「あの…こちらもサイン、もらえないですかね? こんなもので、なんなんですが…」
狛犬(こまいぬ)は皺(しわ)くちゃになった汗臭いハンカチをブレザーのポケットから取り出した。ようやく寒さも遠退(とおの)こうとする二月下旬の日だ。普通は汗など掻(か)きそうにない季節だったが、狛犬は汗掻きだったからハンカチは手放せなかったのだ。関取の○○は一瞬、顔を顰(しか)めてそのハンカチを受け取った。
「いいっすよ。あの…書くものは?」
「あっ! そうでした。すみません…」
狛犬は左手で頭を掻きながら右手でブレザーの内ポケットからボールペンを取り出した。フツゥ~の場合、サインはマジックだ。関取の○○は一瞬、躊躇(ちゅうちょ)した。
「これで、書けますかねぇ~」
小笑いしながら関取の○○はウインドウにハンカチを広げ、一応、サインをする仕草をした。かろうじて書けたサインは、かろうじて分かる程度だった。ハンカチの生地(きじ)が濃紺(のうこん)で、ボールペンは黒だったから、それも当然といえた。
「それじゃ、車で待ってますんで…」
関取の○○はサインしたハンカチとボールペンを返すと、スタスタ…と車の方向へ歩き去った。スタスタ…とは、関取の雪駄(せった)が駐車場のコンクリートへ歩くときに触れ合う微妙な音の表現である。
それからしばらく、こともなく時が流れ、ようやく仕事から解放された里山が小次郎が入ったキャリーボックスを携(たずさ)え、駐車場へと現れた。狛犬は完璧(かんぺき)に爆睡(ばくすい)していた。