珊内Q4.2 神惠内Q4.4 南の入り江Q4.7 盃K3

<泊村>渋井Q3

<岩内町>岩内港Q3.5 敷島内Q3.3 港尻別川河口左岸Q3.3

<寿都町>歌島Q4.6 歌島川河口北Q4.9

<島牧村>島牧村漁港外Q6.1 栄磯Q3.9 豊浜漁港外Q5.7 永豊Q5.1 千走Q10 千走川河口右岸Q4 元町漁港内Q3.9 原歌Q4.6 栄浜漁港Q3.6

<せたな町>太櫓小学校Q5.9 太櫓言主神社Q6.7 大田Q6.5 宮野Q6.1 平浜Q6.6

<松前町>松前湾P3.5 小島P3.2

<奥尻島>勘太浜稲穂岬Q7.2 稲穂Q9.7 海栗前Q9.1 海栗前‐滝ノ間Q6.8 美ノ歌‐磯谷岬Q5.9 磯谷岬‐蚊柱岬Q5.7 幌内Q6.5 北国岬‐穴澗岬Q7.4 屏風立岩‐神威脇港Q5.7 神威脇港P4.6 Q6.3 神威脇鴨石トンネル南Q6.4 神威岩P4.9 神威岩‐モッ立石Q7.7 湯浜モッ立石北Q10.8 湯浜ホヤ石P6.5 Q12.2 ホヤ石対岸Q17.6 藻内ホヤ石岬Q31.7 藻内無縁島対岸Q15.8 藻内川南Q16.1 米岡西Q21.8 砥石民宿寺屋敷Q22.2  奥後空港南Q12.3 青苗西海岸Q15.3 青苗集落センターQ8 青苗右股川河口Q10 青苗橋東神社前Q9.7 初松前赤川河口Q11.3 初松前Q19.2 初松前‐松江Q13.6 松江郵便局Q8.3 長浜‐恩顧歌Q5.3 赤石南Q4.2 奥尻谷地Q3.3 奥尻港北Q4 仏沢‐球浦川Q7.5  球浦川自治振興会館Q6.4 球浦‐東風泊Q6 宮津漁港北Q3.4 藻内P6.1 群来岬P6.9 青苗P5.2 青苗岬P3.7 富里P6.5 松江P3.2 下カカリ岩P3.6 奥尻P3.3

 

青森県

<三沢市>三沢漁港H7.4 砂森H 6.5 四川目H9.3※10 G4.5 六川目H5.8 G4.5 二川目G4 淋代H5.4 織笠H5.7 三沢塩釜H5.3 五川目H7.9 天ヶ森H5.1 細谷H5.7 ミス・ビードル号記念広場H9.5※10 三林代G3 

<七戸町>白石港N4

<おいらせ町>市川漁港H8.3 深沢地H8.8

<八戸市>八戸港H9 八戸港八太郎公園H5.8 八戸新港H5.5 鮫漁港E3 H5.6 鮫町種差R4.1 白浜海水浴場 H8.7※9.3 新湊H5 種差漁港H8.5 種差津N3.3 北沼N4.1 大久喜N3.3 橋向G3

<階上町>大蛇漁港H10.7 大蛇G6 小船渡E6 G4.5 追越G6 N3.1 榊N3

<中泊町>保内P3.3 小泊港P5.3

<五所川原市>十三湖P6.1

<鰺ノ沢町>出来島P3.8 川尻P4

<深浦町>桜沢P3.6 田野沢P4.7 目民木P4.3 風谷瀬P4.4 轟木P4.2 広戸P3.7 町内P3.3 太間P4.4 舟戸作P4.5 沢辺P3.4 村内P4.2 森山P5.1 黒崎P4.9 大間越P4.6 木蓮寺P5.9

 

秋田県

<八峰町>須郷岬P6 岩館P5 滝ノ閣P8.1 中浜P11 東八森P11.5 峰浜P12.9 水沢川河口左岸Q3.4

<能代市>河口P7.8 黒岡P7.1 落合浜Q3.1

<男鹿市>若美P6.6 神谷P5.5 北浦3.1 西黒沢P5.1 入道崎P5.9 戸賀湾P3.2 賀茂青砂P3.3 門前P3.4

<秋田市>下浜P4.7

<潟上市>天王P3.6

 

岩手県

<洋野町>種市海浜公園H5.5 種市H6.1※13.8 種市川尻E12 G7 陸中八木E10.7 G6 H※10 小子内E20 G6.6 大浜G7 中野G7

<久慈市>久慈漁港H9.9※18.5 三崎漁港H16.2 久喜漁港E12.2 H18.6 久喜G5.5 久喜川水門H12.8 小袖海岸E13.7 H14 小袖G8.2 本波漁港H14.7 玉の脇H14.1 侍浜町麦生E26 G6.6 H※17 侍浜村G10 夏井町閉伊口H※17.8 長内町下諏訪H6.7 長内町舟渡H※10 湊E15.7 二子E23 G6.5 大尻E23 G6.5

<野田村>安家漁港H16.8 野田漁港H23.2 十府ヶ浦H21.4 玉川E18.3 G5.8 野田玉川駅H※28.6 中沢H※14.3 米田H※37.8 下安家H※16.8 堀内E12.9 G9.1

<普代村>太田名部漁港H12.4 普代E15.2 G11.5 譜代川河口H※22.6 黒崎E18.1 黒崎漁港H※15.7 黒崎トンネルH※16.8 宇留部水門H※18.7 堀内漁港H※18.1 馬場野H※24 浜向堀内大橋H※19.6 臼井海岸駅H※22.6 大田部G13

<田野畑村>切牛海岸H28.4 羅賀E25.8~29.1 G13 H※27.8 鳥ノ越E17~23.6 G9.7 H22.1※27.6 机浜の谷H24※27.7 机おおみなとトンネルH※24.5 平井賀浜H19※22.3 平井賀G8.2 九持H15.2 明戸G16.9 明戸キャンプ場H22.5 明戸北 H19.1 小本港H※18.4 熊野神社下H16.5 

<岩泉町>小本E5.4~8.2 G13 下小成E20.4 G15.4 

<宮古市>宮古港H8.5 白浜地区H11.5 白浜E8.5 津軽石H※11.4 閉伊川河口H9.3 田老小堀内漁港 H29.3※37.8 田老小堀内E12.2 田老沢尻H25.1 田老南の沢H25.5 田老出羽神社H※19 三陸鉄道田老駅北H※11.7 田老湾口部H20 田老青砂里G5.6 田老館ヶ森G8 田老北真崎H25※34 田老松月谷H※31.4 田老三中H9.6 田老沼ノ浜H26.2※30.2 田老和野H24.3※35.2 田老水沢H25.2 田老三王H※29.6 田老樫内漁港H※25.5 田老乙部野沼の浜H※34.1 田老乙部E8.5 G7.6 田老青野滝漁港H※34.8 田老水沢H25.3 田老樫内G7 H※21.5 田老下摂侍G7 田老小林E12.9 G9.8 真崎谷奥H※29.2 重茂姉吉E18.3 G12.4 H26.4※40.5 重茂姉吉キャンプ場H※38  重茂立浜H※26.2 重茂宿浜H※24.9 重茂里漁港H※33.9 重茂石浜G12 H※26.8 重茂荒巻 H※27.6 重茂川代H20.7※29.7 重茂千鶏E17.1 G13.6H※31.3 重茂音部E9.2 G7.6  重茂仲組漁港立浜H※20.3 鵜磯小学校H ※27.1 岩泉村小本H22.1 茂市H24.6 茂師G17 茂師漁港H27.9 摂待漁港H27.9 崎山町女遊戸G7.5 H26 鍬ヶ崎H11.1 道の駅みなとオアシスH11.1 日立浜町浄土ヶ浜H※12.6 崎山町松月H※31.4 太田ノ浜H17.4 赤前H※12.2 藤の川H※13.1 山老G10.1 磯鳥E6.1 

<山田町>山田漁港H10.1 船越E10.5 G6 H9.8※29.2 山田織笠川漁港H7.9 織笠H9 山田湾川代H※23 船越小谷鳥H18.3※26 大浦H10.6 田の浜E9.2 H12.1 大沢浜川目H8.9 大沢漁港H7.2 大沢G6 北浜町H8.5 本町E5.5 荒川G7.8

<大槌町>大槌湾H12.6※15.3 大槌町中心部H12.6 大槌新港H13 大槌町吉里E10.7 G6 吉里吉里港H22.1 赤浜H13.4 新港町H12.9 大町H10.9 安渡H※12.3 浪板E10.7

<釜石市>釜石港E5.4 G5.2 H9.3※30.4 釜石観音H11.4 両石湾H17.7※32.6 両石湾オイデ崎北側55.6※(東北地方太平洋津波最大遡上高) 両石E11.6 G6.4 H29.3 唐丹町熊野川河口H16.8 唐丹町下荒川H※16.1 唐丹村花露辺G8.3 唐丹町本郷E14 G6 H13※20.3 唐丹町小白浜E17.1 G6 箱崎町白浜H14.1 箱崎町大仮宿H※31 鵜住居町仮宿H17.2※21 鵜住居室浜G5.2 平田漁港H9.2 黒崎H10.8※13.4 馬田岬H※24.9 片岸G5.4 

<大船渡市>大船渡港H11.8 大船渡湾H8 下船渡E5.5 末崎町門之浜G6.5 H13.9※14.7 末崎町舟河原G8.9 末崎町泊里E11.1 G5.7 H12.1 末崎町高清水H※13.9 末崎町碁石崎E12.8 H13 末崎町大田H※14.7 末崎町中森H※13 末崎町鳥沢H※12.3 末崎町鴨巻E13.8 末崎町大浜E12 末崎町細浦E6.7 三陸町吉浜千歳H17.4 三陸町吉浜E24.4 G6.1 H16.3 吉浜千歳漁港H※17.8 吉浜湾根白漁港H※15.7 吉浜増館H14.6 吉浜漁港H14.5 吉浜中井H※18.9 吉浜横石H※18.9 吉浜本郷G9 三陸町甫嶺E15.3 G8.2 H※17.8 綾里湾H16.7 三陸町綾里白浜E38.2※(明治三陸津波遡上高最高値)G23 H23.3※30.1 綾里新釜H13.3 綾里石浜G9 H※12 綾里小石浜E17.1 G13.6 H16.4 吉浜綾里砂子浜E10.9 G7.9 H14.3 綾里合足漁港H17 綾里大久保G28.7※ 大船渡市三陸町綾里田浜G7.7 プラザホテルH8.4 野々田H9.6 越喜来浜崎漁港G7.8 H10 越喜来小壁漁港H※22.6 越喜来浦H17.3 越喜来井戸洞H※18.4 越喜来浜H12.7 越喜来浦浜E11.2~13.4 G5.6 越喜来漁港浪板G5.5 H12.3※13 越喜来泊H※18.3 越喜来泊漁港 H15.2 越喜来崎浜E15.7 山田湾大浦H11 赤崎町山口H※10.1 赤崎町合足G7.3 H※12.3 赤崎町長崎漁港H10.7※11.6 赤崎中学校H9.9 赤崎川口橋H9.5 明神前H※10.4 湊E10.7 

<陸前高田市>陸前高田港H9.5※10.8 高田地区海岸部H15.8※18.9 高田町下宿H14.6 高田町中田H17.2 高田町法量H17.6 高田町荒沢H18.5 高田町曲松H15.4 高田町砂地H15.8 高田町中川原H14 高田町鳴岩H15.5 高田町荒谷H15 高田町下和野H15.7 高田町砂盛 H16.7 気仙町中堰H14.4 気仙町田の浜H15.1 気仙町荒川H※18.4 気仙町上長部H※14.7 気仙町川口H13.7 気仙町小淵H15.7 気仙町愛宕下H15.2 気仙町垂井ガ沢H※16.9  気仙町要谷H14.5 気仙町二日市H14.3 陸前高田市街H15※19 矢作町H14 大野海岸 H12.5 長部漁港H13.5 竹駒町細根沢H12.4 市民体育館H15.8 広田湾H14 広田町集 E26.7 G11.2 H14 広田町根崎H14.2 広田町中沢H※10.2 広田町御城林H※12.2 広田町後花貝H13 広田町大陽岬H11.5 広田町泊E7.6 米崎町米ヶ岬H16.3 米崎町沼田H※15.5 米崎町川西H18.3 米崎町樋ノ口H※21.1 米崎町館H17.9※18.8 米崎町神田H17 米崎町脇ノ沢H15.3※18.4 米崎小学校H※18.2 小友町H16.8 小友町獺鼻H13.5 小友町両替H※15.8 小友唯出E10.7

 

宮城県

<気仙沼市>気仙沼港H11.9 小泉海岸H※17.9 本吉町小金沢H18.3 本吉町大谷E5.2 本吉町中島H10.9 本吉町小泉H12※19.6 本吉町赤牛H22.2 本吉町蔵内H12.9 本吉町日門漁港H※16.3 本吉町前浜H※18.9 本吉町明神岬H12.7※15 本吉町登米沢H※19.7 本吉町小浜H20.2 本吉町三島H※13.6 本吉町大沢E8.2 本吉町小泉歳内G7.5 唐桑半島先端H19 唐桑町石浜E8.5 H15.2 唐桑町只越E8.5 G7 H15 唐桑町荒谷H13.4 唐桑町大田沢H15 唐桑町笹浜H14.3 唐桑町御崎岬H13.3 唐桑町神止H11.4 唐桑町浦 H12.1 唐桑町明戸H12.2 唐桑町御崎H※20.6 唐桑町馬場H※12.6 唐桑町欠浜H※15.1 唐桑町高石浜H※13 唐桑町大畑H※14.6 唐桑町境H※16.5 唐桑町真崎H11 唐桑町大理石海岸H12.4 南町H6.5 唐桑町小鯖E7.5  唐桑町舞根E5.9河原田H5.6 松崎中瀬H※11.3 浜町H7.9 魚町H11.9 御伊勢浜海水浴場H14.7 岩月H※7.8 岩月台ノ沢H10 松崎高谷H※7.1 波路上岩井崎H12.1 母体田H10.5 波路上杉ノ下H※13.4

<南三陸町>陸前港H12.2 歌津大磯H13.1 歌津馬場G6.7 H15.8 馬場中山E10.8 G6.1 歌津駅H14.7 歌津峰畑H※13 歌津浪板H19.5 歌津田ノ浦G5.4 H16.3 歌津石浜E14.3 H※15.3 歌津館浜H※12.2 名足E9.4 津波避難ビル H15.7 志津川港H15.7 志津川藤浜E5.2 志津川細浦H15.1 志津川病院H15 志津川本浜町H7 南三陸町役場H13.9 戸倉波伝谷海岸H13 戸倉水戸H※11 戸倉長清水H※10.6 戸倉寺浜E6.8 船越小泊H※11.3 

<女川町>女川漁港H18.4 女川町役場H14 町立病院H17.6 竹浦H12.1※34.7 御前浜H※9.4 石浜H※16.2

<石巻市>鮎川H8.6 石巻港H5 雄勝町役場H15.4 雄勝町明神町H16.2 雄勝町大浜神袖浜H13.9 雄勝町荒浜H10.5 雄勝町十五浜荒E8.8 G10 雄勝町小泊E6.2 桑浜漁港H※12.6 羽坂漁港H12.1 大須賀港H11.7 南浜町 H5.4 中瀬石森H5.9 門脇地区H6.7 中浦H5.6 大川小学校H※8.7 北上大指E5.2 大谷川G5.2 谷川浜H21※24 鮫浦H※20 鮎川H18.5 桃浦H10

<東松島市>宮戸島H8.8 野蒜字洲崎H8 野蒜海岸H10.3

<松島町>桂島H9 野々島H7 山元町H12.7 宮戸島H5.9

<七ヶ浜町>菖蒲田浜H12.1 吉田花淵港H6

<塩竈市>寒風沢島H7.8 塩釜港H10.3 坂元川水門H12.4 坂元駅H8.8 山下H7.9 花釜H 14 牛橋水門H10.7 吉田浜H12.7 荒浜H11.8 蒲崎H14.9 県南浄化センターH11.4 岩沼海浜緑地公園H13.3 磯浜H10.8 浦戸石浜G7.6

<仙台市>仙台港H9.3 仙台新港H8~14 仙台空港H5.7 若林区荒浜H9.6 若林区藤塚H5.3 冒険広場H※14.7 荒浜小学校H5 蒲生平潟H8.1 宮城野区H6.1 深海海水浴場H12.2 仙台塩釜港H14.4

<名取市>閖上港H9.1

<岩沼市>二の倉H8.8

<亘理町>鳥の海公園H7.3 荒浜H7.7 牛橋H5.4

<山元町>磯浜漁港H※15.3

 

福島県

<相馬市>相馬港H9.3 磯部海浜自然の家近辺H8.1 松川浦大橋H9.1

<南相馬市>(H12.2)[2012年2月19日発表]

<浪江町>(H15.5)

<双葉町>(H16.5)

<大熊町>福島第1原発 H13.1[東電7月8日発表]・建屋付近H11.5~15.5[東電8月24日発表] (H12.2)

<富岡町>(H21.1)

<楢葉町>(H12.4) 福島第2原発H9[東電7月8日発表]

<いわき市>鮫川岸H7.3 サンマリーナH※9.4 永崎H5.3※7.3 江名漁港H6.8 豊間海岸H 9.2 平薄磯H5.9※6.1 四倉管波病院H6.2 道の駅よつくらH5.9 久之浜港H7 新舞子H7 忽来海岸H5.1 須賀H6,7 岩間H7.3※7.9 小浜H7.1 永崎H5.3※7.3 折戸H6.8 

 

茨城県

<北茨城市>平潟H7.3

<日立市>水木H6.5 河原子H5.7 会瀬港R3 久慈港R3

<神栖市>鹿島港H5.7

<大洗町>夏海R3

 

千葉県

<銚子市>外川Z4 H5.3

<旭市>矢指川H7.6 飯岡H7.6 R3.5

<御宿町>御宿Z8

<九十九里町>九十九里R3 Z6

<勝浦市>勝浦Z7.4

<鴨川市>鴨川Z6.1 仁右衛門島Z7 小湊Z6.5

<館山市>館山Z5.6 洲崎F8.1 相浜Z10 F9 布良Z5 F6 【11】

<南房総市>千倉Z8.8 和田Z10.5 岩井Z7.3

<鋸南町>保田Z6.5

<富津市>湊Z5.3

 

東京都

 伊豆大島岡田Z10 F12 八丈小島A6 八丈島A3「16」【17】

 大島町「16.2」【16】 利島村「16」【16】 新島村「29.7」【31】 神津島村「23」【25】 三宅村「17.9」【18】  三宅村【18】 青ヶ島村「13.2」 小笠原村「19.6」【20】

 

神奈川県

<三浦市>三崎F6 城ヶ島F3

<葉山町>葉山F5.4

<鎌倉市>鎌倉Z8 F6 稲村ヶ崎F6【10】

<藤沢市>藤沢Z4 片瀬Z6 F6 江ノ島F5 鵠沼F6

<平塚市>平塚Z4

<小田原市>小田原Z4 小田原前川A3 米神F4.5 

<真鶴町>岩村F6 真鶴F6 

 

静岡県 

<熱海市>熱海Z5 C6.2 F12 下多賀Z5 F7.2 上多賀F4.5 網代C3 F8 和田木F4.5

<伊東市>【10】 宇佐美Z4 C3 宇佐美端村F7.5 伊東C4.5 F9 新井F3 赤沢F3

<東伊豆町>「11.8」【14】 取C5.4 A4 稲取南F6 稲取北F3.6 伊豆熱川C3 F3 白田F3.6 

<伊豆市>「11.1」【11】 八木沢A8~10 内浦A5.5~6 大川F4.1

<河津町>「11.7」【13】 見高F4.5 A3 河津F3

<下田市>「25.3」【33】 下田Z3 A6 C6.8 白浜F3.6 柿崎F4.6 外浦F4.1

<南伊豆町>「25.3」【26】 手石C6.4 入間C13.2~16.5 妻良C6.5 中木C4.3 竹麻Z3

<松崎町>「20.7」【16】 松崎C4.5 阿良里C4.5 宇久須C3 土肥港C4.4

<西伊豆町>【15】

<沼津市>「13.2」【10】 立保C5 重須C6.7 多比C7.2 戸田大浦C5.1 井田C4.2 原A4 C3

<富士市>田子浦C3 吉原A4

<静岡市>「10.9」駿河区【13】 入江C5.7 三保A5 C5.2 清水A4 下島A4.5 用宗A4 由比C3

<牧之原市>「12.3」【14】 原C5.2 相良A6~8 C5 地頭方C6.2

<御前崎市>【19】 浜岡町(注:中部電力浜岡原発)荒井C6 塩原新田C6~7

<掛川市>「13.7」【14】 大須賀小浜C4

<舞阪市>舞阪C5.6 本浦C5.6

<磐田市>「11.8」【12】 福田C3.5 掛塚C4.5

<浜松市>「14.8」南区【16】 川名F6 篠原C3.9 坪井C3 馬郡C3

<湖西市>「17.7」【16】 白須賀A5 大倉戸C6 新居A3

<袋井市>「11.4」【10】 湊Z3 A5    

<焼津市>「10.1」【11】 <御前崎市>「21」 <西伊豆町>「13.8」

 

愛知県

<豊橋市>【19】

<田原市>【22】

<南知多町>【10】

 

新潟県

 桑川M4.9(海面上) 岩船M3.3 両津M3.5 粟島西岸P3.2 上越市九戸浜Q3 佐渡島相川町岩谷口Q3

 

三重県

<伊勢市>大湊A5

<鳥羽市>【27】 堅神C6 鳥羽C5.2 安楽島C7.8 今浦C5.8 国崎C21.1

<志摩市>【26】 和具C7.9 越賀C10.9 国府A7~8 C4.7 J3 阿児町甲賀C5 片田C4 的矢J3

<浜島町>南張C5.4

<南伊勢町>【22】 田曽C5 神津佐A5 C5.7 礫浦C5 相賀C5 五ヶ所浦A5 C4.4 R3.1 下津浦C4 南勢C3 迫間浦C4.5 東宮C4 新桑竈C4.5 吉津J6 

<南島町>阿曽浦C5 慥柄C6.9 贄浦A7~8 C10.8 神前浦A7 C6 方座C5 古和浦A7 C6 

<紀勢町>錦C7.3

<大紀町>【16】 錦A6

<紀北町>【19】 紀伊長島A5 C4.7 矢口R3.5 引本A4.5

<尾鷲市>【17】 尾鷲A8~10 C6~8 R4 九木A5~6 C7.8 早田C9.3 三木里C5.5 K3.8 賀田A8~9 C7~9.6 K5.5 二本島C8 曾根A5 C6.4 K4.5 梶賀C5.5 須賀利A5 矢ノ浜A6~7 三木浦C4.9

<熊野市>【17】 新鹿A10 C10 J6 波多須J3.6 大泊A6 C6 J3.5 K3 木本J3 K4 二木島K3.5 新賀K3

<紀宝町>【11】

<御浜町>【16】

 

 

和歌山県    

<新宮市>【14】 熊野地K3.5

<那智勝浦町>【18】 勝浦A6~7 C6 J4 浦神C4.5 J4.1 K3 宇久井J3 那智J3.8 天満J5

<串本町>「16」【18】 古座川口D7.5 古座A5 C5.5 K3 古座串本A5~6 D4.5 田原D5.5 袋D6.5~7 K5.5 有田D5 K5 江田D5 和深A5 D5 橋杭D4.5 御崎前K4 大ゴクナK3 キナベK3 シバタニK3.5 田並K3.5

<太地町>「12.1」【13】 太地J5

<すさみ町>【20】 周参見A5.5 D5 K4 江住A5 D5

<白浜町>【16】 日置D4 K3 白浜D4.5 K6.5 朝来帰K4 東富田K5 立ケ谷K3.7 瀬戸K3.4 細野K3.5

<田辺市>【12】 跡之浦D5.5 K4.5 新庄A6~7 D6 芳養D5.5 K4.3 田並A5 D4.5 田辺A3.5 D3.5 内ノ浦K4.3 文里西岸K3.5 六町K4 磯間浦K3.5 松原K5.3 大屋K4.5 崖K3 目良K4.5

<御坊市>【16】 南塩屋D6 御坊A3.5 北塩谷D4.7

<印南町>【15】切目D6 印南A5.8~6.3 D6.6 K3.9 印南川西岸K5.8 光川K4.3

<美浜町>【18】 西川流域D5 三尾D8.7

<日高町>【11】 小浦D5.4 津久野浦D5 比井A5 D4.6 阿戸K3.9 日崎村K3 三尾K3.8

<由良町>【11】 由良A5~6 D7.5

<広川町>【10】 広A5~6 D5 西広K4.9 一本松D4.9

<湯浅町>【11】 湯浅A5 中町D4.5 北栄D3.7 新屋敷町D4.7 下津D4.5 大崎D4 栖原A3

<みなべ町>【14】 南部A6 埴田D5 千鹿浦D6~6.5 岩代D6.2 堺D4.2

<海南市>海南A5 D5 K3.5 冷水K3.3

<和歌山市>紀三井寺D3

<有田市>【10】 

 

大阪府

<大阪市>大阪市A3 D3

<堺市>堺港K3

 

島根県

<美保関町>雲津P3

 

徳島県

<阿南市>「16.2」【16】 浅川A6~7 D7 橘町K3.4

<美波町>「19.5」【24】 由岐町D7 三岐田K3.7 日和佐町橘D4 大浜の浜K3.9

<牟岐町>「13.9」【15】 牟岐A6 D6 東牟岐K4.1 大河橋K4.5

<海陽町>「20.3」【21】 宍喰町A5D5 粟浦K4 鞆浦A3

 

高知県   

<室戸市>【24】 佐喜浜A5 K5 室戸A5.5 D3 

<東洋町>「18.4」【19】 甲浦A5 D5 K5 野根K3

<安芸市>【16】 安芸A5 D5 K3 伊尾木町K3 

<夜須町>手結D5

<香南市>「15.1」【15】 岸本A6

<高知市>【16】 浦戸A6 D5 由岐~浦戸A6

<土佐市>【24】 宇佐A8 D8 K4 宇佐~下川口A7.7 新宇佐K5

<須崎市>【25】 須崎A6 D5 K3.5 野見K4.5

<中土佐町>「22.2」【22】 久礼A6 D5.2 K4.5 上ノ加江A5 土元加江K3.7

<四万十市>「26.7」【22】 下田K3

<土佐清水市>【34】 広域D5~5.6(下ノ加江A5 大岐 大浜 中ノ浜 下益野 三崎下 川口)

<黒潮町>「34.4」【34】(沿岸平均19) 伊田D7.5 上川口D7.5 鞭D6.4 佐賀A6

<大月町>「25.8」【27】 古満目D4 柏島D4

<宿毛市>「21」【25】 <奈半利町>「12.6」【16】 <田野町>「11.5」【13】 <安田町>「11.6」【14】 <芸西村>「15.4」【14】 <四万十町>「25.4」【31】 <南国市>【16】

 

愛媛県

<宇和島市>「10.9」【13】 吉田A4 D4

<西予市>【11】 三瓶D3.5 

<伊方町>「12.6」【21】 伊方D3

<愛南町>「17.3」【17】

<八幡浜市>【11】

 

大分県

<臼杵市>臼杵A3.5

<大分市>佐賀関A3

<佐伯市>「14.4」【15】 佐伯A4 宮野内浦A3 浦江A3

 

宮崎県

<延岡市>「15」【14】 延岡A3 浜子A4 土々呂A4.5

<高鍋町>「10.7」【11】 高鍋A3

<宮崎市>「14.8」【16】 木花海岸R3.1

<日南市>「14.1」【14】 <日向市>「14.8」【15】 <串間市>「15.8」【17】 <川南町>「11.7」【13】 <都農町>「12.5」【15】 <門川町>「13.2」【12】 <新富町>【10】 

 

鹿児島県

<種子島>A6 <西之表市>「12.4」【11】 <屋久島町>「12.9」【13】 <肝付町>【10】

 

沖縄県

<名護市>久志R3 杉平R3.2

<宮古島>B20弱 

<下地島>B15前後 

<伊良部島>佐和田B18 仲地B10 伊良部B8

<池間島>B10

<多良間島>B20弱

<水納島>B10以上

<石垣島>東岸北端浦崎B約30 東岸中部B15以上 東部南部B30弱 東岸南西部B10 西岸B6 宮良村B85.4※ 白保村B60※ 安良村B56.4※ 野原崎B46.7※ 大浜村B44.2※ 嘉良岳B39.8※ 伊原間村B32.7※ 玉取崎B32.1※ 平得村B26※ 真栄里村B19.4※ 登野城村B12.2※ 仲興銘村B10.7

<西表島>東岸B5 西岸B4

<波照間島>B18以上

<鳩間島>B3

<竹富島>B5

<黒島>B10以上

<与那国島>B3

<2024年6月29日 南浦邦仁記>

 

 

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錦市場を救った伊藤若冲

2024-06-19 | Weblog
 若冲は五十六歳のころから還暦の直前まで、ほとんどというか、まったく画を描いていません。空白の謎の期間でした。ところが近年、やっと原因が判明しました。滋賀大学経済学部の宇佐美英機教授が、伊藤若冲が生まれ育った錦市場の事件の事を、経済史の立場から解明されたのです。今回の発見と分析は、学問がそれぞれ孤立せず、連携することの大切さを痛感させる大事件でした。
 若冲は存亡の危機にあった錦青物市場の救世主でした。それこそ命をかけて全力で疾走していたのです。これまでの若冲という人物の評価は、世事に疎く画を描くしか能のない畸人とされていました。そのような人物観はものの見事に打ち破られてしまったのです。驚くべき若冲の勇姿が出現しました。

 ところでこの一文は、そもそも若冲が晩年に力を注いだ石峰寺、彼の墓もここにありますが、「伊藤若冲顕彰会」会報に寄稿したものの部分です。そしてその後、このブログシリーズで再掲載。しかし読者は予想より少なすぎた…。それで、衣もほぼ同じですが、再々登場させます。

一七七一年 明和八年 辛卯 五十六歳
〇一二月二十二日 京都東町奉行所より錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。商いがそもそも公許を得てのものなのか、その証文はあるか、また営業の内容は正当であるのか、返答書を求められた。このような意外な事態が生じた原因は、同じ青物市場で競っていた五条大橋西の五条問屋市場の謀略であった。錦高倉青物市場の解体、分裂弱体化させての傘下化、さらには錦高倉市場の廃止を画策したのである。
〇一二月二十四日 東町奉行所への返答書に、帯屋町年寄の若冲名「高倉通四条上ル丁/年寄/若冲」

一七七二年 明和九年 壬辰 五十七歳 
〇一月 錦高倉市場は奉行所より営業停止を言い渡される。青物市場四町の代表者である帯屋町年寄の役にあった若冲は、この苦境を解決するために対外交渉に当った。彼は五条市場と妥協することなく、正々堂々と役所と交渉する道を選ぶ。若冲は五条市場からの理不尽な提案に対し、四町は揃って拒絶する旨の書を返した。「五条問屋丁ニしたかい申候訳者一切無御座」。四町は中魚屋町、西魚屋町、帯屋町、貝屋町。
〇二月三十日 いったんは営業再開にこぎつけた。しかし七月にはまたもや営業を停止させられる。
〇幕府直轄の諸都市における町年寄は、他の有力町人とともに江戸城において将軍に拝謁できるという格式を与えられていた。年頭には江戸の町年寄はじめ、上京、下京、大坂、堺、奈良、伏見の町年寄などが白木書院の縁側で将軍に目見を受けた。若冲は京を代表する町年寄ではないが、いざとなれば幕府に訴え出ることが可能な立場であったと思われる。
〇四月 大典が相国寺慈雲庵に復帰。本山からの度々の強い勧告を受け、十三年ぶりに戻った。画ばかり描いている聞中への大典の叱責はこのときか。聞中は若冲から作画を習い、毎日一紙の芦雁を描くことを日課にしていた。聞中はその許可を大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に関する訳では、決してない……」。大典著『小雲棲手簡』二編下(一七八七年刊所収)。驚きそして残念に思うのは、描画を否定するかの厳しい言葉と、苦境にある若冲を大典の相国寺が助けた気配が感じられないことである。相国寺なら幕府に対してそれなりの影響力を示せたのではないか。
〇七月 奉行所はまたもや錦高倉市場の営業停止を命じた。困りぬいた若冲は医者の四条原洲菴に悩みを話した。「市場は差しとめられ、町年寄として末代まで汚名を残すことになり、また数千人の農民百姓町人たちが難儀している」。原洲菴は江戸から入洛していた知人の中印中井清大夫を紹介した。若冲は中井に会い、その意見を取り入れ、困窮している農民を取り込む作戦をたてた。若冲はまず壬生村の庄屋四郎八を説得し連携行動をとる。若冲は四郎八に「どのようなことがあっても、わたしが責任を取る」と語った。
〇秋 若冲たちは西九条村、中堂寺村の賛同も得る。彼らはこのままでは農の生活が成り行かず、年貢の上納にも支障が生じると奉行所に訴え出た。また五条問屋市場と錦青物市場とはまったく性質の異なる市場で、錦青物市場がなくなれば、京の需要がまかなえないとする書状を提出した。賛同する村はその後も増える。若冲は東九条村や御霊村に出向いて説得した。西七条村、西塩小路村、上鳥羽村、東寺廻りも加わり、若冲の努力で九ヵ村連合が結成された。錦市場とは取引のない聖護院村、吉田村、岡崎村までもが加勢を申し出た。
〇八月二十五日 若冲は町年寄をあえて辞任する。彼は錦高倉四町を代表する町年寄であったが、理由は万一市場再開が不可能になれば江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。実行すれば、責任者は命を賭す直訴である。若冲は命がけで幕府評定所に出願する決意を固めた。役をついだ町年寄の三右衛門に若冲は「関東に下って江戸奉行に訴え出る覚悟がある」と語っている。自らを平ラ(ひら)にしたのは、その累がせめて錦高倉市場に及ばないようにという配慮である。
〇一一月二日 十二ヵ村代表が寄りあった。中井は「町奉行所から市場再開の許可が下りなければ、七ヵ村の御蔵百姓たちと錦街商人たちが江戸に出願したらどうか。この場におられる若冲さんもその覚悟である」と話した。東九条村はおじけづき役所への願いを取り下げた。御蔵とは幕府直轄の米蔵で、七ヵ村は幕府領地の天領であった。町奉行の直接支配を受けない天領の農民たちは、江戸表の幕府役人に出願することが可能であったのかもしれぬ。またそのような彼らの気配は、奉行所役人にとって容認しがたい、分をわきまえない行動なのではないか。
〇聞中は隠元百回忌の書記をつとめるために、萬福寺に呼びもどされた。翌年には住持の伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。
〇一一月十六日 安永に改元。

一七七三年 安永二年 癸巳 五十八歳
〇この年も錦高倉市場四町の営業再開は許されなかった。決着は翌年に持ち越す。
〇三月二十五日 大坂に移った中井清大夫にかわり若林市左衛門が加わり、この日に若冲とはじめて対面した。若林は「錦高倉四町の結束が揺らいでいる」と教えたが、その後確かに西魚屋町と貝屋町が脱落し、帯屋町と中魚屋町二町のみが、百姓と町民の困窮を役所に訴え続けることになる。
〇六月二十六日 二町は七ヵ村と協調して追願書を提出した。訴願には多額の費用が必要で、村方町方は合力で金二十両と銭六十一貫四百文を取り急ぎ集めた。

〇夏 若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服を更めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるに夫れ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……」。また「絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されている。古くから子どもが習い事、芸事をはじめるのは、六歳の六月六日であった。若冲も同様であったかもしれない。なお「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
伯珣偈頌全文を故加藤正俊氏にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に碣し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書。」
〇宇治の萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持の選任には幕府が当たっていた。萬福寺こそ幕府との強い接点をもっていたと考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願ったことも可能性はあろう。また幕府に直訴するならこの僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。

一七七四年 安永三年 甲午 五十九歳
〇八月二十九日 錦高倉青物市場四町の営業再開を、東町奉行所がやっと許した。公認の青物市場として復活がついにかなった。解決の次第を記し、村方町方関係者が連署した内証の一札には「桝屋若冲」の署名がある。また三年近い紛争の間、若冲が画筆をとったという記録は、どこにも見られない。
〇「猿猴摘桃図」に萬福寺の伯旬照浩が賛した。この猿図が数年ぶりにやっと筆をとった若冲の久方ぶりの画作であろう。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がった三個の桃を摘もうとしている。母猿は真寂、子猿は清房であろうか。賛を意訳すると「桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになるであろう」。命がけでみなのために目標を達しようとしている若冲の姿を描いているのか。紛争の末期、解決の目途がやっと立って以降に描かれたのだろう。ついに仙桃は得られた。

一七七五年 安永四年 乙未 六十歳
〇六月 大典『小雲棲稿』刊。若冲寿蔵の補訂字句を記す。
〇この年に第二弾が刊行された『平安人物志』に、応挙、若冲、大雅、蕪村の順で載る。はじめて蕭白(1730~1781)の名が出たが、順位は二十名中十五番目と低い。若冲の住所は高倉錦小路上ル町とあるので、帯屋町ではなく高倉錦小路北東角の中魚屋町の北屋敷であろう。応挙の住まいは四条麩屋町西へ入町で、明和五年版の『平安人物志』と異なる。応挙は四条麩屋町のすぐ向いあたりに引っ越したようである。このころ、画家若冲は錦街青物市場を救った義人として、社会的にも評価されていたはずだ。人物志には「藤汝鈞/字景和号若冲/高倉錦小路上ル町/藤若冲」

安永五年 丙申 一七七六年 六十一歳
○四月十三日、池大雅死去。五十四歳。京都浄光寺に葬る。碑銘は大典の書。
○十月二十三日、萬福寺二十代住持の伯珣照浩没。八十二歳。
〇還暦のこの年から石峰寺「五百羅漢石像」群の制作に着手か。『拾遣都名所図會』(天明七年1787刊)に「近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した」。安永年間は十年間であった。安永なかばはこの年か。
<2024年6月19日再録 南浦邦仁>

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能登の震災と原発

2024-01-28 | Weblog

 甚大な被害を受けた能登地震。被災者と関係者、そして活動が始まったボランティアの皆さまにエールを送ります。
 ところで能登半島にも原子力発電所があります。立地は半島西南部の志賀町(しかまち)。北陸電力志賀原発。運転停止中でもあり、幸い大事故には至らなかった。しかし問題は多いという。
 震度でみても<7>とされているのが、震源地の珠洲市と、遠く離れた志賀町。そして遅い発表で1月25日は輪島も<7>に追加された。震度<7>はこの三か所である。
 津波は志賀町で5.1mが観測された(京大防災研調べ)。同町での隆起は2.5mが確認されている。国土地理院の解析では、珠洲市から輪島市、志賀町にかけて、沿岸部の海底が総延長約85キロにわたって隆起して陸地になっている。連動した活断層は、能登半島北側から南西に伸びる150キロ程度。大きな地殻変動を起こしたのは震源より遠い、半島西部という。志賀町の近辺である。
原発敷地内の断層は10本ある。敷地内では、地面に35㎝の段差ができたそうだ。

 さて、門外漢のわたしでは今回の大災について考察を述べることは困難です。識者の発表をダイジェストで紹介します。

 日本海側は活断層の密集地域で、原発について、長期評価や強振動評価を行う必要がある。(東北大災害科学国際研・地震学/遠田晋次教授)

 周辺には多くの断層がある。どれかが動けば、影響を受ける可能性は高い。北陸電力は不適切な場所に原発を建ててしまったことを認めて、廃炉にするべきだ。(原子力資料情報室・上沢千尋)

 地震で設備のあちこちに破損があり、弱っている。もう一度大きな余震があった場合に、設備がそれに耐えられるか。(元原子力委員会委員長代理・原子力工学/長崎大鈴木達治郎教授)

 志賀原発建設以前に、建設が計画されていたのが、珠洲原発である。住民による根強い反対運動で中止になったが、もし建設していたら大変なことになっていたと思う。(金沢大・五十嵐正博名誉教授)

 原発拡大政策は、後は野となれ山となれ、これを文字通りに行うことに他ならない。放射性廃棄物の処分は、国内ではまったく不可能。そして原子力発電推進の愚行は、地殻変動が多い日本列島では最初から無理だったのだ。(五月書房刊『原発と日本列島』)・地質学者土井和巳著)
<2024年1月28日 南浦邦仁>
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若冲 略年譜

2017-09-06 | Weblog
 半年間も更新せず、ブログのことをほとんど忘れかけておりました。
ところが間もなく、9月10日が到来します。伊藤若冲の命日。伏見深草の石峰寺では恒例の「若冲忌」が催されます。
本来は、若冲年譜を5回分割で連載し、とっくに「若冲の謎」を終えているはずでした。反省しきりです。

 若冲忌の後、10日の昼食会では大阪から来られるグループのみなさんに、簡略版で若冲の生涯を話すことになりました。
話しが苦手で、赤面のいたりなのですが、彼が還暦の前に、なぜ相国寺を離れ、萬福寺と黄檗の寺・石峰寺に身命をそそいだのか?
錦市場事件を中心に、概略だけでもお伝えできれば、と思ったりしております。
 以下は、当日の説明用資料です。読んでいただければ説明など不要かもしれませんが・・・。

 なお「若冲忌」は、石峰寺で10日10時半からの開催です。詳細は石峰寺のホームページをご覧ください。
たくさんの皆さまのご来臨をお待ち申し上げております。



<伊藤若冲の生涯 略年表>  月日は旧暦・数え年齢
   
1716年 正徳6年2月8日 京 錦通の大店青物商「桝屋」、伊藤家の長男に生まれる。

1738年 元文3年9月29日 父三代伊藤源左衛門が逝去。42歳。若冲は若干23歳にして桝源(桝屋の通称)の当主、四代伊藤源左衛門を継ぐ。

1752年 宝暦2年1月 37歳 
 作品にはじめての雅号「若冲」が確認される。この名は、32歳から36歳の間に命名された。市井の文人僧「売茶翁」と、後に若冲の親友になる相国寺「大典」和尚とのつながりからつけられた。字「若冲」は老子「大盈若冲其用不窮」からとった。「本当に満ちて充実しているものは、一見空っぽのように見えるが、それを用いると尽きることがない」
 なお「若冲」名の直前に、誤って「若中」印を使用した形跡がある。

1755年 宝暦5年1月 若冲は40歳を機に桝屋家督を次弟の宗巌白歳に譲る。若冲は源左衛門から茂右衛門に改名した。

1766年 明和3年秋 51歳 最大傑作「動植綵絵」30幅と「釈迦三尊像」、計33幅が相国寺に完納された。

1768年 明和5年3月 53歳 この年にはじめて刊行された『平安人物誌』において、若冲は応挙、大雅、蕪村らとともに、京を代表する画家と評価されている。

1771年 明和8年12月22日 56歳
 京都東町奉行所より突然、錦高倉青物市場に対し出頭命令があった。錦市場での営業権は本来正当なものであるのか、返答書を求められたが、実はライバルである五条問屋市場の謀略であった。同月24日付の返答書に「高倉四条上ル丁/年寄/若冲」の署名が残っている。 

1772年 明和9年 57歳
 正月から錦での営業が禁止された。この年に若冲が語った言葉とされるのが、「市場は差し止められ、わたしは町年寄りとして末代まで汚名を残すことになる。また数千人の農民百姓町民たちが難儀している」。そして若冲は江戸に下向し「百姓方共御願申上へく存念」。幕府への直訴は自らの命を賭すことになるが、若冲は「どのようなことがあっても、わたしが責任をとる」、「関東に下って幕府に訴え出る覚悟がある」と決意を語っている。

1773年 安永2年 58歳 前年と同様、この年も錦市場での営業停止の処分が続いた。
 夏、若冲は、萬福寺二十代住持の伯珣照浩から道号「革叟」(かくそう)と、着ていた僧衣道服を授かる。若冲は偈頌(げじゅ)を与えられたが、抜粋意訳すると、黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服をあらためんことを乞う。よってすなわち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。なお古きを去り新しきを取るがごとし。ここに余命ずるに革を以てする所以なり。汝それこれを勉めよ。……」。「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。
 伯珣偈頌全文を故加藤正俊和尚にかつて助けていただき読み下した。「京兆の藤汝鈞、字は景和、若冲と号す。家の者は代々錦街に居す。幼にして丹青を学び、家業を紹(つ)がず。絵事に刻苦すること、ほとんど五十年、時に精玅を称さる。平素世慮淡爾にして足ることを知る。奮然(ふんぜん)として自ら謂(お)もえらく、絵事の業はすでに成る。吾れ敢えて久しく世俗に混ずべけんや。今茲(ここ)に癸己(みずのとみ)の夏、山(黄檗山萬福寺)に来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱してこれを与う。顧みるに夫(そ)れ身を世俗から脱して、心を禪道に留む。猶(な)お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此(ここ)に余命ずるに革を以てする所以(ゆえん)なり。子(し)其れこれを勉めよ。示めすに偈を以て曰く、/久しく囂塵(ごうじん)に処して塵に染まず、丹青刻苦、玅神に通ず。奮然として旧途轍(わだち)を革(あらた)む、水より出ずる芙渠(蓮)は脱骵新たなり。/黄檗賜紫八十翁伯珣書」

1774年 安永3年 59歳
8月29日 東町奉行所がやっと、錦高倉青物市場四町の営業再開を認めた。ところで宇治の黄檗山萬福寺は、明人僧の隠元大師を徳川四代将軍家綱が招いて建立した黄檗の寺である。歴代住持(明人)の選任には幕府が当たっていた。京五山の相国寺よりもむしろ、萬福寺こそ幕府との強い接点を当時もっていたとも考えられる。若冲が錦市場の紛糾を解決すべく、萬福寺に幕府への取り次ぎを願った可能性もあろう。また幕府に直訴するなら、伯珣から与えられた僧衣を身にまとい、出家僧「革叟」を名のるつもりだったか。革叟の名はその後、どこにも見当たらない。
 また三年近い紛争の間、彼は画筆をとらなかったと思われる。錦市場再開決定のころ、久しぶりに描いた画作は傑作「猿猴摘桃図」だが、萬福寺の伯珣照浩が賛した。

1776年 安永5年 61歳(還暦)
10月23日 萬福寺20代住持の伯珣没。享年82歳。
若冲はこの年から石峰寺石仏群の造営を開始したと思われる。石峰寺は伏見深草、伏見稲荷のすぐ南に位置する黄檗山萬福寺の末寺。伯珣の師が同寺の開祖である。

1787年 天明7年 72歳
『拾遺都名所図会』に「石像五百羅漢は深草石峰寺後山にある。中央に釈迦無牟尼佛、長さ六尺ばかりの坐像にして、まわりに十六羅漢、五百の大弟子が囲み、釈尊が霊鷲山において法を説きたまう体相である。羅漢の像おのおの長さ三尺ばかり。いずれも雨露の覆いなし。近年安永のなかばより天明のはじめに到っておおよそ成就した。都の画工、若冲が石面に図を描いて指揮した。」

1788年 天明8年 73歳
1月28日 皆川淇園は円山応挙や呉月渓(呉春)らと連れ立って伏見に梅見に出かけた。途次、応挙の案内で石峰寺に伊藤若冲制作するところの石羅漢を見物。あいにく若冲は不在であった。
 皆川淇園は「梅渓紀行」に記す。「境静かにして神清み、本堂後ろの小山の上に遊戯神通と扁した小さな竹の門があり、通りを過ぎると曲がりくねった小道があって、渓には橋を架け、その周囲に三々五々、みなその石質の天然を活かし、二三尺ほどの石に簡単な彫工を施している。その殊形・異状・怪貌・奇態、人の意表を衝いてほとんど観る者を倒絶させるような石羅漢が配置してあった。造意の工、人をして奇を嘆ぜしめざるものなし」
 そして1月30日、応仁の乱以降で京都最大最悪の大火災、「天明の大火」が京街の八割以上を焼き尽くす。一町屋からの失火が原因といわれている。錦の屋敷を失った若冲は、石峰寺門前に終の棲家を構えた。

1800年 寛政12年 85歳
9月10日 石峰寺門前の庵で伊藤若冲没。享年85。石峰寺に土葬。

※還暦のころからはじめた石峰寺の石像群造営、そして観音堂建立など、莫大な建造費用の捻出のためにたくさんの作画製作。そして庶民からのいくばくかの喜捨への礼としても、85歳で亡くなるまでの25年間に膨大な絵画作品を、石峰寺門前の画室で書き続けた。
<2017年9月6日>




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若冲の謎 第13回 <年齢加算 後編>

2017-02-22 | Weblog
<歌川広重>

「東海道五十三次」で有名な浮世絵師・歌川広重(1797~1858)は幕府定火消同心の安藤源右衛門の長男であった。父は下級武士で三十俵二人扶持という微禄。安藤家は代々、幕府の定火消役人をつとめる。
 広重十三歳の文化六年(1809)、彼は母をそして父を相ついで亡くした。やむなく年齢を四歳加算する。急ぎ元服を終え、家督を相続した。士分の家を守るための急な成人式、年齢加算であった。
 そして実年齢十五歳にして、幕臣のまま浮世絵師の歌川豊広に入門した。翌年にはその腕を認められ、十六歳で早くも歌川広重の名を許される。司馬江漢も十代、まったく同様に浮世絵師を経験している。ふたりはともに家計を支えるための売画、そして浮世絵画の修行であった。
 その後、広重は定火消の役を親戚の安藤仲次郎にゆずり、自身は画業に専念する。なお広重は歌川だが、本名から安藤広重ともよばれたようだ。
 ところで広重の没年齢は六十二歳だが、六十五歳と六十六歳説がある。これは十代にして、やむなく家督相続のために四歳を加算し、そのまま年齢をかさ上げした歳を引きずっていたためと思う。役人としての彼は、四歳加えた年齢を称さざるを得なかった。家督断絶を防ぐために少年が年齢を四歳も足す。年齢加算にはいろいろなケースがあるものだ。


 参考までに江戸火消の組織を記す。
 三組織があった。まず大名火消。なかでも加賀藩前田家の加賀火消と、播州赤穂浅野家の大名火消が有名である。赤穂義士の討ち入りの姿は火消装束だったそうだが、おそらく浅野家の誇るべき火消役の誇示、あるいは火消装束がために夜間に大路を自由に行進できたからであろうか。
 そして二つ目の組織が、いろは組。五十に近い組で有名な町火消である。江戸の華と呼ばれた。
 三番目が定火消(じょうびけし)。幕府直轄の火消組織である。広重のころ、定火消隊は江戸に十組あり、各組の長は旗本で五千石級。江戸城内の菊の間敷居外詰で、一万から二万石の城なし大名同等の待遇であった。火事出動のさいには、組の長の定火消役は銀筋星兜の火事頭巾と火事装束をつけて騎馬で駆けつけ、現場の床几に腰をかけた。
 各定火消役・組旗本の配下にあったのが、下級旗本の与力である。騎乗することが許された与力が、一組に六人ついた。その下に広重らの徒歩同心三十人がいる。同心は御家人で、旗本とちがって将軍お目見えも許されない。身分の低い下級武士である。幕臣とは名ばかりで、生活困窮者が多かった。
 定火消部隊の出動時、一隊の構成は、上番十人、下番五人、水番十人、残番十人、纏番十二人、玄蕃桶持ち六人、梯子番十六人、ポンプの竜吐水持ち八人、鳶口持ち十人、籠長持ち二人、用箱持ち一人、部屋頭三人、役割二人の合計九十四人。彼ら隊員は「臥煙」(がえん)と呼ばれたが、日勤常時だいたい百人くらい。定火消屋敷に詰める彼らは三交代制なので、一組で総定員約三百人の組織になる。江戸全体では十組計三千人以上。
 これらの臥煙たちを実質、直接指揮していたのは、薄給の広重ら御火消御役同心であった。一組に三十人所属した同心は、三十俵三人扶持から十五表二人扶持まであり六人いた上司旗本の定火消御役与力の八十俵高よりもずっと低かった。


<木喰行道上人>

 木彫仏で有名な木喰行道上人、明満仙人(1728~1810)は、遊行僧として北海道から九州薩摩まで巡った。そして各地にたくさんの微笑仏を残したが、彼は六十六歳のときに一気に十歳を加算し、それ以降ずっと十歳上の年齢を押し通す。そのため実享年は八十三歳だが、どの古記録にも九十三歳と記されている。
 木喰は六十六歳の年に念願の五智如来像を完成させたが、自らの名を「五行菩薩」に改名し年齢も十歳加算した。小島梯次氏は「大きな懸案事項を成し遂げた充実感の中での心機一転のために改名に連動して改年齢が行われたと思われる」


<狩野永岳>

 狩野永岳(1790~1867)は六十五歳のときに六十七歳と款記し、その後もずっと二歳の加算を通している。彼も改元とは無縁である。京から江戸に出向いた折り、天気晴朗のなかで不二の山を往復で二度拝んだからではないかとも言われているが、理由は不明である。
 狩野永岳は、幕末期に京を中心に活躍した画家。京狩野家第九代として、激動する幕末期に京狩野派を再興した人物である。生年寛政二年(1790)は、若冲没の十年前。亡くなったのは慶応三年一月二日、同一八六七年は明治改元の前年、坂本龍馬や中岡慎太郎たちが非業の死をとげた動乱の同じ年である。
 永岳は朝廷禁裏、摂家九条家、東本願寺、紀州徳川家、譜代筆頭彦根伊井家、臨済や真言の本末寺などの御用絵師をつとめる。また近江長浜や飛騨高山などの豪商富農たちとも深い絆をもっていた。狩野派の絵描き集団、工房の連中を養うことは九代当主として、かなりの重荷であったろうと推察する。

  永岳は、慶応三年(1867)正月二日に没した。享年七十八歳であった。高木文恵氏によると、京狩野派の菩提寺は真宗大谷派の浄慶寺で、墓所は東山の泉涌寺の裏山にある。永岳の年齢については、ひとつの謎がある。六十四歳までは実年齢を称しているのに、六十五歳からは二歳加えた年齢を称していることである。年紀はないが、七十八歳で亡くなったはずなのに七十九歳と記す作品があり、京狩野派に伝わる資料では、永岳が八十歳まで存命したことになっている。これらはいずれも二歳加齢したためと考えられる。どのような理由からなのか、今後の検討を必要とする。(高木著『伝統と革新―京都画壇の華 狩野永岳―』)

 また脇坂淳氏は「狩野永岳の年齢加算問題」に記しておられる。
 狩野永岳の作品は今日、相当数が知られるようになり、彼の作品の中には制作時期を示す年紀、あるいは制作した時の年齢を記した作品が存在する。…一八五三年三月までは通年の数え年を表記し、翌年の一八五四年二月になると急に年齢を増す。永岳は六十四歳から新年を迎えると六十五歳になるのが普通であるが、[そのうえにニ歳を加算して]一気に六十七歳という年齢を標榜するのである。そして以降は年が変わるたびに六十七歳に一歳ずつを加えて八十歳の年に没する。実年齢は七十八歳であった。

 嘉永七年十一月二十七日、安政に改元された。しかし彼の年齢加算は、改元の九ヶ月も前である。また嘉永以降の改元は永楽没の慶応三年までに、安政、万延、文久、元治、慶応と五度もあった。しかし永岳の加齢は、嘉永六年から七年にかけての一年足らず間の、実年一歳プラス二歳のみで、度々の改元とは無縁である。両年加算の後、永岳はただ単に一歳をふつうに足しただけである。
 狩野家資料には「禁裏御内、狩野縫殿助(永岳)、八十歳」。ボストン美術館蔵「雪景山水図」には「金門(禁裏)畫史狩野永岳八十翁筆」とあるという。

 狩野永岳の近年発見された「郭子儀図」が興味深い。箱書きには自筆で「一百五十歳半翁」とある。百五十歳の半分、すなわち七十五歳である。七十五歳が長寿の大きな節目と考えられていたようだ。ところが箱に収められた「郭子儀図」には「七十有二」すなわち七十二歳の年齢書きである。箱に七十五歳と記したのは、作画の三年後だったのか。


<年齢加算のむすび>

 若冲の年齢書きは、七十五歳からはじまった。それ以前に年齢を記した作品はない。狩野永岳と同じ「一百五十歳半翁」の「七十五」であろうか。若冲も七十五歳にかなりのこだわりを持っていたことは確かであろう。

 七十三歳の正月晦日には、驚愕の天明の大火があった。京の市街地は焼き尽くされてしまった。彼は年齢を画に記すにあって、実年齢七十三歳時から開始したであろうが、あまりにも不幸であった天明の大火の七十三歳を嫌ったのではないか。
 昔は大きな不幸があると、家族や集落をあげて餅を搗き、いち早く年を越してしまうという歳違えの習俗があった。伊藤家だけではなく、たくさんの京のひとたちも歳違えを実行し、どん底のこの凶年をやり過ごしたのではないだろうか。
翌年の七十四歳について辻惟雄氏は、若冲は死に通ずる四を忌避したのではないかとされる。 
 実年齢七十五歳の夏、若冲は大病を患った。相国寺の記録では寛政二年六月、寺からの見舞いが若冲の自宅を訪れている。実年七十五歳の年、特に後半は大作を描くことは困難であったろう。七十三歳と七十四歳のときにも、「七十五歳画」は制作されたのではなかろうか。

 通説「還暦すぎては年はなし」は、確かのように思う。還暦を過ぎてしまえば、何歳からでも、数は好きなだけ加えてもよい。そのような習俗があったのではなかろうか。

 しかし改元ごとに一歳加算するという説には、納得しかねる。
 川上不白について岡田秀之氏は年齢書きのある遺墨を調査した結果、どの作も「実年齢に一歳加算しているだけで、不白が改元ごとに一歳ずつ加算したような事実は確認できなかった」としておられる。
 数え還暦の六十一歳までは正確に数えるが、それを過ぎれば年齢加算は個々人の勝手で、自由だったように思う。改元年に加算した人物は、いまだに誰ひとりも確認されていない。

 ところで上記のどの人物も江戸後期の生まれだ。そのころ画家文人や宗教者などには、還暦後の加算は特殊なことではなかったのではないだろうか。
生年は若冲1716年、川上不白1719年、木喰上人1728年、司馬江漢1747年、狩野永岳1790年、富岡鐵斎1837年など。紹介できた実例はこの程度だが、大悟散人も含め圧倒的に十八世紀の生まれが多い。
 これからもっとたくさんの人物の加算例が発見報告されることであろう。それらによっていつかは解明されるだろうが、年齢加算にはさまざまの個人の事情がありそうだ。若冲の年齢問題も、きっと近い内に解決し確定するという予感がある。
<2017年2月22日 南浦邦仁>


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若冲の謎 第12回 <年齢加算 前編>

2017-02-03 | Weblog
若冲はいまだに謎の多い人物である。謎のひとつに年齢加算の難問がある。享年は数え年齢で八十五歳であった。ところが八十六、八十七とか八十八歳と自ら記した作品が残っている。実年齢に最大三歳を加算している。
 
 狩野博幸氏は、還暦以降の改元に際してその都度一歳を加算したという「改元一歳加算説」をとなえておられる。例としてあげられるのが茶人の川上不白(1719~1807)で、二歳か三歳を加算しているが、どうも改元ごとに一歳ずつを足したようだ。
「昔は還暦の後は年なしとし、改元ごとに一年ずつ加算した」。狩野氏のこの解釈がいまではほぼ定説になっている。確かに説得力のある加齢説であるが、はたしてそうであろうか。
 
 若冲が還暦以降に迎えた改元は二度。安永から天明へ、天明から寛政へ、二回の改元であった。二度の改元では八十七歳止まりであり、三年上乗せの八十八歳には届かない。
 
 もうひとつの説を辻惟雄氏が提唱しておられる。若冲は「四」という数字が「死」に通じるため、還暦以降は四のつく年を忌避し、四を五に変えてしまったという説である。六十五、七十五、八十五歳。この三度の一歳加算で享年は八十八歳になったとする。
 
 岡田秀之氏は「伊藤若冲の年齢加算について」(「國華」1408号)でより詳しく論じておられる。
 まず民俗学による戦前の調査から、年増し、年違え、耳ふさぎの風習を紹介する。身近な同年齢者が亡くなると、「同齢感覚」という不安畏怖の民間信仰心から、歳をひとつあわてて加えた事実が数多く報告されている。
 また文献史学からは平山敏治郎氏が中世から近世にかけて、年違え、耳ふさぎの加齢があったことを、史料からたくさんの例をあげている。
 耳ふさぎ・耳ふたぎとは、家族のなかのだれかと同年齢者が亡くなったことを知ると、家人は同年の本人にはその死を知らせずに、あわててモチをつく。そして正月をいち早く迎え、一歳加齢してしまう。そして搗いたばかりの餅を当人の耳に当て、亡者が同年の生者を呼ぶ声をふさぐ。
 また凶作の年にはその年を早く終えるために地域あげて餅をつき、今年におさらばし夏や秋に正月を迎えてしまう。豊作の兆候でも台風などの被害を恐れて、いち早く門松をたてて正月を迎えてしまうこともあった。ただこの風習では地域共同体の全員が早めの加齢を迎えるので、終生の加算が続くとは考えにくい。ただ年に二度正月祝いをすれば年齢加算になってしまう。
 民俗学や文献史学にみえる「年違」(としたがえ)の記述をみていると、改元と年齢加算は無関係といえそうである。
 
 さてつぎに歴史上の人物で、明らかに年齢を加算しているいくつかの例を、年代をかまわずランダムに紹介してみよう。
 
 
<富岡鐵斎と常煕興燄>
 
 画家の富岡鐵斎(1837~1924)は、大正十三年大晦日、数え八十九歳で亡くなった。後一日たてば元旦であり、目出度く卆寿九十歳を迎えるはずだった。ところが彼は生前にいち早く九十歳と年記している。実は八十九歳の夏ころに予祝を行い、一足早く卒寿の祝いを済ませて九十歳にしていたのである。
 
 予祝では常煕興燄(じょうきこうえん/1582~1660)も同様である。彼は中国の黄檗僧だが、日本で黄檗禅をひろめた隠元を助けた人物である。七十九歳の七月ころ、病のために起きることあたわず。九月早々、傘寿八十歳を予祝。九月二十九日に示寂。
 
 
<司馬江漢>
 
 司馬江漢(1747~1818)は還暦を期して、実年齢に九歳を一気に加算している。そのため享年は七十二歳説と八十一歳説がうまれてしまい、研究者の間ではいまも混乱している。
 江漢の一気加算は文化五年(1809)、六十二歳になった正月である。その後、没年までこの九歳の下駄履き上げ底を通した。以降は毎年、ふつうに一歳ずつ加算している。実享年は七十二歳だが、彼が称した年齢では、没年は八十一歳であった。彼もまた改元加算には無縁だ。
 昔は数えで歳を数える。還暦は六十一歳。江漢は還暦を過ぎた直後、翌正月元旦に通常の一歳にプラス九歳も加齢した。「還暦過ぎれば年知らず」、どうもこの文言は正しいのかもしれない。ただ、改元ごとに一歳加算したという説には、まだ納得がいかない。
 
 江漢の人生をざっとみてみよう。画作はまず幼くして狩野派に習う。これは若冲も同様のようである。そして父を亡くした十代なかばの江漢は、生活のために浮世絵師となる。そして二十歳ほどの彼は師匠、天才絵師の鈴木春信に並ぶほどの力量をみせる。錦絵美人画で高名な春信急逝ののち、困惑した遺族や関係者に請われ、春信の贋作を数多く描いたといわれている。売れっ子絵師を失ってしまった版元、彫師、摺師など、関係者の失職困窮を救うためであった。また彼はのちに鈴木春重を名のり、美人画を数多く描いている。
 その後、宋紫石(楠本幸八郎雪渓)について、中国清の南蘋画を習得し、師友の平賀源内を通じて西洋絵画に傾斜する。そして日本ではじめて銅版画エッチングを創始した。独自の油画も生み出す。
 蘭学仲間にも加わり、天文地理学に通じ、天動説の一般普及にも貢献している。精巧な銅版画、江漢作「地球全図」「天球図」も有名である。蘭学では、前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢などの学者に交わる。彼の兄貴分であった平賀源内のつながりであろう。
 文人としても多く書き残しているが、自由平等の思想を説く。封建時代人としては珍しい先進のひとであった。「人間はこれ世界虫、上下をとわず、すべて同一の人間」「上天子将軍より、下士農工商非人乞食に至るまで、皆以て人間なり」「人間が牛馬ではなく、人間が人間らしく生きて、人間を尊ぶ」など、幕末前の同時代を超えた「市井の哲人」、畸才であった。
 また事業として江漢は多くの品々を制作したが、驚くべきものに補聴器やコーヒーミル(オランダ茶臼)もある。阿蘭陀茶臼は写真でみたが、デザインも優れ、現代に「江漢ミル」複製を製作発売しても、かなり売れそうなほどの優品。エレキテルで知られる「非常の人」、平賀源内の弟分だけのことはある。
 
 さて司馬江漢の九歳加算について、成瀬不二雄氏が紹介する細野正信氏の二説がある。
 まず崎陽隠士輯『巷説集』(天明2年刊 元長崎県立図書館蔵)の記載。この本は、長崎のオランダ語通訳、日本人通詞にかかわる百余話を記したものだそうだ。江漢は親しく接した通詞の吉雄幸作らを通じて話しを知ったであろうという。
「養老山人とて一畸人ありて、或時己の齢に一時に九歳を加えて大悟散人と称すと云、何謂か分明ならずと雖、俄に世を欺くは佯老散人とも可称歟」
著者の崎陽隠士は、行文から推して後に松平定信に属した通詞、石井恒右衛門と考えられる。
 
 そしてもうひとつの説は江漢が晩年、老荘思想に傾斜したことから、『荘子』寓言篇(雑篇第二七)の「九年而大妙」に細野氏は注目された。
「顔成子游はいった。わたしは先生の話しを聞くようになりましてから、…八年たつと生と死の区別を意識しなくなり、九年たつとすべてを一体とする絶妙の境地に達することができるようになりました」
 『荘子』原文では「一年而野、二年而従、三年而通、四年而物、五年而来、六年而鬼、七年而天成。八年而不知死、不知生。九年而大妙。」
細野氏は、江漢は九年を加え、大悟の心境を装ったとされる。大妙は「すなわち大悟の意である。九歳年齢を加えて、一足とびに自らにいいきかせるように悟りに入ったつもりになったのである」
 
 いずれも説得力のある見解だ。しかし、わたしはあえて追加したいと思う考えがある。江漢は晩年、「ただ老荘のごときものを楽しむ」としているが、禅寺の鎌倉円覚寺の住持、誠拙和尚の弟子であると記している。江漢は、老荘思想と禅に親しんだ。
 彼の伯父、父の兄は、絵心の達者なひとであった。江漢「六歳のとき、焼き物の器に雀の模様のあるのを見て、その雀を紙に写し描いて伯父にみせた。また十歳のころ、達磨を描くことを好み、数々画いては伯父に見てもらった」と自ら記している。
 幼いころから江漢は、達磨に惹かれていたようだ。達磨・菩提多羅は天竺より六世紀、中国の北魏の少林寺に到る。同寺の岩窟で面壁端坐、面壁九年という。
 江漢は達磨の大悟九年を、還暦を過ぎたとたん、一気に達する、あるいは到達しようと考えたのであろうか。
 
 
<鈴木春信>
 
 
 
 
 司馬江漢の画師、錦絵創始の浮世絵師・鈴木春信(~明和7年6月14日か15日 1770年)だが、彼も享年が定まらない。出身も身分も家族のことも、何もわからない謎の人物である。ただ司馬江漢のもうひとりの師であった平賀源内が長屋住まいのころ、その長屋の家主は春信であった。当時、三人はみな非常に近い関係だったのである。
 春信の没年齢については、四十六歳、五十三歳、六十七歳などと実にさまざま。ただ司馬江漢が記した「そのころ、鈴木春信という浮世絵師、当世の女の風俗を描くことを妙とした。四十余にしてにわかに病死」
 享年を推定する史料はこの江漢の記載「四十歳余」しかない。現在では四十六歳没という説に落ち着いているそうだが、確たる根拠はなさそうだ。
 春信はおそらく年齢加算とは関係なく、単に生年が不明であるというのが結論ではないか。昔のひとは生年不詳、あるいは不明という方があまりに多い。われわれ現代人とは、生年月日の感覚意識がおおいに異なるように思う。また正月元旦に歳を加える時代、生誕月日にはあまりこだわる必要がない。
 確然と存したのは、過去帳や墓表などに記された記録である。逝ってはじめて記載される記録だけといってもいいようだ。江戸期以前の彼らには、出生届も戸籍もなかった。亡くなると、過去帳や墓に没年月日は書き込まれるが、享年記載がなければ年齢不詳になってしまう。また享年の歳を記されてもその年齢は、加算や偽年かもしれない。当時の没年齢は、簡単に信用してはいけないようだ。
<2017年2月3日 南浦邦仁>
 
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若冲の謎 第11回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 後編>

2017-01-15 | Weblog
<聞中浄復>

 黄檗僧の聞中浄復(もんちゅうじょうふく)は宝暦八年(1758)、二十歳のときに相国寺の塔頭・慶雲院に掛錫(かしゃく)する。掛錫とは、僧がほかの寺に留まることだそうだが、彼の滞留は十四年もの長期にわたる。そして聞中はその才を大典に愛され、門人中第一位を占める。
 ある時、聞中は若冲に雁の画を学び、毎日一紙を写し描くのことを日課とした。いつのことか不明だが、おそらく明和八年(1771)、若冲畢生の大作「動植綵絵」全幅寄進の終わった翌年明和九年のことではないかと思う。大典が聞中に苦言を呈した。
 同九年四月、大典は本山の勧告で、十三年ぶりに相国寺に復帰する。聞中も同じ年に登檗する。聞中は開山隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻されたのである。久しぶりに萬福寺に帰った。聞中三十三歳、大典五十四歳、若冲五十七歳の年である。
おそらくこの年、若冲と大典の間に大きな溝ができた。

 聞中は毎日絵を書くことの許可を、大典禅師に請うた。すると、禅師は書状をもって、「佛徒には重要な一大事がある。それがためには爪を切る暇もないはずだ。文学の如きも、もとより本務ではないが、道を助けるため、性の近き所、才能の能する所をもって、緒余にこれを修めるに過ぎぬ。その他の芸術は、法道において何の所益があるか。父母がおまえに出家を許し、師長が教誡しておまえを導き、檀越檀家がおまえに衣盂の資を供給してくださる等の本意はどこにあるか。よろしく考慮せよ。わたしの許可とか不許可に關する訳では、決してない……」

 若冲は聞中からこの話を聞いて、あるいは大典の書状をみて、どのように感じたであろう。号泣したのではないか。
 ところで室町時代中期以降、参禅の風はすたれ、五山僧は詩文に浸るを善しとしていた。文学の安きへの潮流を禅林各寺が連携して、本来の宗教禅に復帰しようとする禅宗の改革運動が起きる。活発化した参禅学道の「連環結制」が、大典の芸術感も変えてしまったのであろうか。

 聞中の描いた「芦雁図」だが、はじめて発見されミホミュージアムで開催された「若冲ワンダーランド」展に出品された。実は、わたしが出品の手伝いをしただけに感慨深い。
 余談だが若冲画「亀図」の賛は、聞中が記している。若冲没後、二十五年もたってからの後賛で「八十七翁聞中題」とある。聞中浄復、彼が亡くなったのは若冲逝去の二十九年後、実に九十一歳であった。みな驚くほど長命だ。それともだれもかれも、年齢加算をしていたのだろうか。


<伯珣照浩>

 若冲がはじめて、黄檗山萬福寺第二十世住持の伯珣照浩(はくじゅんしょうこう)に会ったのは、安永二年夏(1773)のことである。若冲五十八歳。大典が十三年間の自由気ままな文筆生活に終止符を打ち、相国寺に戻り激務を開始した翌年のことである。
 聞中は明和九年(1772)、萬福寺で隠元百回忌の書記をつとめるために呼び戻された。翌安永二年には、伯珣結制の冬安居の知浴をつとめる。そしておそらく聞中らの手引きで、若冲は伯珣に会うことになる。若冲はその時、道号「革叟」(かくそう)と、伯珣が着ていた僧衣を与えられた。若冲の喜びはいかばかりであっただろう。
 禅僧は道号が決まると、師と仰ぐ人物からその意味付けを記した書をもらう。若冲より三百年も前の雪舟も、相国寺の画僧であった。彼の名「雪舟」について鹿苑寺の竜崗真圭は記している。大意は、雪の純浄を心の本体に、舟の動と静を心の作用にたとえ、これを体得して画道に励むことと。しかし雪舟に対する評価は寺では低かった。後に相国寺を去り、大内氏の山口へ、そして大内船の遣明使に従って明に渡航する。そして大成した。

 若冲も伯珣から同様の書「偈頌」(げじゅ)を贈られた。一部を意訳してみよう。
 若冲が黄檗山萬福寺に「来たってはじめて余に謁し、名と服とを更(あらた)めんことを乞う。因って乃ち命ずるに革叟を以てし、弊衣を脱して之を与う。顧みるにそれ身を世俗より脱して、心を禅道に留む。猶お故(ふるき)を去り新しきを取るがごとし。此に余命ずるに革を以てする所以なり。子其れこれを勉めよ。……黄檗賜紫八十翁伯珣書」
 これまでの事を若冲自ら言う、絵の事業はすでに成り終わったと。また我はあえて久しく世俗に混じってきたことかと。…顧みるにその身において、世俗を脱し、心を禅道に留め、…お前が画を描くことの刻苦勉励はこの上なく巧みで、神に通ずるまでに達した。
 過去はよし。いまは古き道の轍(わだち)を革(あらため)よ。水より出る蓮は古い体を脱し、まったく新しいものとなる。

「革」は革命の革、「叟」は「翁」の意味。偈頌は若冲の出家を意味している。

 そして「幼にして丹青を学び…絵事に刻苦すること、ほとんど五十年」と記されているが、この夏、若冲は五十八歳であった。彼が画を習い始めたのは、十歳になる前であったのであろうか。古来、子どもの習い事始めは六歳の六月六日からという風習がある。

 若冲が久しぶりに描いた「猿猴摘桃図」に伯珣の賛も得ている。安永三年(1774)、錦市場の事件が解決した八月二十九日の後の作画であろう。
 賛「聯肱擬摘蟠桃果。任汝延年伴鶴仙」。子を背にした猿の父親が、妻の腕をしっかり握り、いまにも折れそうな枝にぶら下がって、三個の桃を摘もうとしている。桃を食べればお前の寿命は延び、鶴に乗る仙人に従うようになろう、といった意味である。彼が石峰寺門前に居を構え、亡くなった弟の妻らしき女性と、その息子らしき子どもと三人、仲睦まじく暮らしていたことが思い出される。男児は若冲の孫のようでもある。

 石峰寺は、黄檗山第六代住持・千呆(せんがい)禅師が開創した寺である。萬福寺の末寺・石峰寺の後山を画布にみたてて、五百羅漢石像を構築することの提案が、千呆の法系を嗣ぐ伯珣から出されたのではないかとわたしは想像する。若冲が自分勝手な思いつきの喜捨作善で、寺境内を自由に造営することは許されることではない。石峰寺住持も勝手に、一市井人との話し合いでやれる事業ではない。本山からの提案であろう。そうであれば、聞中、俊岳、密山らの打ち合わせが事前にあったことは、想像に難くない。
 当時、十六あるいは十八羅漢、また五百羅漢なりは、時代の流行でもあったようだ。萬福寺には范道生作の十八羅漢像や、王振鵬の五百羅漢図巻が古くからある。また池大雅の「五百羅漢図」も有名である。大雅の大作屏風画は明和九年(1772)、隠元百回忌に制作されたという。大雅の友人でもある聞中が、萬福寺に久しぶりに戻った年である。

 そして江戸黄檗山の寺、天恩山羅漢寺も木像五百羅漢で知られる。同寺は松雲元慶(1648~1710)の開基であるが、彼は京仏師の子である。画禅一致、自ら五百三十余体の仏像や羅漢像を造りあげた。元慶の師、鉄眼は一切経、すなわち大蔵経の刻版完成で知られる。元慶の五百羅漢はすでに江戸で黄檗を知らしめた。師と弟子、ふたりともに不撓不屈の黄檗僧であった。
 伯珣が石像五百羅漢造営を、それも千呆禅師開創の石峰寺に望んだとしても不思議ではない。

 若冲は世間からは、釈若冲あるいは僧若冲師、画禅師とみなされ、出家者として扱われてきた。しかし若冲にとって、寺の雑務や行事儀式、複雑な上下左右の人間関係など、とても手に負えるものではない。気ままな世界で、自由に画を描き続ける創造活動こそが、彼にとって唯一望むところの生きる道であった。市井で茶を売った売茶翁高遊外のように、晩年の彼も勧進のため、またささやかな清貧の暮しの糧のため、売画を蔑むことはなかった。画を無心に描くことは、若冲にとっては座禅と同一であり、参禅であったろう。画禅一致の境地であろう。また石峰寺への勧進であった。
 彼は「居士」すなわち在家者として葬られた。禅僧の墓碑に記される、和尚、大和尚、禅師などではない。伯珣が与えた「革叟」という出家名は、錦市場事件が無事に解決したために、もう用いる必要がなくなったのであろう。若冲は出家し、この法名でもって幕府に直訴するつもりだったとわたしは考えている。だが無事を得て、革叟の名は大切に密封された。
 錦の事件については、別記後述の年譜を参照していただきたい(1771年~1774年)。また伏見義民事件(1785~1788)も年譜に記載したが、驚かざるを得ない。

 ところで黄檗山に正式に認知登録された僧の名を記す「黄檗宗鑑録」に、革叟若冲の名はない。結局のところ、彼は売茶翁と同じく、非僧非俗こそ最上の生き方としたのであろう。ちなみに売茶翁こと元黄檗僧の月海元昭は、昭和三十三年に追贈され、はじめて「宗鑑録」に名が載る。高遊外没後、実に百九十五年が経っていた。
<2017年1月15日 南浦邦仁>
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若冲の謎 第10回 <売茶翁・大典・聞中・伯珣 前編>

2017-01-05 | Weblog
<宝蔵寺・相国寺・萬福寺・石峰寺>
 
 伊藤若冲は八十五年の生涯、三ヵ寺に深く関わった。まず伊藤家の菩提寺である宝蔵寺。錦市場から徒歩数分の位置にある浄土宗西山派、裏寺通六角下ルの同寺境内には、若冲の父母と弟たちの墓がある。しかし若冲の墓は宝蔵寺にはない。だがおそらく四十歳で隠居するまでは、彼もこの寺の信徒であったろうと思う。
 
 つぎに親密になったのが、御所の北にある臨済宗の相国寺だ。三十歳代なかば、売茶翁に出会い、翁の仲立ちで相国寺の大典和尚を知ったと、わたしは考えている。
 本山相国寺には「動植綵絵」「釈迦三尊像」三十三幅、金閣寺で有名な鹿苑寺大書院には水墨障壁画五十面を寄進している。若冲と大典、ふたりの関係は非常に深いものがあった。なお鹿苑寺は相国寺の末寺である。
 しかし彼の最高傑作「動植綵絵」三十幅を相国寺に寄進した後、若冲は五十歳代なかばのころ突然、相国寺と袂をわかち、絶縁してしまう。相国寺墓所には、若冲の墓もある。ただ生前に建てた寿蔵であり、彼の亡き骸は埋められてはいない。
 
 そして最後の第三寺は、伏見深草の黄檗の寺、百丈山「石峰寺」である。
 還暦を迎える前、五十八歳の若冲は黄檗山・萬福寺に帰依する。そして萬福寺末寺である石峰寺に、亡くなる八十五歳まで四半世紀を超える歳月を晩年の力すべてを注ぎ込んだ。
通称「五百羅漢」の石造物群、観音堂天井画など、若冲が完成を目指したのは、現代のことばであらわせば、釈尊一代記パノラマ「佛伝テーマパーク」であった。
 
 
<売茶翁再び>
 
 売茶翁は京の市井で売茶を生業としたが、宗教者また文人として最高の世評人望を得、たくさんのひとたちに大きな影響を与えた。ちなみに彼の売茶とは、茶道具を肩に担いでの移動式喫茶店、またささやかな茶店を構えて煎茶を点てる小商いであった。しかし佛教の僧侶が物品を売った代金を生活の糧にすることは、戒律で禁じられていた。だが翁はかまわずに売りつづける。
 彼は佛法についてこう語っている。「こころに欲心なければ、身は酒屋・魚屋、はたまた遊郭・芝居にあろうが、そこがそのひとの寺院である。自分はそのように、寺院というものを考えている。」
 
 十八世紀の京都、文化の百華が繚乱する。学術芸術はルネッサンスを迎えた。空に輝く綺羅星のごとく、たくさんの才能たちが輩出し、大活躍した。
文壇画壇のルネッサンスは、売茶翁の影響からはじまったとされる。だいぶ後のことだが、藤岡作太郎が著作『近世絵画史』で「画壇の旧風革新」と呼んだ時期である。多士済々、京都文化が光り輝いた活気あふれる文化豊穣の画期であった。売茶翁によって、この時代人は本当の自由を知り、文芸芸術が開花した。
 当時の京都は、非僧非俗の売茶翁を文化軸の中心に回転した。江戸期最高の京文化が百華繚乱できたのは、自由と平等を至上とする売茶翁という温和な怪物がいたからであろう。まさに売茶翁の存在は、十八世紀江戸期京文化、いや日本文化における大事件であった。早川聞多氏は「売茶翁といふ事件」と称しておられる。
 高橋博巳氏は「売茶翁の自由がなかったら、六如の詩にしろ大雅や若冲の絵にしろ、それらの創造の部分が変質していたのではないか」と記す。
 
 三十歳代のなかばころ、若冲は尊敬する売茶翁を通じて、相国寺の大典を知ったはずだ。そして若冲は菩提寺の宝蔵寺から離れ、大典を通じて相国寺と密接な関係を持つ。大典は、若冲にとって深い親交をもった無二の友であったろうと思う。相国寺との親密な関係は以降、二十年ほども続く。
 
 若冲におおきな影響をあたえた売茶翁は延宝三年五月十六日(1675)、九州肥前の神崎郡蓮池に生まれた。幼名は菊泉。地元佐賀の龍津寺において禅師化霖道龍のもとで得度した。黄檗の道号は月海、法号を元昭、のちに高遊外(こうゆうがい)と名のる。売茶翁と呼ばれるのは、還暦のころに京都で喫茶店・茶舗を営みだしてからのことである。
 若かりしころ、まだ佐賀にいたときのことだが彼は病をえ、一念発起した。「このように弱い肉体や精神ではいけない。釈尊におつかえ申すこともあたわぬ」
 そして何年ものあいだ、江戸や東北など全国各地をめぐり、修行学業にはげむ。臨済宗・曹洞宗の禅二宗をきわめ、南都の鑑真和尚からはじまる律学まで修した。彼は当時、大秀才の若き学僧・文学僧として、将来を嘱望されたエリートであった。文学にもあかるく、詩でも書でも彼に比肩するひとは少なかったといわれている。
 ところが晩年、六十歳を前にして、久方ぶりに帰って来た肥前を去る。寺は法弟の大潮元皓にゆずり、京に向かった。だが、本山の黄檗山萬福寺にも入らず、彼はなぜかまもなく寺を、さらには佛教までを捨ててしまう。彼は「三非道人」を自称する。非僧非道非儒だが、佛教でも道教でも儒教でもないとした。
 当時の宗教界は、いまと同様であろうか、堕落していた。六十一歳、数え年の当時は六十をひとつ過ぎた年が還暦である。この年ころ、彼は京で突然に茶舗をはじめた。そして天秤棒に茶道具一式をぶら下げ、肩にかつぐ。春は花の名所に、秋は紅葉で知られる地に、住居兼のささやかな茶舗もありはしたが、もっぱら日々移動する。荷茶屋という。
 
 彼の生活姿勢は、宗教家や知識人には痛烈な批判である。いやしい職業にはげむ売茶翁は、時代を代表する知識人であった。翁の姿は都のあちらこちらで見かけられたが、市井で清貧の生活を送る、実はとてつもない文化人だった。
 彼の日々の収入などわずかなもの。特に客の絶える冬場や長梅雨の時期、何度も喰う米にもこと欠き生活は困窮した。「茶なく、飯なく、竹筒は空…」。翁の餓死を憂えた友人、亀田窮楽は長梅雨のある日、岡崎村から双が岡の翁のあばら家へ、米を携え売茶翁を訪ねた。「我窮ヲ賑ス、斗米伝ヘ来テ生計足ル」
 若冲の別号・斗米庵や米斗翁は、ここからとったのではないか、わたしはそのように想像したりもする。
 
 そして大典が二十九歳、翁七十三歳のとき、売茶翁の茶器・注子に若き和尚は「大盈若冲」云々の文字を記した。京の避暑地として有名な糺の森での余興であった。ちなみに、この注子はいまも残っているがこの年、若冲は三十二歳であった。
 大典が注子に書いた「若冲」の字が、画家若冲の名の誕生するきっかけであったことは、間違いないであろうと思う。しかし大典が「若冲」という名をこの画家に与えたと断定することはできない。
 
 宝暦十三年七月十六日(1763)、売茶翁を慕うたくさんのひとたちに惜しまれつつ、彼は永眠した。鴨川の左岸ほとりの小庵、幻幻庵で没した。享年八十九。
 遺体は荼毘にふされ、遺言によって骨はみなの手で砕かれ粉にされ、鴨の川にすべて流された。骨の粉末を川に流す葬法は、擦骨(さっこつ)とよぶのだそうだ。いかにも売茶翁らしい己の始末であった。
 
 
  若冲画 売茶翁像
 
 
 
「大典和尚」
 
 若冲は三十歳代なかばから、大典和尚との親交を通して、相国寺と密接な関係にあった。期間はほぼ二十年におよぶ。それが六十歳を前にして、若冲は萬福寺に接近し、黄檗の石峰寺にその後、晩年を捧げ尽くす。相国寺を離れた理由のひとつは、大典を取り巻く周辺環境の変化でなかろうか。
 
 大典和尚の生涯をざっと見ておこう。大典は享保四年五月九日(1919)、近江神崎郡伊庭郷に生まれた。滋賀県の湖東、いまの東近江市能登川町伊庭。若冲の三歳年下であった。
 俗姓は今堀氏。字(あざな)は梅荘。諱(いみな)は顕常。大典と号し、また蕉中、北禅などとも号す。東湖、不生主人、淡海竺常ともいう。淡海は生国近江の琵琶湖のことである。幼名は大次郎。
 八歳のとき、黄檗山萬福寺の塔頭・華厳院にあずけられたが、兄弟子との不和がおきる。
 毎夜遅くまで勉学にはげむ大典だったが、兄弟子の瑞倪が隣室から「おい、まだ本を読んでいるのか」といった。
 大典は「いいえ、読んでいるのではなく、看(み)ているのです。」
よくあることだが、できのよい若者は、不出来な先輩からいじめられる。禅寺において、師匠なり兄弟子との不和は、ふたりの将来のために不幸であり致命的なことである。
 大典の父は不仲を知り、彼が十歳のときに萬福寺から、旧知の相国寺塔頭、慈雲院の独峯慈秀和尚のもとに移した。そして享保十四年三月(1729)、十歳のときに独峯和尚によって得度し、名を大次郎から顕常にあらためた。
 黄檗の詩僧・大潮和尚について文学を学ぶが、大潮は売茶翁の弟弟子である。また儒は宇野明霞・字士新の門で研鑽を積む。ちなみに大坂の片山北海も明霞の弟子である。北海を中心に結成された大坂の詩文社「混沌社」には、大坂文化のネットワーカー・木村蒹葭堂が有力なメンバーとして加わっていた。蒹葭堂は京でも売茶翁や大典、聞中、池大雅、そして若冲たちと交流があった。
 そして独峯和尚引退の後を受けて大典は慈雲院の住持となるが、独峯の死後、大典は師の三回忌を終えたのち、病と偽って相国寺を辞し京の郊外に閑居す。宝暦九年二月十二日(1759)、大典和四十一歳のときであった。そして十三年間、鷹峰、山端、華頂山下などに住まいして市井にまじり、詩作、文筆著述業に専念した。彼は佛学、経義、詩文に通じた当代隋一の文人であり学僧であった。
 この年、三歳違いの若冲は四十四歳。時代を代表する学者で文人である僧大典が、なぜか寺を出、栄達を拒む。若冲はそのような彼を尊敬していた。また大典は若冲に画の天才を見抜きそのひとと才能を愛する。
 大典の蔭からの推挙で、鹿苑寺大書院の障壁画を描いたのは宝暦九年、大典が寺を出る年である。
 
 明和四年(1767)、相国寺は連環結制を営む。全国の雲水修行僧が同寺に参集することになった。本山は大典に帰山をうながすのだが、彼はなおも承諾しなかった。すでに四十九歳である。
 そして明和九年四月、再三の復帰要請を断ることもついにかなわず、大典は相国寺慈雲院に戻る。大典五十四歳、若冲五十七歳であった。
 安永七年(1770)には幕府より朝鮮修文職に任ぜられた。翌年には相国寺第百十三世住持に、そして五山碩学にも推挙された。天明元年(1781)、以酊庵輪住の任にあたり対馬に着任。約三年間の任期をつとめる。そして天明八年の大火の後には寺復興のために全力を投入し、享和元年二月八日(1801)、若冲没の半年ほど後、友を追うように慈雲院で没した。
 大典の命日二月八日は、くしくも若冲が錦街で生まれた誕生日であった。
<2017年1月5日 南浦邦仁>
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若冲の謎 第9回 <天井画 後編>

2016-12-30 | Weblog
<湖南蕉門>

 かつて蝶夢和尚が再興した義仲寺だが、幕末に炎上する。安政三年二月七日(1856)、寺の軒下に隠棲していた乞食の失火で、義仲寺無名庵と翁堂ともに焼失してしまったという。
 大津町と膳所城下の俳人たち、義仲寺社中、湖南蕉門の主だった連中は協力し、再建を企てる。いまも寺に残る文書がある。『長等の櫻』に抄文が紹介されているが、参考までに全文を記載する。
  右/翁堂之額/寄付人 江州大津升屋町 中村孝造 号鍵屋 俳名花渓/
  紹介 江州大津 桶屋町 目片善六 号鳥屋 俳名通六 清六作 外ニ 青磁香炉 
  天井板卉花 若冲居士画 極着色 右 通六寄進/
  春慶塗 松之木卓 右 花渓寄進/
  再建 大工棟梁 大津石川町 浅井屋藤兵衛/
  翁堂類燃 安政三丙辰年二月七日/
  同 再建 安政五戊午年十月十二日 遷座/
  義仲寺 執事 三好馬原 小島其桃 中村花渓 加藤歌濤/

 これによると、芭蕉堂の再建は安政五年、和宮降嫁決定の二年前ということになる。また同文書には、若冲花卉図のおさめられた年の記述がない。それ以外にも気になる点が多い。
 まず中村孝造は号花渓だが、大津町の豪商、米問屋・両替屋の八代目鍵屋中村五兵衛、「鍵五」孝蔵である。孝造ではなく、孝蔵である。彼は湖南蕉門の若手リーダーとして当時、義仲寺を拠点に活躍した俳人であり、また茶もよくした。鍵屋は代々、各藩の藩米を一手に扱う御用達として、大津でもいちばんの豪商であった。また各藩に膨大な額の金を貸付けていた。
 維新後、この大名貸しのために鍵屋は破綻してしまうのだが、中村花渓は明治二年、四十七歳にして還暦と称し隠棲してしまった。彼は繊細でやさしさに溢れる人柄であった。俳諧の仲間からの信頼も厚かった。中村花渓の一句を紹介する。
 鶯のはつかしそうな初音かな

 鳥屋通六は、魚屋通六が正しい。俳名通六は「魚屋」の目片善六であり、鮮魚問屋と料亭を商っていた。魚屋は琵琶湖の魚だけでなく、雪が降るころになれば、はるか日本海の敦賀の漁港から雪でかためた鮮魚を陸送し、湖北の塩津港から琵琶湖を帆船の丸子舟で運んだであろう。強風の比良おろしのもと、冬場にしかできない海鮮魚の搬送である。さらには新鮮な魚は湖南のみでなく、京の街にも逢坂越えで運ばれたのではなかろうか。京は新鮮な海の魚に乏しい。大坂から淀川を早船で輸送したことは知られるが、おそらく冬場、琵琶湖ルートでも日本海の魚が運ばれたであろう。魚屋は京の錦市場とも繋がりをもっていた。
 さて、これらの記載から思うに、前記義仲寺文書は明治中期以降に、過去の伝承や手控えをもとに書かれたのであろうと思う。執事のひとり小島其桃は大津後家町の筆墨商、通称墨安の小島安兵衛である。没年明治二十四年、享年八十一。彼の没後ではないか。

 そして決定的な書付が同寺にあった。翁堂天井裏にあった墨書板である。2006年の堂修理の際に発見された。
「若冲卉花之画/天井板十五枚/寄付之/安政六年己未夏/六月/大津柴屋町/魚屋通六」
 花卉図十五枚が天井に収まったのは、安政六年夏(1859)のことであった。寄進者は魚屋の通六である。

 それから、前の文書で気になるのは「堂再建 安政五戊午年十月十二日 遷座」の部分である。安政五年の芭蕉の命日である十月十二日に再建され、翌年の六月に絵がはめられたのであろうか。ずいぶん間延びしている。堂の建築構造は、同寺執事の山田司氏からご教示いただいたが、建物と格天井は一体になっており、後から天井を造ったのではない。建物を建てるとき、同時に十五格子の天井もはめ込まれている。
 「遷座」の字に注目すると、堂再建のため十月十二日に神聖なる翁の霊を焼失地から遷座。そして地鎮再建に取りかかり、翌年六月に完工し、同時に天井絵も据えつけられた。このように考えるのがいちばん素直な解釈ではなかろうか。
 いずれにしろ安政六年六月に若冲画が天井を飾ったことに違いはない。和宮の降嫁決定はその翌年である。大津本陣にあったかもしれない天井画が移されたと考えることには無理があろう。

 それならば、この十五枚はもともと、どこの天井を飾っていたのであろうか。まったくの推測でいえば、やはり石峰寺であろうと思う。観音堂が完成する前、同寺の絵図に描かれている小さな楼閣ではないか。観音堂完成後、おそらく十五枚の花卉図は取り外され、錦市場の伊藤家に収められたと考える。幕末期、大津町俳人の魚家通六こと目方善六が、新築する翁堂のために同家から譲り受けたのではないか。通六は仕事柄、錦街の同業者や俳句仲間と接触していたはずだ。飛躍した空想であるが、そのように考えるのも一興である。


<もうひとりの蝶夢>

 俳僧蝶夢のことは記したが、明治大正期に京都で活躍した同名の蝶夢が、もうひとりいる。小松宮が羅漢像を所望した旨の文書を紹介したが、同書で信徒総代に名を連ねた雨森菊太郎である。雨森家は代々、石峰寺の檀家である。彼は儒学者月洲岩垣六蔵の次男として、安政五年七月七日(1858)、義仲寺翁堂焼失の翌年に生まれた。後に雨森善四郎の養子となる。同家は近江国伊香郡の出であり、江戸前期の儒者・雨森芳洲の一族に繋がる。号は蝶夢。

 菊太郎は幼いころから、儒学を父親から学ぶ。その俊才が槇村正直京都府知事の目にとまり、抜擢を受けて城北中学校に通い、かたわら独逸学校で語学を習得する。新島襄とともに同志社を設立した創設者のひとり、山本覚馬について政治経済の要旨を修め、漢学を菊池三渓と石津潅園に学んだ。これらの修練・和独漢政経学が、その後の活躍の土壌になったと蝶夢本人は語っている。
 明治十年(1877)に京都府に出仕するが、六年後に致士退官する。そして十六年に日出新聞(京都新聞の前身)に、社長の浜岡光哲に乞われて入社した。その後、亡くなる大正九年(1920)まで、二十年近く社長を続ける。「京都第一の新聞」という市民の評価を在任中に得た功績は大きい。
 十八年には京都府会議員に当選。三十一年に衆議院議員当選のために府会を辞任するまで在任した。なお師の山本覚馬は、明治二年から十年まで京都府顧問をつとめている。そして二十二年の市制実施に伴い、雨森は市会議員に当選し、さらに市会議長を十一年もの長きに亘って続ける。
 彼はまた、請われて多数の会社の役員・社長の任を受け、京都政財界のリーダーと呼ばれた。さらには教育や美術工芸の振興のためにも尽力した。たくさんの学校の創設や運営にもかかわったが、なかでも京都府画学校、いまの京都市立芸術大学であるが、同校の基礎を築き発展に貢献した業績も大きい。二十二年の市制実施にともない市立になった画学校に、雨森は親友の市長・内貴甚三郎らとともに常設委員に任じられた。彼は没年まで、同校の評議員を続ける。明治二十二年、京都美術協会創立にも尽力した。また彼の書画鑑識の目が確かであったことも、同時代人には驚異であった。
 また忘れてはならないのが、社寺に対する擁護の活動であった。明治になって衰退した各寺と什宝を守り復興するために、蝶夢が取った行動は目を見張るものがある。彼がつとめた信徒総代は五社寺を越え、評議委員や社寺会役員も同数ほど、宗派に拘わらず社寺のために力を尽くした。

 明治初年、相国寺も疲弊した。禅宗各寺を支えたのは、将軍家や大名、武士階級、そして豪商や知識人などが主であった。それら階級の没落とともに、同寺も頽廃する。本山境内周囲にあった塔頭は廃寺になってしまった。明治二十二年(1889)、住持独園禅師の大英断で、相国寺は若冲の最大傑作「動植綵絵」三十幅を宮中に献納する。そして宮内省からは、金一万円が寺に下賜される。相国寺はこれを資金に、人手に渡らんとしていた周囲の廃寺跡を買い戻し、現在の寺域を保つことができた。
 相国寺では毎年九月十五日、いまも一山総出頭のもとに斗米庵若冲居士忌を修行している。そして各塔頭でも、朝課の回向に必ず斗米庵若冲居士の戒名を読み込んでいる。同寺においては若冲の業績は、その名とともに永遠である。

 「動植綵絵」斡旋には、北垣国道知事と土方久方宮内大臣の力があったといわれている。しかしふたり以外にも、陰で尽力したと思われる人物がいる。日本美術行政の第一人者の男爵九鬼隆一と、蝶夢雨森菊太郎である。蝶夢は当然、若冲と「動植綵絵」のことに精通していた。おそらく義仲寺を再建した、同じ号をもつ蝶夢和尚と翁堂の若冲天井画のことも、知っていたであろう。
 明治二十三年、『若冲画譜』が刊行される。信行寺の天井絵百六十八枚のうち、百画を選んで木版で摺った版彩色全四冊である。題字序は帝国博物館総長で、前年に美術雑誌『國華』を創刊した九鬼隆一。序の「國華」の太い字が躍る。なお精巧なカラー印刷技術のない当時、色刷りは版画によった。
 雨森は『若冲画譜』の後書き、跋文を書いている。「最近、京都の美術工芸が新時代に対応して改良が求められ、織工、陶工たちが古名画を争って利用適用し、新しい作品の資としているが、この若冲画譜は、画家のためばかりでなく、これら各種美術工芸家の模範となるであろう」。美術工芸の振興や教育に尽力した蝶夢の故事がしのばれる。
 跋文は長い漢文であるが一部、末尾原文を引く。なお[榮土]は墓の意、應真は羅漢、居士は若冲である。「余家先[榮土]在石峯寺正與居士塚及其所造應真像地相密邇則余於居士不為全無縁因者况余亦居常屬望美術之振興者乃此譜之成安得[受辛]而不一言於是乎跋/明治二十三年四月/蝶夢散史識」
 なおこの本は、明治四十二年に芸艸堂(うんそうどう)から再刊されたが、同社は初版の版木百枚すべてを所蔵し、現在も明治二十三年版「若冲木版花卉画」を摺っておられる。

 蝶夢雨森菊太郎没後、七回忌に追悼集『蝶夢居士』が刊行されたが、同書の序も九鬼隆一が書いている。ふたりは社寺保存、什宝調査等、連携協力していたのである。
 日本美術界の恩人、フェノロサの墓は大津市の園城寺・三井寺法明院にある。一周忌供養のために、美術振興を企図する絵画展が三井寺円満院で開かれた。明治四十二年のことであるが、発起人には九鬼隆一、岡倉覚三、高崎親章、益田孝、本山彦一などとともに、雨森菊太郎と親友の内貴甚三郎の名もある。なお高崎はそのころ大阪府知事だが、小松宮羅漢申請書を受け取った元京都府知事である。
 また円満院はかつて、近江の応挙寺として知られた祐常門主の門跡寺院だが、昭和四十年まで義仲寺は円満院の末寺であった。歴史の奇遇には、驚かされることが多い。

 雨森は大正九年五月四日(1920)に亡くなった。墓は石峰寺にある。羅漢たちと若冲の墓にはさまれた中間の位置、洛南と洛西を見晴るかす高台にある。まるで羅漢たちと若冲を見守るごとくである。雨森蝶夢が慕った俳人の四明翁(1849~1917)が石峰寺筆塚を読んだ句が印象深い。
  若沖の筆塚古りて萩芒(すすき)

 文末に際して、『荘子』の胡蝶がみたであろう百華の夢のことを思う。それは彼岸の花園のごとく、見事に美しい。
 <2016年12月30日 南浦邦仁>


 信行寺 天井画


※この稿を最初に書いたのは、もう10年ほども前のこと。萬福寺文華殿発行の年報『黄檗文華』(2007年126号)に「若冲逸話」と題して寄稿した。その後、若干は書き加えたが、ほぼ原文通りである。
 ところが最近になって、異説が出だした。石峰寺から東大路仁王門の信行寺に移った花卉図167枚と款記1枚、全168面の天井画がいつ移動したかという、新しい疑問である。これまでは明治初年に石峰寺が手放したというのが定説だったが。
 新説では「明治になってからではなく、幕末に石峰寺から信行寺に移ったようだ」。そのようにいわれだしたのは、2015年秋にはじめて信行寺天井画が公開されたのが機縁である。複数の専門家や当事者の声のみで、記されたものはまだないようだが、寄贈者の井上氏は過去帳によると、どうも維新以前に亡くなっているという。現在も檀家である井上家には、幕末に寄贈した記録があるらしい。
 詳細は一切不明だが、ぜひ調査の結果を公表していただきたいと思う。

 なお廃仏毀釈以前に石峰寺が手放した理由がわからないが、京を襲った大地震で観音堂が損壊したためということも考えられる。文政13年7月(天保元年 1830)、京都は大地震に揺れた。文政の地震は翌天保2年まで大きな余震が続く。
 この地震のことは、天保4年(1833)に石峰寺の若冲墓横に建立された筆塚にも記されている。「三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた」。この大地震で観音堂も大きな被害をうけたのであろうか。

 その後、安政年間の日本列島各地は大地震と大津波に相次いで襲われ、おびただしい数の国民が甚大な被害にあった。安政元年(嘉永7年 1854)6月にまず伊賀上野地震、同年11月4日には安政南海地震。その32時間後の5日には、安政東海地震が連動した。安政2年には江戸、3年には八戸、5年には飛越の大地震と続く。幕末安政は大地震津波の激動期でもあった。義仲寺翁堂に15枚の天井画がおさまったのは安政6年6月である。(12月30日 追記)
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若冲の謎 第8回 <天井画 前編>

2016-12-28 | Weblog
伏見深草の石峰寺は若冲五百羅漢で有名だが、同寺には明治初年まで観音堂があった。天井の格子間には若冲筆の彩色花卉(かき)図と款記(かんき)一枚、あわせておそらく百六十八枚が飾られていた。しかし明治七年から九年の間のいつか、廃仏毀釈の嵐のなか、寺は堂を破却し、格天井の絵はすべて売り払われてしまった。
 だが幸いなことに、それらは散逸することなく、京都東大路仁王門の浄土宗・信行寺の本堂天井にいまはある。同寺の檀家総代の井上氏が散逸を恐れ、一括して古美術商から買い取って寄進したのである。
 石峰寺の観音堂は失われてしまったが、元の位置は本堂の北方向、旧陸軍墓地、現在は京都市深草墓園になっている隣接地だった。
 
 若冲画「蔬菜図押絵貼屏風」(そさいずおしえはりびょうぶ)に付属した由緒書が残っている。それによると深草・石峰寺の観音堂が建立されたのは寛政十年(1798)夏、若冲八十三歳のときである。入寂の二年前にあたる。
 由緒書によると観音堂は大坂の富豪、葛野氏が建てた。その折りに、武内新蔵が観音堂の堂内の仏具や器のことごとくを喜捨した。感動した石峰寺僧若冲師が、この蔬菜図を描いて新蔵に与えた。「自分が常づね胸のうちに蓄えておいた<畸>(き)を描いたのだ」と若冲師は語ったという。表装せずに置かれていたこれらの絵は、新蔵の孫の嘉重によって屏風に仕立てられたと記されている。
 
 ところで「畸」なり「畸人」の語は当時、よく用いられたが、出典は『荘子』「第六大宗師篇」によるとされる。「子貢が曰く、敢て畸人を問ふ。曰く、畸人は人にして畸にして、しかして天にひとし」
 
 
<義仲寺と蝶夢>
 
 不思議なことに、若冲の天井画・花卉図はもうひとつの寺にもある。滋賀県大津市馬場の義仲寺(ぎちゅうじ)に現存する。同寺の翁堂の格天井を飾る十五枚である。
 義仲寺は名の通り、木曽義仲の墓で知られる。元禄のころ、松尾芭蕉がこの地と湖南のひとたちを愛し、庵を結んだ。大坂で没後、遺言によって芭蕉の遺体は義仲墓のすぐ横に埋葬された。又玄(ゆうげん)の句が有名である。
  木曾殿と背中合せの寒さかな
 
 翁堂は大典和尚の友人でもあった蝶夢和尚によって、明和七年(1770)に落成している。蝶夢は相国寺の東に位置する阿弥陀寺、帰白院住持を二十五歳からつとめたひとであるが、亡き芭蕉を慕うこと著しかった。芭蕉七十回忌法要に義仲寺を訪れ、その荒廃を嘆き再興を誓った。三十五歳のときに退隠し、京岡崎に五升庵を結ぶ。そして祖翁すなわち芭蕉の百回忌を無事盛大に成し遂げ、寛政七年(1795)、六十四歳でこの世を去った。ちなみに阿弥陀寺は相国寺の東、徒歩数分のところにある。
 なお五升庵には、若冲の号・斗米庵(とべいあん)と同じ響きがあるが、明和三年(1766)に蝶夢が寺を出る三十五歳のとき、伊賀上野の築山桐雨から芭蕉翁の真蹟短冊を贈られたことによる。
  春立や新年ふるき米五升
 
 斗米庵号は、宝暦十三年刊『売茶翁偈語』(ばいさおうげご/1763)に記載のある「我窮ヲ賑ス斗米傳へ来テ生計足ル」に依るのであろうか。若冲が尊敬し慕った売茶翁が糧食絶え困窮したことは再々あるが、この記述は寛保三年(1743)、双ヶ丘にささやかな茶舗庵を構えていたときのこと、友人の龜田窮楽が米銭を携え、翁の窮乏を救ったことによるようだ。当時の売茶翁は、茶無く飯無く、竹筒は空であった。
 
 大正四年(1915)十一月十五日、鴎外森林太郎は、史伝『北条霞亭』(かてい)を書く前、霞亭の師・皆川淇園の墓に詣でた。「寺町通今出川上る阿弥陀寺なる皆川淇園の墓を訪ふ」。蝶夢和尚の墓も同地にある。なお森鴎外は史伝『北条霞亭』の新聞連載のはじまった大正六年、陸軍軍医総監を退き、帝室博物館総長に就任する。九鬼隆一がかつてつとめた任であった。
 ちなみに淇園墓碑銘の撰・文は松浦静山が記した。彼は平戸藩主で、名著『甲子夜話』(かっしやわ)の著者である。書は膳所藩主の本多康禎。ふたりはともに淇園の門人である。淇園は度々、膳所の城を訪れているがその都度、蝶夢和尚の義仲寺に立ち寄った。義仲寺は城の手前、わずか徒歩十余分のところで、城も寺も旧東海道に面している。
 霞亭が淇園に師事したのは十八歳の時であるが、「年十八、笈(おい)を京師に負ひ、大典禅師に謁して教へを請ふ。禅師示すに一隅を以てし、後、淇園先生に就きて正す」。霞亭は淇園に先立って、まず大典和尚に師事したのである。淇園の細心な計らいであろうか。なお北条霞亭は、後に蝶夢の五升庵号を襲いだ俳人の柏原瓦全と親友であった。
 
 蝶夢和尚も十八世紀京都ルネッサンスの中心人物のひとりだった。天明四年二月二十六日(1784)から七日間、大典和尚と『近世畸人伝』の著者・伴蒿蹊(ばんこうけい)、俳人去何らと京摂間の花見に出かけている。句友だけでなく、交友の広い人物だった。
 また蝶夢が皆川淇園に送った手紙のことが、高木蒼梧と北田紫水の記述にある。淇園の俳句の添削や、人物照会にも丁寧に応え、春になれば淇園の奥方と一緒に風雅に出かけようと記している。正月二十五日に淇園に宛てた手紙だが、残念ながら何年の差し出しかは不明である。
 
 ところで江戸時代初期の仏師、円空の伝記は『近世畸人伝』にのみ記されているといってもよいほど、円空のことを書いた文書は少ない。同書の記述は伴蒿蹊の親友であった三熊花顛(みくまかてん)が天明八年春(1788)、大火の直後に飛騨高山に取材したものである。全国の俳諧仲間を尋ねて各地を巡った蝶夢だが、かつて飛騨高山の高弟・加藤歩蕭を訪れたときに、円空の事跡を聞いた。花顛はそれを受け、蝶夢和尚の紹介状を手に、この年の春秋二度、高山に取材し貴重な円空伝が残されたのである。あらためてこの時期、交流の重層濃密にして多士済々、百華繚乱の京を実感する。
 なお伴蒿蹊は『都名所圖會』を書いた秋里籬島の文章の師であった。『近世畸人伝』ともに両書は当時、大ベストセラーになった。名文である。
 
 
 義仲寺 翁堂
 
 
<翁堂天井画>
 
 話しが脱線してしまったが、蝶夢和尚が再興した近江大津馬場、義仲寺の若冲花卉図の謎を考えてみよう。
 これまで先達の見解は、義仲寺の若冲天井画十五枚はおおむね石峰寺観音堂から流出したものの片割れであろうとする。
 
 小林忠氏が義仲寺芭蕉堂天井にはじめて見出したのだが、若冲筆になる十五図の花卉図は伏見深草の石峰寺観音堂の散逸分かと思われる、と同氏は記述しておられる。
 辻惟雄氏は、芭蕉像を安置した翁堂の天井にも、酷似した様式の花卉図十五面が貼られていることを小林忠氏に教えられた。東山・信行寺同様に檀家の寄付したものである点を考え合すと、この十五面も、もと石峯寺観音堂天井画の一部であった可能性が強く、同じものの一部とほぼ推定される。ただ、円相の外側が板地のままで、群青(ぐんじょう)が施してない点が信行寺のものと異なるが、これは信行寺の方も当初は板地のままだったことを意味するものかもしれないとの判断である。
 狩野博幸氏は、信行寺の天井画と連れだったと思われるものが、大津市の芭蕉ゆかりで名高い義仲寺の翁堂の天井に十五面ある。信行寺の方は円形の外側は群青に塗ってあるが、義仲寺の方は円形のままであり、連れだったかどうか、いまひとつ確証がないと記しておられる。ちなみに画の円相の直径は、信行寺の方が一センチほど大きい。
 佐藤康宏氏は、信行寺の百六十八面と別れて、大津の義仲寺翁堂にも十五面が伝わるという。
 ただ土居次義氏は、幕末に大津本陣から移されたものではないかと言っておられる。幕府と朝廷の融和を図る公武合体策によって、孝明天皇の妹の和宮内親王は、婚約していた有栖川宮熾仁親王と引き離される。そして第十四代将軍徳川家茂に降嫁することになり、京から江戸に向かう。一泊目の宿が大津本陣であった。降嫁の最終決定は万延元年(1860)、建物の古かった大津本陣は建て替えが決まり、翌文久元年に完工し、和宮一行東下の宿泊所として利用された。
 土居氏は、旧本陣格天井にあった花卉図がこのときにはずされ、義仲寺に移されたのではないか。それが若冲画だったのではないか、と推察されている。
<2016年12月28日 南浦邦仁>
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若冲の謎 第7回 <石峰寺五百羅漢 その4>

2016-12-19 | Weblog
<石亭画談>
 
 明治十七年(1884)、竹本正興石亭が『石亭画談』に書いている。
 近時伏見に遊び百丈山石峯寺に到り、親しく寺中をめぐるに、本堂の右、小高き所に一小楼門あり。漸次山にのぼるに、その石像、もっぱら五百羅漢に止らず。阿弥陀三尊観音地蔵釈迦誕生および涅槃、その他諸仏獣畜等、ことごとくこれを山間樹隙に点続し、配置の位置などにも工夫をなして東西南北に布列す。また若冲の墓あり。これは貫名海屋撰文の若冲の小伝である。すべて一奇観というべし。惜しいかな、これを保存するに意を用いるものなく、苔癬剥蝕(タイセンハクショク)あるいは破壊し、あるいは崖下に転落するものもあり。散失もまた疑いなきなり。寺に入り主僧と話す。主僧いわく、寺は資力に乏しく、これらを保存することが困難であると。ともにその荒廃につくを嘆いて別れる。
 寺では石像諸仏布列の図を版画にし、信者のためにこれを施している。山中精一後に書する所の詩、また載せて図上にあり。その詩にいう。「斗米先生画才有リ、雲ヲ被ヒ石ヲ刻ミ像ハ奇ナリ、峯頭活溌霊気ヲ発ス、五百ノ群ニ成リ羅漢来ル」。その図は実に若冲七十五歳の筆である。好事の士は、必ず寺に詣て石像をみてその奇なるを知るべし。
 
 なお石峰寺は竹本石亭が記した版画を二枚所蔵しておられる。一枚は複写だが、扁額に「遊戯神通」と明記されており、もう一枚は画はほとんど同じで、額に「遊戯」とのみ記されている。
 
 同寺はいまも、版画「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」を頒布している。現在使用している版木は大正七年(1918)、原摺画よりの再刻だが、大正四年の同寺火災で版木元版を焼失してしまったためである。門も扁額も描かれていない。
 参考までに、大正七年新版木・裏面の記載を紹介しておく。「寄附洛南深草里百丈山/石峰禪寺蔵版/為、亡兄宣東宗興居士/十七回忌居士菩提也/大正七年五月十九日/洛東五條袋町住/平野保三郎/敬白」
 
 さらに大正十五年には、秋山光男が京都の錦市場に出向き、当時は雑穀商を営んでいた橋本屋の主人、安井源六に取材している。若冲の伊藤家は幕末に衰退し、あとは親戚筋の安井家が同家の後を継ぎ、近くの宝蔵寺にある伊藤家の菩提も弔っていた。秋山著『若冲研究序説』によれば、安井家には「若冲下絵の版画横物、石峯寺五百羅漢図に長崎僧、桃中一の着賛したものがあった。その箱の底裏には米斗庵所蔵と書かれていた」。横物とは横長の画で、版画を軸装にしていたのであろうが、それらは失われてしまった。
 
 ただ現在の石峰寺版画には、余白がない。大正期に再刻した折、トリミングしてしまったのだろうか。画面に詩を彫りこむ余地がない。
そして明治二十二年刊の「絵画叢誌」にも五百羅漢の記述があるが、筆者は寺に来ることもせず、伝聞をもとに記述しているので割愛する。
 
 
  大正7年版「深草百丈山石峰禪寺石像五百羅漢」
 
 
 
 
<『京都府寺誌稿』>
 
 石峰寺の若冲五百羅漢について、もっとも詳しく正確な明治期の資料は『京都府寺誌稿』である。明治二十四年に北垣国道京都府知事の提唱により、府内の有名各寺に寺の来歴や什宝、原状などを報告させた資料をまとめた寺誌集である。石峰寺の原稿は、住持拙門和尚によって、二十四年か翌年に記されたものであろう。石峰寺が提出した文書のなかの「五百羅漢石像」項を意訳してみるが、やはり後山はかつて、釈尊一代記のパノラマであり、佛伝テーマパークとでも呼ぶべき、石像数は千体を超す壮大な光景であった。
 
 「長さは六尺八寸から二尺五寸ほど、現在おおよそ六百体あり。羅漢建立の年度は安永末年で寛政年間に竣成したという。当時石峰寺前所に閑居していた斗米庵伊藤若冲が画類を描き、石像を石川石をもって造った。石峰寺六世俊岳哲和尚が願主となり、そして第七世密山修和尚が洛中洛外、近隣の国郡にも出向いて、首に勧進の函箱を懸けて鉢を持ち、鐘を叩き“深草石峰寺五百羅漢建立”と、東奔西走し金銭米穀、有信の施物を仰ぎ、その喜捨浄財をもって星霜十余年を経過し、竣切したとのこと。一体の像でも、一人あるいは二人三人の寄附によって建立された石像群である」
 
 若冲の石像造営作善は、わずか数年にして当初の完成をみた。第一期五百羅漢完工を成し得たのには、密山和尚の勧進勧化、粉骨砕身の尽力が大きかったことが知られる。若冲が画を米一斗と交換していただけでは、これだけの短期間に事業を完遂することはできなかったであろう。第二期以降も、密山和尚の勧進業、民衆の喜捨、それらが合力されての十数年にわたる事業が完成された。
 また若冲の大作モザイク画「鳥獣花木図屏風」「樹花鳥獣図屏風」などは、石像山の造営資金を集めるために、若冲工房の総力を動員して制作されたのではないかと思う。画の升目描きには西陣織との関連が指摘されているが寛政十二年、相国寺主催の若冲四十九日法要に、西陣の富商・金田忠平衛とおぼしき人物が招かれている。金田がこの屏風制作に関わり、勧進に貢献したことも推測される。豪商たち、パトロンもかかわっていたであろう。
 
 深草石峰寺の拙門和尚によると、後山の若冲石像の配置は世尊在世中の逸事を形取り、第一画題は世尊の誕生。第二は世尊が王家嫡男である系統を捨てて入山。第三画題は、雪山(せっせん)での六年間におよぶ苦行を終え、山を降りての出山外道教化。第四は華厳教悦法。第五は般若浄土。第六は霊山會上。第七は祇園精舎二十五菩薩雍護。第八は法華教授。第九が涅槃。第十は塔所に至る。世尊に附帯表順させて羅漢を配置している。 
 それ故に諸佛や羅漢、そして鳥獣などを合わせて合計千体を超える。すべて石峰寺山上に羅列し、また山間渓谷に橋梁を架け、二十四橋を構え、実に壮厳に造り上げている。見る人すべてが驚嘆した。
 ちなみに塔所とは、石峰寺歴代住持の墓所である。いまも一般墓地とは離れ、西方の少し低い地に一角を占める。開山僧・千呆禅師の遺骨も埋葬されている。
 
 そして拙門和尚は語る。願主の俊岳和尚は寛政八年(1796)に、若冲居士は同十二年に、密山和尚は文化十二年(1815)に、おのおの物故してしまった。そして経ること百余年の今日に至り、破戒僧および奸僧のために石造物は散乱し、往時の盛観を失ってしまった。現今は十画題の内、誕生佛、霊山会上、涅槃、塔所の四所のみを残すのみになってしまった。六百余個が在しているが、四百個以上が売却され、三都や地方の有数の邸園に翫弄物として散在してしまったのである。
 
 ところで石峰寺が明治前期にこれほど凋落してしまった原因のひとつは、寺の大きな収入源であった伏見船から得ていた運上が、幕府の瓦解とともに失われたためである。伏見の港を中心とする伏見舟は、淀川船すなわち過書船同様に、淀川や宇治川に就航した人荷運搬船である。伏見船の運上益金は、正徳四年(1714)に伏見の郷士・坪井喜六益秋が、幕府から与えられた免許権利の一部を寺に寄進したものである。淀川通船のうち、小回り船三十艘の運上を寺門香燈の資として、坪井が永代寄附したことによる。また福建省から長崎に来航する支那船からの香燈金収入も、伏見船以上に大きかった。
 黒川創氏によると、幕末期の石峰寺収入は、まず支那船の香燈金が年平均二百四十八両。坪井喜六の伏見船からは一艘年三両、三十艘で九十両。それと二万五千坪もあった寺域の一部から得られる年貢収入が五十両ほど、合わせて年四百両ちかい。
 
 明治初期、廃仏毀釈と上知令の嵐が、寺宝流失や堂の破却にも拍車をかけた。拙門和尚から破戒僧と名指された二代にわたる住職が、かつて俊岳と密山両和尚の勧進、若冲の奉仕や、たくさんの庶民の浄財喜捨でもって完成された石峰寺と石像らを、それこそ破壊してしまったのである。
 しかし、そのころに全国の宗教界を突如襲った激流を振り返ってみて、ふたりの和尚だけを責めるのは、あまりにも酷であるとも思う。
 
 
 
<『京都府紀伊郡誌』と『新撰京都名所圖會』>
 
 大正四年刊『京都府紀伊郡誌』によると、同年一月六日に石峰寺は火を発し焼燼してしまったが、残っている山門、小門ともに漢風に擬し形状は頗る奇巧である。後山には釈尊槃像(坐像六尺ばかり)を中央に安置し、周囲に十六羅漢、五百大弟の石像を置く。風餐雨食、彫鑽粗朴、わずかにその面目を認るのみ。
 その後、昭和の初年になって、拙門和尚の後を継いだ、第十六世龍門和尚が山を整備し、数少なくなっていた石像を、現在の配列に並べかえた。吉井勇がかつてみた若冲の羅漢たちは、現在われわれが目にする様子とほぼ同じである。
 ちなみに昭和三十八年刊『新撰京都名所圖會』では、石像群を九所に分けて記載している。釈迦誕生、来迎諸菩薩、出山釈迦、十八羅漢、説法場、羅漢座禅窟、托鉢修行、釈迦涅槃、賽の河原である。この分類は、石峰寺にて頒布している現在の寺案内冊子と同じである。
 
 
 若冲五百羅漢に興味ある方はぜひ、伏見深草の石峰寺を訪れてみてください。寺は伏見稲荷の南東、徒歩わずか十分たらずに位置しています。そして若冲の墓にも参拝に立ち寄りください。
 また石峰寺と若冲五百羅漢を守るための「石峰寺伊藤若冲顕彰会」(年会費三千円)への入会もおすすめします。同寺で年ニ回開催される若冲画展と、九月十日の若冲忌にも招待されます。
 
  どの駅からも徒歩10分以内です。
 
 
 
<2016年12月19日 南浦邦仁>
 
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若冲の謎 第6回 <石峰寺五百羅漢 その3>

2016-12-16 | Weblog
〇お知らせ:TVで「若冲特番」が放送されます。
  BS朝日 12月22日木曜 19時~21時 
  仮題「生命を見つめた絵師 若冲は生きている」
 
 
 
<遊戯神通>
 
 横井清著『中世民衆の生活文化』に、遊び・遊戯・遊戯神通について次のような記述がある。
 橋本峰雄氏によれば、日本人の遊びの精神の転変をつらぬいてその根本にあるものは、実に大乗遊戯(ゆげ)なのであり、それは「遊戯三昧(ゆげざんまい)」の語に表現されるような、仏教的な遊びの精神でありながら、容易に、人生すべて遊びであるという、自由とゆとりの精神として世俗化できるものだという。
 「遊戯三昧」は「思いを労せず無碍自在(むげじざい)に往来すること」、また「優游(ゆうゆう)自在なること」。そして類似の語「遊戯神通」は、「仏・菩薩が神通に遊んで人を化(か)し、以て自ら娯楽する」をいう。
 
 多田道太郎氏は、橋本峰雄氏の「神遊びから大乗遊戯まで」は、ヨーロッパと日本の世俗化の二つの道を示している。そしてこの二つの道は、橋本氏によれば、ともに大乗遊戯の精神にいたる可能性を今日もっているのである。
 
 『岩波仏教辞典』では、<遊戯>(ゆげ)は、仏・菩薩の自由自在で何ものにもとらわれないことをいう。漢語の<遊戯>(ゆうぎ)については、『史記』荘子伝の用例で、何ものにも束縛されることのない自由な境地を意味しており、『荘子』逍遥遊に代表される<遊>の思想を踏まえたものであろう。その意味では、書画や文章をはじめ芸術における自由無碍の境地を称して用いられる<遊戯>は、仏語によるよりもさかのぼって『荘子』の<遊>の思想に系譜づけることができる。この項は福永光司氏の記述であろう。
 
 『梁塵秘抄』には「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」。「遊戯」は自由自在のようである。
 
 
 
  河治和香著 小説『遊戯神通 伊藤若冲』小学館 2016年刊 本体1650円
 
 
 
<天明の大火>
 
 皆川淇園や応挙たちが石峰寺を訪れたニ日後、応仁の乱以来の大災が京の都を襲う。天明の大火である。正月三十日未明、鴨川の東岸、四条大橋の南の宮川町団栗辻子(どんぐりのづし)新道角、某両替店より失火した。折りからの強風で、火は鴨川を越えて寺町四条近辺に飛び火する。それより三方北西南に広がり、二昼夜焼け続けた。禁裏御所、二条城はじめ三十七社、二百寺、町数千四百余、町家三万七千軒、罹災世帯六万五千余戸と、京の五分の四以上を焼き尽くした。
 この大火の記録は数多く残るが、例えば「東風小、大変、京洛中、不残大火、不残、未聞之事とも、筆紙難尽次第」。若冲の師友であった相国寺の大典和尚は幕府公務のために江戸に赴いていたが、三月三日に帰京し「燃亡する者、十が九、実に未曾有の大変異と謂ふ可し」。後に述べる俳僧、蝶夢和尚は「火災など申にては無之、応仁後の大変にて候」「宗長法師が紀行に、粟田口より見れば上下の家、むかし見し十が一も見えず」と手紙に書いている。
 
 当然だが、若冲も錦街の家屋敷を失った。それまで京都有数の青物問屋「枡源」の若隠居として、弟に商売を任せきり、自由気ままに絵ばかり描いていた暮らしも一変する。錦市場に二軒あった大きな屋敷を人に貸し、その家賃で生活していた若冲だが、収入も途絶える。また弟の八百屋業も危機に瀕したが、若冲は京を去り、知己を頼り大坂そして豊中の西福寺に仮寓する。七十三歳の年であった。石峰寺の石像造営の事業は当然、中断したであろう。
 
 
  「天明の大火」京市街の八割以上が消失してしまった。
 
 
 
「蕉斎筆記」
 
 天明の大火の五年後、石峰寺門前に居を構える若冲のことを、寛政五年(1793)に広島浅野藩の平賀白山が、大坂の奉時堂松本周助からの聞き伝えとして記している。
 今は稲荷街道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後の山の中へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立している。それで斗米翁と落款を書いている。金銭だと、相場によらず一斗換算、銀六匁ずつを取る。すぐに石工の手に渡し、依頼者の好みの草画を一枚ずつ贈る。妹もありて、外へ嫁居していたが、後家となり、一人の子を連れて若冲と同居している。尼になっており心寂という。和歌を好み、石摺版画をこしらえて売っている。他人は若冲の妻なりという者もある。
 
 翌年の寛政六年、平賀白山は十月十八日に、はじめて石峰寺門前の若冲を訪ねる。「百丈山石峰寺へ参る。是には若冲居士門前に居住せり。しばらく咄をきゝぬ。ふすまに石摺のやうに蓮を書けり。面白き物好き也。五百羅漢を一見しぬ。是は山上に自然石を集め形り(ママ)に若冲彫付たり。段々迂回して道を作れり。其外涅槃像もあり。甚面白き事なり。又其山の入口に新に亭を建たり。是も若冲の物好き也。寺の左に若冲の古庵あり。庭もさびておもしろし。妹を眞寂尼といふて両人住居せり。」
 
 罹災の数年後には、若冲は後山の石像群造成の作業を再開していた。その費用捻出は、墨絵を相手の希望にあわせて描き、米一斗あるいは銭六匁と交換することであったという。衆生の作善であろう。この時、白山は若冲に詩を贈っているが、「本来無二畫禅師」と記している。畫禅師という言葉には後で触れる。
 それと興味深い記載がある。旧庵である。大火の後に、門前に居を構える前、寺の左、すなわち北隣の地に、アトリエを兼ねた小さな住居があったのだろう。後に観音堂が建つ場所辺である。
 
<画乗要略>
 
 そして三十年ほど後、天保二年(1831)に刊行された『画乗要略』では、「しかるに形似に務めず、写意を貴しとする。居を深草石峰寺のかたわらに構え晩閑す。その画をもって一斗米に換え、よって自ら斗米庵と号す。石像五百羅漢を造り、その像をいま見るに、往々その自然にしたがい、彫琢を加えず。また似に務めず」とある。
 
<筆形石碑>
 
 天保四年(1833)、石峰寺に若冲の遺言という筆塚が立てられた。文政十三年(天保元年)に京都に大地震が起き、石像群も被害を受けた。多くは倒れ、崖から転落するものもあった。そして震災の三年後に、筆塚が若冲の墓のすぐ横に据えられたのであるが、謎が多い。幕末三筆のひとり、貫名海屋(ぬきなかいおく)の碑文、筆形石碑銘撰の一部を意訳する。
 「その心霊、その腕の妙は、仙爪の所に至る。ついに仏経中の諸変相を描き出し、よって宇宙の秘を開き発した。幻の技はここまでに至った。…遺言によって墓を筆形に造り銘を記す。いまも居士のなつかしさを忘れることが出来ない。悲しいかな。三年前に大地震が京の地を襲った。いたるところで崩れ砕けしたが、石峰石像の五百応真像も同様であった。天保四年にいたって、若冲居士の孫の清房が、修理復旧につとめた。そして私をして、それらの由を墓表に記させた。居士には孫があるのである。貫名海屋撰」
 
 若冲は妻を娶らなかった。子も孫もいなかったはずだ。しかし白山は、清房を若冲の孫と断じている。筆塚の銘原文なり草稿は、清房が記したに違いない。
しかし宝蔵寺過去帳から、清房は若冲の次弟である白歳の孫とされている。平賀白山が若冲は、妹らしき尼と一人の男児と同居していると記していたその子ではないかと推測する。筆塚建立の天保四年、清房は四十三歳。平賀白山が石峰寺に若冲を訪れたのは、清房四歳のときである。
 
 しかし若冲の立派な墓は既にあった。なぜ遺言として彼の没後三十三年も経ってから、それも筆形にして再度、清房は墓横に建てる必要があったのだろうか。
 ひとつには三十三回忌であろう。かつて「動植綵絵」の相国寺献納を終えたのも、ちょうど若冲の父の三十三回忌に合わせている。また絵は総数三十三枚であるが、観音三十三身、観音霊場三十三所にも、ちなむのであろうか。若冲は、三十三という数字にこだわった。
 真寂と清房のことと、筆塚のことは、いまだに謎である。
 
<2016年12月16日 南浦邦仁>
 
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