残月剣 -秘抄- 水本爽涼
《旅立ち》第十一回
今朝の源五郎が、母の去った後、顔を一瞬、顰(しか)めたのを見た常松である。二つ違いで、こうも違うのか…と、少し兄が気の毒でもあった。
市之進が昌平坂の御学問所へ通っているとはいえ、本人に有能な才があり、天運に恵まれれば出世が思うまま…という時代ではない。常松の父が七十俵五人扶持の定町廻り同心であり続ける以上、市之進もまた、御家人株を守り、父の名跡を継ぐより他はなかった。無論、出世に見合う働きをし、家を繁栄させる為の肩書きほどにはなるであろう。江戸の時代とは、そういう時代であった。どちらかといえば、頭でよりか、技巧の叡智が、立身出世を容易にした時代でもあった。技巧の叡智…これには常松が父に認められた剣の才も入る。無論、芸事や様々な職人達の技術も含む訳だ。
常松が八歳となった真夏の昼下がりである。通りの辻を掛け声を響かせ、行商人が通った。常松は、母の使いで、豆腐一丁を買いに、同心長屋を飛び出したところだった。
「冷~~し飴、冷し!! 甘~~い、冷しぃ~!」