水本爽涼 歳時記

日本の四季を織り交ぜて描くエッセイ、詩、作詞、創作台本、シナリオ、小説などの小部屋です。

残月剣 -秘抄-《旅立ち》第十回

2009年02月26日 00時00分00秒 | #小説

     残月剣 -秘抄-   水本爽涼

        《旅立ち》第十回

 社(やしろ)の樹々の上には、蒼く晴れ渡る空が深々と澄んで、天を覆っている。そして、辺りの其処かしこには、晩秋の芳しい香りが影を潜めて漂っていた。公孫樹(いちょう)の葉が、一枚、また一枚と誰の指図を受けるでもなく、垣根越しに庭へ落ちていた。源五郎、九歳、常松が七歳の秋であった。
 父の清志郎は、市之進が御学問所に通うことを少し楽しんでいるところがある。奉行所仲間に吹聴し、称賛を浴びるのが自慢なのであろう。人が変わったように、「ははは…そうなのですよ」と笑顔で話する父 を常松は見たことがある。確かに昌平坂御問所は当初、旗本の師弟を対象として開設されたのだが、市之進のような一般武士の子息もいたし、また、庶民の子供も通うことが許される時代であった。七歳の常松から見れば、十歳違いの兄は、もう充分に大人の風格があった。体躯だけではなく、思慮や父と母に接する態度なども全く話にならないと思えた。また、常松は、兄が御学問所へ通っていることで、自分も勉学に励めと諄く云われぬことに安堵していた。その点、二つ歳上の源五郎は、この日の朝にも掃除の後、蕗にそのことを云われていた。自分だけが、父にも、そして母にさえ何も云われぬことに、最初の内は怪訝に思えた常松であったが、二年も経つ今では、むしろ気楽に構えられ、また心が休まるのだった。


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