山科の洛東高校に商用で先日、出かけました。山科駅のすぐ北、毘沙門堂の手前、緑が多く気分がなごむ一帯です。しかし三条街道から旧東海道に車で入ろうとして、誤って路地に迷い込んでしまいました。新旧ふたつの三条通のちょうど中間の位置ですが、道路には民家解体工事のトラックが通行を遮断しており、困ったなあと逡巡してしまいました。ところがわたしの車のすぐ前に偶然、友人が立っていたのです。
日本経済新聞OBの西村武彦さんです。山科四宮にお住まいですが、彼は往年のジャーナリストそのもの、反骨毒舌の新聞記者だった方です。「君はなぜこんな所をうろついているんだ」。かねがね畏敬する先達ですが、彼らしい口上でした。
抜け道を教えてもらい、やっと到着した高校の正門前には、疏水が流れています。いや、流れているはずなのに水がない。これでは上水道を疏水に頼っている京都市民は、大渇水でたいへんなことになる。
その夜、西村さんに電話をしました。「疏水はこの冬場、補修工事で水を停めています。桜花の季節までには工事も終わる。あれは第一疏水、もう一本、トンネルばかりが続く第二疏水には水が通っていますから、上水道の心配はいりません。」
なるほど、これを聞いて安心しました。さすが西村さん。しかし両疏水が合流する京都岡崎あたりの水量は、極端に少ない。この辺も工事中です。ショベルカーで浚渫したり、傷んだ擁壁を修理したりと、桜の季節を前に大忙しのようです。京都疎水はいわば、片肺飛行ですから、水不足は致し方ないのでしょう。
ところで有名な京都の疏水ですが、最初の水路が完成したのは、明治23年4月9日のことでした。大隧道を三本通した日本初の大トンネル工事でした。完成を祝う桜花舞う式典の日、祇園祭の山鉾が出、盆でもないのに如意ヶ嶽の大文字に灯がついたそうです。京都市民は完成を、喜びの涙で祝ったのです。
現代では京の上水道をまかなうのが主な任務ですが、本来の疏水の目的は水力発電、舟運、上水道、そして灌漑用水でした。いまも三箇所の水力発電所が稼動しています。蹴上、夷川と墨染です。京都に日本初の市電が走ったのは、この水力発電所のおかげでした。
かつて明治初年、都が東京に移り、東遷する天皇に従って公卿、官吏や諸侯、有力商人などが、京を去ってしまいました。幕末、京の人口は35万人。それが25万に激減してしまいます。
明治14年、京都府三代知事に就任した北垣国道は、琵琶湖疏水建設の計画をぶち上げました。維新以降、凋落疲弊萎縮してしまった京都市民の意気をゆさぶろうと、北垣は決意したのです。
東京大学工学部の前身、工部大学校の校長だった大鳥圭介の推薦紹介で、北垣は同校の学生だった田辺朔郎に会います。大鳥は新政府に抗して函館の五稜郭で、土方歳三らと最後まで戦い、そして降伏した幕臣の新参旗本です。出身は忠臣蔵で有名な播州赤穂でした。
弱冠二十歳だった田辺は、京都に疏水計画のあることを知り、府とは別にまったく独自に水路のルートを踏査しました。そして英文で大学の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を書き上げていたのです。大鳥の田辺推薦は、この入念な論文が発端でした。
北垣は英断を下します。二十一歳の若者、田辺朔郎を京都の一大土木事業の工事責任者として府で採用したのです。そして知事のこの暴挙にひとしい決断が、疏水建設事業を完成にみちびきます。
しかし当初、北垣と田辺の前には大反対が待ち受けていました。まず工事開始のためには、市民に課す大増税が必要だったのです。北垣国道にもじって、今度知事で「来た餓鬼、極道」(きたがきごくどう)と罵倒されました。また田辺も「若僧!」と侮られました。だがついに市民は京都復興の真意を理解し、建設計画に同意します。
そして滋賀県民も大反対運動を起こしました。増水のときはよいけれど、渇水期に京に大量の水を盗られては困る。水が足りなくなってしまう。米どころ近江の農業が破綻してしまう。
当時の滋賀県令すなわち県知事は、籠手田安定でした。彼は県議会でぶち上げます。「京都市民は湖水は大丈夫といっていますが、この問題は軽々しくいえることではありません。京都が強引に疏水をひくなら、水門の鍵をわたしに預けなさい。いや、近江全体を管理する滋賀県庁に水門開閉の自由を握らせなさい。しかし知事に鍵を預けても問題があります。わたしが永久に滋賀県知事であったら、決して京都の不利になるようなことはしないだろうが、人間のこころというものは、あてにならないものだし、ましてわたしなり京都府知事が転任し、後任同士が仲たがいでもしようものなら、どうするというのですか。湖上満々、水害をこうむるほどのときには、五百や六百個どころか千個の水も流してやるかわりに、旱魃時には百個か二百個の水しかやらないということにもなりかねない。わたしは決して、この計画を妨害するつもりはありません。しかし簡単に同意しては、いつ我が滋賀県に迷惑がおよぶ事態が生じるかわからない。とことん利害関係を追及したうえでなければ、京都府の要求には応じられません」。籠手田も北垣同様、立場は違えど立派な知事でした。
そしてついに、第一疏水は四年八ヶ月の歳月と巨額の重税を費やして、大津の美保ヶ崎湖岸から京都まで、八キロの水路が誕生したのです。取水口は大津市にありながら、ここは飛び地で京都市に属しています。
田辺朔郎はふたつの碑を建立しましたが、いまも残っています。ひとつには「藉水利資人工」、藉水とは「水を借りる」の意味です。もうひとつの石碑には、工事で命を失った十七人の工夫たちのために「一身殉事 万戸潤恩」
追記:この稿を書くに当たって、田村喜子さんの一文「琵琶湖疏水建設」を参考引用しました。達意の秀文に敬意を表し、またお礼申し上げます。同文は滋賀文化振興事業団刊・雑誌「湖国と文化」1985年冬第30号所収。それから琵琶湖疏水は別名「京都疏水」です。京では「疏水」としかいいませんが。
<2008年2月17日 京水仙開花>
日本経済新聞OBの西村武彦さんです。山科四宮にお住まいですが、彼は往年のジャーナリストそのもの、反骨毒舌の新聞記者だった方です。「君はなぜこんな所をうろついているんだ」。かねがね畏敬する先達ですが、彼らしい口上でした。
抜け道を教えてもらい、やっと到着した高校の正門前には、疏水が流れています。いや、流れているはずなのに水がない。これでは上水道を疏水に頼っている京都市民は、大渇水でたいへんなことになる。
その夜、西村さんに電話をしました。「疏水はこの冬場、補修工事で水を停めています。桜花の季節までには工事も終わる。あれは第一疏水、もう一本、トンネルばかりが続く第二疏水には水が通っていますから、上水道の心配はいりません。」
なるほど、これを聞いて安心しました。さすが西村さん。しかし両疏水が合流する京都岡崎あたりの水量は、極端に少ない。この辺も工事中です。ショベルカーで浚渫したり、傷んだ擁壁を修理したりと、桜の季節を前に大忙しのようです。京都疎水はいわば、片肺飛行ですから、水不足は致し方ないのでしょう。
ところで有名な京都の疏水ですが、最初の水路が完成したのは、明治23年4月9日のことでした。大隧道を三本通した日本初の大トンネル工事でした。完成を祝う桜花舞う式典の日、祇園祭の山鉾が出、盆でもないのに如意ヶ嶽の大文字に灯がついたそうです。京都市民は完成を、喜びの涙で祝ったのです。
現代では京の上水道をまかなうのが主な任務ですが、本来の疏水の目的は水力発電、舟運、上水道、そして灌漑用水でした。いまも三箇所の水力発電所が稼動しています。蹴上、夷川と墨染です。京都に日本初の市電が走ったのは、この水力発電所のおかげでした。
かつて明治初年、都が東京に移り、東遷する天皇に従って公卿、官吏や諸侯、有力商人などが、京を去ってしまいました。幕末、京の人口は35万人。それが25万に激減してしまいます。
明治14年、京都府三代知事に就任した北垣国道は、琵琶湖疏水建設の計画をぶち上げました。維新以降、凋落疲弊萎縮してしまった京都市民の意気をゆさぶろうと、北垣は決意したのです。
東京大学工学部の前身、工部大学校の校長だった大鳥圭介の推薦紹介で、北垣は同校の学生だった田辺朔郎に会います。大鳥は新政府に抗して函館の五稜郭で、土方歳三らと最後まで戦い、そして降伏した幕臣の新参旗本です。出身は忠臣蔵で有名な播州赤穂でした。
弱冠二十歳だった田辺は、京都に疏水計画のあることを知り、府とは別にまったく独自に水路のルートを踏査しました。そして英文で大学の卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」を書き上げていたのです。大鳥の田辺推薦は、この入念な論文が発端でした。
北垣は英断を下します。二十一歳の若者、田辺朔郎を京都の一大土木事業の工事責任者として府で採用したのです。そして知事のこの暴挙にひとしい決断が、疏水建設事業を完成にみちびきます。
しかし当初、北垣と田辺の前には大反対が待ち受けていました。まず工事開始のためには、市民に課す大増税が必要だったのです。北垣国道にもじって、今度知事で「来た餓鬼、極道」(きたがきごくどう)と罵倒されました。また田辺も「若僧!」と侮られました。だがついに市民は京都復興の真意を理解し、建設計画に同意します。
そして滋賀県民も大反対運動を起こしました。増水のときはよいけれど、渇水期に京に大量の水を盗られては困る。水が足りなくなってしまう。米どころ近江の農業が破綻してしまう。
当時の滋賀県令すなわち県知事は、籠手田安定でした。彼は県議会でぶち上げます。「京都市民は湖水は大丈夫といっていますが、この問題は軽々しくいえることではありません。京都が強引に疏水をひくなら、水門の鍵をわたしに預けなさい。いや、近江全体を管理する滋賀県庁に水門開閉の自由を握らせなさい。しかし知事に鍵を預けても問題があります。わたしが永久に滋賀県知事であったら、決して京都の不利になるようなことはしないだろうが、人間のこころというものは、あてにならないものだし、ましてわたしなり京都府知事が転任し、後任同士が仲たがいでもしようものなら、どうするというのですか。湖上満々、水害をこうむるほどのときには、五百や六百個どころか千個の水も流してやるかわりに、旱魃時には百個か二百個の水しかやらないということにもなりかねない。わたしは決して、この計画を妨害するつもりはありません。しかし簡単に同意しては、いつ我が滋賀県に迷惑がおよぶ事態が生じるかわからない。とことん利害関係を追及したうえでなければ、京都府の要求には応じられません」。籠手田も北垣同様、立場は違えど立派な知事でした。
そしてついに、第一疏水は四年八ヶ月の歳月と巨額の重税を費やして、大津の美保ヶ崎湖岸から京都まで、八キロの水路が誕生したのです。取水口は大津市にありながら、ここは飛び地で京都市に属しています。
田辺朔郎はふたつの碑を建立しましたが、いまも残っています。ひとつには「藉水利資人工」、藉水とは「水を借りる」の意味です。もうひとつの石碑には、工事で命を失った十七人の工夫たちのために「一身殉事 万戸潤恩」
追記:この稿を書くに当たって、田村喜子さんの一文「琵琶湖疏水建設」を参考引用しました。達意の秀文に敬意を表し、またお礼申し上げます。同文は滋賀文化振興事業団刊・雑誌「湖国と文化」1985年冬第30号所収。それから琵琶湖疏水は別名「京都疏水」です。京では「疏水」としかいいませんが。
<2008年2月17日 京水仙開花>