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ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

万歳(ばんざい) №2

2009-07-31 | Weblog
 映画「ラストエンペラー」を久しぶりにDVDでみてみました。万歳(ばんざい)が気になったからです。
 一ヶ所だけ、万歳がありました。清国最後で満州国の皇帝・溥儀に皇后がこういいます。「皇帝陛下に一万年の栄光を!」。静かな語りでした。
 ところで「ラストエンペラー」は、出演者はみな英語で話しているのですね。わたしはてっきり中国語だと思い込んでいました。ですので一万年の栄光は、英語の和訳字幕です。しかし「万歳」であることに違いありません。
 それから映画「レッドクリフ」パート1もみましたが、万歳とか一万年は出てきませんでした。続編では勝利の雄たけびに「万歳」三唱があるのかもしれませんが、残念ながらまだみておりません。
 北朝鮮では、両手を高くあげて万歳を三唱するらしい。しかし日本のように上下に腕を上げ下げせず、揺らさず挙げたままらしい。現代中国では、お腹に両手をあて、若干頭を垂れて「万歳」というそうだ。一度か三度か不明ですが。
 万歳の風習は、東アジアに特有のもののようです。東南アジアでは? モンゴルや韓国では? 興味深いのですが、書いたものが見当たりません。
 ご存知の方があれば、ぜひご教示ください。
<2009年7月31日 梅雨あけず>
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謎の万歳(ばんざい)

2009-07-26 | Weblog
 TVでみましたが、つい先日の国会解散の瞬間、たくさんの議員たちが「万歳、万歳、万歳!」と、両手をあげて三唱していました。全員がクビになり、自民党不利な選挙戦に向かうこのときに、なぜ「万歳!」なのか? 謎の解散現象ともいわれています。
 万歳(ばんざい)の歴史を簡単ですが、調べてみました。事辞典に頼ることが多かったので、知ったかぶりをするのは恥ずかしいのですが…。

 まず言葉のルーツは、古代中国です。萬歳は一万年の意味。長久、とこしえです。それが、慶賀、歓呼の言葉になったといいます。
 古くは紀元前の周、そして戦国時代に記載されています。そして『韓非子』『史記』『漢書』などには「万歳千秋」とも記される。万歳は万年ですが、千秋は千年。鶴千年、亀万年。不老長寿の神仙思想も気になります。
 慶賀・歓呼の表現として「万歳」は一般に使われていたのですが、皇帝に向けて用いられた最初は、秦の始皇帝とのこと。
 また漢の武帝が崇山(すうざん)に登ったとき、「万歳を呼すこと三度」臣下は声を聞いた。この万歳の声は山神が皇帝にとなえたのだといっています。皇帝に拝謁、慶賀するときの万歳三唱(三称・山呼)は、漢の武帝の故事よりはじまるそうです。
 一説によると、武帝の故事は紀元前110年のこと、国家鎮護を崇山で祈ったとき、臣下たちが万歳の喚声をそろって一度だけあげた。それが山々に三度こだました。「万歳、万歳、万々歳」と聞こえたという。
 もともと一般に用いられていた「万歳」が、皇帝のみの専称となるのは、だいぶ時代が下って、宋代からとのこと。しかしその後、清朝では万歳の制はあったが、三呼・三称は失せたそうです。

 以上はほとんど平凡社刊『世界大百科事典』からの盗用抜粋のようなもの。穴があれば入りたい心境です。次回はもうすこし詳しく調べ、日本史や民俗学からみた日本の万歳、魂振り、万歳(まんざい)。そして天皇と万歳、国会と万歳などを書いてみたい思っています。あまり大風呂敷をひろげると、それこそお手上げのバンザイになってしまいそうですが…。
<2009年7月26日>
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西にみえるは東山

2009-07-25 | Weblog
ずいぶん前のことですが、この欄で「東川と東山」というタイトルの文を書いたことがあります。
 京都盆地は三方を山に囲まれている。東山、北山、西山です。なかでも東山三十六峰に対する京都人の思いは深いようです。
 しかし、東の山を東山と呼ぶのは、洛中に住まうひとたちの、自分勝手な言い分です。東山の向こう、山を越えれば京都市山科区。山科の住民にとって、東山は西方に連なる西山です。
 山科区のどこかの学校に、「♪西にみえるは東山」という校歌があるらしい、と聞いて「それは面白い」と思いました。本当にそのような校歌が存在するのか、調べてみようと思い立ったのです。しかし途中で馬鹿らしくなって挫折。
 このような話しをかつて書いたこと自体、ほとんど忘れていましたが、ブログにコメントがつい先日、届きました。
 「のりっく」さんという存じ上げない方ですが以下、転載いたします。

 はじめまして (のりっく)
 キーワード検索してたら、この記事に辿り着きました
 僕は山科の花山中学校出身でして、
 今から20年前の花山中学校校歌の歌い出しは…
 「北にそびえる鏡山 西につらなる東山」です。
 記事にある「西にみえるは東山」と歌詞は違いますが、実在します。
 中学時代、校歌を歌いながら「どっちやねん!!」と思ってました。

 驚きました。本当に、♪西の東山は存在したのです。のりっくさん、ありがとう。感謝感激です。
 ところで、東西南北上下左右ですが、ある図書館の方から数日前に聞いたお話しです。「イギリス制作の世界地図では、日本は右の端。極東の国というのがよくわかります。またオーストラリアの世界地図では、南北半球が逆さまで、はじめて見たときに、頭のなかが混乱してしまいました」。世界地図では、みな自国が中心なのです。
 地球儀では、東へ東へ右右へ水平に行っても、西西左左へ向かっても、出発地点に戻ってしまいます。東西などないのでしょう。上下南北だけは固定されていますが、これもおかしい。宇宙では、南北も上下もないはずです。地球儀は天地を固定せず、自由に転がるボールの状態であるべきではないか?
 ところで「東川と東山」と、のりっくさんのコメントは、このページの左欄「最新のコメント」で読めます。どうぞクリックしてみてください。
<2009年7月25日 南浦邦仁>
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若冲五百羅漢編 №17 <若冲連載36>

2009-07-22 | Weblog
「蕉斎筆記」
 天明の大火の五年後、石峰寺門前に居を構える若冲のことを、寛政五年(一七九三)に広島浅野藩の平賀白山が、大坂の奉時堂松本周介からの聞き伝えとして記している。<「蕉斎筆記」>
 今は稲荷海道に隠居して五百羅漢を建立し、絵一枚を米一斗と定め、後の山の中へ自身の下絵の思い付きにて、羅漢一体ずつ建立している。それで斗米翁と落款を書いている。金銭だと、相場によらず一斗換算、銀六匁ずつを取る。すぐに石工の手に渡し、依頼者の好みの草画を一枚ずつ贈る。妹もありて、外へ嫁居していたが、後家となり、一人の子を連れて若冲と同居している。尼になっており心寂という。和歌を好み、石摺版画をこしらえて売っている。他人は若冲の妻なりという者もある。
 翌年の寛政六年、平賀白山は十月十八日に、はじめて石峰寺門前の若冲を訪ねる。「百丈山石峰寺へ参る。是には若冲居士門前に居住せり。しばらく咄をきゝぬ。ふすまに石摺のやうに蓮を書けり。面白き物好き也。五百羅漢を一見しぬ。是は山上に自然石を集め形り(ママ)に若冲彫付たり。段々迂回して道を作れり。其外涅槃像もあり。甚面白き事なり。又其山の入口に新に亭を建たり。是も若冲の物好き也。寺の左に若冲の古庵あり。庭もさびておもしろし。妹を眞寂尼といふて両人住居せり。」
 妹のこと、子どものことは謎だが罹災の数年後には、若冲は後山の石像群造成の作業を再開していた。その費用捻出は、墨絵を相手の希望にあわせて描き、米一斗あるいは銭六匁と交換することであった。衆生の作善であろう。この時、白山は若冲に詩を贈っているが、「本来無二畫禅師」と記している。畫禅師という言葉には後で触れる。
 それと興味深い記載がある。旧庵である。大火の後に、門前に居を構える前、寺の左、すなわち北隣の地に、アトリエを兼ねた小さな住居があったのだろう。後に観音堂が建つ場所辺である。
<2009年7月22日 南浦邦仁>
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土用の丑

2009-07-19 | Weblog
 17日と31日は土用の丑。バレンタインデーのチョコレートのようにウナギが、飛ぶように売れる日です。京都新聞のコラム「凡語」によると、土用ウナギを発案したのは、江戸時代後期の科学者・平賀源内らしい。
 馴染みのウナギ屋から相談を持ちかけられた。「夏場、ウナギがさっぱり売れず、夏枯れもいいところです。何か販売促進策はないものでしょうか?」
 源内は看板を出させる。「本日土用丑」。これ以降、ウナギ屋は大繁盛しだした。
 『万葉集』に「ウナギは夏ヤセに良い」と大伴家持が記したのが下敷きともいう。源内はこれをヒントに策を授けたようだ。栄養豊富なウナギは、確かに夏バテに効果がありそうだ。
 食といえば、ケガレが発生したとき、またしそうなとき、たらふく食べねばならぬという。空腹は気枯れをもたらす。バテ、枯れ防止にウナギはおすすめのようだ。
<2009年7月19日>
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ケガレと夏バテ

2009-07-14 | Weblog
 映画「おくりびと」のワンシーン、妻役の広末涼子が夫にいう。「ケガラワシイ! わたしの体を触らないで!」。あるいは「わたしの体に触れないで!」だったかもしれませんが…。
 本木雅弘は妻に、自分があたらしくついた仕事を、冠婚葬祭関係だと話していた。妻は勝手に、ブライダルだと思い込む。しかしついに広末は知る。葬儀業であり、湯灌納棺が本当の仕事であることを。
 だが、ののしられた本木は、不思議そうな表情をしている。「ケガラワシイ?」。彼は自分の仕事を、妻のようには認識していない。
 ここでいうケガラワシイは「ケガレ」から来た言葉であろう。「ケガレ」という語は、わかっているようで、なかなか理解がむずかしい。漢字で穢れ、汚れが当てられたために、もとの意味がわからなくなってしまったのであろう。
 ケガレは本来「気枯れ」であるとする説がある。元気・活気・気力などの気(き・け)。肉体のエネルギーが枯れ弱ると病気になる。また枯れ切ると死にいたる。
 集団でも気エネルギーの枯渇や乱れなどによって、秩序ある日常性がバランスをくずす。共同体の成員の調和は乱れ、混乱に陥る。わたしたちの祖先は、ケガレによって集団崩壊の危機を迎えることもあると考えたようだ。
 水には涸れるの字を使いますが、枯れるも涸れるも、どちらも減ったり、なくなる状態をいう。
 「離れる」も本来「かれる」と読む。魂が肉体から離れてしまうことである。「あくがれ」は憧れと書くが、こころが体から抜け出、宙にさまようこと。
 夏バテの「バテル」もよく似た語のようだ。バテルを辞書でみても仮名「ばてる」であって、当てはまる漢字がない。意味は暑気や疲れのために、ぐったりする。元来持っている能力を失う状態になる。
 「果てる」に点々がついて「バテル」「ばてる」になったのではなかろうか。果てるは終わる、失せる、死ぬの意味。ばてた、ばてそうは、「死にそう」に近い意味になるようだ。果てるは極みで、死である。
 これから時々、この欄で「ケガレ」について考えてみようと思っています。学びながら適当に考えるので、それこそ時々、忘れたころの作文になることは、自信をもって断言できそうです。バテない程度で、チャレンジしてみましょう。
<2009年7月14日>
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若冲百話―石峰寺五百羅漢 №16 <若冲連載35>  

2009-07-12 | Weblog
若冲画「石峰寺図」

 若冲自身が描いた唯一の「石峰寺図」がある。ほかにも同寺石像群の若冲作品はあったであろうが、失われてしまっている。狩野博幸氏はこの絵の制作年を、寛政元年(一七八九)、すなわち大火の翌年であろうと推定しておられる。このころには、若冲は石峰寺門前に居を構えていたのだろう。
 画をみると、立派な門が完成しているが扁額は白いままである。門の型、獣形仁王、「遊戯神通」の字は無いが真っ白の額など、いずれも興味深い。関心ある方は、画集でご覧ください。原画は京都国立博物館所蔵。

 ところで最近、あらたな若冲画・石峰寺図が見つかった。カラーコピーをあるかたから見せていただいたが、驚いてしまった。門の扁額には「遊戯」と記されている。秋には一般公開されるそうだ。公表されたらお知らせしましょう。いまの時点では、マル秘情報です。
<2009年7月12日 南浦邦仁>
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おくりびと

2009-07-04 | Weblog
 映画「おくりびと」を、今日やっとみました。レンタルDVDですが、これまであえて観ませんでした。観るのが怖いというのが、正直な気持ちかもしれません。しかし、やはり名作だと思いました。
 ひとの死に向きあう。感情があふれ、真摯に、こころから敬う。日本人は死体をご遺体とよび、決して粗末には扱わない。
 前にある先生とお話しましたとき、欧米人の遺体観についての話しを聞きました。「欧米では墓地での埋葬のとき、会葬者は神父・牧師に向かう。その時、たいていお棺はみなの後ろ、背中の側にあります」。聖職者、会葬者、遺体・・・。この順に並ぶそうです。欧米のキリスト教徒は、遺体を物質としてみる、そのようなお話しでした。
 ところが、「おくりびと」がアカデミー賞を受賞した。これは驚きです。その先生によれば、欧米における死生観が、いま激変しつつある、その証左が「おくりびと」への評価が示している。そういうお話しでした。世界東西の死生観。どのように変化、また接近していくのでしょうか。
 ところで以前に書いた、「けがれ」の続きですが、納棺師は、本当の聖職者であるに違いないということを、あらためて思います。
<2009年7月4日>


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