ふろむ播州山麓

旧住居の京都山麓から、新居の播州山麓に、ブログ名を変更しました。タイトルだけはたびたび変化しています……

アヒルの日本史(11)前史

2024-10-30 | Weblog

 アヒルの話を、延々10回ほども続けてきました。終わりは近い、と思っていても本を読んでいると、新しい発見や疑問が湧き出てきます。困ったものですが、もう少し続けます。興味をお持ちの読者は少ないでしょうが。なお引用文は、出きる範囲で現代文に書き換えました。なおこの鳥が、日本で「アヒル」の名で呼ばれるのは、16世紀中です。

 さて今号のアヒルは、平安時代918年から関ヶ原の戦い1600年ころまでの略年表。アヒル前史です。

 

〇918年延喜18年 『本草和名』 深根輔仁編纂

<鶩肪、一名を鴨ともいう。この鳥を小馬鹿にした名に舒鳥。和名は加毛という。>

※鶩(ボク)・鶩肪(ボク)・鴨(オウ)/舒鳥(ジョチョウ/のろのろ歩く鳥)/和名;加毛(かも)/鶩・鶩肪・鴨は、呼称がアヒルになるのは600年ほど後の事です。この一文で初めて鶩ボクが登場。訓読みの「かも」以外、読みはすべて音読み漢音です。

 この原文で文末が興味深い。「鶩ボクの和名はカモという」。アヒルの名が誕生するまでは、ボクかカモと呼ばれていたのではないでしょうか。それと後述しますが、アヒルの別名に「白鴨」「唐の鴨」「高麗鴨」「高麗白鳧」などもあったようです。いずれにしろ、室町期以前にはわずかの数しか舶来していません。繁殖数は不明ですが、少なかったろうと考えています。繁殖のために不可欠の人工孵卵は難題です。孵化については、アヒルの日本史10回「伝統的抱卵」に載せています。

 この鳥は16世紀まで、進上進物として喜ばれる貴重種でした。しかし繁殖しないのでは、家禽とはいえません。

 

 これから「アヒル」仮表示は片仮名に原則統一しますが、この鳥がアヒルと呼ばれだすのは、16世紀のなかばです。アヒル呼称の始まりの時期、その考察は追って次回か次々回にできれば、と思っています。

 

〇931年~938年『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)

<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨であり鳧といい、家で飼育しているのが鶩である。>

 承平年間に源順編纂。別名「和名杪」。

 鴨(オウ)/ 野鴨、鳧(フ)。家鴨/鶩(ボク)後に日本でいう「アヒル」

 

〇1173年承安3年5月『玉葉』

「院中鴨合之事有」。鴨合(かもあわせ)開催。

 翌日にも開催。「今日、北面鴨合、内々事也」

※「物合」(ものあわせ)は平安時代から室町にかけてずいぶん流行した遊びです。競い合って勝者や、優劣を決める。当時も大人気だった闘鶏。これならわたしにもわかるのですが。「鴨合」は、カモなのかアヒルなのか。何を競うのか。優劣? さっぱりわかりません。ほかの遊戯もほとんど理解困難です。これも課題です。

 物合には、さまざまの種類があります。例えば、絵合、歌合、扇合、琵琶合、鶯合、伝書鳩の帰巣レース、虫合、蜘蛛合、香合、草合、根合、貝合などなど。

『枕草子』「うれしき物、物あわせ何くれと挑む事に勝ちたる、いかでかうれしからざらん。」

 

〇1226年家禄2年5月16日『明月記』

 「伝え聞く。去今年宗朝の鳥獣が都に充満した。唐船の輩が自由に舶載し、これを豪家が競って購入している」

 

〇1233年~1234年 『古今著聞集』

 「天福の頃、殿上人のもとに、唐の鴨をあまた飼われたる云々」

 

〇1436年永享8年『蔭凉軒日録索引』

 「将軍、聯輝軒より進上せられし白鴨11羽を西芳寺の池に放たれた」。この白鴨もおそらく中国で家畜化されたペキンアヒルであろう。この時期に再開された勘合貿易によって舶載されたのであろう。

 

〇1490年延徳2年9月『蔭凉軒日録索引』

 白鴨は高麗に生息しているとのこと。

 

〇1503年文亀3年『実隆公記』

 「高麗白鳧申出常盤井殿遣玄番頭許」

 前年には金魚がはじめて舶来した。

 

〇1504年永世元年3月26日『実隆公記』

 「玄蕃頭送白鴨一双、令進上禁裏」宮中に献上。

 

〇16世紀『饅頭屋本 節用集』

 数多い『節用集』の中で、すでに室町期に家鴨を「アヒル」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。「家鴨」にルビ「アヒル」と明記。問題は、いつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人学者で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自らの版、林宗二版『節用集』も刊行したのです。この『節用集』も追求したい。

 

〇1587年天正15年2月19日『御湯殿上日記』(お湯とののうへの日記)

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

 <清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す>

  「お湯とののうへの日記」は、内裏、宮中の御湯殿の上の間に奉仕する女官が筆録した宮廷日記です。文明9年から文政9年にまで約350年間の記録。464冊が残っています。一部欠損はありますが、たいへん貴重な日記です。(1477年~1826年)

 豊臣秀吉は島津討伐のため、翌月3月1日に大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願っての宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 

〇1589年天正17年 『節用集 天正17年本』

 「鴨 鳧 鶩」と記されています。ルビを併記すると「鴨カモ、鳧々、鶩々」。

 鴨カモも鳧フも鶩ブク・アヒルも、どれも同じ鳥である。

 天正18年本が有名ですが、わたしの手元の復刊本は天正17年本です。

 

〇1600年慶長5年9月15日 「関ヶ原の戦い」

 

〇1603年慶長8年『日葡辞書』

 イエズス会は大冊の辞典を何年もかけて、完成させました。辞典は、日本人との意思の疎通、布教活動に必需品です。制作は日本人信徒と、イエズス会士との共同作業です。天正年間から制作を開始し、慶長8年1603年に本編を完成出版、翌年補遺刊行。画期的なキリシタン版日本語ポルトガル語対訳辞書です。

「あひる(家鴨)アヒル」 発音「AFIru」 「アフィル」

既述ですが、「H」音が「F」に転化しています。連載第6回「アフィロ」をごらんください。

<2024年10月30日>

 

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アヒルの世界史(10)伝統的抱卵

2024-10-19 | Weblog

アヒルの繁殖でいちばんの難題は、ヒヨコになるまでの孵化です。種卵(しゅらん/有精卵)を孵すのが、以前はたいへん面倒な作業でした。現在は孵卵器がありますから素人でも可能だそうですが、手作業で孵化作業をやっていた時代、温度や湿度の管理や孵るまでの日々の卵の回転作業。たいへんな手間がかかったそうです。

 なぜ人間の手をそこまで必要とするのか。アヒルの親は、自分が産んだ卵を抱かないからです。人間が野生の真鴨から、改良を繰り返しての家畜化の成功でした。しかし別の結論が、アヒルの母性喪失、就巣性の欠如です。

 孵卵器に収容された卵は、温度約37度、湿度約70%で、孵化までの28日ほどの間、器械のなかで暖める。現代の抱卵です。転卵も自動化が可能です。

 

 ところで、中国の伝統的なアヒル繁殖手法には、驚き感動します。長江沿岸で古くからおこなわれていた、一般的な繁殖法だったそうです。

 まず、使い古した舟に、アヒルをいっぱい入れた籠をのせる。そしてこの舟を移動しながら家族も生活している。舟も人も家もアヒルも、かつてみんな一緒の暮らしをしていたのです。

 

 古い孵卵方法は、卵を湿りのあるモミガラのなかに詰め込んで、これを布でおおい、それを日光にあてて温める。孵化したヒナはこの舟で販売したのでしょう。舟は行商舟にもなります。長江の流路一帯の運河や河川を、股にかけて営業していたのではないかと思ったりします。

 

 その後に改良された人工的孵化の新しい手法は、藁くずを温め、そのなかに卵を詰め、それらを大きい籠に入れ、その籠を柵の上に並べる。そして下から熱や火の気のある灰や、炭火を入れた壺で暖めて孵化する。なんとも高等な技術に思えます。

 

 それから、アヒルの肉も卵も中国料理には欠かせませんが、卵の輸出も東南アジア向けに盛んだそうです。中国人華僑は東南アジアで活発に活動しています。家鴨商人も多いのでしょう。タイ、カンボジア、ジャワ、フィリピンなど、たくさんの国に広がっています。

 

 「イギリスでもアヒルの繁殖は盛んに行われ、ことにバッキンガム伯爵家では、大規模なアヒル繁殖を営んでいて、ロンドンの各市場にこれを供給している。」

加茂儀一著『家畜文化誌』1973年昭和48年(法政大学出版局)改訂新版から引用していますが、バッキンガム伯爵家については、旧版1937年昭和12年初版(改造社)にも同じ記載があります。

 同著は1973年、大幅に改訂されました。しかし1000ページ余の大冊です。イギリスのアヒルの部分までは、改訂の手が回っていません。伯爵家のアヒルはもう商業繁殖を終了しています。しかし伯爵家は昔、アヒル商人だったのですね。

 今号の掲載文の過半は、加茂先生の著書の写しになってしまいました。先生の卓見に敬意を払い、心より感謝申し上げます。

<2024年10月19日>

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アヒルの歴史(9)ガチョウ

2024-10-11 | Weblog

 アヒルの義兄弟にあたる水禽の仲間は、ガチョウではないでしょうか。アヒル鶩は鴨のマガモを改良したもの。一方の鵞鳥(ガチョウ)は、雁のマガンを改良しています。

 ところで、いつごろから両鳥は家禽として、人間と同居する仲間になったのでしょう? アヒルはすでにみたように、中国で3千年ほどまえに家畜化されたようです。

 

 さて本日は、義兄弟のガチョウですが、最も古い記録とされるのは古代エジプトです。紀元前2900年~前2200年、旧王国時代にすでにガチョウが、家禽として飼われていたと判断されています。いまから5千年近くも昔の登場です。実に古い。世界最古の家禽とよばれています。

 

 ヨーロッパではホメロスの詩「オデュッセイア」に、ガチョウがたびたび登場します。紀元前8世紀です。

 また古代ギリシアの哲学者、アリストテレス(前384年~前322年)は、すでに動物学的にこの鳥のことを述べ、30日で孵化し、その間、雄鵞鳥が妻の雌鳥を助けないことを観察している。「ガチョウは雌だけで抱卵し、一度抱卵し始めたら、終わりまでずっと卵の上に坐ったままである。湖沼のあらゆる鳥の巣は沼地で草の生えた所にある。それゆえ卵の上に坐ってじっとしていても、何かしら自分の餌をとることができるので、まるっきり食べ物がないわけではない。」

 ローマ人は最初、ギリシア人から鵞鳥の繁殖を知ったのだろう。前390年、敵に包囲されたローマの神殿を、番犬ならぬ番鳥をつとめていたガチョウたちは、夜中に激しく鳴いて急襲を知らせた。ガチョウのおかげで、ジュピター神は守り抜かれた。

 

 念のため、ヨーロッパのアヒルは、2000年~1900年ほど前、ローマの文献に出現します。しかしローマ人よりも早く、まず中北部ヨーロッパのゲルマン人が、飼育を始めたと考えられます。渡り鳥のカモは、中北部で繁殖します。その育卵方法を観察して、ゲルマンの人たちは工夫したのだと考えられます。夏場は溢れるほどの数、カモは充満しています。ところが冬場、カモたちは南の国に移動してしまって、1羽もいません。冬用の食糧確保のため、家畜化のニーズは十分に考えられます。

 ヨーロッパ中北部でいつごろに、アヒルやガチョウの家禽化が開始されたのか? 文献も絵画史料もありません。確定できません。ただエジプトのガチョウは、たくさんの絵画資料などで確定しました。

 

 さて中国ですが、下記の情報には驚きました。ガチョウについての考古学資料で、国際研究グループ7者団体による発掘調査です。北大・筑波大・東大・蘭州大・浙江省考古研・金沢大・肅山博。長江下流域の遺跡から出土したガン類の骨から、同地での家禽化が7000年前に遡ると判断された。これまでのガチョウの最古記録、エジプトのおおよそ5000年前という記録を、大幅に塗り替えました。

 同地は繁殖地ではないのに、幼鳥や留鳥化した成鳥、また食性の人的関与による変化。それらは人為的飼育の痕跡と判断されます。「研究グループは約7000年前にガン類が飼育されており、家禽化の初期段階にあったと結論付けました。」

 詳しくはインターネットでご覧ください。「東京大学総合研究博物館 世界最古の家禽はガチョウ!?~約7000年前の中国遺跡からガン類の家禽化の証拠を複数確認~/2022年3月8日」

 

 さて、日本のガチョウ史はどうなのでしょう。最も古い記述は『日本書紀』です。雄略天皇10年9月4日、呉(くれ)から帰った使者は、同国から献上された二羽の鵞鳥ガチョウを連れて、筑紫に到着した。ところが、地元の役人の飼犬に襲われ噛まれ、死んでしまった。使者は雄略天皇の怒りを恐れ、白鳥10羽と鳥養人(とりかい)を献上して赦免を願い出た。そして天皇は許した。

 

 せっかく海をはるばる渡ってきたのに、ガチョウも相当無念の思いだったのではないかと同情します。

 ところで、気になるのが「鳥養人」(とりかい)、別称「鳥官」。ほかに鳥取部、鳥養部、鳥甘部などの組織があったそうです。『節用集』原刻易林本には「鳥養牧」とりかいまき/とあります。アヒルやガチョウの牧場だったのでは、などと勝手に想像しています。

 

 なかでも注目すべきが「鳥養人」とりかい/だと思います。アヒルやガチョウのことをいくらか調べてみましたが、両者とも養育はかなりむずかしい。プロの技が必要です。鳥養は重要な仕事です。また両鳥は同じ水禽の仲間ですが、性質は全く異なる。追々、改めて紹介しますが、ざっと記します。

 

(1)アヒル 

  雑食性なので食生活の心配は少ない。

  就巣性を欠いている。種卵(しゅらん/受精卵)でもかまわず、地面でもどこにでも卵を産む。

  抱卵をしない。いつも卵は散乱しています。

  孵卵器がなければ現代ではプロでも、卵を孵すことを敬遠するそうです。

  かつて「鳥養人」は28日間、孵化するまで毎日、一定の温度と湿度を保ち続ける。

  そして日に数度、計25日間、温めている卵を回転(転卵)させる。

  ヒナの時に、羽繕い訓練が欠かせない。

 

(2)ガチョウ 

  アヒルと違って就巣性があり、卵は親鳥がしっかり抱卵(30日~32日間)

  孵化しても母親と親族仲間が、危険からヒナをしっかり守る。

  ガチョウの仲間は大家族制社会。ただし守るのは自然育雛の親戚家族だけです。

  人口孵化のガチョウには、親戚も家族もおらず孤立する。

  アヒルと違って草食性。青草を好む。

  冬場に新鮮な草が少なくなるのが問題です。牧草イタリアンライグラスなどが冬場は必要。

  青草を十分にとらないと、卵を産まない。

  ヒナの時に十分な栄養・緑餌を取らせる。特にミネラル分が不足すると、歩行困難になってしまう。。

  幼い時、体温調節ができないので、飼育場にヒーターを1週間ほど入れる。

  イネを食べてしまうので、水田には放せない。

 

 また外敵も要注意です。たとえば、キツネ、タヌキ、アライグマ、テン、イタチ、カラス、タカなどなど。特にヒナが狙われます。

参考:『家畜文化史』加茂儀一/1793年 法政大学出版局

   『アリストテレス全集 巻7』島崎三郎訳/1968年 岩波書店

   『草刈り動物と暮らす/ヤギ・アイガモ・ガチョウの飼い方』高山耕二/2023年 農山漁村文化協会

   <2024年9月11日 南浦邦仁>

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アヒルの日本史(8)民間療法記

2024-10-08 | Weblog

 アヒルは薬用として、中風に効くといいます。南方熊楠は「紀州の民間療法記」に、「白きあひるの生血は中風を治す。各地に昔からの民間療法として、アヒルを中風に使用するとの記事をみたことがあります」と記しています。

 熊楠全集に出てくるアヒルは、なぜかこの1か所だけです。念のため民俗学の柳田国男も全集で確認しましたが、ここには驚いたことに、1羽も登場しません。なぜ両巨頭は、この鳥を無視されるのでしょうか。

 

 さて本日は、薬用アヒルの民間療法です。中風は近ごろ、あまり使わない病名になってしまいましたが、読みは「ちゅうぶ」「ちゅうふう」。脳血管障害のために、半身あるいは体の部分の麻痺を起こす。

 

 お釈迦さんの生誕日である4月8日の「花祭り」、「誕生会」にアヒルの卵を食すと、中風にならない、あるいは治るという民間療法の伝承が、各地に多い。

 

 4月8日、四日市市羽津では花まつりのこの日に、アヒルの卵を食べると中風にならないという。

 

 4月8日のみ、素の玉子を食す。これを喰えば中風を発せずとて食ふもの多し『わすれのこり』明治17年

 

 4月8日にアヒルの卵を食べると、中風にかからない:滋賀・奈良・大阪

 

 白いアヒルは、「又白シテ鳥骨ノモノアリ、薬ニモ食ニモヨシ」『庖厨備用倭名本草』1671年

 

 全ク白クシテ鳥骨ナルハ鳳ト云、南寧府志二出、薬食倶ニ上品トス:『重修本草綱目啓蒙』1844年

 

 鶩(あひる)こそ虚を補ひて客熱を除、臓腑を和するものなれ。鶩こそ驚癇に吉、丹毒や水道を利し、熱痢とどむれ:『食物和歌本草』1630年

 

 白鴨及黄雌鴨肉性ヨシ黒ハ毒アリ食フ可カラス『大和本草』1708年

 

 国定忠治が捕縛されたのは、1850年のこと。彼に同情する目明しの佐十郎が、中風を患っていた忠治のために、アヒルの生血を飲ませた。いまでも同地の称念寺に「家鴨塚」があるそうです。群馬県佐波郡玉村町。

 

 中風にはアヒルを食べるのが良く、特にその生血を飲むと効果が大きい:新潟。

 

 アヒルの生血を飲むと中風が治る:長野・愛知・岡山・高知。

 

 卵を飲むと中風が治る:群馬・愛知。

 

 アヒルの卵を食べると、中風にならない:山梨

 

 彼岸中日にアヒルの卵を食べると、中風にならない:千葉

 

 アヒルの黒焼きは乳幼児の癇の虫の薬なる:広島

 

 アヒルの生き血は強壮剤:徳島・香川

<2024年10月8日>

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アヒルの日本史(7)あひろ

2024-10-02 | Weblog

 「あひる」はかつて、なぜか「あひろ」とも呼ばれていました。この疑問も本日、やっと解決できそうです。

 

 <今俗呼阿比呂、蓋足廣之義>『箋注和名類聚抄』

 「いま俗に、この鳥を「アヒロ」と呼ぶのは、確信をもって推定するが、足の甲面に水かきがあり、表面積がずいぶん広いためである」筆者訳

 

 <鴨鶩一類、所謂阿比呂也>『髄意録』

 

 新井白石は著『東雅』で、「アヒロとはアは足也。ヒロは潤(広)也。」

 

 『重修本草綱目啓蒙』では「アヒルハ足二<ミズカキ>アリテ広シ、故二アヒロトモ云」

 

 そして「足」「脚」のことを、古くから「あ」とも読みます。単独形「あ」もありますが、多くは下に語を複合して「あ」と読む。

 足を「あ」と読む例は、『古事記』欽明天皇「足取王/あとりのみこ」。「足占」あうら、「足掻」あがき、「足結」あゆい……

 

 万葉集3387「安(あ/足)の音もせずに行く駒もが…」

 原文<安能於登世受 由可牟古馬母我…」

 <あのおとせず ゆかむこまもが…>

「安」の読みは<あ>で、馬の<足>の意味です。「もが」は願望だそうです。

 

  また「A・O・U」の3音は、互いに融合しやすい。特に<O・U>は交替しやすいと、専門家はいっておられます。

 例えば、<足結>は<アヨヒ><アユヒ>。ヨO・ユU。<アヒルU><アヒロO>も同様です。

 なお「ハ行」については、「F」か「H」か、混乱しますので、「H」音に統一しました。

 

 

 辞典『節用集』は室町時代、15世紀半ばより大層普及した本だそうです。古本節用集は、文明本1474年、黒本本1590年、天正18年本/伊勢本。易林本/慶長のはじめ1596年ころに刊など。

 その後も改定増補、筆写刊行をしばしば重ね、明治大正期まで延々と改定版が出版され続けた。現在残っている本だけでも、同書名異文本が180種類はあるという。

 カナ文字さえ知っていれば、読みからたいていの漢字と熟語がわかる。汎用国語漢字辞典とでも呼べそうな、日本で最も長期間にわたって利用された超ベストセラーの国民的辞書です。

 

 古い『節用集』で、家鴨を「あひる」としている本が1冊あります。『饅頭屋本 節用集』です。正確な刊年は不明ですが、「あひる」を記した最も古い本の可能性があります。アヒル誕生です。16世紀中の制作は間違いない。林宗二編纂『饅頭屋本 節用集』が、「アヒル」の初出のようです。

 この『節用集』では、「家鴨」に振り仮名「アヒル」と明記されています。問題はいつ制作された本なのか。著者は饅頭屋の林宗二だろうといわれています。彼の家業は奈良の饅頭屋ですが、生年1498年~1581年没。宗二はたいへんな文人で、歌学にも通じ、源氏物語の注釈書も著し、自ら饅頭屋本、林宗二版『節用集』も刊行した人物です。

 

 

▷ 以下、アヒル・アヒロを記載した江戸幕末ころまでの書物や情報を紹介します。

 

『御湯殿上日記』1587年天正15年2月19日/宮中より「清水へ願のため、あひるひと番いを進上す」。翌月3月1日、秀吉は島津討伐のために大阪を発ちます。この願は、秀吉の戦勝を願って、宮中からのアヒル願だったのかもしれません。

 798年清水寺仏殿を建立したのは、坂上田村麻呂です。征夷大将軍を二度もつとめた神将、武神、軍神。清水寺が選ばれた理由は、田村麻呂への祈願にあったのかもしれません。

 

『日葡辞書』1603年/イエズス会が発行した日本語-ポルトガル語辞書<アヒル(家鴨)あひる「AFIru」>

 

『食物和歌本草』1630年「鶩(訓/あひる)こそ虚を補ひて客熱を除臓腑を利するものなれ…(しかし)あひる玉子多く食せば身も冷えて心みじかくせなかもだゆる」

 

『多識篇』林羅山1649年/鶩(音ボク/現あひる)を「安比呂/あひろ」と訓している。

 

『バタビヤ城日誌』1661年/台湾救援のため長崎を出発したオランダ船に、家鴨百羽が積み込まれた。当時の長崎では、相当数のアヒルが飼育されていたのだろう。

 

『増刊下学集』江戸時代初期、1669年刊か。「鶩・アヒル/唐ノ鴨也。」

 『下学集』室町時代1444年にまず成立。その後、長期間にわたって加筆、書写が繰り返されたそうです。江戸時代初1617年の板本に「鴨カモ、鳧カモ、ニ字ノ義同シ」。『下学集』には、アヒルの記載はありません。

 

『和爾雅』貝原益軒の養子、貝原好古編著/1694年。「鴨アヒロ/鶩。舒鳧。家鳧。」

筆者意訳「いま按ずるに、この国で俗に鴨の字をもって、鳧(訓/けり)となす者がいるが、それは誤りである」。あひるではありませんが、あえて。

 

『農業全書』1697年「生類養書」の中で、アヒルの飼育を奨励しているが、それは肉を食べるためではなく、卵を売って利益を上げるため。

 

『本朝食鑑』人見必大/1697年。「本朝家々家鴨を養いて之を食る者少し、性、毎に穢物を喰ふ之故乎」

 

『唐通事日録』元禄5年1706年「当地にては、ふた(豚)、には鳥(ニワトリ)、<あひる>殺害多数之候様に被聞召候付、云々」。家畜3種の殺害と食用が、禁止された。生類憐みの令は、1682年から始まっているようです。

 

『大和本草』貝原益軒1708年「鶩/訓アヒロ」の項で「家鴨ト云、又匹(音ボク)と云、鴨(音アフ)の一字ヲ<訓アヒロ>トヨム。」「長崎ニ於テ異邦ノ人好ンテ之レヲ食フ」

 

『和漢三才図会』1712年「按ずるに鶩/あひろは人家に多く、之を蓄ふ」「あひろ/家鴨」

 

『東雅』新井白石/1719年。「鴨は鶩、今俗にアヒロといふもの、鳧はカモというもの也」

<アヒロとはアは足也。ヒロは潤也。その闊歩するを云ひしと見えたり。>

「足」は「ア」。「ヒロ」は潤で、「広い」の意味。

 

『禽譜』堀田正敦/18世紀大阪/番犬ならぬ、番鴨として、木村兼叚堂はアヒルの図を載せている。また『千百足』『百品考』は他著ですが、やはり番鳥としての飼育を紹介している。

 

『守貞謾稿』喜田川守貞/起稿1837年、30年間書き続けた江戸末期の事典風俗誌。「4月8日には鶏と<アヒル>の玉子を売る、江俗言傳ふ、今日家鴨の卵を食する者は、中風を病まざるの呪と」

 

『わすれのこり』明治17年ですが、合鴨記事なのであえて/「あひるも追々喰ひなれて、貨食店にて、<あいがも>とあらぬ名を呼びてつかいしより、世の料理通も賞翫する様にはなりぬ」。<合鴨>の呼称は「あらぬ名」と呼ばれながらも、アヒル食をしのぐほどに定着していったようです。

 

 梶島孝雄先生(1943~2000)は、名著『資料 日本動物史』八坂書房のなかで、アヒルの初出について述べておられる。<『饅頭屋本節用集』がやはり、家鴨を「あひる」として紹介した最初であろうか?>

 古典を渉猟された梶島先生のご意見だけに、わたしもこれまでそう信じていましたが、「そうだろうか?」という疑問も、近ごろ湧いてきました。これから自分なりに探求し、先生にいつかご報告できるのを目標にいたします。

<2024年10月2日 アヒル話はまだ続きそうです>

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アヒルの日本史(6)アフィロ

2024-09-24 | Weblog

 アヒルは昔からアヒルと、日本国内で呼ばれていたのでしょうか? 言語学や国語学者のみなさんが解明された説があります。

 「アヒル」がもし奈良時代に、国内で生育されておれば、「アピロ」と呼ばれた可能性が強い。ところが、アヒルの実在は、早くても平安時代か室町時代のようです。たぶん安土桃山時代以降に、日本に定着したのだろうとわたしは考えています。ですから、奈良時代にアヒルはおらず、「アピロ」という呼び名もありません。

 

 室町時代以降、安土桃山時代、そして江戸時代の初期まで、アヒルは「アフィロ」「アフィル」と呼ばれていました。この呼称発音に、間違いありません。

 現在の「アヒル」音の定着は、江戸時代の初めころからのことです。なかなか信じていただけないかもしれませんが。「またいい加減なことを適当に言っているんでしょう」と言われるのもくやしい。

 

 日本語の数千年間の変化をみてみます。注目するのは、ハ行の発音の変化です。「は・ひ・ふ・へ・ほ」は、数千年の間に、三系語に大きく変動しています。現在の「はひふへほ」の歴史は、まだ400年ほどです。

 

(1)縄文時代

 現代の「ハ行」<はひふへほ>は、縄文時代には<パ・ピ・プ・ペ・ポ>と発音していました。ルーツは南方・南島語です。いまでも先島や台湾、さらに南島の各地に名残りが点在しています。「花」の原始日本語は「pana」ですが、八重山群島では最近でも「pana」が使用されているそうです。

 縄文語の発音例を紹介します。

 

 花  pana

 鼻  pana (出っぱったもの) ※アクセントは花と鼻とでは異なります。

 人  pito

 歯・刃 paN

 浜  pama   

 七  pitu  (ヒチ)

 

(2)奈良時代・平安時代~江戸時代初期

 「ハ行」は、<パ・ピ・プ・ペ・ポ>から<ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ>に変化していきます。この時代、アヒルは「アフィロ」とか「アフィル」と呼ばれたようです。「ロ」と「ル」の違いは、連載の次回ででも紹介します。

 かつてはテレビもネットも、国語教科書も義務教育もない時代です。言語の変化は、全国一斉に急に起きるものではないでしょうね。

 

 フランシスコ・ザビエルが薩摩に到着し、この国ではじめての布教活動を開始したのは1549年でした。彼の後を受け、たくさんの宣教師たちが日本で活動しました。その際に大きな壁になるのが、言語です。

 イエズス会は『日葡辞書』という大冊の辞典を何年もかけて、完成させました。辞典は、日本人との意思の疎通に必需品です。制作は日本人信徒と、イエズス会士との共同作業です。詳細な「日本語・ポルトガル語」辞書です。天正年間から制作を開始し、慶長8年1603年に本編を完成出版、翌年補遺刊行。画期的なキリシタン版日本語ポルトガル語対訳辞書です。

 日本語ハ行音は「Fa,Fi,Fu,Fe,Fo」と記されています。

 

 まず『日葡辞書』のアヒル、そして索引巻からごく一部「F」を見てみましょう。

 現代語「アヒル」  発音「AFIru」

 

 あいはからい 相計らひ  Ai facarai

 あいはたし  相果し   Aifataxi

 あいはたらき 相働き   Aifataraqi

 はくちょう  白鳥    Facucho (またはCuguiくぐい鵠)

 

 だいぶ後ですが、1728年、「h」音の時代ですが、露西亜で誕生した「露日辞典」では、花は「Fana」と記されています。薩摩を出て、露国に漂着した日本人、青年ゴンザは地元の学者との共同作業で、この辞典を完成させました。ハ行はすべて、旧発音のF音です。

 しかしゴンザの辞典は例外であって、<ファ・フィ・フゥ・フェ・フォ>の時代の大勢は、江戸時代の初期にほぼ終わっていると思います。

 

参考資料 『日本語の起源』村上七郎・大林太良 共著 昭和48年 弘文堂

『邦訳日葡辞書』土井忠生他訳 1980年 岩波書店

『邦訳日葡辞書索引』森田武編 1989年 岩波書店

『日本書紀』岩波文庫版巻1 1994年 坂本太郎・家永三郎・井上貞光・大野晉校注 ※補注/巻1-10 

 <『日葡辞書』の語彙>岸本恵実著/『シリーズ 日本語の語彙 3 中世の語彙 ―武士と和漢混淆の時代ー』 飛田良文・佐藤武義編集代表 2020年 朝倉書店

 <2024年9月24日>

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アヒルの日本史(5)願のアヒル

2024-09-18 | Weblog

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

<清水寺の願のため、アヒルひと番いを進上す>

 

 すごい記載です。「御湯殿上日記」/天正15年2月19日(1587年)。突然のアヒル登場に、正直なところ、本当に驚きました。

 「お湯とののうへの日記」は、内裏、宮中の御湯殿の上の間に奉仕する女官が筆録した宮廷日記です。文明9年から文政9年にまで約350年間の記録。464冊が残っています。一部欠損はありますが、たいへん貴重な日記です。(1477年~1826年)

 

「願」を辞典でみてみます。(がん/ぐわん・ぐはん)

 願うこと。特に神仏に祈り、願うこと。物事がかなうように祈願すること。

 内裏の女官は、いったい誰の、どのような願いを、清水の観音さんに願ったのでしょうか。

願の用例を参考までに。願を懸ける。願を起こす。願を立てる。

 

 『世間胸算用』井原西鶴(藝鼠の文づかひ)の「願」には同情します。

 「其(その)後、色々の願を諸神にかけますれ共、其甲斐もなし。」

 

 この日記が書かれた天正15年(1587)はどのような時代だったのか。以下、概略です。

前年末に、秀吉は太政大臣となり豊臣の姓をうける。

3月秀吉、島津征伐のために大阪を出発。

5月島津義久、秀吉に降る。

6月秀吉、筑前筥崎にて九州の封域を定め、ヤソ教(キリスト教)の布教を禁止する。(なお「布教」を禁止したのであって、禁教ではありません。)

 豊臣秀吉はこの年、日本全国制圧を完成した。彼の絶好調のころである。しかし5年後、朝鮮に出兵し、文禄・慶長の役が始まる。文禄元年~慶長3年、壬辰・丁酉の倭乱である。

<2024年9月18日>

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アヒルの日本史(4)古代・中世

2024-09-10 | Weblog

 アヒルはいつから、人間とともに生活しているのでしょうか。マガモ系の野鴨を何世代にもわたって改良した家畜です。ひと懐っこく、また重くて飛んで逃げることのない家禽に変身しました。

 中国では3千年ほど前から飼育されているようです。ヨーロッパでは2千年前ころ。日本には12世紀に輸入されたのではないか(農林水産省ホームページ)。それぞれが推定でしょうか。

 日本でこの鳥を「アヒル」と呼んだ最初は、16世紀に間違いありません。

 

 中国で最も古い記載だと思われるのが、漢初『爾雅』の文です。

「舒鳧、鶩」/音<ジョフ、ボク>。

 現代語「静かにゆっくりとのろのろ<舒>歩く鳧(鴨かも)を<鶩>(あひる)という。」

 前漢(紀元前206年~)、2千年以上前の記載です。『爾雅』は、中国最古の類語語釈辞典。この辞典は、春秋戦国時代の残存文書を収集して完成させたそうです。春秋時代がはじまるのが3千年近く前ですので、この時代に何か「鶩」文字の痕跡があったのでしょうか。

 

 後漢『説文解字』は、1900年ほど前に作られた最古の漢字辞典です。鶩アヒルの解説は、

「鶩 舒鳧也。…鴨也。」

「以為人所畜。不善飛。舒而不疾。」

「故曰舒鳧。」

※鶩ボクを「あひる」「アヒル」と読むのは日本だけで、それも16世紀以降のことです。

 

 アヒル<鶩/音ボク>は静かに歩く鳧<音フ/訓かも・けり>である。鴨<訓かも/音オウ>である。

またアヒルは人家の家畜である。飛ぶことができず、素速い行動ができず、ゆっくり歩く。それで、のろい鴨<舒鳧>という。

 

 ヨーロッパのアヒルをみてみましょう。といってもわたしが知っているのは、6百年ほど前の一例だけです。2千年史には遠く及びません。

 シェイクスピアの『ハムレット』は西暦1600年、関ヶ原の戦いの年にはじめて上演されました。オフェーリアが2月13日に歌うシーンがあります。「あしたは聖バレンタインデー。」このころのイギリスでは、2月14日の愛の日が定着しています。

 これより古い「聖バレンタインの日」は、同じイギリスの作家、チョーサーの詩にたびたび表現されています。彼は14世紀に活躍し『カンタベリー物語』で有名ですが、詩「鳥たちの集い」にアヒルが登場します。

 「聖バレンタインの日に、わし、あひる、ほととぎす、いかるなどが、各々配偶者を得る。」

 アヒルは欧州でも、もっと以前の記述に登場するのでしょうが、わたしはまったく知りません。

 

 さて本題の日本に戻りましょう。前回でみた平安時代のニ著『本草和名』と『倭名類聚抄』は、アヒルを記載していますが、両書からは鳥アヒルのガーガーという鳴き声が聞こえてきません。中国の文献をもとに編纂されたニ著です。知識としては詳しくすばらしい成果でしょう。しかし生きた鳥アヒルに出会ったことは、ないはずだと思います。またこのころ、日本にはアヒルが一羽もいなかった可能性もあります。

 

 そしてついに、日本で、あきらかにアヒルが飼育されていたという驚くべき記述です。

 「御湯殿上日記」(お湯とののうへの日記)/天正15年2月19日(1587年)、

 「きよ水のくわん、あひる一つかいしん上す」

 <清水寺に願のため、アヒルひと番い(つがい)を進上す>

 

 この日記文をはじめて見たとき、わたしは本当に驚きました。清水寺のアヒル二羽は、元気にガーガー鳴いていました。それでは「清水のアヒル」続編は次回。

<2024年9月10日>

 

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アヒルの日本史(3)鶩登場

2024-09-05 | Weblog

 日本でアヒルを記したもっとも古い本は、『本草和名』です。延喜18年(918)、醍醐天皇の侍医・博士だった深根輔仁が完成。日本で現存最古の本草書だそうです。初登場の鶩アヒル文を紹介します。現代語訳はわたしの下手な抄訳です。ご容赦ください。[なお括弧内は小さな文字です]

 なおこの鳥を日本で「アヒル」と呼んだ最初は、16世紀のことです。

 

〇『本草和名』の鶩アヒル。

「鶩肪、[楊玄操音木]一名鴨、[楊玄操作■、於甲反、]屎名鴨通、一名舒鳥、[出兼名苑]和名加毛、」

<鶩は音読み木ボク。鴨ともいう。音は甲コウ。鶩を小馬鹿にした別名に舒鳥。わが国では加毛(訓かも)。>

 

 ※ 「鶩肪、和名加毛」<箋注倭名類聚抄>

 ※ ■は鳥の右に邑が合体した字のようですが不明です。

 ※ 「舒鳥」よちよちと、ゆっくり歩くアヒルです。「舒ジョ」は静かとか遅いの意味。「舒鳧」はアヒルの異名。のろのろと尻を振りながら歩く家鴨です。ちなみに「舒雁」はガチョウです。

 

 少し遅れてアヒルが再登場するのが、承平年間(931年~938年)です。 注目の本は源順(みなもとのしたごう/911年生まれ)が編纂した『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)です。彼は当時20歳代、勤子内親王の求めに応じて作成した総合辞典です。略名『和名抄』など。

 

『和名抄』は『本草和名』に十数年遅れての完成ですが、両本の著者同志、互いに影響しあっていたのではないでしょうか。また本の制作を依頼したのが、『本草和名』は醍醐天皇、『和名抄』は勤子内親王でした。四人には深いつながりがあった可能性があります。

 勤子内親王(904~938)は醍醐天皇(885~930)の第5皇女でしたが、内親王と源順は親戚です。勤子の母親の父と、順の祖父が兄弟でした。

 醍醐天皇は『倭名類聚抄』の完成をみることなしに亡くなっています。承平改元の前年ですが、そのころ校了が近づいていました。天皇はこの本の編纂過程を熟知していただろうと、わたしは思っています。

 このころの何年間か、本邦初の総合辞事典をめぐって、激しい動きがあったはずです。そのように想像しています。

 

〇『倭名類聚抄』(和名抄のアヒル)

 中国漢代の辞典『爾雅』注を引いて、

「鴨 爾雅集注云、鴨[音押]野名曰鳧[音扶]、家名曰鶩[音木]、楊氏漢語抄云、鳧鷖[加毛、下音烏■反、]」 

<鴨は自然の中に暮らしているのが野鴨(オウ)であり鳧(フ)といい、家で飼育しているのが鶩(ボク)である。>

 

  • 「鶩」(音:ボク)は日本でいう和訓「あひる」です。また鴨(押オウ音)。鳧(訓けり・音フ)。
  •  ■は読みケイ、山の名だそうですが、PCで出ません。
  • 「鷖」音エイ・訓かもめ。なぜここでカモメ? 「鷖」には想像上の鳥という意味がありました。鳳凰の類。

 

「鳧」はチドリ科の鳥のケリではなく、ここでは鴨を意味します。鳧/音[扶フ]、訓[けり・かも]。ケリとカモ、2種類の鳥を意味する「鳧」字には悩まされます。式亭三馬『浮世風呂』に登場する「鴨子」と「鳧子」を思い出しました。

 

 酒井抱一の号「白鳧」(はくふ)がケリなのか、カモなのか。まだ結論けりはついていないとわたしは思っていますが、一般的にはカモと判断されるのでしょう。いずれにしろ、アヒル談議に出てくる「鳧フ・けり」は、まず鴨として読まないと意味が通じません。特に中国の文献では、すべてカモです。

<2024年9月5日 南浦邦仁>

 

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アヒルの日本史(2)記紀・枕草子

2024-09-02 | Weblog

 万葉集に登場する鳥たちを前回、調べてみましたが、残念ながらアヒルは載っていませんでした。記紀・枕草子も同様で、アヒルは出てきません。

 アヒルは登場しませんが、気になる鳥がほかにもおります。「スズメ」「トビ」「セキレイ」など。なぜ万葉集は、このような身近な鳥たちを、排除したのでしょうか。万葉集に登場する鳥の歌は、六百首ほどもあります。ところがこの三鳥は、一羽も出てこない。

 なお「あひる」がどこに、どのように登場するのかは、次回の楽しみにします。本日の主人公は、雀、鳶、鶺鴒。この三鳥に絞って、昔の記録を追ってみました。

 

『古事記』712年/『日本書紀』720年

 『万葉集』の完成(759年まで)より、『記紀』は数十年早く仕上がっています。万葉は記紀の記載内容や伝承から、大きな影響を受けているはずです。

 

【雀スズメ】 <アメノワカヒコの葬列に、雀が碓女(うすめ)として登場する。碓女うすめとは、食事を作る女。>

【雀】 <『古事記』には、仁徳天皇の名は「大雀命」(おほさざきのみこと)と記されている。まさに、雀です。>

【鳶トビ】 <神武天皇を、八咫烏(カラス)と金鵄(トビ)が導いた。>

【鳶】 <トビをもって造綿者(わたつくり)、死者の装束を作る人とした。>

【鶺鴒セキレイ】 <イザナギ、イザナミの夫婦神はセキレイから交合の術を学んだ。> 鶺鴒には後世、嫁教鳥(とつぎおしえどり)の名が付く。江戸時代、川柳に「セキレイは一度教えてあきれ果て」。神たちは、学習能力の高い生徒だったようです。

【スズメ・セキレイ】 <雄略天皇は三鳥にたとえて歌を詠んだ。鶉ウズラ・鶺鴒セキレイ・庭雀スズメ。>

 

 さて、三鳥が『万葉集』に登場しない理由です。『記紀』では、神や天皇に近い大切な鳥として描かれています。天皇をカラスとともに導いたり、「大雀命」の名前は雀そのものです。さらに鶺鴒は、男女神を指導したわけです。

 三鳥は身近な鳥たちですが、決して「平凡で取り柄のないもの」ではないのです。『記紀』において、彼らは高貴な者たちです。

 『記紀』と『万葉集』とは、ほぼ同時代に成立した書物です。完成は『記紀』が先行し、その記述内容は最優先されたはずです。神々や各天皇を記述しているのですから。

  三鳥は神や天皇と深い関わりのある眷属だったのでしょう。後発の『万葉集』は、三鳥など、高貴な価値観の定まった鳥たちを載せることを、あえて避けたとわたしは考えています。

 ところがそれから三百年近く後の『枕草子』になると、

 

『枕草子』清少納言/平安中期1001年にほぼ完成。30種近い鳥が紹介され、雀と鳶は登場しますが、鶺鴒は見えず。眷属だった鳥たちは、零落してしまったようです。

 

【雀すずめ】 原文「雀ならば、」 訳注「どこにでもいて、年中とりえのない声で鳴く雀なら、」

【鳶とび】 原文「鳥の中に、烏、鳶など」 訳注「どこにでもいる平凡な、とりえのない鳥の例(カラス・トビ)として、」(松尾・永井)

 

 参考までに、神の使いとされる鳥を、神社ごとに見てみます。

<ニワトリ/伊勢神宮ほか><カラス/熊野三山><ハト/八幡宮><ウソ/天神><トビ/愛宕>、ほかにもワシやサギなどを祀る神社もあります。

 それにしてもいずれも、身近な鳥ばかりです。なぜこれらの地味な鳥ばかりが選ばれたのか? わたしの判断は、まず渡り鳥には神使の資格がない。人間生活に日々隣接する鳥こそが、適任である、と思います。

 ツバメもホトトギスも、初夏に訪れる、冬には遠い南の国に行ってしまう。

 鴨や雁の類は冬にしか見えない。漂鳥も同じで、冬は雪深い山を避け、里に下りてくる。しかし春になればまた山に戻ってしまう。半年ほど不在欠席になってしまう。

 神の用事をこなすには、年柄年中毎日、人間に身近なところにいなければ、神の用事をこなせない。また人間の近くに暮らすことで、わたしたちの行動をよく見知っている。人と神とをつなぐ、いわば聖なる鳥たちともいえるのではないでしょうか。

 「どこにでもいる平凡なとりえのない鳥なので、彼らはまともな扱いを受けない」という三鳥に対する判断は、決して正しいとは思えません。スズメもトビもセキレイも、すばらしい高貴な鳥たちです。

 ところで天満宮の「鷽ウソ」について。この鳥は漂鳥でした。夏は亜高山帯で繁殖し、冬は里に下りてくる。菅原道真(845~903)が神格化されたのは、947年以降のことという。ウソがいつから神の使いになったのか不明ですが、「天神様のお仕え鳥」と呼ぶそうです。比較的新しい神なので、鳥の選択に本来のルール、留鳥限定が適用されなかったのでしょうか。それとも「天神」ですので、天翔ける眷属にはこだわりがないのでしょうか。

 

『日本書紀の鳥』山岸哲・宮澤豊穂/京都大学学術出版会2022年

『日本古典文学全集11 枕草子』松尾聡・永井和子校注訳/小学館1974年

<2024年9月2日 南浦邦仁>

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アヒルの日本史(1)万葉集

2024-08-27 | Weblog

 鳥のことをあれこれ調べておりましたら、「アヒル」にたどり着いてしまいました。アヒルはいつから日本におるのか? 不明だそうです。

 鶩(訓:あひる/音:ボク木)はマガモを改良してきたもの。しかし、日本では家禽に限らず、動植物の改良はまったくの苦手のようです。自然のままを大切にし、あえて種に手をくわえないのでしょうか。

 中国では数千年も前から、真鴨の品種改良を重ねて鶩(あひる/ボク)を作り上げて来ました。それなら隣国の日本にも舶来してもいいはずでしたのに、奈良時代以前にはその痕跡がなさそうです。小さい家畜ですから、船での運搬も楽だったはずですのに。その理由も追求したい。

 

 奈良時代後半に集成なった『万葉集』(759年~780年)。登場する「鳥」を、まず紹介します。鳥名の右の数字は登場回数です。残念ですが、アヒルは見当たりません。「アヒル」の呼称は、ずいぶん後世から始まるようです。おそらく16世紀のことです。これも解明したいですね。

 次の平安時代は「七九四ウグイス平安朝」ですね。

 

ほととぎす    153

雁かり      65

鶯うぐいす    51

鶴つる・たづ   47

鴨かも      29

千鳥ちどり    26

鶏かけ・にわとり 14

鷹たか      11

うずら      9

喚子鳥よぶこどり 9

雉きぎす・きじ  9

あぢ・ともえがも 8

にほ・にほどり  7

みさご      6

鵜う       6

ぬえ・ぬえどり  6

かほどり     5

山鳥やまどり   5

おし・おしどり  4

からす      4

ひばり      3

わし       3 

小鴨たかべ    2

もず       2

 

 1回だけ登場した鳥は、

 あきさ/あとり/いかるが/かまめ(鴎かもめ)/さぎ/しぎ/つばめ/ひめ(鴲しめ)/みやこどり

 

 不思議と登場しない鳥は、

雀すずめ/鳩はと/鵯ひよどり/椋鳥むくどり/鶸ひわ/鳶とび/鶺鴒せきれい……。あまりに身近過ぎて注目されないのでしょうか。

 『日本書紀』では、神武天皇を先導した金色のトビが有名です。セキレイも同様です。イザナギ・イザナミもセキレイに習ったといいます。

 このふたつの鳥には、古代から先行する強すぎる神話伝説があるために、あえて避けたのでしょうか。

 また「鳧」ケリが気になります。『万葉集』には1ヶ所だけ、鳧と思われる「気利」が出ます。これも注目の要点です。

 

 アヒル話の連載をいま開始しましたが、横道のケリやカモなども触れながら、ゆっくり進めていきたいと思っています。

 2千年ほども昔の中国漢代の辞典に「舒鳧鶩也」という言葉がありました。「家鴨は尻を振り振り、ゆっくり歩くが、これはアヒルである」。舒は「のろい」「ゆっくり」などの意。ここでの「鳧」は「ケリ」ではなく「鴨カモ」です。また鴨には野生の野鴨と、家で飼う家鴨、すなわちアヒルがありました。

「寸翁と抱一」はしばらく、夏休みです。

 

参考:『万葉の鳥』山田修七郎/近代文藝社1985

『万葉の鳥、万葉の歌人』矢部治/東京経済1993

<2024年8月27日>

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原発なき社会を求めて

2024-08-21 | Weblog

 反原発・季刊雑誌「季節 」夏・秋2024―どうすれば日本は原発を止められるのかー

 <原発なき社会>を求めて集う不屈の<脱原発>季刊紙/「季節」創刊10周年特別号/

 「紙の爆弾」2024年9月号増刊/定価880円/発行 鹿砦社(ろくさい)

 発売になりました。アマゾンでの検索は「雑誌 季節」でヒットします。表紙写真は大きな石積みですが、これはエジプトのピラミッドのようです。

 

 ところで、鹿砦社代表の松岡利康さんは、倒れても倒されても七転八起。何度でも立ち上がる不屈の闘士です。わたしも尊敬する出版人です。

 松岡さんは雑誌「季節」でこう述べています。「福島で必死に頑張っている方々を思うと、(雑誌の発行を)放り投げるわけにはいきません。なにしろ類似誌はないわけですから、この雑誌がなくなれば福島の声や全国の反<脱>原発の声を反映する場がなくなります。」発行継続のむずかしいのが、良心や正義を主張する雑誌です。また掲載広告も皆無です。

 わたしも非力ですが、雑誌「季節」を応援します。

 雑誌「季節」にはたくさんの識者が寄稿されています。だいたいがひとり数ページ。全文は同誌でご覧いただくとして、本日はほんの短いフレーズほどですが紹介します。引用文はわたしの個人的選択です。

 

「原子力からこの国が撤退できない理由」小出裕章/元京都大学原子炉実験所助教

 日本では「原子力の平和利用」という言葉が広く宣伝され、浸透してきた。…「Nuclear」という単語を「核」と訳す時は「軍事利用」で、「原子力」と訳す時は「平和割用」であるとし、あたかも両者が違うものであるかのように洗脳してきた。しかし、技術に「軍事」と「平和」の区別はない。

 

「なぜ日本は原発をやめなければならないのか」樋口英明/元福井地裁裁判長

 原発の本質は、①人の継続的なコントロールを必要とし、②コントロールできなくなると暴走し、とてつもない被害をもたらす。この二つが原発の本質であり、原発をやめなければならない世界共通の理由である。

 

「事実を知り、それを人々に伝える」井戸謙一/弁護士・元裁判官

 事実を知れば、人々は合理的な判断をする。年齢には関わらない。問題は、どのようにして必要な情報を人々に伝えるかにあると私は考える。

 

「課題は放置されたまま」後藤政志/元東芝原子力プラント設計技術者

 もしも、1970年代に計画されていた珠洲原発が計画通りに建っていれば、福島以上の大規模な事故になったことを否定できない。地元で粘り強く闘った人たちが、私たちを大規模原発事故から救ってくれたことに心から感謝する。

 

「東京圏の反原発―これまでとこれから」対談:鎌田慧・ルポライター/柳田真・たんぽぽ舎共同代表

 (六ケ所村について)使用済み核燃料を溶かして、ウランとプルトニウムに分離し、その液体をガラスと固め、固化体にする工程のセル(部屋)で、高濃度の廃液が漏れた。その漏れた廃液には原発三発分くらいの放射能が含まれているそうです。その場所には一五年以上経っても近づけないんです。

 

「核融合発電」―蜃気楼に足が生えー」/今中哲ニ・京都大学複合原子力科学研究所研究員

 蜃気楼のような核融合発電の開発に、ベンチャー企業が参入し、ビル・ゲイツのような大金持ちから投資を受けるのはかまわないが、「もうすぐ実現」というプロパガンダで巨額の税金が投入されることを危惧している。

 

「守りに入らず攻めの雑誌を」菅直人/衆議院議員・元内閣総理大臣

 脱原発と自然エネルギー促進を目指す運動には、引き続き取り組んでいく。

 

「混乱とチャンス」中村敦夫/作家・俳優

 問題なのは、一部の人々が、巨額な広告費がつぎ込まれて「安全神話」に、依然マインドコントロールされていることだ。

 

「検証・あらかぶさん裁判 原発被ばく労働の本質的問題」なすび/被ばく労働を考えるネットワーク

 人間を物のように使い捨てて産業が成長し国家が延命する、そのような理不尽を許してはならないと、改めて思う。

 

「棄民の呻きを聞け 福島第一原発事故被災地から」北村敏泰/ジャーナリスト

 時の権力に抗し、後にも一向一揆などで民衆の反抗のエネルギーとなった、その親鸞のような抵抗の姿勢が、いまこそ強く求められている。

 

「COP28・原発をめぐる二つの動き 『原発三倍化宣言』と『気候変動対策のための原発推進』合意」原田弘三/翻訳者

 温暖化防止のために原発を推進するなどということは救いようがないほど愚かな選択である。COPがそのような愚行を先導しているという現実を直視する必要がある。

 

 以下、引用文は省略します。理由はあまりに長いレポートになってしまうため。その他の寄稿もぜひご覧ください。

「核武装に執着する者たち」山崎久隆/たんぽぽ舎共同代表

「珠洲原発・建設阻止の戦いは、民主主義を勝ち取っていく闘いだった」北野進/志賀原発を廃炉に!訴訟・原告団長

 まだまだ続きがあります。ぜひ雑誌「季節」を一読ください。

 

<2024年8月21日 南浦邦仁>

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河合寸翁と酒井抱一(6)鰻と御菓子

2024-08-13 | Weblog

 本をあれこれと読んでいて気に入る一文によく出会います。しかし公表しないで放っておくと、きっとそのうちに忘れ去ってしまう。そのような小話を、今日は備忘としていくつか紹介します。

 逸話は、もちろん寸翁や抱一に多少なりとも関わる端切れのようなもの、にわか雨の類のようなものでしょうか。もしも干天の慈雨にでもなれば幸いです。

 

 河合寸翁のことに、これまであまり触れていないので恐縮しています。少しばかり、駄文でお茶を濁します。

ところで寸翁も抱一同様、たくさんの号名前を持っていました。

 幼名は猪之吉(いのきち)。後に改め隼之助(はやのすけ)。藩主から与えられた道臣(みちおみ)。諱は定一(さだいち)。字は漢年(かんねん)。号は鼎(かなえ)、元鼎(もとかなえ)、白水(はくすい)……

 

 藩主酒井忠道(ただひろ)から偏諱(へんき)を与えられ、54歳からは「道臣」(みちおみ)と称した。有名な「寸翁」は、69歳で隠居してからの名です。彼のことを語るには現役時代、16歳から54歳までの「隼之介」、そして54歳から69歳までの道臣が適当なのでしょうが、わたしは習慣で寸翁で通します。本当のところ寸翁は69歳からの名ですが。

 

 猪之吉は、安永6年12月14日(1777)11歳のとき、藩主忠以に初めて謁見しました。この年、城主忠以は22歳。江戸の抱一は17歳でした。

「猪之吉は藩主の忠以にかわいがられ、この年から城にあがって、忠以の側に仕えた。生来利発な少年で、後に家老として政治をおこなう上でのさまざまな知識や心得を、藩主の側にいて学ぶことができた。」(黒部亮)

「幼にして機慧、藩主忠以公、特に之を愛し自ら之を鞠養して授くるに諸藝を以てす。」この一文をどこで読んだのか、掲載書物不明です…※追伸、出処がわかりました。『姫路紀要』松本静吾編 大正元年刊。

 藩主酒井忠以(ただざね)は抱一の兄ですが、有名な号に「宗雅」。茶人・俳人としても一流でした。彼もたくさんの名前を持っていましたが、興味深い号をいくらか紹介します。銀鵞(ギンガ/がちょう)、群鷺城主人、鷺山…。

 

 変転していく寸翁の名前を年齢順に記しておきます。当時のひとたちの名や号を見ていると、出世魚のハマチを思い出してします。しかし庶民はどうだったのでしょうか。田吾作はいつまでも田吾作だったのでしょうか。

明和4年1歳  1767 姫路城下に生まれる。幼名猪之吉。

天明2年16歳1782 猪之吉を隼之介にあらため、諱を定一とする。

天明7年21歳1787 年寄役就任。

文化5年42歳1808 諸方勝手掛拝命。財政改革総責任者。

文政3年54歳1820 藩主忠道から道臣の名を拝命。

天保6年69歳1835 やっと隠居が認められ、寸翁と改名。

天保12年75歳1841 寸翁逝去。

 

 寸翁による姫路藩財政の立て直しの偉業は、あまりにも偉大で、わたしはもっと学習しないと語れません。また寸翁は産業や金融だけでなく、次のような町の店おこしにまで力を添えておられました。姫路名物誕生の小話編です。美味しい二軒を紹介します。

 

 まず鰻の森重(もりじゅう)。創業嘉永元年の老舗ウナギ屋さんです。

 姫路城下町にあった小料理屋の主人重助に、河合寸翁は江戸への修行を持ちかけました。1830年ころ天保初期のこと、行先は寸翁が江戸で贔屓にしていた鰻料理屋「八百善」。帰ってきた重助は、大坂風に江戸風を取り入れた本筋の鰻を焼いた。また開業までの準備万端は、寸翁の命で藩士武井守正があたった。

 勤王の志士たちも、姫路を通るとよく立ち寄った。いまも保管されているお得意様名簿には、土佐の坂本龍馬、肥後の住江甚兵衛、津山の鞍掛寅治郎などの名があります。明治中期には天皇が姫路に立ち寄った際、森重は鰻を献上。「臨時大膳識」を仰せつけられました。同店は当然ですが、いまも営業されています。ちなみに冬は、蠣専門のカキ料理屋さんになります。つい先日、はじめて行ってきました。次はカキが楽しみです。

 

 もう一軒は和菓子の伊勢屋本店、創業は元禄年間といいます。森重と同じ時期、天保のころの話です。家老河合寸翁のすすめで、伊勢屋は江戸へ修行に行きます。学んだ先は、江戸屈指の菓業を誇っていた金沢丹後大掾(だいじょう)です。姫路に帰った伊勢屋新右衛門は、数種の菓子を考案しましたが、寸翁が特に気に入ったのが「玉椿」。藩の御用菓子司に用命されました。これも数日前、姫路駅の土産物店街で買い求め、久しぶりに賞味しました。ふわっと柔らかい餅と餡がすばらしい。なお「玉椿」命名も河合寸翁です。

 

 ほかの伝えに、寸翁は長崎へ油菓子の研修にも行かせた。それが播州かりんとうの元になったそうです。そして京都にも和菓子修行に行った。長崎と京都の菓子、いま注目しています。かりんとうは判明しそうですが、京都は手掛かりがまだありません。いつかは両話ともに興味ある「余話」として、掲載したいものです。

 

 ところで、江戸の味処をなぜ寸翁が精通していたのか。いくらたびたび、姫路藩の江戸屋敷に彼が出向いているとはいえ、有名な鰻屋や菓子屋まで、なぜ知っていたのでしょうか? わたしの勘ですが、通人の抱一に連れられて、これらの店を訪れたのではないか。まんざらの絵空事ではありません。

 想起すれば、抱一の兄の酒井忠似(宗雅)は、隼之介11歳からの師であり主君だったのです。若いころ、抱一は兄宗雅を師として画文を習っています。若き日の寸翁、猪之吉は忠以から学びました。抱一と寸翁は、兄弟弟子の関係にあったのです。また抱一は、当時の江戸を代表する文化人かつ粋人でした。

 

 追伸で一話。前に紹介した抱一の号「杜陵」について。後に知ったのですが、杜陵は長安城の東南に位置する中国漢代の皇帝・宣帝の陵墓でした。後の唐の時代、近くに住居した杜甫は「杜陵布衣」「杜陵野老」などを号として用いた。(玉蟲敏子)

 

『酒井家姫路藩の文化』姫路市立城郭研究室2023年

『姫路城を彩る人たち』黒部亮他 神戸新聞社2000年

『酒井抱一の絵事とその遺響』玉蟲敏子 ブリュッケ2004年

<2024年8月13日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(5)計里

2024-08-08 | Weblog

 杜甫の詩に「白鳧行」があります。抱一の号「白鳧」(はくふ)は、ここからとったのでしょうか。ちなみに杜甫は唐代の詩人、712年~770年。また杜甫の号のひとつに杜陵野老がありますが、「杜陵」は酒井抱一の号です。このふたつの重なりは、偶然でしょうか? 抱一は意図的に杜甫から選んだ、とわたしは思っています。

 

 さて杜甫の詩「白鳧行」769年全八句を、一行紹介します。

<化為白鳧似老翁/化して白鳧と為りて老翁に似たるを…>

 後藤秋正氏は「杜甫はどこに逗留している時でも渡り鳥でもある鳧の姿に自身の姿を重ねていた。その到達点が『白鳧行』として結晶している。…羽の白くなった鳧は杜甫が新たに造形したものであったが、この白鳧は杜甫の自画像となったのである。」

 波に浮かぶ鳥の姿は、世の中の流れに従って浮沈している自身の姿。年月を経れば、いつか真っ白の鳥になり、老いた翁そのもののような姿になるのでしょうか。

 

 ところで、杜甫がいう「鳧」は、実は鴨(かも)なのです。中国語「鳧」字には、鳥「ケリ」の意味、呼称も面影も微塵の欠片もありません。なぜなのか? 関係の鳥文字を、辞典でいろいろ調べてみることにしました。    <鳧  鶩  鴨  計理>

 まず現代日本の漢和辞典では、

 「鳧/漢音:フ 字義:かも・けり」

 「鳧/①かも鴨、カモ科の鳥 ②けり、チドリ科の鳥」

 「鳧/①かも、のがも。②あひる。/国訓:けり。しぎに似た水鳥。」

 「鳧/過去の助動詞の「けり」にあてて用いる。転じて、決着。きまり。かた。鳧がつく。」

 「鴨/文字義⓵水鳥の一。②あひる、人家に飼う水鳥の一。」

 「鴨/かも ①野鴨 ②あひる家鴨」

 「鶩/音:ぼく 訓:あひる」

 

 

 中国清代に編纂された『康煕字典』。難解な本ですが完成は1716年。

「鳧(読み:フ)、鴨(オウ)なり。」「鳧ハ鶩。」

「野にある鳥は鳧(アフ/註:かも)といい、家にあるのは鴨(註:あひる)と呼ぶ。」/

 同じく清代の『杜甫詳注』には「鴨は水鳥なり。野を鳧といい、家を鶩という。」

 野生鳥と家禽とを、区別しているのがわかります。次に日本の古い字書をみてみます。

 

「鴨/和名・加毛」<本草和名>918年/

「鴨/(音:押おう)野にある鴨は鳧(音:扶ふ)、家におる鴨は鶩(音:木ぼく)。」(注:鶩は和名、阿比留アヒルです。)

「鳧、野鴨名、家鶩鴨名、」「野鴨為鳧、家鴨為鶩、」「野鴨曰鳧、家鴨曰鶩、」<倭名類聚抄>平安時代中期/

「鴨は鶩を俗にアヒロ(注:アヒル)といふもの、鳧はカモといふものなり」<東雅>新井白石1717年/当時では最高の鳥字解釈ではないでしょうか。また前年1716年に、清の『康煕字典』が完成しています。/

 計里(けり)万葉集に鳧の字を用いている。鳥の計理の大きさは鳩に似、頭背は黒い灰色、腹は白色、翼は表裏ともに白いが、端は黒い、…その肉の味は甘美でうまい、秋にこれを賞す。<和漢三才図絵>江戸時代中期/食した記録はまだ、これのみにしか出会っていませんが、きっとおいしいのでしょうね。この記述はかなり正確にケリの姿を描いています。またケリの鳴き声が「ケㇼィ、ケㇼィ」と聞こえるところから「計理」の字があてられています。ただ、わたしには「ケッ、ケッ」と聞こえます。和製語ですが、現代の辞典や鳥本にも「計理」がいくつか出てきます。/

「けりに鳧字をあてたのは、鳧の類にけりという鳥があったので、借用された。また鳴き声が『けりけり』と聞こえるので、けりと名づけられた。」<倭訓栞>江戸時代後期/「鳧の類にけり云々」には納得がいきません。/

 参考までに、杜甫詩「鳧」について。大家のおふたりは「かも」とルビをふるだけです。吉川幸次郎も鈴木虎雄もともに、鳧字についてなぜか、一言の注もないのです。

 

 付録のような扱いですが、「鶩」アヒルのこともいくつか紹介します。

「鶩(安比呂)」<多識編>林羅山17世紀

「鴨(アヒロ)」<和爾雅>1694

「鴨カモ/アヒロとはアは足也、ヒロは潤也、」<東雅>1717

「アヒロ・アヒル」<重修本草綱目啓蒙>1847

「唐家鴨。唐人食物に長崎へ持渡る也、天明年中、紅毛人長崎へ持渡、」<飼鳥必用>江戸時代後期

「鶩(ボク)/鳧(あひる)也。鴨也。以為人所畜」<康煕字典>1716

「鶩/ボク・ブ・あひる。家畜に飼いならした真鴨の変種。」<新漢和辞典>大修館1982

 アヒルがいつ日本に持ち込まれたか、ですが、天明年間(1781~1789)よりも古く、おそらく16世紀半ばまでには長崎に入ったと考えています。

 

 ところで長ながと、鳥談義を続けてしまいましたが、最後に鳧についてまとめ、ケリをつけます。

 日本に鳧字が入ってきたとき、おそらく字義不明でした。鴨(オウ・かも/加毛)と同じ意味だと判断すればよかったのに、間違ってチドリ科の鳥「ケリ」として使ってしまいました。そのため、鳧は鴨や鶩などと混乱が生じてしまった。鳴き声から誕生した和製語「計里」をもっと普及させておれば、このような無用の混乱は起きなかったのに、と思う。

 それと鳧字を上下に分解すると、鳥と「几」(キ)の組み合わせです。几が長いニ本足に見えませんか? チドリ科のケリの足も長いのです。

 今回の掲載は、ここまでにします。暑いです。夏バテ要注意ですね。

 

参考:後藤秋正「杜甫の詩に見える『鳧』について」中国文化:研究と教育75巻2017年 Web版

<2024年8月8日 南浦邦仁>

 

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河合寸翁と酒井抱一(4)ケリ

2024-08-04 | Weblog

 画家文人の酒井抱一は、たくさんの名前を持っていました。

 幼名善次、通称栄八に善次から改名。実名酒井忠因(ただなお)。字喗真(きしん)。俳号は白鳧(はくふ)。濤花(とうか)、杜綾(とりょう)、杜陵、鶯邨(おうそん)。狂歌は尻焼猿人。ほかに軽挙道人、屠龍、狗禅。庭拍子、楓窓、雨華、冥々居、冥々……。そしてもっとも有名な酒井抱一。こんなに名があると、使い分けで間違うのではないかと、ひとごとですが、心配になりそうです。それらのうちに、気になる名がいくつかあります。ひとつが「白鳧」(はくふ)です。

 

 抱一の兄、姫路藩主酒井忠以(ただざね・宗雅)の『玄武日記』は詳細な記録で有名です。安永5年1772年正月から寛政2年1790 年6月にいたるまで、「15年間の長期にわたって、丹念にその日常・交友などを記録した貴重な資料である」(城郭研究室年報)。同年7月17日、忠以急逝、享年36歳。

 

 『玄武日記』には、兄の忠以と、弟抱一が手紙をやり取りした記載が、細かく記録されています。たとえば

「白鳧ヘ手紙遣ス事」、「白鳧ヘ返事遣ス事」、「白鳧より返事一通」

 

 忠以が姫路に居り、抱一が江戸在住の時、数えきれないほどの手紙がやり取りされています。その送受信が事細かく、日記に記されているのです。日記には抱一の名は、白鳧以外には栄八も散見されます。使用された名は白鳧と栄八のふたつのみです。

 差出は日々、だいたい複数者宛。忠以は相当の筆まめな殿でした。また参勤途上、宿泊の地へも、飛脚が行き来していました。そのような特殊配達や速達の芸当ができたのは、姫路藩が自前の飛脚制度を持っていたからです。この飛脚の件、どの本で読んだのか、わからなくなってしまいました。詳細はいつか、発見しましたら報告します。

 

 ところで鳧は鳥「ケリ」で、チドリ目チドリ科の野鳥。地上にいるとあまり目立たない地味な鳥ですが、飛んでいるときには翼が表裏ともに白く、その先端が三角形に黒い。腹と背も白い。飛行時に見える白色が鮮やかで目立つ。シラサギの全身真白な羽毛とは異なりますが、立ち姿は地味な色だけに、一度飛び立つと見事な白色に感動してしまいます。抱一の「白鳧」の号は、シラサギよりも白色が眩しい「ケリ」の姿から選ばれたのではないか、思ってしまいます。

 

 鳥ケリはほぼ留鳥で、生活域は水田、畑、河原、湿地など。田起こし前から水を引くまでの水田、耕す前の畑などに巣を作る。繁殖を終えると小群をつくって生活し、そのまま越冬する。

 野鳥カメラマンの叶内拓哉氏が、ケリの話を書いておられる。

 ケリは早春、田おこしをする前に卵を産み、ヒナを育てる。ときどき、遅れて繁殖したものは、田起こしの時期にぶつかってしまい、巣もろとも壊されてしまうものもいる。4月中旬のこと、双眼鏡で探すと、田の中にケリの巣を発見。写真撮影にいい場所を見つけカメラを構えた。ところがその時、農家の人が来て、これから田起こしを始めるという。叶内さんはあわてて、田の中にはケリの巣があり、そこで親鳥が卵を抱いている、と話した。その人は事情をわかってくれて、その時は了解してくれたかに見えた。ところがしばらくすると、突然田んぼに耕運機を入れて耕し始めたのである。私はがっかりすると同時に、多少腹立たしくさえなった。わかってくれたと思ったのに……。それでも農家の人にしてみればしかたがないか……、心を残しながらも帰ることにした。帰りの道すがら、先刻巣のあった田に「それでも……」と思って寄ってみた。田んぼはきれいに耕されていた。ところがその田の中ほど、ちょうど巣のあったあたりは手つかずで残っているではないか。私は歓声をあげて走った。巣はあった。中には三つの卵があった。ケリの親は巣を放棄したのだろうか。いやチドリ科の鳥はふつう四卵を産む。きっともう一卵を産むはずだ。しかしここにいつまでもおれば、親は巣を放棄してしまう可能性がある。/叶内氏は現地を去った。きっと元気に、四羽が巣立つと信じながら。『日本の野鳥100』

 

 筆者の自宅近くに、ケリの集住地があります。水田一枚ですが、地主は稲作など農業はせず、彼らが生活しやすいように、いつも浅く水を張っておられる。ケリたちを愛するやさしさを感じます。

 わたしはこの田の近くを通るとき、いつも立ち寄り、ケリの様子を確認しています。6月には12羽を見ることが多かった。1家族6羽なので、きっと2家族なのだろうと思う。そして近ごろ、群れは多い日には40羽ほどに増えました。これだけたくさんのケリが元気に育つことができるのは、田の地主さんと、近隣の住民のみなさんの温かい眼差しのおかげだろうと感謝しています。

 

 次回もケリですが、杜甫の詩「白鳧行」を紹介しようと思っています。ただ解釈に難題が生じてしまいました。解決に向けて、奮闘中です。

 

『玄武日記』姫路市立城郭研究室年報所収 1999・2003~2012

小林桂助著『エコロン自然シリーズ 鳥』保育社1996

叶内拓哉著『日本の野鳥100①水辺の鳥』新潮社1986

叶内拓哉他著『日本の野鳥 山渓ハンディ図鑑7』山と渓谷社2014

 

<2024年8月4日 南浦邦仁>

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