川端康成がノーベル文学賞を受賞したのは、昭和43年(1968)のことである。12月10日、ストックホルムでの授賞式で「美しい日本の私―その序説」講演を行なった。サイデンステッカー訳「JAPAN THE BEAUTIFUL AND MYSELF」で、その序をみてみよう。
In the spring, cherry blossoms, in the summer the cuckoo.
In autumn the moon, and in winter the snow, clear, cold.
道元禅師の歌であるが、
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
受賞の翌々年、韓国ソウルで国際P・E・N大会が開かれた。川端は日本ペンクラブ会長を、昭和23年から18年間つとめたひとである。ソウルにゲストとして招かれ、大会初日に祝辞を述べた。
「…文学会議は常に必ず成功をあらかじめ祝っていいと信じます。政治の会議は時に失敗することもありますが、文学会議は失敗することはありません。…」
真下五一もソウル大会に出席し、講演「京都の心」を語った。そして、その夜のことであった。
現地の料亭に、世界の作家たちが招待された。真下の隣席は、川端であった。料亭の女主人のアン・ソン・エが、川端に揮毫を望んだ。彼が一筆したためたあと、アンは真下にも同じ一枚の白布に墨書を迫った。
真下は筆は大の苦手なのでといい、「折角の川端さんの書を汚してしまうことになる」と断る。すると川端は「ぜひ書いておあげなさいよ」と強くすすめた。最初から川端は真下にも横に書いてもおうと考え、絹紙の左面は余白であったのであろう。
ついに真下は覚悟し「美しい京都の私」と書いた。この書はアン女史の手元にいまも当然、残っているであろう。川端は何と書いたのか? どこの料亭かは不明だが、ふたりの一書をいつかソウルでみてみたい。
川端『古都』完成には、真下の協力と励ましが大きかった。ノーベル賞受賞の一助でもあった。ふたりの友情、川端の感謝のこころが伝わってくる。
<2008年4月29日 真下五一著『京都の心』参照>
In the spring, cherry blossoms, in the summer the cuckoo.
In autumn the moon, and in winter the snow, clear, cold.
道元禅師の歌であるが、
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて 冷(すず)しかりけり
受賞の翌々年、韓国ソウルで国際P・E・N大会が開かれた。川端は日本ペンクラブ会長を、昭和23年から18年間つとめたひとである。ソウルにゲストとして招かれ、大会初日に祝辞を述べた。
「…文学会議は常に必ず成功をあらかじめ祝っていいと信じます。政治の会議は時に失敗することもありますが、文学会議は失敗することはありません。…」
真下五一もソウル大会に出席し、講演「京都の心」を語った。そして、その夜のことであった。
現地の料亭に、世界の作家たちが招待された。真下の隣席は、川端であった。料亭の女主人のアン・ソン・エが、川端に揮毫を望んだ。彼が一筆したためたあと、アンは真下にも同じ一枚の白布に墨書を迫った。
真下は筆は大の苦手なのでといい、「折角の川端さんの書を汚してしまうことになる」と断る。すると川端は「ぜひ書いておあげなさいよ」と強くすすめた。最初から川端は真下にも横に書いてもおうと考え、絹紙の左面は余白であったのであろう。
ついに真下は覚悟し「美しい京都の私」と書いた。この書はアン女史の手元にいまも当然、残っているであろう。川端は何と書いたのか? どこの料亭かは不明だが、ふたりの一書をいつかソウルでみてみたい。
川端『古都』完成には、真下の協力と励ましが大きかった。ノーベル賞受賞の一助でもあった。ふたりの友情、川端の感謝のこころが伝わってくる。
<2008年4月29日 真下五一著『京都の心』参照>