残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《旅立ち》第四回
同心長屋に住む秋月家の裏庭は、源五郎と常松の朝稽古の場になっていたが、そこには、一本の枇杷(びわ)の木が存在感を漲らせて立っていた。清志郎が幼い頃に植えられたものらしく、今では、すっかり大樹となり、空を見上げるばかりである。秋には芳香を放つ白花をつけ、翌年の初夏には、卵形で黄赤色の実をつけた。常緑のため、四季を通して庭に緑の趣を与えていた。
「常松、何をしている?」
不意に声を掛けられ、常松は、たじろいだ。右斜め前方を見上げると、源五郎が怪訝な表情を浮かべて立っていた。今朝は、いつもよりか早めに起き、枇杷の幹の丁度、自分の立った目線辺りのところに、“常松”と、小柄で刻んだのだった。昨夜、市之進に墨字で書いて貰って憶えた自分の名を忘れないために…ただ、それだけのために…。だから、常松に他意はない。
彫られた文字を覗き込むと、「なんだ? 自分の名か…。よく憶えたな」と上段の構えの声を振り下ろすかのように源五郎が云う。
「兄上に教わった…」と、常松は源五郎の声を振り払う。
「ほぉ~、合(お)うておる…」
微笑を浮かべ、源五郎は感心したような声を出した。